みちのくの山野草

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『岩手県災異年表』(昭和13年)より

2016-07-12 09:00:00 | 岩手の冷害・旱害
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 さて、先に〝「「岩手県災異年表」の周辺」(伊藤信吉)より〟において述べたように、『岩手県災異年表』なるものがあり、しかもそれには私が知りたかったデータが載っていることを知り、これぞ探し求めていたものよ、と抃舞した次第だった。
 そこで、過日岩手県立図書館に出かけて行って同書を閲覧させてもらおうと思った。すると、『岩手県災異年表』というタイトルの本は同館には次の三種類が所蔵されているという。
  (1)『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』(中央気象台盛岡支台編 中央気象台盛岡支台出版 昭和13年)
  (2)『岩手県災異年表』(「盛岡測候所編 日本積雪連合岩手県本部出版 昭和29年)
  (3)『岩手県災異年表』(盛岡地方気象台編 日本気象協会盛岡支部 昭和54年)

 さてでは伊藤信吉が見たものはどれかというと、それは〝(2)〟なのだが、実はそれは〝(1)〟に後年のデータを付加したものだいうことが両者を比較してわかったので、「羅須地人協会時代」に関連する〝(1)〟における当該頁の写真をここでは以下に掲げてみる。



             <『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』より>
 そこで次に、この〝(1)〟より「不作」年と「凶作」年の場合の稗貫郡及びその周辺郡のデータを拾って、「当該年の前後五ヶ年の米作反当収量に対する偏差量」をグラフ化してみると次のようになる。

 なお、同書には、豊凶年に関しては確かに伊藤が述べているとおりで、
 大一四年 豊作  米作反当収量 二石一斗七升
 大一五年 不作
 昭和四年 不作
 昭和六年 不作   
 昭和八年 豊作  米作反当収量 二石二斗五升  
 昭和九年 凶作
<*1>
であったとある。
 こうしてグラフ化してみると、あの赤石村を始めとする大正15年の紫波郡の大旱害はやはり酷かっただろうというこが改めてわかったが、稗貫だって結構不作だったということもまた認識を新たにした。それから、賢治が亡くなってしまった翌年ではあるが、昭和9年の凶作は惨憺たるものだったということがよく理解できた。
 しかし、以上のことは一般に言われていることだからそれ程の違和感はないのだが、これもまた一般に言われてきた昭和6年の冷害については、こうしてみると江刺郡などは惨憺たるものだったということがわかったからなおさらに、稗貫郡の〝+0.4石/反〟という唯一のプラス側の棒がやはり際立っていると、別な意味で違和感を私は感じた。それは、このことが巷間いわれていることを全く裏切っているはずだからである。そう、
 大冷害だったと思われている昭和6年の岩手県の大冷害はたしかにそのとおりだが、少なくとも昭和6年の稗貫郡はそうではなくて、米の作柄は平年作よりもよかった。
と言えるのである。
 そしてその結果明らかになったもう一つの大事なことがあり、それは、賢治の詩「小作調停官」に詠まれた昭和6年の惨憺たる冷害の稲田の光景を実は当時の花巻や稗貫では見ることができなかったということだ。言い換えれば、この詩に詠まれている「西暦一千九百三十一年の秋の/このすさまじき風景」は稗貫地方には拡がっていなかったと言えるから、当時の賢治にはこの年のこの時にこの詩に詠まれているような光景を稗貫地方で普通に目の当たりにすることできなかったということになり、この詩はあくまでも賢治が頭の中で思い浮かべて詠んだそれであったであろうということの蓋然性が極めて高くなったということだ。

<*1:註> 当時の岩手県の米作実収高は下表のとおりである。


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