既に何度か日記に書きましたので、
長くお付き合い下さっている方はご記憶があるかも知れませんが、
3月5日は、亡父の命日です。
1980年(昭和55年)に亡くなっていますので、今日で丁度40年になります。
親父は1914年(大正3年)3月11日に生まれました。
したがって、享年は65歳ですが、あと少しで66歳となるところでした。
このため、2018年に僕が66歳になった時は、
親父の年を超えられてホッとしました。
親父は群馬県の沼田市の近郊の旧薄根村の石墨で生まれました。
現在は沼田市になっています。
小学生の頃に、親父の叔父さんの家に行った事がありますが、山の中でした。
その頃まだ養蚕をやっていたので、二階で蚕を飼っていて、
その桑の葉を食べる音が今も耳に残っています。
旧制の沼田中学を卒業後、親戚を頼って東京の浅草に行ったようです。
そこから早稲田実業関係の学校に通ったようですが、
その当時の早稲田実業には夜間部などもあり、幾つかの学科に別れていました。
どこに入学していたのか詳しくは聞いていません。
その後、家が貧しかったからとの事で、職業軍人になります。
宇都宮に師団本部のあった陸軍第14師団の騎兵第18連隊に所属していましたが、
最初からその連隊だったのかどうかも聞いていません。
当時は日本にも騎兵隊があり、主に偵察などが任務だったようです。
2・26事件の時には、鎮圧部隊として東京に行ったと聞いた事があります。
満州事変の時に、中国に出征していたかどうかはよく分かりませんが、
支那事変の時には、出征していました。
その頃には親父も士官になっていたようで、中尉だったと聞いています。
支那事変後は、第14師団は満州に駐屯していましたので、
親父も満州にいたのだと思います。
ハルピンやチチハルなどの地名は、僕は小さい頃から聞き知っていました。
多分、お袋とは支那事変の頃結婚したようです。
太平洋戦争になると騎兵は改編され、装甲車の部隊となって、
パラオに派遣され、そこで終戦を迎えました。
戦後、宇都宮に帰還し、そのまま住み着いたようです。
2・3の会社に勤めた後、損保会社に入って定年まで勤めていました。
1979年に胃癌になり、入退院を繰り返していましたが、
最期は、自宅に戻っていて、息を引き取りました。
当時、忙しい職場にいた僕は、前夜お袋から呼び出されました。
急いで帰宅してみましたが、苦しむでもなく寝ていたので、
少し拍子抜けした覚えがあります。
それでも、これから更に看病も大変だろうと思い、
お袋を先に寝かせ、僕が枕元で待機し、親父と少し話をしていました。
最後は、昭和の次は何と言う元号になるだろうと言っていました。
明け方近くなって、急に息が静かになったので、慌ててお袋を起こし、
近所の医者を呼んで来ましたが、意識が戻る事なくそのまま息を引き取りました。
命の火が消えるような静かな最期でした。
今でもその時の事を鮮明に覚えています。
生前、親父とは意見が合わず、何度も親子喧嘩をしていましたが、
今になって思うと、それらの喧嘩も良い思い出です。
もう40年も経ってしまったのかぁとの思いがあります。
その間色々な事がありました。
嫁さんが来てくれて、長男が生まれ次男が生まれました。
その嫁さんも2014年12月18日に逝ってしまいました。
二人に面識がありませんでしたが、今は一緒に眠っています。
40年前、就職したばかりだった僕も定年退職し、今は年金生活になっています。
光陰矢のごとしと言いますが、多くの事があったにしても、
過ぎてしまった時間は速いものだと感じます。
今日は、墓参りをどうしようかとも思ったのですが、
色々都合もあり、
親父の口癖の1つに「死に仏よりも生き仏」と言うのがありましたので、
この間の事情は理解してくれると思い、
仏壇に新しい花を買って来て供えただけで勘弁してもらいました。
長くお付き合い下さっている方はご記憶があるかも知れませんが、
3月5日は、亡父の命日です。
1980年(昭和55年)に亡くなっていますので、今日で丁度40年になります。
親父は1914年(大正3年)3月11日に生まれました。
したがって、享年は65歳ですが、あと少しで66歳となるところでした。
このため、2018年に僕が66歳になった時は、
親父の年を超えられてホッとしました。
親父は群馬県の沼田市の近郊の旧薄根村の石墨で生まれました。
現在は沼田市になっています。
小学生の頃に、親父の叔父さんの家に行った事がありますが、山の中でした。
その頃まだ養蚕をやっていたので、二階で蚕を飼っていて、
その桑の葉を食べる音が今も耳に残っています。
旧制の沼田中学を卒業後、親戚を頼って東京の浅草に行ったようです。
そこから早稲田実業関係の学校に通ったようですが、
その当時の早稲田実業には夜間部などもあり、幾つかの学科に別れていました。
どこに入学していたのか詳しくは聞いていません。
その後、家が貧しかったからとの事で、職業軍人になります。
宇都宮に師団本部のあった陸軍第14師団の騎兵第18連隊に所属していましたが、
最初からその連隊だったのかどうかも聞いていません。
当時は日本にも騎兵隊があり、主に偵察などが任務だったようです。
2・26事件の時には、鎮圧部隊として東京に行ったと聞いた事があります。
満州事変の時に、中国に出征していたかどうかはよく分かりませんが、
支那事変の時には、出征していました。
その頃には親父も士官になっていたようで、中尉だったと聞いています。
支那事変後は、第14師団は満州に駐屯していましたので、
親父も満州にいたのだと思います。
ハルピンやチチハルなどの地名は、僕は小さい頃から聞き知っていました。
多分、お袋とは支那事変の頃結婚したようです。
太平洋戦争になると騎兵は改編され、装甲車の部隊となって、
パラオに派遣され、そこで終戦を迎えました。
戦後、宇都宮に帰還し、そのまま住み着いたようです。
2・3の会社に勤めた後、損保会社に入って定年まで勤めていました。
1979年に胃癌になり、入退院を繰り返していましたが、
最期は、自宅に戻っていて、息を引き取りました。
当時、忙しい職場にいた僕は、前夜お袋から呼び出されました。
急いで帰宅してみましたが、苦しむでもなく寝ていたので、
少し拍子抜けした覚えがあります。
それでも、これから更に看病も大変だろうと思い、
お袋を先に寝かせ、僕が枕元で待機し、親父と少し話をしていました。
最後は、昭和の次は何と言う元号になるだろうと言っていました。
明け方近くなって、急に息が静かになったので、慌ててお袋を起こし、
近所の医者を呼んで来ましたが、意識が戻る事なくそのまま息を引き取りました。
命の火が消えるような静かな最期でした。
今でもその時の事を鮮明に覚えています。
生前、親父とは意見が合わず、何度も親子喧嘩をしていましたが、
今になって思うと、それらの喧嘩も良い思い出です。
もう40年も経ってしまったのかぁとの思いがあります。
その間色々な事がありました。
嫁さんが来てくれて、長男が生まれ次男が生まれました。
その嫁さんも2014年12月18日に逝ってしまいました。
二人に面識がありませんでしたが、今は一緒に眠っています。
40年前、就職したばかりだった僕も定年退職し、今は年金生活になっています。
光陰矢のごとしと言いますが、多くの事があったにしても、
過ぎてしまった時間は速いものだと感じます。
今日は、墓参りをどうしようかとも思ったのですが、
色々都合もあり、
親父の口癖の1つに「死に仏よりも生き仏」と言うのがありましたので、
この間の事情は理解してくれると思い、
仏壇に新しい花を買って来て供えただけで勘弁してもらいました。