般若経典のエッセンスを語る56――初心の菩薩とよき師

2024年06月20日 | 仏教・宗教

 さて、もう少し先に行って区切りにしたいと思う。

 菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を行ずる時、但だ諸法実相を知る。諸法実相とは無垢無浄なり。是の如く須菩提、菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、当に是知を作すべし、名字は仮の施設なりと。

 つまりさきほど学んだように、「私が」「修行する」とか「私が」「智慧を求める」というのではなく、そうしたことをぜんぶ忘れてしまうという修行の仕方をする。そのときに世界のすべての存在のほんとうの姿がわかってくる。すると、もう完全に一体なので、きれいとかきれいではないなどということを完全に超えてしまう、と。

 特定の価値観に基づいての、きれいとかきれいではないとか、善とか悪とかということを超えてしまうと、世界の姿つまり「諸法」が実にすばらしいものとして見えてくるというのが「諸法実相」という意味である。だから「諸法は空相」なのであるが、世界はすべてが空だとわかると、かえってすべての存在のすばらしさが見えてくる。それを「諸法実相」と表現する。

 だから菩薩・摩訶薩は、すべては空だとわかることによって、かえってすべてがすばらしいということがわかるようになる。そのすべてがすばらしいとわかったことに基づいて、この世をますますすばらしくしようというのが、「仏国土を浄める」ということになって来るわけである。

 繰り返すと、もうこの世はこのままでもすべてすばらしい、諸法実相なのだとわかる。しかし諸法実相というのは固定的なものではないのである。今の姿がありのままでオーケーだという場合、私たちは「ありのまま」ということを固定的に考えるがちだが、ありのままそのものが無常で変化していくものであるから、諸法実相は固定的なものではなくて無常なもの・変化するものである。

 そしてそれをますますすばらしいものにしていく、変化をいい変化にする、しかも宇宙の法則・縁起の理法にかなったかたちに世界の現象をすばらしく変化させていくというのが、菩薩の慈悲の行為・願ということである。

 菩薩・摩訶薩の「摩訶薩・大きな人」とは、どこまで大きいかというと、宇宙と一体化していて宇宙大に大きいから「摩訶薩・大士」という。

 菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行じ、諸法に於て見る所無し。是時、驚かず、畏れず、怖かず、心亦没せず悔いず。

 菩薩・大士が、無分別知つまりバラバラの存在を見ないという修行をすると、バラバラの存在などというものはないのだと覚る。そして、世界をそういうふうに見たからといって、驚いたり、恐れおののいたりしない。

 「ええ? 世界や私は実体ではないのか。実体などどこにもないのか。何かすがる絶対的なものが欲しかったのに、何もないのか」と思ってしまい、恐れたり、おののいたり、心が沈んでうつ状態になったり、「なぜこんな世界に生まれてきたのだ。生まれないほうがよかった」と悔いたり、といったことを菩薩はしないという。

 ところが初心の人は、こういうことを聞いたら、よくわからなくて畏れ、驚き、おののき、心が没したりする。

 そういうことではないのだとちゃんと教えてくれるよき師、ほんものの菩薩・摩訶薩を先生としなければ、空という思想は虚無主義に聞こえかねない。それから如というほうを強調しすぎると、スケールが大きすぎてついていけないと思ったりする。
だからよき師について、「この空というのは虚無でもなんでも全然なくて、それどころか全存在がありのままで、あるいはなるがままに肯定されているということなのだよ」とちゃんと教わる。

 それから「そんなに大きい話、こんなちっぽけな私にはついていけない」というのに対して、「あなたがついていけるかどうかじゃない。あなたの存在そのものが宇宙と一体なので、ついていくもいかないもないのだよ。ついていかなくてもいい。もう生きていれば宇宙と一体なのだから。あなたに必要なのは、宇宙と一体化することではなくて、宇宙と一体化しているのだということに気がつくだけだから」と。そういうことを、いい人について教わる。

 気がつくということは、スケールが大きいか小さいかには関係ない。目を閉じていたら見えないというのは、スケールには関係がない。目を開けたら見えるのである。
例えば大空は広い。しかし、心のスケールが広くても狭くても、目を開ければ誰でもその広い空が見えてしまう。

 それと同じで、「私と宇宙が一体だ」というのは事実だから、「私は、そこまで覚れるほど人間が大きくない」といったことを思う必要はない。もともとあなたの存在そのものが宇宙と一体なのであるから、「もう好きでもいやでも一体なのだ」ということをちゃんと教えてくれる先生につくと、これはスケールの大きすぎる話でもなければ、あまりにも個別性を超えていて虚しくなってしまう話でもないということが教われる。

 今、なかなかそういうよき師には出会いにくいかもしれないが、『摩訶般若波羅蜜経』のある個所に、「まさにこれ(『摩訶般若波羅蜜経』)が存在することが、仏が存在することだ」という言葉がある。『摩訶般若波羅蜜経』は即それがブッダなのだ、私たちが読めば、もう生けるブッダに語っていただいたのと同じことを読み取れるのだ、と。

 そのはずなのだが、残念ながら書き下しであっても漢訳は、慣れていない現代日本人は解説してもらう必要がある。
 幸い、全貌ではないが般若経典の重要なところは完全な現代語訳がある。しかし、現代語訳を読み解説を受けても、そこをちゃんとわかっている人に解説してもらわないと、やはり「何かすごく高尚で深そうだけれど、私にはわからない」ということで終わってしまうので、とてももったいないと筆者は思ってきた。

 私としてはとりあえず・かなりわかったつもりなので、私が般若経典のエッセンスだと思うところを、「私には大きすぎる話でとても」とか「え、私と思っているものは実体じゃないの?」といってへこんだりしないかたちでみなさんにお伝えしたいと思い、「般若経典のエッセンスを読む」という講座を開設し、それを元に原稿化しているというわけである。

 約半分が終わり、次回からは、般若経典は-大乗において最も中心的で有名な「空」とはどういうことなのか、テキストそのものにはどう書いてあるか、それをどう説明・解説できるかということを学んでいく。

 『摩訶般若波羅蜜経』の中には、「空とはこういうことだ」とかなり長く書いてある箇所があるのだが、読んだだけではわからないと思われるので、解説をしながら「空とはこういうことだ」と理解を共有していきたい。

 ただ、理解することは入り口に過ぎない。理解したことから覚るというところまで行くには、理解し納得して、本気で禅定をし、六波羅蜜を行なう必要がある。そうすると、やがてたとえわずかでも覚りが起こる、というプロセスになっていく。そういうことを、以下また続けて学んでいきたいと思う。

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般若経典のエッセンスを語る55――すべてはつながり・合わさってできている

2024年06月01日 | 仏教・宗教

 さて、次を見ていこう。くどいくらい繰り返し「言葉や単語を使ってものを見るから実体と思えるのだが、よく見るとそうではない」ということが語られている。

 須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。

 個別的存在としての「私」という単語がある。「私」という単語があると、その単語で私を実体視するようになる。
 この私の心身は現象としてはある。しかし、赤ん坊は、そういう心身の現象を「私」とは思っていないように見える。
 そういう赤ん坊に対して、母親が繰り返し「~ちゃん、~ちゃん」と固有名詞で呼びかける。呼びかけ・声かけを続けていると、やがて赤ん坊は「~ちゃん」と言われたら反応し始める。つまり「~ちゃんがいる」と思い始めるのである。
 そして次は、代名詞である「私」とか「あなた」とかという言葉を学習していき、するとやがて「~ちゃん」の他に「アタチ」などの言葉を使うようになる。

 例えば親との縁で生まれてきて、食べ物との縁や水との縁などいろいろなものとの縁のおかげつまり「和合の故に」、私という現象・私が生きているという現象があるのだが、それを「私」という名前で呼ぶと、実体としての私がいるような気がしてくるのである。

 ところが、この「我(が)」という名前そのものは実体的に存在しておらず、ただ仮にこの世間では他のもの(者、物)と区別をするために「私」や「あなた」と呼ぶのだ、と。
 それが区別にとどまっている間はいいのだが、「私」「あなた」と繰り返しているとそれに伴って「私とあなたは分離している」という錯覚が生まれてしまう。
 つまり、言葉というものは、それがければものごとの区別がつかないので必要なのだが、同時に分離意識をももたらすものである。

 とはいっても、世界の中には名詞と動詞が分節していないという不思議な言語が少数あるという。あえてそれを日本語で表現すると、名詞と動詞で「私が/話す」ではなくて、例えば「話している私」「私が話している」ということが一つの言葉・一つのまとまりで表現されるそうである。

 特にアイヌ語がかなりそうらしい。そして、アイヌの人たちは他者や自然との一体感・つながり感の非常に強い民族である。それは彼らの言葉自体が、大和言葉のように「誰が」「何をして」と分節しない傾向があるからだと言えるのではないだろうか。

 しかし大和言葉もかなり曖昧で、例えば「行く?」とか言ったら、主語がなくてもわかる。「行く?」「行く」と言ったら、主語なしに「あなたは行きますか?」「私は行きます」という意味で通じてしまう。英語では必ず主語述語が必要であるが、日本語は時々主語がなくても話が通じてしまう。そういう意味では分離感が西洋語よりは曖昧な言葉であるが、もっと分離感のない言葉が世界の中に少しあるようである。

 先に言ったようにアイヌ語がそうらしく、アイヌの方たちに会う機会があって確かめたら、やはりそうだとのことで、アイヌ語で話しているときと日本語で話しているときとでは、かなり自然や自分についての感覚が違うとのことだった。 

 それは、ともかく、私たち人間はいちおうものごとに区別をつけて社会生活を営むため、つまり世間の実用的な目的のために言葉を使って区別をしたのだと思われる。ところが、こうして区別したことが無意識の中にすべてしっかりと溜まってしまい、そういういわば分離意識のシステムであるすべてを見るというふうになってしまっている。

 それに対して、いろいろな言葉を挙げていきながら、「これは仮に世間的な約束事で、言葉でそう呼んでいるけれども、あくまでも和合・つながりによってすべての事柄が起こっているのであって、それは実体ではない」ということを縷々何頁にもわたって述べているのが、この「三仮品第七」という個所である。

 それから、次は締めのような言葉である。

 譬へば夢、響、影、幻、燄、仏の化する所の如き皆是れ和合の故に有り、但だ名字を以て説くのみ

 例えば夢が実体でないことは明らかである。非常によくわかるのは響きである。響きは関係の中で響き・音となっている。また影は光と何かとの関係できる。幻もそういう実体がないけれども現われている。炎は熱と燃料の関係で現われているわけである。それから仏が現象として現われるのが「化する」ということである。
 これらはいずれも、いろいろなものが組み合わさりつながって、つまり和合して形を現しているだけで、それ自体で存在しているのではない。

 例えば木を考えてみよう。木というものは、先祖からの遺伝子の信号―情報や、それから土中の窒素・リン酸・カリや、大気中のCO2や、太陽のエネルギーや、海から上がり雲になって降る水分や……といったきわめてたくさんのものとのつながりが、いわばここで一つの結び目を作っている。

 もう少しシンプルには、いくつもの線を交錯させた図を考えてみよう。縦の線、横の線、斜めの線が交わると、そこに「結び目」というものがあるように見えてくる。
 しかし、これは結び目が「ある」というより、いくつかの線が一点で交わり・和合しているから、そこに「結び目」があるように見えているのである。そう見えているのはまったくの間違いではないのだが、「結び目そのもの」があるのではなくて、いろいろな縁がそこに「結び目を見せている」ということである。
 私たちは例えば木というものを実体だと思うけれども、それは水やエネルギー、炭素、遺伝子情報といったいろいろなものの結び目として木という現象が起こっているということであり、もちろんそれは私もそうだ、と。

 他のものの話はともかく、「あなたも実体ではない」と言われると、「え、私も実体じではないのか?」と、急に寂しくなったり怖くなったりすることが初心の菩薩にあるということがはっきりと書いてあって、なかなか懇切丁寧だなと思う。

 しかしそのときにちゃんとした指導者についていると、「それはあなたがいないとか、あなたは虚無だとかいうのではなくて、あなたは現象だということだよ。現象だけれども、現象としてはありありと現われていて、その現象は実は空・一如の、現代風に言うと宇宙と一体で宇宙の一部の一時的な現象として現われている。だからあなたは実体ではないし永遠ではないけれど、その元になっている空の世界・宇宙の世界はある種永遠の世界だから、あなたの本質は永遠である」と教えてもらえる。現象としての私は無常であり、その無常な私を無常ではないと思おうとしたらそれは無理が来るけれども、無常を無常と認めても、私のいちばん根本のところはむしろ無常ではないのだ、と。

 そこがわかるには、いちおう個別的存在である私は無常なのだ、現象なのだ、ということも一度わかる必要があるのだ。私が実体でありたいという気持ちを強く持っていて、それに対して「実体ではない」と言われると、がっかりしたり、寂しくなったり、辛くなったり、虚無的になったりするのであるが、ちゃんといい先生について学ぶと、わかり、やがて覚ることができて、そのほうがかえってこだわり・執着がなくなるのだという。

 そうするとかえって、とても気持ちよくすがすがしく生きて死ぬようになる。人生の結論は必ず死ぬのであるから、幸せに暮らしたけれど、最期その幸せな暮らしをぜんぶ捨てて死ななければいけないのでとても辛い気持ちで死ぬよりは、爽やかに生きて爽やかに死ぬほうが、まちがいなく質の高い人生になるはずである。

 そのためにとにかく私たちは一度まず、爽やかに生きるだけではなくて爽やかにも死ねる根拠としての縁起の理法ということ、空ということを覚る必要があるというのである。

 すなわち空は虚無とは実はまったく別のことである。残念ながら日本では仏教の内部でも外部でも、空ということが「無」「無常」という言葉と合わさりながら、何かとても悲しくて、下手をすると虚無的な思想だというふうに誤解されがちだったけれども、そこのところはちゃんと経典に書いてあるので私が強調したいと思っているのは、空とは空でおしまいではなくて、実は如・一如ということなのだ、現代風に言うと「私と宇宙が一体だ」ということである。

 この私の本質は、生まれる前も宇宙だし、生まれて形が現われている今も宇宙だし、死んでからも宇宙だから、「宇宙がほんとうの私だ」と思えてしまえば、この私が生きて死ぬということは。大騒ぎしなくてもいいことであり、非常に軽やかで爽やかなものとして捉えられる。今は生きているのだからちゃんと生きればいいのである。そして、死ぬときが来れば死ねばいい。そういうふうになれる、そのほうがむしろほんとうだし、いいのだ、ということを教えてくれるのが仏教である。

 最近、筆者は「だから、きわめてクオリティの高い人生の送り方を根本から教えてくれるという意味で、仏教はとてもポジティヴな思想なのです」と強調するようにしている。

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般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩

2024年05月25日 | 仏教・宗教

 さて、したがって大乗仏教・菩薩・摩訶薩になるには禅定が必須である。そのことをはっきりと語っているのが、相行品第十の次の言葉である。

 是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 つまり「私は瞑想をしている」というふうに思わない。瞑想をしているときはもう「瞑想をしている」とか「私」ということを忘れるのがほんとうの三昧なので、「私が/坐禅をしている」と思っている間はほんとうの坐禅ではない。

 また坐禅をするときに、「さあ、今から坐禅するぞ」とか「お、坐禅・禅定が深まってきた」「集中してきたな」と思っている間は、まだ全然ほんとうの三昧ではない。「もう私は完全に禅定状態に入った」と思ったりはせず、「私が」とか、瞑想状態と日常意識状態とを分別するとか、そういうことが一切なくなっているのが本当の三昧・瞑想だと言われている。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏に従ひて記を受けたりや。』

  それにかかわって、智慧第一のシャーリプトラが、解空第一・空をいちばんよくわかっているというスブーティに問う。つまり弟子同士で質疑応答をしているのである。
菩薩・摩訶薩・菩薩大士は、こういう瞑想を徹底的にやることによって、過去の仏さまに「そういうふうに瞑想をしていれば、おまえは将来必ず覚りを開ける」という保証をされているか、と。「住し」は「ずっとやる」ということである。保証のことを「記」といいう。つまり「おまえは必ず将来覚りを開けるぞ」という、その約束というか予告のことを「記」という。

  報へて言はく、『不、舎利弗、何を以ての故に。般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 するとスブーティが「そんなことない。保証などいただいていない」と答えている。
常識的には当然、瞑想をして覚りを開のだから、「瞑想をしたら覚れると昔の仏が言われたはずだ」とシャーリプトラが言うと、「そんなことはない」とスブーティが答える。
般若という智慧は瞑想と一体のものだし、そうした一体のものとしてまさに瞑想が般若波羅蜜をもたらすのだし、菩薩とはそもそも般若波羅蜜や瞑想・禅定と必ず一体化している。だから要するに菩薩とは般若波羅蜜・智慧そのものであり禅定そのものなのだ、と。

  須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と。

 スブーティは、「菩薩はこういう瞑想状態に入ったときには、こういうことを思ったりはしない」と言う。どう思わないかというと、「私が/般若波羅蜜多という真理によって/この禅定状態になったのだ」といったことは思わないと言う。

 菩薩というものは、瞑想状態において、主客分離的に認識するとか、そのことに気づくとか、そういうことはない。そのことを伝統的には「無念無想」の状態と言ってきた。そういう無念無想の瞑想状態に入ると、空・一如という体験が起こる。そうしていったん一如という体験が起こり、そういう意識状態から日常意識に戻ってきたときに、他との切っても切れない縁起の関係が自覚され、すると行為は気持ちとしては慈悲ということになる。そういう構造になっている。

  以上で「般若経典のエッセンスが智慧と慈悲にある」という場合の、その智慧と慈悲はどういう関係にあるかということを、いちおう理論的に掴んでいただけたと思う。

  すなわち、言葉で分けると智慧・空・如・慈悲となるが、そもそも智慧によって空・如・一如ということ、特に一如ということを覚り、そこから分離ではなくて区別はちゃんとついているという日常的な意識に戻ってきたら――後にこれを無分別智と区別して「無分別後得智」と呼ぶようになっている――それが慈悲という形になる。したがって完全な空・一如ということを瞑想・禅定・三昧を通じて覚らないかぎり、慈悲は出てこないのである。

 だから私たちが「優しい心、親切な心、それが仏教の慈悲である。日本には仏教のそういう優しい心の伝統があるのだから、みんな優しくし合いましょう」と思っているような通俗仏教は、けっして悪くはないが、大乗仏教の本質からすると、それはやはりヒューマニズムやボランティア精神と同じで、レベルが違うと言わざるをえない。それはそれで日本人の精神性として大切ではあるが、より深めるには、禅定をし、如・空ということを覚る。そうすると、努力をしてやるのではなくて、自然に慈悲が出てくるということになるのだ。

 しかし、とはいっても私も含め私たちは、突然そこにジャンプすることはできないので、まず頭で学んで理解し、それから少し瞑想もする。

  例えばこうしたことを学ぶと、ふと犬を見た時、「あ、あの犬とも結局つながっているのだな」とか、木を見た時、「ああ、あの木と私は酸素と二酸化炭素の交換関係を通じて、もう分かち難くつながっているんだな。つまり木は私の命を支えてくれている。木は私の友達だ」と思えたりするのである。

 そういうことがたまにふと、やがてしばしば思えるようになって、例えば木は私の友達だと思うようになると次第に、「そういえば三日ばかり雨が降ってないな。ちょっと水をあげようか」という気持ちが出てきたりするのである。

 木とか犬はこちらのすることに素直に応えてくれるので付き合いやすいのだが、人間は素直に応えず、何かをしてあげても「ありがとう」も言わないとか、それどころか「余計なことするな」と言ったり、善意を誤解して悪意に取るといったことをするので、なかなかすんなりと付き合えなかったりするものだ。一切衆生の中でも人間相手がもっとも難しいかもしれないと思うことがある(神話的存在としての阿修羅や餓鬼、畜生、地獄の衆生はもっと難しいはずではあるが)。

  他の動物や植物に優しくするのは割にできるが、しかしやはり人間がいちばん近しい関係なのだから、その人間に対し「私の趣味からいうと嫌いだし、私の都合からいうと不都合なあなただけれど、でもほんとうは一体なのだ。つながってるのだ」と、布施までは出来なかったらせめて忍辱で、しかし忍辱にとどまらず布施までいく。そういうことで、布施が最初にあるのではないかと思う。優しい実際の行為はとてもできないから、少なくとも「あまり強く憎むのはやめよう」程度の忍辱をしたりしながら、最終的には、縁起・空ということを体験的に自分のものにしていくのが六波羅蜜のすべてであるわけである。

 というわけで、とにかく菩薩・摩訶薩になろうと思うのだったら即瞑想をしなければならないし、そして瞑想は即般若波羅蜜・分別をしない無分別の智慧を得ることなのだ、ということである。

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般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

2024年05月17日 | 仏教・宗教

 しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。

 そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。

 そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である。そしてなぜか漢訳では、プラジュニャーではなくパンニャーのほうを音で写して「般若」と訳したのである。つまり般若とは「分別を超えた智慧」という意味であり、この「般若」「無分別智」こそ大乗仏教の智慧なのである。

 先ほどから述べてきたように、体験が空まで深められ、さらに一如というところまで深められたら、「私と私以外のものは実は分離していない。つながっている。一如だ、一体だ」ということになる。そしてその一体性の自覚から、改めて人を「あの人は私と区別はあるけれども分離していない。一体なのだ」と思う。また例えば、いちおう私と猫とはちゃんと区別はできるけれども、「あの猫も私と一体なのだ」と思う。そうした一体性が実感されたとき、生きとし生けるものすべてに対する慈悲が生まれてくる。すなわち、空・一如の実感=無分別智(より詳しくは後述するように無分別智と無分別後得智)から慈悲が生まれてくるということである。

 それに対して、もともと「私と他の人は分離している」という思いを前提に、「今、私は元気でお金を持っていて体力があって等々で、向こうに体が弱った貧しいかわいそうな人がいて、私はいい人だから……」という思いで行われるのがいわゆるボランティア・慈善だと思われる。

 私の見るところ、ボランティアをしている方にはみな、心の底に程度の差あれ「私はいい人」という思いがあるようだ。それがあまり意識的だと偽善的に感じられるが、それにしても「私は悪い人だ」と思いながらボランティアをしている方はいないだろう。あまりに「私いい人」という気持ちでボランティアをするととても嫌味な人になってしまうが、あまり嫌味の感じられない人でも、よく探っていくと、心の底にはやはり「私いい人」という思いがあるように見える。それはやはり「私いい人、私豊かな人。私はいい人だから貧しい人に恵んであげましょう」という分離意識に基づくボランティアである。

 布施あるいは慈悲は、行なうことは似ているし、時にはまったく同じようだが、ボランティアと本質的には似て非なるものである、と筆者は考える。「私とあなたは実は一体だ。一体であるにもかかわらず現象としては私のほうが豊かであなたは貧しい。それは本質的におかしい」と、自然に私の豊かさを他の人と分かち合わざるを得なくて行なうのが慈悲の行為である。

 とはいえ、私たち分別知に囚われている凡夫にはなかなかできないので、練習をするのが布施である。つまり、布施は智慧から慈悲へというトレーニングだと言っていいだろう。

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世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4 再掲と現時点の修正とコメント

2024年05月11日 | 仏教・宗教
 *筆者は体調を崩しており、なかなか記事の更新が出来ず、残念に思っています。

 そんな中、以下の文章は、ずいぶん前に掲載したもので、過去記事の中に埋もれてしまっていたのですが、最近読んでくださった読者があったのをきっかけに、私も読み直してみて、多くの未読の読者に今こそ読んでいただきたいと思い、再掲させていただくことにしました。

 「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんだろう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。

 *例えば戦争、例えば犯罪、例えば貧困や差別、例えば環境の異変……

 私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、記事を書いた時点でも今でも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。

 しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。

 人間がマナ識――自我(たち)を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。


 〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
                     (『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)


 すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。

 他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。

 ところが、私たち人類のほとんどは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいるようです(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇り・拠りどころ・硬直したアイデンティティにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています(個人的、集団的エゴイズム)。

 そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。

 人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。

 学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがありました。

 しかし、唯識の語ることをしっかり理解できてからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないこと、必然的に起こることなんだ」と。

 もちろん、理解できたことで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。

 しかし、解決の糸口-方向性だけはしっかりとつかめたと感じています。

 私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。

 唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。

 しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、滅びたくないのなら、やるしかないでしょう。

 *そして、今では、諸セラピーの統合によれば、アーラヤ識‐マナ識の浄化=人間性・仏性の開発には絶望的なほど長い時間はかからないと考えるに至っています。もちろん促成栽培は無理だとしても。

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般若経典のエッセンスを語る51――大乗における瞑想の深まり3

2023年11月03日 | 仏教・宗教

 ここで重要なのは次の説明である。

 何を以ての故に。舎利弗、但だ名字有るが故に菩提たりと謂ふ。但だ名字有るが故に菩薩たりと謂ふ、但だ名字有るが故に空たりと謂ふ。所以は何ん、

 「どうしてかというと、シャーリプトラよ、覚りという名前や文字、すなわち言葉があるので、言葉で覚りという言葉を言っているだけなのだ。ただ言葉があって、それで菩薩というふうに言う。空というのも同じで、空という言葉があるだけなのだ。なぜそう言えるかというと」

 諸法の実性は生無く滅無く垢無く浄無きが故に

 さまざまに区別できる存在の本性は、実はすべてが縁起の理法でつながっているということである。つながりがぜんぶつながっているとしたら結局は一体である。結局は一体のものには個別的な発生や消滅というのはない。
 分離していると「これは清らかだが、あれは汚れている」という差別的な判断が生じるが、一体だともう汚れているとか清らかということがない。つまり諸法の実性は一体なので、発生も消滅も、清浄とか汚染ということもない。

 だから空を実践するということは、実はすべてのものの一体性を自覚するということでもあって、そのことを徹底的にやって、「個別のものは名前を付けているからあるように見え、それが実体であるように見えてくるだけなので、分離した実体などというものは実際にはない」ということを瞑想する。それが般若波羅蜜を行ずるということである。

 菩薩・摩訶薩是の如く行じて、亦生を見ず亦滅を見ず亦垢を見ず亦浄を見ず。

 要するに分離的な思考を一切やめていくということである。しかし、私たちの心は普段すべて分離的な思考で動いているから、「(私は)分離的思考をやめよう」と分離的思考をしてしまう。私がいて分離的思考があって、その私が分離的思考をコントロールしてやめる、と。それはもうそれ自体が分離的思考なのである。

 では、それをどうしたらいいのか。瞑想家たちはいろいろな工夫をしている。
  
 その一つは、心の中でいったんなるべくシンプルな言葉を使う。例えば「ひとー、つー」と。「ひとー、つー」と呼吸をすることを合わせてやっていると、だんだん他のことを考えなくなる。集中すると他のことが考えられなくなるわけである。

 それから例えば、もっと進むと「む(無)ー」という一言だけにする。「むー」と吐いて「むー」と吸う、「むー」と吐いて「むー」と吸う、と集中してしまうと、もう「むー」しかなくなる。

 言葉というのは「あ」「い」「う」「え」「お」というふうに分節しているから言葉になるので、一定時間「むー」と言っていると「無」という言葉の意味は頭の中でなくなって、ただの音になる。「む」と例えば「ま」がどう違うかということももう意識になくなる。だから「むー」と言うことを通じて思考を無くし、分離思考を無くする。

 もっといくとそれもやめて、ただ呼吸が出入りしているのを静かに見つめているだけになる。呼吸を見つめるというのもまだ「見つめる」ということがあるので、それさえもやめると、もうただ存在しているだけという意識のあり方になる。しかし、眠っていないし、陶酔していないし、ボーッとしているのでもなく、しっかり目覚めていなければ覚りにならない。つまり、しっかり目覚めていながら何も考えていないという状態になっていくこと、それが般若波羅蜜を行ずるということだ、とひとまず言葉で理解しておけばいいだろう。

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般若経典のエッセンスを語る50――大乗における瞑想の深まり2

2023年10月31日 | 仏教・宗教

 この瞑想が深まっていくことを、指導の言葉として語ったのが、以下の個所で、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』「捧鉢品第二」の後半部である。訳しながら解説していこう。

 舎利弗仏に白して言さく、『菩薩・摩訶薩云何が般若波羅蜜を行ずべきか。』

 シャーリプトラがブッダに「菩薩大士はどのように般若の智慧を修行したらよろしいでしょうか」と質問をした、と。これはまさに根本的な質問である。すると、答えは以下のようだったという。

 仏舎利弗に告たまはく、『菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦我れ般若波羅蜜を行ずるを見ず、

 般若の実践をするときには、そもそも私・菩薩ということを考えない。また、そもそも菩薩という言葉を使わない。それから「私と分離した智慧というものがどこかにあって、それを私が求めるのだ」というのは、それ自体分離思考だから、そういう「私の外に般若波羅蜜がある」という見方をやめる。さらに、「私が般若波羅蜜の修行をしている」と思うと、それはもう「私の修行という動き」と「その対象としての般若波羅蜜」という分離思考になるから、「私が般若波羅蜜を修行する」という考え方をしない。といっても、それは般若波羅蜜を修行しないということではないのだ、と。

 こういう言い方はきわめてパラドキシカルでわかりにくいのだが、そもそも「般若波羅蜜」とは言葉にならないことを仮に言葉にしているので、言葉にとらわれて「私が/智慧を/得ようとする」と思ったら、もうそれは般若・智慧ではなく分別知・分離思考である。
 だから、ここでシンプルには「そもそも分離思考をやめることが般若波羅蜜を行じるということなのだ」と言おうとしていると理解すればいいわけである。

 何を以ての故に、菩薩も菩薩の字も性空なり、空中には色も無く受想行識も無し、

 それはなぜかというと、菩薩というのは実体として存在しているわけではなく、それからもちろん菩薩という言葉も実体ではない、と。

 この「空中」というのは「私たちが禅定を深くし、空体験をしているときには」という意味に理解しておけばいい。

 この言葉は実は『般若心経』とかなり重なっていて、『般若心経』の講義の際にここの内容をほとんど説明している。

 私たちが空の瞑想をしていると、そこには私の外側にある物質的な現象・色や、それを感受すること・受、イメージすること・想、それに対して注意や意志を向けること・行、それから思考作用をすること・識のいずれもがない、と。色受想行識というのはいわゆる五蘊で、色は物質的現象、あとの四つはいわば心理的現象である。

 この受想行識が色に対している、というのがまさに分離思考の基本的なパターンである。私が/何かを/感受する、と。例えば、「私が/湯飲みを/見る」。そうすると自分の中に残っている湯飲みという記憶のイメージと照らし合わせて、「ああ、あれは湯飲みだ」と認識する。そして喉が渇いていたら「取って飲みたい」とった意思が働く。さらにそういうことに関するいろいろな考えが巡る。これが受想行識であるが、それ自体が分離的な思考なので、それを超える空の体験の中では、そういう分離はない。
 しかし区別されたかたちでの物質もあるし、心もあるから、次のようにも語られる。

 色を離れて亦空無く、受想行識を離れて亦空無し。色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識は即ち是れ空、空は即ち是れ識なり。

 空ということがどこかにあるのではなくて、色受想行識のいわば本性が空ということである。だから物質的な現象は即それは空、つまり実体ではないし、しかしながら実体でないということが物質的な現象を生み出しているし、それから心の働き・受想行識を同じく生み出している、と。
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般若経典のエッセンスを語る49――大乗における瞑想の深まり1

2023年10月30日 | 仏教・宗教
 *筆者の体調のため、なかなか連載を続けることができてきませんでしたが、ずっと待っていてくださる読者もいるようなので、推敲不十分ですがとりあえず読んでいただける程度の文でも、断続的に少しずつ掲載することにしました。
 なお、元の講義はDVDまたはyoutube で視聴していただけます。サングラハ教育・心理研究所のHPの案内をご覧ください。


 『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」に以下のような個所がある。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍(まかえん)とは、所謂三三昧(さんざんまい)なり。何等をか三となす、有覚有観(うかくうかん)三昧、無覚有観(むかくうかん)三昧、無覚無観(むかくむかん)三昧なり。云何が有覚有観三昧と名くるや。諸欲を離れ悪不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽、初禅に入る。是を有覚有観三昧と名く。云何が無覚有観三昧と名くるや。初禅、二禅の中間、是を無覚有観三昧と名く。云何が無覚無観三昧と名くるや。二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く。須菩提、是を菩薩・摩訶薩の摩訶衍と名く、不可得を以ての故に。

 三昧とは禅定である。「菩薩・摩訶薩の摩訶衍」、つまり大乗仏教の根幹にあるのは三種類の三昧、すなわち瞑想・禅定だ、と。

 三種類の最初は「有覚有観三昧」という。これは、自他の分離的な意識が「覚」、「観」は思考で、いわば瞑想的ではあるけれどもやはり思考ということである。だから、いちおう自我意識が残っており、それから理論的に考えるということも残っている、それでもある種禅定状態にある。

 それから「無覚有観三昧」は、自他の分離を離れながら、しかし例えば縁起や無常などをある種瞑想的に洞察する。

 そしてそういうことをすべて離れてしまって、自他分離の意識も、それから瞑想的ではあっても思考をするということもやめてしまうのが「無覚無観三昧」である。

 これが、それ以前から言うと、禅定の最初の段階・「初禅」という。とにかくまず四段階ある。それから、その四段階の上にさらに何段階も瞑想の深まりがあることになっている。すなわち、大乗以前の仏教もこういう瞑想を行なっていたのである。

 ところが最後のほうに、「二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く」とある。「思うでもなく思わないでもない」という、言葉で表現しにくい深い瞑想の状態のことをあえて言葉にしたので、言葉で勉強しただけではわからない。

 私たちがやっと「ひとー、つー」と呼吸に集中できると、なかなか爽やかな気持ちが生まれてくるのだが、それは「離生喜楽、初禅に入る」ということである。そうした、俗世間の生活から離れてさわやかな喜びが心に生まれてくるという段階を、禅定の最初の段階・初禅という。

 しかし、二禅になると次第に爽やかかどうかなども関わりがないという境地になっていくことになっている。

 私は、古典的な瞑想の深まりの段階論に「初禅・二禅・三禅・四禅」、その上に「非想非非想」等々とあるのを、かつては「こんなに細かい分類をしてなんの意味があるのか」という感じに受け取っていたが、自分自身で禅定を続けていくうちに、「やはりこれにはちゃんとした禅定の深まりの根拠、体験的根拠があるのだ」と感じるようになり、そして、まだこの先があるのだろうと思うようなっている。

 ともかく、こうして瞑想がきわめて深いところまで達した時に大乗の瞑想の境地が出てきたのではないかと推測される。

 それを示しているのが、「菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは」、つまり菩薩大士の大乗とはどういうものかというと、いちばん根本は三三昧だ、と。ところがこの三は違っていて、「空・無相・無作(くう・むそう・むさ)三昧」という。これはそれ以前の仏教には見当たらない瞑想の名前である。

 「空三昧」、これは「空三昧とは諸法の自相空なるに名く」と書いてある。私たちが個々のいろいろな実体的なものがあると思っている、それが「諸法」である。ところがそのいろいろなもの・すべてのもののほんとうの姿・自相について、例えば時間経過をずっと見ていくと、それは「無常」であるということが見えてくる。それから、その時間経過の中でよく考えてみると、他との関係でできたのだ・「縁起」ということが見えてくる。

 よく上げる例だが、ここに「湯飲み」がある。この湯飲みについて、私たちは「ここに湯飲みそのものとしてある」と思ってしまうが、よく考えると、製造者が土を持ってきて型に入れて焼いて……というふうにして出来上がり、使われ、そして用がなくなり行き所がなくなったら捨てられ、ゴミとして割られて処分されたりして、もう「湯飲み」ではなくなってしまう。

 そういうふうに、関係の中で出来、関係の中で壊れていく、つまり無常であるということを考えると、それ自体で存在でき、それ自体の変わらない本性を持っていて、そしていつまでも存在できるという、実体としての本性を持っていない。その実体ではない・「非実体」ということが空なのであるが、空三昧とはその空ということをとことん洞察をしていくという瞑想である。

 空を洞察するという場合、まだ「洞察する」「考える」ということが残っているが、さらに、「これは空なのだから、私たちが見ている姿というのは、実体的な姿ではないのだ」ということ、すなわち「無相」ということについて、次のように語られている。

 諸法の相を壊(え)し、憶せず、念ぜざるに名く、

 「この見えている形、これは本質的な実体の形ではないのだ」と言って否定してしまうだけでなく、形としてそのことを憶えておいたり、それに今気づいているということをもやめてしまって、すべての形を離れていくという瞑想をする。これが「無相三昧」である。

 それから、空ということを洞察し、そしてその洞察も離れて形を見るということをすべてやめてしまうという瞑想に深まると、今度はいろいろなものに対して「あれが欲しい」とか「これが欲しい」と何かを求める・願望するということがなくなる。ものを特定の相・すがたで見るから欲しくなるわけで、相が消えてしまうとそれに対する願望がまったくなくなってしまう。それが「無作」である。「無願」と訳されることもある。

 そのように大乗では、空・無相・無作というところに瞑想が深まっていくとされている。
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般若経典のエッセンスを語る48――六波羅蜜にあって八正道にはない「布施」

2022年11月04日 | 仏教・宗教
 強調点がぼやけてしまっているので、この前の部分では特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、次には、やはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならないことを述べていく。

 「大乗」はサンスクリット語で「マハーヤーナ」という。「マハー」は「大きい」、「ヤーナ」は「乗り物」という意味で、音を漢字に移して「摩訶衍(まかえん)」となっている。日本語では「えん」と読むが、かつては「ヤーナ」に近い中国語の発音だったのだろう。

 一般的な仏教知識では、大乗はそれ以前の派を「小乗(ヒナヤーナ)」と呼んで全面的に批判・否定しているかのように語られることが多く、正直なところ筆者も般若経典をしっかり読み込むまでは、何となくそういうふうに思ってきた。

 しかし、以下は、大乗がそれ以前の部派仏教(小乗)をただ否定するのではなく、いわば「含んで超える」ことを明らかにした個所(『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」)で、すなわちはっきり大乗にはそれ以前の派の修行の基本である「八聖道(八正道)」が含まれると語られている。

 また次にスブーティよ、菩薩大士の大乗とは、いわゆる八正道である。何を八とするかというと、正しい見解、正しい考え方、正しい言葉づかい、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい禅定である。これを菩薩大士の大乗と名づける。実体として把握することができないからである。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは、所謂八聖道分なり。何等をか八となす。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。是を菩薩摩訶薩の摩訶衍と名く。不可得を以ての故に。

 念のためにコメントしておくと、ここでの「正(しょう)」・正しいという字は、論理的に正しいとか倫理的に正しい、ごく常識的な善悪について正しいといったふうにごく平凡な意味に取られることが多いようだが、そうではなく「縁起の理法に適っている」という意味に読み取る必要がある、と筆者は考えている。

 つまり、仏教の正見・「正しいものの見方」とは、何よりも「縁起の理法に適っている見方」という意味である。だから、ものを見る時には、縁起の理法に適った、すなわちつながりを見る見方をするということだが、単にそれだけではなく、よりトータルにすべてを必ず関係性・つながりで見ていこう、ということである。

 そして、人間は言葉で生きる動物だから、そのつながりをしっかりと自覚した言葉の使い方をしようというのが「正語」である。
 日常的に言うと、例えば誰かの顔を見た瞬間に、その人とのつながりをちゃんと自覚し、世間的には他人であろうとなんであろうと、人間である以上は、生き物である以上は、宇宙である以上はぜんぶつながっているのだとちゃんと考えられると、当然「こんばんは」「お元気ですか」といった、相手とのつながりを確認する言葉が出てくるはずである。だから日常的にそういうつながりを確認したり作っていったりする言葉を使うように心がけるのである。
 それに対し、「バカヤロー」とか「死んでしまえ」などというのは、まさに正語の逆さまである。今、いじめが問題になっているが、それは存在の本質が縁起の理法であることを現代の社会が標準的にまったく忘れているからで、それどころか社会が分別知で営まれていて、個々人がバラバラで存在し、しかも競争しながら「勝ったものは勝ち、負けたものは負け。それは当然だ」という考え方・分離思考でいる中で、人に声をかけると、もっとも極端には「死ね」といった言葉になってくる。まさに正語の反対である。
 そういう言葉ではなく、シンプルに関わりを確認し、関わりを深め、関わりを作っていく言葉を使うよう日常心がけるのである。

 それから特定の行為としても、関係・つながりを深める行為をするのが「正業」である。

 そして、特定の行為だけではなく人生・生活すべてをそうするのが「正命」である。

 縁起の内容を二つに分けると「縁生」「縁滅」になる。すべてのものは縁によって生じ、縁によって滅する。つまり縁があって生まれてくるけれども、その縁の結び目が解けると現象としては消えていく。縁起の中身は縁生と縁滅であり、それは時間の中で見ると「無常」ということになる。
 であるから、縁起の世界は必ず無常の世界であり、個体としての私たちに与えられた時間は有限である。すると無駄にしていい時間はほんとうには一秒もないということになる。だから縁起の理法を覚り、縁起の理法にふさわしく見、考え、語り、行為をし、人生そのものを縁起の理法に沿わせていくことに、わき目も振らずまっしぐらに一所懸命でなければならない。それが「正精進」ということである。
 分離思考・分別知によって、私の幸せが人生でいちばん大事だと思い、私の幸せ・私の夢のために一所懸命になる人はたくさんいるが、それは精進ではあっても正精進とは言わない。精進にも「正精進」といわば「邪精進」があるわけで、現代人の努力の大半は、縁起の理法に照らして厳密に言えば邪精進ということになるのではないか、と筆者は感じている。

 さて、私たちはこうしたことを学ぶけれども、残念ながらアラブの諺に「神々は記憶する。されど人間は忘れる」とあるように、人間とは忘れてしまう生き物で、しかも大事なことほど忘れがちな生き物である。
 なぜ忘れるかというと、私たちの心は主として分別知で動いているので、分別知ではないことを教わって憶えたつもりでも、ふだんは主に作動している分別知の言葉が巡ってしまい、無分別知から生まれてきた言葉・智慧が覆われ忘れられてしまうのである。
 だから、それを忘れないようにしようというのが「正念」である。縁起の理法にいつも気づいているように、と。
 これはたまたま当てた漢字がとてもよく当てはまっているということだが、「念」は「今の心」と書く。昔勉強をしてわかったつもりでも、今念頭にないと役に立たない。だから「すべてがつながって一体だ」ということを学んで「なるほど、そうか、それはそうだな」と納得したとか、そのときに感激したというのはベースになるが、そのことに今気づいているのが「正念」である。

 しかし人間の心は、無意識のところからまさに無明・分別知で作動している。パソコンに譬えると、要するに無明がOSなのである。だから、どんなにいいソフトを入れてもどこかで誤作動を起こす。もちろんパソコンほど単純ではないが、譬えてわかりやすく言えば、そういうことである。
 だからOSを取り替えなければならない。無明のOSをアンインストールして正しい智慧のOSをインストールし直すための作業が禅定であり、縁起の理法を全心身化・無意識化するための「正定」である。

 先に引用した個所で、この八正道を大乗も踏襲するとあった。しかし、実は大乗の基本的な実践の項目である六波羅蜜には大乗が付け加えた決定的に異なる項目がある。
 よく知られていることだが、改めて六波羅蜜の項目をあげておくと、「布施・施すこと」「持戒・戒律を守ること」「忍辱・辱めを忍ぶこと」「精進・努力すること」「禅定・瞑想をすること」「智慧」の六つである。八正道に対してどこが決定的に違うかというと、八正道には布施がない。一方、六波羅蜜は最初に「布施」があるのである。
 つまり、私は他の人とほんとうはつながっているのだが、いちおうは区別があって他人に見える。そういう人に、実はつながっていることを、行動をもって確認し、つながりを作っていくのが布施の本質であり、いわば慈悲のエクササイズである、と筆者は理解している。
 もちろん八正道は縁起の理法を自分のものにするための方法論であるが、大乗ではそれがもっと積極的に「布施」という形で含まれている。八正道の正業や正命が布施に該当すると言えなくもないが、非常にはっきりと、しかも実践方法の最初に据えられているというのが、大乗とそれ以前の仏教、大乗からすると「小乗」との大きな違いだと思われる。

 そして最終的に目指すところは、六波羅蜜では智慧で、その手前に禅定があるが、八正道では最後に正定つまり禅定が来ている。つまり、禅定を通じて智慧に到ることを目指すのが大乗の六波羅蜜である。
 そして、大乗の智慧はただ智慧にとどまらずそこから必然的に慈悲が生まれるのである。

 部派仏教の文献と大乗仏教の最初である般若経典を比較しながら推測するのだが、これはおそらく瞑想の仕方が変わってきた、あるいは深まってきたことを示しているのではないか、と筆者は推測している。
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般若経典のエッセンスを語る47――智慧と慈悲のバランスを

2022年11月02日 | 仏教・宗教

 最初のほうで、大乗仏教は一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」であること、そして智慧は空・一如に裏づけられていることを述べた。

 日本では明治以降、もっとも典型的には京都大学の哲学科の主任であった西田幾多郎が、坐禅の実践をベースにした思索によって、西洋の哲学の概念と、禅の空いわば東洋を、ひとつの哲学に統合して体系づけるという仕事をした。西田の最初のまとまった著作は『善の研究』であり、それ以後の著作も含め次第に日本の知識人・教養人たちの教養書・基本図書になっていった。そのように、日本の仏教に関する文化全体の中核の一つに京都学派宗教哲学があり、その源泉に西田幾多郎という人物がいて、さらにその背後に臨済禅がある。

 そこでなされた「無」や「空」という概念の哲学的な詮索、およびそこから出てくるさまざまな文化的なムードがあったため、これまで仏教は智慧・空のほうに重点を置いて理解されがちだったのではないだろうか。

 そしてそれが通俗化すると、空や無などといったことをお説法などで聞きながら、それは例えば「無欲である」とか「自己主張がない」という意味での「無我」であるとされ、一種の心の安らぎを与えるものとして仏教が捉えられるというところがあったと思う。

 そうした文化の流れの中で、大乗仏教の基本でありながら、焦点が非常にぼやけてしまったのが「慈悲」である、と筆者は捉えている。

 そこで、般若経典の最大の『大般若経』六百巻の中で、慈悲の実践として「具体的にこういうことをしよう・したい」という菩薩の誓願にこんなにすごいものがたくさんあるということ、つまり「智慧と慈悲」という場合の慈悲の話を先にした。

 大乗仏教の慈悲は、ヒューマニズムの人類愛やそれがもう少し市民化・庶民化したボランティア精神などとは、ベースはまったく違うのである。そして、そのベースになっているのは智慧・空であるから、智慧と慈悲のどちらかだけが語られるのでは大乗仏教が正しく語られることにならない。また、どちらかに比重が傾いてしまうのも正しくない、と筆者は考えている。慈悲は必ず智慧に基礎づけられているという構造になっている、と理解している。

 これまで強調点がぼやけてしまっていると思われるので、ここまで特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、続いて、とはいってもやはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならない、ということを述べていくことになる。

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般若経典のエッセンスを語る46――「四弘誓願」+仏国土建設という理想

2022年11月01日 | 仏教・宗教

 さて最後に、かつて本ブログでも書いたが、改めて「四弘誓願(しぐせいがん」について書いておきたい。

 『大般若経』で三十一項目にもわたって述べられた菩薩の誓願を、中国の天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)は主著『摩訶止観(まかしかん)』の中で四つにまとめていて、「四弘誓願」という。「大変広い四つの誓願」という意味で、なぜ「弘・広い」のかと言うと、私だけではなくてすべての衆生に関わるものだからである。

 日本仏教では古くから天台宗だけではなく多くの宗派で、この「四弘誓願」が唱えられてきたようである。派によって言葉は少し違うようだが、以下、臨済宗で用いられているテキストをあげる。

 

 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

 

 おおかまに訳すと以下のようになるだろう。

 

 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う

 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う

 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う

 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う

 

 この「四弘誓願」をただ唱えているだけの儀式が多く見られるが、意味を知って唱えるととても感動的なので、ぜひ意味を学んで唱えるようにするといいのではないかと思う。

 ただ、これはあまりにも高い理想で、全面的に「ねばならない」ものとして受け止めてしまうときついので、「なるべくそうありたい」というふうに柔軟に受け取るといいと筆者は考えており、そのためにもう少し軽い訳を試みたのが以下の文章である。「超訳」という言葉は商標登録されているそうなので、「超意訳」とした。

 

  超意訳「四つのおおきな願い」

 

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。

 

 筆者は、この四つの言葉それぞれの後にカッコでくくって「(なるべくそうなるように努力しよう)」と付け加えることにしている。

 論理療法で「絶対的にそうしなければならない」と考えるのを「マスト化」という。こうしたあまりにも高い理想をマスト化して捉えるととてもつらくなり、つらさのあまり「無理」などと言ってやめてしまうことにもなってしまう。

 論理療法では硬直したマストに対して、柔軟な「プリファー・なるべくそうでありたい」という考え方を勧めている。

 マスト化して無理だと感じてやめてしまうくらいなら、マスト化せず、「到達できないかもしれない。たぶんできないけれど、でもここを目標にしたい。なるべくそうありたい」、「初歩でも何でも、とにかく菩薩は菩薩」というふうに心を決めれば、いろいろ悩みがあっても人生を死ぬまではちゃんと生きられるだろう。

 であるから、筆者は、悩み多き人生を四弘誓願を心に、広く言えばこの三十一願を自らの願として、「小さくても菩薩という人生を送れるといいな」と思うことにしている。無理をしないで「送れるといいな」ということで行きたいと思っているし、読者のみなさんとも一緒にそうなれるといいなと思いながら、一緒にさらに学びを続けられたらと思っている。

 

 ところで、「四弘誓願」は三十一願を四つにまとめていると言ったが、実は残念ながら三十一願の大きな基本的な方向である「仏国土の建設」が言葉として表現されていないと筆者は感じていて、自分が唱える時には、般若経典に繰り返し出てくる「成熟衆生厳浄仏土(じょうじゅくしゅじょうごんじょうぶつど)」「すべての生きとし生けるものを成熟させ、美しい仏の国土を創り上げよう」という言葉を補うことにしている。

 すでに繰り返し述べてきたことだが、ここでも、これまでの常識的な理解と異なり、般若経典で語られる大乗仏教は、ただ個人の心の救いを目指すだけのものでなく、全世界を覚りによって創造される美しい仏の国にしたいというきわめて大きなスケールの社会的理想をも掲げた思想運動であり社会運動でもあったということを改めて指摘しておきたい。

 そして、日本史の授業では教わらなかったことだが、『日本書紀』や『続日本紀』を右と左の偏見を排してちゃんと読み直してみると、大乗仏典・般若経典の「この国を仏国土にしたい」という誓願・国家理想は、聖徳太子のものであり、天智天皇や藤原鎌足のものでもあり、天武天皇のものでもあり、聖武天皇や藤原不比等のものでもあった、つまり「古代日本の国家理想」だったということは確実だ、と筆者は考えている。

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般若経典のエッセンスを語る45 ――すべての人が真理を学び覚る世界にしたい

2022年10月31日 | 仏教・宗教

 第二十六願は「楽無上大乗(ぎょうむじょうだいじょう)の願」という。

 自分だけでなくすべての人、そして人だけでなく生きとし生けるものすべての救いを目指す人々を「菩薩大士」といい、そうした菩薩の集まりを「大乗」という。「楽」は「らく」ではなく「ぎょう」と読み「望む」という意味である。菩薩は自分だけでなくすべての人が大乗仏教を望み志すようにしてあげたい、と願うのである。

 第二十七願は「遠離増上漫結(おんりぞうじょうまんけつ)の願」である。

 ところが、少し修行し特殊な体験をしたからからといって、究極の覚りに到っていないのに到ったと思い込み、途中でいい気になることを「増上慢」という。「結」は思い込み・煩悩といった意味で、自分にも他者にもさまざまな問題をもたらす。しかし、いわゆる教祖や高僧には、そうした増上慢の人が少なくないように筆者には見えて、きわめて困ったものだと思う。菩薩は自らはもちろん、他の修行者たち、他の人々がそうした増上慢に陥らないようにと願うのである。

 それから、第二十八願は「遠離執着(おんりしゅうちゃく)の願」で、宇宙は無常であってダイナミックに変化していくものだから、特定の状態が変化しないようにと執着をしてもそれは不可能であり、執着すればするほどかえって苦しみ悩むだけだから、そうした無益な執着から離れさせたい、と。

 第二十九願は「光明寿命弟子数無量(こうみょうじゅみょうでしむりょう)の願」で、寿命が長く光り輝くような仏の弟子が数限りなく生まれてほしい、というか、いわば人類すべてが仏の弟子になって、光り輝くような人生をいつまでも送ってほしい、という願である。

 そして第三十願は「仏土周円無量(ぶつどしゅうえんむりょう)の願」という。

 仏国土とは現代的にいえば全宇宙であるから、ほんとうは無限なのである。にもかかわらず、現象としてここからここまでが仏教国であるというふうに、広がりに限界があるのを見たら、菩薩は「全世界のガンジス川の砂のような数の大千世界を一つの国土にし、私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と誓願するのである。

 大千世界とは一つの宇宙である。これが一体で、全世界のガンジス川の砂の数のように無限であって、「私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と。全世界が一つになって、無限の世界の中で、数限りない衆生がすべて仏教を学んでいく。それはけっして特定宗教としての仏教の信奉者になるということではなく、すべてがつながって一つという縁起の理法、空・一如、智慧、そこから当然出てくる慈悲、といった真理の教えをすべての人が学んでいるという世界にしたい、と。これが菩薩の誓願の最後の一つ前である。

 そして最後の第三十一願は、「生死解脱(しょうじげだつ)の願」である。

 神話的な仏教の世界観では、私たちは六道を生死輪廻することになっていて、それは果てしなく続く。しかもそこを輪廻する有情の数は数限りない。数限りない有情が妄想・無明によって悩み苦しみながら悩ませ苦しませ合いながら果てしなく輪廻している。その姿を見た時、「もろもろの有情のために最高の真理の教えを説いて生死輪廻のはなはだしい苦しみから解脱させ、また生死解脱についてすべて実体性がなくみな結局は空であるという覚りの認識を得させよう」という願である。

 覚ってしまうと、もはや輪廻の苦しみから解放されてしまうどころか、菩薩は、衆生がいる限り、「私は衆生のために願って輪廻する」ということになる。すべての人を「ああ、私と宇宙とは一体なのだ」と覚らせてあげたい、と。

 菩薩はもう輪廻しなくてもいいところまで行っているのである。まさに「無上正等菩提に隣近」しているというか、境地としてはほぼ完全な覚り・涅槃の世界に行っているのだが、行ってしまってもう輪廻しないということでは輪廻の世界・六道で苦しんでいる衆生を救えないので、あえて輪廻の世界に戻ってきて、衆生を救うのだという。

 大乗仏教ではカルマによって生まれた生命・体を「業生身(ごっしょうしん)」という。悪いカルマだけでなく、いいカルマで天界に生まれても業生身である。業生身であるかぎりは、輪廻の苦しみを繰り返すことになっている。

 それに対して、菩薩はもはや輪廻しない境地に達しているのだが、あえて輪廻を買って出る。そうした「衆生を救いたい」という願であえて生まれてくる生命・体を「願生身(がんしょうしん)」という。

 私たちは当面、業生身である。しかしその私たちの中に菩薩の誓願が根付いたら、もう菩薩大士、または「大士」のほうはつかないとしてもとりあえず「菩薩」である。菩薩の非常にレベルが高いものを「菩薩大士・菩薩摩訶薩」といい、一方、入り口の菩薩は「凡夫の菩薩」という。たとえ凡夫の菩薩であっても願が確立したら、そこで私たちの身体そのものが願生身に変わり始めるといってもいいだろう。

 業生身としての身体で生きていると、「めんどくさい」「疲れた」「いやになった」「もっとうまいものが食いたい」「もっと楽な気持ちのいいところに暮らしたい」などと、私たちはいろいろ輪廻の元になるカルマを重ねることになるが、「どこにいようと、何をしようと、私はこの願を実行したい。そのために私はこの世に生きている」というふうに願が確立したら、願生身になる。

 私たちはなかなかそこまで行けないとしても、このきわめて高いいわば金メダル級の理想を、人生における自己成長の究極の目標にして努力することはできるのではないだろうか。

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般若経典のエッセンスを語る44――エコロジカルに持続可能な福祉世界の構想

2022年10月29日 | 仏教・宗教

 続いて、残り第三十一願まで大まかに見ていこう。

 第十八願は「得五神通慧(とくごじんずうえ)の願」といい、すべての衆生が五種類の神通力を得られるようにという願である。

 第一は「天眼通(てんげんつう)」といって、天界や地獄など死後の世界を見通す力、第二は「天耳通(てんにつう)」で、あらゆる言語・音声を聞くことのできる力、第三は「他心通(たしんつう)」で、他者の心の様子をしる力、第四は「宿命通(しゅくみょうつう)」で、前世のことを知る力、第五は「如意通(にょいつう)」(または神足通)で、意のままに飛行したり居場所を変えたりする力で、つまりすべての人に超人的な能力を具えさせたいというのである。

 面白いのは第十九願で、「無種々大小便穢(むしゅじゅだいしょうべんえ)の願」という。古代インドのことだから、トイレや下水道など大小便の衛生的処理の施設が整っておらず、家や村や町がとても汚く臭かったのだろう。そういうことがないようにしたいというのである。

 「菩薩の誓願」という言葉の印象では、何かとても高尚な目標だけが掲げられているのかと思われがちだが、こうした日常的な衛生のこともあげられており、菩薩の衆生への思いがきわめて具体的な生活の向上にも向けられていることがわかる。

 第二十願は「光明具足身(こうみょうぐそくしん)の願」で、いろいろな照明器具などなくても、すべての人が存在しているだけで光り輝いているようにしてやりたいというのである。

 これは、物理的に考えると超自然的エネルギーで体が輝いて余計な電力などいらないという夢のような話だが、むしろ特殊な優れた人だけでなくすべての人をオーラが輝いて見えるような存在にしたいということだろう。

 第二十一願は「無昼夜時節変易(むちゅうやじせつへんえき)の願」といい、昼と夜や季節が変化することがないようにしようという。

 昼と夜が同じようになるというのはあまりぴんと来ないが、季節についていえば、インドは雨季と乾季があって季節の変化が厳しいので、そういうことがなくいつも穏やかにという思いがあってこうした願が立てられたのだろう。

 しかし、日本のように四季折々が美しい国では、菩薩の誓願であってもこれは遠慮したいという気がする。気候変動のためいまや四季が二季になりつつあるが、かつてのように四季が豊かに穏やかに巡るようになってほしいというのは切実な願いである。季節が穏やかにしっかりと巡るようにというのが、現代の菩薩の願ではないだろうか。

 第二十二願は「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」で、すべての人が長生きできるようにしたいというのである。

 しかし、幸せで長生きをするのでなく、不幸で長生きをしたのでは、苦しみが長いだけである。日本はこのままでいくと、お年寄りにとって長生きしたくない国になってしまいそうである。筆者も、これからどんどん下り坂になる日本で歳は取りたくないなと思う。そうではなく、子どもの福祉も老人の福祉も実現し、歳をとっても百歳を超えても幸せという国にしたいものである。

 そして、「誰かにそうしてもらいたい」と思っているのは凡夫で、「私は渾身の努力をして命・体を一切惜しまず、そういう国にしよう」と願い誓うのが菩薩である。

 第二十三願は「相好具足(そうごうぐそく)の願」である。「相好を崩す」という言葉や、「三十二相八十種好」という仏の身体的特徴を表わす言葉があるように、誰もが顔かたちがいつもとてもすばらしいというふうにしたいというのである。

 第二十四願は「善根具足成就(ぜんこんぐそくじょうじゅ)の願」である。私たちの心の中の善を行おうという根本的な構えのことを「善根」といい、それがしっかりと備わるとやがて菩薩にもなれブッダにもなれるのが人間であるが、善根がなければそのスタートを切ることもできない。だから、すべての衆生に「いいことをしよう」「覚りに近づきたい」「覚りたい」という根本的な気持ちを持たせたいという願である。

 それから第二十五願は「無身心病の願」で、「体と心の病が人々にあるのを見たならば、そのすべてを癒してあげたい」と思うのが菩薩だという。

 すなわち、菩薩の願の中には現代的に言えば医療福祉、そして福祉国家の構想がしっかり確立されている。驚くべきことである。

 こうして菩薩の誓願をずっと見てくると、すでに紀元一世紀頃に、空・一如、すなわちすべてのものの一体性という根源的な思想に根拠づけられた、いわば「エコロジカルに持続可能な福祉国家-福祉世界」の構想が成り立っていたといってまちがいない、と筆者には思えてくるのである。

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般若経典のエッセンスを語る43――すべての生命種の差別をなくす

2022年10月28日 | 仏教・宗教

*諸般の事情で長い間中断していましたが、また少しずつでも「般若経典のエッセンスを語る」の続きを書いていくことにしました。

 

 第十六願は「無諸趣差別並六道名字(むしょしゅさべつならびにろくどうみょうじ)の願」という。「諸趣」とは、天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの生存形態すなわち「六道」のことで、菩薩は天界から地獄まですべての違い・差別をなしてしまい、六道という名称さえなくすことを願とするのだという。これもまた大変な願である。

 第十七願は「無四生差別(むししょうさべつ)の願」で、差別をなくすというのは、人間だけの話ではない。仏教では「四生」といって、生まれ方によって生命の種類を四つに分けている。卵で生まれるものが「卵生」、母胎から生まれるものが「胎生」、それから当時は科学が発達していないから、湿気から湧いて出るように見えたボウフラなどは「湿生」という。それから愛着や性別なしに自然に、悪く言えばお化けのようフワッと出てくるのが「化生」である。

 菩薩は、生命にこうした四種類の差別があるのを見ると、「我が仏国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう」と願い誓うのである。

 これはすべての生命が平等にという理想であって、つまり現代的にいえばすべての生命種が調和したエコロジカルに持続可能な世界を創出しようという願である。

 それに対し、日本の実情を言えば、例えばニホンカワウソは絶滅してしまったのだそうである。だいぶ前に絶滅していたらしかったが、もう何年も発見されないので、ようやく環境省が絶滅したと宣言したとのことである。

 例えば、ゲンゴロウはかつて日本中のどこの池にもいたごくありふれた虫だったのだが、いまや絶滅危惧種になっているという。メダカも絶滅危惧種である。花でいえば、例えばリンドウも絶滅危惧種である。こうした例はあげていくと数えきれないほどで、気づくと恐ろしいことである。人間だけが繁栄すると、他の生物たちは絶滅していくということなのだ。

 明治から戦後、特に七〇年以降の経済的繁栄(?)は、今や日本のエコシステムを完全に壊しつつあるのではないだろうか。それは世界全体も同じで、これは何としてでも何とかしなければならない事態だと筆者は考える。

 ともかくそうした事態は、般若経典つまり智慧の経典の目指すところとはまったく逆だし、人間と他の生命種をまるで別のものとして捉え、人間を中心だと考える分別知=無明から生み出されたものだといってまちがいない。

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般若経典のエッセンスを語る42――独裁者のいない社会を目指す

2021年12月26日 | 仏教・宗教

 第十四願は、いわば第十三願の補足で、「無形色差別の願」という。「形色(ぎょうしき)」とは、形・身体のことで平たい言葉で言えば「見た目」で、見た目・外見のきれい・汚いによる差別をなくしたいというのである。皆が平等に金色に輝いて美しい国にしたい、と。それは、皆が存在しているだけで等しく仏の子としての価値があるからである。

 けれども、現代の日本では、男女ともに外見・外面が美しいか美しくないかが価値の大きな物差しになっていて、密かな、時にはあからさまな差別を生み出しており、存在そのものや内面の価値を見る眼がかなり薄れているように思える。

 それは、物質的外面ばかりに目が向き精神的内面を見失いつつある近現代の世界観(K・ウィルバーの言う「平板な世界(フラットランド)コスモロジー」)の典型的な現われの一つだが、古代の日本のリーダーたちが目指した仏国土とはまるで逆の国になっているというほかない。

 

 そして先取りしてしまったが、第十五願は「無主宰得自在(むしゅさいとくじざい)の願」という。「主宰」つまり独裁的な君主・指導者がおらず、人々が自由を得ることを願うというのである。つまり、「仏国土においては独裁があってはならない」とはっきり書いてあるのだ。

 この願もまた、初めて読んだ時、驚きを覚えたものである。般若経典には、政治と離れた内面の安らぎのことが書いてあるだけでなく、きわめて政治的なことも書かれていて、特にはっきり独裁制を否定しているのだ、と。

 

……菩薩大士が……もろもろの有情が君主に隷属しておりいろいろしたいことがあっても自由にならないのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……私の仏の国土の中のもろもろの有情には君主がなくいろいろしたいことはみな自由であるようにしよう。

 

 こうして見てくると、西洋近代の「自由・平等・友愛」という理想は、はるかに古くからすべて仏教のなかに、空・一如というより深い根拠づけをもって存在していたと言うこともできるのではないだろうか。ただ三番目の標語は言葉としては「友愛」ではなく「慈悲」であるが。

 そして、次の但し書きが的確で渋いと思う。

 

 ただし、如来・真に正しい覚った方があって真理の教えのシステムで〔有情を〕包み込むのは法王であって例外である」。……

 

 こういう指導者は「法王」と呼ぶのであって、例外としてこういう指導者は必要である。仏国土には独裁者・君主は存在してはならない。けれども、人々はまだ煩悩・無明にまみれているので、教え導かなければ、平等で自由で人々が慈しみ合うような美しい仏国土は完成しない。だから、人々を智慧と慈悲に向けて精神的な成長へと教え導く法王は必要であるというのである。

 覚った指導者が人々を導くなどということが実際に可能なのか、夢のようなきれいごと・理想論にすぎないと思う人も多いかもしれない。

 しかし、例えば、そういう法王がいたかつてのチベットは、物質的には貧しかったかもしれないが非常に平和でいい国だったのではないかと推測される。

 そして、より具体的な実例として、ブータンという国がある。ブータンは、もともと法王が国王になった国であり、国王が大乗仏教の平等という思想をほんとうに深く理解していて、近代になると国王自身が政治体制を君主制から議会制民主主義にすべきだと言い出したという。臣下たちが「国王陛下が我々と平等ではもったいない」と言うと、「いや、仏教ではそう言われている」と答え、先代の国王主導で移行が行なわれ代替わりの時から議会制民主主義になったのだという。つまり、ブータンでは大乗仏教の平等の心が実際に生きていて実行されていると見てまちがいなさそうである。

 そして、基準によるが、国民が世界でいちばん幸せな国だという国際的な評価もあることはよく知られているとおりである。それは、たまたま幸運にもそうなったのではなく、大乗仏教の精神を深く身につけた国王が主導して意図的にGDP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福)を目指し、実現しつつあるということだという(大橋照枝『幸福立国ブータン』白水社、ドルジュ・ワンモ・ワンチュック『幸福大国ブータン』NHK出版、参照)。

 日本も原点を振り返ってみると、聖徳太子は日本をそういう人々すべて、さらに生きとし生けるものすべてが幸福な国にしたいと願ったのだと思われる。しかし、日本の場合、千四百年経ってもそうなっていないのはなんとも残念なことではないだろうか。

 とは言っても、現代の日本はすでに近代化され政治と宗教が分離されているから、ブータンと同じようにはできないが、精神においては、ブータンの大乗仏教精神とは日本の元々の精神でもあることをもう一回思い出しなおし、ぜひとも日本を大乗仏教の理想の生きた国にしたいものである。

 それは、もちろん決して仏教を排他的な国教にして他の宗教を否定するという意味ではない。聖徳太子自身、原理主義的に仏教を信奉したわけではなく、仏教を核としながらも「神仏儒習合」という寛容で統合的な精神政策を採用されたのだった。

 そして、すでに述べてきたとおり、仏教の核にある、すべてのものがつながっており(縁起)、分離独立した実体はどこにも存在せず(空)、果てしなくつながっていて究極のところ一つである(一如)という気づき(覚り)は、特定宗教の教義を超えた普遍的なものだと思われる。

 だとすれば、般若経典が示唆するような普遍的な気づきに基づいた国家さらには人類共同体は、これからの世界にとって、可能でもあり、必然的に目指されるべきものではないか、と筆者は考えている。

 

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