般若経典のエッセンスを語る4

2020年09月30日 | 仏教・宗教

 筆者は、テーラーヴァーダ仏教も含めすべての原理主義は現代には不適切だと考えているが、本題に戻ろう。

 大乗仏教は、「ゴータマ・ブッダがほんとうに言いたかったことはこれだ。むしろ私たちのこの考え方のほうが正しいのだ」と主張し、般若経典を紀元一世紀ごろから数世紀にわたって拡大していった。

 それから少し短いものが書かれ、さらに最終段階でダイジェスト版的に『般若心経』ができている。

 日本では『般若心経』は非常によく知られており、さらにやや長めの『金剛般若経』も割に知られているが、より長い『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)や、さらにさまざまな般若経典の集大成である『大般若経』(玄奘訳)はあまり知られていないのではないだろうか。

 般若経典群の歴史的・文献的なことについてより詳しくは、コンパクトに論じているものに梶山雄一『般若経――空の世界』(中公新書)があり、さらに詳しいものとしては小峰彌彦・勝崎裕彦・渡辺章吾『般若経大全』(春秋社)があるので、関心のある方は参照していただきたい。

 本稿では、主に『摩訶般若波羅蜜経』と『大般若経』によって、「般若経典」の思想としてのエッセンスを必要最小限の分量で述べることにしたい。

 

  伝光明皇后筆大般若経

 

 特に『大般若経』は六百巻に及ぶ膨大なもので、すべてを読み通すのは困難だといわれてきたが、筆者は、初期の大乗仏教思想の全体像を理解したいという強い動機があったためにかなり時間をかけて読み通した。

 その結果、もちろん誰もがその全体を読むことは困難だし必要ないけれども、少なくともエッセンスについては、いわば「日本の精神遺産」として、多くの一般の読者にお伝えし共有していただく価値がある、むしろ必要があると感じたのである。

 そこで、まず自分の主宰する研究所で講義を行ない、ボランティアの方に文字起こしをしていただき、さらに徹底的な推敲を加えたものが本稿である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

般若経典のエッセンスを語る3

2020年09月29日 | 仏教・宗教

 古代インド人は「何年何月に何があった」ということにはほとんど無関心な民族だった。時が永遠に巡り果てしなく輪廻が続くといった時間感覚があり、したがって何年何月に何かあっても同じようなことが巡るわけであるから、いちいちそのことを記しておく必要はないという感じが強かったのだろうか、歴史的記録が非常に少ない。

 そのため、わずかに残っている記録などをどう解釈するかで、古代インドの歴史的な事柄の年号は百年くらいすぐに前後してしまう。

 それに対して、中国は古代から「何年何月何日に何があった」という意味での歴史にうるさく、非常に早い時期から歴史書が残っている。

 そういう意味で、中国人とインド人は精神文化・精神構造が非常に違うといわれている。

 ともかくインドはそういう国で、大乗仏教の主張が最初に書かれたのが般若経典のいちばん初期のものであるから、そのもっとも初期の般若経典が書かれた頃が大乗仏教の興った時期だと考えられ、いろいろな資料を照らし合わせて、百年くらいの幅で紀元一世紀前後だろうと推測されている。

 大乗仏教がそれ以前の仏教を「それは小乗だ」と批判し「我々は大乗だ」と主張した際のいちばん大きな強調点は、「単に覚りだけではなくて慈悲がなくてはならない」ということにあった。

 もちろんゴータマ・ブッダの教えの基本も智慧と慈悲だが、以後の仏教がどちらかというと智慧のほうに、しかも専門家として出家した人が覚り・智慧を得るところに強く焦点を当てていた。

 それに対して「自分も他者も一緒に覚り救われていく、そういう大きな乗り物としての仏教こそがほんとうの仏教なのだ。これこそがゴータマ・ブッダがほんとうに言いたかったことなのだ」と主張し、ブッダの名前を借りて般若経典が書かれている。

 そのように、ゴータマ・ブッダが説いたことになっているが歴史的にはそうではないので、今日的には偽作であり著作権法違反とも言えるが、古代のインド人にはそうした意識はなく、「自分たちが理解したこの仏教こそが、ブッダがほんとうに言いたかったことであるはずだ。したがってブッダが語ったことにしてかまわない」というのが古代インドの文献に対する考え方である。

 それに対して現代人が現代人の感覚で「文献的に、歴史的なゴータマ・ブッダが書いたものではないではないか」と批判してもあまり意味がない、と筆者は考えている。

 しかし、二十の部派仏教の中で唯一現代まで残り東南アジアに広がった「上座部・テーラーヴァーダ」の僧は、「大乗仏教はゴータマ・ブッダが説いたものではない。我々のほうこそほんとうのブッダ直伝の仏教であって、大乗仏教はほんとうの仏教ではない」と主張することが多いようである。

 最近は、テーラーヴァーダの僧でも、チベット仏教などの他派の仏教や他の宗教も学ぶうちに、自分たちだけが唯一絶対に正しいというのは狭い考えだと考えるようになった人もいるようだが、まだ原理主義的な人が多いのではないかと思われる。

 

*本稿の元になった講義「般若経典のエッセンスを学ぶ」のDVD、CDがあります。ご希望の方はHPをご覧ください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

般若経典のエッセンスを語る2

2020年09月28日 | 仏教・宗教

 予備知識としてまず般若経典群が書かれるまでの仏教史をごく大まかに見ることから始めよう(予備知識のある読者は飛ばしていただいてもかまわない)。

 歴史学的に研究されてきたゴータマ・ブッダ自身の仏教を、仏教学上は「原始仏教」と呼ぶ。続いて、ブッダが亡くなった後、弟子たちが引き継いだ仏教を、それと区別して「初期仏教」と呼ぶことがある。

 さらにその後、ブッダの死後百年くらい経って、ブッダが言い遺した戒律の解釈の違いによって、まず大きく二つに分裂する。これを「根本分裂」という。

 基本的には、弟子たちの席順で上のほうにいたので「上座部(じょうざぶ)」と呼ばれる人々と、数が多かったので「大衆部(だいじゅぶ)」と呼ばれる人々の二つの派に分かれる。ちなみに現代語の「大衆」はここから来ている。

 以後、仏教はさらに教義の解釈の違いなどによっていくつもの派に分かれ、自分たちを「~部」と呼んだので、「部派仏教(ぶはぶっきょう)」といい、西暦紀元前後頃には二十くらいの部派に分かれていただろうと言われる。これを「枝末分裂(しまつぶんれつ)」という。

 部派は二十ほどに分かれたとはいっても、基本的にはすべて専門の僧すなわち出家のための仏教で、ふつうの社会生活から離れて戒律を守り、仏典の勉強をし、瞑想・坐禅をするということだけで暮らせる、専門の僧侶でなければ覚りが開けない・救われないというものだったという。

 信徒たちは、僧から教えを受けたりお布施・寄付をしたりすることの功徳で、次の世界・来世でいい所に生まれ変わることができ、最善の場合、人間界の上の天界に生まれ変わることができるけれども、その先の覚りには到達できないことになっていた。

 仏教の神話的な世界観では、迷いの世界の六種類を「六道(ろくどう)」といい、下から言うと、まず最低最悪で苦しみばかりの地獄(じごく)、続いて何をしても満足できない餓鬼(がき)、食欲と性欲のことしか考えられない畜生(ちくしょう)、絶えず争っている阿修羅(あしゅら)、その上が人間界である。さらに上にはきわめて幸福で長寿の天界がある。しかし天界の寿命は長いといっても限界があり、やがて下の段階に転落し輪廻することになっている。

 そして、六道の上に、輪廻することのない覚りの世界が四種類あり、六道と合わせて十の世界で「十界(じゅっかい)」という。まず、ブッダの教えの声を聞いて覚った人々、つまり弟子たちの世界があり、「声聞(しょうもん)」という。その上に「独覚(どっかく)」ないし「縁覚(えんがく)」の世界がある。すなわち、縁起の理法はブッダが説いても説かなくてもあるものであるから、自らその縁起の理法を覚ることがあるとされ、独りで覚るという意味で「独覚」、縁起を覚るという意味で「縁覚」と呼ばれる。大乗仏教では、さらにその上に「菩薩(ぼさつ)」の世界があり、いちばん上に「仏」の世界がある。これで「十界」である。

 紀元一世紀前後、それ以前の部派仏教に対し、出家をして戒律を守り禅定し仏典の勉強をすることができる僧侶しか救われない・覚れないというのは、「自分しか乗れない小さな乗り物だ」と批判し、それに対して、「我々はみんなで救われ覚ることのできる大きな乗り物だ」と主張する仏教の派が現われたといわれる。

 

*本稿の元になった講義「般若経典のエッセンスを学ぶ」のDVD、CDがあります。ご希望の方はHPをご覧ください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

般若経典のエッセンスを語る1

2020年09月27日 | 仏教・宗教

 今、久しぶりの次の著書として、タイトル(仮)のような原稿をまとめつつあります。

 出版不況、特に人文書・思想書の不況の中で、引き受けてくれる出版社があるかどうか、まだわからないのですが、まずネット上に公開して、読者の反応を見させていただき、それから出版を検討するという方法を採って成功している著者の方もおられるようなので、筆者も試みることにしました。

もしいいと感じたら、コメントなど何らかのかたちでお知らせいただけると幸いです。

(なお、出版が決まりましたら、記事を削除することになりますので、予めご了承ください。)

 では、以下、まず第一回目の原稿です。 

 

  仏教の歴史と「般若経典」

 

 般若経典は、大乗仏教の思想が最初に表現された経典である。したがって、大乗仏教を理解するには、他のどの経典よりもまず般若経典を理解する必要があるのではないだろうか。

 そして、飛鳥時代から江戸時代まで、日本に伝来した仏教はすべて大乗仏教であった。つまり、日本の仏教は大乗仏教なのである。最近は東南アジアに伝わったテーラーヴァーダ仏教やチベット仏教も伝わってきているが、伝統的な「日本仏教」が大乗仏教であることは変わらない。

 したがって、日本人が自らの精神的な伝統の中核にあった大乗仏教を理解するには、やはりまず般若経典を理解する必要がある、と筆者は思うのである。

 本書の目的は、日本人が自らの伝統である日本仏教を理解し、自らのアイデンティティを確立または再確立するための基礎として、般若経典―大乗仏教の思想のエッセンスを紹介することである。

 古代インドにおいて紀元一世紀前後以降、それまでの部派仏教(いわゆる「小乗仏教」)を含んで超えることを目指した大乗仏教が興り、最初の大乗経典である般若経典が創作された。

 といっても『○○般若経』と呼ばれるものは一種類ではなく、きわめて多数書かれていて、学問的にはまとめて「般若経典群」と呼ばれる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月23日〜講座『正法眼蔵』「諸悪莫作」を学ぶ

2020年09月21日 | 仏教・宗教

高松】水曜講座「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間 続」

 9月23日 10月14日 11月18日 12月16日 (4回)

 講義の前にイス瞑想を行ない、『正法眼蔵』他、道元禅師の著作を学び味わいます。悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になるでしょう。

時間:19時半―20時50分

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼

▼参加費:一般=一万円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=8千円、学生=4千円

▼会場:サンポートホール高松64会議室

 

 先日の講座案内では、『正法眼蔵』のどの巻を取り上げるがお知らせしていませんでしたので、改めてお知らせします。

 今回から「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻を学んでいきます。

 言うまでもないようですが、そこには以下のような驚くべく深い言葉が語られています(現代語意訳)。

 できるだけわかりやすくほぐして、お伝えしたいと思っています。

 

 善悪はその時々に現象するが、時そのものは善でも悪でもない。善悪は〔個々の〕存在となっているが、存在〔そのもの〕は善でも悪でもない。存在は悪とも一体であり、存在は善とも一体なのである。……

 この諸悪を作ることなかれというのは、凡夫が初めて造り出して、そうしたものではない。覚りが説かれた教えを聞いてみると、そのように聞こえるのである。そのように聞こえるのは、無上の覚りの言葉であるのを言い表わしたものである。すでに覚りの言葉であり、それ故に語られた覚りなのである。無上の覚りが説かれて〔それが〕聞き取られていくことで転換され、諸悪莫作と願い、諸悪莫作と行なっていく。諸悪がすでになされないようになっていくところに、修行の力がたちまちに実現するのである。この実現は、全大地、全世界、全時間、全仏法を広がりとして実現するのであり、その広がりは莫作という広がりなのである。

 まさにその時、まさにその人は、諸悪のなされるような所に住んで往来し、諸悪のなされるにちがいないような機縁に遭い、諸悪をなす友と交わるようなことがあったとしても、諸悪は決してなされないのである。莫作の力量が実現しているからである。

 

●問合せ・申込みはHPの問合せのフォームからどうぞ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする