みちのくの山野草

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1298 紫波地方旱害惨状(その1)

2009-12-16 09:57:50 | 岩手の冷害・旱害
   <↑ Fig.1 昭和2年1月9日付 岩手日報>
 前回の末尾に載せたのがこのブログの先頭の記事であり、ほぼ”一面”全部が紫波地方の旱害被害に関する報道である。
 では、幾つかの部分に分けて報告する。まずは主に不動村に関する次のような部分である。
【Fig.2 昭和2年1月9日付 岩手日報】

  <注:ここで気になるのが題字の下の日付と欄外上部の日付である。
       おそらく、1月8日は夕刊が作られた日、1月9日が配達日だろうと思う>
 未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞 本社特派員調査の顛末発表
紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く変じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は一物もなかった、なんといふ悲惨事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない、我社この哀れな同胞の実生活を調査せしむべく記者小森秀、写真班小原吉右衛門を特派したがこゝにその視察記を発表する次第である。
 赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒労に終わって収穫は皆無
不動村は赤石村に劣らない惨害を受けたが鉄道が多小離れてゐて惨害が比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植えつけはしたが枯れて仕舞又は結実せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ数字を示し耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租
 免税の 申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一万三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百三十戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである、水稲のみだけでなく畑作の麦、青刈大豆等も三割以下の減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の
 揚水機 を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百円を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく様な炎天に雨を待ちどうにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の旱害をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十円から五十円の経費を要した之とて焼石にそゝぐ様なものカン害状態視察の得能
 知事が 
 ??して昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出来るか
と聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については悩み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一万余円を空しく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫れ相当の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒労に帰したのみでなく更に疲弊
 困難に 陥入るの因をなすに至った、斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六円でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り様である、仝村に足を入れ小学校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稲がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし
 血を流 す様な努力を重ねた結果肥料にする藁を得るに過ぎかかつた時農民の心中は如何なる思ひに満たされたことであらう、県ではかん害救済資金として一万五百円を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助も斯くの如きは当村で馬?にする青大豆を僅かに五反歩植えつけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植えつければ
 翌年の 収穫に影響を及ぼすため県でイクラ種子代を補助すると参事会に代決を求め決定しても植えつけなかつたのでこの点は県の見込み違いで救済方法としては当を得なかつたが通常県会に要求の勧業奨励費二万円の追加はかん害地の衣食に窮する農民に対しては本当に救済の実を挙げることが出来るものである


 ついいままでは、赤石村の旱害被害が甚大だということにだけ注視していたが、この記事を読んでみて不動村の被害の甚大さ、過酷さに愕然としてしまう。
【昭和10年の紫波郡の地図】

    <『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
 また同時に、いままで赤石村の旱害被害の具体的な内容についてはあまり詳らかでなかったが、この記事の見出しに
  『赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒労に終わって収穫は皆無』
とあるから、赤石村の惨状もこれとほぼ似たり寄ったりであったのであろうことが知れる。

 なお、”一面”には未だ関連記事があるのだがそれは次回へ。

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