般若経典のエッセンスを語る45 ――すべての人が真理を学び覚る世界にしたい

2022年10月31日 | 仏教・宗教

 第二十六願は「楽無上大乗(ぎょうむじょうだいじょう)の願」という。

 自分だけでなくすべての人、そして人だけでなく生きとし生けるものすべての救いを目指す人々を「菩薩大士」といい、そうした菩薩の集まりを「大乗」という。「楽」は「らく」ではなく「ぎょう」と読み「望む」という意味である。菩薩は自分だけでなくすべての人が大乗仏教を望み志すようにしてあげたい、と願うのである。

 第二十七願は「遠離増上漫結(おんりぞうじょうまんけつ)の願」である。

 ところが、少し修行し特殊な体験をしたからからといって、究極の覚りに到っていないのに到ったと思い込み、途中でいい気になることを「増上慢」という。「結」は思い込み・煩悩といった意味で、自分にも他者にもさまざまな問題をもたらす。しかし、いわゆる教祖や高僧には、そうした増上慢の人が少なくないように筆者には見えて、きわめて困ったものだと思う。菩薩は自らはもちろん、他の修行者たち、他の人々がそうした増上慢に陥らないようにと願うのである。

 それから、第二十八願は「遠離執着(おんりしゅうちゃく)の願」で、宇宙は無常であってダイナミックに変化していくものだから、特定の状態が変化しないようにと執着をしてもそれは不可能であり、執着すればするほどかえって苦しみ悩むだけだから、そうした無益な執着から離れさせたい、と。

 第二十九願は「光明寿命弟子数無量(こうみょうじゅみょうでしむりょう)の願」で、寿命が長く光り輝くような仏の弟子が数限りなく生まれてほしい、というか、いわば人類すべてが仏の弟子になって、光り輝くような人生をいつまでも送ってほしい、という願である。

 そして第三十願は「仏土周円無量(ぶつどしゅうえんむりょう)の願」という。

 仏国土とは現代的にいえば全宇宙であるから、ほんとうは無限なのである。にもかかわらず、現象としてここからここまでが仏教国であるというふうに、広がりに限界があるのを見たら、菩薩は「全世界のガンジス川の砂のような数の大千世界を一つの国土にし、私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と誓願するのである。

 大千世界とは一つの宇宙である。これが一体で、全世界のガンジス川の砂の数のように無限であって、「私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と。全世界が一つになって、無限の世界の中で、数限りない衆生がすべて仏教を学んでいく。それはけっして特定宗教としての仏教の信奉者になるということではなく、すべてがつながって一つという縁起の理法、空・一如、智慧、そこから当然出てくる慈悲、といった真理の教えをすべての人が学んでいるという世界にしたい、と。これが菩薩の誓願の最後の一つ前である。

 そして最後の第三十一願は、「生死解脱(しょうじげだつ)の願」である。

 神話的な仏教の世界観では、私たちは六道を生死輪廻することになっていて、それは果てしなく続く。しかもそこを輪廻する有情の数は数限りない。数限りない有情が妄想・無明によって悩み苦しみながら悩ませ苦しませ合いながら果てしなく輪廻している。その姿を見た時、「もろもろの有情のために最高の真理の教えを説いて生死輪廻のはなはだしい苦しみから解脱させ、また生死解脱についてすべて実体性がなくみな結局は空であるという覚りの認識を得させよう」という願である。

 覚ってしまうと、もはや輪廻の苦しみから解放されてしまうどころか、菩薩は、衆生がいる限り、「私は衆生のために願って輪廻する」ということになる。すべての人を「ああ、私と宇宙とは一体なのだ」と覚らせてあげたい、と。

 菩薩はもう輪廻しなくてもいいところまで行っているのである。まさに「無上正等菩提に隣近」しているというか、境地としてはほぼ完全な覚り・涅槃の世界に行っているのだが、行ってしまってもう輪廻しないということでは輪廻の世界・六道で苦しんでいる衆生を救えないので、あえて輪廻の世界に戻ってきて、衆生を救うのだという。

 大乗仏教ではカルマによって生まれた生命・体を「業生身(ごっしょうしん)」という。悪いカルマだけでなく、いいカルマで天界に生まれても業生身である。業生身であるかぎりは、輪廻の苦しみを繰り返すことになっている。

 それに対して、菩薩はもはや輪廻しない境地に達しているのだが、あえて輪廻を買って出る。そうした「衆生を救いたい」という願であえて生まれてくる生命・体を「願生身(がんしょうしん)」という。

 私たちは当面、業生身である。しかしその私たちの中に菩薩の誓願が根付いたら、もう菩薩大士、または「大士」のほうはつかないとしてもとりあえず「菩薩」である。菩薩の非常にレベルが高いものを「菩薩大士・菩薩摩訶薩」といい、一方、入り口の菩薩は「凡夫の菩薩」という。たとえ凡夫の菩薩であっても願が確立したら、そこで私たちの身体そのものが願生身に変わり始めるといってもいいだろう。

 業生身としての身体で生きていると、「めんどくさい」「疲れた」「いやになった」「もっとうまいものが食いたい」「もっと楽な気持ちのいいところに暮らしたい」などと、私たちはいろいろ輪廻の元になるカルマを重ねることになるが、「どこにいようと、何をしようと、私はこの願を実行したい。そのために私はこの世に生きている」というふうに願が確立したら、願生身になる。

 私たちはなかなかそこまで行けないとしても、このきわめて高いいわば金メダル級の理想を、人生における自己成長の究極の目標にして努力することはできるのではないだろうか。

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般若経典のエッセンスを語る44――エコロジカルに持続可能な福祉世界の構想

2022年10月29日 | 仏教・宗教

 続いて、残り第三十一願まで大まかに見ていこう。

 第十八願は「得五神通慧(とくごじんずうえ)の願」といい、すべての衆生が五種類の神通力を得られるようにという願である。

 第一は「天眼通(てんげんつう)」といって、天界や地獄など死後の世界を見通す力、第二は「天耳通(てんにつう)」で、あらゆる言語・音声を聞くことのできる力、第三は「他心通(たしんつう)」で、他者の心の様子をしる力、第四は「宿命通(しゅくみょうつう)」で、前世のことを知る力、第五は「如意通(にょいつう)」(または神足通)で、意のままに飛行したり居場所を変えたりする力で、つまりすべての人に超人的な能力を具えさせたいというのである。

 面白いのは第十九願で、「無種々大小便穢(むしゅじゅだいしょうべんえ)の願」という。古代インドのことだから、トイレや下水道など大小便の衛生的処理の施設が整っておらず、家や村や町がとても汚く臭かったのだろう。そういうことがないようにしたいというのである。

 「菩薩の誓願」という言葉の印象では、何かとても高尚な目標だけが掲げられているのかと思われがちだが、こうした日常的な衛生のこともあげられており、菩薩の衆生への思いがきわめて具体的な生活の向上にも向けられていることがわかる。

 第二十願は「光明具足身(こうみょうぐそくしん)の願」で、いろいろな照明器具などなくても、すべての人が存在しているだけで光り輝いているようにしてやりたいというのである。

 これは、物理的に考えると超自然的エネルギーで体が輝いて余計な電力などいらないという夢のような話だが、むしろ特殊な優れた人だけでなくすべての人をオーラが輝いて見えるような存在にしたいということだろう。

 第二十一願は「無昼夜時節変易(むちゅうやじせつへんえき)の願」といい、昼と夜や季節が変化することがないようにしようという。

 昼と夜が同じようになるというのはあまりぴんと来ないが、季節についていえば、インドは雨季と乾季があって季節の変化が厳しいので、そういうことがなくいつも穏やかにという思いがあってこうした願が立てられたのだろう。

 しかし、日本のように四季折々が美しい国では、菩薩の誓願であってもこれは遠慮したいという気がする。気候変動のためいまや四季が二季になりつつあるが、かつてのように四季が豊かに穏やかに巡るようになってほしいというのは切実な願いである。季節が穏やかにしっかりと巡るようにというのが、現代の菩薩の願ではないだろうか。

 第二十二願は「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」で、すべての人が長生きできるようにしたいというのである。

 しかし、幸せで長生きをするのでなく、不幸で長生きをしたのでは、苦しみが長いだけである。日本はこのままでいくと、お年寄りにとって長生きしたくない国になってしまいそうである。筆者も、これからどんどん下り坂になる日本で歳は取りたくないなと思う。そうではなく、子どもの福祉も老人の福祉も実現し、歳をとっても百歳を超えても幸せという国にしたいものである。

 そして、「誰かにそうしてもらいたい」と思っているのは凡夫で、「私は渾身の努力をして命・体を一切惜しまず、そういう国にしよう」と願い誓うのが菩薩である。

 第二十三願は「相好具足(そうごうぐそく)の願」である。「相好を崩す」という言葉や、「三十二相八十種好」という仏の身体的特徴を表わす言葉があるように、誰もが顔かたちがいつもとてもすばらしいというふうにしたいというのである。

 第二十四願は「善根具足成就(ぜんこんぐそくじょうじゅ)の願」である。私たちの心の中の善を行おうという根本的な構えのことを「善根」といい、それがしっかりと備わるとやがて菩薩にもなれブッダにもなれるのが人間であるが、善根がなければそのスタートを切ることもできない。だから、すべての衆生に「いいことをしよう」「覚りに近づきたい」「覚りたい」という根本的な気持ちを持たせたいという願である。

 それから第二十五願は「無身心病の願」で、「体と心の病が人々にあるのを見たならば、そのすべてを癒してあげたい」と思うのが菩薩だという。

 すなわち、菩薩の願の中には現代的に言えば医療福祉、そして福祉国家の構想がしっかり確立されている。驚くべきことである。

 こうして菩薩の誓願をずっと見てくると、すでに紀元一世紀頃に、空・一如、すなわちすべてのものの一体性という根源的な思想に根拠づけられた、いわば「エコロジカルに持続可能な福祉国家-福祉世界」の構想が成り立っていたといってまちがいない、と筆者には思えてくるのである。

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般若経典のエッセンスを語る43――すべての生命種の差別をなくす

2022年10月28日 | 仏教・宗教

*諸般の事情で長い間中断していましたが、また少しずつでも「般若経典のエッセンスを語る」の続きを書いていくことにしました。

 

 第十六願は「無諸趣差別並六道名字(むしょしゅさべつならびにろくどうみょうじ)の願」という。「諸趣」とは、天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの生存形態すなわち「六道」のことで、菩薩は天界から地獄まですべての違い・差別をなしてしまい、六道という名称さえなくすことを願とするのだという。これもまた大変な願である。

 第十七願は「無四生差別(むししょうさべつ)の願」で、差別をなくすというのは、人間だけの話ではない。仏教では「四生」といって、生まれ方によって生命の種類を四つに分けている。卵で生まれるものが「卵生」、母胎から生まれるものが「胎生」、それから当時は科学が発達していないから、湿気から湧いて出るように見えたボウフラなどは「湿生」という。それから愛着や性別なしに自然に、悪く言えばお化けのようフワッと出てくるのが「化生」である。

 菩薩は、生命にこうした四種類の差別があるのを見ると、「我が仏国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう」と願い誓うのである。

 これはすべての生命が平等にという理想であって、つまり現代的にいえばすべての生命種が調和したエコロジカルに持続可能な世界を創出しようという願である。

 それに対し、日本の実情を言えば、例えばニホンカワウソは絶滅してしまったのだそうである。だいぶ前に絶滅していたらしかったが、もう何年も発見されないので、ようやく環境省が絶滅したと宣言したとのことである。

 例えば、ゲンゴロウはかつて日本中のどこの池にもいたごくありふれた虫だったのだが、いまや絶滅危惧種になっているという。メダカも絶滅危惧種である。花でいえば、例えばリンドウも絶滅危惧種である。こうした例はあげていくと数えきれないほどで、気づくと恐ろしいことである。人間だけが繁栄すると、他の生物たちは絶滅していくということなのだ。

 明治から戦後、特に七〇年以降の経済的繁栄(?)は、今や日本のエコシステムを完全に壊しつつあるのではないだろうか。それは世界全体も同じで、これは何としてでも何とかしなければならない事態だと筆者は考える。

 ともかくそうした事態は、般若経典つまり智慧の経典の目指すところとはまったく逆だし、人間と他の生命種をまるで別のものとして捉え、人間を中心だと考える分別知=無明から生み出されたものだといってまちがいない。

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『サングラハ』185号が出ました!

2022年10月02日 | 広報

 『サングラハ』185号が出ました。発送も終わっていますので、読者のみなさんのお手元には間もなく届くと思います。お待ちください。

 まだ読者でないみなさん、以下の「近況と所感」「目次」「編集後記」で推測していただけるような内容です、よろしければぜひご購読ください。お問い合わせ | サングラハ教育・心理研究所 (smgrh.gr.jp)

 

  近況と所感

 これまで体験したことのないほどの大型台風が多くの被害を出して日本列島を縦断した後、急に涼しくなりました。

 被害に遭われたみなさんに心からお見舞い申し上げ、一日も早い復旧-復興をお祈りいたします。

 当研究所の関係者のみなさんはいかがでしたか? いつも神仏・天地自然・ご先祖さまにみなさんのご無事をお祈りしています。

 筆者の住む香川県は自然災害がとても少ないところで、ニュースで知るかぎりでは、今回も少し強めの雨と風だけで済んだようで、我が家も何事もありませんでした。自分だけよければいいとはもちろん思っていませんが、とりあえず感謝すべきことかと思います。

 それにしても「気候変動」による気象の荒れはますます顕著になってきているようで、とても心配です。

           *

 そうした中、「気候変動などという大きなことに対して自分一人では何もできない」と考えてしまう方も少なくないでしょう。気持ちはよくわかります。筆者もふとそういう気持ちになりかかりますから。

 しかし、これまで学んできていただいた読者には、「そういう気持ち=過度に否定的な感情は、非合理的な考え(イラショナル・ビリーフ)から生まれている…んでしたね」と言いたいと思います。

 どこが非合理的か確認しましょう。その気持ちの裏に「自分一人で気候変動をどうにかしなければならない」という考えが潜んでいませんか? それはどう考えても無理・非合理的です。自分一人ではもちろんどうにかできません。

 気候変動は、自分一人のせいではなく、長い歴史をかけて人類全体が生み出したものですから、「人類全体でどうにかしなければならない」と言ったほうがやや正確・合理的ですし、もっと言えば「大きな被害やまして絶滅を避けたいのなら、人類全体で協力してどうにかしたほうがいい」ということなのではありませんか?

 そこでポイントは、「たいのなら」と「協力して」と「ほうがいい」というところではないかと思います。

 まず、人類全体が協力できなかったら、とてもとても残念ですが大きな被害やもしかすると絶滅も避けられないでしょう。それはきわめて論理的な結末です。

 しかしポジティヴに言い直すと、「人類全体が協力できたら、被害も絶滅も避けることができる」ということです。

 では、次は協力できるのかということですが、協力は無意識的にされることはほとんどなく意識的に合意することによって可能になるのではないでしょうか。

 言い方を替えると、協力という行動には合意という意識が必要だということです。

 協力できていないのは合意できていないからで、それは十分な共通意識=一体感が形成されていないからです。

 ポジティヴに言い直しましょう。「十分な共通意識=一体感が形成されれば合意が可能になり、協力が可能になり、協力が可能になったら人類の持続も可能になる」と。

 そうすると、「必須の出発点は共通意識に向けた人類の意識の変容だ」ということになると筆者は考えてきました。

 唯識的に言えば、「転識得智(てんじきとくち)」、特に自分や自分たちを実体視するマナ識からすべてのものの平等・一体性を実観(実感の誤植ではありません)する平等性智(びょうどうしょうち)への変容です。

 そして意識の変容は、残念ながら「いっせーのせ」と人類全体ですぐに一挙には起こらないもののようですから、「滅亡したくない」と本気で思った者から取り組むしかない、と思ってきました。

 しかしそれは、「自分一人でどうにかする・しなければならない・できる」ということではなく、「〔人類的合意と協力に向けて〕まず自分から始める」ということです。

 しかも、そうした意識の変容への取り組みはすでにかなり多くの人の中で起こっており、筆者一人がやっているわけではありません。当研究所に関わってくださっているみなさんも、そういう多くの人の一人です。

 大丈夫だと思いますが、「私一人が、サングラハで学んでも、瞑想しても、六波羅蜜を実践しても、世界は変わらないのではないか」とネガティヴ思考に陥りそうになったら、ぜひ「私が意識の変容に取り組んでいるのは、人類の意識変容の先駆者の一人だということであり、それが全体に広がったら、世界は変わりうる」とポジティヴ思考に取り換えてください。

 進化史上、絶滅の危機に瀕した時、きわめて短期間に種全体が合意して飛躍的に変容し生き延びることができたというケースが何度もあるとのことです。私たち人類もそうなったほうがいいですね。ぜひ、そうしましょう。

 以上、まるでコスモロジー心理学ミニレクチャーのようになりましたが、これが筆者の「近況と所感」です。

 

  目 次

■ 近況と所感……………………………………………………………………………… 2

■『正法眼蔵』「生死」巻講義 下 …………………………………………岡野守也… 4

■〈宗教〉に未来はない 増補再説…………………………………………岡野守也… 12

■ 縁起の理法からみたウイルスと私たち

――新型コロナパンデミックをめぐって……………………………………大井玄…… 24

■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(6)…増田満…… 35

■ 講座・研究所案内………………………………………………………………………… 50

■ 私の名詩選(84) 寒山詩一九三 ……………………………………………………… 52

 

  編集後記

 主幹の正法眼蔵「生死」講義は、短い巻でしたが、表現の簡潔さ・平易さ・率直さの中に一層、深さが感じられました。主幹のもう一つの記事は、新々宗教の問題に関し、過去記事を増補・再説しています。「未来はない」は単に批判・否定ではなく、新たな宇宙観と霊性に向けて超えるという、いまだ実現のめどが見えていない、しかし今こそ必要な建設的提案です。

 大井先生の論文は、目下の新型コロナ禍のようなウィルスのあり様にもまた、進化と縁起の理法が貫徹していることが示されています。

 増田さんによる『人新世の「資本論」』書評は、内面の視点の欠落を指摘して終えられています。確かに、この外面システムのみの代案は、私たちの内的意欲を喚起する力を持ちえないように見えます。

                            (編集担当)

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