思想・宗教の見分け方のヒント

2013年01月29日 | 仏教・宗教

 若い人からしばしば聞かれる典型的な質問の1つに、「思想・宗教、思想家・宗教家、その集団が本物か偽物か、どう見分けてきたのですか?」というものがあります。

 最近もまた複数の若い人から聞かれたので、ここでブログ読者にもシェアすることにして、いくつかのポイントをお答えしておきたいと思います(本格的に論じるにはたぶん本一冊分のボリュームが必要だと思われますが)。

 まず、おおまかに言うと、自分の直感と理性の両方をフルに使って判断するよう努力してきた、ということです。

 「なぜかはよくわからないが、何となく怪しい」という直感は大事にする必要があると思っています。

 しかし、それだけでは主観に振り回されてしまう危険がありますから、「なぜ、どこが怪しいと思うのか」としっかり理性を働かせて洞察することも必要です。

 私の経験では、「怪しい」と感じられるものには、いくつかの特徴があります。

 ①まず、その教え、思想家ないし教祖、その集団が自分(たち)を自己絶対化していることです。

 これは宗教、非宗教を問わず、いわゆる原理主義の特徴です。実例としては、原理主義的キリスト教、原理主義的イスラム、原理主義的マルキシズムから、原理主義的新宗教、原理主義的新々宗教まで多様にあげられます。

 独断的な思いこみ・信念・信仰と違って、理性はものごとに対してきわめて柔軟な態度を取ります。冷静・客観的な観察を元にして仮説を立て、さらなる観察や実験や理論的推測によってその確かさを検証し、問題があれば修正をする、という態度です。

 それに対して自己絶対化した独断的な教えは硬直していて、初めから決めつけられた結論があり、理性的な疑いや検証や修正を許容しません。

 しかし、この世界そして宇宙にはあまりにも膨大な情報があるのですから、不完全で限定された人間の知恵がそのすべてを知った上で最終的・絶対的な結論に到達できるとは思えません。

 不完全な人間には、不完全な情報の範囲で不完全な理性をできるだけ働かせながら、「当面の確からしい――将来修正の可能性もある――結論」に到ることができるだけではないか、と私は考えています。

 そういう意味で、リーダー、メンバー、グループに柔軟さが感じられず、自己絶対化、独断、決めつけといった臭いがしたら、それは怪しいと思っていいでしょう。

 ②続いて、それを学んだり、そのグループに所属するために常識外れのおカネを請求されるかどうか、ということです。

 いろいろな趣味や教養のために一定の常識的な範囲の謝礼が必要なことは当然ですが、常識外れの献金や会費を請求するようでしたら、建前がどんなに立派でも本音は営利目的ではないか、そういうグループは怪しいのではないかと疑っていいでしょう。

 ただ、最初はタダまたは格安で、だんだん高くなるというシステムになっている場合がしばしばあるので、要注意です。

 ③さらに、しつこくて強引な勧誘で入会させようとしたり、退会しようとすると強制的に引きとめるようなグループは怪しいと思っていいでしょう。

 どこまで個々人の信教の自由、思想の自由、判断・決断の自由を重んじるかということは、本物か偽物かの重要な違いだと思われます。

 さらに加えて言えば、リーダー、メンバー、グループが、疑問や反論に対して柔軟であり、妥当な料金しか請求せず、入退会がゆるやかであれば、それは本物か偽物か以前に、あまり危険はない、と言ってまちがいないでしょう。

 ともかく、どんなに魅力的に見えたり力があるように見えても、危険な思想や集団は選ばないことを、私は若い人に勧めています。

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生きることは本質的には幸せ:学生の感想

2013年01月22日 | 生きる意味

 大学での授業が終わり、ほっとしていると言っても、まだ採点は完了していないので、もう一仕事の最中です。

 そんな中、O大学の男子学生から少し遅れた授業の感想文が届きました。

 視力障害があるためテキストや資料を読むのにかなり時間がかかるとのことで、遅くなるのは予め了承済みでした。

 コスモロジーの話は、いろいろな問題を抱えている方からは「そんなきれいごとを言ったって…」といった反応もありますが、「とても元気になれた」という反応もあります。

 彼の場合、授業時には特に何も言ってきませんでしたが、熱心に聴いてはいるようでしたので、どうなのだろうと思いながら、立ち入ることはしませんでした。

 届いた感想文を読むと、思っていた以上に心に深く響いたようで、とても喜んでいます。やはり教えてよかった!

 さまざまなハンディや問題を抱えた方や、そうした方に接する指導者の方の非常な参考になると思いますので、本人の了承を得て、以下、ご紹介します。
 
                *

 「人生とは」,「生きることとは」,ということについて,正直履修以前から真剣に何度も考えることがありました.でもいつも答えはでない,それどころかいつもかなりネガティブな考えになっていました.それだから,私も今回のテキストの最初で先生が紹介しておられた女子学生同様に,「考えないようにする」ことが大事だと本気で自分に言い聞かせていました.また,自分はとにかく日々強い劣等感や,不条理感,理不尽な思いばかり感じていました.

 しかし,講座を終えた今,そんな私が本当に自分でも驚くほど,「かわることができた」と確信しています.そして,自分の内面だけでなく,自分の周りの世界がちがって見えるようになった気がします.

 今自分が存在し,生きている,ただそのこと自体が,137億年の歴史のおかげ,他のものとのつながりのおかげだ,と思うだけでことばにできないほどの感謝の気持ちを感じます.

 心の底から,人生とは,生きることは本質的には「幸せなんだなぁ」という思いでいっぱいになりました.自分も宇宙の一部,宇宙と一体,そう考えると,もう不条理だなんていえないなと思えるようになりました.

 授業での学びではなにより,現代科学のコスモロジーが,宗教,とりわけ「縁起の理法」,無常や無我,空,唯識・・・をはじめとした仏教のコスモロジー,さらにいえば,キリスト教神秘主義などと,ほとんどエッセンスとして同じであることに驚きと感動の気持ちでいっぱいです.

 この授業で学んだことは,これから生きていくうえで絶対忘れられない,忘れてはいけないものになったと思っています.

 無明をなくし,覚りに達するというのは相当難しいと思います.ですが,せめて今回得た考え方を大切に,日々の生活の中で忘れないようになればと思います.

 そうすればきっと,もっと「うけいれられるようになって」,より晴れやかですがすがしい,生き生きとした人生を送れるようになるかなと思います.

                 *

 唯識―論理療法などの認知的療法―コスモス・セラピーが共有している視点は、「ものごとがどう見えるかは見方しだい」ということです。

 自分の置かれている状況が不条理だと感じるか幸せだと感じるか、多くの場合、かなりの程度、自分の見方しだいです(もちろん、どう見てみても幸せだとは思えないという極限状況はあるでしょう)。

 彼の場合も、つながりコスモロジー的な見方ができるようになったために、劣等感や不条理感が「生きていることは本質的には幸せなんだなぁ」という思いに変わっています。

 ほんとうに、教えて―学んでくれて、よかったと思います。

 特にうれしいのは、「今回得た考え方を大切に,日々の生活の中で忘れない」ことが重要だと気づいてくれていることです。

 そうです、ここがポイントなのです!

 コスモス・セラピーの受講者に頻繁に起こる問題は、聞いた―感動した―元気になった―やがて日常生活にまぎれて、忘れた―元気がなくなった、というよくない流れに流されがちだということです。

 すでに学んできたみなさん、繰り返し学ぶ、繰り返し思い出す、心の底(アーラヤ識)に定着させる(熏習)努力をぜひ持続してください。

 心理的には、自分の根元(宇宙との一体性)に気づいている状態を「元気」と言い、忘れた状態を「気落ち」と言います。

 気落ちしないでいつも元気でいられるよう、気をつけていましょう。

 
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今何をするべきか

2013年01月19日 | 持続可能な社会

 持続可能な国づくりの会のブログに「今何をするべきか」というタイトルの記事を書きました。

 環境に関わる講演・講義のたびに出る、「では私は何をしたらいいんでしょう。何ができるんでしょう」という典型的な問いへの答えです。

 よかったら、読んでみてください。

 大学の授業は終わって少し時間が取れるようになり(まだ成績評価の作業があるのですが)、サングラハ教育・心理研究所の講座も3月までお休みで、直接のメッセージ伝達の機会がしばらくありませんので、持続のほうもこちらもなるべく記事を書くようにするつもりです。

 続けて読んで、そして反応していただけると幸いです。

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大学での授業はひとまず完了

2013年01月18日 | 心の教育

 今日は、読者にとってどうでもいいかもしれない私事の記事です。

 先週、法政大学、一昨日、武蔵野大学、昨日、桜美林大学の授業が終わり、これでそれぞれ12年、9年、7年間の大学での仕事が完了しました。

 ブログのタイトルと同じく「伝えたい! いのちの意味」という気持ちでやってきましたが、これまで何度も感想文などをご紹介したとおり、かなりの数の若者につながりコスモロジーの視点から見えてくるいのちの意味についてしっかり伝えることができた、と感じています。

 私は、税法上は民間の「著述業者」であり(呼称としてはかつて東京新聞の書評で「在野の思想家」と書いてもらったのがとても気に入っていますが)、第一作の『トランスパーソナル心理学』(青土社)以降、いろいろ書いてきました。

 しかし、書いても書いてもどうも届けたい読者(特に若い世代)に届いていないという感じがして――後に学生に聞いたら「だって俺ら本屋に行かないもん」とのことでしたが――誘ってくださる方があり、「しょうがない、こちらから出前出張だ」という気持ちもあって、大学で教えるようになりました。

 教えてみると、メディアでの印象と違って、大学をレジャーランドと心得ちがいしている若者ばかりではなく、真剣に人生の意味を求めている若者も相当数?あるいは一定数いることがわかり、手ごたえを感じ面白くて、四国学院大や青森公立大学での集中講義も含めると、気づいたらいつの間にか15年、大学で教えてきたことになります。

 きわめて本気で取り組んできたつもりなので、終わったら「感無量」という感じになるかと予想していましたが、昨日の帰り道、意外にすっきり、さっぱりした感じでした。

 なぜだろうと考えてみると、年相応の疲れのために「肩の荷を下ろした」という感じでほっとしているということもあるでしょうが、それよりは気持ちが次のことに向かっているからだと気づきました。

 これまではアウトプットにそうとう時間を取られていたので、これからはインプットのほうに時間を使えるようになる、ということもあります。

 ゲーテが「時よ止まれ、おまえはあまりに美しい」という名セリフを吐いていますが、私にとってこの世には知りたい・調べたい・解明したいことが――もちろん体験したい・感じたい・感動したいことも――まだ山ほど残っているという感じで、時間が足りません。

 「時間よ、もう少しゆっくり流れてくれ」という感じです。

 それから、サングラハ教育・心理研究所と持続可能な国づくりの会の両方を通じて続けてきたメッセージの発信は、これまでとかたちを変えてしかししっかり続けていくつもりなので、それをどうしようかとあれこれ考えている、ということもあります。

 もちろん、本職の著述の時間もこれまでよりは多く取れるようになるので、出版状況さえゆるせば、これまでよりも多めに書いて出版していくつもりです。

 (若者よ、本屋に行け! 一時的に楽しいだけで消費・浪費されてしまう情報よりも、もっと魂の栄養になる情報を包んでいる書物を買って読みなさい! 市場社会では残念ながらどんなに本質的価値があっても、売れないものは流通しない。価値あるものを流通させるのは価値を理解できる「賢い購買者」の存在なのです。)

 私が人生にとってきわめて基本的で重要だと考えていて、君たちに伝えたかったことを、受けて止め学んでくれた、これまでの学生諸君、有難う!

 よかったら、これからも、ブログや本や講座・学習会などで、さらに一緒に学びを続けて下さい。

 ネット学生のみなさんも、ぜひこれからも学びを続けましょう。

 「いったん始まったら、学びに終わりはないのだよ」(クリシュナムルティのクリシュナムルティ・スクールの生徒たちへの言葉)。

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持続可能な国づくりを考える会学習会

2013年01月14日 | 持続可能な社会

 昨日は、「持続可能な国づくりを考える会」の学習会でした。

 そこで行なった講義の要点を会のブログに掲載していますので、よろしければご覧ください。

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変化と更新

2013年01月04日 | コスモロジー

 明けましておめでとうございます。

 「持続可能な国づくりを考える会」のブログにはすでに新年の記事を書きましたが1)2)、こちらは今日になりました。

 昨年12月、新著『ストイックという思想――マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』(青土社)を出しましたが、その中から波乱含みの新年にふさわしい言葉をご紹介します。



 宇宙を支配している自然はすべて君の見るものを一瞬のうちに変化させ、その物質から他のものを創造し、さらにそれらのものの物質から他のものを創造し、そうすることで常に世界を新たにしている。                      (七・二五)


 変化を恐れる人がいるかもしれない。だが、変化がなくて何が生まれうるだろう。宇宙の自然にとってこれよりも好ましく親しいものがあるだろうか。君自身、薪が変化しなかったら風呂に入れるだろうか。食物が変化しなかったら栄養を摂れるだろうか。そのほか有益な事で変化なしに成し遂げられることがあるだろうか。君自身の変化も同じで、宇宙の自然にとっては同じように必要だということがわからないのか。    (七・一八)


 我々はみな一つの目的の実現に向って共同作業をしている。ある人間は意識的かつ理性的に、ある人間はそうとも知らないで。たしかへラクレイトスが言っていたが、「眠っている人間でさえ働き手」であり、宇宙の中の出来事を作り出す共同作業者なのだ。だが、人はそれぞれ違うやり方で共同作業をする。出来事を非難する人間、反逆し破棄しようとする人間でさえ共同作業をしているのだ。なぜなら宇宙はそういう人間をも必要としたのだから。
 だとしたら、後は君がどちらの人間の側に立つかを決めるだけだ。もちろんどうなっても宇宙の管理者は君をうまく用い、共同作業者や協力者の一部として受け入れてくれるだろう。しかし君としては、クリュシッポスが言っている、劇の中のくだらない、笑うべき一行のような部分にはならないことだ。                (六・四二)


 どんなことが起こり、それが私たちにとってどんなに不都合でも、宇宙には不条理はない、というのが、ストア派のコスモロジーであり、コスモス・セラピーの考え方でもあります。

 今年もどんな変化があるとしても、一時的に宇宙進化の方向から逸れているように見えることが起ころうとも、根本的には、それは宇宙が起こすべくして起こしたことという面があり、しかし、だからといってすべてどうでもいいのではなく、私たちはやはり宇宙進化の方向にまっすぐに沿った生き方をするべき、したほうがいいのです。

 今年も宇宙進化の方向に沿ったいい一年になるように、するように努力しましょう!

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