Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

「アリアドネ、余は御身を愛す、ディオニュソス」 - 胡蘭成・岡倉天心・ニーチェ 愛と美の狭間で

2008-11-29 14:17:42 | Weblog
最近、岡潔と胡蘭成の著書を読み終えた。こんな人たちが昭和の日本にいたのだな、と思うと、日本の近代化のスピードがいかに速かったのか、驚いてしまう。今の日本で、彼らほど漢詩や日本史に通じた人を探すのは、困難だと思う。

岡潔は日本の美徳を、父天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したといわれる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に求めている点は、非常に興味深かった。

また胡蘭成は、中国思想と美の概念をを多く持ちだしているのだが、五行思想では、緑(東)、赤(南)、黄(中央)、白(西)、黒(北)と、五色の中に「白」を認識させている、と述べている点が興味深かった。

ヴィトゲンシュタインがゲーテの「色彩論」と自身の「色彩論」を比較する際で、やはり白は純粋色か、という議論を展開されているのだが、それを思い出した。反射光と透過光の問題、さらに透明、というマテリアルの問題に行きつく。または、「空」の概念がある限り、白も存在として理解されたのだろうか。興味深いエリアだ。

さて、私が胡蘭成に興味が湧いた理由の一つが、アン・リーの映画「色、戒」にてトニー・レオンが演じていたのが胡蘭成だとされているからだ。アン・リー監督のインタビューを以下に抜粋します。

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記者:みんなも張愛玲と胡蘭成の関係を知っています。ある評論は張愛玲が「色、戒」の中に、彼女の胡蘭成に対する複雑な愛情を注ぎ込んでいると言っています。あなたがこのような評論に対してどう見ますか? あなた自身は彼らの関係をどのように見ますか?

李:私は張愛玲には父親の愛と愛情がとても欠けていると感じます。私は彼女が成長期に多くの虐待を受けたのだと思います。ですから胡蘭成の才気と彼女に対する抜擢と認識が、彼女にとってはとても吸引力があったと言えます。胡蘭成はとても彼女に対して申し訳ないことをしました。私は胡蘭成という人物の人柄にいくつか問題があったのだと感じます。特に高尚ではありませんでした。ですから張愛玲の生涯は感情と愛情に対して欠落していたので、彼女が愛情に対してどのような見方をしていたか言いにくいです。そこで「色、戒」という小説では、とても残酷な書き方をしています。それも私を惹き付け、私が抜け出しにくい原因となりました――その真実で残酷な小説のなかに、どのように我々の感情の拠りどころとなり生きるよすがとなるものを探し当てるか? それは決して容易なことではありません。それは私たちが努力すべき方向なのです。張愛玲が胡蘭成に付き従った日々は実はとても短く、とても不十分で、とても不完全だったのです。
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この話を読んでいたら、何故か私は、岡倉天心と、彼が恋したインド人詩人のプリヤンバダ・デーヴィーを思い出してしまった。

対アメリカ・ヨーロッパへの戦略として、「Asia is One」と西洋に向けて一方では言いながら、近代的構造を作る為に韓国的なクラフト回帰からとは一線を引いた天心。そんな天心が、インド人の女性に恋してしまったのは、愛すべき中国大陸が共産化して腐敗していくのを防ぐ為に、中国の敵国である日本と結託し、傀儡として機能した中国「国民党」員である胡蘭成との状況と少なからず似ている。

(又は、天心の手紙に関して言うと、死期を悟った晩年に書簡が交わされている、ということから考えると、ニーチェが、ワーグナーの妻であるコジマに宛てた手紙の方が似ているかもしれない。しかも、プリヤンバダは母が詩人でダゴールと親戚、コジマはリストの娘、という芸術一家という点では似ている。芸術家の子息は、芸術的なキャパシティがあるのだろうか?)

ネーションが敵対概念、そして言語と主体の問題と密接に関わっている限り、こういった状況は発生する。これがある種の近代が抱えた問題である、ということに、個人的な興味が募る。

岡潔/胡蘭成 (新学社近代浪漫派文庫)
岡 潔,胡 蘭成
新学社

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