みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1300 紫波地方旱害惨状(その2)

2009-12-18 11:14:43 | 岩手の冷害・旱害
   <↑ Fig.1 昭和2年1月9日付 岩手日報>

 では前回に引き続いて1/9付けの”一面”の残りの記事を報告したい。
 まず、このブログの先頭の記事の写真は不動村のもので、あまり鮮明でないが
 ・右上の写真は不動村の老人・婦人が筵を織っているところ
 ・その左下の写真は不動村役場付近の不稔の為に刈り取りをやめた水田
である。

 この写真にある筵織りは県の奨励した副業であり、その辺りに関して同紙面の以下のような記事に示すとおりである。
  男の出稼ぎも 利益は少ない ゴザと畳表の副業で 幾分助かつて居る
仝村従来の冬季間の副業として男子は出稼ぎで多く酒屋稼ぎであるが本年は県外では宮城県八十一人を最上として北海道四十人、青森県十六人を初めとし秋田、山形其の他で百五十七人出て居り県内には約其倍ほど出て居るが収入は月十八円乃至十五円位で期間は三ヶ月から四ヶ月で之等
 出稼ぎ人 が一冬働いて五十円位送金するか持ち帰る者は上成せきで十八九から二十四五歳位の間は衣食其他となく家の食物を減らさなかつたといふ結果に終はるといふから実際村全体の青成年出稼ぎしてもイクラも表面上のりえきにはならぬらしい。副業が従来ゴザと畳表の製作で多くの男子が出稼ぎのルス居をする老人や婦女子の仕事であつたが三年続けてのかん害で非常な真剣に味を加へ単に暇つぶしや
 小遣取 りといふのでなく生活費を稼ぎ出すといふ風に変わつて来たとふ畳表は原料の韋草は近年大部分他県にあほがねばならず十枚分で三圓かゝるので間に合わず今ではゴザも山根に少し残つて居るに過ぎない、夫れで今年は県の奨励に依つて藁工品を作る事となし一組二十人以上の製筵組合が二十四組合出来て筵を製造することになつた、県からの補助が配当になつたので二十五台あるが村としてはモット欲しくこの機会は製作者の
 能力上 予定よりおくれて近く到着する筈で手織りにすると一日十銭位の手間だが機械織だと手間が六十七銭になるので幾分助かるだらうとの事で藁は大部分が?りようが肥料にすらならず筵用のものは他から求めねばならので県で無賃輸送方を希望している
 薪炭材で一層苦しむ 
薪炭材は山林の多くは国有林であるため大部分は之を買わねばならぬので苦悩は一層甚だしいので食物は麦、大根をこん食とし麦は村内の産額で間にあふといふ

【Fig.2 昭和2年1月9日付 岩手日報】

 この冬を どうして暮らす 赤石と本村は同様 菅原不動村長語る
 十三年と十四年は植つけ後のかん魃であつたから収穫は減ることは減ったが今度のようにヒドクはなかつた、今度は植つけないうちからかん魃であつたから全然無収穫になつたので前二年続けてかん害に疲弊してゐる所に今度のですから全く暮しに困る事になつたのです、赤石の方はヒドイ様に思はれてるが同村とて之と甲乙がなく、赤石は鉄道に近く村の人達も事を大きくして騒ぐので一般に知られているのだと思ふ、来年からは??堰の幹線工事が出来たから水に困ることはないと思が此の冬をドウして暮らすか副業以外にないが藁工品を作るにしても二尺ソコソコの藁では何も出来ないからやはり他県から買わねばならぬし製筵機も県から二十五台配当されただけで不足だから之も増して何とか此の冬だけを凌いで行きたいと考へているが今まで景気がよいのになれ贅沢になつて居たから之を引き締めるには却って良いかも知れません
 水分村は 軽微

 ただし記事内容は省略。
 因みに、水分村の位置は下図の左側である。なおこの図には後に出てくる志和村が水分村の下に確認できよう。
【昭和10年の紫波郡の地図】

    <『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>

 この1/9付け”一面”の旱魃被害関係の記事はまだまだ続くのだが、以下に見出しのみを示し、記事内容は割愛したい。あまりにも気の毒だからである。
・弁当を持たぬ小学生 いぢらしい姿 校長は毎日泣かされて居る とても正視はできない

・炭俵の売日なく 赤石村民 糊口の糧苦む

・志和も不動と 大差ない惨状

 つまり、この日の紙面から解ることは、
 大正15年の紫波地方の旱魃被害はこのような惨状にあり、その惨状を呈しているのは赤石村のみならず、不動村も志和村も同様であった。
ということである。

 この日の報道を知って、昭和6年に『雨ニモマケズ』で賢治が
  ”ヒデリノトキハナミダヲナガシ”
と詠んだのは当然だったのだと私はこれで確信できた。そして、この確信を持ちたくて今まで岩手日報を調べてきたのであった。
 賢治は1925年(大正14年)6月、『渇水と座禅』で自らも行った樋番の空しさ切なさを詠っているが、それに続く翌年のこの紫波地方の旱魃被害の惨状、連日の報道でその惨状を知っている賢治はなおさら
   旱のときは涙を流し
と詠むのは至極当然だと思ったからである。
 もしかすると
 『ヒデリノトキハナミダヲナガシ』
に対し
 『如何に多くの人が集まって涙を流せば稲を育てる水が供給できるだろうか』
と揶揄する人があるかも知れないが、なにも賢治は自分の涙で灌漑水の一部にしたいと思ったわけではない、弁当を学校に持って行けぬいじらしい子どもに思いを致せばそのことは明らかであろう。
 昭和6年、病に伏していた賢治の心情を酌めば
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
と詠んだのは賢治の素直な気持ちであろうと私は考える。
 なお、昭和6年花巻地方は凶冷だったというので、この旱魃被害のブログが一段落したならば、再び岩手日報でそのことを調べてみたいと思っているところである。

続きの
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