新刊紹介:『ゴータマ・ブッダのメッセージ』

2011年09月29日 | 仏教・宗教

 友人の青森公立大学教授の羽矢辰夫氏が新著を出されました。

 彼のブッダ論はいつも、まったくそのとおり、全面賛成で、私のブッダ理解を確認し深化させてくれます。

 平易で論旨明快できわめてすっきりした文章が、理解を促進してくれます。

 特に今回は、「ばらばらコスモロジーからつながりコスモロジーへ」という章もあって、我が意を得たりの感じです。

 仏教、ゴータマ・ブッダについてしっかりと理解したい方に、強くお勧めしたいと思います。

 
 目次

 第1章 『スッタニパータ』
 第2章 欲 望
 第3章 わたし、わたしのもの
 第4章 行 為
 第5章 ゴータマ・ブッダの生涯
 第6章 戒律・瞑想・智慧
 第7章 ばらばらコスモロジーからつながりコスモロジーへ



ゴータマ・ブッダのメッセージ―『スッタニパータ』私抄
クリエーター情報なし
大蔵出版


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新刊紹介:小出裕章『原発の真実』

2011年09月23日 | 原発と放射能

 頭に「知りたくないけれど、知っておかなければならない」というサブタイトルのついた『原発の真実』を、読みたくないけれど、読みました。

 3月以降、原発と放射能に関する本をかなりの数集中的に読んできました。

 その結果、もうまったく疑問の余地がないところまで、原発の危険性・持続不可能性がわかったという気がしていました。

 知ってみると、「地震列島に54基の原発」というのは他のどんなメリット(例えば経済的な利益)も引換えにできないくらい致命的に危険なことです。

 「脱原発依存」とか「卒原発」などというゆるいことを言っていないで、できるだけ早く「脱原発」する必要があると思います。

 しかし、日本国民全体の雰囲気を見ていると、政府とメディアの報道の範囲で考えていて、いまだに首相から始まって「原子力の平和利用」「原発とうまく共存すること」が可能であるかのような錯覚を持ち続けている人も多数いるようです(特に政治的、経済的リーダーのみなさん)。

 そういう方たちは、私の読んだような本は読んでいないのでしょうか。読んでも、理解できない・理解しないのでしょうか。半ば無意識的に読みたくないので読まないのでしょうか。

 反対派の専門家がいくら本を書いても、そういう方たちのところには知識・認識が届かないのだとすれば、素人の私がブログで少々発言しても届かないのは、当たり前といえば当たり前のことかもしれません。

 自分が納得するためにはもう充分に読んだ。私がいくら読んでも、書いても、知ってほしい方々には届かない。

 それならば、これ以上私が時間とお金を使って読んでも、知っても、あまり有効性がないかな、原発関係の本を読みあさる必要はないかな、と思っていました。

 それでも状況は気になるので、小出氏などの発言はある程度追いかけていました。

 そういうなかで、もちろん小出氏の新著の刊行のことも知っていましたが、買って読むのをためらっていました。

 しかしやっぱり気になるので、あまり読みたくもないけど読まなければならないかなと、アマゾンで注文し昨日1日大学への往復電車の中で一気に読みました。

 知識としては一応知っていることがほとんどでしたが、改めて心に甚(いた)く・痛く響くことがいくつもありました。

 特に以下に引用したところ、「3月11日を境に私たちの世界自体が全く変わってしまった」という言葉がきつく心に刺さりました。

 もうかなりの程度悪い方向に変わってしまった世界と日本をこれ以上悪くしないで、なんとか次の世代に残していきたい、そのために今後もできることをやっていこう、と改めて当たり前のような決心を堅くしています。


Q:佐賀県にある松の葉からセシウムが検出された、というニュースに驚きました。福島からおよそ1100キロも離れた場所で、なぜ検出されたのでしょうか。 6月14日

A:研究者である私から見れば、当たり前のことです。1100キロなど大した距離ではありません。米国にも福島第一原子力発電所の放射能が届いていますし、ヨーロッパにも届いています。
 今回の事故の放射性物質は、残念ながらもう全地球を汚染しているというほどに広がってしまっています。
 そういうなかで私たちが生きざるを得ない、生きのびていかなくてはならないというところまで、追い込まれてしまっているのです。3月11日を境に私たちの世界自体が全く変わってしまった、ということみなさんによくよく知ってもらわなければならないのです。
 福島県はもちろん、もはや日本は同じ日本ではなく、地球は同じ地球ではありません。
 1986年にチェルノブイリで事故が起きたときも、8200キロ離れた日本にも、もちろん放射能は飛んできました。そのときも、全地球に放射能汚染が広がっています。



知りたくないけれど、知っておかねばならない 原発の真実
小出 裕章
幻冬舎


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主党-野田政権は原発を再稼動する

2011年09月22日 | 原発と放射能

 下記のニュース(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版)によれば、野田首相は、前日に3万人規模の反原発デモがあったにもかかわらず、来年夏までに原発を再稼動すると国際的な場で発言しています。

 「地震列島に54基の原発」という現実の意味を理解した上での発言とは思えません。

 これはつまり、民主党―野田内閣に国政を任せているかぎり、原発は再稼動する、つまり早期の脱原発はできない、ということです。

 こういう状況の中で、一日も早く原発を止めたい私たちには、何ができるのでしょう? どうすればいいのでしょう?

 みなさんは、どうお考えですか。私の考えは、何度も書いているとおりですが。


 【東京】野田佳彦首相は20日、ウォール・ストリート・ジャーナル/ダウ・ジョーンズ経済通信とのインタビューで、現在停止中の原子力発電所を来年夏までに再稼動していく考えを示した。国民の間では反原発の機運が高まっているが、原発を再稼動しないことや、すぐに原発を廃止することは 「あり得ない」と述べた。
 首相は原発政策について、「例えばゼロにするとすれば、他の代替エネルギーの開発が相当進んでいなければいけない。そこまで行けるかどうかも含め、いま予断をもって言える段階ではない」と答えた。
 3月の福島第1原発事故以来、かつては広く原発を支持していた国民の間で反原発の声が高まっている。こうした現状を踏まえ、脱原発をどこまで、また、どれだけ早く進めるかが野田新政権にとって最も困難で意見の分かれる問題となっている。
 インタビュー前日には、警察推計で約3万人の国民が集まって反原発集会が行われた。これは原発事故以来最大級の集会で、政治問題に対するデモとしても長年例のなかった規模だ。
 原発事故以降、定期点検のため停止中の原発の再稼働が国内各地で拒否されている。現在稼働している原子炉は国内にある全54基中、10基程度に過ぎない。政府が原発再開に向けて地元自治体を説得できなければ来年には全国すべての原子炉の稼働が停止し、事実上の脱原発となる。
 野田首相は、「再稼動できるものは再稼動していかないと、 まさに電力不足になった場合には、日本経済の足を引っ張るということになる」と述べた。
 しかし反原発派は、今年夏のピーク時にも、いくつかの原発停止にもかかわらず大きな電力不足がなかったことを指摘し、停止中の原発を再稼動しなくても来年の夏も乗り切ることができるのではないかとみている。これに対し、野田首相は、「そういういうことはあり得ない」として、原発なしには来年の夏は電力不足に陥るとの見方を示した。
 少なくとも当面は原発を維持するという野田首相の姿勢は、菅直人前首相とは対照的だ。前首相はかつて原発を強く推進していたが、福島第1原発事故後は反原発に方向転換した。前首相は、原発事故対応を誤ったとみなされたことも一因となり、約1年で首相の座を去った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今夜から「維摩経」の学び再開

2011年09月20日 | 仏教・宗教

 サングラハ教育・心理研究所の講座の夏休みも終わりで、今夜から再開です。

 『維摩経』の講義シリーズの続きなのですが、再開に際して、聖徳太子のものと伝えられる『維摩経義疏』の序文の冒頭のことばを思い出して、読み返しました(以下は私訳)。


 維摩詰は、すでに覚りに達した偉大な聖者で、その本質について言えば、すでに真如と一つなのだが、現象面の現われについて言えば、いろいろな姿を示し、人々の姿と等しくなっている。徳は多くの聖者の上にあり、道はふつうの人間(凡夫)が考えるような境地を超えている。現象の働きに関しては、「無為」を事とし、形に関しては、「無相」を相としているのだから、どうして、彼の名や相を示すことができるだろう。国家の事業を煩いと感じつつも、偉大なあわれみの心(大悲)が息まないので、人々に益することを志としている。


 「国家の事業を煩いと感じつつも、偉大なあわれみの心(大悲)が息まないので、人々に益することを志としている」という箇所、聖徳太子自身の気持ちを重ねていると感じられます。

 太子も、国家の事業・政治は実に厄介だと感じておられたのでしょう。

 しかし、菩薩は慈悲の心が自然に湧いてくるので、人々のことを放っておけません。何とか幸せにしてやりたいと思うので、あえて苦労を引き受けざるをえないのです。

 菩薩は、慈悲ゆえにあえて政治に関わらざるをえない(ほんとうにめんどうなのだが)、というのが太子の心境だったのではないか、と私は読んでいます。

 仏教には、社会・日常の苦労を離れてすがすがしい気持ちになるという方向と、あえて社会・日常の苦労を引き受けるという方向があると思われます。

 講義では、二つの方向をバランスよく学んでいきたいと思っています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうすれば原発を止められるか

2011年09月19日 | 原発と放射能

 一昨日、「いのちを見つめる」展のオープニングの講演をしてきました。

 講演に共感してくださった方も多く、後の懇親会では話が弾み、久しぶりに帰りが午前さまになりました。

 弾んだ話には、講演のテーマの「宇宙の中のいのちの意味」についての質疑応答だけでなく、どうすれば原発を止められるかという話題も含まれていました。

 懇親会に残った方のほとんどが原発反対で、デモに行ったり、署名をしたり、政治家に手紙を書いたり、会える政治家には行って話しをしたり、などなど、いろいろな方法を考え、非常に積極的に行動している方もいました。

 そこで、あえて、今までの市民運動では日本の政治は基本的に変わらなかった・今回も変わらないだろう――原発も止まらなかった・止まらないだろう――という指摘をし、市民運動をしている方たちが決定的に見落としていることがあるという話をしました。

 「なぜ、ドイツやイタリアやスイスは脱原発の決定ができた(スウェーデンはとっくに決まっている)のだと思いますか?」と問い、いろいろな意見が出るのをしばらく待ってから、「そういうこともあるでしょうが、結局のところ、それは主権政党-政府が決定したからできたんです」と指摘しました。

 議会制民主主義の国では、主権政党-政府が決めれば、原則的にはどんなことでも決めてしまえるのです。

 逆に言えば、主権政党-政府が決めないかぎり、何も決まりません。どんなに市民運動が盛り上がっても。

 だから、原発を止めたかったら、止める意志がある政党を主権政党-政府にするしかない、そういう政党がなかったら作るしかないのではないでしょうか? と。

 日本は、幸いにして議会制民主主義の国で、結社の自由つまり自分で自分が支持できる思想をもった政党を作ることができるのです。

 その政党が主権政党になって、国民を代表して権限・権力を行使すれば、原発はまちがいなく止めることができます。

 民主主義国家における政府は、選挙によって国民の委託を受け、国民のために権力を行使するものです。

 それは、民主主義の常識のはずなのですが、日本の市民の常識になっていないのではないでしょうか?

 そもそも政府は権力を行使するものであって、権力=悪=政府=政治という情緒的同一視は民主主義とはそぐわないものなのですが、日本の良心的市民にはどこかそういう感覚が強くあるようです。

 〔あくまでもグラデーションですが〕正しい権力と悪しき権力があるのであって、権力そのものは善でも悪でもないのです。

 そして、権力を行使する政府を形成する政党(を形成する議員)を選ぶのは国民なのです。

 だから、もう一度言いますが、もし原発を止めたかったら、止めるという決定をすることのできる権限・権力を行使する意志のある政党を主権政党にするしかない。そういう政党がなかったら、作るしかない。

 現在の民主党には、成り行きで原発を減らす・減っていくという意志ともいいにくいあいまいな方向性しか見えません。

 自民党、公明党も脱原発の意思表示はしていません。

 共産党と社民党が意思表示をしていますが、残念ながら、この二つの政党共に日本の経済、外交、安全保障を任せられるとは思えません。

 その他の政党についても、日本の未来を託すことのできるような理念とビジョンがあるとは思えません。

 だから、脱原発を含め日本の未来を託すことのできるような、自分が支持できる政党を作るほかないのではないでしょうか?

 政党を作るのは大変? いいえ、政党は基本的には任意団体なので、たった二人でも合意して「○○党」と名乗ったら、それは政党なのです。

 政党助成金を受けられる政党になるには、国会議員が数名加わっている必要があるのだそうですが。

 初めはごく少人数だった政党がやがて主権政党になる、ということは、起こりえないことではないのです。

 そういうわけで、私の属している「持続可能な国づくりの会」では、「理念とビジョン」の試案を作り、「こういう理念とビジョンを実行する政党が必要だとは思いませんか」という呼びかけをしています。

 会のHPやブログを見て、よかったら「清きご一票を」……と呼びかけてきました。

 みなさん熱心に話を聞いてくださり、「ブログを見てみます」と言っていました。

 ともかく、市民運動をしている人に向って、あえて「従来の市民運動では限界がある」と言って、反発されず、関心をもって最後まで話を聞いてもらえた集まりは、初めてでした。

 これが日本の市民の意識が変わりはじめている兆しだといいのだが、と期待しているところです。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第36期講座案内

2011年09月14日 | 広報

*コスモス・セラピーの日程のうち12月3日は都合により10日に変更になりましたので、改めてお知らせします。

         サングラハ教育・心理研究所
      
       第36期オープンカレッジご案内


 戦後の日本人のきわめて多数が、自分を超えた大いなる何ものか(神仏・天地自然・祖霊)の大切さを忘れさせられて忘れ、「神も仏もあるものか。死んだらばらばらの物に解体してすべては終わり(ニヒリズム)。だから、生きている間に自分がどれだけいい思いができるかだけ(エゴイズムと快楽主義)」という精神状況に陥っていることは、これまで何度も指摘してきました。

 リーマン・ショック、ドバイ・ショック、格差社会、東日本大震災、原発事故、歴史的円高……と、よりどころだった経済的繁栄も先行ききわめて危うくなっている中で、エゴイズムと快楽主義ではもう当面のやりくりさえできなくなっており、これからどう生きていけばいいのか、行き詰まってしまった人が急増しているように思えます。

 今期は、そうした状況の中で、行き詰まりを超えるための根本的な世界観を示してくれるコスモス・セラピーと仏教の学びをさらに深めていきたいと思います。


 火曜講座:「『維摩経』を学ぶ 5」

              於 サングラハ藤沢ミーティングルーム
               火曜日 18時45分~20時45分  全7回
               9月20日、10月4日、18日、11月8日、22日、12月6日、20日


 『維摩経』の学びの再開(第五期)。主人公維摩詰は、在家仏教徒で大商人でありながら、ブッダの弟子たちよりもはるかに深い覚りの境地にあったとされる、大乗仏教を代表するような人物です。

 第一期の導入部、第二期、ブッダの弟子たちが維摩居士の病気見舞いを辞退する場面、第三期は、菩薩たちも辞退する「菩薩品」から文殊菩薩がみなを連れて見舞いにいく「問疾品」、第四期は「不思議品」、今期は「観衆生品」、「仏道品」とますます佳境に入って大乗仏教の真髄に触れていきます。

 連続講座ですが、途中からでもわかるように講義します。希望の方は第一~四期の講義をCD、DVDで聴くこともできます。初めての方もお出かけください。

 テキスト:コピーを配布します。

*火曜講座では、講義の前に三十分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。


 土曜講座:「コスモス・セラピーの理論と実践 1」

         於 サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩5分)
         土曜日 13時30分~15時30分 全7回
         9月24日、10月8日、22日、11月5、19日、12月3日→10日、17日

 久しぶりに研究所のいわば定番的プログラムであるコスモス・セラピーの講座を開講します。今回は、理論と実践の初級インストラクター・レベルの内容をマスターしていただくための本格コースの第1回(全3回、来年1~3月期と4~7月期に開講予定)です。

 二十世紀初頭前後から1世紀余りをかけて形成された現代科学の宇宙論―ビッグバン・宇宙の誕生から私の誕生までの137億年にわたる歴史の流れ―を学ぶと、近代の根本的な心の病いである、ニヒリズム―エゴイズム―快楽主義は徹底的に克服されてしまうという学びを理論的にも体験的にも共有していきたいと思っています。

 今回は加えて、2003年頃から大きく変わりつつある宇宙論の最新仮説で、コスモス・セラピーに大きな増補・改定が必要になったのかどうかについてもコメントをしていきます。


 テキスト:『コスモス・セラピー―生きる自信の心理学』(サングラハ教育・心理研究所)

*野外ワークを行なう場合もあります。軽い運動のできる服装をご用意下さい。


●受講料は、一回当たり、一般3千5百円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
 ・E-mail: okano@smgrh. gr. jp または ・Fax: 0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新刊紹介:『低炭素社会のデザイン』

2011年09月13日 | 持続可能な社会
低炭素社会のデザイン――ゼロ排出は可能か (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店



 「持続可能な国づくりの会」の賛同者のお一人の西岡秀三先生から新著を送っていただきました。

 読むと、低炭素社会そして持続可能な社会が、ただの綺麗事・現実性のない理想論・実現不可能な夢物語ではなく、しっかりデザインできシナリオが書けるもの――したがってやればできること――であることが明快に理解できます。

 率直なところ、たくさんのテーマについて数字の裏づけをしながら広く見渡しているという感じの本で、そういう意味では「面白い本」ではありません。読むこと、理解することに一定の努力が必要です。

 しかし、その努力は、しっかりとした数字と理論に裏づけられた希望――例えば「原発に頼らなくても低炭素化は可能だ」――が見えるという意味で、必ず報いられる本でもあります。

 
 以下、「はじめに」を引用・紹介しておきます。

 一緒に読んで、一緒に考える機会があるといいですね。

                    *


 はじめに

 東日本大震災では、地震や津波という自然の働きについてわれわれはなんと無知であったかを思い知った。引き続いて起こった原子力発電所事故では、自然の中では封じ込まれていた核反応を人問が操作することの限界を目のあたりにした。しかし同じ自然を相手にするのでも、じわじわ忍び寄る気候変動に対しては、自然からの警告を肌で感じながらも、それを無視するかのように、ものやエネルギーを大量に消費する生活を拡大し続けている。人間は自然への畏敬の念を忘れてはならない。自然の存在を忘れ、身の丈以上に高望みすると、自然は自然の論理で対応するからだ。
 「安定な気候」は生態系を維持し、食料を生みだし、人々の日常を守る、すべての命の源である。あまりにも普通すぎてその存在さえ忘れられている。失われてみてはじめてその価値に気が付くものの一つであろう。いま地球規模での急激な温度上昇が観測されている。そしてその原因が、人間活動から排出される二酸化炭素など温室効果ガスの増加にあることが確認されつつある。一瞬にして起こる地震と違って、世界全体に広く不可逆的で甚大な影響がゆっくりと進む。さらに、南極の巨大棚氷の崩壊のように、一挙に数メートルの海水面上昇を世界にもたらす突発的で重大な変化も懸念されている。
 世界の気候安定化への取り組みは、一九八○年代から始まった。「気候変勤に関する政府間パネル(IPCC)によりなされた科学的な認識をもとに、気候変動枠組条約(UNFCCC)での国際的な合意にもとづき、いまでは先進国・途上国とも「低炭素社会」に向けて大きく舵を切り始めた。

 一九八○年代に成熟期に入った日本は、挑戦という言葉を忘れたかのように守りに入った。それ以来、将来を語らず、世界の動きを先取りすることもなくなった。築き上げた体制に安住し、改革に目を背けてきた。気侯の安定化に向けて産業社会を変えてゆこうとする世界の大きな流れを目の前にしても、将来ビジョンを語ることなく、目先の経済運営に終始している。変化に背を向ける人たちの、地球温暖化は嘘だ、二酸化炭素の排出削減はできない、やると損する、という大合唱が挑戦の足を引っ張ってきた。
 しかし、もはや低炭素時代の到来は必至である。ならば、覚悟を決めてそこに乗り込んで行き、新たな時代の産業で国を興すしかない。日本は高齢化・人口減の国として世界の先頭を切っている。成長期で必要とされた、経済や産業における供給力主体の運営から、成熟期に入って、真の豊かさ、安全安心を保障する社会へと、生活者主体の運営に変わらなければならない時期にある。二一世紀の新しいモデルとして、自信と誇りをもって国を運営してゆくありさまを世界に示す絶好の機会でもある。
 「低炭素社会」は日本が世界に発信した概念で、広く社会や個人の行動や考えの変革までを含めている。日本とイギリスの共同研究で提案されていた「低炭素経済」という表現では、この変革の意味を十分に表わせないのではないかということで、「低炭素社会」と言ったのである。
 「低炭素」という言い方は物理的に響く。また「持続可能社会」や「グリーン成長」とどう違うのだという批判もある。しかし、気候の安定化を目指す仕会の目標は、やはり二酸化炭素を主とする温室効果ガスを排出しない世界を作るところにある。そこから目をそらせないためにも「低炭素」という言葉が欠かせない。気候を安定化せずに社会は持続可能ではないし、グリーン成長の中核は低炭素化にある。
この言葉は幸いにして多くの人たちの引用で世界に浸透し、いまや世界中で使われるまでにいたっている。

 本書は、低炭素社会の具体的なビジョンとそこへの到達手順を示し、日本社会が大きくその方向に一歩を進める道筋を示したものである。
 第1章では、科学的知見と世界政策の両面から、世界が低炭素社会へ向かう必然性を示した。その直こうには、さらに大きな挑戦となる持続可能な「ゼロ排出」の世界が待ち受けている。
 第2章では、二〇五〇年までに二酸化炭素の排出を七〇%削減するという目標を達成するシナリオを描いている。このシナリオは、エネルギー需要はおよそ半分程度に削減可能だという見通しと、エネルギー供給側の大幅な低炭素化とによって実現可能になる。
 エネルギー供給システムは、福島原発事故によって国民的議論の的になった。本書に関連したポイントは二つある。一つは、原発に頼らなくても低炭素化は可能だということ(第3章)。もう一つは、安全で安定したエネルギー供給システムの選択肢はさまざまにあるということである(第4章)。国民がその選択の貢任を負っている。
第3章では、省エネルギー・低炭素化に向けて、生活や生産の場でどのような技術が有望かを示している。低炭素社会への転換は、自然資源をより効率的に利用するよう知恵を絞ることでしか達成できない。
 第4章では、低炭素社会に向けて企業や社会がどう変わらなければならないかを考える。低炭素社会は、人任せではできない改革である。すべての構成員がそれぞれの持ち場でなすべきことがあり、互いに働きかけて大きな流れを作らないとそこへは到達できない。
 第5章では、そうした動きを推進するための政策の基本と、各国の戦略について述べる。気候の安定化がどのような形で可能になるのかには多くの論議があり、万能薬はない。個人の行動がものと時間の消費を通じて産業を変え、政治を動かし、インフラを新たにする。時間がかかる仕事である。だから長期目標を共有し、確かな道筋を見極め、徐々にそして確実に変えてゆく辛抱強さが必要である。

 本書の内容は、二〇〇四年から二〇〇九年にかけて、環境省地球環境研究総合推進費による六〇名の研究者が参加した「二〇五〇日本低炭素社会シナリオ」チームの研究成果にもとづいている。本書の二酸化炭素削減シナリオは、国立環境研究所・京都大学・みずほ情報総研が開発した、気候変動政策のためのアジア太平洋気候続合評価モデル(AIM)によって裏打ちされているものである。(後略)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危機的状況と飛躍的進化

2011年09月12日 | 持続可能な社会

 勧められて読んだ池澤夏樹『楽しい終末』(文春文庫、タイトルは反語的で、楽しくない人類の終末が、予想したくないのに予想されてしまう、という本です。機会があれば、いつか論評してみようと思っていますが…)に、立花隆『サル学の現在』(平凡社、1991年、514~516頁)の中の人類学・霊長類学者の江原昭善氏との以下のような対話(問い:立花、答え:江原)が引用されていました。


 絶滅か、未来人類の出現か

――この先どうなりますか。

「難しい問題ですね。残念ながら、進化史上におけるホモ・サピエンスの位置がどういうところにあるのか、まだ予測できません。というのは、ホモ・サピエンスという種が現われてから、まだ五万~一〇万年しか経っていない。これは、タイムスケールで言えば、まだあまり短くて、種の運命を予測できない。この先絶滅する運命なのか、安定進化の状態になって、一〇〇万年単位の繁栄を楽しむことができるのか、どちらを向いているかが問題です。
 化石類人猿の時代が、一〇〇〇万年単位であって、それに続いて、猿人の時代が三〇〇万年ぐらい続き、原人の時代が、一〇〇万年くらい続いた。ホモ・サピエンスは、その先のところで、一〇万年ほど前から、ちょこっと芽を出しているだけです。これはもしかしたら、絶滅へ向かう分岐進化なのかもしれない。あるいは、このまま安定するのか、あるいは、この先また別の分岐進化があるのか、何ともいえないんです」

――環境破壊とか、人口爆発とか、最近の状況はどうも、人間の種としての未来を危うくしてるようですね。

「私も最近まで、人間は絶滅に向かって進んでるんじゃないかと、ペシミスティックだったのですが、最近ちょっと考えが変わりましてね。生物が飛躍的進化をするときは、いつでも危機なんです。それを乗りこえたとき、新しい段階に飛び移れるし、飛びそこなうと絶滅する。だから、現在の危機的状況をバネにして、人類は次の次元に入っていくのではないかという気もしてるんです。」

――もう一段、高次の存在に進化するということですか。

「そういうことです。猿人から原人、原人からホモ・サピエンスになったように、もう一段上に、パッと飛躍する。そして、進化した向こう側から我々の側を見ると、まるで、我々が猿人を見ているくらいの差がついて見えるんじゃないかと思います」

――その未来人類というのは、どういう存在になるんですか。また、脳容積が飛躍的に増えるんでしょうか。

「脳容積が、これ以上増えないと思うんです。もう脳の大きさは、出産を考えて、生理的限界なんですね。それに、脳の大きさが変わると、頭から顔から、形態的にも生理的にも、すっかり変わってくることになる。そういう変化は起きなくて、脳の使い方が変わるだけで、まだ飛躍できる余地がある。まだ脳の半分は遊んでいるといわれていますからね。姿形は大して変わらなくて、精神能力だけが大きく向上する」

――たとえば、どういうふうになりますか。

「たとえば、人類の多くがキリストとかマホメットとか、ああいう偉大な精神能力を持った人間になるという可能性がある。進化というのはいつもそうなのですが、突然全く新しいものがドッと出てくるわけじゃなくて、はじめ集団の中にポツリポツリ進化的に先を行くものが出てきて、それがやがて一般化するわけです。だから、あの人たちは、未来人類の先駆者だったのかもしれない。だけど、彼らは、脳容積が二倍だったわけじゃない。だから、脳容積は同じでも、あの辺まではいけるんじゃないでしょうか」

――キリストやマホメットなどというと、大昔の人のような気がするけど、進化史のタイムスケールでいったら、我々と同時代人のわけですね。

「キリストやマホメットを持ち出すと、何か宗教的なものばかり想像してしまうかもしれないけれど、必ずしもそういうことではなくて、重要なのは、精神的能力、すなわち脳のはたらきが飛躍的に増大するだろうとことです。そして、そういう変化は、精神活動の活発な人間の中からうまれてくるだろうと思うんですがね」

                *

 人類全体もですが、ともかく日本にも、この危機的状況をバネにしてより高次な存在へと飛躍的な意識進化を遂げる人々――たぶん大多数はかなり若い世代でしょう――が出現・創発する可能性がある、というところに……というところにだけ、希望があるのではないか、と私は思っています。

 ただし、現状の平均的人類がキリストやマホメットのレベルにという大変な飛躍を遂げるのは当面、当分、無理でしょうし、幸いにして今はそんなに高いレベルまで必要なのではなく、情緒的に目先の損得や好き嫌いでものを考えてしまうというレベルから理性的なレベル、しかも自分や自分たちだけにとって短期に理性的(合理的・有利である・都合がいい)ではなく、自分や自分たちと他の人や生き物すべてにとって中長期に理性的(合理的・有利である・都合がいい)に考えられるという統合理性(K・ウィルバーの用語では「ヴィジョン・ロジック」)的なレベルにまでは飛躍する必要がある、ということだと思われます。

 今の日本人、特にリーダーに欠けているのはそれであり、それなしではもう先に進めない、このままではずるずると茹で蛙的に衰退―滅亡に向うのではないか、と深く憂慮しています。

 そんな大げさに言うほどの危機ではないのでしょうか?

 既成のリーダーの方々がやっている対応・対処で、なんとかなるのでしょうか?「任せとけば、なんとかするだろう」と思っていいのでしょうか?

 あるいは逆に、「もうどうしようもないから、特に何もしない、できない」というところまで行ってしまっているのでしょうか?

 どう思われますか、読者のみなさん。



コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評:往生の極意

2011年09月09日 | 仏教・宗教



 依頼があって、宗教学・宗教哲学といった分野での大先輩である山折哲雄先生の新著の書評を書きました。

 書評にも書いたとおり、とても面白い本でした。

 そして、若干の異論もある本でしたが、昔のように目くじら立てて議論しようという気にならなかったのは、歳のせいでしょう。

 異論に関心のある方は、「覚りとは何か」以下のブログ記事を参照してみてください。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする