科学的でしかもむなしくないコスモロジー

2007年04月30日 | 生きる意味

 木曜日はM大の3回目。ようやく本格的授業です。

 前近代のコスモロジー(世界観・価値観・人生観のセット)では、基本的には西洋では神、日本では神仏・天地自然・祖霊という大いなる何ものかが最上位にあり、人間は中間にあり、その下に人間以外の物があるというかたちになっています。

 つまり、人生の意味や倫理の絶対の基準があったのです。

 それに対して、近代の前半では、近代科学の方法では神の存在は検証できないので、存在しないことになり、人間と物があるだけの世界になりました。

 これは、人間が神話と権威によって自分たちを束縛・抑圧する神(およびその代理としての教会)から解放されるという「人間(中心)主義=ヒューマニズム」をもたらしました。

 神ではなく人間にこそ尊厳の基礎があるというのです。

 こうしたヒューマニズムはすばらしいものであり、さらに今となっては当たり前のことで、どこがいけないというのでしょうか?

 しかし近代の後半では、近代科学の主客分離、分析的な方法が人間にも向けられるようになり、突き詰めると=分析を徹底すると人間も原子という物にすぎないということになり、物にすぎないものに絶対の意味はない、神は存在せず人間も物にすぎないのなら倫理の絶対の根拠はない、という「ニヒリズム」が到来します。

 近代的なヒューマニズムは、それと切っても切れない関係にある近代科学の分析という方法を徹底すると必ずニヒリズムになるのではないでしょうか(徹底しなければヒューマニズムに留まることもできますが)。

 無神論-ニヒリズムに陥ると、生きる意味・理由がわからなくなります。

 意味のない人生を、それでも生きるとしたら、生きている間はそれでも楽しみ・生きがい・快楽……はあるので、それを追求して生きるしかない、ということになります。「快楽主義」です。

  快楽を感じるのはいうまでもなく「自分」ですから、自分がいちばん大切ということになります。これを、「エゴイズム」といいます。

 日常用語の「エゴイズム」は自己中心・自分勝手という意味ですが、思想用語としては「結局のところ自分がいちばん大切、人生の基礎は自分にある」という考え方をいいます。

 エゴイズムと快楽主義でやっても、突き詰めれば意味はないのですが、突き詰めなければ何とかなります。

 そして、突き詰めないためになるべく深く考えないようにして日々他のことで気を紛らわせて――これは哲学者パスカルのいう「気晴らし」です――過ごすのです。

 ヒューマニズムも所詮気晴らしのかたちの1つにすぎないのかもしれません。

 そういう、ニヒリズムかエゴイズム・快楽主義の気晴らししか人生観の選択肢はないのでしょうか?

 近代科学のコスモロジーの限界はそういうところにあります。

 かといって、科学・合理主義を身に付けた現代人は、神話的な宗教のコスモロジーに帰ることはなかなかできません。

 空しさに耐えかねて、神話的な宗教に退行する人もいますが。

 ところが、現代科学の示しているコスモロジーは、前近代的な神話的コスモロジーとも近代的な無神論的なコスモロジーともちがっています。

 前近代的なコスモロジーの人生の意味を語ってくれるという面と、近代的なコスモロジーの科学的・合理的な根拠があるという面、その両面をもった、とても希望のある――あえていうととても都合のいい――コスモロジーが提示されているのです。

 しかし、いろいろな事情があって、日本の標準的な教育の過程では、近代科学の成果しか――それも分野別の断片的な知識としてしか――教えられていません。

 そのために、日本人、特に若者の多くは、程度はともかくとしてニヒリズム・エゴイズム・快楽主義に陥る強い傾向があり、それに耐えられないと問題のある宗教に傾きがちです。

 そこで、これから前近代的な宗教でもなく近代的な科学主義でもなく、現代的な科学の示す世界像を伝えていきたい、と思っています。

 ……という、イントロダクション的な授業でした。

 授業が終わって、何人もの学生たちが話に来てくれました。

 みんな自分の人生観を確立するための手がかりを真剣に求めているようです。

 この後、このブログでも連載したコスモロジーをヴァージョンアップした内容の授業をしていきます。

 きっと多くの学生たちが、これまでの学生たち同様、あるいはそれ以上の肯定的変化を示してくれることでしょう。



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現代の方便・コスモス・セラピー

2007年04月26日 | 心の教育

 昨日は、日蓮宗の会での講演でした。

 現代は、もう宗門の伝統的な説き方にこだわっている時代ではなく、現代の、特に若い世代にわかる言葉で、つながり=縁起の理法への気づきを伝えていく必要があるのではないか、伝える方便として、コスモス・セラピーが有効だと思うので、よかったら使っていただきたい、という話をしました。

 とてもうれしいことに、今回も大好評でした。

 日本の仏教界がようやく動きはじめたかな、という期待を感じます。

 教育界や心理学界も、本格的に動いてくれると、いっそううれしいのですが…

 ともかく、持続することだ、と思っています。

 若者たちに伝えるため、大学に向かう電車の中です。

 若者たちは、楽しみに待っていてくれるようです。



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能力はコスモスからのプレゼント

2007年04月24日 | 生きる意味

 昨日は、仏教関係のカウンセリングの団体で、コスモス・セラピーの一日ワークショップをしてきました。

 『生きる自信の心理学』(PHP新書)では、自分とのつながり、他者とのつながり、そして宇宙とのつながり、という順序でレクチャーとワークを行なうかたちにしていましたが、最近、そのほうが効果があがるのではないかと思うようになったので、宇宙とのつながりの話を先にすることにしています。

 自分とのつながりに気づくワークで、自分の能力、できることを5つ以上あげるというのがありますが、私たちは競争社会の中にいるので、他者と比較して優れたものでなければ「能力」ではないという錯覚に陥りがちです。

 ですから、「他人と比べてそんなに能力といえるものはないし……」と、自分の能力を書き出せない人がしばしばいます。

 その結果、「私には何の能力もない」と無力感を感じて自信を失っている人も少なくありません。

 そして、「目が見えるのは視力という能力ですよね。耳が聞こえるというのは聴力という能力ですよね。……こうしてあげていくと、私たちには数え切れないくらい能力がありますね」と指摘しても、「それはそうだけど、そんなのは当たり前で、能力というほどのものではないんじゃないでしょうか」と納得できないという顔をされたりします。

 しかし、例えば私の目が見えるということには、宇宙が始まり、銀河が創発し、太陽系が創発し、地球が創発し、40億年くらい前に生命が創発し、10億年前くらいにようやく多細胞生物になり、5億年くらい前になってようやく脊椎動物・魚類が創発して神経管が出来、目が出来る、という大変なつながり・積み重ねがあるのです。

 宇宙に「見える」ということが起こるまでには137億マイナス5億年、つまり130億年あまりの時間がかかっており、見え始めてから5億年あまり見えるという能力が進化して、「私の目が見える」に到っているのです。

 そう考えると、見えるというのは「当たり前」といって済ませるほどの簡単なことではないのです。

 しかも、もし見えなかったら、愛する人の顔も、美しい花も、爽やかな緑の木々も、何も見ることができないのです。

 「見える」ということは、それだけも大変なことであり、すばらしいことだ、ともいえます。

 病気や怪我で歩けなくなってから、歩ける・歩行能力があることがどんなにすばらしいことかに気づくという方があります。

 目が不自由になってから、視力があるのがどんなに有り難いことかに気づいたりします。

 しかしそれならば、なぜ歩けるうちに、見えるうちに、そのすばらしさを感じておかないのでしょう。

 そして、「見えることは当たり前だ」と思うのと、「見えることはすごいこと、すてきなことだ」と思うのと、どちらが「人生の質(quality of life)が高いでしょう。

 いうまでもありませんね。

 そう考えると、私たちにはすばらしい、生きるための様々な能力が、宇宙からプレゼントされていることに気づいてきます。

 すばらしい能力をたくさんもらっておいて、「私には何の能力もありません」というのは事実に反しているし、さらにプレゼントしてくれた相手・コスモスに失礼そのものです。

 事実の正確な認識としても、礼儀としても、私たちは「コスモスから長い時間をかけたすばらしい能力をプレゼントされている」と思うべきなのではないでしょうか。

 そして、そう思うと、もう「無力感」に陥ってはいられません。

 まわりの人間と比較した相対評価としてではなく、自分自身のいのちへの絶対的な評価として、私たちは生きていればみんなすばらしい能力でいっぱい、「有能」なのです。

 ……というわけで、一見平凡で当たり前に思える自分の能力のすばらしさに気づいていただくには、コスモスの話を先にしたほうがいいようです。

 昨日のワークショップでも、その順番で進め、最後にお互いの長所を認め褒めあうワークをして、みんなでとても幸せな気分になることができました。

 最後、みなさんからの拍手が鳴り止まず、ほんとうにうれしい、大成功のワークショップでした。

 ……でも、全力投球でやったので、がっくりと疲れました。


 そして今日は、H大学の3回目の講義でした。

 またしても、400人くらい? 今日始めて来た学生もいました。

 今日は、本気でない人は帰って欲しい……の話は30分だけにして、本格的講義を60分ほど行ないました。

 みんな、真剣に静かに聞いてくれました。

 終わって、熱心な質問に来る学生が何人もいて、3時に終わった後5時前まで答えました。

 疲れますが、うれしいことです。


 で、明日はまた日蓮宗関係の団体での講演に出かけます。



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若者たちはやはり求めている?

2007年04月21日 | 心の教育

 一昨日は、M大の2回目でした。

 教室に入ると、なんと先週よりも多く、教室いっぱいでした。

 聞いてみると、先週は来ていない学生もそうとうたくさんいました。

 やむを得ず、先週と同じような、「本気でない人は帰ってほしい」という話をせざるをえませんでした。

 こうした試しに受講できるという制度は学生たちの選択のためにはいいのですが、前期13,4回くらいしかない授業のうちの2回を使ってしまうのはとてももったいない気がします。

 かといって、最初から本格的な内容には入れませんし……

 「若い時には、時間が無限にあるような錯覚があるけど……ぼくもあったし、それが青春の特権ともいえるんだけど……しかしそれは錯覚なんだよね。与えられる人生の持ち時間は長くないよ。だから、つまらない授業に出て無駄遣いするような時間は、本当はないと思うんだよね。つまらないと思ったら選ばないほうがいいんじゃないかな。もちろん、ぼくは自分の授業がつまらないとは思ってないけど、主観や好みの問題があるからね。つまらないと思って選ばれるのはうれしくないし、きみたちの人生の大切な時間の無駄遣いにもなるから、ぜひ、選ばないでほしいんだけどね……」という「親父の説教」をしました。

 今回は、途中で2名だけ帰りました。反発を感じたのでしょうか。

 しかし、その他の学生は、2回目の学生たちも含め真剣に聞いてくれました。

 終わって、真剣な質問に来た学生もいました。

 前回と重なる人数になるとすると、教室の定員を超すかもしれません。

 そうなると、選抜をしなければならなくなります。

 いずれにせよ、こちらも多人数授業になることはまちがいなさそうですが、もう引き受けるしかないようです。


 授業後、質問に答えてから、大急ぎで電車に乗り藤沢に帰ってきました。

 夜は、ミーティング・ルームでの「コスモス・セラピー」の講座で、「それなしには生きられないもの」に気づくワークを行ないました。

 疲れたけれど充実感、充実感があるけれど疲れた、どちらの順序で表現しようかという気分の一日でした。


 昨日は、一昨日一日つきあってやれなかった孫娘とのつきあいと、事務的なことの処理とで終わりました。

 今日、来週水曜日の講演会場で売っていただくための本の発送にミーティング・ルームに来て、この記事を書いています。

 実は、明日も朝9時から夕方まで、外部での一日ワークショップです。

 そろそろのんびりしたい年齢なのですが、相変わらず働き盛りを脱出できません。

 ま、決して嫌いなわけでも、強制されているわけでもないので、しかたありませんね。



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コスモス・ジェネレーションは増殖する?

2007年04月19日 | メンタル・ヘルス

 一昨日はH大の2回目の授業でした。

 受講者数はどうだろう、殖え過ぎないといいのだが、と思いながら教室に入ると、なんと先週よりかなり殖えているではありませんか。

 また本気でない人は帰ってほしい、と繰り返したのですが、帰る学生はわずか。

 700人教室がかなり埋まっていました。

 といっても、前のほうが多少空いていました。

 「本気なのに一番後ろで眺めているような席にわざわざいるはずはないだろう。やる気なら席を前に移動しないかい?」というと、たくさんの学生が移動したのです。

 やっぱりやる気のようです。

 やるしかなさそうです。

 今日のM大の2回目はどうなるでしょう…

 向かう電車の中です。



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社会サービスと知識社会

2007年04月14日 | 持続可能な社会

 昨夜は、金曜日中級講座で『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』の学びが始まりました。

 千数百年も前に、人間の心の深いところへのこんなにも的確な洞察がなされていたのかと、学ぶたびに驚きを感じます。


 今日は、明日の「持続可能な国づくりの会」のメンバーとの読書会のために、もう一冊のテキスト、神野直彦『人間回復の経済学』(岩波新書)のレジュメ作りをしました。

 著者は、現代は第三次産業革命-重化学工業から知識集約型産業への転換期にあること、適切な転換のためには知識社会を形成するための社会サービス(教育や福祉や環境)の充実が必須であること、そういう意味で人間性を豊かにする社会こそ知的能力の高い社会になるのでありその結果経済的にも豊かになりうるという時代になりつつあることを、非常に説得力のある論理と実例で語っています(実例は、ここでもスウェーデンです)。

 この本を読んでいると、経済学の問題としても実際の政策の問題としても、新自由主義経済学をベースにした日本の「構造改革」が、いかに不適切であるかがわかってきます。

 賃金、労働時間、雇用形態、福祉、教育などなど、人間的な豊かさを犠牲にして経済的な豊かさ・国際競争力を高めようとするのは、もうまったく古くて有効性がなくそういう意味で「間違った」政策である、というほかないようです。

 もちろん、環境に関してはいうまでもありません。単純明快に「環境なくして経済なし」なのですから。

 詳しくはいずれ書くつもりですが、とりあえず今夜のところの簡単な感想を書いておこうと思いました。

 みなさんも、読んでごらんになりませんか。



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みんなやる気?

2007年04月12日 | 心の教育

 M大学の初授業の帰り道です。

 200名ほど収容の教室にほぼいっぱいでした。

 「やる気のない人は帰ってほしい」を連呼したのですが、帰る学生は0。

 ほんとにやる気があるのか試しに動いてもらったら、そこそこちゃんと動きます。

 聞いてみると、昨年度の学生からいいといわれて来ている学生が多いようです。

 それだけ「生きる意味」をつかみたいと求めている若者がいるということでしょう。

 今年度M大も、多人数を引き受けて、やるほかなさそうです。



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学ぶ気のある学生たち?

2007年04月10日 | 心の教育



                 大学キャンパス内の雑木林の新緑



 今日からH大学の授業が始まりました。

 4月いっぱいはお試し受講ができるという制度になっていて、今日はオリエンテーション授業でした。

 毎年、「本気で教えているので、本気でない学生諸君は遠慮してほしい」といって人数を減らそうとするのですが、なかなか減りません。

 今年も、目算300人以上(もしかすると400人?)来ていました。

 しかも、去年あたりから、ほとんどの学生は最初からおしゃべりしないで静かに聞いているのです。

 そして今年は、シラバスを読んできているかどうか手を挙げてもらうと、これもほとんどちゃんと読んできているようです。

 つまり、私がどういう授業をするつもりなのかわかって来ているようです。

 さらに話を続けていっても、まじめに聞いている学生がほとんどです。

 前のほうの席で、真剣に目を輝かせて聴いている学生も数十人はいるようです。

 遠慮してほしいといわれて帰ったのは、通算3,40名でしょうか。

 少し話が延びたので、次の時間の都合のある人は帰ってもいいといったのですが、これまたほとんどの学生が最後まで聞いて帰りました。

 レポート採点が大変なので、単位がほしいだけの学生は相手にしたくないのですが、真剣に求めるものがあるのなら、何人でも引き受けるほかありません。

 よっし、今年度もやるか! と腹を決めました。「伝えたい! いのちの意味」というわけです。

 授業終了後、質問に来た学生もいて、結局、2時間近くつきあうことになりました。

 前期、わずか4ヶ月ほどですが、例年どおり大きく変わってくれる学生が多数出てくることでしょう。

 大変は大変なのですが、それは、とても楽しみなのです。



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スウェーデン・IPCC報告・統一地方選

2007年04月09日 | 持続可能な社会

 「持続可能な国づくりの会」のメンバーとの読書会のために岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)を読み直しています。

 これは1991年に出た本で、「スウェーデン神話」について、こう書かれていますが、これは「神話」というより、15年以上たった今もほとんどの項目が「事実」であるようです(うらやましい! *項目ごとの改行と、←の後のコメントは筆者です)。


 「戦後、特に六〇年代以後、国外で熱っぽく語り継がれてきたスウェーデン神話を構成しているのは、例えば次のような印象である。

 ①市民の生活水準が世界でも最も高い国の一つらしい。

 ②胎児から墓場まで手厚い社会福祉が完備した豊かな福祉国家らしい。

 ③超福祉国家でありながら国際競争力を持つ優良企業があり、安定成長が続いているらしい。

 ④労働紛争の少ない平和的・協調的な労働市場があり、労働者の権利が手厚く保証されているらしい。

 ⑤積極的な労働市場政策で産業構造の転換がスムーズに行われるので、企業の国際競争力が高いばかりでなく、失業者も少ないらしい。 ←失業率はやや高くなっていて、それが昨年秋、社民党が政権を失った主な原因らしい。

 ⑥慎重審議を基礎にした合意形成優先の妥協政治が定着しているので、意思決定過程に暴力が入り込む余地はないらしい。

 ⑦分配過程は社会主義的平等原理で貫かれており、すべての市民が同じ生活水準を享受できるらしい。

 ⑧言論・集会・結社の自由をはじめあらゆる自由が保証されている自由の国らしい。

 ⑨非同盟・中立主義の平和国家で、国際政治の場では常に民族自決権を支持し、小国の利益を擁護する反覇権主義の国であるらしい。 ←非同盟・中立主義はEUへの加盟によって変わったが、依然として反覇権主義という点では一貫しているらしい。」


 そして、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎、朝日選書)によれば、こうした「福祉国家」を確立した上に、

 ⑩世界でもっとも「持続可能な社会・緑の福祉国家」に近づいている、しかも政府主導で意図的・計画的に近づいている国らしい、のです。

 この本では、なぜスウェーデンではそういうこと――「経済大国」ではなく「生活大国」――が可能になったのか、歴史的なプロセスがわかりやすく書かれています。

 読んでいると、同時に、なぜ戦後日本は、「生活大国」ではなく「経済大国」を目指し、いちおう成功したかに見えた後、「バブル崩壊」から「失われた10年」を経て「格差社会」=持続不可能な社会に向かいつつあるのか、わかってくるような気がします。

 そこで決定的なのは、残念ながらリーダーの英知の差だと感じます。


 さて、4月7日、新聞には、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書の記事がありました。

 ごく一部、近未来予測を拾ってみると、


 2020年代(気温上昇幅 0.5~1.2度程度)

・ 数億人が水不足による被害にさらされる
・ サンゴ礁の白化現象が広がる
・ 生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す
・ 洪水と暴風雨の被害が増える
・ 栄養不足、下痢、呼吸器疾患、感染症による負担が増える
・ 熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える
・ 感染症を媒介する生物の分布が変わる
・ 北米では、河川の流量が減り、現在のような水需要は満たせなくなる


 2050年代、2080年代とさらに深刻になっていくことが予想されています。

 被害を最小限にとどめるには、最大限の努力が必要で、それには「経済大国」「経済成長」という社会の方向性を根本的に転換する必要があると思われます。


 地球全体はそういう状況にあるといわれているのですが、昨日8日に投票があった第16回統一地方選挙の前半の状況を見ていると、こうした予測を踏まえて日本の方向転換をうったえている候補は、私の知るかぎり、ほとんど(まったく?)いなかったようです。

 つまり、この件に関して、日本の現在のリーダーたちの英知が決定的に不足しているのではないか、と推測されます。

 本当に困ったことです。

 一日も早く、新しい英知あるリーダーを育成-誕生させたいものだ、と思うのです。



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コスモス・セラピーの必要性と根拠

2007年04月07日 | 生きる意味

 木曜日の藤沢の講座「コスモス・セラピー」が始まりました。

 初回は3名の少数精鋭でした(2回目からはもう少し増える予定ですが)。

 序論として、次のようなことを話しました。

 西洋の心の歴史としていえば、心理療法(サイコセラピー)は伝統的・神話的なキリスト教が信じられなくなった結果、心を支え癒すものがなくなり、その代案として生み出されたものです。

 しかし、ふつうの心理療法は、基本的には近代科学的な合理主義をベースにしているので、「なぜ、楽しくなくても・苦しくても生きなければならないのか」、「死んだらすべては無になり、空しいのではないか」といった人生の根本的な問い(ビッグ・クエスチョン)への答えはありません。

 そうした中で例外的にフランクル心理学は、科学-医学の枠ぎりぎりのところでその答えを示そうとするものですが、あえていえば、やはり絶対の答えを出すことはしません。

 そしてフランクルは、ユダヤ教の信仰をもっていて、そこに自分自身の答えを見出しているようです。

 確かに、近代の科学は神話的な神を否定するものですし、そういう意味で絶対なものを語ることはできません。

 しかし、幸いにして20世紀の境目あたりから科学は大きなジャンプを遂げていると思われます。

 すなわち、現代科学の各分野の大きな合意をつなぎあわせると、科学的な言葉で宇宙と私たちの一体性を語ることができるようになったのです。

 つまり、かつての神話的な宗教のような固定化され自己絶対化の傾向の強いものではなく、あくまでもかなり確実な仮説ではありますが、それをベースにある種の「絶対なるもの」、個人を超えた「大いなる何ものか・Something Great」を語ることができるようになったのです。

 コスモス・セラピーの必要性と根拠は、そういうところにあります。

 広く合意された現代科学の考え方をベースに、生きる意味と倫理の根拠についてかなり広い合意が可能になりそうな、そして柔軟でありながら確実な、世界観・人生観・価値観のセット=コスモロジーを語ることができるのです。

 近代科学の標準仮説を信じ込むと必然的にニヒリズムになり、現代科学の標準仮説を採用するとニヒリズムには陥りようがないのではないか、というのが結論でした。

 さらに、そのことを現代科学の主要な5つのポイントをあげてお話ししました。

 参加された方は、とても深く納得してくださったようでした。

 次回からは、宇宙137億年の歴史の流れを大まかにたどりながら、そのすべてが私につながっていることをしっかりと確認し、実感する学びをしていきます。




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孫娘とのおままごととコスモロジー

2007年04月04日 | いのちの大切さ

 孫娘の相手をしながら、明日のコスモス・セラピーの講座の準備をしました。

 今日の主なメニューはおままごとでした。

 ばーば=かみさんが食事を作るのを見ながら、孫娘が「わたしもお料理したい」というので、色粘土をいろいろにして、お料理ごっこ・おままごとをしたのです。

 心から楽しそうに遊び、安心しきって私やかみさんに甘えてくる孫娘の様子に、いのちのつながりということと、心の絆ということを実感しました。

 宇宙137億年の歴史の積み重ねが、私のいのちと心になり孫娘のいのちと心につながり伝わっているのですね。

 137億年のどこがどうほんのわずか違っても、私とこの子はじーじと孫として出会うことはなかったわけです。

 そのことに気づくと、孫と遊ぶという平凡なことも奇跡的な出来事だと改めて思います。

 ビッグバンで宇宙が始まったから、今日のおままごとがある。

 銀河が創発したから、今日のおままごとがある。

 46億年くらい前に太陽系そして地球が創発したから、今日ここで孫娘と私がおままごとをすることができる……

 つまり、平凡な日常がそのまま宇宙的・奇跡的な出来事である、というのが私たちが生きている現実なのですね。

 だから、平凡な日々を大切に生きなければならない――論理療法風に言い換えれば、生きることが望ましい――のだと思うのです。


 道徳を正式教科にするかどうか、成績の評価をするかどうかで、賛否両論、議論があるようですが、私は、それ以前にどういう内容を子どもたちに伝えるかが問題だと思っています。

 そしていうまでもなく私としては、いのちは宇宙的な奇跡でありだから絶対的に尊いということを子どもたちに伝えたい、それこそがすべての倫理・道徳のベースである、と考えているのです。




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見方を変えると見えるものが変わる

2007年04月03日 | メンタル・ヘルス

 今日から神楽坂での講座は論理療法です。

 ポイントは見方・考え方を変えると、見えるものが変わり、気持ち・感情も変えられる、ということです。

 しみじみそうだなと思ったのは、神楽坂の裏道です。

 30年以上神楽坂には縁がありながら、最近終わった倉本聡のTVドラマ『拝啓、父上様』を見るまで、用事のある表通りしか歩いたことがありませんでした。

 で、当然、あんな石畳の洒落た通りがあっても、見たことがありませんでした。

 今日講座の場所へ行く時、横道‐裏道を初めて歩いてみました。

 なるほど、しっとりと洒落たいい通りがありました。

 関心や見る目、視点、コンテクストのあるなしは、こんなにも見えるものを変えるのですね。

 そういうことを教えていながら、改めて一種の驚きを感じたことです。

 さて、これからそういう講義をしてきます。

(携帯から) 
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正式名称決定!「持続可能な国づくりの会」

2007年04月01日 | 持続可能な社会

 今日は、横浜で「持続可能な緑と福祉の国・日本をつくる会(仮)」の会則づくりのためのミーティングでした。

 併せて、会の正式名称も決定しました。「持続可能な国づくりの会――緑と福祉の国・日本」です。

 かなりの議論を経て、会の目的を示す「前文」も以下のように決まりました。

「私たちは、日本そして世界が安心して暮らせるかたちで末永く持続すること、まだ見ぬ将来世代にまでより豊かに引き継がれることを強く希望します。

私たちは、自然環境と調和した持続可能な経済・社会・政治システムの構築を目指します。」

 日本の未来への不安、地球環境への不安が高まりつつありながら、全体としてはリーダーたちも市民も現状維持ないし現状の延長線上でなんとかしたいと思っている(と私には見えるのですが)という状況の中では、会のメッセージが広がり、日本全体に影響を与えるようになるまで、たくさんの困難があるでしょう。

 しかし、どうもこの方向しかないように思えるので、困難があっても前に進むほかない、と腹を据え直して取り組んでいくつもりです。

 といっても私が1人でやっているわけではなく、相当数の仲間がおり、とりわけ若者が中心になって取り組んでくれているので、きっと何とかなるでしょう。

I have a dream!


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