私たちの無意識にしつこいしこりのように存在しているのが、4つの根本煩悩です。
宇宙と私のつながり-一体性にまったく無知であり(我癡)、それどころか他と分離した実体としての自分がいると思い込み(我見)、そういう自分を頼り・誇りにし(我慢)、そしてそういう錯視された自分に徹底的にこだわり、愛着・執着する(我愛)、という心の働きです。
意味が初めてわかった時、私は、何と深く、何と正確な洞察だろうと感嘆したものです。
ふつう「欲望」といった言葉で表現される人間のやっかいな心の働きは、非常に感情的・情念的なもので、理屈や意思でどうにかなるものではない、と考えられがちです。
確かに愛着・執着したり頼り・誇りにするという心の働きは、分類でいうと「感情・情念」です。
しかし、そういう感情・情念は実は思い込みや無知という深いところにしこっている思考・認識に基づいているというのです。
あまりにも深いところにある思考・認識であるために、確かに表面的な意識の思考や認識によってダイレクトに変えることはできません。
私の唯識の読みがまだここまで行っていなかった頃、4つの根本煩悩を並列的にお話していた時、ある聴講者の方が憤然として、「人間の煩悩ってもっと感情的でドロドロしていて、そんな認識でどうにかなるような簡単なものじゃありませんよ」と抗議されたことを覚えています。
今だったら、「いろいろなものへの人間の強烈な愛着・執着や誇り・高ぶりといった煩悩は、確かにちょっとのことでどうにかなるような感情ではないですよね」と答えた後で、「でもそういう感情はさらに深い思考・認識の歪みから生まれていると考えられるんですよ。そして、そういう歪みを心のもっと深い底から変えることができる、というのが唯識の洞察なんですね。よかったら、もう少し先まで学んでみられませんか」とお話しすることができるでしょう。
人間は、実にさまざまなものに愛着し、それはしばしば過剰な執着になり、病的なこだわりになって、自分をも人をも悩ませることになります。
しかし、自他を悩ませる煩悩だとわかっていても、どうしようもなくそういう感情が湧いてきてコントロールできない、という体験は誰でもしたことがあるでしょうし、現に体験していて悩んでおられる方もいるでしょう。
そういう煩悩について、よく「煩悩があるからこそ人間らしいんだ。煩悩がなくなったら、人生が退屈になる」という方がいます。
(「だって人間だもの」というセリフもありましたね。)
しかし、ここで、「大切にする」ことと「こだわる」ことは違う、「愛する」ことと「執着する」ことは違う、のではありませんか? といっておきたいと思います。
「我愛」が浄化されてなくなっても、愛することはなくならない、どころかもっと純粋に美しく、感動的になる、と私は考えています(全体としての大乗仏教もそう主張していると思います)。
心の奥・マナ識よりももっと深い底の底・アーラヤ識から無明・我癡と我見をただし、そのことによって我慢と我愛をも浄化する方法がある、というのが唯識のメッセージだ、と私は捉えています。
……そろそろ、希望のある話になってきました、よね?
*写真は、もうすぐ咲き始める春先の希望の象徴のようなイヌフグリの花、去年の写真です。
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むしろ煩悩が薄くなればなるほど、もっと本来の意味で、真に愛情深く、豊かにいきいきと生きられる。
自我を乗り越えて、すべてと一体だから自利利他一如ですね。
私も感動的に美しい生き方だと思います。
マザー・テレサなんかもそうですよね。
あそこまで至るのは難しそうですが・・・
希望の光が見えてきました。
先生、今日もありがとうございました。
唯識のお話については「なるほどな」と思う反面、たしかに情念とか欲望とかは言葉じゃないという感じがしてしまいます。現にこうして感じている感情が思考に基づくものだというのが、実感としてよくわかりません。
論理療法のお話もそうでしたが、感情とそのもつれが深いところでおこなわれている思考によるものだというのは、どのように知ることができるのでしょうか?
確かに、冷静になって考えてみるとその通りなんですよね。
でも凡夫には区別がつきづらい・・・・。
「私はこんなにもあなたを愛しているんだ!」と言いながら、それは最早愛するのではなく執着している。
自分が執着していることに気づけないのは恐ろしいです・・・・。
今の私なんかは特に、唯識への感銘が強すぎるあまりそれにこだわってしまって、他人に押し付け気味になってしまうところがあります。
それは唯識の教えを本当に「大切にする」こととはかけ離れてしまっていますね・・・お恥ずかしいです。
でも、それをネタに自分を責めるのは念で念を消そうとするようなもの、血で血を洗うようなもの、なんですよねぇ。笑
自分のあやまちに気づいて自己嫌悪するのではなくて、「気づけたのだから」よりよい方向へ軌道修正しながら邁進するようにしたいです。
もちろん、上位概念である世界、宇宙を発見した人類はとてもすばらしいと思いますし、その上位の立場に立って考えたり行動したり感じたりできる方がよりよい生き方だと思います。
例え今そのような生き方が出来ていなくても悲観したり恥じたりしなくて良いのだと思いたいです。
みなさん、コメント有難うございます。
人間はコミュニケーション的存在なので、メッセージに反応が返ってくるのは、とてもうれしいことです。(なんか、当たり前のことをいってますね。)
>shiny-umeさん
希望の光を感じていただけて、うれしいです。
「あそこまで至るのは難しそう」かどうかは気にしないことにしませんか? 行きたいところまで行こうと努力し、行けるところまで行ければいい、と思うんです。
>うりぼうさん
難しい、でもいい質問、ありがとうございます。
瑜伽行派の人々は、例えば好き-嫌いという感情が成り立つためには、まずいい-悪いという認識・判断がなければならない、というところから推測したのではないでしょうか。
それから、学びが深まり心の奥底に滲みていくと、感情が変わっていくという実体験もしたのではないでしょうか。
>かたちゃん
すばらしい気づきですね。血で血を洗うのはやめて、水で血を洗いましょう。きみなら、きっとできる!
>東の回廊さん
先日はお疲れさまでした。お目にかかれて幸いでした。ゆっくりお話する時間がなかったのは、ちょっと残念でしたが。またの機会にお出かけください。
煩悩は本能、煩悩は自然、というのは、ある意味でそうだと思います。
でも、人間というのはその先まで、行こうと思えば行ける潜在力を秘めた存在のようです。
悲観することも恥じることも必要ないと思います。要は、自分がその先まで行きたいかどうか、ということでしょう。
行きたければ、歩めばいい、行きたくなければ、そのままでもいい、のではないでしょうか。
何の目的意識も持っていなかった私が、ふとしたきっかけで先生のブログを訪れ、通りすがりでTBさせていただいたことが先生との出会いの始まりです。公開授業を受けるうち、どんどん興味が湧いてきて、是非直接講義を受けたいと思うようになりました。先生とは不思議な因縁を感じます。是非また機会を作って講座を受けにいきたいと思います。