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さて、このあたりまで講義が進んでくると、必ずといっていいくらい出てくる疑問があります。
ネット学生のみなさんも、たぶんおなじような疑問が湧いていると思いますので、それに答えていきましょう。
まず①は、「能力や長所が少ししかないのに、自信なんか持てるんだろうか、持っていいんだろうか?」というものです。
こういう疑問の裏には、「人と比べてものすごく優れていなければ、自信を持つことはできない」という考え方があると思われます。
すでにお話ししてきたように、私たちは競争社会に生きていますから、どうしても人より優れていることが価値だと思いがちです。
そして、自分が人より優れていると思っている状態、つまり「優越感」が「自信」だと思いちがい・混同しているのです。
思いちがいといいましたが、言葉は定義しだいでいろいろな意味を持たせることができますから、「優越感=自信」と定義してもいけなくはありません。
しかし、私は、「優越感」は「本当の自信」ではない、と定義しています。
優越感というのは、他と自分を比較して自分が優越しているという気持ちですから、比較が前提になっています。
したがって、もし比較して劣っていたら、劣等感を感じざるをえないということになります。
つまり、優越感と劣等感は裏表なのです。
そして、世界で一番でないかぎり、自分より下を見ると優越感を感じることができても、自分より上は必ずいますから、その人に対しては劣等感を感じざるをえません。
「高校の時は成績が上位で自信があったのに、大学に来たら自分よりできるのがたくさんいて、自信を失った」という学生がよくいますが、私は、「それは、優越感が劣等感になったということだよね?」と問いかけ、優越感と自信のちがいの話をしていきます。
さらに、あらゆる分野で世界一という人はありえませんから、自分にできることが評価される場面では優越感を感じられても、自分にできないことが評価される場面に行ったら、とたんに劣等感を感じなければならなくなります。
例えば、頭はいいけれどスポーツは苦手という人は、頭のいいことが評価されるグループでは優越感を感じることができるのですが、スポーツができないとバカにされるようなグループに入ると、とたんに劣等感を感じさせられることになります。
そういう、こちらでは優越感を感じても、あちらでは劣等感になるというふうに、ゆらいでしまう「自信」は、私の定義では「本当の自信」ではありません。
「本当の自信」とはゆるぐことのない自信でなければならない、と思うのです。
さてでは、そんな「自信」を得ることなんてできるのか? できる、というのが私の授業で伝えたいことです。
まず、比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆらぐことはありませんから、気持ちもゆるがないはずです。
といっても、比較しておいては「オレってダメだな」とセルフ・トークする癖があまりに強くついていると、すぐに事実が見えなくなって、気持ちがゆらいでしましがちですから、いつも事実を見る癖をつけ直す必要があるわけですが……。
だいじょうぶです、ついた癖なら、つけ直すことも可能です!
さて、このあたりまで講義が進んでくると、必ずといっていいくらい出てくる疑問があります。
ネット学生のみなさんも、たぶんおなじような疑問が湧いていると思いますので、それに答えていきましょう。
まず①は、「能力や長所が少ししかないのに、自信なんか持てるんだろうか、持っていいんだろうか?」というものです。
こういう疑問の裏には、「人と比べてものすごく優れていなければ、自信を持つことはできない」という考え方があると思われます。
すでにお話ししてきたように、私たちは競争社会に生きていますから、どうしても人より優れていることが価値だと思いがちです。
そして、自分が人より優れていると思っている状態、つまり「優越感」が「自信」だと思いちがい・混同しているのです。
思いちがいといいましたが、言葉は定義しだいでいろいろな意味を持たせることができますから、「優越感=自信」と定義してもいけなくはありません。
しかし、私は、「優越感」は「本当の自信」ではない、と定義しています。
優越感というのは、他と自分を比較して自分が優越しているという気持ちですから、比較が前提になっています。
したがって、もし比較して劣っていたら、劣等感を感じざるをえないということになります。
つまり、優越感と劣等感は裏表なのです。
そして、世界で一番でないかぎり、自分より下を見ると優越感を感じることができても、自分より上は必ずいますから、その人に対しては劣等感を感じざるをえません。
「高校の時は成績が上位で自信があったのに、大学に来たら自分よりできるのがたくさんいて、自信を失った」という学生がよくいますが、私は、「それは、優越感が劣等感になったということだよね?」と問いかけ、優越感と自信のちがいの話をしていきます。
さらに、あらゆる分野で世界一という人はありえませんから、自分にできることが評価される場面では優越感を感じられても、自分にできないことが評価される場面に行ったら、とたんに劣等感を感じなければならなくなります。
例えば、頭はいいけれどスポーツは苦手という人は、頭のいいことが評価されるグループでは優越感を感じることができるのですが、スポーツができないとバカにされるようなグループに入ると、とたんに劣等感を感じさせられることになります。
そういう、こちらでは優越感を感じても、あちらでは劣等感になるというふうに、ゆらいでしまう「自信」は、私の定義では「本当の自信」ではありません。
「本当の自信」とはゆるぐことのない自信でなければならない、と思うのです。
さてでは、そんな「自信」を得ることなんてできるのか? できる、というのが私の授業で伝えたいことです。
まず、比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆらぐことはありませんから、気持ちもゆるがないはずです。
といっても、比較しておいては「オレってダメだな」とセルフ・トークする癖があまりに強くついていると、すぐに事実が見えなくなって、気持ちがゆらいでしましがちですから、いつも事実を見る癖をつけ直す必要があるわけですが……。
だいじょうぶです、ついた癖なら、つけ直すことも可能です!
そんなときは落ち込みがちになると思いますが、自動車のガソリン給油でたとえられていたのは、自身の長所などに目を向けて心を明るくしつつ、落ち込めばその度に元気を取り戻し、自分に出来ることを懸命にやっていく、ということでしょうか?
さて、優越感/劣等感については心当たりがありまくりで、たいへん耳が痛いところです。
そうすると、普通世の中でいわれている「自信」という言葉は、定義がとても混乱していることになりますね。自信過剰、とかいったり。
だから話がかみ合わなかったり、結局なにが身につけたいのかわからなくなってしまうのだと思いました。
先生のおっしゃる自信の方、身につけたいと思いました。日々練習ですね。
こういう場合の対処には、コスモス・セラピーよりも論理療法が効きます(詳しくは拙著『唯識と論理療法』佼成出版社、参照)。
まず、「一番はじめに出来な」かった場合、それはとても残念で望ましくないことですが、「本当にまったく意味がないのか?」と自問してみてください。ちゃんと論理的に考えると、「少しは意味がある」のではありませんか? 一番はじめでなくてもできたのなら、次回、一番になる可能性もあるということですからね。
適切に活かされた失敗は、やがて成功をもたらします。失敗を悔やむ-自分を責めるのではなく、失敗を反省しましょう。つまり、「失敗したオレは何てダメなヤツなんだ」というセルフ・トークをするのではなく、「なぜ、失敗したのだろう? どうしたら、次に成功できるのだろう?」とちゃんと理性的・論理的に考えていくのです。
上司から叱責された場合、内容が当たっているのなら受け入れて、反省しましょう、落ち込むのではなく。
叱責の内容が当たっていない場合、「それは当たっていない。誤解だ。でも人間は誤解することもあるんだよな、不完全な存在だから。私もそうだけど、うちの上司も不完全な人間なんだから」と受け流しましょう。
仕事でも何でも追い詰められると、気持ちに焦りが生じて適切な行動を行えなかったり、自分を責めるなどの不適切なセルフ・トークをして、更にがんじがらめになってしまいがちだと思います。そうなってしまうと、呼吸も浅くなって心身共に疲れ切ってしまいます。作業をしようと思っても体が言うことを聞かなかったり、かと言って休もうと思っても不安感からなかなか眠られなかったりします。それが更に気持ちに焦りを生じさせるという悪循環に陥ってしまいます。これで無理に働こうとするのをたとえると、故障した自動車を運転しようとしているようなものだ、ということになるのだと思います。
このブログで解説してくださっている本当の自信は、いわば羅針盤を持つことのようなものだと思います。これがあれば大波にもみくちゃにされていても、どの方角を目指せばよいのか知ることが出来ると思います。混乱の中でも一歩退いて広い範囲を見ることを可能にしてくれるのでしょう。しかし、まだこの自信を(十分には)身につけていない立場としては、焦りや不安やそれらからの逃避で作業に集中できなかったりする時間を少しでも短くしたり、その作業そのものが問題解決に対する重要性の低いものであったりすれば、少しでも早くより適切な作業に切り替えたいと思い、心や呼吸を落ち着かせる方法、身体の疲れをわずかでも取り除いてくれるようなワークなどを教えていただけたらいいな、と考えた次第です。焦っているものですから(苦笑)
病気の治療法に原因療法と対症療法というのがありますが、コスモス・セラピーは原因療法にあたり、すこし手間暇がかかります。
前から対症療法も必要だなと思っていたところ、アメリカのいい本を教えてもらって訳したのが、ロビンソン『ムダな努力をしないで幸福になる方法』(PHP文庫)です。まさにご希望に応えられるようなシンプルでけっこう効くワークが山盛りに入っています。
今までは、自尊心や優越感を得るために、頑張ってきたような感じがします。受験もそうですが、勉強以外でも、何かマニアックになってみたり、知識をためてみたり、おしゃれしてみたり。そうやっていろいろ表面的な体裁を変えても、根本的には変わってないので、すぐに上手くいかなくなると、生活のあらゆる場面で劣等感を感じてしまいました。
一番になり続けることは難しいようなので、優越感を自信として勘違いしていくことも難しいです。ですので、一先ず、社会的なものさしを置いといてから、自分の長所を見つめなおして、社会的評価に左右されない先生のいう自信を得たいと思ってます。そうすれば、どんな苦境に立たされても、生きる自信と勇気で乗り越えられる気がしてきました。長文で、恐縮です。スペースありがとうございました。
上のは、私が投稿しました。
優越感は自信ではない。優越感と劣等感は表裏一体で、つまりそれは自信がないということ。
自信って自分を信じるという意味ですよね。苦手なものや不得意なものはあっても、自分を信じていれば劣等感なんて殆ど感じなく、すごい人がいたら素直に凄いねって憧れる事ができる。そういう人って、本当に素敵です。