最近、キュレーターという肩書きを、とりあえずでも名乗っている身として、アーティストや美術作品、または展示そのものに対して批評をすること、批判的であることが困難に感じることが増えてきた気がする。
ある程度の読書量がある人の間では、文章として成立している批判を受け止めることに関して十分理解があるのだが、必ずしもそういうキュレーターやアーティストが多いとも限らない。また芸術は、最終的には表現の問題になってくるので、必ずしも文章として成立する批判そのものが優れているとも言えない。難しい所だ。
ものごとに批判的であることは、ものごとの質を高めていく上で大変重要だと思う。しかし、同時にキュレーターはアーティストや他の人や機関との接着剤のようなものなので、リスクを負ってまでアーティスト、またはそれに関連する人や機関に対して批判的であり続けることは、極めて難しい。特に友人のアーティストの作品に対して真面目に批評をし続けることは、友人関係をこわしかねないので、怖くもある。しかし、本当の友人は、それができる人だと信じて、リスクを負ってでも批判し続けていくしかないと思う。
また、NYにて親しくしている友人が、労働ビザが降りず、今後の将来の見通しが立たなくなってしまったことを聞いて、大ショック。私もアメリカでビザを取得するまで大分苦労したが、ビザの問題は本当にナンセンスだと思う。あれだけ仕事のできる人に労働ビザを下ろさないというアメリカの方針は、結果としてこの国の労働の質を下げることになるだろう。それにしても、とにかくショックだ。
ある程度の読書量がある人の間では、文章として成立している批判を受け止めることに関して十分理解があるのだが、必ずしもそういうキュレーターやアーティストが多いとも限らない。また芸術は、最終的には表現の問題になってくるので、必ずしも文章として成立する批判そのものが優れているとも言えない。難しい所だ。
ものごとに批判的であることは、ものごとの質を高めていく上で大変重要だと思う。しかし、同時にキュレーターはアーティストや他の人や機関との接着剤のようなものなので、リスクを負ってまでアーティスト、またはそれに関連する人や機関に対して批判的であり続けることは、極めて難しい。特に友人のアーティストの作品に対して真面目に批評をし続けることは、友人関係をこわしかねないので、怖くもある。しかし、本当の友人は、それができる人だと信じて、リスクを負ってでも批判し続けていくしかないと思う。
また、NYにて親しくしている友人が、労働ビザが降りず、今後の将来の見通しが立たなくなってしまったことを聞いて、大ショック。私もアメリカでビザを取得するまで大分苦労したが、ビザの問題は本当にナンセンスだと思う。あれだけ仕事のできる人に労働ビザを下ろさないというアメリカの方針は、結果としてこの国の労働の質を下げることになるだろう。それにしても、とにかくショックだ。