みちのくの山野草

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1304 赤石村にも劣らぬ古館村の惨状

2009-12-20 11:22:07 | 岩手の冷害・旱害
   <↑ Fig.1 昭和2年1月19日付 岩手日報>

 前回述べた様に、1/9付けの記事から旱害被害は赤石村のみならず、不動村や志和村も同じ様な惨状にあるということであったが、このブログの先頭の記事を見ればその被害はもっと広がっていたことが解る。
 それは古館村の旱害被害も甚大だったという以下のような記事内容があったからである。
【昭和2年1月19日付 岩手日報】
 得能知事が旱害地視察 寒さと飢えになく村民 正視するに忍びない 彼等のドン底生活
紫波郡地方のかん害惨状は日一日と深刻の度を増し行きやがて来たるべき越年の喜びも今はどこへやら同地方では旧年末をひかへて益々惨苦は激甚を極め村民は只飢えとさむさにふるえてゐる得能知事は殊にもこの惨状に深く同情し救済方法として常に製筵事業を奨励する一方再三同地を訪ねては善後策につき絶えずアタマを悩まして居るが十八日更に猪股?業課長、藤原技師、佐藤?の関係職員を随へて最もひどく被害影響を被つて居る古館、志和、赤石日詰の一町三ヶ村を巡視し困窮のドン底に喘ぐ村民たちの実生活を詳細に視察したが各村ともドコの幹をのぞいても正視するに忍びない悲惨な生活状態であった
 赤石村にも劣らぬ古館村の惨状 旧年末を控えて益々窮乏を告ぐ
古館は赤石におとらぬ惨状を呈し旧年末をひかへて益々窮乏を継げてゐる仝村役場の調査に依れば耕地反別二百町歩のうち収穫皆無は八十町歩の大きさに達し減収反別を加へれば百二十町歩の多さに達し昨年の五千三百石収穫高に比し約三千石減収二千石の収穫であるが之とても品質は非常にわるく、一石につき六円の格差を示し市場等には販売出来ぬ有り様であると、右について高橋古館村長は語る
 本年のかん害は自作人も小作人と同様明日の食料にも窮する有り様で之が救済策としては、県の奨励方法に基き十三日から二十台の製筵機をかり受けて製筵事業を始めましたが何しろ未だ日も浅い事とて只今の処講習を行って居ます

 ということは、古館村に関して言えば、
   大正15年の収穫高は2,000石
であり、前年のそれ5,300石と比べれば
   2,000/5,300=37.7%
だから、6割強の減収だったことになる。さらにはそれとて米の品質は極めて悪かったのだ。
 因みに、古館村の位置は下図の中央である。
【昭和10年の紫波郡の地図】

    <『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
この地図に出てくる
  赤石村、不動村、志和村、古館村
の何れもが旱害被害が甚大だったのだから、
  紫波地方はまさしく凶歉
だったといって良かろう。

 一般に、
 『ヒデリにケガチ(飢饉)なし』
という言い伝えがある。だから、
 「旱のときは飢饉の心配がないからヒデリは農民にとって不都合なことではない」
と、旱を悲観してヒデリノトキにナミダヲナガすことなど不要、逆であると主張する人がもしかするといるかも知れない。
 しかし、これまでの岩手日報の一連の報道から、大正15年の紫波地方の多くの村ではそのような論理は全く当てはまらなかったのだとつくづく思い知らされる。

 さらには、次のような記事があり
【Fig.2 昭和2年1月23日付 岩手日報】

 知事夫人が 旱害罹災者慰問 内務部長夫人と 共に二十五日から
とあり、次の県下各地の旱害地を訪問するという。
 ▲紫波郡赤石、不動村
 ▲和賀郡中内、谷内村
 ▲江刺郡羽田村
 ▲西磐井郡日?村
このことから窺えるのは、旱害被害は紫波郡のみにとどまらず、和賀・江刺・西磐井の各郡にも広がっていたということである。

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