北極海の氷:等身大の実感と地球大のデータ

2008年09月19日 | 持続可能な社会

 去年に比べると今年は残暑がきつくないようです。

 そうすると等身大の実感レベルでは、「温暖化はそれほど進んでないのかな?」という気がしてきかねません。

 しかし、グローバルつまり地球大のスケールではどうなのか、意識的にデータを追う努力が必要です。

 私は、7月22日に「この夏、北極の氷が消滅する?」という記事を書きました。

 9月中旬がもっとも氷が少なくなる時季だとのことで、気になっていたので、ネット検索してみたところ、不幸中の幸い、完全消滅は免れていました。

 しかし、9月16日付けのweathernewsのプレス・リリースでは、

「観測史上初!北極海(北東・北西)の海氷が消滅」という見出しで、

「株式会社ウェザーニューズ……のグローバルアイスセンターでは、9月10日、北極海北東部のロシア側航路(北東航路)に沿って海氷が消滅していることを確認しました。先月18日、北極海北西部のカナダ側航路(北西航路)に沿って海氷が消滅し北極海の海氷が観測史上最も早く減少していることを当アイスセンターで確認しましたが、両側(北東・北西)の海氷が消滅したのは1978年に始まった衛星による観測史上初。地球温暖化による影響であると考えられます。」

 「北西航路のあるカナダ側、北極海西側では、8月下旬(8月27日)に2007年の最小面積を抜いて観測史上最小面積となりました。北極海全体では2007年に次いで氷が少ない状態が継続しています。海氷の融解が2007年に迫る勢いで進んでいたため、観測史上最小面積となる可能性もありましたが、その後は横ばいの状態が続いています。」

 「海氷面積が最小になる例年9月中旬頃を過ぎると、北極海周辺では気温・水温が次第に低下し、海氷の面積は増加に転じます。当アイスセンターでは、北極海の海氷が今後どう変化していくか、引き続き監視していきます。」

とのことでした。

 心配されたような最悪の事態ではなかったけれども、事態が悪化していることはまちがいないと思われます。

 日本では洞爺湖サミットで「リーダーシップを取る」と言っていたリーダーがあっさりと政権を投げ出してしまった政治的空白状況、ニューヨークの株価の下落は続いています。

 食という人間の生存のもっとも基礎部分でも、日本人の倫理的崩壊は進んでいます。大臣、次官の辞職で済むような問題ではないと思います。

 その他、問題は山積です。

 しかし、私たちの向かうべき方向ははっきりしていますから、あわてず騒がず、前進していきます。

 気づいた日本国民のみなさんのご参加を、心からお待ちしています。



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般若経の学び : 目次

2008年09月18日 | 心の教育

大乗仏教

言葉を止めると心は爽やか

智慧と瞑想と菩薩

自然な行為としての慈悲

ススキ原で思ったこと

菩薩の大きな願い

仏教とキリスト教のフュージョン?

空と一体は同義語

学びの区切りと継続

空と仏とすべてのものと

菩薩の目標は平等社会

今年のモットー:こだわらず情熱的に

長い長いお経を読む気になっています

学びは続く

大般若経の深い一節

大般若経入手

般若波羅蜜多はコスモロジーである

年頭に当り「MUST化せず精進したい・できるといいな」と思う

エネルギーは実体か?

我は幻の如く夢の如し

私を超える禅定


*般若経典の学びを続けながら折にふれて書いてきた記事が、かなり溜まってきましたので、まとめて読んでいただくと参考にしていただけるかなと思い、目次を作りました。まとめて読んで、感想をいただけると幸いです。



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私を超える禅定

2008年09月17日 | 心の教育

 いろいろな仕事の合間に、断続的に『大般若経』(国訳一切経版、6分冊)を読んでいます。

 先に第6分冊目を読み終え、第1分冊に取り掛かってから、どのくらい経ったでしょう(調べてみたら、もう9ヶ月近くになっています)。

 ようやく第1分冊(六百巻のうち七十五巻まで)を読み終えたところです。

 実に多様な、豊かな学びをさせてもらっていますが、特に最後の七十五巻の「初分浄道品第二十一之一」に「六波羅蜜多に各二種有り、一には世間、二には出世間なりと」とあって、禅定=静慮(じょうりょ)にも俗世間的なものと超世間的なものがあるという注意がなされているのに感じ入りました。


 シャーリプトラが言った、どのようなものが世間的な禅定ですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修しても、拠りどころあって次のような考えをする(場合である)。私は一切の心ある生きものに利益を与えるために禅定を実修する、私は仏の教えに従って優れた精神統一に関して正しく修行している、私は禅定を実修している、等。……彼は三つの要素に執着して禅定を実修している、一には自分という想念、二には他者という想念、三には禅定という想念である。この三つの要素に執着して禅定を実修しているので、世間的な禅定とするのです。

 シャーリプトラが言った、〔では〕どのようなものが超世間的な禅定波羅蜜多なのですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとしよう、一には私が禅定を修行していると執着しない、二にはそのためにしているのだと心ある生きものに執着しない、三には禅定(そのもの)とその成果に執着しない。これを、菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとするのです。


 舎利子言はく、云何が世間の静慮(じょうりょ)なるやと。善現(ぜんげん)答へて言はく、若し菩薩摩訶薩、静慮を修すと雖も而かも所依有りて謂ゆる是の念を作す、我れ一切有情を 饒益(にょうやく)せんが為に静慮を修す、我れ仏の教えに随ひて勝等持(しょうとうじ)に於て能く正しく修習す、我れ静慮を行ずと。……彼れ三輪に著して静慮を修す、一には自想、二には他想、三には静慮想なり。是の三輪に著して静慮を修するに由るが故に、世間の静慮と為すと。

 舎利子言はく、云何が出世間の静慮波羅蜜多なるやと。善現答へて言はく、若し菩薩摩訶薩静慮を修する時三輪清浄ならん、一には我れ能く定を修すと執せず、二には為す所の有情に執せず、三には静慮及び果に著せず。是れを菩薩摩訶薩、静慮を修する時三輪清浄なりと為す。


 舎利子・シャーリプトラは、ブッダの弟子の中で智慧が最高と讃えられた人であり、須菩提=善現・スブーティは空の理解が最高と讃えられた人です。

引用したのは、この二人の問答によって、普通の、世間的な、つまり分別知に捉われた禅定と、真の、超世間的な、無分別智による禅定の違いを明らかにしている個所です。

 実体としての私が、実体としての生きものたちのために、実体としての禅定を修行するのだ、と思っている間は、本当の禅定にはならない、というのです。

 私も空、生きものも空、禅定さえも空、禅定の三つの要素も一切空つまり一切無分別となってこそ、ほんものの禅定です。

 「私は、深い禅定ができるようになって、境地が深まって、人の役にも立てるような人間になれた」などと思っているうちは、まだまだなんですね。

 道元禅師が「只管打坐(しかんたざ)」といわれたのは、そういう空三昧の坐禅ということであって、ただ坐っていればいいということではないことを、改めて大般若経を通して確認したという気がします。

 私もまだまだ、だから、これからだ、と思いを新たにしました。

 学びには終わりはない、と思います。




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好きな詩・詩人6 堀口大学:夕ぐれの時はよい時

2008年09月14日 | 生きる意味

 ここのところ連続して、やや深刻なテーマの「今日のことば」を取り上げましたので、久しぶりに少しやわらかに「好きな詩・詩人」を引用、紹介しようと思いました。

 堀口大学(ほりぐちだいがく、1892-1981)は、訳詩集『月下の一群』などで知られるフランス文学者、詩人です。

 『月下の一群』は、詩の選択も訳文もとても洒落れていて、若い頃、愛読したものです。

 自作の詩にもいいものがあり、次の詩はもっとも好きなものの一つです。

 四季折々、夕ぐれになると、しばしば思い出します。

 今日も夕ぐれ、少しだけツクツクボウシが鳴いた後、すぐに虫の声に変わり、蒸し暑さが少し残ってはいますが、初秋の風情です。

 連休で来る予定だった娘一家が孫娘の熱で来られなくなり、孫たちに会えなくてちょっと気抜けしているじーじとばーばの静かな夕ぐれですが、それでもやはり「夕ぐれの時はよい時」と感じます。



       夕ぐれの時はよい時

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    それは季節にかかはらぬ、
    冬なれば暖炉のかたはら、
    夏なれば大樹の木かげ、
    それはいつも神秘に満ち、
    それはいつも人の心を誘ふ、
    それは人の心が、
    ときに、しばしば、
    静寂を愛することを、
    しつてゐるもののやうに、
    小声にささやき、小声にかたる……

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    若さににほふ人々の為めには、
    それは愛撫に満ちたひと時、
    それはやさしさに溢れたひと時、
    それは希望でいつぱいなひと時、
    また青春の夢遠く
    失ひはてた人々の為めには、
    それはやさしい思ひ出のひと時、
    それは過ぎ去つた夢の酩酊、
    それは今日の心には痛いけれど
    しかも全く忘れかねた
    その上(かみ)の日のなつかしい移り香

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    夕ぐれのこの憂鬱は何所(どこ)から来るのだらうか?
    だれもそれを知らぬ?
    (おお! だれが何を知つてゐるものか?)
    それは夜とともに密度を増し、
    人をより強い夢幻へみちびく……

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。

    夕ぐれ時、
    自然は人に安息をすすめるやうだ。
    風は落ち、
    ものの響は絶え、
    人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
    今まで風にゆられてゐた草の葉も
    たちまちに静まりかへり、
    小鳥は翼の間に頭(こうべ)をうづめる……

    夕ぐれの時はよい時、
    かぎりなくやさしいひと時。



 ワークショップなら、この詩を紹介した後で、「夕ぐれはなぜ来るか?」というコスモロジーの話をするのですが、今日はやめて、次の機会にしておきます。



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学びの秋の始まり

2008年09月13日 | 持続可能な社会

 サングラハの秋の講座が11日、12日と始まりました。

 福田首相の突然の辞意表明以降、日本の政治はますます混迷の観を深めています。

 そうした中で日本が、どこから出発したのか、どこに向かうべきか、木曜講座「聖徳太子『十七条憲法』と緑の福祉国家」の講座では「日本の原点と目標」を語っていこうと思います。

 日本初の憲法である聖徳太子「十七条憲法」の「和」という理想は、人間と人間の平和と人間と自然の調和を目指したものであり、きわめて普遍的・現代的です。

 私たちの原点として、こんなにも高い理想があったということは、わかればわかるほど喜びであり誇りです。

 前半では、ぜひそのことをみなさんに伝えたいと願っています。

 (幸い、しばらく品切れだった拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』(大法輪閣)も10月半ばには久しぶりに重版になる予定です。)

 そして、後半では、スウェーデンという現実の国がそうした「和」の理想の実現に限りなく接近していることをお知らせし、日本もスウェーデンをモデルとして「緑の福祉国家」へ向かうことこそ、現代の私たちの選択すべき道ではないか、と提言したいと思います。

 金曜講座では、大乗仏教の原点である般若経典の一つ『善勇猛般若経』の学びを深めています。

 大乗仏教の語る般若波羅蜜多・常識的な知恵を超えた智慧がいかに深いものか、学びが進めば進むほど驚きとともに痛感させられています。

 こうした驚くべき智慧が日本の伝統的な精神性の遺産として遺されているのです。

 混迷の時代にこそ、再発見、再活用しなければ、と思います。

 来週からは各大学の授業も始まり、ますます忙しくなるのですが、どれもみな意味のある仕事ですから、しっかりとやりがいを感じて心のエネルギーをもらいながら、忙しさを乗り切っていこうと思っています。

 ご縁のあるみなさん、ご一緒に学びの秋・稔りの秋を迎えましょう。

 *講座はいまからでも参加していただけます。



 
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今日のことば 22: パウロの体験した苦難の数々

2008年09月10日 | メンタル・ヘルス

 原稿に追われ、その他いろいろな予期していなかった出来事が起こってきていて、なかなかブログの更新ができませんので、前回に関連した聖書の記事をご紹介しておくことにしました。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……
 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。

 彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 使徒パウロは、あえて自分がどのくらいの苦労をしてきたのか、コリントの信者たちに神に誓って事実こうなのだと伝えています。

 このくらいの苦労をしてきた上で、前回のような言葉を語っていることを知ると、いっそうその重さがわかっていただけるのではないでしょうか。

 並みたいていの苦労ではありません。患難とか苦難という言葉で表現するほかないでしょう。

 しかしここでパウロは、自分はそれに耐えてきたと、単なる強がりをいっているのではありません。

 むしろ、自分は弱い、けれどもその自分の弱さの中にこそ神の強さが現われるのだ、といっているのです。

 手紙の最後のほうで、パウロはこうもいっています。


 私たちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。


 自力の強さの限界・弱さを知って、大いなるものの力に従い頼った時、人はほんとうに強くなれるというのです。



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今日のことば 21: 途方にくれても行き詰らない

2008年09月02日 | メンタル・ヘルス


  わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

  途方にくれても行き詰まらない。

  迫害に会っても見捨てられない。

  倒されても滅びない。

  いつもイエスの死をこの身に負うている。

  それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 キリスト教の大使徒パウロの言葉です。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 もちろん、イエスはその代表的な存在の一人ではあります。

 私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 志に生きて、そして死んだその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 私の生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。

 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、コスモスは進化する、大いなるなにものかの意思は貫徹されるからです。

 人生の苦境にあるみなさん、そのことを思い出して、元気を出しましょう。




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