スウェーデン社会民主党党綱領を学ぶ 3

2008年12月30日 | 持続可能な社会

 スウェーデン社会民主党党綱領は、下記に引用したような理念の提示から始まっています。

 先に私のコメントを述べさせていただきます。

 ここでまず注目すべきことは、自由・平等・友愛という近代民主主義の理念がしっかりと堅持されていること、しかし「友愛」といういわば心情的・主観的な理念が「連帯」というより具体的・実際的な理念に置き換えられているところにスウェーデン人の堅実さ、いい意味でのプラグマティズム(実用主義)が表われていることです。

 こうした「理念・理想」が単なる建前にとどまらず、驚くレベルにまで実現されてきたのですから、感動です。

 さらに注目すべきことは、この3つの概念が相互に矛盾するものではなく、むしろ相互に促進する条件であると捉えられていることです。

 日本ではしばしば識者が「自由か平等か」という不毛な議論をしていますが、その場合の「自由」はほとんど「私的所有の自由」と「私企業の自由」や「自己決定・自己責任」といった意味にしか使われていないようです。

 しかし綱領では、自由には2つの側面があり、しかも優先的なのはすべての人にとっての「外部からの強制や抑圧、飢え、孤立、将来についての恐れ、こうしたものからの自由である」ことがはっきりと把握されています。

 その上でしかも、「自由はもう一方で、参加し、他の人々と共に物事を決定し、安全なコミュニティのなかで個人として発達し、自らの人生について自己決定し将来を選択する、そのような自由を意味する」と、人間の「自由」が本質的に、自分独りの勝手な行動が許容されることではなく、「他の人々と共に」「安全なコミュニティのなかで」獲得され行使されるものであることが把握されています。

 「自由」がこういうふうに本質的に理解されるならば、そういう「自由」は必然的に「平等」と一致するものであり、そういう「自由」と「平等」は「連帯」してこそ獲得できるものであることは明快です。

 その社会科学的かつ哲学的な洞察の的確さには驚くばかりです。

 来年もう一度くわしく述べたいと思いますが、こういう「連帯」の理念が、「聖徳太子十七条憲法」の「和」という理念と、みごとに重なることは言うまでもありません。

 以下、ぜひじっくりと読んでみて下さい。日本も含めた人間・人類の未来について、感動と希望を感じていただけるのではないでしょうか。
 


 民主的社会主義

 社会民主主義は、民主主義が徹底されすべての人が等しく扱われる社会を理想としている。皆が連帯し、自由で平等な社会こそ、民主的社会主義の目標である。

 人は誰も、個人として発達し、自分自身の人生の主人公となり、社会に影響力をもつためには、まず自由でなければならない。自由には二つの側面がある。まず、外部からの強制や抑圧、飢え、孤立、将来についての恐れ、こうしたものからの自由である。またそればかりでなく、自由はもう一方で、参加し、他の人々と共に物事を決定し、安全なコミュニティのなかで個人として発達し、自らの人生について自己決定し将来を選択する、そのような自由を意味する。

 このような自由は、平等を前提とする。平等とは、すべての人々が、それぞれの条件は多様であっても、自らの人生をかたちづくり、社会に関与していくために、等しい機会を与えられている、ということである。こうした平等が実現するためには、人々は多様な選択をおこない、また様々な方向に自己発展できなければならない。また、こうした多様性ゆえに、日常生活や社会全体に対する権力や影響力において、格差が生じたり、無力な層が現れたりしてはならない。

 自由と平等は、一人ひとりの人権の問題であると同時に、社会が一人ひとりにとって最適な解決を生みだしていくということである。その結果として、一人ひとりの人生が可能性に満ちたものになるための基礎が築かれることになる。人間とは社会的存在であって、他の人々との協力関係のなかで発展し成長するものである。また、個人の福祉にとって重要な事柄の多くは、他の人々と共に生みだされるものである。

 共通の利益のためには連帯がなされなければならない。私たちは相互に依存しあっており、良い社会とは相互に協力しあい、配慮しあい、尊敬しあうことから生まれる。連帯は、こうした事実を洞察することから生まれる人々の結合である。誰も、自らが直面する問題の解決を模索する際に、同じ権利と機会を有しなければならない。誰もがそのために同じ義務を負わなければならない。連帯は、個人が発展し成功を収めるために努力し競争することを排するものではない。連帯が排するのは、ある人々がその利益のために他の人々を搾取するようなエゴイズムである。

 すべての権力は共にその社会を構成する人々に由来するものでなければならない。経済的な利害から民主主義に制約をかける権利は誰にもない。これに対して、民主主義は常に経済の条件を形成していくことができるし、また市場の働きを制限することができる。

 民主主義は多様な方法で、かついくつかのレベルで実践されなければならない。社会民主党が目指す社会秩序のもとでは、人々は市民としてまた個人として、社会の大局的な発展方向についても、また日常の社会活動についても影響力を行使できる。私たちが勝ち取ろうとする経済秩序のもとでは、すべての人は、市民として、賃金労働者として、消費者として、生産のあり方や再分配にかんして、また労働組織や労働生活の条件について、その決定に参加できる。

 社会民主党の目標は、上層と下層への分裂も、階級の壁も、性差による分断も、人種的対立もない社会、偏見と差別のない社会、誰もが必要とされ、自らの場所をもつ社会、誰もが同じ権利、同じ価値をもつ社会、すべての子供たちが自由で自立した大人に育つことができる社会、誰もが自由にそれぞれの課題を追求し、個人として発展し、他の人々と対等に連帯しながら、コミュニティのために問題解決の最善の方法を模索する社会、である

 こうした民主的社会主義の理念は、先の世代から受け継がれ、経験から再構成され、そして今日の、また明日の政治的闘争の原動力となっているものである。万人はその価値の上で平等であり不可侵である。この確信こそ、社会民主主義がその根源にもつものである。



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スウェーデン社会民主党党綱領を学ぶ 2

2008年12月29日 | 持続可能な社会

 「100年に1度の大不況」と報道されています。

 この年の瀬に仕事も住む所もなくした方がたくさんいるというニュースを見ると、心が痛みます。

 政治家たちの対応の的外れなことと悠長さには大失望――予想はしていたことですが――苛立ち、怒りをおぼえます。

 しかし、日本の舵取りをそういう政治家たちに任せてきて、「政治離れ」とか「政治的無関心」でなんとかなると思ってきたのは、私たち国民の責任でもあります。

 ここで国民全体が大反省をして、真剣に政治に関わり直さないかぎり、いくら不満を言っても、問題の根本的解決にはつながらないでしょう。

 そう言う私も、ここ数年スウェーデンというすばらしいモデルを学んで、これからの政治をどういう方向に向けたらいいのかようやく見当がついてきたところです。

 そこでまずこうした方向性をできるだけたくさんの人と共有することから始めようと、いろいろな方の賛同・協力を得て、2006年11月19日、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」1)2)を開催し、さらにそこで得られた合意を基に「持続可能な国づくりの会〈緑と福祉の国・日本〉」3)を設立し、2008年5月11日、シンポジウム「持続可能な国家のビジョン~経済・福祉・環境のバランスは可能だ!~」4)5)を開催しました。

 これらの行動は、単に学んだり議論したりするにとどまらず、その中からやがて新しい政治勢力・政党を生みだすことを目指しています。

 「きわめて残念ながら当面日本には、「緑の福祉国家」政策を強力に推進できるような国民の合意も政治勢力もまだ存在していませんが、危機の切迫性からすると早急に必要です」(シンポジウム「持続可能な国家のビジョン」趣意書より)

 この大不況は、多くの痛みと犠牲を伴うことになるでしょうが、国民全体に危機をいっそう切迫したものと実感させ、本質的な解決のための大きな方向転換へと拍車をかける可能性もあると思われます。

 そこにしか、大不況というマイナスをプラスに転じる道はないのではないか、と私は考えています。

 そして、そのためには、90年代の世界的な不況(日本では「バブルの崩壊」)にみごとに対処し、「私たちは90年代の危機を予想されたよりも早く脱した。それが可能であったのはなぜか。私たちが発達した福祉を有していたにもかかわらず、ではない。発達した福祉があったおかげなのである。私たちは今日それをよく知っている。平等は発展を抑止するものではない。まったく逆であって、平等は社会をより強力に発達させていくものなのである。私たちはそのことを目の当たりにした。」(「スウェーデン社会民主党行動綱領」より、『ヨーロッパ社会民主主義論集(Ⅳ)』生活経済政策研究所、所収)と実績に基づいた自信をもって述べている、スウェーデン社会民主党がどういう理念でやってきたかを学ぶことが大きなヒントになると思うのです。

 これからしばらく――特に年が明けてから――連載をしていきたいと思っています。

 日本の将来をなんとかしたいと思っている方、ぜひ読んで、コメントを下さい。




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スウェーデン社会民主党党綱領を学ぶ 1

2008年12月25日 | 持続可能な社会

 先週末で大学が冬休みに入り、研究所の忘年会、O大学のクリスマス礼拝があって、それから元旦配達に間に合うよう相当な数の年賀状を書き(元旦に届かないみなさん、すみません)、今日、研究所の今年最後の講座があって、これで今年一息です。

 今年のクリスマスは、子どもたちが帰ってこなかったので、夫婦二人で静かなものでした。

 今日の講座「『十七条憲法』と緑の福祉国家――日本の原点と目標」の最終回では、「福祉国家」さらには「緑の福祉国家」という理念を掲げ、それを実際に推進してきたスウェーデン社会民主労働党の2001年に改訂された新綱領(『ヨーロッパ社会民主主義論集(Ⅳ)』生活経済研究所、所収)のポイントを学び、『十七条憲法』の理想とみごとに重なるということを見ていきます。

 準備のために読み直しをしながら、日本の諸政党との認識の差に改めて驚きとため息状態です。

 出がけに、ごく一部ですが、紹介させていただきます。

 まず綱領の冒頭の言葉は、単なるきれいごとではなく、スウェーデンにおいては実際にかなりの程度実現されてきたものとして読むと、感動的です。

 社会民主主義は、民主主義が徹底されすべての人が等しく扱われる社会を理想としている。皆が連帯し、自由で平等な社会こそ、民主的社会主義の目標である。

 福祉政策について、こう述べられています。

 社会民主主義的な福祉政策は、自由、平等、連帯という3つの原理を体現したものである。社会民主主義的な福祉政策は、共同の社会形成を重視する伝統を背景としており、個人的効用と社会的効用の双方をつくり出す。

 スウェーデンの福祉政策が優れているのは、そのことによって個人が利益を得るだけでなく、経済力も含め社会全体の利益にもなるように作られている点です。

例えば、福祉と雇用については次のように述べています。

 福祉は、成長の条件を強化する。多くの人々がより良い教育を受け、自らの能力を発展させることができるのであれば、経済は強化される。積極的労働市場政策によって、失業者が新しい仕事を発見することが容易になるし、経営者にとっては、仕事に必要な能力を備えたスタッフを見つけることが容易くなる。健康保険によって、人々は自らの健康を維持する手段を得て、労働市場から排出される人々が少なくなる。……

 経済力と福祉との関係が理解されなければならない。そして政策はこの両者の関係をふまえて形成されなければならない。ここでは、いかなる成長を求めるか、ということが問題になる。成長の目的は、人間の福祉を増大させることである。この目的は、人間の健康や生活の質を害する、あるいは環境を破壊し、自然資源を浪費するような手段をもって達成できるはずがない。このような成長は実際には成長と呼ぶことはできない。なぜなら、こうした成長がともなう人間的、環境的、あるいは社会的コストが、こうした成長がもたらす短期的な利益を超えてしまうからである。……

 完全雇用は経済的目標であるばかりか社会的目標である。……

 さらに例えば、金融危機に関しては次のようにちゃんと予測しています(7年も前に)。

 生産の資本主義的秩序は私的所有の上に立脚している。したがって、他のすべての利益に対して利潤増大が優先される。利潤をあげるために、どのような方法が用いられるか、またその際に、社会、人間、環境にいかなる犠牲が生じるかは問題ではない。……金融の利益は部分的には現実の生産から切り離されている。……金融の短期的で投機的な動きが強まったために、国際経済は不安定なものとなり、個々の国の経済問題が深刻化するというケースもいくつか生じている。……

 指導者たちの先見性は、ほんとうにすばらしいと思います。

 日本にもこういう先見性のある指導者-党が欲しい!!(欲しければ育てるしかない)。



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持続可能な社会とスウェーデン・モデル 目次

2008年12月08日 | 持続可能な社会

 *持続可能な社会とスウェーデン・モデルというテーマで書いた記事がかなり溜まってきましたので、読者のみなさんに通しで読んでいただきたくて、目次を作りました。ぜひ、ご覧下さい。

『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』との出会いから「持続可能な国づくりの会」設立まで

 持続可能な社会は実現可能である?
 環境問題:入口と出口の限界
 日本を〈緑の福祉国家〉にしよう!
 緑の福祉社会・シンポジウムの企画
 愛するもののための持続可能な社会
 よかったら一緒に〈緑の福祉国家〉へ
 シンポジウム:日本を〈緑の福祉国家〉にしたい! 広報1
 緑の福祉国家への第一歩
 日本は心理的な雪崩寸前?
 もう夏?
 競争原理から協力つ・ながり原理へ 
 日本も緑の福祉国家に
 生態系崩壊の崖っぷち――ジャンプか転落か
 東尋坊で思ったこと
 原爆記念日に
 暑い熱い2日間
 日本の政治をこの路線のままにしておいていいのか?
 全体状況は悪化しているが希望もある!
 日本は、相変わらず〔エネルギー消費の増加を伴う〕経済成長路線に向かう?
 シンポジウム趣意書
 シンポジウム参加者募集が始まりました
 「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」特集号
 危機管理意識をもつ必要
 政治アレルギーの治癒
 楽しいミーティング
 風に吹かれて
 明日はシンポジウム
 緑の福祉国家と聖徳太子の理想
 福祉と経済は矛盾するか?
 日本を公正で透明な社会に
 改正?教育基本法の成立
 菩薩の目標は平等社会
 アレルギーが治りつつある
 正式名称決定!「持続可能な国づくりの会」
 社会サービスと知識社会
 環境・エコロジー教育とコスモロジー教育
 暑い夏と持続可能な社会
 今年は記録的猛暑・去年も記録的猛暑・来年はもっと?
 IPCCは「持続発展型社会シナリオ」を示唆していた!?
 IPCC予測の衝撃、しかし前進あるのみ
 時代は動き始めた:2つの集い
 「持続可能な国づくりの会」設立総会・報告
 持続可能な国づくりの会・学習会
 シンポジウム趣意書
 シンポジウム:持続可能な国家のビジョン
 お知らせ:シンポジウム論集とサングラハ98号ができました
 エコロジカルに持続可能な社会を創りうる心
 持続可能な国づくりへの次の一歩
 政治が面白くなる?
  もし地球が壊滅状態になるとしても
 この夏、北極の氷が消滅する?
 日本は北欧より安全・安心な国?
 北極海の氷:等身大の実感と地球大のデータ
 新左翼とは何だったのか
 「ちょっと変だぞ日本の自然Ⅲ」は変だと思った
 広島の平和記念式典に寄せて
 日本の代表的指導者 : 上杉鷹山
 持続可能な国づくりの会・連続公開講座1


 スウェーデン・モデルの学び

 「スウェーデン・ショック」状態
 スウェーデンのエコロジー的思考
 プロテスタンティズムとスウェーデンの精神
 スウェーデンの政権交代
 スウェーデン・IPCC報告・統一地方選
 ストックホルム学派=福祉国家を創り出した経済学
 福祉国家の経済学・ミュルダールの翻訳書
 「ミュルダール入門?」を見つけた!
 これはいい! スウェーデンの参考資料
 スウェーデン・フィンランド視察旅行1
 スウェーデン・フィンランド視察旅行2
 スウェーデンは「いい国」か?――スウェーデン・フィンランド視察旅行3
 石造りの建物・貧しい農家:スウェーデン・フィンランド視察旅行4
 首都に国立公園がある!:スウェーデン・フィンランド視察旅行5
 深く根づいた自然観:スウェーデン・フィンランド視察旅行6
 北欧に生まれるという幸運
 北欧福祉国家とキェルケゴール
 持続可能な社会に向かう思想と政治
 スウェーデンは小さな国だからできた?


 日本における持続可能な社会づくりの例

 持続可能な町づくりの実例:徳島県上勝町
 持続可能なまちは小さく、美しい:上勝町の挑戦
 持続可能な社会へさらに一歩 持続可能な滋賀社会ビジョンを読みました
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講話:8つの幸福

2008年12月04日 | 生きる意味

 昨日、O大のチャペル・アワーでの講話を掲載させていただきます。

 もうすぐクリスマスという季節に寄せて、若者たちにメッセージを送りました。これまでキリスト教には縁のなかった学生がほとんどのようですが、静かに真剣に聞いてくれたようです。

                
  心の貧しい人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。

  悲しむ人々は、幸いである。
   その人たちは慰められる。

  柔和な人々は、幸いである。
   その人たちは地を受け継ぐ。

  義に飢え渇く人々は、幸いである。
   その人たちは満たされる。

  憐れみ深い人々は、幸いである。
   その人たちは憐れみを受ける。

  心の清い人々は、幸いである。
   その人たちは神を見る。

  平和を実現する人々は、幸いである。
   その人たちは神の子と呼ばれる。

  義のために迫害される人々は、幸いである。
   天の国はその人たちのものである。

                  (マタイによる福音書第五章三~一〇節)



 もうすぐクリスマスという季節になりました。「待降節・アドベント」といいます。チャペルの祭壇には四本の大きな赤いキャンドルのうち二本に火が燈されています。

クリスマスは、なんとなく心が温かになる季節で、愛や幸福という言葉にリアリティを感じることができる季節ですね。

 クリスマスにちなんで、今日は幸福ということについて、聖書、特にイエスという人がどういうことを言っているか、学んでみたいと思います。

 聖書の個所からおそらく感じるのは、イエスの幸福論は今の日本の常識的な幸福論とはまったくといっていいくらい違うということだと思います。

 みなさんは、もしかするとこんな考え方はわからないとか、意味がわからないとか、さらには間違っているという感じさえもつかもしれません。私は、そういう感じは大切にしたほうがいいと思っていて、聖書の言うことだからといって鵜呑み・丸呑みにはしないほうがいいと思っています。

 しかし、みなさん自身が成長の過程で体験してきていると思いますが、小学生の時にはこうだと信じていたことが、中学生になると幼稚で馬鹿げた考えに思えてきたり、中学生の時に考えていたことが高校生になるとなんて子どもっぽかったんだろうと思えてきたことがあるでしょう。

 それとおなじように、心が成長すると、今考えていることがまったく未成熟な考え方だったと思うことになるかもしれません。

 そういう意味で、今考えていることを絶対で今後変わることはありえないとは思わないほうがいいのではないでしょうか。

 新約聖書でいえば約二千年、たくさんの人の心を動かし育み支えてきた考え方を一度は学んで、自分の今の考えと対比してみるのもいいのではないかと思います。

 学んで、比べて、よく考えて、それでも今のままでいいという場合は、もちろんそれでいいと思います。しかし、みなさんの先輩の多くの方がそうであったように、学んでみると、それまでの自分の考え方よりも、聖書の教えのほうがより自分の人生のためになると思えることもあるのです。

 せっかく縁があってキリスト教主義大学に来たのですから、聖書が何を教えようとしているか、すぐに信じる必要はまったくありませんが、一度、学んでみるのも悪くないと思います。

 聖書のこの個所で、イエスはふつうにはちっとも幸福だと思えないことを幸福だと言っているようです。ここで語られているような人々は全然楽でもなければ、楽しくもなく、快楽や快感とはほど遠い状態にあります。それなのにイエスは、「幸いだ」と言うのです。それは、なぜなのでしょうか。

 よく読んでみると、そこにはなぜかがちゃんと語られています。

 「心が貧しい人々」が「幸い」なのは、「天の国がその人たちのものなる」からです。

 では、まず「心が貧しい」とはどういうことでしょう。それは、心の中が社会一般の価値やそれに基づいたいろいろな気持ちでいっぱいになっていない、という意味だと私は解釈しています。

 社会一般の価値観では勝つか負けるか、儲かるか損するか、安定したいい地位につけるかつけないか、自分の夢や希望が実現できるかできないか、などなどが問題です。そういう心でいると、勝ったり儲かったり実現した時はいいのですが、負けたり損したり実現しなかったりすると、失望したり、絶望したり、死にたくなったり、実際に死んだりしてしまいます。決して安定した穏やかな気持ちでいることはできません。いつも揺れ動いてしまうのです。

 それに対して心の中が空っぽで、社会一般の価値観から自由だと、そういうものに振り回されることがありません。徹底的に空っぽだと、まずまるで天国にいるかのような常識的な世界をまったく超えた安らかな気持ちで生きられるというのです。これは体験した人にはみんなわかることです。
 「天の国」と訳された言葉の原語は人間の領土・領域を超えたという意味の「天の領域」と訳すこともできます。死んだ後に、どこか空の上のほうにあるおとぎばなしのような国に行くということではない、生きたまま天国にいるような気持ちになれるということだ、と私は解釈しています。

 それは後の「心の清い」という言葉と重ねて理解することができます。心がどうでもいいこと、つまらないこと、いけないことなどなどでいっぱいになっていて濁っていると、自分がどこから来たか、いのちの原点を忘れてしまいます。

 しかし、心を空っぽにし澄ませると、自分が自分を生んだのではなく、自分が生まれたものであり、親も先祖もみんな生まれたものであることと、そのすべてのいのちを生んだ主体として何か大きなものに思い至るのです。もちろん聖書ではそれを「神」と呼んでいます。

 しかし、いつも言うのですが、その何か大きなもの、英語でいえば Something Great を神と呼ぶか、仏と呼ぶか、道と呼ぶか、あるいは大自然、宇宙と呼ぶかはそれぞれが自分にぴったりと来る言い方でいいと思います。しかし、ともかく私たちが、そういう大きな何ものかによっていのちを与えられたものだということは事実ではないでしょうか。だれか、自分で自分を生んだ人がいますか。

 心の中のつまらないものが空っぽになり、澄んでくると、私たちは自分のいのちの原点に出会えるのです。

 「悲しんでいる人々」が「幸い」なのは、「その人たちは」やがて必ず「慰められる」からです。

 この場合の「悲しみ」は、後の部分との関連で考えると、自分の希望がかなわなかったり、自分の大事な人や物を失った時の悲しみというのとは、ちょっと違っているようです。私たちの社会、世界に正義や平和が実現しておらず、たくさんの人が苦しんでいるということへの深い悲しみ・憐れみ・同情・共感のことだと思われます。

 そういう悲しみを感じながら、しかし「飢え乾いたように」正義を追求する人々はやがてきっと「慰められる」、必ずいつか願いが「満たされる」から「幸い」なのです。

 人々の苦しみに深い悲しみを感じる優しい心・柔和な心のある人こそ、この地球の後継者になるにふさわしいのです。人々だけではなくすべての生きものへの優しさに満ちた人こそ、世界をほんとうに持続可能な世界にすることができるでしょう。
 逆に言えば、そういう人がいなければ、この世界はやがて大変な危機に到り、崩壊してしまうかもしれません。

 しかし、イエスという人は、神、サムシング・グレイトの力によって、世界にはいつか必ず正義と平和が実現されると確信していたのです。そして、そういう世界を創り出すという神の計画・大プロジェクトに、いわばチーム・メンバーとして、あるいはチーム・リーダーとして全力で参加していくことが自分の生きて死ぬ意味だと深く目覚めていたのだと思われます。

 そういう「平和を実現する」ことに自分のいのち・人生のすべてを賭けている人間は、人間として最高の人間ということができるでしょう。そして、単に人間として最高という以上に、サムシング・グレイトによって与えられた――やがては必ず死ぬ、つまりいのちを返さなければなりませんから貸し与えられたといったほうがいいかもしれませんが――いのちを完全燃焼して生きることができる、人間以上の人間、サムシング・グレイトの子=天の子=神の子と言うことができるのです。

 イエスは、そういう人の代表的存在だから救世主・メシア・キリストと呼ばれたのです。そういうイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマス(キリストのミサ)であることは言うまでもないかもしれません。

 そうした人々は、言うまでもありませんが、「自分は何のために生きているのだろう」と悩んだり、「死んだらすべては終わりだから、人生は結局や空しい」と落ち込んだりすることはありえません。「生きていることはいいことだ」と心の底から思えるのです。

 たとえ、正義を追求するあまりそれに反対する人から「迫害されても」、それでも自分の生き方に満足できるし、生きていることはいいことだと思えるし、そして死ぬことをさえ恐れないでいられるのです。なにしろ、生きているあいだにすでに「天の国」にいるかのように感じているのですから、死んだらもちろんどんなかたちのものかはわからないにしても、ある種「天の国」に帰るのだと信じられるのです。

 人々の幸せと世界の平和のために徹底的に自分のいのちを完全燃焼させることができるという幸せは、常識的な幸福ではありませんが、ふつうの幸福以上の幸福である、とイエスは言っているのだと思います。そして、福音書全体を読んでいくと、イエスという人は、自らそういう生き方・死に方をした人です。

 自分のちっぽけな幸福やまして快楽や儲けにこだわりながら、結局は悩んだり空しかったりしているのと、自分のいのちを燃やし尽くしながら、自分の人生を完全に肯定できるのと、どちらを取るか、決めるのはもちろんみなさん自身です。

 祭壇のキャンドルを見て下さい。キャンドルは自らを燃やすことによって輝いています。自分を燃やさなかったら、輝かない、光らないのです。
 私たちの人生も、自分を守ろう、自己防衛をしようとしていては、輝かないのではないでしょうか。私はイエスの幸福論に大賛成で、燃えてこそ、輝き、その光でまわりを明るくすることができるのではないか、と思っていますし、そうありたいと思っていますが、最後もう一度、自分の人生をどうするか、決めるのはみなさん自身です。
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第28期講座案内

2008年12月01日 | メンタル・ヘルス





 金融大恐慌の影響が、じりじり、じわじわと日本社会に迫り、拡がっています。にもかかわらず、政府・与党の対応はきわめて頼りない・不適切だと感じます。かといって野党なら安心して任せられる適切な方法を提示しているとも見えません。日本という国の混迷・迷走はいっそう激しくなっているようです。

 そうした中で、ストレスを抱え込み「どうにもならない」と思って行き詰ってしまう方が激増しているようです。こうした状況ですから、それはしかたないことなのでしょうか? 私たちは、必ずしもそうではない、と考えます。

 確かに外面の大きなことは個人ではすぐにはどうすることもできませんが、みんなで時間をかけて適切な方法で取り組めば解決可能だ、と私たちは考えています。

 そして、内面・心のことは個人がどうにか、あるいはかなりの程度どうにでも、できると思っています。といってももちろん、それにも適切な方法が必要です。

 個人の心の問題に取り組むための適切な方法として、今期は、手じかには論理療法、本格的には空思想の学びと坐禅による体験がふさわしいのではないか、と考え、28期のプログラムとしました。

 それぞれの学びを通して、ストレス状況の中にあってもへこたれない強く・賢い心を育てていただきたいと願っています。

 どうぞ、参加して、元気を取り戻して下さい。



 木曜講座:いやな気分の整理学――論理療法のすすめ

                          於 サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩3分)
                          木曜日 18時45分~20時45分  全6回
                          1月①8日②22日 2月③5日④19日 3月⑤5日⑥19日
 

 本研究所主幹は、本年6月、『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』(NHK生活人新書)という本を出し、とても好評で十月下旬には四刷になりました。ある程度予測はしていましたが、予測以上にストレス・いやな気分に悩まされている人が多く、そうした方の需要にちょうど合っていたということなのでしょう。

 同じいやな・きびしい状況が、心の持ち方・考え方しだいで「耐えられない」ものにも「きついが、私なら耐えられる」ものにもなる、というのは半ば常識ですが、では実際にどういう考え方をどうして持てばいいのかは決して常識ではありません。

 論理療法は、どういう心の持ち方・考え方をすれば、いやな状況に流されていやな気分になってしまわないで済むか、とてもシンプルで順序立った、効果の高い方法を教えてくれます。

 本だけでもある程度は独習できますが、できれば直に学んでいただくほうがさらによく身につけていただけます。

 『いやな気分の整理学』(NHK生活人新書)をテキストに、ご一緒に学んで、タフな心を育んでいきましょう(藤沢ミーティングルームでお頒けできます)。

 
 金曜講座:『金剛般若経』を読む

                          於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                          金曜日 18時30分~20時30分 全6回
                          1月①16日②30日 2月③20日④27日 3月⑤13日⑥27日 
                           

 紀元一世紀前後、それ以前の派を「小乗」、自らを「大乗」と呼ぶ仏教の新しい潮流が興り、自分たちこそ釈尊の真意・深意を伝えるものだという自覚によって『般若経』と呼ばれる経典群が新たに多数書かれたといわれています。

 日本の仏教が「大乗仏教」であることは知られていますが、その教えの中身については必ずしもよく理解されていないようです。

 今期は、般若経典の中でも最も初期に属し、比較的短く、かつて『般若心経』についでよく知られていた『金剛般若経』(略して『金剛経』ともいわれる)を通して、大乗仏教の教えの基本を確認する学びを続けます。

テキスト:『般若心経・金剛般若経』(ワイド版岩波文庫)

*講義の前に30分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。


●受講料は、一回当たり、一般3千5百円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
 ・E-mail: okano@smgrh. gr. jp または ・Fax: 0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。

 

*火曜講座は、主幹のスケジュール過密のため、残念ながら、休止させていただいています。


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