私たちふつうの人間は、自分が実体的な存在であることを深く信じ込んでいます。
復習的に言うと、「実体」には①他と関わりなくそれ自体で存在している、存在できる、②変わることのないそれ自体の性質がある、③いつまでも存在する、できる、という意味がありました。
人間は自分が実体的な存在であると思い込むことでアイデンティティ(自己同一性、自分が自分であるという深層の信念・安定感)を確立-維持しているといってもいいほどです。
そういう実体としての自己を信じ込んでいる状態を「我見」というのでした。
我見があると、当然ながら、他の影響を受けて自分が変えられることを極度に嫌うという傾向が生まれます。
他の影響を受けて変わってしまうことは、①②③のどの意味でも実体的な自分を失うことになるからです。
「私は私だ。人の意見は関係ない」、「私には私の信念がある」、「私の信念は変わらないのだ」、「私の信念を変えてなるものか」というわけです。
「疑」とは、そういうふうに実体としての自己(とその信念)を防衛するために、仏教の伝えようとすることに反発し、疑い、否定する心の姿勢のことです。
それはまず自分(の考え)を変えられたくないというのが基本的な動機ですから、伝えられていることが正しいかどうかはどうでもいいのです。
硬直した我見のある人間にとって、これまで自分が考え・信じてきたことが間違っていて、伝えられたことが真理であるなど、ありえない、あってはならないことなのです。
しかしここで、もう一度考えてみましょう。
これまでお話ししてきたような、縁起、無常、無我、一如、空といったコンセプトで指し示されているのは、特定の思想というより、ありのままのコスモスの理で、誰にとっても当てはまることなのではないでしょうか?
「それは仏教の教えであって、それも一つの考えにすぎない」ものなのでしょうか?
そこのところ、読者のみなさんはどうお考えですか? 判断はもちろんみなさんの自由です。
仏教の中核にあるものはいわゆる特定宗教であるよりは、普遍妥当性のある哲学と霊性だ、と私は理解しているのですが。
さて、だからこそ、仏教(のエッセンス)は、疑えない真理に到るために疑えるものはすべて疑うというデカルト的・哲学的な方法としての懐疑は否定していないと思います。
徹底的に疑った上でも認めざるをえないありのままの真実でなければ、ダルマ・法とはいえないからです。
仏教の伝えているものが確かにダルマ・宇宙の理法だとすれば、それが自分の今までの考えに合わないからというので、反発し、疑い、否定することによって、自分の生き方がダルマから外れることになります。
宇宙の理法から外れれば、人生で迷い悩んだり、失敗して痛い目に遭うのは当然です。
そういう意味で、「疑」もまた確かに根本煩悩です。
といっても、臨床的に言えば、我見の硬直度は人によってさまざまで、この「疑」という煩悩についても、さほど強くない、かなり柔軟に見える人もいます。
必要に応じて自分を変えられる柔軟な心をもっていて、「疑」の心はあまりない人のほうが、どうも爽やかに真直ぐ生きられるようです。
*写真は寒緋桜
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