Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

「最悪」想定は「諸説」レベルではないのか

2023-03-13 20:13:26 | 震災・災害
「3.11」から12年となりましたが、周年でもないのに大きく取り上げるのはなぜ、と思ったら「13回忌」だったんですね。もちろん仏教徒だけの節目ですが、我が国においては多くの遺族が「7回忌」以来の節目を迎えた格好です。

メディアも取って付けたように報じていますが、今回目についたのが今回の津波被害を受けて整備(復旧)された防潮堤に関する議論です。
2011年の大津波の被害を受けて整備されたはずの防潮堤が足下の想定だと津波を防ぎきれない、浸水域が発生する、というもので、せっかく整備されたのにどうしたらいいのか、という地元の悩みを報じています。これにかこつけて反防潮堤の市民団体やメディアが勢いづいていますが、「海が見えない」といったナイーブな意見での否定などに与する人はいませんし、今回の問題にしてもだから防潮堤はいらない、といった反ワクチン、反マスクのような1ビット思考ではなく、どうすればいいのか、という議論になっており、「やたっ」と得意満面で防潮堤を否定しようとしたメディアはお生憎様、という状態です。

一方で不可解なのは、なぜ今になって被害想定が変わったのかということ。昔の想定というわけでもなく、それこそ9世紀の貞観地震の再来と言われる「1000年に1度」の大地震、大津波という知見を得て設計された防潮堤が「足りませんでした」というのはあまりにもお粗末でしょう。
どうも「最悪の想定」を厳格にしたらこうなる、ということのようですが、「1000年に1度」レベルを超える想定というのはいったい何なのか、という疑念が払拭できません。それこそ今回の大津波は、多賀城市の「末の松山」が貞観地震の大津波でも波が越さなかったことで「ありえないことの例え」で歌に詠まれるようになったのを再現したように今回の大津波も「末の松山」を越せなかったわけで、今回の大津波への対応であれば歴史の記憶というレベルの大津波にも耐えうるはずでした。

もちろんそこに油断は禁物で、有名な田老の防潮堤など10mクラスの防潮堤が続々破られたわけです。(田老の場合は戦前に完成した区画は耐えて、戦後完成の区画が破られており、別の要因もありそうですが) 一方で普代村は15mの防潮堤が完璧にブロックしたわけで、やはり基本は想定される波高以上のものの建設です。
しかしその想定はどう置くべきか。実は波の高さは震源域に左右されますから、ある集落を最悪の事態となる巨大な津波が襲ったとして、他の集落も「最悪の想定」になるのかどうか。想定の中には防潮堤が破られた場合も含んでいますし、であればいかに高くても防げません。また湾口の向きなどによっても波高は変わるわけで、最悪の想定は波高や浸水域を最悪にする反面、同時に起こり得る可能性が著しく小さくなります。

ここまで来るとどうも「ゼロリスク」の色彩が強くなるわけで、歴史上というよりも地質時代に発生したと思われる巨大地震と巨大津波の再来を想定するようなものです。このエリアでは同じような巨大地震と巨大津波が周期的に襲うことが知られていますから、貞観→東日本を上回る巨大地震、巨大津波ということは、とてつもないスパンでそれが発生しないと成立しない想定です。貞観→東日本のスパンのうち何回かに一回が超巨大地震、超巨大津波になるという話ですが、それはいったいいつなのか。原発再稼働の想定でゼロリスクを要求する規制委が敷地内の断層について縄文、弥生時代より前に遡っての活動しないことへの保障を要求していましたが、それと同じ香りがします。原発問題もそうでしたが、海を渡る火砕流という異常事態を心配するのであれば、手前の大都市も含む自治体は壊滅しますが、それはいいのか、という批判と同じように、その最悪の大津波を想定するのであれば、津波以外の被害に耐えられるのか。

そうした前提の被害を想定した対応は現実的なのか。原発再稼働問題がゼロリスクにこだわるあまり、人類の歴史に等しい期間の保障を求めたように、大津波もまたそれを求めるのか。実は貞観→東日本での被害を想定した対応も、では今回建設するインフラが1000年後の対策になるのか、という話になるわけで、コンクリートなどの耐用年数を考えたらありえない話で、それでも我々が実際に目の当たりにした被害を想定するということは意味があるわけです。起こり得ないということが言えない規模の最大として。「末の松山(波越さじとは)」にしても、波が越えなかったという事実を目の当たりにしたことで生まれたのですし。

もちろん防潮堤で囲まれているが海抜が低い地域は事業用地として限定し、住居は高台に集中する、という石巻市の雄勝地区などの二段階対応がベストですが、いろいろな事情でそこまでの対応は不可能なケースが大半です。であればどのレベルまで求め得るのか。例えば20mに再設計するのがいいのか。それとも貞観→東日本を超える超巨大地震、超巨大地震までは想定しないのか。貞観→東日本レベルの再発で耐えられないという妥協とは意味合いが違うわけで、想定しないという選択も十分あり得ます。

さて今回、いったんは「現実を踏まえた」対応で統一されたはずの話がなぜ覆ったのか。
被害想定その他の想定にしても、役所が勝手に想定は出来ませんから、それなりに知見のある人が積み重ねていないといけません。
そこで気になるのは、昨今目につく「新解釈」の横行で、歴史関係バラエティのネタ元としてはよく見られるのですが、キャッチ―な「新解釈」が「個人の感想です」に毛が生えたようなレベルでも「諸説あり」というエクスキューズ付きでメディアに取り上げられることが少なくありません。邪推すればアカデミズムの世界での「一旗組」ではないのか、という疑念があるわけで、もしその「諸説」が主流になる、実際の社会での前提になる、となれば、一躍メジャーになって売れっ子、そして「権威」になれるチャンスですから。そういえばありましたよね、「チバニアン」で敗色が濃い反対派の学者が現地立入調査を阻害したといったことが。そういう下世話なやっかみがある世界ですから、少々飛ばした議論が出てもおかしくはないでしょう。特に今回はこれまでの前提が覆るわけですから。

今回は対応次第では、というか必然的に巨額の税金支出を伴うわけで、それとの絡みもあるわけです。原発再稼働でもこれでもか、というようなインフラ整備を伴っており、それがいかなるケースでも必須なのか、レアケース対応なのか、と分けて考えたら妥当と言えないのでは、という対象もあるわけで、その二の前です。
であれば余計にシナリオの妥当性を吟味しないといけません。特に発生可能性の部分は。最悪だけど1万年に1回、となれば考慮する必要はあるのか。何度も言いますが、そういう超巨大地震、超巨大津波があるとしても、貞観→東日本のサイクルと一致しないタイミングでの発生はまず無いでしょう。貞観→東日本は震源域が巨大地震のド本命であり、この震源域に影響しない形で別に巨大地震を引き起こす震源域はないでしょうから。千島沖や十勝沖の「空白域」が指摘されますが、M8レベルの大地震は起きてるはずで、それを含む長期サイクルでの巨大地震があるのか。そしてその震源域であれば東日本大震災では大きな被害を受けなかった沿岸地域での対策をどうするのか、という別の議論になりますし、そのほうが急務でしょう。原発に火砕流が届くことを心配する前に心配すべき事項があるのと一緒です。



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