英語で優しいはkindだけれど、優しさを意味するこのkindという言葉が同時に種類や本質を意味するのは、それがkinという種族や家族の延長線上に派生していて、そこには自分と同類のもの以外には冷たい、という意味が含まれているのだろうか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:02
生まれ持った才能は変えられないかもしれないけれど、この与えられたもの(gift=才能)にいかに気づいてそれを活かしていくのかは、個人に委ねられていると思う。デュシャンも引用した、この「与えられたものとせよ」という思想は天(梵)と地(我)の一致でもあり、中動態とも関係していそうだ。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:08
優しいという言葉は「痩す」という言葉から派生した様だけれど、かたじけない(忝い/辱い)という言葉くらい、主体を消去して、この主体を可能としている外部に感謝を表明している言葉は、世界的にも珍しいと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:13
私は主体を前提としたEnpathyより個体を超えたsympathyの世界に、自我の確立よりもそれを超えた連続性や情の世界に興味があるのだけれど、英語のhelp yourself(どうぞ遠慮なく)という言葉くらい、自己と他者を明確に切り離している言葉も珍しいと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:17
でも他者を思いやった厳しいコメントって、結構言う側も体力を使うし、往々にして相手に勘違いされ易いから、しょうもない甘えのレベルに劣化してしまい、そこから人は優しさの意味を履き違えてしまうのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:19
念のために書いておくと、私はある程度の甘えはあった方が良いと考えていて、甘えが完全に無くなってしまうと、あまりにもギスギスした関係と世界になってしまうと考えています。言い換えると、「甘えの構造」は、個体を超えた情の世界を近代的な手法で条里化しようとして失敗したのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:23
与えられたものに気づくこととは、幸せになる為の条件なのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:24
与えられたものに気づくこととは、私がこの世界に生まれて来た意味や、その使命を悟ることなのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:25
与えられたものに気づけない人は無い物ねだりをしてしまい、人と比較して自分はどうだと考えてしまうことで、自らを不幸にしてしまうんじゃないかな?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:28
全ての人は幸せになれる様に生まれていて、それは生まれた時に自らに与えられたものに気づき、その使命を理解して達成することで(前世の)カルマが解けて阿頼耶識の種子が解消されるという、複雑系のエントロピーの法則に則っているのではないか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 00:34
Next Wisdom Foundationに掲載された私のインタビュー「オフグリッドする国家 〜デカルト・ユーラシア・奄美~」は「ネイションの上位概念へ 環太平洋圏民保険案と脱原発」が白眉ですので、興味のある方は是非ご覧下さい。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年8月31日 - 22:02
nextwisdom.org/article/1891/