ヘーゲルはドイツ人には復讐の概念が欠けていると書いていて考えたのだけれど、その対極に位置するのが、アイルランド系の母を持つクリント・イーストウッド監督が描く「復讐の美学」であり、それは言わばアメリカ社会に現れた、アイルランド人たちの古層だと言えるだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 01:17
だとしたら何処からこのアイルランド人たちの「復讐の美学」が生まれているのだろう?おそらくそれは個人の小規模コミュニティに対する忠誠心が社会における法的正義を上回った時に生まれるのだろうけれど、それは虐げられたマイノリティの美学、言わば恨(ハン)の文化だとでも言うのだろうか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 01:20
宮崎駿監督がしきりにアニメ映画は「もの」だと主張していたけれど、これは映画は「こと(Happeningness)」ではなく「もの(Thingness)」に属する、ということを明らかにしておきたかったからだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 02:00
日本で朝鮮人参の国際的な流れを研究しておられる方がいらっしゃると聞いたのだが、そうなると、李承晩による外貨獲得の命を受けて朝鮮人参の輸出業をやっていたナムジュン・パイクの生家も、その研究に名が出ているに違いない
— épuisé (@l_epuise) 2016年8月28日 - 18:11
『ソング・オブ・ラホール』のあと、ワタリウム美術館のナムジュン・パイク展「2020年 笑っているのは誰 ?+?=??」へ。吹き抜けの空間に展示された巨大な作品「ケージの森/森の啓示」が素晴らしい。地下の西島大介展もとてもよかった。watarium.co.jp
— Pen PLUS (@Pen_PLUS_) 2016年8月29日 - 15:49
ナム・ジュン・パイク「バイ・バイ・キップリング」
— ハンバラ (@gakaha) 2016年8月29日 - 21:43
1000ya.isis.ne.jp/1103.html pic.twitter.com/eHfvRN3Hh8
本田美奈子の死後に誕生した「ヘイリー duet with 本田美奈子. / アメイジング・グレイス」実現の背後にあったのは、ジョニ・ミッチェルがチャールズ・ミンガスの死後に出したアルバム『ミンガス』の存在ではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:04
ジョニ・ミッチェルの書いた歌詞”I want to shampoo you.”は愛情表現として素晴らしいけれど、ジョン・ケージの頭をシャンプーしてネクタイを切ったしたパイクには、ヘテロセクシャルである自身から同性愛者であるケージへの、最高度の愛情が込められていたと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:09
人間は欲望が強いというよりも、誘惑に弱いのだと思う。欲望はとても曖昧模糊としたものだけれど、それが誘惑という刺激によって受動的に生まれるのだろう。欲望の拡大はエントロピー最大化への近道で、それを中心に据えたのが、宇宙の熱死を早める資本主義社会ではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:14
レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』の冒頭で、著者がバングラデシュのデルタ地帯上空を飛ぶ飛行機の中で、彼がカースト制度に思いを馳せて、それを否定せずに、人類の壮大な実験だったと半ば評価するシーンがある。その時に、この本は素晴らしい世界観の持ち主によって書かれた本だと痛感した。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:17
私は南方由来の日本の古層が共感能力と繋がっていると考えるけれど、これはインドネシアのカタベアアンと関係してそうだ。例えば、「出された食べ物・飲み物を摂らない」人はカタベアアンになる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:27
www2.rikkyo.ac.jp/web/katsumioku…
人間はアントゥと総称される霊的存在に通常怖がられているが、カタベアアンになると人間がアントゥにとって「動物」に見え、人間の霊魂がアントゥに攻撃される。つまりアントゥはカタベアアンで「動物」に見えるようになった人間の霊魂を襲うので、人間の霊魂が弱体化して、病気になるとされる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:28
インドネシアのカリス人は、人間は<身体(tilino)>と<霊魂(sumangat)>から成ると考えている。精霊(antu)は、人間と同じ空間に存在するが、森のなかにたくさんいると考えている。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:30
www2.rikkyo.ac.jp/web/katsumioku…
インドネシアで使われる米粉でつくられた身代わりの人形
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:35
www2.rikkyo.ac.jp/web/katsumioku…
を見ていると、これが神道儀式に残ったのが大祓(おおはらえ)の形代(かたしろ)
d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/…
ではないかと思えて来る(たぶん実際にそうなのだろう)
諸葛孔明が川の神を鎮めるべく身代わりとして使った饅頭も、蜀の国が南方からの影響を強く受けていたことの証ではないか?その証拠に、北方の満州系にルーツを持つ餃子は北京など中国北部で良く見られるが、それが南方に行くと饅頭のポピュラリティへと変換する。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:38
仮に人型や饅頭が南方のアニミズムで身代わりとして使われていると考えた場合、それが北方のシャーマニズムになると、何になるのだろう?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:39
日本が、美術におけるバウハウスや、サッカーにおけるドイツ系の組織プレイを模倣すると成功するのに、エコールドパリやブラジルのサッカーを模倣しようとして失敗するのは、日本がゲルマンと似た父権社会であって、母系の強いラテン系文化との親和性が低いからではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 06:43
私は共感覚を持つ人たちに多く会って来たけれど、彼らに共通する顔がある気がする。それは憑き物が落ちて自由になり、幸せになったような顔。シュレーディンガーの言う、その人の目を見つめていると、自分の主体性が崩壊してしまうような、そんな顔。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 17:06
共感覚と幸せは、とても重要なテーマだと思う。幸せは、自己充足によって実現するのではなく、自分の周りにいる他者が幸せになって実現するものだろう。すると共感覚者が幸せそうな顔をしているのは、自分の周りにいる他者に幸せになってもらうことで、自分が幸せになっているからなのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 17:09
連続ツイート:山田廣成教授の「対話原理小論 : 感性にもとづく量子力学の解釈と新しい自然観」を読んで考えたこと
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 18:59
(山1)山田廣成教授の「対話原理小論 : 感性にもとづく量子力学の解釈と新しい自然観」には久しぶりに興奮した。前野隆司教授の受動意識仮説とデビッド・ボームの全体性と内臓秩序による量子脳以来の衝撃だ。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 18:59
ci.nii.ac.jp/naid/110006411…
(山2)山田廣成教授の量子力学の考え方は、現在のノーベル賞レベルではもう測れない所に行っていて、認められるまで、あと20年はかかると思う。こういう天才に出会った時に、できるだけ早く世の中に認められて欲しいという思いがとてもあるので、私も微力だが応援したい。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 18:59
(山3)こちらは山田廣成教授による、量子力学をベースとした哲学の一般向けレクチャー。とてもワクワクした。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:02
「山田廣成先生の量子哲学①」
youtube.com/watch?v=fEUDOF…
(山4)山田廣成教授の「電子には意志があった」という議論は、デカルトに代表される近代的な動物機械論の別ベクトルを極限にまで推し進めたものと言える。そう考えると、彼の言う「量子力学は多神教の文化だ」という例えは、とても分かりやすい。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:02
(山5)生命現象の本質は干渉にあり、それは人間が他者と対話し干渉する力と同じである、それと同じことが電子に起こっている、という下りは素晴らしい。そして存在の哲学を唯物弁証法ではなく量子弁証法にすれば、唯物論と唯心論が融合できると指摘する。これはフッサールの見た夢でもあるはずだ。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:03
(山6)生命現象の本質が他者と対話し干渉する力だとすると、何故人を殺してはいけないのか、という問いに科学が回答できる。それは、人を殺すことは私の中にいる何かを殺してしまうから。すると民主主義と呼ばれているものの本来的な意味が、科学の立場から読み解ける様になる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:03
(山7)すると文化が何故重要なのかも科学的に説明できると私は考える。それはすなわち、生命現象の本質である干渉の集積だからだであり、それを否定してしまうと、生命現象の本質を否定することに繋がってしまうことになる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:03
(山8)優れた表現者とは、私の中にあなたがいて、あなたの中に私がいることに、私はあなたより先に気づいたから、それを伝えたい、と思い、それに成功した人を指すと私は考える。すると芸術表現とは、生命現象の本質である他者と対話し干渉する力の根底を成すものだと私は考える。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:04
(山9)私がこれから理論化しようとしていた「量子憲法」という考え方を、山田廣成教授が既に理論化していることに驚きを隠せない。ここまで領域横断的な論理思考ができて、しかもそれを平易な言葉に置き換えることのできる山田廣成教授には、しびれた。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:05
(山10)進化こそヘーゲルの言う止揚(アウフヘーベン)であり、そこには意志が関係している、そしてその意志は、電子の集合である個体から生まれると山田教授は考える。すると孔子やアリストテレスの中庸やナーガールジュナの中観とは弁証法であり、進化であると言えるだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月30日 - 19:06