1864年12月17日、新保にて降伏した800余人の天狗党は敦賀に連行される。敦賀湾(日本海)に面した海辺に日本3大松原の一つである"気比(けひ)の松原"が続く。この松原にほど近い寺院などに800余人は分宿し、丁寧な扱いを受けながら、裁きが来る日を待っていた。ところが翌年の2月1日に、江戸幕府若年寄(幕閣)の田沼意尊が敦賀に到着するや、天狗党たちに対する扱いは過酷を極めるものへと変わっていった。海岸近くの16棟の鰊蔵(にしんぐら)に800余人が押し込められた。水戸天狗党には従軍を共にした婦女子も十数人いたとされる。行軍中の食事づくりの仕事などをしていたのだろうか。(※日本三大松原は他には、静岡の"三保の松原"と佐賀唐津の"虹の松原")
北海道などと行来きする北前船で運ばれた鰊などを貯蔵する鰊蔵内は、魚の腐臭と人間の糞便臭が充満し、太陽の光も薄暗い建物に、極寒の中に裸で足枷をはめられて832人が置かれることとなる。それほど広くない1棟の蔵内に50人ほどが押し込められた。処刑(斬首)は田沼意尊の到着早々の2月4日から始められた。その処刑場の野原に、大きな穴が13箇所掘られ、2月23日までに353人が処刑され死体が埋められた。
斬首された353人の首のうち、首謀者たち24人の首は水戸に送られ、天狗党員たちの家族は幼い子も含めて水戸藩の実権をにぎっていた諸生党派によって捕えられ、敦賀より運ばれた父や夫や息子の首の前で殺されていった。水戸天狗党として新保で捕えられた者の中には、10代の少年たちも十数名いた。彼等を含め、斬首処分を逃れた者約400人余の多くは罪人としての遠島処分や他藩預、追放などとなる。
気比の松原に近いところに、斬首されたり、病死や戦死した水戸天狗党の共同墓があった。入り口には「史跡 武田耕雲斎等墓及び松原神社案内図」と書かれた大きな絵地図看板や「水戸烈士殉難之碑」「水戸烈士追悼碑」などの石碑が立つ。「水戸天狗党ウォーク完歩記念碑」の石碑には、「この動乱で2万人が死亡。膨大な死者の霊を弔う。—水戸天狗党がたどった1100kmの道のりを38日間で21人が完全踏破した」と書かれていた。
水戸天狗党は水戸を11月1日に出発し12月11日に新保に到着しているので40日間をかけていた。大砲なども数門曳きながら、途中で戦闘もあり、当時の狭い街道や山道、多くの峠道を越えての1000人余の行軍であった。
墓地の前には武田耕雲斎の銅像が立っていた。その後ろには「水戸藩士墳墓」。その墳墓丘の上に並ぶ墓群、一つの墓にたくさんの人の名前が刻まれている。墓群中央の少し高所にある墓には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など天狗党幹部の名が。塚と墓の周囲には梅の名所である水戸の地にちなんで、梅の木がぐるっと植えられていた。
墓には「討死」や「病死」などの文字が刻まれた墓もあった。それぞれの墓には細かく名前が刻まれていた。武士階級ではない者たちの墓もあった。名字はなく名だけの墓だ。このあたりは当時は刑場とともに野辺の墓がたくさんあった野原。処刑され首を切られた遺体は13箇所の大穴に埋められ、掘り出された土で塚が盛られた。明治期になり、13箇所から遺骸が回収され、その時から1箇所に遺骨は埋め戻された。そしてその上に墓が作られて現在に至っている。
塚を側面から見る。この地面の下に水戸天狗党で斬首された353人の他に、病死や戦いで討ち死にした人たち約400人ほどの遺骸が眠っているのだろう。
この墓群から、今は道路を隔てたところにある松原神社の方に向かう。この神社は1875年(明治8年)に創建され、越前の地などで亡くなった天狗党の人たちの霊を祀っている。この神社の境内に1棟の鰊蔵があった。第二次世界大戦後に、鰊蔵はすべて取り壊すことになったが、地元の人たちからの歴史的保存を望む声が高まり、2棟が残された。このうちの1棟がここ松原神社に、そしてもう一棟は茨城県の水戸市(回天神社)に移築される。1965年に水戸市と敦賀市は姉妹都市関係を結び、交流が続いている。
鰊蔵を見る。建物の中の広さはどれくらいあるだろうか。なにか、私の母校だった田舎の小さな小学校の講堂より少し狭い感じかと思えた。
斬首の処刑が行われた来迎寺は、水戸天狗党の墓地と武田耕雲斎の像があるところと隣接している。かなり大規模な原野の中に、今は敦賀市民の家の墓地が延々と続く。ここはかっての刑場でもあった。13の大きな墓穴はこのあたりにあったのだろう。それが今は、1つの墓穴に遺骸がまとめられ葬られている。かっての刑場だった原野・墓地を歩き、さらに来迎寺境内を歩く。けっこう大きな寺だ。寺の山門に至る。かっての敦賀城(城主は関ヶ原の戦いで戦死した西軍の大谷刑部)中門が移築されたものだ。
昔はここも松が多かったのか、松の大木が野原や墓地に数本見えた。
この天狗党処刑の場面は、「青天を衝く」でも描かれていて、津田寛治が演じる武田耕雲斎が心に残った。武田耕雲斎の辞世の句は、「討つもまた 討たれるもまた 哀れなり おなじ日本(やまと)の みたれと思へ」。
死罪とならず遠島などの処分や他藩預り、追放などの処分となった者たちのその後の行方だが、3年後の戊辰戦争で薩摩・長州などの新政府軍に参加した者も少なくないようだ。この天狗党に参加していた武田金次郎は当時はまだ16歳の少年だった。祖父は武田耕雲斎、母は藤田東湖の妹で、藤田小四郎は叔父にあたる。金次郎の父も天狗党に参加していた。年少のため、武田耕雲斎や藤田小四郎らの一族にもかかわらず、死罪とならなかったのはこの一連の処罰の中で奇跡にちかい。天狗党参加者で他藩預かりとなった者で、100人余は若狭の小浜藩預かりとなった。彼等が暮らした建物の跡地は福井県美浜町佐柿の国吉城城下にいまでも残っている。小浜藩は彼らを准藩士として待遇した。
武田金次郎らは1868年の戊辰戦争時に水戸帰藩が許され、藩内の諸政党派との戦いに参加する。諸政党の多くは戦いに敗れ東北の会津藩などに逃れる。水戸藩内に残された諸生党の家族や一族たちに激烈な惨殺報復を開始した。会津に逃れていた諸生党軍は再び水戸に向かい、水戸城奪還を目指すが戦いに敗れる。まさに、血で血を洗う悲劇的な水戸藩内での10年間あまりに及ぶ悲惨な歴史があった。
金次郎は水戸の諸生党が壊滅されたのち、明治新政府よりその役を罷免され、その後、流浪の生活を送り、伊香保温泉の風呂番などをしながら、みすぼらしい小屋に暮らし、物乞いのような境遇にて48歳で生涯を終えた。
この水戸天狗党騒乱における越前国での資料などを展示する特別展が「水戸天狗党 敦賀に散る」と題されて、天狗党騒乱150周年の年の2014年に福井県文書館(福井市)で開催されている。また、今年の7月7日から8月3日までの期間で、「天狗党~武田耕雲斎からの手紙~」と題された特別展が敦賀市立博物館で開催予定。敦賀の新保の地の耕雲斎から、琵琶湖湖北の海津まで出陣していた一ツ橋慶喜にあてた手紙などが展示されるのかと思われる。
天狗党内に知古も多くいた渋沢栄一(1840-1931)は、この天狗党騒乱の時は25歳となっていた。1884年、渋沢栄一はここ敦賀の地を初めて訪れ、天狗党が斬首された地に来ている。彼が45歳の時だった。その後、1914年に墓が改修される際には寄付金を寄せている。渋沢栄一や喜助なども、巡り合わせによってはこの天狗党の一員となっていた可能性も十二分にあったようには思われる。
幕末の1858年から68年までの10年間、明治維新の魁(さきがけ)となった水戸藩、そして長州藩。この10年間でさまざまな藩で多くの人が戦死したり、斬首されたりもした。佐幕派(幕府派)と討幕派(反幕府派)、さらに尊王攘夷派などに藩内が二分され、多くの争いがあった。また、戊辰戦争における会津藩の悲劇などもあった。しかし、水戸藩のような藩内での血で血を洗う報復が繰り返された悲劇性は薄い。この意味で、幕末最大の悲劇がこの「天狗党の騒乱」などにおいて2万人もの犠牲者が出た水戸藩での出来事はすざましかった。
長州藩内で大きな思想的影響を与えた人物として松下村塾を主宰した吉田松陰が知られている。安政の大獄で死罪となった。水戸藩での思想的影響の大きかった人物が、藤田東湖だった。私の一族は、神戸の灘にある剣菱酒造の杜氏が多い。父も祖父も杜氏(酒造蔵の工場長)だった。私も一時、剣菱酒造に勤めたこともあった。この江戸時代から銘酒として有名な酒「剣菱(けんびし)」の一升瓶の包み紙には、藤田東湖の七言絶句の漢詩が記されてもいる。東湖はこの剣菱が好きだったようで、漢詩には剣菱を呑むときのことが詠われている。
京都への帰路、敦賀から西近江路の滋賀県との国境、山中峠を越えて湖北に入る。一ツ橋慶喜や渋沢栄一や喜助らが天狗党鎮圧のために海津まで来ていたが、その海津の山々の麓のマキノのメタセコイヤ並木とその周りの水田が美しい。
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