Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

地震被害の形態

2011-08-31 23:12:00 | 震災・災害
震災から間もなく半年が経とうとしています。未だに多くの人が行方不明のままとなっていますが、それでもかなり少なくなり、死者、不明者の合計は明治三陸地震津波の数を下回りました。
行方不明者のほうが多く確定した昭和三陸地震津波ほどの異常さは無いですが、それでも情報機器その 他が発達した21世紀の今日にこれだけの行方不明者が残っていると言うのは、津波被害の特殊性を浮き 彫りにしています。

さて、9月1日は「防災の日」です。各地で避難訓練などが行なわれますが、阪神地区では「1月17日」に行うケースも目立つ中、今後は「3月11日」に行なわれるケースも増えるのでしょうね。
そういう意味では未だ桁違いの犠牲者とは言いながらも、いつまでも関東大震災でもない、ということになるのかもしれません。

しかし一方で「関東」「阪神」「東日本」はそれぞれ性格の違う地震被害であり、地震被害にはいろいろな種類があるということを認識するためにも、いっそこれら3つの日を防災の日としてもいいでしょう。

そう、「阪神」までは地震といえばその後の火災であり、引き合いに出されるのが「関東」でしたが、「阪神」では火の始末や避難に気を配る以前に、悼オた建物の下敷きになって犠牲になる人が続出したわけです。
そして「東日本」では、火災も悼煢ナきたと思っていたら、想定外の大津波に襲われたわけで、そこに油断があったのでしょうし、火災、悼Aそして津波とあらゆる災厄を想定することが重要です 。

火災については「関東」の頃と違い、家庭で「火の元」というとガスレンジが大半で、冬季のストーブが加わる程度でしょう。そしてストーブは地震などの振動を感知したら自動消火しますし、レンジも「関東」の頃の七輪などと違い、地震で転唐キることも少ないでしょう。

そうした状況の変化を踏まえたのでしょう、最近では「地震だ、火を消せ!」というコピーが消えて、「まず身の安全の確保」となっています。消火はそれから、というのですから古い人間から見たらコペルニクス的転換です。

確かに激しく揺れる中で動くほうが危険であり、煮えたぎる鍋の転唐ノ巻き込まれて火傷を負うリスクのほうが火災リスクよりも高いでしょう。
リスクの高い揚げ物なら火の前にいますから即座に火を消せますし、離れられるケース(煮物や湯沸し)なら出火の可能性は低いわけで、もちろん何かが唐黷アんできて引火するリスクはありますが、そういうケースはそれこそ身の安全を守ることが優先される事態です。

キャッチコピーも経験地を積んで実戦的になったということでしょうが、しかしだからといって地震火災のリスクは念頭に置くべきでしょう。
そういう意味では次回地震で大災害になるとしたら、忘れていた頃の、と言うことで火災が原因になる気がしますから。



裏メニュー支持派の反撃

2011-08-31 23:11:00 | 時事
出来もしないマニフェストで国民を謀った民主党ですが、マニフェストの実行よりも裏メニューの実行にご執心だったことはかねてから批判してきたとおりです。
そうした中で今度の野田新首相は裏メニューに一番無縁の存在と言うか、裏メニュー反対の急先鋒だけに、その点では少し安心材料です。

そういう意味では菅首相もわかりやすい存在というか、朝鮮学校の無償化問題について、総辞職前日に規制解除の指示を出すと言うまさに最後っ屁と言うか、裏メニュー推進だけは余念が無いことを露骨に示したわけです。

一方で裏メニュー支持派?のメディアは、民主党LOVEなはずなのに野田新首相を叩きまくっているわけです。確かに歴史認識その他、自民党でもそうそういない骨太の主張をしているだけに、自民党時代の閣僚就任会見で病的に靖国参拝を聞いてきた朝日なんかは、中韓の反応という形を取って、やれ自衛官の家庭だとかネガティブキャンペーンを張っていますし、「どじょう」の例えも「どじょうって実はね」とネガティブに紹介するあたり、メディアは不偏不党ではなく特定の政党を贔屓している、と言う批判は実は当てはまらず、裏メニューのベクトルを指向しているという批判になるわけです。


コミュニケーションツール

2011-08-31 23:02:00 | ノンジャンル
インターネットを利用したコミュニケーションツールの発展は著しいですね。
10年位前は掲示板くらいでしたが、それでもすごいシステムだと思ったものですが、ブログが出来てホームページ構築が出来なくとも情報発信が可能になり、SNSの各種サービスがひろまり、と百花繚乱です。

一方でそうしたシステム、ツールはクローズドのように見えて実はオープンなんだということへの理解が足りないようで、ネット初心者の児童生徒ならいざ知らず、大の大人までが無邪気に「犯罪」や「インモラル」な行動を「自白」しているわけで、体系だった教育機会が無いままにシステムだけ進展した時の恐ろしさと言うものを感じます。



こうしたシステム、ツールですが、メディアのような「特権階級」が差配していた情報発信に風穴を開けて、まさに言論、出版の自由と言う普遍の権利をメディアのフィルターを通すことなく、本来権利を持っている個人一人一人の手に取り戻したと言う効果がありました。

最近気になるのは、そうした情報発信のリスクが喧伝される、というか、当たり前に情報発信できる社会ではなく、情報発信したらまずいですよ、と言う流れになっていることです。
例えば個人ブログやSNSなどでの言動をチェックするビジネスが米国からどうやら日本にも上陸したようですし、そうした風潮が、本来サイレントマジョリティとされている社会の中核層の「本音」を覆い隠し、結局「声の大きい」存在による見せ鰍ッの世論や、アングラチックな情報発信の氾濫と言う、せっかくのシステム、ツールを殺す方向に働いています。

一方、本来オープンであるべき分野にまで「一見クローズド」のシステムを導入する動きもあります。
公共のホームページが、更新が面唐ネのかブログ形式を採用するケースがあったところに、最近ではフェイスブックに完全移行する自治体が出るなど、情報発信ということを何か勘違いしているケースもあります。

インターネットと言うオープンスペースで情報発信することに意味があるのに、コミュニケーションツールに偏重してどうするのか。「このページは役に立ちましたか」という質問がいちいち出てくるサイ トもうっとうしいですが、そうした「外見」を気にする延長線上に、「市民の反応が見れるから」とフェイスブックなどの採用があるのでしょうか。

情報を入手したい側にとって、「いいね」がいくつあろうが、ユーザーのコメントがあろうが、それは邪魔な情報です。公共が提供すべき情報は何なのかを履き違えているとしか言いようがありません。

こうしてみると、コミュニケーションツールはかなり歪んだ形で普及しつつあるのでしょうか。
メディアなどの「特権階級」が独占していた情報発信を個人の手に取り戻すと言う効果に対し、情報発信という行為自体がデメリットであると言う風潮を作り上げる半面、本来制限無しに有無を言わさず情報開示をしなければいけない存在が、コミュニケーションツールで情報交換という「殻」に閉じこもっているのです。

あまりサヨっぽいことは言いたくないのですが、本来あるべき情報発信ではなく、都合の良い情報発信のツールにしたがるベクトルが見え隠れしますね。しかも本来サヨの側に立つはずのメディアも本件に関してはこのベクトルに乗っかっているのですから始末に終えない感じです。