天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

40年・・・

2020年03月05日 19時49分43秒 | 日記
 既に何度か日記に書きましたので、
 長くお付き合い下さっている方はご記憶があるかも知れませんが、
 3月5日は、亡父の命日です。
 1980年(昭和55年)に亡くなっていますので、今日で丁度40年になります。
 親父は1914年(大正3年)3月11日に生まれました。
 したがって、享年は65歳ですが、あと少しで66歳となるところでした。
 このため、2018年に僕が66歳になった時は、
 親父の年を超えられてホッとしました。

 親父は群馬県の沼田市の近郊の旧薄根村の石墨で生まれました。
 現在は沼田市になっています。
 小学生の頃に、親父の叔父さんの家に行った事がありますが、山の中でした。
 その頃まだ養蚕をやっていたので、二階で蚕を飼っていて、
 その桑の葉を食べる音が今も耳に残っています。

 旧制の沼田中学を卒業後、親戚を頼って東京の浅草に行ったようです。
 そこから早稲田実業関係の学校に通ったようですが、
 その当時の早稲田実業には夜間部などもあり、幾つかの学科に別れていました。
 どこに入学していたのか詳しくは聞いていません。
 その後、家が貧しかったからとの事で、職業軍人になります。
 宇都宮に師団本部のあった陸軍第14師団の騎兵第18連隊に所属していましたが、
 最初からその連隊だったのかどうかも聞いていません。
 当時は日本にも騎兵隊があり、主に偵察などが任務だったようです。
 2・26事件の時には、鎮圧部隊として東京に行ったと聞いた事があります。

 満州事変の時に、中国に出征していたかどうかはよく分かりませんが、
 支那事変の時には、出征していました。
 その頃には親父も士官になっていたようで、中尉だったと聞いています。
 支那事変後は、第14師団は満州に駐屯していましたので、
 親父も満州にいたのだと思います。
 ハルピンやチチハルなどの地名は、僕は小さい頃から聞き知っていました。
 多分、お袋とは支那事変の頃結婚したようです。

 太平洋戦争になると騎兵は改編され、装甲車の部隊となって、
 パラオに派遣され、そこで終戦を迎えました。

 戦後、宇都宮に帰還し、そのまま住み着いたようです。
 2・3の会社に勤めた後、損保会社に入って定年まで勤めていました。
 1979年に胃癌になり、入退院を繰り返していましたが、
 最期は、自宅に戻っていて、息を引き取りました。

 当時、忙しい職場にいた僕は、前夜お袋から呼び出されました。
 急いで帰宅してみましたが、苦しむでもなく寝ていたので、
 少し拍子抜けした覚えがあります。
 それでも、これから更に看病も大変だろうと思い、
 お袋を先に寝かせ、僕が枕元で待機し、親父と少し話をしていました。
 最後は、昭和の次は何と言う元号になるだろうと言っていました。
 明け方近くなって、急に息が静かになったので、慌ててお袋を起こし、
 近所の医者を呼んで来ましたが、意識が戻る事なくそのまま息を引き取りました。
 命の火が消えるような静かな最期でした。
 今でもその時の事を鮮明に覚えています。
 生前、親父とは意見が合わず、何度も親子喧嘩をしていましたが、
 今になって思うと、それらの喧嘩も良い思い出です。

 もう40年も経ってしまったのかぁとの思いがあります。
 その間色々な事がありました。
 嫁さんが来てくれて、長男が生まれ次男が生まれました。
 その嫁さんも2014年12月18日に逝ってしまいました。
 二人に面識がありませんでしたが、今は一緒に眠っています。
 40年前、就職したばかりだった僕も定年退職し、今は年金生活になっています。
 光陰矢のごとしと言いますが、多くの事があったにしても、
 過ぎてしまった時間は速いものだと感じます。

 今日は、墓参りをどうしようかとも思ったのですが、
 色々都合もあり、
 親父の口癖の1つに「死に仏よりも生き仏」と言うのがありましたので、
 この間の事情は理解してくれると思い、
 仏壇に新しい花を買って来て供えただけで勘弁してもらいました。

コメント
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