意識上の根本煩悩5:疑(ぎ)――自己防衛的に反発し疑い否定する心

2006年03月31日 | メンタル・ヘルス



 私たちふつうの人間は、自分が実体的な存在であることを深く信じ込んでいます。

 復習的に言うと、「実体」には①他と関わりなくそれ自体で存在している、存在できる、②変わることのないそれ自体の性質がある、③いつまでも存在する、できる、という意味がありました。

 人間は自分が実体的な存在であると思い込むことでアイデンティティ(自己同一性、自分が自分であるという深層の信念・安定感)を確立-維持しているといってもいいほどです。

 そういう実体としての自己を信じ込んでいる状態を「我見」というのでした。

 我見があると、当然ながら、他の影響を受けて自分が変えられることを極度に嫌うという傾向が生まれます。

 他の影響を受けて変わってしまうことは、①②③のどの意味でも実体的な自分を失うことになるからです。

 「私は私だ。人の意見は関係ない」、「私には私の信念がある」、「私の信念は変わらないのだ」、「私の信念を変えてなるものか」というわけです。

 「疑」とは、そういうふうに実体としての自己(とその信念)を防衛するために、仏教の伝えようとすることに反発し、疑い、否定する心の姿勢のことです。

 それはまず自分(の考え)を変えられたくないというのが基本的な動機ですから、伝えられていることが正しいかどうかはどうでもいいのです。

 硬直した我見のある人間にとって、これまで自分が考え・信じてきたことが間違っていて、伝えられたことが真理であるなど、ありえない、あってはならないことなのです。

 しかしここで、もう一度考えてみましょう。

 これまでお話ししてきたような、縁起、無常、無我、一如、空といったコンセプトで指し示されているのは、特定の思想というより、ありのままのコスモスの理で、誰にとっても当てはまることなのではないでしょうか?

 「それは仏教の教えであって、それも一つの考えにすぎない」ものなのでしょうか?

 そこのところ、読者のみなさんはどうお考えですか? 判断はもちろんみなさんの自由です。

 仏教の中核にあるものはいわゆる特定宗教であるよりは、普遍妥当性のある哲学と霊性だ、と私は理解しているのですが。

 さて、だからこそ、仏教(のエッセンス)は、疑えない真理に到るために疑えるものはすべて疑うというデカルト的・哲学的な方法としての懐疑は否定していないと思います。

 徹底的に疑った上でも認めざるをえないありのままの真実でなければ、ダルマ・法とはいえないからです。

 仏教の伝えているものが確かにダルマ・宇宙の理法だとすれば、それが自分の今までの考えに合わないからというので、反発し、疑い、否定することによって、自分の生き方がダルマから外れることになります。

 宇宙の理法から外れれば、人生で迷い悩んだり、失敗して痛い目に遭うのは当然です。

 そういう意味で、「疑」もまた確かに根本煩悩です。

 といっても、臨床的に言えば、我見の硬直度は人によってさまざまで、この「疑」という煩悩についても、さほど強くない、かなり柔軟に見える人もいます。

 必要に応じて自分を変えられる柔軟な心をもっていて、「疑」の心はあまりない人のほうが、どうも爽やかに真直ぐ生きられるようです。


*写真は寒緋桜


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意識上の根本煩悩4:慢(まん)――比較する心

2006年03月30日 | メンタル・ヘルス



 私と他の人とにははっきりと区別があります。

 私は私であってあなたではないし、あなたはあなたであって私ではない、という面は確実にあります。

 しかし深いところではつながって一つなのでしたね。

 ところが、マナ識は他と分離した実体としての自分があると錯覚しています(我見)。

 そしてそういう自分を依りどころ、頼り、誇りとしています(我慢)。

 さらにそういう自分に過剰に愛着します(我愛)。

 そのために、意識でも他と分離した実体的な自分がいると思っていますし、そういう自分を依りどころとしそれに愛着して生きています。

 すると、なぜかどうしても――つまり意識による倫理的なコントロールが効かず――自分と他人を比較したくなり、人よりも自分が勝り、優れ、上にいたいという強い気持ちが生まれてきます。

 そういう、自分と他を比較し他より優越したいという心の働きを「慢(まん)」と言います。

 これは、分離して比較する心の働きがまずあり、その上で優越したいと思うわけです。

 ところが、比較した結果、どうしても優越していない、劣等だと思わざるをえないケースもしばしばあります。

 そうすると卑下する、落ち込む、劣等感に苦しむ……といったことになってしまいます。

 もちろん、優越していると思うと、たいてい傲慢になり、横柄になり、人に嫌な思いをさせ、実際いろいろ迷惑をかけたりします。

 他者と自己とを分離した上で比較する心・慢は、自分をも人をも煩わせ悩ませる、まさに「煩悩」ですね。

 優越感と劣等感のアップダウンというのは、とても不毛な、しかしあまりにもありふれたふつうの私たちの根本的な悩みです。

 この煩悩は、必死になって人と競争し、足を引っ張り合いながら、優越性を追求するというやり方ではなく、人と自分とはほんとうは一つなのだから、上も下もない、比較できない、する必要はないということに、深く気づくことによってのみ根本的に解決される、と仏教は教えています。

 「そうは言っても…理屈はそうだけど…」という気のされる方、よかったら2つのことを考えてみてください。

 まず、間違いなく「理屈はそうだ」と思えるかどうか、です。

 そして、「確かに理屈はそうだ」と思ったら、実感や納得は後にして、ともかく理屈はそうだと確認するといいのではないでしょうか。

 それから、なぜ、実感や納得ができないのか、唯識が教えていることを思い出してください。

 そうです、「けど」という反応・反発はマナ識の反応なのですね。

 「すべてはつながって一つ」ということはヘッド(頭)ではわかったが、ハート(心・心臓)で感じられない、ガット(胆)に納まっていないのです。

 だから、私たちはどうしても人と比較したくなります。

 そして、比較しておいて、優越感-劣等感の波に揺さぶられてしまうわけです。

 動揺し安らかでない人生を送るのが嫌な方は、まず意識でしっかり理解し、それからマナ識の浄化に取り組むほかないようです。

 あ、もちろん、動揺し安らかでない人生でいい方は、それも選択の自由だと思いますが。


*散歩の途中、上の写真のような木の花を見ました。名前をご存知の方がおられましたら、教えていただけると幸いです。


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意識上の根本煩悩3:癡(ち)――コスモスの理への無知・無理解

2006年03月29日 | メンタル・ヘルス


 「癡」とは、縁起・空の理法についての無知、無理解、愚かさのことです。

 現代的に言い換えると、コスモスの理への無知・無理解といってもいいでしょう。

 自分が縁起・空の世界、宇宙の真っ只中に生きていながら、そのことを知らない、理解していないのです。

 自分が自分だけで自分としていつまでも生きていられるかのような錯覚です。

 これは、「無明」とほぼ同義語です。

 しかし、すでにおわかりのとおり、唯識の特長は、無明をマナ識における4つの根本煩悩とりわけ「我癡」と意識における「癡」の2つに分けて捉えているところです。

 幸いにして、意識上の愚かさは本気で学べば比較的容易に克服することができます。

 しかし無意識に潜み強固なシステムになってしまっている「我癡」は、簡単には克服できません。

 さらにしかし、「簡単ではないが克服は可能である」というのが仏教の基本的メッセージです。

 この文章は、「克服は可能であるが簡単ではない」と前後を入れ替えることもできます。

 そして自分の言葉として、どちらの順序で言うかは選択の問題です。

 私は、とても幸運なことに、いい師やいい書物、とりわけ『摂大乗論』などに出会って、意識上の「癡」はかなりクリアできたような気がしていますし、坐禅そして六波羅蜜の実践を通して、マナ識の「我癡」もいくらかは浄化できてきているかなと感じていますので、「簡単ではないが可能である」というほうの言葉をモットーとして採用しています。

 可能だと思う一方、やっぱり今生で完成するのはなかなか、きわめて困難だろうな、とも思っていますが。

 それにしても、つながり-かさなりコスモロジーと仏教の学びのお陰で、「宇宙と私はつながってひとつ」、「すべてのものと私はつながってひとつ」という考え方は本気でそう思えるようになっています。

 本気でそう思いながら見ると、世界が輝いて見えるから不思議です。

 この季節、「宇宙が今・ここで桜として花開いている」と感じると、桜がいっそう美しく見えます。


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意識上の根本煩悩2:瞋(しん)――過剰で不健全な怒り

2006年03月28日 | メンタル・ヘルス


 唯識では意識上にも根本煩悩があるとしていて、前回の貪、今回の瞋・憤り、そして癡(ち)、慢(まん)、疑(ぎ)、悪見(あっけん)の6つを数えています。

 学んでいくと、人間の心が抱えている深刻な問題を、よくもまあこんなにも正確に、徹底的に厳しく洞察したものだと感心してしまいます。

 何度も言っていますが、ただこの話だけだったら嫌になってしまうほど徹底的です。

 しかし、それはきわめて正確な診断であると思えるので、したがってその次にくる治療法も信頼できると思えるのです。

 マナ識は、自己を実体視し、それにこだわっていますから、自己防衛はしばしば過剰になりがちです。

 過剰な自己防衛は、自分の思い通りにすること、自分の利益、自分の面子などなどを脅かすものに対して、過剰で不健全な怒りを生み出しがちです。

 さらには、自分を脅かすものには過剰に反応する潜在的な可能性をいつも抱えることになります。

 世界でいちばん大切な〔実体としての〕自分(とその物質的・精神的所有物)を絶対に守らなければならない、それは自分の〔実体としての〕権利だ、と思い込んでいるわけですから、当然でしょう。

 根本煩悩としての「瞋」とは、そういう過剰な怒り、さらにはいつでも怒る潜在性があることをいう、と私は解釈しています。

 そういう過剰で不健全な怒りは、自分にとっても他者にとってもきわめて有害で厄介なものだと思うのですが、なかなかやめられません。

 しつこくかつ深刻な慢性病のようなものです。

 しかし、それは、実体ではなくても現象としてはありありと存在していて、絶対ではなくても相対的にはある権利を守るための、適度で正当な自己防衛とは違うと思います。

 また実体ではなくても現象としてはとても大切な、社会正義を実現するための「義憤」というのはあっていいものです。

 そういう健全で正当な怒りと不健全で過剰な怒りの区別をちゃんとした上で、しかしやはり、根本煩悩としての「瞋・憤り」はぜひ治療-克服したいものです。

 それなくしては、世界から家庭そして個人の心に平和が訪れることはないでしょう。

 平和を望むのなら、瞋という心の病は治療しなければなりませんね(念のため、こういう「なければならない」を、論理療法では「相対的、条件付きmust」と呼んで、絶対化されたmustと区別して認めています)。


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4月2日講座案内

2006年03月27日 | 心の教育
*締め切りました。


 サングラハ教育・心理研究所 藤沢ミーティング・ルーム開設記念

 コスモロジー教育=コスモス・セラピー
                          ――生きる自信の心理学 入門講座



 今、競争社会の中で勝ち組か負け組みかという不毛な二極化が進んでいます。そうした中にあって、いちおう勝ってもワーカホリック(過重労働症)状態でいつもストレスを感じながら生活するとか、負けて傷つき脱落し引きこもるとか、あるいは最初から競争から逃げるとか、社会に反抗するということ以外に、もっと生産的な選択肢はないのでしょうか。

 「ある!」というのがサングラハの答えです。

 それは、自分が自分として生きている意味をはっきり実感的に理解することでたえず生命エネルギーを充電しながら、現代生物学が明らかにした生命の世界そのものの姿である「共存的競争・競争的共存」(「弱肉強食」「生存闘争」はかつての進化論のもたらしたもう全く古くなった偏見です)という原理を自分の心構えにすることで、競争社会に巻き込まれることなく、しかしそこでしっかり生き抜く、ということです。

 これまでの教育やセラピーでは「なぜ生きるのか」を実感的に伝える理論と方法が不十分なため、生きる意味がわからない→学ぶ意味・働く意味がわからない→学ぶ意欲・働く意欲が湧いてこない→生きる意欲や喜びが感じられない、という現代の深刻な問題を根本的には解決できなかったと思われます。

 コスモロジー教育=コスモス・セラピーは、現代科学の最新の自然観‐生命観のエッセンス(細かく複雑なところは省いていますので、文科系の方にも十分理解していただけます)を学ぶことを通して生きる意味を実感的に発見するという、現代人にぴったりの教育‐セラピーのシステムです。

 一見、理想論のように感じる方もあるかもしれませんが、すでに研究所主幹以外の複数の大学・高校教師、セラピストらによる現場での実践とアンケート調査でも確実な効果――生きる意欲+学習意欲の高まり→生きがいの発見、成績の向上、能動的な進路選択など――が実証され、年々評価が高まっています。

 今回は、研究所の新しいミーティング・ルームの開設を記念して、その理論と方法のエッセンスを実感的に学んでいただく1日集中講座を企画しました。ぜひ、ご参加下さい。

●日時: 4月2日(日)午前11時~午後6時頃

●会場:神奈川県藤沢市藤沢 サングラハ教育・心理研究所ミーティング・ルーム(JR藤沢駅北口徒歩3分、地図はこちらを参照)

●講師:岡野守也+松原弘和(サブ・インストラクター)

●参加費:一般1万円、会員8千円、専業主婦・無職7千円、学生5千円、(昼食・交通費は自己負担)

●テキスト:岡野守也『生きる自信の心理学』(PHP新書)。

●持参品:筆記用具、軽い運動のできる服装・靴、寝転べる広さのシート。

●定員:20名


●締め切りました。
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意識上の根本煩悩1:貪(とん)――過剰で不健全な欲望

2006年03月27日 | 心の教育

 意識には、残念ながら善の心だけではなく、煩悩の心も働いています。

 というか、ふつうの人間の心は煩悩だらけと言ってもいいくらいです。

 ちょっと反省心・慙愧の念のある方なら、「私の心はほんとうに煩悩だらけだなあ」という実感があるのではないでしょうか。

 私たちは、マナ識の4つの根本煩悩から生まれる、意識上の6つの根本煩悩も抱えている、さらにそこから生まれる20種類もの随煩悩がある、というのが唯識の洞察です。

 ここの部分は学んでいると、ガマの油売りの口上ではありませんが、「己の姿の醜さに脂汗がたらりたらりと……」という気分になってきて、うんざりすることでしょう(私もそうでした)。

 が、ここがインフォームド・コンセントの頑張りどころです。

 「こういう症状がありませんか。あるとしたら、あなたは病気です」という、ちょっとショックな診断が下されますが、それはその後で「でも、ちゃんと治療すれば治ります」という話になっていくのですから。

 さて、538年または552年、日本に公式に仏教が導入されて以来、1400年以上経って、「煩悩」という仏教用語は誰でも知っている日常の言葉になっています。

 そういう仏教のコンセプトが導入されたことによって、「煩悩だらけの自分」が自覚でき、慙愧の念が起こり、その結果、日本人のすばらしい国民性の1つである真面目さが育ってきた、という面もあると思います(儒教の影響ももちろんあります)。

 しかし残念なことに、いろいろな事情があって、その「煩悩」という言葉が正確・厳密にはどういう意味なのかということに関しては、日本人の常識になってきていません。

 それどころか、戦後の資本主義大量消費社会では、欲望の解放-追求こそ経済を活性化させるものとして歓迎されてきて、いまや日本は欲望の氾濫・野放し状態だと言ってもいいくらいです。

 それに対する反動として、『清貧の思想』という本がベストセラーになったこともありましたが、所詮反動であって、社会全体はますます富の追求、「金持ち父さん」志向へと急傾斜しているようです。

 経済以外の分野でも、欲望の追求-充足こそ人生、煩悩があるからこそ人間らしい……と考えている人の数が増えているように思えます。

 そういう状況の中で私たちが自分の価値観や生き方をどうするか考えるに際して、「善の心4」のところでお話しした、過度で異常な「欲望」と適度で正常な「欲求」の区別はきわめて重要です。

 意識上の根本煩悩の第一にあげられている「貪(とん)・貪り」とは過度で異常な「欲望」のことを指しているのであって、適度で正常な「欲求」まで煩悩として否定されるわけではないのです。

 しかしとはいっても、人間の心の奥にはマナ識が働いているために、4つの根本煩悩によって意識がコントロールされてしまいがちだというのも確かです。

 特に我慢と我愛の心は、必要以上・過剰な自己防衛や自己顕示の欲望を引き起こしがちです。

 過剰な自己防衛・自己顕示欲があると、お金はさまざまな面で一定程度自分を守ってくれますし、お金があれば自分を飾るためのさまざまなものを得られますから、過剰・異常にお金が欲しくなってしまうわけです。

 我愛の心は、自分の快楽・快感・幸福への病的・過剰な執着を引き起こしがちです。

 そのために、性、財産、社会的地位、名誉といったものへの欲求も、自然な範囲を超えて過剰で不健全なものになってしまいがちなのです。

 過剰で不健全な欲望・貪りの心を、どのようにして適度で健全な欲求・適欲の心に変えられるか、それが問題です。


*人間と違って花は健やかで美しいですね。神田川沿いのレンギョウの花。

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コスモロジー式結婚式

2006年03月26日 | 生きる意味
 教え子の結婚式の司式のため、2日ブログの更新を休みました。

 その代わり、花嫁・花婿はもちろん親族や友人のみなさんにも直接、結婚式、披露宴の2度にわたって、コスモロジー的な結婚の意味についてメッセージを伝えることができました。

 私にとってブログは、メッセージを伝えるための重要な、しかし1つの手段なので、ずっと読んでいてくださる読者のみなさん、ご理解下さい。


 「私は花嫁さんの大学時代の教師ですが、牧師の資格も持っていますので、ぜひ、きみの結婚式の司式をやらせてほしい、とこちらから頼んでやらせてもらいました。

 お教えした宗教学の時間にも話したのですが、もうキリスト教か仏教かイスラームかといったことにこだわっている時代は終わったと思います。

 いちおう式はキリスト教のかたちで行ないますが、そこで使われる「神」という言葉は、神、仏、天地・自然、ご先祖さま、宇宙などどういう言葉でも、ご自分で納得のできる言葉に置き換えてお聞き下さい。

 どういう言葉を使うにせよ、私たちが自分を超えたより大きな何ものかによって生まれ、生かされていることは事実だと思います」と前置きし、

 男と女が出会うことの不思議さ、いのちはコスモスから預けられたものであり、そして有限であること、結婚はコスモスから与えられた、愛し合うという人生最大の喜びを体験するチャンスであること、しかしそのチャンスを活かすには「愛されたかったら、愛しなさい」という精神的な意味での大人の智慧が必要であること、などをお伝えしました。

 花嫁・花婿と同世代の若い方が多いということも、結婚式という特別な場ということもあったのでしょうが、みなさんが熱心に感動をもって聞いてくださったようです。

 そばで聞いていた会場の係りの方が、後で「今日、私は先生のお話をうかがうためにここにいたような気がします」とわざわざご挨拶に来てくださったのも、とてもうれしかったことの1つです。

 コスモロジー的な見方で世界を見ると世界が実に美しく見えます。

 それはもう特定の宗教や思想の枠を超えて、ほとんど誰でも共有できるものである、ということを今回も実感しました。


 誠実な人柄の花婿、初々しい花嫁の姿に、まるで父親のような気分になって、最後のお見送りの時に、彼女には「幸せになるんだよ」と、彼には「幸せにするんだよ」と言うと、彼女はうれしそうにうなづき、彼は即座にしっかりと「必ず幸せにします」と答えてくれました。

 たくさんの人にお説教をさせてもらい、そして祝福をさせてもらって、自分も幸せな気分にさせてもらえる、いい仕事を選んだな、と改めて我ながら喜んだことです。

 彼女らの願いどおり、よく晴れて、桜が開花し始めた、いい日でした。

 うれしさのあまり、披露宴の後、他の教え子たちと飲んでかなり遅くなり、ようやく市谷駅に着くと、昼間はそれほどでもなかった外堀公園の桜がみごとに開いていて、なんとも美しい夜桜の風景でした。

 残った物好きな数人と私たち夫婦は、桜並木の下を飯田橋駅まで歩くことにしました。

 家に帰り着いたのは1時近く、ブログの更新は無し、というわけでした。


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善の心11:不害(ふがい)――他者を傷つけることのない心

2006年03月23日 | 心の教育

 信に始まった善の心のリストは、不害(ふがい)で終わります。

 「不害」と訳されたサンスクリット語の原語は「アヒムサー」です。

 これは、マハトマ(偉大な魂)と呼ばれたインド独立の父ガンディーのモットーでもありました。

 「非暴力」と訳されたので、残念ながら仏教用語との対応がほとんど知られていません。

 ガンディーにおける「非暴力」が、ただ悪に対するひ弱で無力な無抵抗のことではまったくなく、イギリスの植民地政策という悪に対する燃えるような「非暴力・積極的抵抗」であったのと同様、本来の仏教における不害も表現は控えめに「傷つけないこと」となっていますが、きわめて積極的・能動的なものであるはずだと思います。

 「何にもしなければ、傷つけない-傷つかない」というひ弱な自己防衛の姿勢は、実は社会全体の中でたくさんの人が傷ついている・傷ついていくことを放置・黙認することであり、広い視野から見ればむしろ「傷つけること」に手を貸していることになります。

 「傷つけないこと」という控えめな表現がされてはいても、本来の精神は「積極的・能動的に癒しや和らぎをもたらすこと」という意味を含んでいます。

 それはまさに「善」というほかありません。

 しかし、マナ識のために自分にこだわりがちな私たち人間は、ともすると「癒しや和らぎ、いいこと〔だと私が思うこと〕」を押し付けてかえって傷つけてしまうことがあります。

 人の役に立ちたいと思った時も、まず一歩引いて自分のマナ識をよく洞察し(道元禅師のいう「退歩の工夫」)、ほんとうに相手にとって癒しや和らぎ、援助になるのかどうかを考え、いいことをしてあげられないまでも、せめて傷つけることはないように心がけて行動したほうがいいでしょう。

 私たちはしばしば表情、言葉、態度、行動で人を傷つけてしまうものだからです。

 そういうことがなくなっているというだけでも、人間としてはかなりすばらしいところに行っているといえるのではないでしょうか。

 他のまごころから平静さまでの善の心が十分に身についてはじめて、日々人を傷つけない言動ができるようになり、さらには人のお役に立つことができるようになるのだと思います。

 善の心が信に始まり不害に終わるのは、ただ何となく羅列しているのではなく、そういう意味もあるのではないか、と私は解釈しています。

 11種類の善の心を意識的に起こし、それに基づいて行動する(カルマ!)ように心がけている(意識)と、それらが徐々にマナ識を浄化しながら種子としてアーラヤ識に溜まっていき、また芽生える時にもマナ識を浄化しながら意識にのぼってきます。

 そういう善なる心のカルマの好循環が持続されていくと、私たちはほんとうの意味での善人・いい人に少しずつなっていくことができるようです。


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善の心10:行捨(ぎょうしゃ)――静かな心

2006年03月21日 | メンタル・ヘルス

 過剰に興奮するのでもなく、ひどく落ち込んでしまうのでもない、平静な心は善です。

 心の静けさには独特の快さがあります。

 過剰な興奮のように刺激的で中毒性のある快感ではありませんが。

 唯識仏教では、心の病を癒すためには、ダルマ・世界のありのままの真理を覚ることが必須だと考えていますから、ありのままが見えなくなるような心の状態は煩悩に分類され、ありのままが見えやすくなる心が善であるとされるのは当然です。

 私たちは興奮状態や落ち込み状態にあると、物事を自分のその時の気分で曲げて見てしまいがちです。

 どうしても、主観的になってしまうのです。

 世界をありのままにではなく、自分の主観、その時の気分で見てしまうと、事実に合わないすばらしいところに思えたり(躁状態)、同じく事実に合わないひどいところに思えたりします(鬱状態)。

 現代では、どちらかというとひどいところに思えることが多いようですが。

 それに対して、自分の都合や気分をいったん脇に置いて平静な心で見ると、世界のありのままの姿が見えやすくなります。

 ありのままの世界はつながり(縁起)、一体(一如)の世界です。

 つながって一つである世界は、ふつうの意味での善悪、幸不幸、損得、創造‐破壊といった2項対立を超えていて、けれどもやはり素晴らしい美しい世界です。

 そういう美しい世界が見えてきた時、私たちの心には静かで深い喜びと感動が湧いてきます。

 過剰な興奮に慣らされた現代人が誤解するのとちがって、平静な心・行捨(ぎょうしゃ)は退屈なものではなく、静かな喜びに満ちた心なのです。


 補足として論理療法的なコメントをしておくと、過度で不健全な興奮がいけないのであって、適度で健全な興奮は人生に必要なものだ、と私は考えています。

 鬱状態や躁状態、あるいは躁鬱の波というのはどれも不健全であり、基本は平静な心、時々適度な興奮、というのがいちばん好ましい心の状態であることは、実感すれば誰にでも納得できることなのではないでしょうか。


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善の心9:不放逸(ふほういつ)――怠らない心

2006年03月20日 | 心の教育

 善の心の9番目は、「不放逸(ふほういつ)」です。

 一語で元の意味を表現できる適当な訳語が思い当たらなかったのでとりあえず「怠らない心」としました。

 「放逸」とは、勝手気ままに遊びふけったり怠けたりしてやるべきことをやらないというふうな意味で、「不放逸」はそういうことをしないということです。

 私たちのマナ識にはしっかりと我慢と我愛があるため、自分が楽なこと、自分が楽しいこと、自分が気持ちがいいこと……を自分の思いどおり、好き勝手、自分勝手にするのが人生の意味だと思い込んでしまう強い傾向があります。

 しかもその楽さ、楽しさ、気持ちのよさも、ごく目先でしか考えられない人が多いのが問題です。

 目先の楽、楽しみ、快楽の追求という原因は、しばしばやがてとても苦痛な結果を生み出したりするものです。

 長い目で見て、ほんとうに楽で、楽しくて、気持ちのいい人生を送りたいのなら、必要な時に必要なことをすることから逃げないほうが身の為・ほんとうの意味での自分の得なのです。

 「そんなの、なんかめんどくさいな」と感じる方、めんどくさがって、さぼって、やがて後で嫌な目に遭うのが好きなんですか? それが「得」だと思われますか?

 めんどくさくてもめんどくさくなくても、今やっておいたほうがいいことをやることが、長期的視点からすれば、確実に自分の得でもあると思いますが、どうでしょう?

 そして縁起の理法・つながりという法則性から成り立っているコスモスでは、自分の利益と他者の利益はつながって一つなのですから、長い目で見れば、自分のためも人のためもありません。

 長い目で見て自分と人に利益をもたらすことのために、今やるべきことをさぼらないでやること、つまり不放逸ということは、こうしてちゃんと考えると自他のために善であることはまちがいありません。

 唯識と論理療法のおかげで、私はさぼり癖がかなりよくなりました(まだ完璧ではありませんが)。

 そしてその結果、中長期、自分も人も得になるようなライフ・スタイルがかなり確立できてきて、いい気分で暮らせるようになっています。

 ……という私の経験からも、「不放逸」はお勧めのいいこと・善だと思います。



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物書きの端くれらしい一日

2006年03月19日 | Weblog

 今日は、藤沢のミーティング・ルームで一日原稿を書いていました。

 能の専門雑誌『観世』(檜書店)5月号に掲載予定の「『葵上(あおいのうえ)』への仏教心理学的アプローチ」という原稿です。

 けっこう面白い原稿になったと自分では思っています(関心のある方、読んでみてください)。

 締め切りぎりぎりセーフでメールを送ってから、一言今日のブログ記事も書いておこうと思ったわけです。

 たまたま原稿を9分どおり書いて、後は家で仕上げようと、夕食に帰ると、高校の同級生から「お前の本を電車の中で読んだ。同級生で他にも読んだというのが何人もいるぞ。たまには同級会に出てこいよ」という電話がありました。

 PHP文庫の『よくわかる般若心経』を、たぶん駅のホームのキオスクで見つけて買ってくれたようです。

 彼の口ぶりからは、私が一流の物書きになっているという善意の誤解がうかがわれて、くすぐったい気分でした。

 残念ながらそこまでは行っていないと思っていますが、まあここのところけっこう原稿の締め切りに追われるなど、「物書きの端くれ」にはなったなという感じです。

 今日もまた物書きの端くれらしい一日を過ごしました。

 ま、どうでもいい話なんですが、自利利他的な意味で何とか超一流の物書きになれるといいなと思っています。


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コスモロジーは広がりつつある

2006年03月18日 | 心の教育

 今日は、立正佼成会の佼成カウンセリング研究所のカウンセラー養成講座に行きます。

 ここでも、本授業の要約版の話をしてきます。

 先日の曹洞宗、今日の立正佼成会、お仏壇の㈱はせがわ、私学の会などなど、実に多様なところで、コスモロジー教育=コスモス・セラピーは受容され、広がりつつあります。

 世界はどうなっていて、自分とはどういう存在であり、生きることにはどういう意味があり、どう生きるのがいいか……そういうコスモロジーに関して、大きな合意形成が可能になりつつある時代だ、と感じます。

 まだまだ近代的なばらばらコスモロジーが主流ですが、つながり-かさなりコスモロジーが合意され主流になっていくことが、「緑の福祉国家」、「生態学的に維持可能な社会」を創造するベースになる、と考えているので、このメッセージを広げる努力を精一杯している、というわけです。

 忙しいので、ちょっとだけ疲れることもありますが、基本的には好きでやっていることですから、楽しんでいます。

 では、行って来ます。


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善の心8:軽安(きょうあん)――爽やかに生きる心

2006年03月17日 | メンタル・ヘルス

 重く荒れた不安な心は煩悩であり、軽やかで安らかな心(軽安・きょうあん)が善である、というのはとてもわかりやすい話です。

 そのわかりやすい話が、毎日の自分の心の実情かというと、なかなかそうはいっていませんが。

 しかし、私たちは時々、爽やかな気分になれることがあります。

 個人的な話をすると、爽やかに生きたいというのが私の人生の重要なテーマの一つです。

 (身近な方にはよくお話しているとおり、もう一つ最大のテーマは、人から見てではなく自ら省みて美しい――もっとポップにいえば「かっこいい」――と思えるように生きたいということなのですが)。

 ドロドロして荒んで、重苦しく不安でいっぱいの人生ドラマが好きな――ように見える――方もしばしばおられるので、これは善悪というのではなく、趣味の問題にすぎないようにも思えます。

 しかし、そうなのでしょうか?

 コスモスに創発が起こると、エネルギーの特定部分への偏重・過重が全体へと広がってバランスがとれ、新しい、軽やかで安定した構造・秩序が生まれるようです。

 心についても基本的なかたちは同じなのではないでしょうか。

 軽やかで安らかな心は、コスモスの創発的な秩序の心における現われだと考えられます。

 ですから逆にいえば、どんなささやかに見えることでもいいから、何かコスモスの秩序、というか新しい秩序を生み出すコスモスの創発的な進化に沿った心のあり方や行動をした時、心は爽やかになる、ということだと思われます。

 爽やかに生きたかったら、世界を自分の思いどおりにしようとせず、自分の思いを世界・コスモスの思い・方向性どおりに修正しましょう、と自戒も含めて、私はみなさんによくお話します。

 これは、個人の問題だけでなく、社会全体の問題としてもいえることだと思います。

 みんなが爽やかに安心して生きることのできる世界(「緑の福祉国家」?)を創るには、世界を人間の都合に合わせるのではなく、世界・自然・コスモスの秩序に人間社会のかたちを沿わせることです。

 「軽安」が善であるというのは、単なる趣味の問題ではない、と思います。


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持続可能な社会は実現可能である?

2006年03月16日 | 持続可能な社会

 小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」――安心と安全の国づくりとは何か』(朝日選書)を読みました。

 カバーの内容案内に以下のようにありました。

私たちの社会は、このままでは持続不可能だ。人類の生存を脅かす環境破壊が現実のものとなり、少子高齢化が進みつつある今、人間の作った仕組みを自然法則に合わせて変えていかないかぎり、次世代に無事、安心と安全な社会を引き渡すことはできない。

日本が「失われた10年」を空しく過ごしている間に、スウェーデンは、2025年頃に「生態学的に持続可能な社会」あるいは「緑の福祉国家」を実現する、という大きな見取り図のもと、年金制度改革、化石燃料の消費量を抑える、資源の再利用、廃棄物を減らすといった施策を着々と進めてきた。「国家の持続可能性ランキング」(2001年に「国際自然保護連合」が発展した数字)で1位にランクされている国、スウェーデンから、私たちの学ぶものは多い。

 いずれ時間を見つけて、ちゃんとしたものを書きたいと思いますが、取り急ぎ、読者のみなさんにご紹介、ご推薦しておきたいと思いました。

 この本は、環境がテーマの本としては私にとって70年代の『成長の限界』以来という感じの重要な本になりそうです。

 一言でいうと、スウェーデンに関しては、実際に環境と経済の両立が実現する見込みが十分にある、という事実を初めて知って(これまで詳しいことを勉強していなかったので)、プラス-マイナス両方のショックを受けました。

 プラスは、十分に自由と民主主義の確立した国なら、近代的な工業国家だった国でも、生態学的に持続可能な社会に向けての方向転換が可能になる実例があるのだ、といううれしいショックです。

 これまで、「持続可能な開発」というのは環境問題の深刻さをカモフラージュするインチキなキャッチ・フレーズではないかと疑っていたことを、少なくともスウェーデンに関しては訂正する必要があるようです。

 マイナスは、現在の日本がスウェーデンとはまるで違う方向を向いていて、当面とても方向転換できそうには見えない、ということへの深い残念さ(コスモロジーや論理療法をやっていなかったら、過剰な絶望感になりかねないくらいの)を感じさせられた、ということです。

 私の中で、このうれしさと残念さの入り混じった気持ちの振幅は、そうとうなものです。

 いずれ私も書きますが、関係者のみなさん、まだでしたら、ぜひ読んで、ご意見をお聞かせ下さい。


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善の心7:精進――有限の人生を生きる心構え

2006年03月15日 | 心の教育

 今日は(今日も)忙しく働きました(まだ働いています)。

 サングラハの事務、問い合わせへの返事、締め切り間近かの次の原稿のための調べ物、㈱はせがわのミーティング、何通ものメールへの返事……そしてブログの記事、と。

 別に自分だけが大変だといいたいわけではありません。

 生きることは誰にとっても一大事、大変なことだと思います。

 もっともっと大変な方はたくさんおられるに決まっています。

 ただ、振り返って、自分としてはいちおう努力・精進の一日だったと評定できるかな、と自己満足しているという話です。

 コスモスから預けられた人生の時間は、嫌でも好きでも有限です。

 そのことを自覚すると、精一杯できることをして生きようと思わざるをえないのです。

 しかも、幸いにして自分と他者との幸福を追求することは矛盾することではない、どころか、賢く振舞えば調和できることだと学んでいますから、誰に頼まれたわけでも強制されたわけでもなく、好きで努力しているだけです。

 「それがどうした?」といわれそうですが……。

 自利利他のために努力・精進(しょうじん)すると、いい気持ちになれます。

 そして、「ために」のつもりが予想外のことになって失敗することもありますが、まあうまく行けば、自他の「ためになる」こと、つまりいいこと・善も行なえるでしょう。

 つまらないこと、ろくでもないこと、悪いことのために努力するということだってありますが、そういうのはもちろん「精進」とはいいません。

 これはとてもシンプルに納得できることだと思いますが、有限の人生、精進することはいいことです。

 人生は有限だという自覚のある方、ぜひ、精進しましょう。

 といっても、無理は禁物です。

 必要な休憩は精進の一部だと思います。

 私も、これからお風呂に入ってリラックスします。

 では、読者のみなさん、おやすみなさい。


* 写真はエリカ、かわいい花です。


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