人生の質に関する損得勘定をしてみよう

2008年07月31日 | 生きる意味

 7月26日の記事にいただいた2人の方のコメントに対してお出しした宿題への、私の回答です。読者のみなさんと共有するために、コメント欄ではなく、記事にしました。

 私たちは、「わかっちゃいるけど、やめられない」(ずっと昔の植木等の歌の一節……知らない人は知らないでしょうねえ)ことがしばしばあります。

 それは、なぜなのでしょう。私は、唯識を学ぶことによって、なぜなのか、すっぱりわかりました 1)

 「自分のことは自分がいちばんコントロールできるはずなのに」、できないのは、意識的自分よりも無意識的自分、つまり唯識でいう「マナ識」 2) のほうがはるかに深くて強いからだ、と思われます。

 人間の自己/心の中には、「わかっている(つもり)の自己」・意識の領域と「実感できない自己」・個人的無意識の領域というある種の分裂があるようです。

 変わったほうがいいとわかっていても、変わるのがむずかしい、変われない、変わりたくない、と感じてしまうのもおなじ理由で、自分でこれが自分だと思い込んでいること、なかば (以上?) 無意識的で自明化されたアイデンティティがあるから、つまり「マナ識」のせいだといっていいでしょう。

 それをコントロールする、あるいは変えるためには、ある意味でマナ識の「裏をかく」必要があります。

 まず、意識がマナ識を受け容れてあげることです。「そうか、そういう気持ちなんだね。気持ちはわかるよ」といった具合に。

 続いて、「でも、それで気持ちはいいのかなあ。私(意識)はとても気持ちが悪いんだけど。気持ちが悪くても、私の気持ちである以上は、変われない、変わりたくないのかなあ? どうしても変わりたくなかったら、もちろん変わらなくてもいいんだけど……」

 「でも、変わったほうがいいんじゃないかなあ? 私たち(意識とマナ識)がいい気持ちに変わるという私たち自身の未来の利益のために……」というふうに説得していきます。

 「変わらなければならない」と強制されると、固まったアイデンティティ、マナ識は抵抗しますが、「変わらなくてもいいけど、変わったほうがいいんじゃないかな?」と自由な選択だといわれると、気が楽になり、意識に従って合理的な行動を採る気になったりします(なかなかならない場合もありますが、まさに「変わらなくてもいい」んです)。

 さらに、マナ識に「人生は有限である」 3) という事実を示すといいでしょう。

 私たちのマナ識は、自己という実体があると思い込んでいますから、自己は永遠に生きることができる……できないにしても、当分は死なないと思っていて 4) 5) 6) 7)、考えないで悩んでいる時間も有限な人生の貴重な一部であって、いやな気分で過ごすことは大きな損失だという自覚を持ちにくいのです。

 「有限な人生を、楽だけどいやな気分のまま過ごすのと、少し努力が必要だけど変わることによって充実した楽しさを味わいながら過ごせるようになるのと、どっちが得かな?」と、マナ識に問うてみましょう。

 マナ識は、自己の損得にはきわめて敏感ですから、損得計算がちゃんとできたら、本気で変わりはじめます(絶対にではないが、多くの場合)。

 マナ識は、倫理的義務で強制されるより、損得勘定を考えて自分で納得するほうが、はるかに効率的に変わること・コントロールができやすくなるようです。

 有限の人生の持ち時間をムダに浪費したくない方、まず人生の質に関する損得勘定をしっかりやってみて下さい。

 「損得勘定なんて、面倒くさい。出たとこ勝負だ」という方は、それで人生の勝負をやってみて下さい。

 出たとこ勝負で大失敗・大損失というケースがきわめて多いように、私には見えるので、せっかくコスモスから委託されたこの人生の有限の時間、とてももったいない気がしますが、余計なお世話かもしれません。





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「ちょっと変だぞ日本の自然Ⅲ」は変だと思った

2008年07月30日 | 持続可能な社会

 つい今しがた、NHKテレビの「ちょっと変だぞ日本の自然Ⅲ」を見ました。

 現在の「持続可能な国づくりの会〈緑と福祉の国日本〉」につながっている一昨年のシンポジウム「日本も緑の福祉国家にしたい!」の準備の時、スタッフのみんなでⅠを見たことを思い出しました。

 報道されている異変はもう「ちょっと変だぞ」というタイトルで取り上げるようなものではないと思われます(それはⅠの時から感じていることですが)。まずそこが変だと思いました。

 あまりの深刻さに視聴者が引いてしまわないように、印象をやわらげる工夫をいろいろしているのかな、という感じはしましたが、しかし、危機というものは、やわらげて伝えるようなものなのでしょうか?

 もちろん過剰な危機感を煽るべきではありません。

 しかし、過剰な危機感を煽らないために表現をやわらげ、結果として必要な危機感を薄めてしまうというのはメディアとして正しい報道の姿勢ではない、事実としての危機への適切な対応を生み出すような適切な危機感を醸成すべきだ、と私は考えます。

 さらに可能ならば、あくまでも一つの提案として、適切な対応策の提案もしていいのではないか、と考えます。


 さて、話題の一つはこうだったと思います(見たばかりなのにちょっと記憶があいまいなところもありますが、そこは素人なのでご容赦を)。

 チベットの温暖化 1) 2)
 →高原の降雨量の減少
 →高原の草の草丈の低下と減少
 →高い草丈が抑えていたナキウサギのオスとメスとの出会いが容易になり、異常繁殖
 →草の減少の加速化・砂漠化
 →さらなる温暖化
 →アジア全体の気候に大きな影響を与えているチベット高気圧が大きくなる
 →日本上空まで広がってくる
 →上にはチベット高気圧、下には太平洋高気圧と二重の高気圧のために日本は猛暑になり、集中豪雨が増えている

 もう一つは、こうだったかな?

 シベリアの温暖化 3)
 →永久凍土が溶けている+積乱雲が起こり雨が多くなっている
 →永久凍土の上側の地面が陥没する
 →そこに溶けた凍土の水と降った雨水が溜まる
 →草地だったところが湖になる+タイガ(広大な針葉樹の森)の木の根が水浸しになって枯れる
 →永久凍土の溶解が加速する
 →永久凍土に閉じ込められていた気体の約50パーセントを占めるメタンガスが空気中に放出される
 →メタンガスの温室効果は二酸化炭素の20倍にもなるので、温暖化はさらに加速される

 もう一つは琵琶湖の湖底の酸素の減少が加速しており、固有種が絶滅する危険がある、という話でした。


 ここで、私がもっとも問題にしたいのは、私たちの仲間である国立環境研究所の西岡秀三先生をコメンテーターとして迎えておきながら、発言の機会はごくわずかしか与えず、しかも「小さなことの積み重ねが大きなことになることがある」「一人ひとりが……」というコメントしかさせていないということです。

 もちろん先生としては「一人ひとりの小さなことの積み重ねも大切ですが、国の政治・経済のシステム全体が変わらなければ、根本的解決にはなりませんね」といったコメントをなさりたかったはずです 4)

 「ちょっと変だぞ」、いや「すごく変ではありませんか? NHKさん」と感じました。

 そういう姿勢はもしかしたら過剰な「政治的中立性への配慮」から来ているのでしょうか?

 そうだとして、それは政府のためのメディアではなく、国民のためのメディアの取るべき姿勢でしょうか?

 あるいは、環境問題は資源の大量使用・大量生産・大量消費・大量廃棄という経済・産業システムをそのままにしておいても、政府や産業界や市民の努力の積み重ねと環境技術の進歩でなんとかなる、と認識しておられるのでしょうか?

 それは、違うと思います 5)

 といっても私は、NHKに個人的な投書をするつもりはありません。

 もっと国民全体の世論が盛り上がって、NHK、その他のメディアの姿勢が変わるほどの影響を与えるのを待つほかない、と思っているからです。

 ご覧になったみなさんは、どうお感じですか。

 あなたの意見も世論の一部です。もし共感していただけたなら、ネットを通じて世論を盛り上げませんか?



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宇宙が怖くなくなりました

2008年07月29日 | 心の教育

 「この果てしない空間の永遠の沈黙が、わたしにはおそろしい。」

という、パスカルの有名な言葉がみごとに表現しているように、宇宙を自分と分離した向こう側にあって、やがて私を飲み込む巨大な虚無と捉えると、それは当然言い知れず怖ろしいものです。

 しかし、宇宙と自分が区別はできても分離できない一体の存在だ、と知ると、怖れは克服されます。

 次の学生の感想があまりにも典型的にパスカルと逆だったので、引用・紹介させていただきます。



 この授業を受けてから、宇宙が怖くなくなりました。

 以前は、宇宙と「私」は別だと考えていたので、無限に広がる宇宙の広さ、大きさ、歴史の長さと、「私」の命の小ささ、短さを比べて、恐ろしかったのです。

 今では「私」は宇宙と一つだ、と思えるので安心して夜空を見上げられるようになりました。

 本当に良かったと思います。



 本当によかった、と私も思います。

 期末の採点がまだ終わっておらず、今日も一日取り組んでいたのですが、こうした感想を読むと、苦労が報われる気がします。

 あと一息、暑さに負けずがんばろう!



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今日のことば 11: この世と妥協してはならない

2008年07月28日 | 生きる意味

 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことあるかを、わきまえ知るべきである。

                               (新約聖書『ローマ人への手紙』第12章2節、聖書協会訳)



 現代の日本は、ばらばらコスモロジーをベースにした競争社会です。

 そして、建前としてのヒューマニズムと民主主義がきわめて空洞化し、本音としてのニヒリズム-エゴイズム-快楽主義が社会のあらゆる部分を腐食させている社会だといっていいでしょう。

 最近多発している無差別殺人は、自他のいのちの意味を無視し、倫理をまったく無視しているという意味で、まさに「ニヒリズム犯罪」だと思われます。

 そういう社会の中に私たちの日常はあります。

 ですから、そこで日常に流される・日常に埋没するということは、そうした社会のあり方を容認する、さらには無意識で加担するという結果になります。

 それは「茹で蛙」風な社会のゆるやかだが恐るべき崩壊のプロセスを止めるどころか、促進することにさえなるでしょう。

 もしそれを望まないのならば、私たちは日常性に埋没してはいけません。

 絶えず、繰り返し、新鮮に、何が Something Great の意思か、コスモスの進化の方向か、気づきなおす必要があります。

 そして、持続的な自己成長-自己変革を遂げながら、「みんなやっている」かどうかではなく、コスモスの理に照らして善かどうか、十分・十全なことかどうかをはっきり認識し、それに沿って日々を営む努力をしていく必要があります。

 流れに抗する生き方というのは、流れに流され埋没するのに比べて、大きな苦労のある生き方です。

 しかし同時に、心の奥底(ラディックス)で Something Great と一体であるという根源的(ラディカル)な生きがい・喜びを感じることのできる生き方であることもまちがいありません。

 どうせ一回の人生、楽で空しい人生をやり過ごしてしまいたいのか?

 それとも、苦しくても完全・完成を目指して生きて、最後に「神のみもとに帰れる」と安心・納得して死にたいのか?

 こういう聖書のきびしい問いをまともに受け止めたところに形成されたのが、プロテスタンティズムの精神だといってまちがいないでしょう。

 そうしたプロテスタンティズム的精神は――もちろん原理主義的なかたちではなく、そのエッセンスが――現代の日本にぜひ必要なものなのではないでしょうか。

 プロテスタント的「神仏儒習合」の再構築といってもいいでしょう。

 学べば学ぶほど、プロテスタントの国々だった北欧が「持続可能な社会」に限りなく接近できているのは、ノルディック・デモクラシーももちろんですが、そのベースにある民族的エートスとしてのプロテスタンティズムという精神的遺産の力によるところが大きいと断定してまちがいない、と思うようになっています(その内容はおいおいさらに書いていきたいと思っていますが)。



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新左翼とは何だったのか

2008年07月27日 | 持続可能な社会

 今日本人が直面している問題の多く―特に環境問題―は、政治主導で解決するしかない、またできるものだ、というのが私たちの主張です。

 しかし、日本国民のアレルギーといってもいいくらいの政治離れ、政治嫌いはなかなか改善されないようです。

 そんな中、政治アレルギーの主な原因となった―と私が捉えている―六〇年代~―七〇年代の新左翼の過激な暴力的活動とその失敗・挫折が、いったいどういうものだったのか、かつての当事者の一人が書いた本を読みました(荒岱介『新左翼とは何だったのか』幻灯舎新書、2008年1月刊)。

 熱かった、ある部分は共感した、しかし当時から全面的には参加できないものを感じていたあの時代を思い出しました。

 そして、あの頃から今に至るまで、なぜ日本では、穏健、つまり穏やかで健全で長い目でみると明らかに有効な、北欧型(ノルディック)デモクラシーが、育つどころかほとんど注目さえされなかったのか、その理由の一端を再確認したような気がしました。

 かつて日本の若者たちの心は、心情の論理に過度に同一化していて、自己相対化のできる、ほんとうの理性・論理段階までへの成熟を遂げていなかったのではないか、と思うのです。

 しかし、事の大小にかかわらず、過去の失敗については「後悔しないで、反省する」というのが、私のモットーです。

 同世代たち、そしてもちろん自分自身の精神的成熟を願わずにはいられません。



新左翼とは何だったのか (幻冬舎新書)
荒 岱介
幻冬舎

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今日のことば 10: 悩まないで、考えよう

2008年07月26日 | メンタル・ヘルス

 一昨日の講座の後に話したことが、参考になったようなので、皆さんにもシェァさせていただきます。

 私たちは、むずかしい問題にぶつかると悩みがちです。

 しかし悩むというのは、しばしば問題を感情的に捉え、ああでもないこうでもない、どうしようと、どうどう巡りしているだけのことがあります。

 そういうふうになっている人、特に教え子には、「悩むな、考えろ」と忠告することにしています。

 「気持ちはよくわかる、本人ほどではないけどね。…でも、悩むと問題は解決するようにできてるのかな? ならば、どんなに悩んでもいいんだけど。

 悩むといい気持ちなのかな?

……だとしたら、悩むことは、役に立たない。いいことは何もない。だったら、悩まないで、考えよう。」

 「考えるには、深呼吸でもして、リラックスして、冷静さを取り戻して、この問題はどういうものか、なぜ起こったのか、どうすれば解決できるか…と順を追って、見ていけばいいんだよね。」

 「でも…」という人もいるでしょうが、出先の電車のなかなので、続きはまた後で。

 参考になりそうな人、参考にして下さい(「メンタル・ヘルスに万能薬なし」ですから)。



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今日のことば 9: 幸福な日と不幸な日

2008年07月25日 | メンタル・ヘルス

 順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。

 神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。

                   (旧約聖書『伝道の書』第七章一四節、日本聖書協会訳)



 人間の一生には、ほとんど例外なくいろいろ浮き沈みがあり、幸福な日もあれば、不幸な日もある。

 実際に浮き沈みがあるのだから、気持ちのほうも浮き沈みするのはしかたがないといえばしかたがない。

 しかし、しばしば実際よりも気持ちのほうが大げさに浮き沈みすることがあるようで、それは、どうもあまりいいとはいえないように思う。

 いい悪い以前に、あまりいい気持ちではない。
 
 もちろん、ものに感じないのはつまらない。

 だが、ふりまわされて動揺しすぎるのは、やはり苦痛である。

 それで、何かあるたびに、先に引用した言葉を思い出すことにしている。

 幸せな時にはすなおに幸せを楽しみ、苦しい時、悲しい時には、それを通して人生の深い意味を問う。

 そういう対処ができれば、いい日も悪い日もそれなりによく生きられる、と思うのだ。

 残念ながら、特別に例外的な人以外は、幸福だけでは生きられないらしい。

どうも世界は、自分の思いどおり・つごうどおりになるようにできていないらしいのだ。

 世界がそうなっていないとすると、あとはそれに対するこちらの対処のし方しかない。

 「神」という言葉がぴんと来なければ、「天」とか「自然」とか「宇宙」という言葉に置き換えてもことは同じだ。

 ともかく人生の順境・逆境のめぐりは、自分を超えていてコントロールできない。

 いくらかでもコントロールできるのは、それに対する自分の心だけだ。 

 それにしても、心のあり方しだいで、同じ事態がそうとう違って見えることも確かだ。



*これもかつて書いた小文ですが、参考にしていただけるかなと思って掲載しました。



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日本は北欧より安全・安心な国?

2008年07月24日 | 持続可能な社会

 最近、筆者は、北欧福祉国家 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8) と日本人の精神的荒廃 9) 10) について書くことが多かったので、あらゆる点で「北欧はいい、日本はダメ」と比較して劣等感を感じる、「自虐」的な話をしていると誤解されるかもしれませんので、このあたりで日本のいいところを一つ。

 いくつかの犯罪率の国際統計を見ると、世界の中でも日本はかなり犯罪率の低い、そういう意味ではまだまだ安全な国です。

 最近の信じられないような無差別の通り魔事件などの報道に接すると、「日本は最悪」といった感じになる方が多いようなので、ここであえて、「確かにかつてに比べると相当に荒廃してきているが、犯罪に関してはまだ北欧より安心・安全な国である」ということも指摘しておきたいと思います。

 「社会実情データ図録」というサイトの「犯罪率の国際比較(OECD諸国)」のグラフを以下に引用します。





 記事によれば、「日本の犯罪率は、2000年に15.2%と先進国中最低である(英国は各地域毎に調査されており、北アイルランドだけは日本より犯罪率が低い)。ただし、1989年の8.5%から急増しており、犯罪の増加が目立っている。」とのことです。

 繰り返すと、「先進国中最低」ということは、上のグラフからも明らかなように、犯罪に限れば日本は北欧諸国よりもまだまだ「安心・安全な国」だということです(実感されているとおり、残念ながら福祉についてはまったく安心・安全ではありません)。

 これは、日本人が聖徳太子以来追求し、とりわけ天下泰平の江戸時代にかなりの完成に到った「和の国日本」の遺産だと思います。

 それは、とても和を重んじ、もめごとを嫌い、真面目で正直に暮らしてきた日本人の無意識的な文化的心性――ほとんどの人が「そんなこと当たり前」と思ってきたこと、マックス・ウェーバーのいう「エートス」――によるものであり、それを培ってきたのは「神仏儒習合」のコスモロジーだ、というのが私の推測です。

 しかし、集合無意識・民族的無意識に精神的遺産として遺されていたエートスを日本人は、明治以降、とりわけ敗戦以降、無自覚に軽視し、忘れ去ろうとしているように思えます(かなりやむをえない事情があったことは繰り返し書いてきたとおりです)。

 そうしたエートスによって犯罪の少ない社会が維持されているにもかかわらず、そのエートスをしっかりと相続して、さらに増収を図る・拡大深化させるどころか、意味を理解できないまま捨て去ろうとしているのは、いわば「親不孝者の遺産の食い潰し」です。

 ここのところ頻発している「ニヒリズム犯罪」とでもいうべき犯罪などは、このまま行けば、まさに日本の精神的倒産・破産が間近だという兆候だと思ってまちがいないでしょう。

 倒産・破産をしたくなかったら、無自覚・無責任に食い潰すのではなく、遺産を自覚的に相続して、それを有効運用して、さらなる本格的増収を図るほかありません。

 せっかく膨大な遺産があるのですから、相続して、さらに増収・増益を図りましょう、日本国民のみなさん!

 私の公開授業には、日本の精神的遺産を意識的に相続しようという呼びかけという意図もあることは、常連読者のみなさんにはおわかりいただいているとおりです。

 ぜひ、ご感想、ご意見をお寄せ下さい。




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パウロ式ストレス・コントロール

2008年07月23日 | メンタル・ヘルス

 以下は、私が厄年の頃に書いた小文です。過去の原稿データ保存用のCDを開いていて、ふと思い出し、このままでも、みなさんの参考になるのではないかと思い、掲載することにしました。



 若い頃にはあまりピンとこなかった言葉が、ある年齢になって、いろいろな体験をすると、とても心に響くようになることがある。

 「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」(新約聖書『ローマ人への手紙』5・3-5、日本聖書協会訳による)

といった言葉がわかるようになろうとは思ってもみなかったが、この頃、繰り返し暗唱する。つまり、早い話が、いつのまにか、ストレスの多い年代にさしかかってきたということなのだ。

 「患難」という言葉はやや大げさにしても、生きているといろいろストレスの溜るようなことがある。ぐだぐだとグチを言いたくなったり、叫びたくなったり、泣きたくなったり、さらには、「蒸発」したくなったり、「出社拒否」や「帰宅拒否」にさえなりそうになる。若い頃は鼻の先でせせら笑っていた「厄年」が実感される年齢になった。

 そんな時に、この聖書の一句を思い出すのである。

 なぜパウロという人は、「患難をも喜んでいる」と言えたのだったか。そうとうな痩せ我慢をしているのか。もちろん、そうではないと、神学生時代にそれなりの神学的説明は学んだはずである。
 しかし今、自分が「患難」を「ストレス」と読み換えるような状況に置かれて、なんとかまいらないでがんばろうとしていると、そういう説明と少し違った、自分の体験を重ねた読み方をしたくなる。

 考えてみると、この患難→忍耐→練達→希望というつながり方は、じつによくできていると思う。

 患難は、ふつう患難→失望・絶望というふうにつながるものだ。それはふつうの人間の心のほとんど「自然」とか「必然」とかいってもいいほどのつながり方である。(現時点でのコメント:これは論理療法的にいえば全然自然でも必然でもなく非論理的なのですが)

 ところが、パウロは、患難→希望とつなげる。これは、「逆転の発想」といってもいい。あるいは、「積極的思考(ポジティヴ・シンキング)」ということもできる。常識とはいささか違った考え方である。

 しかし、よく見ると、決して安うけあいの気安めを言っているのではない。患難と希望のつながりの間に、きちんと忍耐と練達が入っているのだ。

 ストレスは、それに対する姿勢しだいで、人間的成長のきっかけに転換しうる。

 ただ、「忍耐」という言葉にはやはりやや無理のある痩せ我慢ふうのニュアンスが感じられるが、「逃げないで、リラックスしてポジティヴに対処する」とでも読み換えれば、もっと納得がいく。

 ストレスを、ただただ嫌なピンチと捉えず、逃げないでリラックスしながらポジティヴに直面し、人間成長のチャンスに変えてしまおう、「厄年は成熟の年齢への第一歩」と考えることにしよう、と自分を励ますヒント 1) 2) を「知っている」のは、やはり有難いことだ。

 「希望は失望に終ることはない」とパウロ先生も保証しているから、がんばってみよう。(現時点でのコメント:今振り返ると確かにこの頃の苦労が私を精神的に成熟させてくれたなあ、と感じています。)



 *こういうストレス・コントロールの方法をさらに体系化したものとして「論理療法」というのがあることを、後で知りました。英知というものは、時代にかかわらずほぼおなじことになるのは、当然といえば当然ですね。

 ところで、私の『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』(NHK生活人新書)がおかげさまで発売1ヶ月で重版になりました。有難うございました。
 まだ読んでいない方、よかったら読んでみて下さい。きっとストレス・コントロールのヒントになると思います。

 ストレスがなければ、論理療法を学ぶこともなく、したがってこの本を書くこともなく、ストレスを抱えている人のお役に立てることもなく、さらに印税をもらえることもなく……終わりよければ、すべてよし……まだ私の人生は終わっていませんが。



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この夏、北極の氷が消滅する?

2008年07月22日 | 持続可能な社会

 去年の7月から大本山永平寺の『傘松』という雑誌に「環境問題と心の成長」というタイトルで2年間の連載をしているのですが、昨日の夜、2年目に入った13回目の原稿のために、北極の氷の状態についてネット検索してみて、改めて「うーむ、こんなに進んでいるのか」と驚きました。

 「衛星画像&データ 地球が見える」というサイトの去年9月28日の記事には、「北極の海をおおう氷は、今年過去に例のない速度で減少を続け、最小面積の記録を更新し続けてきましたが……今年2007年9月24日に記録された425.5万平方キロメートルが衛星の観測史上最小面積の記録となりました。以前最小面積を記録した2005年……に比べ日本列島約2・8個分の氷が消失したことになります」とありました。

 ところが、今年6月28日のCNNのニュースでは、「地球温暖化の影響で北極の氷は今年の夏、9月までに消滅する可能性が非常に高いと、米国の研究者が警告した。……米国立雪氷データセンターの研究者マーク・セリーズ博士によると……数年前までは、夏に北極の氷が消滅するのは2050年から2100年ごろと考えられていた。最近ではこの予測が2030年ごろと見直されたが、現実にはこれを上回る速度で氷が減少していると指摘している。……現在の状況が続けば、北極から氷が消滅することは避けられないという」とのことです。

 つまり北極の氷は、去年は「観測史上最少」で、今年は「消滅」つまりゼロ、これ以下はないという「観測史上最少」になるかもしれないのです。

 「一事が万事」ということばがありますが、この一事を見ただけでも、地球全体としての環境問題がどのくらい緊急事態にあるか想像できるはずだと思うのですが、洞爺湖サミットで議長国日本を含め世界22カ国の首脳は、緊急事態にふさわしい緊急行動をする合意・決断をしたとは見えません。「待ったなし」と口では言いながら、行動は「待った・先延ばし」です。

 なぜ緊急対応ができないんでしょう?

 先進国の首脳からは、環境問題の深刻さに関する発言のニュアンスの差はあっても、「経済成長を制限しても環境問題に取り組むべきだ」という発言は聞こえてきません。

 そして新興諸国の首脳も、「先進国並みの経済成長をすることは自分たちの権利だ。環境問題は先に起こした責任のある先進国が取り組むべきだ」と主張するのみで、「我が国の経済成長をある程度制限してでも環境問題に取り組みたい」という発言は私の知るかぎりでは皆無だったようです。

 それは、先進か新興かを問わず、リーダーたちが、経済成長という「国益」は譲れないものだ、つまり「国益優先」という価値観を強く抱いているからではないでしょうか。

 「国益に反しない範囲で環境問題にも取り組む」というのが、彼らの基本姿勢のようです。

 特にG8首脳に関していえば、環境の危機、とりわけ気候変動・温暖化に関する警告を発している代表的な組織IPCCが訳せば「気候変動に関する政府間パネル」であるように、政府関連の公式機関がデータを提示しているのですから、各国の政府首脳である人々は、情報がない・知らない、だから緊急度を認識できていない、だから緊急対応ができない、ということではありえません。

 そうではなく、データが提供されてもそれを読み取る心が、経済成長という国益は絶対にゆずれないという価値観で枠付けられているため、さらには賢く振舞えば環境が許容する範囲の経済成長は可能だという英知を得ていないために、自分たちの価値観や思い込みに反するデータは、たとえ目にしても、十分理解しないでスクリーニングしてしまうのだと思われます。

 わかりやすくいえば、「人は事実であっても見たくないものは見ようとしないものだ」ということです。

 しかし私たちは、大きな方向性はすでに確認しているので、ちゃんと見て、適切な行動をしていきましょう。

 まず第一歩は、「オピニオンを共有する大きな潮流を創り出すこと!」




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今日のことば 8: それでもコスモスは進化する

2008年07月21日 | 生きる意味






 ……150億年にもわたってたゆみなく働き、まごうかたなき驚異を産み続けてきた進化が、突然、終結し、終焉するということは、果たして考えうることだろうか。

               (ケン・ウィルバー/松永太郎訳『進化の構造1』春秋社、322頁)




 私が提唱しているコスモス・セラピーには、『進化の構造』(邦訳は1、2巻に分かれています)という大著でウィルバーが提示した宇宙150億年(2002年以降、137億年ということになりましたが)の歴史の見取り図――いわば「ウィルバー・コスモロジー」――の普及版という面があります。

 上に引用した一文は、その膨大な内容が現代世界のきわめて困難な状況に対してもっている意味をもっとも簡潔に表現していると思います。

 個人にとって、日本にとって、人類にとって「どんなに困難なことが起ころうとも 1)、それはすべての終焉ではない。それでもコスモスは進化する」という膨大な根拠に基づいて語られた一言は、大きなスケールの根源的希望を語っています。

 それでも進化するコスモスの進化の流れに参加(コミット)することが、人生の意味実現 2) 3) 4) の正道であり、もっとも近道なのだ、と思います。



*画像はm101銀河


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「この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか」

2008年07月20日 | 心の教育

 M大の授業名は「仏教心理論」ですが、意図があって、前期は現代科学の話を主にして仏教の話はほとんどしません。その意図を理解してもらえているかどうかを確かめるために、今回のレポートの課題は「仏教心理論なのに、なぜ現代科学の話をしたか?」としました。

 ポイントをとてもよく摑んでいるレポート(☆A評価)の1つを紹介します(2年生女子)。



 現代の日本人の中には自信がなかったり、生きる気力がなかったり、孤独を感じたりしている人が少なくない。
では、私たちが自信もてたり、生きることをすてきに感じられたりするにはどうしたらいいのか。

 答えの一つに仏教を学ぶことである。日本人の心の中心、価値観の元にあるのは仏教である。今ではなかなか口にされなくなったが、親が子どもを叱るときに言う「悪いことをすると罰が当たる」というのも仏教的な考えの一つである。
 私たち現代人は身近でなくなりつつあるある仏教をもう一度理解することで上記に述べた問題を徐々に解決していくことができる。

 仏教では命の大切さを学ぶことができ、またつながりコスモロジーと重なる。

 つながりコスモロジーとは現代科学での宇宙論である。現代科学では、私たちはもともと一つの宇宙と一体で、その一部であり、その進化のプロセスである、と言われている。
 宇宙は137億年ほどの歴史をもつが、そのうち人間が出現してきたのはごく僅かな時間でしかない。しかし、私たち人間は137億年という歳月によって生み出されたものであることにかわりはなく、またこれからのモノに影響を与えていくモノでもあるのだ。私達の体には宇宙137億年の歴史が入っている。

 このように考えて遡っていくと、私たち人間は皆親戚であり家族であり、星の子であるのだ。したがって誰一人として孤独な人は居ないことになる。
 また、生きていてもつまらないから、と自分の生命を粗末に扱う人が居るかもしれないが、それは間違っている。自分が今までの宇宙の137億年の歴史の結晶であることを忘れてはいけない。
 宇宙から託された命や潜在能力を100パーセント結実し、自分と宇宙は一体と気がつく必要がある。

 これ以外に自信がない、という問題があるが、そもそもの理由は今の社会の風潮にある。
 現代は常に社会の中で他人と比較される。そのため、自分より優れている人を見れば見るほど自分を惨めに感じ、ますます自信がなくなっていく。
 確かに社会の中では比較されることはあるが、家の中でまで、しかも自分自身で自分を他人と比較する必要はあるだろうか。比較のしすぎである。私たちには宇宙の歴史から生まれた様々な能力が備わっている。例えば体力や視力、聴力、歩行能力、会話能カ…などである。これでも自分には全く能力がなく、自信がない、と言えるだろうか。

 これらのように現代科学から私たちは生きる活力を得ることができるのだ。そしてそれが仏教心理にもつながってくる。

 最近良くないニュースが多い。しかも若者の犯罪が多く、悪質である。その犯罪者達が、自分と他人は親戚であり、誰一人として孤独な人は居らず、みんな何かしらの能力をもっているのだ、と知ったら何人の人が思いとどまるだろう。

 つながりコスモロジーの考え方を日本中にまずは広める必要がある。


  感想

 この授業の最初の頃に近代科学の話から、ニヒリズムについて話している時があった。私はその話を聞いて、自分は完全にニヒリズムだと思った。
 自分の人生は自分のためにあると思っていたし、なんだかんだ言って、いつも自分のことばかりを気にしている自分を前々から少し気にしていたからだ。自分がニヒリズムであることが単純にショックだった。きっと認めたくない自分が居たのだと思う。
 それから一気に授業に望む気持ちが変わった。

 初め先生が「私はみんなを親戚と思っている」と言ったとき上手く言っていることが自分の中に入ってこなかったし、どちらかと言えば拒否したくなった。
 しかし、後の宇宙の歴史、つながりコスモロジー、現代科学の話を聞いていく中で徐々に自分の中に入ってきて、いつの間にか自分のものになっていた。だから「みんな星の子なのだ」と言われたときは、うん、うん、とうなずけた。

 また、先週(7月10日)の授業で実際に体を動かしながら自己を認識する授業を受けて、生きることの本当の意味を知った。感動することができるのは人間だけで、とてもすばらしいことだと再認識した。

 それから、特に印象に残っている部分は、社会の中では比較されても、家の中でまで比較する必要はない、というところだ。この部分に強く同意する。例えば学校や会社での成績を比較され落ち込む人が出てきて、その人が家の中でもずっとそのことを考え続けていたならば、きっとその人は死にたくなったり、自分に意味を感じられなくなったりすると思う。自分自身で自分の能力を見つけることはとても大切なのだ。

 今まで自分は周りの人のことを親戚とは全く考えなかったし、自分の行動が次にどう他人に影響するのかもあまり考えなかった。しかし今は反対だ。

 振り返って思う、自分の考え方を良い方向に変える授業は小、中、高、大学通してなかった。この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか、と私は思う。



 こうしたレポートに対して、「4ヶ月授業を受けたくらいで、『人生が大きく異なってくる』なんてことがあるのか。一時の感動にすぎないのではないか」、あるいは「いい点をもらうために教師を喜ばせるようなことを書いているにすぎないのではないか」といった疑いをもたれる読者もいるでしょう。

 確かに「わかった→感動した→忘れた」という、持続・定着性の問題があることはまちがいありませんが、それに対する対策はすでに少し書きました 1)(詳しいことはまた後日書きたいと思っています) 。

 また実際、「いい点をもらうため」という面の感じられるレポートもあります。しかし、授業時の顔を直接見ていれば、ほんとうに感動しているかどうかはかなり確実に確認できると思います。さすがに、顔まで感動の演技はしていないと思うのですが、どうでしょう。

 それより何より、私の授業を受けた学生たちの中から、「持続可能な国づくりの会」という具体的・建設的な社会行動を起こしている若者が何人も出ていることが、一つの授業効果の証明だと思っています 2)

 レポートの学生も「つながりコスモロジーの考え方を日本中にまずは広める必要がある」といっていますし、もっと積極的に「発信者になる必要がある」といっている学生もいます。

 しかし問題は、「振り返って思う、自分の考え方を良い方向に変える授業は小、中、高、大学通してなかった」ということです。

 「この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか、と私は思う」というのが、この学生だけの特殊意見、または紹介している学生たちの少数意見にすぎないのならともかく、もっと一般性のある意見だとしたら、教育関係者のみなさんに、ぜひ検討していただきたいと思うのです。

 ぜひ、読者のコメントをお寄せください。




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「私は生きます! 私は変わります。」

2008年07月19日 | 心の教育

 一昨日、M大の最後の授業で、これで夏休みです。

 先週、「これからは出席にカウントしないから、ワークをしたい人だけ来て下さい」というと、試験期間中で準備が大変らしく、それでも出てくる学生は30人くらいになりました。

 その分しっかりとワークができました。

 先週、今週に分けて提出された150通ほどのレポートは、今日で読み終えました。

 読み終えて、「今年もやっぱり頑張って教えてよかったなあ」としみじみ思いました。

 今日は、2年生の女子学生のものを一つだけご紹介します(公表することは予め承諾を得ています)。



 〔授業の要約部分省略〕……先生が授業でおっしゃっていた、「人間は水素と炭素と酸素とちっ素と少しの何か」でできていると聴いたときは、正直言って、「人間を原子つまりモノのように言っているなんて……」と否定的な気持ちになってしまいましたが、私たちが生きている世界、また宇宙も原子からできていて、私たちは「星の子」と聴いたときは、胸から何かがこみ上げてきました。

 宇宙カレンダーを見たときは、人間は、自然の力でできたのだなと思い、いのちのでかさを感じさせられました。

 仏教も、いのちの大切さを教えてくれるけど、私は正直言って、現代科学の説明をして下さった先生の授業のほうが現実的で、よりいのちの大切さを学ぶことができました。

 ニヒリズムの塊であった私を先生はハンマーで砕いてくれました。現代科学は、仏教では説明しきれない、いのちの大切さを教えられる気がしました。
 だから、先生は仏教心理論なのに現代科学の話をしたのではないかと私は思いました。

 また、私は過去または今でもたまに自殺したいと思ってしまう時があります。それは、高校の時少しいじめられたことや、所詮、人間は、エゴイズムでしかない。そういう考えからです。

 でも、私が今、こうして元気に生きていられるのは、お母さん、お父さん、ご先祖様、そして、宇宙の歴史なのです。私のつらさなんか、米粒くらいのことでしょう。ご先祖様たちが今までつらいこともあった中で、子孫に継いでいた中の1人が私なのです。良く言えば、私は宇宙の歴史の中の代表者なのです。これは、今生きている人間全員に言えることです。

 こんな大切ないのちを捨てるわけにはいきません。私は生きます!……ありがとうございました。

 私は変わります。



 「ニヒリズムの塊であった私を先生はハンマーで砕いてくれました」とは、なんとみごとな表現でしょう。

 「そうか、そんな感じだったんだね。ニヒリズムが砕けて、よかった、よかった」と拍手してあげたい気持ちです。

 「こんな大切ないのちを捨てるわけにはいきません。私は生きます!……ありがとうございました。/私は変わります。」とは、すばらしい決心です。

 私の授業を「生きる」「変わる」という決心のきっかけにしてもらえて、ほんとうに本望です。

 今後も少しずつご紹介していきますが、こうした感想をもらうたびに、日本の教師のみなさんに、ぜひコスモス・セラピー=コスモロジー教育を学んでいただきたい!と思うのです。




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宗教と無神論の対立はすでに終わっている?

2008年07月18日 | 心の教育

 「宗教と無神論の対立はすでに終わっている?」


 16日(水)、O大学チャペルアワー(礼拝)での講話の原稿です。


  聖書 : ヨハネの手紙一 4・12

 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです。


 今日参加している学生諸君の多くは、特定の宗教を信じていないのではないかと思います。別の言い方でいうと「無宗教」「無神論」なのではないでしょうか。そして、たぶんそれが正しい考え方であり、それは自分で決めた自分の考え方だと思っていると思います。

 私は、今日、それに対してちょっと疑問を投げかけたいと思っています。

 それは、必ずしもこの大学がキリスト教大学で、この場がチャペルアワーで、諸君にキリスト教に共感を持たせようとか、ましてキリスト教を布教しようという意図から来ているわけではありません。

 私は、「信教の自由・思想の自由」ということをとても尊重していますので、もし諸君がほんとうに自分でよく学んで、よく考えたうえで、ほんとうの意味で自分で決めた結論が「無神論」なのならば、それでいいと思っています。

 しかし、よく学んで、あるいは調べて、よく考え・検討して、ほんとうの意味で自分で決めたのかどうか、そこが問題なのです。

 戦後の日本では、公教育の基本的な考え方は合理・科学主義ですから、はっきり言う言わないは別にして、神話的で迷信的で古い宗教は信じないほうが近代人として正しい、無神論のほうが理性的に正しいのだという教育がなされてきています。
 もしかすると、そういう教育でいつの間にかそう思わされて―思ってきたのではないでしょうか 1) 2)

 確かに、キリスト教も含む伝統的宗教には、前近代的・神話的側面もあります。「神」というコンセプトについていうと、「空の上のほうにいる、輝くような白い衣を着て白い長い髯で厳かな声の超能力のお爺さん」というイメージは神話的です。

 「神を信じる」というと、どこかにそういう超能力のお爺さんがいると信じ込むことだと思っている人が、キリスト教の内部にも外部にたくさんいるようです。

 そしてそういうのが「神」だとすると、それは科学的・合理的には存在することが証明できないどころか、存在しないことが証明できてしまいます。

 例えば、地球は丸いことが、もう宇宙船からの写真でまで証明されていますから、空の上は一方向ではありません。地球のあらゆる場所に空の上がありますから、そうすると神さまの居場所もあらゆる方向になければならず、神さまもあらゆる方向にいなければならないことになり、そうすると、一人・単数の神さまではありえなくなります。

 そもそも、白い髯の超能力者としての神は、望遠鏡でも顕微鏡でも、その他どんな観測機器でも観測することができません。目には見えないのだとしても、例えば赤外線写真やソナー(音波探知機)などのようなその他の方法で存在を確認することができるかというと、それも不可能でしょう。

 科学的に観察・実証できないものは存在しないと考えるのが科学的・理性的だ、というふうに教わりましたね(そういう考え方はむしろ「科学主義的・理性主義的」というべきだと思いますが)。
 したがって、科学的・理性的な教育を受けた人間が、科学的・理性的に「神は存在しない」と思う、つまり無神論になるのは当然ですし、そういう科学的無神論と神話的な宗教が対立するのも当然ということになります。

 しかし、私は、キリスト教の語っている「神」は、かつてはそうした神話的イメージで語られることが多かったにしても、本質的にはそういうものではない、と考えています。
 そのことを非常にはっきり示しているのが、今日の聖書の箇所です。

 ここでは、はっきりと「いまだかつて神を見た者はいません」と、神は観察・観測・実証できないと主張されています。その点に関しては、ある意味で近代の科学合理主義・無神論とまったく同じ前提に立っているといってもいいでしょう。

 しかし、この文書の著者とされるヨハネは、「だから、存在しない」という結論を導き出してもいません。
 といって、これまでキリスト教も含む多くの宗教のように、「見えない・実証できないからこそ、信じるのだ」とも主張していないことに注意してください。

 「イワシの頭も信心から」ということわざがよく示しているように、ほんとうは「イワシの頭」にすぎないかもしれないが、信じ込めばそれが輝いて見えてきてご利益をもたらすことがある、というのが宗教だと考えられがちです。
 「いるかいないかわからないし、いるという証拠はないが、いると信じれば安心できる」というのが信仰だという考え方です。

 しかしヨハネは、まるで角度のちがったことを言っていると思います。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです」というのです。
 つまり、「人間同士が愛し合うことのなかに神が存在する」というのです。

 キリスト教では従来しばしば「神は愛なり」と言われてきましたが、「愛は神なり」と言い換えることもできると思います。

 それぞれの人間は、同じく人間という性質をもち、生き物という性質ももち、同じ地球の空気を吸っており、同じ地球の水を飲んでおり、同じ地球の他の生命である植物や動物を食べさてもらって生きており、その地球は同じ一つの太陽系という惑星システムのなかにあり、太陽系は同じ一つの天の川銀河に他の星々と共に存在しており、天の川銀河は同じ一つの宇宙に存在しています。

 おおきくまとめて言ってしまえばおのおのの人間は同じ一つの宇宙という全体のそれぞれ部分であるというのは、誰も否定することのできない事実ではないでしょうか 3)

 そこに、私たち人間の連帯・愛の可能性も必然性もある、ということができると思います。

 同じ一つの全体の一部同士・部分であることに気づくと、対立し、憎み合い、殺し合う、戦争をするといったことが、いかに宇宙の事実と理にかなわない愚かなことかがわかってきます。
 同じ全体の部分同士ならば、認め合う、協力し合う、助け合う、連帯する、愛し合うことが事実に対応した自然なことであることがわかってきます。

 そうした宇宙の事実と理に目覚めることこそほんとうの「信仰」だ、と私は捉えています。
 そして、そうした目覚めとしての信仰からは、自然・必然的に人間同士の連帯・愛し合うということ生まれてきます。

 逆に言えば、人間同士が連帯・愛し合った時に、そこに宇宙の事実と理が明らかに顕れてくるのです。
 そのことを、ヨハネは、「神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです」ということばで、つまり神という全体的・超越的な存在が私たち人間の中に存在する、その本質である愛が私たち人間によって実現・完成されていくという事実を表現したのだ、と考えていいでしょう。

 こういう理解の仕方においては、「観察・実証できないものは存在しない」という意味での無神論と、「輝く超能力のお爺さん」の存在を根拠不明のまま信じ込むという意味での宗教との対立は超えられています。
 言い方を変えると、「観察・実証できないものを信じ込むことはしない」という無神論の妥当な面と、私たち人間を超えた宇宙的な全体・「Something Great・大いなるなにものか」に目覚めるという意味での宗教の本質が統合されていると思われます。

 この聖書の文書は、おそらく二世紀ころに書かれていますから、そういう意味でいうと千八百年以上も前に、本質的には宗教と無神論の対立はすでに終わっていた、といってもいいと思います。

 しかし、残念ながらキリスト教の歴史を見ると、長い間、神話的な神のコンセプトにこだわってきて、近代では科学と対立するという状態が、まだ十分に克服されておらず、聖書のこうした箇所のような神の理解の仕方がキリスト教の世界全体に行き渡っているとはいえません。

 けれども私は、こうした神の理解の仕方こそ、キリスト教のエッセンスであり、それは現代の無神論・無宗教が正しい・いいと思っている諸君にも、ちょっと考え直してみるに価するものだと思っているのですが、どうでしょうか。ぜひ、考えてみて下さい。



*O大学は、チャペルアワーでこうした話をすることができるような「開かれた(=原理主義的ではない)」キリスト教主義大学です。



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今日のことば 7: 宇宙は一つの生きもの

2008年07月17日 | メンタル・ヘルス

 宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。

 またいかにすべてが宇宙のただ一つの感性に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮かべよ。

                  (マルクス・アウレーリウス『自省録』第四章40)


 これは古代ローマの哲人皇帝のことばですが、まるで現代の「生命宇宙論」のようであり、もっと古代のインド、ゴータマ・ブッダの語った「縁起の理法」1) 2) 3) のようでもあります。

 ここでもアウレーリウスは、「絶えず思いをひそめよ」、「つねに心に思い浮かべよ」と自らに言い聞かせています。

 禅の師である秋月龍先生が、しばしば「正念相続(しょうねんそうぞく、正しい気づきを持続すること)」ということをいわれていたことを思い出しました。

 確かにそうしないと、私たちはすべて分別知で営まれている日常生活の膨大な情報の流れに埋没・沈没してしまいます 4) 5) 6)




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