《図3 当時の岩手県災異年の稲作の作況》
昨日(2024年2月26日)、〝「サムサノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」賢治〟を投稿した。その関連を調べていた際に、かつての投稿〝 「「岩手県災異年表」の周辺」(伊藤信吉)より〟がたまたま画面上に現れた。遙か以前の2016年7月8日に投稿したものだ。懐かしかったので、以下にそれとその続きも組み入れて、再投稿させてもらった。
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「「岩手県災異年表」の周辺」(伊藤信吉)より 2016-07-08 08:30:00 | 岩手の冷害・旱害
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
たまたま、『宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房、S43)の付録『月報10』を手に取ったところ、そこには伊藤信吉の「「岩手県災異年表」の周辺」が載っていた。それは、昭和32年に伊藤が「盛岡地方気象台」を訪れた際の出来事に関する論考であり、 私はそこを訪ねて、防災業務担当の工藤技官に会った。今年の冷害はどんなふうに予知されるのかなど、工藤技官は親切に説明してくれた。いくつかの資料をもらった。別の資料として百三十余頁の「岩手県災異年表」をもらった。…(投稿者略)…
そして昭和八年九月に亡くなったのだが、その前後にかかる時期を「岩手県災異年表」についてみると次のようであった。
と書いてあるではないか。私はここまで読んで、これぞ探し求めていたものよ、と抃舞した。そして昭和八年九月に亡くなったのだが、その前後にかかる時期を「岩手県災異年表」についてみると次のようであった。
*大一四 豊作 *大一五 不作 *昭二 凍害 *昭三 凍害 *昭四 不作 *昭五 欠 *昭六 不作 *昭七 ― *昭八 豊作 *昭九 凶作
これは稲作の豊凶作についての記録で、この十年間は豊作二度、不作凶作四度となっている。不作凶作の度合を宮沢賢治の住む稗貫郡について一瞥すると……しかも続けて伊藤は、
前後五カ年平均反当収量に対して大正十五年マイナス一斗五升、昭和四年マイナス一斗七升、同六年プラス四升、同九年マイナス七斗九升となっている。ここで目立つのは昭和六年のプラス四升で、この年は岩手県下の他の十三市郡ことごとくマイナスなのに、稗貫だけがプラス四升ということだったのである。
と記しているではないか。そこで私は、あれでよかったんだとまず安堵した。それは以前〝昭和6年稗貫は冷害ではなかった〟において、当時の資料を基に、大雑把には、
昭和6年の稗貫の稲作は冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均とほぼ同じだから、〝平年作〟と言ってもいいだろう。……①
と結論づけたことがあったが、この結論が妥当だったことをこの「岩手県災異年表」は裏付けてくれたと思ったからだ。ちなみに、『岩手県農業史』(岩手県、森嘉兵監修)262pによれば
大正14年~昭和4年の米実収高平均
岩手県=1.936石/反
稗貫郡=1.793石/反
同じく
昭和5年~昭和9年の米実収高平均
岩手県=1.718石/反
稗貫郡=1.769石/反
ということだから、当時(大正14年~昭和9年)の米実収高平均は
岩手県=1.827石/反
稗貫郡=1.781石/反
となる。
ということであれば、以前調べてわかったように
昭和6年の稗貫の米の実収高=1.823石/反
だったから、〝①〟は「岩手県災異年表」の「(昭和六年)は岩手県下の他の十三市郡ことごとくマイナスなのに、稗貫だけがプラス四升」という裏付けを今回得たので、
昭和6年の稗貫の稲作は冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高(1.823石/反)は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均(1.827石/反)とほぼ同じだから、少なくとも〝平年作〟だった。
と結論してももういいだろう。おのずから、少なくとも昭和6年病臥中の賢治が、近郊の農家は冷害だからせめて「サムサノナツハオロオロアルキ」たいと病の床で願うことの必要性は、実は客観的にはなかったということになる。そのような冷害はこの年稗貫では起こっていなかったことがわかったからである。
そしてまた、大正15年は隣の紫波郡内の赤石村、不動村、志和村等が未曾有の大旱害だったのだが、この稗貫郡のデータ「大正十五年マイナス一斗五升」を私は知って、紫波郡ほどではないにしても、稗貫郡も大正15年は結構な不作だったことを確認できた。ちなみに、一反あたり「マイナス一斗五升」の減収ということであれば、前掲したように
大正14年~昭和4年の稗貫郡の米実収高平均 1.793石/反
と比べれば、
1.5÷17.93≒0.084
だから8.4%もの減収となり、稗貫郡はかなりの不作であった。大雑把に言えば作況指数も92と言えるから、大正15年の稗貫郡の米の作柄はいわゆる「不良」であったとなる。
さてこうなると、大正15年のヒデリによる稗貫郡の稲作の「不良」に対して、そして隣の紫波郡内の赤石村や不動村等の大旱害に対して賢治は何故何一つ救援活動をしなかったのだろうかと、いわば、何故「ヒデリノトキ二涙ヲ流サナカッタ」のだろうかとますます疑問が募ってきた。
一方で、この時に思い出すのが次の賢治の詩だ。
小作調停官
西暦一千九百三十一年の秋の
このすさまじき風景を
恐らく私は忘れることができないであらう
見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に
ぎっしりと気味の悪いほど
穂をだし粒をそろへた稲が
まだ油緑や橄欖緑や
あるひはむしろ藻のやうないろして
ぎらぎら白いそらのしたに
そよともうごかず湛えてゐる
このうち潜むすさまじさ
すでに土用の七月には
南方の都市に行ってゐた画家たちや
able なる楽師たち
次々郷里に帰ってきて
いつもの郷里の八月と
まるで違った緑の種類の
豊富なことに愕いた
それはおとなしいひわいろから
豆いろ乃至うすいピンクをさへ含んだ
あらゆる緑のステージで
画家は曾つて感じたこともない
ふしぎな緑に眼を愕かした
けれどもこれら緑のいろが
青いまんまで立ってゐる田や
その藁は家畜もよろこんで喰べるではあらうが
人の飢をみたすとは思はれぬ
その年の憂愁を感ずるのである
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)361p~より>西暦一千九百三十一年の秋の
このすさまじき風景を
恐らく私は忘れることができないであらう
見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に
ぎっしりと気味の悪いほど
穂をだし粒をそろへた稲が
まだ油緑や橄欖緑や
あるひはむしろ藻のやうないろして
ぎらぎら白いそらのしたに
そよともうごかず湛えてゐる
このうち潜むすさまじさ
すでに土用の七月には
南方の都市に行ってゐた画家たちや
able なる楽師たち
次々郷里に帰ってきて
いつもの郷里の八月と
まるで違った緑の種類の
豊富なことに愕いた
それはおとなしいひわいろから
豆いろ乃至うすいピンクをさへ含んだ
あらゆる緑のステージで
画家は曾つて感じたこともない
ふしぎな緑に眼を愕かした
けれどもこれら緑のいろが
青いまんまで立ってゐる田や
その藁は家畜もよろこんで喰べるではあらうが
人の飢をみたすとは思はれぬ
その年の憂愁を感ずるのである
私は、この詩の冒頭の「西暦一千九百三十一年の秋の」から、昭和6年は凄まじい「凶作」だったとばかり信じ込んでいた。たしかにこの年の岩手は「冷害」だったからそれは間違いないのだが、稗貫や花巻も「冷害」で「凶作」だったと私はついつい思い込んでいた。ところが、この年の米の作柄は稗貫の場合(おのずから花巻も)平年作以上だったことがこれでほぼ確定したと言えるから、私は誤解していたことになるし、実はこの詩に詠まれているような光景は当時の花巻や稗貫では見ることができなかったということになりそうだ。言い換えれば、この詩に詠まれている「このすさまじき風景」は稗貫には拡がっていなかった蓋然性が極めて高く、病臥中であったはずの賢治にはこの年この詩に詠まれているような光景を目の当たりにすることは難しかったということになりそうで、この詩はあくまでも病臥中の賢治が頭の中で思い浮かべて詠んだそれであったということになりそうだ。
ということなれば、私は近々岩手県立図書館を訪れてじっくりと「岩手県災異年表」を眺めなければならなくなったようだ。
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〝『岩手県災異年表』(昭和13年)より〟 2016-07-12 09:00:00| 岩手の冷害・旱害
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
さて、先に〝「「岩手県災異年表」の周辺」(伊藤信吉)より〟において述べたように、『岩手県災異年表』なるものがあり、しかもそれには私が知りたかったデータが載っていることを知り、これぞ探し求めていたものよ、と抃舞した次第だった。そこで、過日、岩手県立図書館に出かけて行って同書を閲覧させてもらおうと思った。すると、『岩手県災異年表』というタイトルの本は同館には次の三種類が所蔵されているという。
(1)『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』(中央気象台盛岡支台編 中央気象台盛岡支台出版 昭和13年)
(2)『岩手県災異年表』(「盛岡測候所編 日本積雪連合岩手県本部出版 昭和29年)
(3)『岩手県災異年表』(盛岡地方気象台編 日本気象協会盛岡支部 昭和54年)
さてでは伊藤信吉が見たものはどれかというと、それは〝(2)〟なのだが、実はそれは〝(1)〟に後年のデータを付加したものだいうことが両者を比較してわかったので、「羅須地人協会時代」に関連する〝(1)〟における当該頁の写真をここでは以下に掲げてみる。
<『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』より>
そこで次に、この〝(1)〟より「不作」年と「凶作」年の場合の稗貫郡及びその周辺郡のデータを拾って、「当該年の前後五ヶ年の米作反当収量に対する偏差量」をグラフ化してみると下図、
《図3 当時の岩手県災異年の稲作の作況》
のようになった。
なお、同書には、豊凶年に関しては確かに伊藤が述べているとおりで、
大一四年 豊作 米作反当収量 二石一斗七升
大一五年 不作
昭和四年 不作
昭和六年 不作
昭和八年 豊作 米作反当収量 二石二斗五升
昭和九年 凶作
であったとある。大一五年 不作
昭和四年 不作
昭和六年 不作
昭和八年 豊作 米作反当収量 二石二斗五升
昭和九年 凶作
こうしてグラフ化してみると、あの赤石村を始めとする大正15年の紫波郡の大旱害はやはり酷かっただろうというこが改めてわかったが、稗貫だって結構不作だったということもまた認識を新たにした。それから、賢治が亡くなってしまった翌年ではあるが、昭和9年の凶作は惨憺たるものだったということがよく理解できた。
しかし、以上のことは一般に言われていることだからそれ程の違和感はないのだが、これもまた一般に言われてきた昭和6年の冷害については、こうしてみると江刺郡などは惨憺たるものだったということがわかったからなおさらに、稗貫郡の〝+0.4石/反〟という唯一のプラス側の棒がやはり際立っていると、別な意味で違和感を私は感じた。それは、このことが巷間いわれていることを全く裏切っているはずだからである。そう、
大冷害だったと思われている昭和6年の岩手県の大冷害はたしかにそのとおりだが、少なくとも昭和6年の稗貫郡はそうではなくて、米の作柄は平年作よりもよかった。
と言えるのである。そしてその結果明らかになったもう一つの大事なことがあり、それは、賢治の詩「小作調停官」に詠まれた昭和6年の惨憺たる冷害の稲田の光景を実は当時の花巻や稗貫では見ることができなかったということだ。言い換えれば、この詩に詠まれている「西暦一千九百三十一年の秋の/このすさまじき風景」は稗貫地方には拡がっていなかったと言えるから、当時の賢治にはこの年のこの時にこの詩に詠まれているような光景を稗貫地方で普通に目の当たりにすることできなかったということになり、この詩はあくまでも賢治が頭の中で思い浮かべて詠んだそれであったであろうということの蓋然性が極めて高くなったということだ。
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よってこれらのことなどから、次のようなことが言えるのではなかろうか。
先に、
賢治は羅須地人協会時代のヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ
ということを知った。つまり、大正15年と昭和3年のどちらのヒデリノトキにも賢治は涙を流さなかったということを知った
一方、羅須地人協会時代の残り昭和2年は、少なからぬ賢治研究家等が「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」などという論考を著しているが、それらは全くの誤認であることも明らかにした。つまり、昭和2年は「サムサノナツ」ではなかったから「サムサノナツハオロオロアルキ」などもともと出来るわけがなかったのだ。したがって、
羅須地人協会時代の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」も「サムサノナツハオロオロアルキ」も共にしなかった。
となる。ところが一般には、賢治は「サムサノナツハオロオロアルキ」したと思われがちだ。
そこで、関連する一次資料を探してみたならば、『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修)が見つかり、そこからデータを拾い上げることによって下掲のような表ができた。
《表1 賢治が生きていた頃の岩手県の冷害・干害等発生年》
<不作・冷害について> <干害について>
明治21(1888)年 明治42(1909)年
明治22(1889)年 明治44(1911)年
明治30(1897)年 大正 5(1916)年
明治35(1902)年(39) 大正13(1924)年
明治38(1905)年(34) 大正15(1926)年
明治39(1906)年 昭和 3(1928)年
大正2(1913)年(66) 昭和 4(1929)年
昭和6(1931)年 昭和 7(1932)年
昭和 9(1934)年(44) 昭和 8(1933)年
昭和10(1935)年(78) 昭和11(1936)年
注:( )内は作況指数で、80未満の場合に示した。
<『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)より>
また、『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修)によれば、当時の岩手県の水稲反収の推移は次の通りであった。
《図1 岩手県の水稲反収の推移》
<素データは『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
よって、大正2年(賢治盛岡中学5年生)と昭和9年の冷害による被害が如何に甚大だったかがよく解る。
一方で、農学博士卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』(成山堂書店)の15pには下掲のような、イーハトーブ(岩手)の米の収量、気温の推移のグラフ【図2・2『宮沢賢治の生涯とイーハトーブの冷害』】が載っていた。
そして注意深く上掲図を眺めていると、大正3年~昭和5年の間は「気温的稲作安定時代」という表記があることに気づく。ということは、賢治が盛岡中学を卒業(大正3年)してから、下根子桜を撤退して実家に戻り(昭和3年)、療養していた昭和5年までの間に、岩手県では冷害はなかったということになる。いわばこの期間は「冷害空白時代」だったとも言える。
ただしご承知のように、昭和6年は暫くぶりの冷害に見舞われたので、賢治が実体験した冷害はこの昭和6年であったと思いたくなる。ところが『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』に基づけば、昭和6年を含む当時の岩手県災異年の稲作の作況を調べてみると、上掲の《図3 当時の岩手県災異年の稲作の作況》のようになった。
よってこれらの図表に従えば、昭和6年は岩手全体としてはかなりの冷害だったが、稗貫はそれどころか平年作以上であったことになる。それ故、賢治は実質的(大正3年以降)には冷害を身近に経験したことはないとも言える(もし身近に経験できたとすれば、それは昭和9年の作況指数44という冷害による凄まじい凶作だが、その時には賢治はもう既に歿していた)。
よって、「羅須地人協会時代」の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思っても実はできなかったことは既に明らかにしたが、今分かった「気温的稲作安定時代」や昭和6年のことを踏まえれば、結局のところ、
そもそも、賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」したというようなことなどは実際にはなかった。
と言える。なぜならば、賢治が生きていた時代には大正2(1913)年、作況指数66の大冷害があったが、その時盛岡中学の生徒だった賢治がそのようなことをしたという証言も裏付けも見つからないからだ。言ってしまえば、
賢治は歿するまで、「サムサノナツハオロオロアルキ」することは全然なかった。
と判断せざるを得ない。ちょっと違和感はあるように感ずるが、賢治はあくまでも〔雨ニモマケズ〕では、
サウイフモノニワタシハナリタイ
と詠んでいるだけであり、願望にすぎず、実践したと言っている訳ではないのだから、その違和感を感ずる必要はない。
畢竟するに、
昭和6年を除けば、賢治は羅須地人協会時代を含め、「サムサノナツハオロオロアルキ」しようにも「サムサノナツ」はなかったのだから、そのようなことをする必然性は実質的にもともとなかったのだった。しかも、その昭和6年の稗貫は冷害ではなかった。それにその頃は東北採石工場技師時代であり、9月19日に花巻を発ち、東京へ行ったわけだが発病、9月29日帰花。その後実家で病臥してしまったわけだから、昭和6年も含めて、
賢治には「サムサノナツハオロオロアルキ」などなかった。
ということにならざるを得ない。
賢治には「サムサノナツハオロオロアルキ」などなかった。
ということにならざるを得ない。
続きへ。
前へ 。
〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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