唯識を学んで元気になろう!

2006年01月31日 | 生きる意味

 大乗仏教の標語とさえいえる「空」や「無」という言葉は、かなり誤解を招きやすい言葉です。

 言葉の印象で、「すべては空しい」とか、「結局はすべて無になってしまうのだ」とか、「この世には絶対的な意味や価値・倫理の基準などないのだ」というニヒリズム的な意味に誤解されがちです。

 大学の授業ではネット授業以上にくわしく「空」の正しい意味を説明するのですが、それでも「話を聞いていたら、なんだか、すべて空しいような気がしてきました」という学生がいたりします(ネット学生のみなさんは、だいじょうぶですか?)。

 「空」への誤解は、仏教の外部だけではなく内部にさえあったようで、そういう人は「悪取空者(あくしゅくうしゃ)」つまり空を間違って取る人と呼ばれました。

 大乗仏教の流れの中で、そうした誤解を解くためにより説明のくわしい体系的な理論が工夫されました。それが、「唯識(ゆいしき)」という教えです。

 「大乗仏教の経典」のところでお話しましたが、紀元2,3世紀頃、「中期大乗仏典(第1期)」と分類されるいろいろなお経が作られた中に、唯識の一番古い経典である『解深密経(げじんみっきょう)』や、今日ではもうサンスクリットも漢訳もチベット訳も残っていない唯識の経典、『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』があります。

 ……と、このあたりの話をしていると、退屈して居眠りを始める学生がいるので、ちょっとここで目覚ましのために、注意してほしいことがあります。

 世界の思想史を調べてみると、どうも人間は文明を形成し、動物的な自然から離れた自意識的な生活をするようになって以来ずっと、近現代に到るまで、「空しさ」・「ニヒリズム」の問題に悩まされてきたようです(例えばパスカルや、典型的にはニーチェ)。

 (あまりそういう問題に悩まされない能天気な人もけっこういるようで、それはそれでとりあえずいいんじゃないか、と私は考えていますが。)

 「生きてても意味ないんじゃないか?」という問いは、あなただけの個人的・特殊な問題ではないんですね。

 ゴータマ・ブッダの教えも大乗仏教の空の思想も、その無意味感・不条理感と取り組んで、克服しようとしたものだ、といっていい面があります。

 そして、ブッダ自身や大乗の菩薩たちの境地としては、もちろん克服できていたのだと思われます。

 しかし、言葉による説明としてはまだ誤解される危険が残っていたのです。

 そこで、さらに何とか誤解をなくそうと、新しい説明体系が考え出されたのが唯識という仏教哲学でした。

 「空しさ」との闘いは、何と二千五百年も前から続いているけれども、実はすでに千七、八百年前、唯識によって、みごとに一つの決定的な思想的決着はつけられていたのだ、と私は捉えています。

 ですから、唯識を学んだ学生たちが、「胸がいっぱいなるほどの幸せな気持ちと感謝の気持ちがこみ上げてきます」、「生きる力が湧いてきました」、「絶望と孤独とかいった人間のさびしさから救ってくれる、魔法の言葉だと思います」というふうな感想を述べてくれるのです。

 しかもそれは、特定の教祖・教義・教団などを絶対視するという意味での「宗教(呪術的・神話的宗教)」を信じ込むことによって生まれた気持ちではありません。

 理性的・哲学的な普遍・妥当性がある理論を学んで納得し、しかもそれを超える「霊性」への目覚めを感じたことによるものなのです。

 そのことを私はわかりやすく、「心の眼を開けて、自分の元々の姿、自分の根づくと〈元気〉になるんだよ」と説明しています。

 では、みなさん、これから、唯識を学んで元気になろう!



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仏教を楽しむ

2006年01月30日 | 心の教育

 去年の12月の初め、次のようなことを書きました。


 「これから授業は、特定宗教としてではなく日本の精神的伝統の中核としての仏教の話に差し掛かります。
 実際の学生でも、ここからが「難しい」といって脱落者が増えてくる段階です。
 しかし、これは「越えなければならない坂」です。
 ……と、ちょっと脅しが入りましたが、仏教がわかると日本の伝統のすばらしさがわかり、日本の伝統のすばらしさがわかると日本人である自分に正当な誇りが持てるようになる=アイデンティティが確立できる=自信がつく、という仕掛けになっています。」


 私は、みなさんに、確かに日本の精神的伝統としての仏教――のエッセンスの部分――を再発見してほしいと強く思っていますが、特定宗教としての「仏教」の布教をしようとはまったく思っていません。

 ここはとても微妙なところですが、ぜひ、ネット学生のみなさんには、このあたりでもう一度確認しておいていただきたいのです。

 伝統としての仏教の中の、現代人にとっても、現代世界にとっても、普遍的に意味のあるエッセンス――だと私が理解しているところ――をお伝えしたいのです。

 大学の授業でも、最初にはっきりいい、また時々繰り返して注意を促しています。

 そうすると、学生のほとんどはちゃんと理解してくれます(たまにそれでも「大学で宗教の布教をしていいんですか」と誤解する人もいますが)。

                    *

  1年 男

 後期に入って内容がすごく難しくなりました。正直ついていけるのかと心配していました。しかし、先生が急がず、ゆっくりと説明してくれて、ついていくことができました。後期は前期と比べ、仏教の深さを知ることができました。そこで私が学びとったことは、仏教は楽しいものなのだということ、固定観念から仏教には良いイメージがなかった私が仏教を楽しむことができました。それは前期の最初に先生が言った「君たちを仏教徒にするつもりはありません」という言葉のおかげかもしれません。一年間ありがとうございました。

  1年 女

 授業を通じて、仏教とはホントに素晴らしいものだと心から感じました。前期と後期、両方を選択したのですが、明らかに自分の心が良い方向へ変化しているのがわかります。こんなに生活に役立つなんて思ってもいませんでした。また、先生の言葉で「世の中には素晴らしいものがたくさんあるから、常に心の目を見開いていないともったいない」という言葉がとても印象に残っています。この言葉と授業で学んだことを、心に留め、日々生活していきたいと思います。そして、自分が少しでも成長し、人生を楽しく過ごせたらよいと思います。


                    *


 ネット学生のみなさんに対しても、「君たちを仏教徒にするつもりはありません」、でも「仏教を楽しむことができ」、「仏教とはホントに素晴らしいものだと心から感じ」て、「世の中には素晴らしいものがたくさんあるから、常に心の目を見開いて」、「人生を楽しく過ごせ」るようになるためのヒントにしていただきたいと心から願っています。

 明日か明後日くらいから、本格的に授業が再開できると思います。

 待っていてください。


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コスモスに祝福された時間

2006年01月29日 | 生きる意味

 1泊2日と短い時間でしたが、楽しい合宿をしてきました。

 大笑いしたり、涙ぐんだり、もう大騒ぎ、大賑わいでした。

 コスモロジー(世界観・価値観)を共有する、とても親しい人たちとの集いは、人生の最良の時のひとつです。

 楽しい集いの時、しばしば思い出す聖書の個所があります。


   旧約聖書詩篇第133篇

 見よ、兄弟が和合して共におるのは
 いかに麗しく楽しいことだろう。
 それはこうべに注がれた油がひげに流れ、
 アロンのひげに流れ、
 その衣のえりにまで流れくだるようだ。
 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
 これは主がかしこに祝福を命じ、
 とこしえに命を与えられたからである。


 つながりコスモロジー的にいえば、人と人が集うということは、もともと一つの宇宙が、137億年かけて、今日、仮にあなたや私や彼や彼女という区分できる姿を現わし、出会い、共にいるということです。

 それは、コスモスにもっとも祝福された、コスモスでもっとも麗しく楽しいことのひとつといっていい出来事です。

 遅くまで語り合ったので、帰ってきて、ちょっと眠いのですが、とても満たされた気持ちです。

 「祭りの後の淋しさ」をすごく感じるという人がいましたので、「会うは別れの始め」という言葉もあるけど、僕は、生かされた時間のあるかぎりは、「別れはまた会うことの始まり」と思っているので、少ししか淋しくないんだよね、と言ったことでした。

 会えたみなさん、楽しかったですね。

 会えなかったみなさん、次回は会いたいですね。

 それからネット学生のみなさん全員、Will you join us next chance?


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唯識は希望を生み出す魔法の言葉

2006年01月28日 | 心の教育

 生きる自信の心理学、コスモロジー、唯識-仏教を学ぶと、どうなるのでしょう?

 学んでくれた学生たちのレポート漬けになっています。

 その成果をさらにご紹介させてください。


                    *


  2年 男

 この授業を受けるまでは、自己中心的な考え方や損得の考えで生きていて自分が凡夫であることにすら気がつくことができませんでした。

 しかし、話を聞いていると、自分の今での生き方、行いが恥ずかしく思えてきました。そのようなことに気付けただけでも一歩進むことができたのではないかと嬉しく思います。

ありがとうございました。


 (コメント:凡夫であるという自覚は、もう凡夫を抜け出しはじめたということです。すばらしい! さらに一歩を進めよう。)


  1年 男

 私がこの講義を受ける前は、全てのものがつながっている、私に生きている意味があるのか? などとは考えたこともなかったです。

 私は正直、私だけが楽しめればそれでOKであるという、自己中心的な人間でした。

 なぜ生きているのかと問われても、決して答えられなかったでしょう。

 しかし、先生の講義を受けるにつれ、その自己中心的な思考はどんどん変化してきました。

 自分には生きている意味があり、それを放棄したら、私の親が、祖母が……となるのです。

 大地や宇宙に助けられながら、自分中心的な発言、行動ばかりをしてていいのだろうか?……と、そのように考え方が変化してきました。

 先生の講義を受けていなければ、自己中心的な人間のままであったでしょう。

 この1年で学んだ先生の講義は、私を変化させました。

 この考え方を、多くの人に教えていきたいと思います。

 ありがとうございました。


 (コメント:人生は、自己中心をやめるとかえって、自己の生きている意味がわかってくる、という不思議な――よく考えると当たり前の――構造になっているんですね。生きている意味がわかって、おめでとう! 私もとてもうれしいです。このメッセージ、たくさんの人に伝えていきましょう。)


  3年 女

 人間であるということは、仏になれる可能性があると大乗仏教は語ってきました。

 私はそれは、絶望と孤独とかいった人間のさびしさから救ってくれる、魔法の言葉だと思います。

 そして唯識を学び、理解して、納得していことで、仏になるということ徐々に確信していくのだと思いました。

 唯識の言葉を理論として学ぶことは、私たちの生活面からいうとほんのささいな、小さいことだと思います。

 私は、六波羅蜜全体を体験することが、唯識に染まること、人間の成熟の依りどころ・原因なのだと思います。

 だから、私たちはもっともっと唯識な知識や思想を学んでいくべきだと思いました。

 (コメント:おかげで、すばらしいメッセージ・コピーができました。「唯識は希望を生み出す魔法の言葉、私たちをさびしさから救ってくれる」。有難う。もっともっと、一緒に学んでいきましょう。)


  3年 女

 前期から、私はこの授業にとても興味を持っています。

 今あるすべてのものもともと一つで、だからこそ家族、友達、恋人、自然、人間以外のすべての生き物が今はとても大切に思えるようになりました。

 何に取り組むにしても前向きに、今の自分が存在していることがうれしく思えるようになりました。

 後期で学習した唯識においても、基本は前期のコスモロジー論と同じであって、一段と生きる力が湧いてきました。

 私は塾の講師のアルバイトをしています。

 その中で、先生にこの一年を通して教えていただいた「すべてはつながっている、私たちは宇宙の子」を、私なりですが理解をし、考えて生徒たちに伝えました。

 みんな真剣に聞いてくれ、私と同じように生きる力を自分の中に見つけ出してくれました。

 ○○大学に入学し、一番出会えてよかったと思う授業でした。

 ありがとうございました。

 (コメント:希望を生み出す「魔法の言葉」を聞いたら、どんどんリレーをしていきたくなりますね。社会に希望を広げるお手伝いをしてくれて、ほんとうに有難う。)


                    *


 これから合宿に行ってきます(温泉、楽しみだなあ)。

 今回行けなかった、あるいはお誘いしなかった仲間のみなさん、ごめんなさい。

 次回こそ、一緒に行きたいですね。

 まだ仲間に入っていないみなさん、よかったら入りませんか。楽しいですよ。


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リトル・ボサツの創発

2006年01月27日 | 心の教育

 昨日で、ようやく2学部の採点が終わりました。残るはもう1つ。

 しかし今日は、中級の『信心銘』の講義、明日からは箱根で合宿(という名目の遊び)、というわけで、記事の更新がままなりません。

 「自縄自縛」とか「無縄自縛」という言葉があります。

 誰も縛っていないのに、自分で自分を縛ってしまう、縛る縄もないのに勝手に縛られていると錯覚している、という意味です。

 ブログの更新も習慣化してくると、下手をすると無縄自縛ぎみになります。

 論理療法でいう must化(ねばならない化)です。

 しかし誰も縛ってないのに自分で自分を縛って苦しむなんてバカげていますから、やめたほうがいいですね。

 ……というわけで、あくまでも自発的に、できるだけ続けます。

 また、私が喜んでいる感想を、みなさんにご紹介または押し付けたいと思います。

                    *

  1年 女

 仏教の教えというのは私の中で、とても古い考え方だというイメージがあった。

 昔の人がすがりついた気休め程度のものだろうと思っていた。

 ところが、先生の授業を聞いて驚いた。

 仏教の教えは、現代でもとても論理的で納得のできるものだったからだ。

 むしろ、進んだ考え方だと思った。

 この授業を取らなかったら、この考え方を知らずに生きていたのかと思うとこわくなる。

 これからは人を助けることを、もっと素直に自然に行えると思う。

 人を助けることは、上の者が下の者に手をさしのべるようなイメージがあった。

 しかし、宇宙が自分自身を助けることはごく自然なのだと知った。

 私の中では大きな発見だった。

 まだ、私のアーラヤ識は自分に執着する心でいっぱいになっているが、少しずつ変えていきたいと思った。

 変えていきたいと思えるようになったことが嬉しい。

 ありがとうございます。



 (コメント:こちらこそ、学んでくれて、有難う。)



  1年 男

 社会人(成人という意味ではなく、他とのつながりの中に生きる人という意味で)として生きていく中で、様々な苦労をし、仏教を体得していきたいと思っています。

 知識として仕込むのは簡単ですが、体得して行動に反映させることはとても難しい。

 自然の意識や、他人への意識においてです。

 例えば国際“社会”は今、競争が激化し闘争に変化しつつあります。

 つながり・調和・一つの社会に生きている地球人、としての意識が薄くなっているのを感じます。

 愛国心を持ち、地球も愛し、60億人間全てのために考え、行動する人間になりたいのです。


 (コメント:そういう人に私もなりたい。)

            *

 彼らはみんな、「リトル・ブッダ」ならぬ「リトル・ボサツ」になってくれたようです。

 心の中で彼らと一緒に「四つの大きな願い」を唱えているイメージを描きました。



   「四つの大きな願い」


 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。


  「四弘誓願(しぐせいがん)」

 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)



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唯識を学ぶと

2006年01月25日 | 心の教育

 このネット授業では、この次から、空思想に続く大乗仏教の教えの発展である「唯識(ゆいしき)」思想について学んでいきます。

 その予告という意味も含めて、すでに実際の授業を受けた学生の感想を紹介しておきたいと思います。

(*とても残念ながらコピペをする学生がいましたので、当初掲載していたレポートは削除しました。2012年2月)

 唯識を学んでいただくと、典型的にはこんなふうに心が変化していきます(もちろん万能ではないので、少数あまり変化しない人もいますが)。


☆以下引用

 授業の感想

 授業を受けて、私はとても変わったと感じます。客観的に見たら変わっているのかはわかりません。しかし、少なくとも自分の考え方はポジティブな方向へと変わってきています。現代に生きる人々は涅槃へ向かうスタートラインを探す術さえ見失い、さまよっているのではないかと私は思います。そんな中、私はこの講義を受けて、今やっとスタートラインに立つことができたと感じています。

 すべてのものは宇宙エネルギーレベルでみな一体。これが何よりも先であり、すべてはつながっている中で私も生まれた。これを常に頭の中に入れておくと、日々両親や親族への感謝と尊敬の気持ちは絶えることはありません。そして私がこうして生きているのには数え切れないほどの人物やものが関わっている。それは、これまでに直接的に関わってきた人や物だけではなく、直接でないものもすべては私とつながっている。そう思うと胸がいっぱいなるほどの幸せな気持ちと感謝の気持ちがこみ上げてきます。二度と「私は独りぼっちだ……」なんて思う日はないと思います。

 まだまだ私の心にはマナ識やアーラヤ識的なところがたくさん潜んでいると思います。けれど、私は今、転識得智のスタートラインに立つことができました。これからの人生、日々宇宙とのつながりを意識し、感じながら、少しずつでもいいので覚りの道を歩んでいき、豊かな心を築いてポジティブに生きていきたいと思います。



 ここまでは行かなくても、少なくとも「つながり」の大切さというポイントは、今年度も90%以上の学生がつかんでくれたようです。

 教えたこちらが驚きと感動をおぼえるほど、若者たちは大切なことを吸収してくれます。

 ……もうしばらく、学生たちが学んでくれた成果を確認させてもらうという凝縮した時間が続きます。

 お預けをするわけではありませんが、ネット学生のみなさん、期待しながら、もう少しお待ちください。

 あ、テキスト(『唯識と論理療法』佼成出版社)を先に買って、予習しておくという手もありますね(←コマーシャルでした)。


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仏教は気軽に始めることができる

2006年01月24日 | 心の教育

 ここのところ朝から晩まで、学生のレポートの採点に取り組んでいます。

 作業そのものはかなり大変なのですが、うれしい感想がいろいろあって、楽しくなってきます。

 例えばこういうのがありました(2年女)。


 私にとって仏教はとても遠い存在のものでした。

 具体的なことは何も知らなく、ただ漠然としたものでした。

 しかし、この講義を取り、こんなに身近にあって、私たちでも気軽に始めることができるんだと思いました。

 前期から引き続き、この世界のものは私とつながっている、宇宙でさえも私とつながっている、すべて私でもあるということは、この唯識の考えなんだとようやく分かりました。

 極めるためにはなかなか大変だとは思いますが、始めるのは本当に気軽にできると思います。

 「始めよう」、そう思えば“資糧位”なのです。

 布施の「無財の七施」は私でも始められることです。

 自分の名前のように(蒔○といいます)、私の心に悟りの種を蒔くことができるようになりたいと思いました。


 「無財の七施」とは、「眼施(げんせ)」:やさしい眼で人を見ること、「和顔施(わげんせ)」:やさしい笑顔を見せること、「言辞施(ごんじせ)」:やさしい言葉をかけること、「身施(しんせ)」:体を使ってできる人助け、「床座施(しょうざせ)」:席をゆずること、「心施(しんせ)」:心で思うこと、「房舎施(ぼうしゃせ)」:宿をお貸しすること、の7つです。

 これなら、財産がなくても気持ちさえあれば、誰でも気軽に始められますね。

 「すべてのものはつながっている」という授業を受けて、たくさんの学生が、そういうやさしい気持ちになってくれました。

 そしてこの学生のように、気軽に仏教の実践を始めようと思ってくれた子たちも少なくありません。

 いろいろいやなことの多い時代に、ささやかですが心が温かくなる、うれしい話ではありませんか。


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凡夫性に足をすくわれた?

2006年01月23日 | Weblog

 資本主義というのは、拝金主義に陥るかなり強い傾向をもっている、と私は見ています(必ずではないにしても)。

 そして資本主義とセットになっている自由主義は、エゴイズム・自分勝手に陥る強い傾向をもっています(おなじく必ずではないにしても)。

 それは、資本主義-自由主義が、実体としての自分という錯覚を疑うことなく大前提にしている人間・凡夫の営みだからです。

 拝金主義やエゴイズムに陥る危険は、法律や社会倫理や良識で、ある程度は防ぐことができますが、しかしそうした外側からのコントロールだけでは十分ではありません。

 ライブドアの堀江氏が逮捕されましたが、彼もまた自らの人間性・凡夫性、そしてそこから生まれる拝金主義とエゴイズムに自らの足をすくわれた人の一人だといってまちがいないのではないか、と私は見ています。

 「時代の寵児」のように見えていたのでしょうが、「時代の(錯覚の)犠牲」になってしまったようです。

 (まだ有罪と決まったわけではない、ともいえますが。)

 自分は自分だけで成り立っていないのだから、短期ではなく中長期で考えれば、自分と他者との利益はバランスをとることができる、どころか一致させることができる、という成熟した内面的な智恵が、社会全体で共有され、また個々人のものになる必要があると思われます。

 そうでなければ、これからも「アイドル(偶像)」になるつもりで、社会を騒がせ、結局、周りにひどい迷惑をかけながら「落ちた偶像」になってしまう人物が繰り返し出てくるでしょう。

 そうならないことを、心から願いますが。


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「ありたい」と「あらねばならない」

2006年01月22日 | 心の教育

 大乗仏教の菩薩の願をまとめたものとして有名な「四弘誓願(しぐせいがん)」というのがあります。


 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

  私 訳

 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う

 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う

 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う

 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う


 こうした誓願・菩薩の理想は驚くべく高いものですし、私も感激的にすばらしいと思います。

 しかし、こんなものを下手に真に受けたら――論理療法の用語でいうとmust化、つまり「ねばならない」という強制的な倫理として受け取ると――つまらないことになりかねません。

 つまらないことの第1は、「私なんかには無理だ」と思って、引いてしまうことです。そういう心のことを「退弱心(こにゃくしん)」といいます。

 しかし「無理だ」と思ってしまうと、実際にできなくなるというのが、潜在力の法則ですから、それはとても損な生き方です。

 どうせ一回きりの人生ですから、できるだけ人間として豊かになる、深くなる、広くなるという人間成長をし続けないと、もったいないのではないでしょうか。

 第2は、「私は仏教を学んでいるのだから、そういう菩薩であらねばならない」と思い、しかも自分の現状を見ると、「それなのに、私はそうではない」と、劣等感や罪悪感を感じてしまうということです。

 劣等感や罪悪感も適度であれば、それをバネにして飛躍・向上することができますが、多くの場合過度になって、ただ「オレはダメなヤツだ」とか、「私はいけない人間です」と自己非難をして落ち込むことが多いのです。

 しかし、自己非難による落ち込みは、何の役にも、誰のためにもなりません。

 もちろん人間、反省は必要ですが、自己非難は不要・無用です。

 第3は、これがいちばん恐いのですが、実際はそうではないのに、「私はそういう〔境地の高い〕菩薩だ」と高ぶり思い込んでしまうことです。

 そうすると、自分の思い込みでいろいろなことを人に押し付けることを「慈悲」だと錯覚しはじめます。

 この錯覚は、「慈悲(=いいこと)だから、人に押し付けてもいい」、「自分の思いは慈悲なのだから、人を自分の思いどおりにしてもいい」という恐ろしい結論に到りかねません。

 この結論は、正義や神仏の名による犯罪や殺人や戦争の口実にまでなりえます。

 仏教も含む宗教すべての恐ろしさは、こういう論理のすり替えが容易に行なわれうるということです。

 そういう宗教の恐ろしさをたくさん見聞きしてきた結果、私は、こう提案することにしています。

 「菩薩でありたい」と強く願うのはいいことですが、「菩薩であらねばならない」と倫理化・must化するのや、まして「私は〔境地の高い〕菩薩である」と錯覚するのは、ぜひ、やめましょうね、と。

 空の智慧と慈悲というのも、いつの日にか行きたい遥か彼方の憧れの地にしておいて、行かねばならない義務的な目的地にしたり、まして今いる場所と取り違えたりしないように、気をつけたほうがいいんじゃないでしょうか、と。

 そんな気持ちもあって、四弘誓願を超意訳(「超訳」というのは商標登録されているそうなので)してみました。


  超意訳 「四つのおおきな願い」

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。


 *この4つの言葉は、それぞれの後に(なるべくそうなるように努力しよう)という気持ちを補って読んでください。



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空と慈悲

2006年01月21日 | 心の教育

 「空」は、「如(タタター)」や「法(ダルマ)」と同じ事実を指し示した言葉です。

 世界には分離した実体はひとつもありませんが(無我)、すべては果てしなくつながっていて(縁起)、ひとつであり、ダイナミックに動いています(無常)。

 それが世界のあるがままの姿(如)であり、真理(ダルマ)なのです。

 とはいっても、あの現象とこの現象という区別はありありとあります。

 その中でも、この生き物とあの生き物、さまざまな生き物が、それぞれ区別できる姿を持ってしかし根本的には1つのものとして、相互に関係を持ちながら生きています。

 そういうすべてのものの根本的な一体性を自覚しているのが仏であり、深さの程度はいろいろあるにしても、それを深く自覚しようと修行しているのが菩薩です。

 大乗の菩薩は、すべてが空であることを多かれ少なかれ覚っているわけですが、それはすべてのものとの縁起性・一体性を覚っているということでもあります。

 一体性を覚っていながらそれぞれの区別も認識しているという菩薩の心が、必然的に、自然に、自分とはいちおう区別された他の生きとし生けるものへの「慈悲」となるのです。

 他は区別できるという意味では自分ではありませんが、空という世界の中では自分と一体であり深い意味では自分だともいえます。

 ですから、人の苦しみは私の苦しみになり、私の苦しみを私が放っておくことはできない、ということになるのです。

 しかし、苦しんでいる他者もその苦しみを救うとしている自分も、本来は空・非実体ですから、ふつうの人間の過剰な欲望(渇愛)や執着(取)からはまったく解放されています。

 こういうわけで菩薩は、まったく自発的に、まったく自由に、執着やこだわりから離れて実にさわやかに、自分と一体である他者のためになることをしていくのです。

 大乗仏教における「空」と「慈悲」の関係を、あえて理屈でいえば、こういうことになるでしょう。

 『維摩経』(長尾雅人訳、中公文庫)に菩薩の慈悲の心をみごとに表現した個所があります。

 釈尊に命令されて維摩居士(ヴィマラキールティという在家の覚った人・菩薩)を智慧の象徴である文殊菩薩(マンジュシュリー)が見舞うというエピソードのところです。

 「病気の原因は何か」という文殊の問いに、維摩はこう答えています。

 ……あらゆる衆生に病があるかぎり、それだけわたくしの病も続きます。もしすべての人が病を離れたなら、その時、わたくしの病もしずまるでしょう。……もしあらゆる衆生に病気がなくなったなら、そのときは菩薩にも病気はなくなるでしょう。たとえば、金持ちのひとりっ子が病気になったとき、その病気のせいで両親もまた病気になるようなものです。そのひとりっ子に病気がなくならないかぎり、両親もなやみ続けます。マンジュシュリーよ、それと同じく菩薩はあらゆる衆生をひとりっ子のように愛するので、衆生がすべて病気であるかぎり彼も病気であり、衆生に病気がなくなったとき、彼も無病となります。マンジュシュリーよ、この病気は何から生じたかとお尋ねですが、菩薩の病気は大慈悲から生じるのです。

 すべての生き物・衆生の病気を自分の病気として、一緒に苦しみ続け、苦しみを救い続けるのが、菩薩の大慈悲だ、というのです。

 ただ思想・観念としてだけ学ぶと、「空」というのはとてもクールな哲学的な認識のように感じられますが、大乗の空は、こうした情熱的なまでの「慈悲」とひとつの心だといっていいでしょう。

 そこから必然的に慈悲が生まれてこないような「空」の覚りは、大乗の覚りとはいえないわけです。

 私が、空・智慧と慈悲という大乗の思想、というより生き方に感動するのは、そういうところです。

 それにしても、大乗というのはほんとうにすごい思想ですね。


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学びに終わりはない

2006年01月20日 | 心の教育

 今日から約1週間、年末年始、そして最終授業、サングラハ心理学研究所の新講座の開始等々で、結局なかなかはかどらなかったレポートの採点を集中的に行ないます。

 学期末ごとにいつもそうなのですが、うれしいが大変、大変だがうれしいという凝縮した時間になることでしょう。

 早速、1つ、典型的な感想を書いてくれた男子学生(文学部4年生)がいました。以下、掲載させていただきます。


 唯識を授業で学ぶ前は、テキストをパラパラとめくり、そこに何やら難解そうな漢字が並んでいるのを見て、不安というよりも拒否の気持を抱いた。しかし、先生の話を聞き、テキストを読み進めていくうちに、そのわかりやすさ、理論としての完成度に驚かされた。

 私は、正直、1年前つまり、宗教学を受講する前は、宗教というものに対し相当な偏見を持っていた。具体的には、心の弱い人間が頼るものだとか、仏教などはこの現代においては、古くさい考え方である、などである。

 今、改めて自分の宗教に対する考えを思い浮かべてみて、宗教に対して持っていた偏見がほどんどなくなっていることに気付いた。

 私は、自分の考え方というものが変わることが、とても嫌であった。だから、自分の考え方を守るために、他を否定し拒絶することが度々あった。しかし、今は以前ほど自分の考え方が変わることに嫌悪も不安も感じない。そのことだけを考えてみても、宗教学を通して宗教を1歩踏み込んで学んでよかったと思っている。


 この学生も、宗教、仏教のエッセンスの持つ意味を、実にすんなりと理解してくれました。

 そしてそのことが、自分の考え方にこだわらない心のやわらかさをももたらしているようです。

 まさに「我が意を得たり」という感じの受け止め方をしてくれています。

 不幸なことに、現代の日本人は自らの大切な伝統である仏教の意味を見失いつつありますが、秩序立てて伝えていくと、こういうふうに、しっかりと再発見してくれるのです。

 ネット学生のみなさんも、コスモロジーと仏教の共通性、仏教の普遍性、日本人にとっての仏教の意味といったことを、しっかりと学んでくださっているようで、うれしいコメントをいただいています。

 改めて、ありがとうございます。

 続いて、アイデンティティ確立のための坂道をご一緒に登りましょう。


 ところで、時々、私が何を参考にしてこういうふうに「空」を理解できるようになったのか、というご質問をいただきますので、ネタを明かしておきたいと思います。

 まず、1つ大きいのは、京都学派宗教哲学の大家、西谷啓治先生の『宗教とは何か』(創文社版著作集第10巻)の空解釈から学ばせていただいたことです。

 この本は、非常に深いと感じましたが、決してわかりやすくは書かれていません。

 でも、ファイトのある方には、取り組むに値するものです。

 それから、中村元先生の『龍樹』(現在、講談社学術文庫、私が読んだのは人類の知的遺産シリーズ)など、空・中観思想の研究書でした。

 さらには、大乗仏典シリーズの『般若部経典』『八千頌般若経Ⅰ・Ⅱ』『龍樹論集』(いずれも現在、中公文庫)を繰り返し読んだことです。

 もちろん、もっともっとたくさんの文献を読みましたが、主に参考になったのは上記のようなものです。

 しかし、決定的なのは、やはり何といっても、禅定によるある種「じか」ともいうべき体験です。

 それと唯識による理論的な理解が合わさることによって、自分なりの、確信をもてる空理解ができるようになりました。

 理論的理解としては、これでほぼ大丈夫と思っていますが、もし指摘してくださる方があり、自分でもまちがっていたとわかったら、いつでも訂正するつもりでいます。

 みなさんも、私の解釈が絶対に正しいと、悪い意味で信じないで、可能なかぎりご自分で確かめるようにしてください。

 ……というわけで、私にもみなさんにも、学びには終わりがありません。さらに続けていきましょう。


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空とは何か 5

2006年01月19日 | 心の教育

 『平家物語』の冒頭に、「奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ」という言葉があります。

 昨今の政界や財界の状況を見ていると、中世から現代まで、人間は全体としては依然として賢くなっていないのだなという気がします。

 「力ずく無理やりに、ごり押しをしたり、隠れてこそこそとうまくやれば、物事は自分の思いどおりにできる・なる」と思い込んで、それを実行し、それが成り立っているように思っている、人からもそう見えるという人がかなりたくさんいるようです。

 確かに短期間だけでいえば、うまくやれば思いどおりにできるように見えることがたくさんあります。

 しかし中長期を考えると、残念ながら人生はいちばん根本のところで自分の思いどおりにはならないようにできているようです。

 何よりもそもそも思いどおりするためには、当の思う「自分」が生きていなければなりませんが、自分という存在そのものが、どんなにいつまでも生きていたいと思っても、生きていることはできない、つまり思いどおりにならないようにできています。

 所有する本人が永遠には存在しないのですから、金銭も名誉も権力も永遠に所有することはできません。つまり、思いどおりにできないのです。

 快楽を感じる本人がやがて消えていくのですから、永遠に続く快楽もありえません。

 いつも、いつまでも、楽しくしていたいと思っても、思いどおりにはいかないのです。

 「空」に関する定型句に、「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もない」というのがあります。

 これは、最終的な意味で自分の思いどおりにできるものは「何もない」ので、自分の思いにこだわってるかぎり、世界は不条理に思える、というふうな意味でしょう。

 自分の思い=念にこだわっているかぎり、この世はどうにもこうにも「残念(=思いが残る)」、「無念(=思いどおりで無い)」なことばかりというところのようです。

 変わることのない実体としてつかんだり、握りしめたり、持ち続けたりできるものは、この世には存在しないのですから、そういうことはいったん「断念(=思い切る)」するしかない……したほうがいいのです。 

 自分の勝手な思いをいったん断念して、世界のありのままの姿・如に自分の思いを合わせるようにすると、思いがけない爽やかな思いと生き方が可能になる、というのが仏教の基本的メッセージだといっていいでしょう。

 私たちが、もう少し賢くなって、人生や世の中を自分の思いに合わせよう・思いどおりにしようとせず、世界のありのままの姿に自分の思いを合わせようとすれば、かえって人生や世の中はもう少しよくなる、と思うのですが……なかなか。


 繰り返すと、「縁起」、「無自性」、「無常」、「無我」、そして「苦」という言葉に共通している「何もない」というニュアンスを一言でまとめ、かつ深めたのが、「空」というコンセプトだ、と私は捉えています。

 そして、「空」は「如」「真如」「法」という言葉で表現されたのと同じ、世界のありのまま・真実の姿を表現するための言葉の一つだと考えています。


*写真は「銀河団C10939」、宇宙には無数の銀河があるのですね。


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空とは何か 4

2006年01月18日 | 心の教育

 去年の夏は記録的な暑さで、この冬は記録的な豪雪です。

 「異常気象」というほかありません。

 雪のために亡くなられた方がかなりの数になっているというニュースを聞くと、ほんとうにお気の毒だなという思いと、改めて自然は厳しいなという思いが、心を巡ります。

 しかしとはいえ、記録的な暑さも過ぎていき、記録的な雪もやがて春が来て、溶けて消えてしまうでしょう。

 亡くなられた人のことをお気の毒だなどと他人事のように言っている私も、やがて確実に亡くなられた人の数のうちに入ることになっています。

 好むと好まざるにかかわらず=私たちのつごうや願いと関係なく、すべては変わることのない「実体」ではなくて、さまざまに変化していく「現象」なのです。

 「無我だから空である」という、一見、同義語の反復のように思える定型句があります。

 私も最初にこの句を読んだときは、「なぜ、わざわざこんな同義語反復のようなことをいうんだろう?」と疑問に思ったものです。

 で、いろいろな文献を読んだのですが、私の読んだかぎりでは、あまりぴんとくる説明がありませんでした。

 そこで、自分でいろいろ考えた結果、こう解釈すればいいかな、と思ったのです。

 「無我・非実体」というのは、原始仏教から部派仏教まで一貫した考え方であり用語ですから、それをそのまま使うだけでは、大乗仏教の独自性を印象づけることはできません。

 一つ、大乗仏教はそれ以前の仏教を「含んで超える」ものなのだという主張が、「空」というコンセプトを選んだことの背景にあるように思えます。

 「空」というコンセプトには、「縁起」、「無自性」、「無常」、そしてこの「無我」(さらに「苦」)というコンセプトがすべて一言に込められている、といっていいようです。

 縁に依らないで存在するもの、変わらない本性を持っているもの、永遠に存在するもの、実体だといえるようなもの、そういったものは「何もない」という強烈な全否定の思想が、「空=ゼロ」という言葉に託して表現されたのだ、と私は解釈しています。

 そこで、あえて同義語反復にも聞こえかねない、「無我だから空である」、つまり「実体として存在しているものは何もない!」という言い方もしたのでしょう。

 そこには、前のものを徹底的に超えようとする、非常にラディカルな――「根源的・徹底的」と「烈しい・過激」という意味があります――否定の精神が現われています。

 善し悪し、功罪、好き嫌いは別にして、そういうラディカルさが、大乗仏教の魅力になってきたのではないか、と私は思うのです。

 そのラディカルさが、私たちに損得、幸不幸を超えて、大自然に許されているかぎり精一杯生きて、死ぬべきときには死ぬという、まっすぐな生き方の道――そしてそれこそが気休めでない救いになる道――を示してくれている、と感じるのです。

 「無明」と「取・執着」を徹底的に全否定した時、かえってほんとうに生きて死ぬ道が見えてくる、生と死をひっくるめた全肯定が可能になる、というのが、「空」というコンセプトを使って、大乗仏教の菩薩たちが私たちに伝えようとしたことだったのではないでしょうか。

 ま、ちょっと、ラディカルすぎるかな、厳しすぎるかな、という気もしないではないですけどね。

 あ、ところで、ネット学生のみなさん、私の書き方があまりにもストレート、本格的、ラディカルで、コメントしにくいという陰の声もあるようですが、ぜひ、「すごい!」とか、「わかった…ような気がする」とか、「わかんないーっ」とか、「今日の話はつまらん」とか、一言でも気軽に感想をコメントしてください。

 よろしくっ!!!

*写真は去年のイヌフグリの花、春を待つ心です。


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空とは何か 3

2006年01月17日 | 心の教育

 私たちが「私の性質」だと思っているものは、実は変わらないものではありません。

 例えば、自分では「私は割にいい人間だ」とか思っていても、ある人にとっては「イヤなヤツ」かもしれません。

 少数ながらいてくださるらしい私のファンには、「すごくいい人」に見えているのかもしれません(そういうのを「善意の誤解」といいますけどね)。

 例えば、おなじ風景が、人によって美しく見えたり、懐かしかったり、何てことなかったり、つまらなかったりします。

 その人との関係によって、性質は変わって感じられるのです。

 そういう意味で、変わることのない「本性」はないのですね。

 これは、「縁起だから無自性である」と表現できるでしょう。

 そして、すべてのものの性質は関係によって変わるだけでなく、時間によって変わります。

 例えば、日本人にとってもっとも典型的な「無常」の象徴の一つ、桜の花を考えて見ましょう。

 冬の寒さの中でも、桜の枝先を見るともう固い小さな「蕾」がしっかりとついていて、春を待っています。

 やがて春が来ると、「蕾」ではなくなって、3分咲き、5分咲き、8分咲き、満開の「花」となるでしょう。

 そして春が深まると、はらはらと散り始め、「花」から「花びら」へと変わっていきます。

 地面に落ちた当初は「花びら」ですが、次第に黄ばみ、茶色に変色し、やがて「ごみ」になります。

 それから、掃き集められて捨てられるものもありますが、その場に残っていれば、やがて腐食して、土に帰ります。

 時間の中で、「花」でなかったものが「花」になり、そして「花」でなくなくなるというふうに、変化していきます。

 桜の花もまた、「無常だから無自性である」ということになりますね。

 そして、ただ変化するだけではなく、「花」としては存在しなくなるのです。

 あらゆる性質のうちでもっとも基本的な「存在する」という性質が、「存在しない」というふうに変わっていくのですから、「実体」の第3番目の定義に反しています。

 花もまた、時間の中で変化していくものであり、実体ではない、「無常だから空である」というほかありませんね。

 こういうふうに、「縁起」と「無自性」と「無常」という3つの概念は、相互に結びついています。

 というよりは、大乗仏教の人々がおなじ1つの世界の姿(如)をこういう3つの確度から分析-認識したということなのです。

 さて、ここまでお話しすると、記憶力のいい方は、「なんだ、空と無我とはおなじことをいってるのか?」という疑問を持たれるのではないでしょうか。

 そうです、ほぼおなじことをいっているのですが、ちょっとだけニュアンスが違うのです。

 そこに、ブッダから部派仏教へ、さらに大乗仏教へという発展があるのですが、長くなるので、その話は次回にしましょう。

*写真は、去年の桜です。


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空とは何か 2

2006年01月16日 | 心の教育

 家の近くに、自然に近い状態を残した公園があります。

 なかなか気持ちがいいので、よく散歩に出かけます。

 今日も何か写真のいい素材がないかと探しましたが、さすがの湘南でも、真冬ではほとんど花はありません。

 落葉樹は、もちろんみんな枯れ枝を天に向って伸ばしているばかりです。

 自然に近いといっても、やはり公園なので、伸びすぎた枝は刈られたり、大きくなりすぎた木で切り倒されてしまったものもあります。

 隅の方に束ねられたり、適当な長さに切られたりして、積み重ねられていました。

 もうかなり前、おそらく秋口のころに作業したのでしょう、少し朽ちはじめているところもあります。

 ……「空とは何か」という見出しなのに、何を言っているんだろうと思われる方があるかもしれません。

 でも、これは「空」の話をしようとしているのです。

 去年の春、比較的いいデジタルカメラを買ったので、うれしくていろいろな物を撮ってまわりましたが、この公園の雑木林の新緑もとてもよかったので何枚も撮ったものです。

 芽吹きのころはとても初々しく何ともやわらかな緑でした。

 5月の新緑のころは、鮮やかで爽やかで、明るい日の光にキラキラと輝いている様子はうっとりするほどでした。

 しかし梅雨を過ぎて、鬱陶しいほど繁っていきました。

 そして、少し鬱陶しいなと思っていると、造園業者の方たちが、ちょっとやりすぎではないかと素人目には見えるほど、あっさりバッサリと剪定をしてしまいました。

 そして秋、落ち葉が始まり、日1日と林はまばらになって、木の根元には色づいた葉や、少し茶色になりかかった葉などがしだいに厚く積もっていきました。

 今、落葉樹の枝にはほとんど葉はありません(異常気象のためらしく、今年はちゃんと落葉せず、みすぼらしいかっこうで枝に残っている葉もありますが)。

 さて賢明な読者のみなさんは、私が話をどこに持っていこうとしているのか、見抜いてしまわれたかもしれません。

 そうです、例は何でもいいのですから、葉っぱの話でもいいのです。

 ……だが、1枚もなかった枝先に、また次の春には新芽が芽吹いてきます。

 やがてそれは広がって、新緑の若葉になり、濃い緑の葉になり、紅葉や黄葉になり、それから落ち葉になり、やがて朽ち葉になり……最後は土に帰っていきます。

 「葉っぱ」と呼ばれるものに、変わることのない「新芽」とか「若葉」とか「紅葉」とか「落ち葉」とか「朽ち葉」という「本性」があるとは言えませんね。

 腐葉土になってしまえば、もう「葉」という性質さえなくなっていくんですからね。

 葉は、そういうふうに「変わることのないそれ自身の本性をもったもの」ではありません。

 葉もまた、「無自性だから空である」というほかありません。

 でも、ここで暗くならないでください。

 いま枯れているように見える枝の先には、もう花や葉のつぼみが付いています。

 世界の本質が空だから、花も葉っぱも散っていきますが、今年の春も間違いなく、あの枯れ果てた冬の景色がウソだったように、鮮やかに葉は芽吹き、美しく花は開くでしょう。

 無自性=空だからこそ、世界にはダイナミックで生き生きとしたいのちの働きがあるのです。

 私は、冬枯れの様子も嫌いではありませんし、でもやはり花咲く春を楽しみに待っています。

 空なる世界は、美しく変化していく世界なのだな、と思うのです。



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