「私は他の誰でもなく私だ」という心の奥の思いは、自分と他者との「区別」という意味では正常かつ必要なものです。
自分と他者との区別がつかないという心の状態は、乳幼児なら正常でありかつ可愛いものですが、大人になってもそのままだと病気です。
仏教は、まだ発達心理学や臨床心理学のない時代にできたものですから、そのあたりが理論的に整理されていないところがあるようです。
その点は、もし仏教-唯識の洞察を現代に活かしたいのなら、はっきりさせておく必要がある、と筆者は考えています。
自己と他者との区別がわかるようになるのは、正常な発達です。
自己と他者の区別がちゃんとできるようになり、「自分は自分だ」、「自分とはこういう存在だ」という思いが心の奥にしっかり確立することを、西洋心理学のコンセプトでいうと、「自我の確立」とか「セルフ・アイデンティティの確立」といいます。
自我・アイデンティティの確立なしには、健全に生きてことはできません。
それに対して、自己を他者と分離した実体であると思うのが、無明・根本煩悩なのです。
こうした問題を考える上で、「区別」と「分離」という言葉の使い分け*はとても重要です。
しかし、言葉を使う動物である人間は、ともすると区別を分離と取り違えてしまうという強い傾向を持っています。
ほとんどの人のケースで、区別というよりは分離のほうに傾いてしまっている、といってもいいほどです。
ふつうの人間は、自己を実体視し(我見)、それを拠りどころ、頼り、誇りにするようになりがちです。
実体視された自己を拠りどころにし、頼り、他者と比較して自分のほうが上だと誇りたくなる心のことを、「我慢(がまん)」といいます。
これは、日常語の「我慢」の語源ですが、意味は逆です。
我慢することはいいことですが、「我慢」は根本的な煩悩なのです。
(日常用語と区別するために、唯識用語としての「我慢」は「ま」のところを高く発音するアクセントで読まれます。)
これもまた、私たちの日常の現実を理解するのにとても役立つコンセプトです。
競争社会におかれている私たちは、マナ識を過剰に刺激されがちで、やめよう、やめたほうがいいと思っても、ついつい人と自分を比較して、上だ・下だ、優れている・劣っている、と心安らかでなくなっています。
「我慢」の働きによって心を悩まされる、つまり煩悩ですね。
人気blogランキングへ
根本煩悩の解説が続いて、読者のみなさんも自分のエゴを直視するのが苦痛なのかもしれませんね。まさに、これでもかって感じで・・・ちょっとブルーが入ります・・・
私も、見事に自分の抱えているエゴの病を指摘されているようで、ため息をつきそうになります。
でも、仏教は人がこころ豊かに爽やかに生きるための明るい知らせですよね。
そのためには、しっかりと自分の病気を理解しなければならない。
病気を知らなければ、治す方法も分からないわけですから。
ここは目をつぶらずに、面倒くさがらずにしっかりと学んでいこうと思います。