空気とは何か2:感情移入の絶対化

2010年11月15日 | 持続可能な社会

 山本七平氏の文章を読んでいて感じるのは、評論の文体として――つまり読み物として――は、なかなかコクがあり、そこにはきわめて重要な洞察な洞察があって、ふうむとうならせるものがあるのですが、他者に主張や洞察を伝えるという点では非常にわかりやすい文章とはいえないということです。

 これからの日本人にとってこれまでどおり「空気」で動くことには大きな危険があり、その危険を日本人全体でなんとか避けたいという警告とメッセージを、多くの人にできるだけわかりやすく伝えたいのだったら、もう少しちがった文体も考えられたのではないか、と筆者などは思ってしまいます。

 しかし、それは亡くなられた方にいまさら言ってもしかたないことなので、筆者のできる範囲でわかりやすくほぐして語り直したいと思います。

 さて、「臨在感の支配」について、次のように述べられています。

 「臨在感の支配により、人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。」

 これの文章は、「日本人はすべてのことを情緒的・主観的に『感情移入』して捉えがちで、しかもそれを主観的な『感情移入』だとは思わず、それこそが絶対に正しい現実の捉え方だと思いがちである。そのことが『臨在感』という実感を醸し出し、逆らい難い『空気』を醸し出す」と表現してもらうと、私にはわかりやすかったと思います。

 そうした「感情移入」について、山本氏は次のような実例をあげています。


 聖書学者の塚本虎二先生は、「日本人の親切」という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若いころ下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中に、あまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた。そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。

 私はこれを読んで、だいぶ前の新聞記事を思い出した。それは、若い母親が、保育器の中の自分の赤ん坊に、寒かろうと思って懐炉を入れて、これを殺してしまい、過失致死罪で法廷に立ったという記事である。これはヒヨコにお湯をのますのと全く同じ行き方であり、両方とも、全くの善意に基づく親切なのである。

 よく「善意が通らない」「善意が通らない社会は悪い」といった発言が新聞の投書などにあるが、こういう善意が通ったら、それこそ命がいくつあっても足りない。

 従って、「こんな善意は通らない方がよい」といえば、おそらくその反論は「善意で懐炉を入れても赤ん坊が死なない保育器を作らない社会が悪い」ということになるであろう。だが、この場合、善意・悪意は実は関係のないこと、悪意でも同じ関係は成立つのだから。

 また、ヒヨコにお湯をのませたり、保育器に懐炉を入れたりするのは〃科学的啓蒙が〃足りないという主張も愚論、問題の焦点は、なぜ感情移入を絶対化するのかにある。

 というのは、ヒヨコにお湯をのまし、保育器に懐炉を入れるのは完全な感情移入であり、対者と自己との、または第三者との区別がなくなった状態だからである。そしてそういう状態になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在感的把握いわば「物神化とその支配」の基礎になっているわけである。

 この現象は、簡単にいえば「乗り移る」または「乗り移らす」という現象である。ヒヨコに、自分が乗り移るか、あるいは第三者を乗り移らすのである。ずなわち、「自分は寒中に冷水をのむのはいやだし、寒中に人に冷水をのますような冷たい仕打ちは絶対にしない親切な人間である」がゆえに、自分もしくはその第三者を、ヒヨコに乗り移らせ、その乗り移った目分もしくは第三者にお湯をのませているわけである。そしてこの現象は社会の至る所にある。……
                                 (『「空気」の研究』p.38-40)


 以上の文章の意味は言い換えれば、「日本人は、しばしば主観的な『善意』で客観的にはヒヨコにも赤ん坊にも悪い結果をもたらすことを行なうことがあり、その主観的『善意』は結果がどうであれ絶対視されがちで、『善意』を否定するものは絶対に『悪』であるとされるような心情の傾向があり、それが集団化された時、逆らい難い『空気』が醸し出される」ということでしょうか。

 「日本では、客観的な結果よりも主観的な意図のほうが圧倒的に重要視される」と言ってもいいでしょう

 今でも「この現象は社会の至る所にある」のであり、現に環境問題でも外交問題でも顕著に表われていると思われます。

 多くの場合、主観的に「環境にいいと思ってやっていること」(例えば「ハチドリのひとしずく」)が、客観的に「環境をよくしている」(森の火災を消す)かどうかは十分検討されず、主観的に「そのうち必ずよくなるはずだと信じられている」ように見えます。

 主観的には善意で「事を穏便に取り計らおう」としたことが、相手には通じておらず、客観的には「どんどん付け込まれる」という危機的状況を引き起こしているのではないでしょうか。

 もちろん「善意」は出発点として必要なのですが、それが目指したとおりの客観的な「善い結果」という到達点に到っているかどうか、その客観的検討はいっそう重要です。

 たとえ「善意」でやったにしても、ヒヨコや赤ん坊を殺すという結果は「善」とはいえません。

 おなじく「善意」で行なったとしても、危機を克服できないどころか深刻化させてきた環境政策や外交政策はそのまま続けられるべきではなく、変更されるべきでしょう。

 日本人が適切に危機に対処できるようになるためには、「感情移入の絶対化→臨在感→臨在感・空気の支配」を克服する必要がある、という山本氏の所説には深くうなづかせられています。

コメント (3)
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