おとといの夕方、近所の霊園でのウォーキングの途中、今年初めての蝉の声を聞きました。
昨日は、一つの大学の前期最後の授業でした。
戦争したり、環境破壊したり、ニヒリズムに陥ったりするこのやっかいな人間という生き物 1) も、まちがいなく宇宙の一部です。
長い間、なぜ、宇宙は自らのなかにあえてこのやっかいな生き物を創ったのかということを考えてきて、コスモロジーに到達した時に、こういうふうに考えるとすっきり理解できたんです。
……と、人間は、宇宙自身の自己認識器官 2)、自己感動器官 3) であり、これから自己覚醒器官になるために創造された、という私のコスモロジー的解釈を伝えました4)。
最終小テストを行なったので、単位を取るために、ふだんサボっている学生も来ていて、700人教室がいっぱいの状態(おそらく6百数十人)でした。
「授業を始めます」といってもまだガヤガヤしているので、「今学期最後の親父の説教だ」と、「なぜ授業を静かに聞かなければならないのか」についてお説教しました。
人間は、ことばを使って社会を形成しなければ生きていけない、コスモロジーなしには生きられない動物である 5)。
ことばを軽視すると、人間としての社会生活がちやんとできなくなる。
授業を受けるとは、社会的に意味あるとされていることについて自分よりも知っているという意味で「目上」にある人のことばを聞くということである。
授業を静かに、真剣に聞いていないということは、社会の、目上の人間のことばをしっかり聞いていないということであり、それは自分自身が成長できない、ちゃんとした社会人になる準備ができていないということである。
「親に高い授業料を払ってもらって、授業を受けながら、静かに=ちゃんと聞いていないなど、成長できないという意味で自分が損をしている。それだけでなく、何よりも親不孝そのものだ! いいかげんに、大人になりなさい!」
と叱りました。
その後は、だいたい静かになりましたが、まだ私語している学生が数人いたので、「何歳だ?」、「生理的にはもう立派な大人だな。いいかげんに、心理的・精神的にも大人になれよ」と叱ると、すなおに「すみません」とあやまり、後は静かになりました。
この数の大学生を躾けるにはそうとうエネルギーが必要なのですが、コスモロジー的にいうと「遠縁の親戚の子である」彼らのこれからの人生のために必要なことだと思うので、あえてやっています。
今日は、秋から講義に行くキリスト教主義大学のチャペル・アワー(礼拝)の講話に出かけます。
明日は、もう一つの大学の前期最終授業です。
自分の長所を考えてみるワーク 6) 7) 8) 9) とほめあいのワーク 10) をする予定です。
学生たちの笑顔と瞳の輝きが予想されて、楽しみです。
……これで、大学の教師としての仕事は小休止、もうすぐ夏がやってきます。
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