持続可能な国づくりの会・連続公開講座1

2008年11月30日 | 持続可能な社会

 私も運営委員をしている「持続可能な国づくりの会」の連続講座です。


 演題:「日本のビジョン――GDP志向とHPI志向を超えて――」

 日時: 1月18日(日)13時~17時

 講師:小澤徳太郎氏  環境スペシャリスト
           元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー

 場所: 横浜市スポーツ医科学センター 大会議室
    日産スタジアム内 新横浜・小机駅から徒歩15分
    http://www.yspc.or.jp/ysmc/access.htm

 受講費:会員 ¥1,000 、一般 ¥1,500

 昨今の異常気象や各種報道により地球温暖化、環境の問題が益々深刻化していることが肌身で感じられるようになってきました。
 また、社会格差や年金問題に加え、米国発の金融危機に始まる経済問題が、
私たちの生活の安定を脅かしています。

 そのような中、さらなる経済成長により現在の危機を脱しようとする声が高まっています。
 もちろん、環境や福祉の問題も大事だけれどGDP成長が何より重要だというのが
多くの人々の本音ではないかと推察します。

 また、HPI指数(幸福な惑星指数)という新たな指標によって、経済だけではない総合的な人間の幸福度を測る試みもなされています。
 しかし、高度に工業化された日本において、HPI幸福度ランキングの上位に
位置する国々の生活は、日本の新たなビジョンとするには大変困難と考えます。

 しかし、北欧の国スウェーデンでは、福祉と環境に配慮しながらも経済成長を続けるというバランスを保っています。
 21世紀の日本のビジョンを考えるにあたり、スウェーデンはとても貴重なモデルとなるのではないでしょうか。

 そこで、我々は、環境問題スペシャリスト、元スウェーデン大使館科学技術部環境保護オブザーバー小澤徳太郎氏を講師に迎え、GDP志向、HPI志向を超えた21世紀の日本のビジョンを皆さんと共有したいと考えてします。

 お忙しい中とは思いますが、どうぞご参加ください。


  ◆持続可能な国づくりの会<緑と福祉の国・日本>
  ◇事務局長 松原 弘和 
  
  ◆ mail : jimukyoku@jizokukanou.jp
  ◇ H.P. : http://jizokukanou.jp/default.aspx
 ◆ Blog : http://blog.goo.ne.jp/greenwelfarestate

 
 講座参加のお申込はこちらから→http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P5485478


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持続可能な社会に向かう思想と政治

2008年11月26日 | 持続可能な社会

 以下は、11月8日に行なわれた茨城大学と東洋大学共催のセミナーで発表した原稿に若干の訂正を加えたものです(26日、文献の追加等再増補を加えました)。

 ブログ記事としては長いのですが、今、このテーマに関して私が読者のみなさんにお伝えしたいことの要点がうまく書けていると思いますので、ネット公開することにしました。

 ぜひ、共感や生産的な批判の声をお寄せ下さい。



 「国家の持続可能性」ランキング第1位の国:スウェーデン

 国際自然保護連合(国連から始まり現在独立機関)の2001年「国家の持続可能性ランキング」(180カ国)によれば、1位にランクされているのはスウェーデンです(ドイツ12位、日本24位、米国27位)。OECD30カ国の「持続可能性ランキング」でも、2004年、2007年と1位にランクされています。

 それらのランキングをとりあえず信用するとすれば、私たちが「環境問題」とその具体的・実際的な解決について考え取り組んでいく上で、スウェーデン――その思想と政治――はもっとも参考にされるべきだといえるでしょう。

 実は、「〔エコロジカルに〕持続可能な社会」というコンセプト自体、北欧発です。なかでもスウェーデン政府‐社会民主党は、すでに1968年頃、前首相エランデルと首相パルメらの首脳陣が環境問題の重要性を認識しており、世界に呼びかけて、1972年、ストックホルムで「第一回国連人間環境会議」を開催しています。

 これは、ちょうど日本では田中角栄首相が「日本列島改造論」をぶち上げていた年です。環境に関するスウェーデンと日本の意識の違いには驚くばかりです。

 スウェーデン政府は、すでに高いレベルで実現した福祉国家を超え、さらに80年代後半からきわめて意識的に「〔エコロジカルに〕持続可能な社会」の模索を開始し、96年には25年計画で「緑の福祉国家」を建設するというビジョンを掲げました。

 国際自然保護連合の評価では、第1位のスウェーデンでさえまだ完全に「持続可能」にはなっていないということですが、環境問題スペシャリストでスウェーデンの環境政策に詳しい小澤徳太郎氏によれば、そのビジョンは着実に実行されつつあり、このまま行けば2010年から20年までの間には、少なくとも一国単位では「持続可能な国家」を確立しているだろうとのことです。

 そこまで福祉と環境を重視する政策をとって財政・経済に支障はないのかと疑問を感じる方もあるでしょうが、例えば2006年「世界競争力ランキング」(世界経済フォーラム・ダボス会議)では3位です(6位米国、7位日本、8位ドイツ)。

 理想化するつもりはありませんが、経済・財政と福祉と環境のみごとなバランスのとれた国家形成が政府主導で実際に行なわれつつある、と見てまちがいないようです。

 持続可能な国づくりを可能にしたもの

 そして、それを可能にしたのは、風土・自然環境とプロテスタント・キリスト教によって培われた国民性と、その近代化・非宗教化されたものとしての社会民主主義‐ヒューマニズムによる「自立と連帯」の思想だと思われます。

 ヨーロッパ北辺の厳しい風土――特に厳しい冬の寒さ――の中にあって、それぞれの人間が他に依存せず自分のことは自分で責任をもってやるという「自立」と、同時に必要な時には徹底的に助け合うという「連帯」なしには、私たちは生き延びることができなかった、とスウェーデンの人々は言っています。

 また、スウェーデンは、10世紀頃までヴァイキングの国であり、北欧神話に表現されたような民俗宗教を信じる国でしたが、12世紀頃からキリスト教(カトリック)が伝えられ、次第に受容していきます。そして、1520年頃、政治的事情も関わって指導者たちがルター派のプロテスタント・キリスト教に改宗します。

 「自立と連帯」なしには生き延びることができないという風土的条件に加えて、思想的に「連帯」するべき絶対的根拠を与えたのがキリスト教の「愛」という概念だったと考えられます。

 例えば、新約聖書「コリント人への第一の手紙」には、きわめて明確に

 「実際、からだは一つの肢体だけでなく、多くのものからできている。…もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだが耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。…目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろからだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストの体であり、ひとりびとりはその肢体である。」

といった思想が存在しています。

 「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ」という精神を制度化するとすれば当然、協力社会・福祉国家になるでしょう。先の聖書の個所のような教えが国民性を育み、そうした精神を指導者が誠実に・本気で受け止めたら、福祉国家を形成せざるをえないだろうということは、ほとんどなんの解説もなくおわかりいただけるのではないでしょうか。

 そしてキリスト教の「愛」の精神が非宗教化されて社会主義の「共同体・連帯」という思想に到ることも自然な流れとして納得できます。

 とりわけプロテスタントになってからは、国民一人一人が繰り返しルターの『小教理問答書』を読み、さらに直接に聖書を読むことを要求されましたから――聖書を読めないと結婚できないので若者がみな必死で字を覚えたことが識字率を高め、高度な知識の必要な近代的労働者を育んだといわれています――当然、そうした聖書の思想に直接触れることになります。

 ルターの『キリスト者の自由』に有名な以下のような言葉があります。「キリスト者は全ての人の上に立つ自由な主人であって何人にも服従しない。キリスト者は全ての人に仕える僕であって何人にも服従する。」これもまた、前半は「自立」、後半は「連帯」を促す思想であることは明らかです。

 社会民主主義と「緑の福祉国家」

 スウェーデンでは近代、社会の主導的な精神は非宗教化されプロテスタントから社会民主主義・ヒューマニズムへと移行したわけですが、底流を流れているのはほとんどおなじと言ってもいい、人間同士を一つの共同体(からだ)のメンバー(肢体)と捉える基本感覚・「暖かい心」です。

 もっとも直接的には、社会民主労働党の初期の政治家であり1932年から46年まで首相を務めたペール・アルビン・ハンソンの「国家は国民の大きな家でなければならない」という思想が、福祉国家形成の基盤になっています。

 これはきわめて重要なことなので指摘しておくと、ソ連型・マルクス主義的な社会主義と社会民主主義はいくつかの重要な点で異なっています。

 マルクス主義的な社会主義では、政治は暴力革命を経たプロレタリア政党すなわち共産党による一党独裁が正しいとされます。

 それに対し社会民主主義は、暴力革命を否定し、多数政党による議会制民主主義の選挙の結果としての政権担当を目指します。
 スウェーデンでは、社会民主労働党が長期政権を維持してきましたが、一党独裁ではなく選挙によるものであり、先般の選挙では選挙によって政権交代が行なわれました。

 さらに、マルクス主義的な社会主義国家の経済システムは、実態はともかく原則としては国家による中央統制経済(生産手段の国有化、計画経済)であり、私企業の存在や自由主義的な競争経済は認められていません。

 それに対し、社会民主主義の国家では、私企業の存在、自由主義的な競争経済が相当程度公認されています。

 こうした相違は、たまたまではなく「主義=思想」としての違いです。

 かつてのソ連・東欧と異なり、「社会民主主義」の国スウェーデンは「民主主義のもっとも成熟した国」と評されるように、言論や政治活動の自由度のきわめて高い国です。
 また自由主義的な競争経済を許容していて、経済効率もきわめて高いようです(順調な国内経済、高い国際競争力など)。
 これらは、北欧全体に言えることのようです。

 ただし、もちろん政府の介入をできるだけ避けて競争-市場原理に任せようとするいわゆる「新自由主義」経済ではありません。政府の立法や予算措置等による経済活動の規制や誘導は、相当に強く行なわれています。自由な経済活動が結果として大きな社会的不平等を生み出すことのないように、政府が相当に介入するのです。

 北欧型社会民主主義のソ連型社会主義との基本的違いの一つは、社会の分野のうち、経済は限りなく自由主義的(競争原理)に、その他の分野では限りなく社会主義的(協力原理)にという基本方針にあります。
 そして、一定程度競争原理を導入することによって経済を活性化し、活性化した経済によって税収・財政を確立し高度な福祉を可能にする財源を確保してきたのです。
 これは結果として見れば、非常にすぐれた「大人の知恵」だったと評することができるでしょう。

 スウェーデン社会民主労働党の政府は、財界に対して完全雇用を要求することによって労働者の支持を得、自由主義的な経済を許容することによって財界との妥協・協力関係を形成し、労働者と財界との妥協・協力によって経済を活性化し、活性化された経済によって福祉を保障してきました。そうした国民全体の妥協・協力による信頼関係が、環境に関しても合意形成を容易にしているのだと言われています。

 スウェーデンでは、社会民主主義・ヒューマニズム・人間尊重の思想があったからこそ、「福祉国家」というビジョンが生み出され実現され、さらにその発展としての「緑の福祉国家」というビジョンも生み出され、実行されつつあると言ってまちがいないでしょう。

 あえてわかりやすく言えば、「社会民主主義なくして福祉国家なし」、「福祉国家なくして緑の福祉国家なし」 ということです。

 しばしば指摘・批判されるのと異なって、北欧では、ヒューマニズム・人間尊重の思想は人間中心主義に陥ることなく、むしろ人間の健全な生活つまり福祉の基盤として健全な環境が必須であることが科学的・エコロジー的に明らかになると、本格的にエコロジカルに持続可能な社会に取り組む動因となりえています。

 それに対し、「新自由主義」的な資本主義は、私企業が政府の介入なしに自由に利益を追求することを求めるものです。
 しかし、経済的利益の無制限な追求は、資源の大量使用―大量生産-大量消費による経済成長を目指さざるを得ず、結果として資源の枯渇と大量廃棄をもたらし、環境の悪化をもたらさざるをえないという点で、もはや持続不可能だ、と思われます。
 近代の産業経済システムとりわけ自由主義的資本主義は、もともと入口・資源の有限性と出口・地球の自己浄化能力の有限性という、2つの根本的な限界を抱えていたといえるでしょう。

 もう一方ソ連型社会主義も、独裁のもたらす不自由さと経済的な非効率性という点で、もはや今後の世界の選択肢ではありえない、と思われます。

 そういう意味で、第三の道、スウェーデン-北欧型社会民主主義こそ、経済・財政と福祉と環境のバランスを可能にし「持続可能な社会」を実現する上で実際的な有効性のある思想的・政治的選択肢ではないか、と私は考えています。

 それは、たんなるイデオロギーの問題ではなく、「持続可能な社会」を実現できる政治・経済体制は何かという意味での「理念」・「ビジョン」・「政治経済思想」の選択の問題なのだ、と思うのです。

 その他の要因

 さらに補足すると、スウェーデンが国を挙げて経済最優先ではなく「経済と福祉と環境のバランス」によって「緑の福祉国家」に向かうという国民的・全社会的合意を形成する上で、ヴァイキング時代以来、北欧の人々が持ち続けている自然に対する深い畏敬と愛着の思い――「自然神秘主義」と呼ぶこともできるような価値観――が、それを容易にする大きなファクターになっていることも指摘しておくべきでしょう。

 また社会民主労働党のごく初期から自然科学者や社会科学者と政治家のコミュニケーションがきわめてよかった――例えば初代党首のブランティングは天文学専攻であり、ストックホルム学派経済学のウィグフォシュやミュルダールが社民党政権の経済政策担当者だったなど――という点も、ごくスムースに科学者の環境の危機への警告を政治家が真剣に受け止めて経済や福祉とのバランスを考えながら政策を立案することを可能にしていると言えるでしょう。

 以上述べたような理由で、今、私たち日本人が「持続可能な社会」を目指す上で、スウェーデンの思想と政治から学ぶべきものはきわめて大きい、と私は考えています。



 参考文献(著者の50音順)

I・アンデション/J・ヴェイブル/潮見憲三郎『スウェーデンの歴史』文真堂
石原俊時『市民社会と労働者文化――スウェーデン福祉国家の社会的起源』木鐸社、1996
石原俊時他『もう一つの選択肢――社会民主主義の苦渋の歴史』平凡社、1995
岡沢憲芙『スウェーデンは、いま――フロンティア国家の実像』早稲田大学出版会、1987
    『スウェーデン現代政治』東京大学出版会、1988
    『おんなたちのスウェーデン――機会均等社会の横顔』日本放送出版協会、1994
    『スウェーデンを検証する』早稲田大学出版会、1996
    『スウェーデンの挑戦』岩波新書、1991
岡沢憲芙他編『スウェーデンの経済――福祉国家の政治経済学』早稲田大学出版会、1994
      『スウェーデンの政治――デモクラシーの実験室』早稲田大学出版会、1994
尾崎和彦『北欧思想の水脈――単独者・福祉・信仰―知論争』世界書院、1994
 〃  『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学』東海大学出版会、2002
小澤徳太郎『いま、環境・エネルギー問題を考える――現実主義の国スウェーデンをとおして』ダイヤモンド社、1992
     『21世紀も人間は動物である――持続可能な社会への挑戦 日本VSスウェーデン』新評論、1996
     『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』朝日新聞社、2006
訓覇法子『スウェーデン人はいま幸せか』日本放送協会、1991
生活経済政策研究所編『ヨーロッパ社会民主主義論集(Ⅳ) スウェーデン社会民主党党綱領 他』生活経済政策研究所、2002
竹崎孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』あけび書房、1999
   『スウェーデンはなぜ少子国家にならなかったのか』あけび書房、2002
藤井威『スウェーデン・スペシャル』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、新評論、2002
I・ヘルリッツ/今福仁『スウェーデン人 我々は、いかにまた、なぜ』新評論、2005
宮本太郎『福祉国家という戦略――スウェーデン・モデルの政治経済学』法律文化社、1999
百瀬宏『北欧現代史』山川出版社、1980


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スウェーデンは小さな国だからできた?

2008年11月19日 | 持続可能な社会

 スウェーデンの話をすると、しばしば出てくる言葉に「スウェーデンは小さい国だからできたので、日本の参考にはならない」というのがあります。

 しかし、昨日の記事を読んで下さった方にはもうおわかりのとおり、スケールの問題ではなく、なによりも社会システムの問題であり、優れたシステムを創り出すことのできたスウェーデンの指導者の質-英知の問題であり、そういう優れた指導者を生み出すことのできたスウェーデンの優れた国民性の問題なのです。

 まだ「エコロジカルに持続可能な社会」にはほど遠いところにいる私たち日本人にとって、今、一つの大きな問題・課題であるのは、いかにして優れた国民性と優れた指導者を育むかということです。

 日本の伝統精神である「神仏儒習合」とその中核である仏教、そして神仏儒習合の精神による「和の国・日本」の創造を呼びかけた聖徳太子「十七条憲法」〔の再発見〕が、その基本的な教材になる、と私は考えています。

 しかし日本人全体が、それらの意味を再発見するにはまだまだ時間がかかりそうです。

 またしかし、授業を通して大学生たちに伝えていると、意外に早いかもしれないという期待も湧いてきます。

 どちらにせよ、これからも根気強く伝える仕事を続けていくつもりです。乞御支援!

 今日はこれから「持続可能な国づくりの会」の学習会に行ってきます。


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講話:けっしてくじけない心

2008年11月13日 | メンタル・ヘルス

 先日、大学の授業が終わって教室から出たら、廊下で前に授業を取っていた学生に会い、「二日に一度くらいはブログを見ています」と言ってもらいました。

 「今年の後期はとても忙しくてなかなか更新できなくて、失礼」と言い訳しながら、できれば忙しさに負けずがんばって更新したほうがいいな、と若干の反省をしました。

 そこで、少し前に書いた記事と重なるのですが、それをネタに先日O大学のチャペル・アワーで話した時の原稿を掲載することにしました。

 参考になればうれしいのですが。

            *       *

 今、日本も世界もなかなか厳しい時代になってきています。そこで、ぜひ必要なのは「けっしてくじけない心」だと思います。

 私は、集中講義も合わせると4つの大学で教えています。つまり、みなさんと同世代の若者とたくさんつきあっているのですが、個人的に話していてよく聞くのは、「落ち込む」「へこむ」「折れる」といった言葉です。

 あまり一般化しすぎないほうがいいのですが、傾向としていえば世代が若くなるほど、心理学用語でいうと「ストレス耐性」が低いように感じられます。

 しかし、これから残念ながら状況はますます厳しくなっていくかもしれませんから、ぜひストレスに耐えることのできる心の力を今からつけておいてほしいと思い、今日は、そのヒントになりそうな聖書の言葉を選びました。


 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

 途方にくれても行き詰まらない。

 迫害に会っても見捨てられない。

 倒されても滅びない。

 いつもイエスの死をこの身に負うている。

 それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 これは、キリスト教の大使徒パウロがコリントの信徒たちに送った手紙の中にある言葉ですが、読んでみると、彼がどんなことがあってもくじけない強い心をもっていたことがわかるのではないでしょうか。

 では、彼が実際にどのくらい厳しい・きつい体験をしてきているのか、同じ「コリント人への第二の手紙」の23節以下でより具体的に語っています。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……

 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 これを読むと並たいていの苦労ではないことがわかりますね。

 しかしパウロは、それでもけっしてくじけなかったのです。「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。 倒されても滅びない」というのは、単なる強がりではありません。これは、ほんとうにすごいことですね。

 なぜ彼はこんなに強い心をもつことができたのでしょう。それをくわしく知るためには新約聖書の中のパウロが書いたとされる手紙をすべてしっかりと学ぶ必要があるということになりますが、今日は短い時間ですから、大切なポイントだけ学んでおきましょう。

 それは、この言葉の次にある「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである」という言葉が示していると思われます。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志・使命のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 現代日本人の多くが、「人生は自分のため、自分が楽しむため、自分が幸福になるためにある」と強く思い込んでいるようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。

 もしそうだとしたら、自分が楽しくなくなったり、幸福でなくなったりしたら、もう人生には意味がないということになります。そうなると、生きていてもしかたない、死にたいということになるでしょう。実際、少しつまらなかったり、きつい、つらいことがあったりすると、すぐ死にたくなる人、自殺願望を持つ人、実際に自殺をしてしまう人が多いようです。

 「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」という人生観は、一般的にいうととても当然のように思えますが、実はとてもストレス耐性の低い人生観なのです。

 もちろん、今楽しむことができ、幸福なのに、わざわざ苦しんだり、不幸になったりしなければならないなどとは、私も思っていません。できるのなら、悪いことをするのでなければ楽しむことはいいことですし、幸福を素直に喜べばいいと思います。

 しかし残念ながら、世界は私のためにあるわけでも私を中心に回っているわけでもありませんから、人生にはなぜか、どうしても苦しいことがやってきたり、不幸になったりすることがあるのです。

 そういう時にもくじけないためには、予めどんな人生観を持っておくといいでしょうか。「楽しくなくても幸福でなくても、それでも人生には生きる理由がある」という人生観を持っていると、当然ながら、苦しくても不幸でもしっかりと生き抜くことができます。そういう人生観はとてもストレス耐性が高いのです。

 「命」という漢字を考えてみましょう。これは「命令」の「命」です。それが示しているように、「命」には、原点・出発点からして、自分が生まれたくて生まれたのではなく、生まれさせられた、いわば「生きるように命令された」という面があるのではないでしょうか。

 また、それに関連して「使命」という言葉があります。「使わされた命令」とも読めますが、もうひとつ「命を使う」と読むこともできます。つまり、この言葉には、生きるということは「命を使うこと」であり、命を使うことは「使命を果すこと」でもある、という深い意味が秘められているのではないかと思います。

 それから、「使命」に似た「天命」という言葉もあります。命はまさに天から生きるようにと命じられて与えられたものです。そしてその命をどう使うか、天から命令が与えられている、というのが命の本質なのではないか、と私は思うのです。

 つまり、誰でも生まれてきた以上、天というか、大自然というか、宇宙というか、神というか、サムシング・グレイトというか、言葉はともかく、自分を超えた大きな何かから与えられた、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・私にできる仕事があるはずだ、と思います。

 そして大学とは、条件がいいとか。自分が好きとか、自分に向いているとかではなく、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・ほんとうの意味で私にできる仕事が何かを発見するための準備期間なのではないでしょうか。

 そしてもちろん、イエスは自分の使命のために生きて死んだ代表的な存在の一人です。私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 新約聖書の最初のほうにある4つの福音書を読むと、それは、原理主義的なキリスト教のようにイエスを唯一絶対のキリストと信じても信じなくても、まちがいなく言えることだと思います。

 使命を自分が心から受け止めると、それは「志」ということになります。私たちが、自分がこの世に生まれてきた理由・使命を発見・自覚して、それを自分の志にしたら、人生でどんなことがあっても簡単にくじけたりすることはなくなります。人生は楽しみや幸福のためにあるのではなく、重大で困難な使命・志を果すためにあるのですから、困難・苦しみがあって当然ということになります。

 志に生きて、そして死んだ人を自分のモデル・理想にして、特にその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 自分の人生・生きることだけではなく、生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、大いなるなにものかの意思は貫徹されるから、あるいは宇宙は進化し続けるからと言ってもいいでしょう。

 大いなる何かによって命を預けられた、そしてその命を使って使命を果すことにこそ命の意味・人生の意味がある、という人生観を獲得すると、どんなことがあってもけっしてくじけない強い心を持つことができる、きわめてストレス耐性の高いパーソナリティを形成することができると思います。

 これから厳しくなるかもしれない時代にあって、そういう人生観を持ったほうがいいか、それともやっぱり「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」と思っているほうがいいか、どちらが、ほんとうに自分の人生のためになるか、せっかくキリスト教主義大学に来たのですから、いちどちゃんと考えてみる価値はあるのではないでしょうか。


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