女性の役割をめぐる問いへの答え

2007年09月22日 | いのちの大切さ
 
先日の「妻と母についての心に沁みる詩3編」のコメント欄に、女子学生の方からとても真摯な質問がありました。

 コメント欄でもある程度、お答えしておきましたし、このテーマは一度本格的・体系的に述べたいとも思っていますし、卒業後も研究所に関わってくれている学生たちにはかなり納得できたと言ってもらえるくらい徹底的なゼミも行なっていますが、とりあえず、過去の記事の目次を内容の流れに沿って挙げておきますので、ぜひ読んでみてください。


05.11.02 「性――このすばらしいものの創発」

06.07.02 「性と多細胞:魅力と協力の創発」

06.07.03 「つながってこそいのち、つなげてこそいのち」

07.09.06 「自己実現という名の自分勝手」

05.10.05 「自分で自分を生んだ人はだれもいない」

05.10.06 「いのちのつながりと重さ」

05.10.07 「I was born」

07.07.28 「好きな詩・詩人3 吉野弘」

05.10.08 「自己は自己でないものによって自己である」

07.09.08 「いのちの自己実現」

07.09.12 「好きな詩・詩人5 石垣りん」

07.09.09 「いのちのつながりを歌った詩:糸まきをする母と娘」

07.09.17 「妻と母についての心に沁みる詩3編」

07.09.10 「有限な人生の質:最期によかったと思えるかどうか」





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講演会 「人はなぜ生きるのか」

2007年09月21日 | メンタル・ヘルス




*外部団体での講演。どなたでも参加できます。ご希望の方は、どうぞ上記へお問い合わせ下さい。




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銀河の中の実りの秋

2007年09月21日 | 生きる意味





 暑くて長かった夏休みも終わり――暑さは終わっていませんが――後期の公務が始まりました。

 18日から神楽坂のコスモス・セラピー、20日からいちばん始まりの早い大学の講義、今日は参宮橋の中級、「正法眼蔵・仏性」の講座です。

 日曜日23日の横浜、29、30日の福岡の講演など準備に追われています。

 また、夏休みの最後のところを使って、書斎の引越し・片付けもしました。

 その合間に、雑誌の連載原稿、『サングラハ』第95号の原稿も書かねばなりませんでした。

 来週から、他の2つの大学の授業も始まります。

 ……などなど、というわけで、ブログの更新が滞っていました。

 「自己実現」の話の続きは、サングラハ教育・心理研究所の会員のみなさんと共有したいのと、原稿のネタが他になかったというわけで、『サングラハ』に掲載しました。

 続きに関心を持ってくださる方は、申し訳ありませんが、ぜひ会報をお読みください。

 (↑これはいうまでもなく、コマーシャルです。講読=連絡会員入会ご希望の方は、住所、氏名〔これは必須〕、年齢、性別、電話・ファックス番号、メールアドレス、携帯番号、携帯メールアドレス〔これは任意〕を明記して、研究所のアドレス okano@smgrh.gr.jp にお問い合わせ・お申し込みください。)

 宇宙―天の川銀河の中の有限の人生の時間、実りの秋にしたいな、と改めて思っています。




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妻と母についての心に沁みる詩3編

2007年09月17日 | 生きる意味

 食事の支度をするということは、いのちを育むということだと思います。

 妻が作ってくれた心のこもったおいしい食事を食べると、生きていること、生かされていることは有難いことだなと実感します。

 それは体の糧であるだけでなく、心の糧でもあります。

 母や妻、女の人たちがやってきたことは、単なる飯炊きなどではなく、そういう体と心の糧を調えいのちを育むという仕事だったのだと思います。

 それは別に男がやってはいけないということではありませんが、しかし太古からの役割分担として主として女性がやってきてくれた有難い、素晴らしい仕事だったのだと思います。

 石垣りんさんの詩の後で、また大木実さんの詩を3編紹介したくなりました。


  米をとぐ音
              大木 実

 あすの朝餉(あさげ)の
 妻は米をといでいる
 聴きなれた
 米をとぐ その音
 ――サクサク サクサクサク

 妻は米をといできた
 ここの家で
 疎開の間借りの田舎家で
 東京のアパートの小さな部屋で
 米をとぎながら若かった妻もやつれてきた

 幼い日にも
 私は聴いていた
 うしろ姿をみせて
 母は米をといでいた
 幼い日から私は米をとぐ音を聴いてきた

 秋の夜 冬の夜
 せっせと米をとぎながら
 日本の女たちは何を考えていたろうか
 何を考えながら米をとぎできたろうか
 女たちは幸せだったろうか

 ――サクサク サクサクサク
 あすの朝餉の
 妻は米をとぐ
 うしろ姿を見せて
 私がみているのも知らないで


  手

 おまえの手は荒れてしまったね
 ひびがささくれだち
 くすり指にかがやいていた
 指輪もなくなってしまったね

 指輪のゆくえを
 私はきくまい また言うまい
 昔は楽しかったと お前も若く
 その手もしなやかで美しかったと

 おまえの荒れた手をみるのは哀しい
 血がふいているその手は
 さながらきょうの私達の生活(くらし)のようだ
 しかもその手は冬にやられて決して敗けない

 荒れたおまえの手よ 私は視る
 百千の世の妻達の手を
 どんな世にもかわらない女の愛を
 必死にその手があたえてきたことを


  妻

 何ということなく
 妻のかたわらに佇(た)つ
 煮物をしている妻を見ている
 そのうしろ姿に 若かった日の姿が重なる

 この妻が僕は好きだ
 三十年いっしょに暮らしてきた妻
 髪に白いものがみえる妻
 口に出して言ったらおかしいだろうか
 ――きみが好きだよ
 青年のように
 青年の日のように


 この3編はもともと連続したものではなく、テーマが一貫していると思ったので私が選んで並べたものです。

 最初の「米をとぐ音」では、「秋の夜 冬の夜/せっせと米をとぎながら/日本の女たちは何を考えていたろうか/何を考えながら米をとぎできたろうか」と問うていますが、「手」では「荒れたおまえの手よ 私は視る/百千の世の妻達の手を/どんな世にもかわらない女の愛を/必死にその手があたえてきたことを」と答えています。

 そして「女たちは幸せだったろうか」という問いには、男が直接答えるわけにはいきませんが、「この妻が僕は好きだ……青年のように/青年の日のように」と愛をもって答えています。

 大木さんにとって奥さんはいうまでもなく、「かけがえのない存在」です。おそらく奥さんにとってもそうでしょう。

 こういう愛情深い母や妻、女たちに支えられて日本の男たちも一所懸命に生きてきたのです(もちろんそうでない男も、そうでない女もいたわけですけどね)。

 こういう愛のかたちはうつくしい、と私は思うのです。

 「かけがえのない存在になりあうこと」ことこそ、ほんとうの〈自己実現〉ではないのでしょうか。




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好きな詩・詩人5 石垣りん

2007年09月12日 | いのちの大切さ

 石垣りんさんとは、一度だけ電話でお話をさせていただいたことがあります。

 編集者時代、原稿をお願いした時のことです(残念ながら断られましたが)。

 「鈴を振るような声」と評判のお声は電話でもまさに鈴を振るように美しい声でした。

 その頃、詩人の方たちが自作を朗読する会があったようで、石垣さんの朗読の時行ってみたいと思いながら、忙しさにかまけて機会を逸してしまいました。

 残念なことをしたな、と今でも思います。

 石垣さんの詩は、どこかで次の詩を読んで感動し、『石垣りん詩集』(思潮社)を買ってきて、それ以後愛読してきました。


    私の前にある鍋とお釜と燃える火と

                 石垣りん

  それはながい間
  私たち女のまえに
  いつも置かれてあったもの、

  自分の力にかなう
  ほどよい大きさの鍋や
  お米がぷつぷつふくらんで
  光り出すに都合のいい釜や
  劫初(ごうしょ)からうけつがれた火のほてりの前には
  母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

  その人たちは
  どれほどの愛や誠実の分量を
  これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
  ある時はそれが赤いにんじんだったり
  くろい昆布だったり
  たたきつぶされた魚だったり

  台所では
  いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
  用意の前にはいつも幾たりかの
  あたたかい膝や手が並んでいた。

  ああそのならぶべきいくたりかの人がなくて、
  どうして女がいそいそと炊事など
  繰り返せたろう?
  それはたゆみないいつくしみ
  無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

  炊事が奇しくも分けられた
  女の役目であったのは
  不幸なこととは思われない、
  そのために知識や、世間での地位が
  たちおくれたとしても
  おそくはない
  私たちの前にあるものは
  鍋とお釜と、燃える火と

  それらなつかしい器物の前で、
  お芋や、肉を料理するように
  深い思いをこめて
  政治や経済や文学も勉強しよう、

  それはおごりや栄達のためではなく
  全部が
  人間のために供せられるように
  全部が愛情の対象あって励むように


 私は右寄りと誤解されることを怖れず、機会あるごとに、「女性には女性らしくあってほしい。もちろんそれには、男も男らしくなければならないけどね」と言ってきました。

 「男と女がまるでおんなじになったら、どこがおもしろい? どこがいいんだ? 実に味気ない、つまらない世界だと思うけどね。」

 石垣さんのこの詩を読んだ時、我が意を得たりという感じでした。

 女性が女性の役割を肯定し、そもそもその意味が「それはたゆみないいつくしみ/ 無意識なまでに日常化した奉仕の姿」であることを、こんなにも深く自覚した言葉は今どきなかなか聞けるものではありません。

 しかも、それは多くの先祖たち、母たちの量り切れないほどたくさんの愛情の営みだったことが自覚されています。「その人たちは/どれほどの愛や誠実の分量を/これらの器物にそそぎ入れたことだろう」と。

 愛情の営みであるかぎり、それは単なる労働・労苦ではなかったのです。

 「台所では/いつも正確に朝昼晩への用意がなされ/用意の前にはいつも幾たりかの/あたたかい膝や手が並んでいた。//ああそのならぶべきいくたりかの人がなくて、/どうして女がいそいそと炊事など/繰り返せたろう?」とあるように、それは自分のためではなく、愛する人のためであり、そしてそれは「いそいそ」とはりや喜びをもって行なうことのできるあたたかい営みだったのです。

 そういう営みは、「女性の自己実現」だったのではないでしょうか。

 それに対する反論は山ほどあることを承知しています。また、それに対する徹底的な反論の用意もありますが、ここではそういう野暮なことはしません。

 ただ、読者にどう思うか――感じるか、そして考えるか――問いかけさせていただこうと思います。

 一言だけ、私は並みのフェミニスト以上に女性を大切に思っているという意味でフェミニストだと自認していますし、よく話すとわかってくださる女性のフェミニズムの論客も多いことを付け加えておきます。




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有限な人生の質:最期によかったと思えるかどうか

2007年09月10日 | 生きる意味

 「クォリティ・オヴ・ライフ」「人生の質」ということを考える時に、もう一つ忘れてはいけないと思うのは、そもそも「人生」というのは有限だということです。

 これはいつもくどいくらい言うことだけど、嫌でも、嫌なんだけど、人生は有限なんだよね。

 ぼくらに貸し与えられる人生の時間には限りがあって、人生には必ず死という終わりがある。

 生は生だけで成り立っていない、生まれる前があり、死んだ後がある。

 そのことを仏教の人たちはよく自覚していて、「人生」とは言わないで「生死(しょうじ)」と言ってるよね。

 すぐに「クライ」とか言って聞きたがらない若者が多いけど、聞きたくても聞きたくなくても、これは事実だからね。

 だから、「人生の質」というのは、よく生きるかどうかということだけではなく、よく死ぬかどうかということも含まれていないと、ほんとうのものにならない、と思うんだよね。

 そういう意味では、「人生の質」というより「生死の質」と言ったほうが正確かもしれない。

 確かに楽だったしそこそこ楽しかったかもしれないけど、死ぬ時になって――直前まで意識があって死ぬ場合のことで、事故であっという間に死んでしまうとか、ひどい認知症になった場合は別だけどね――「オレの人生、なんだったんだろう?」と思う結果になるような生き方と「私の人生はこれでよかった」と満足できるような生き方の、どちらが質が高いと思う?

 「満足できるような生き方です。」

 そうだよね、もちろん。

 人生の最期になって、自分で自分の人生を振り返ったとき、「これでよかった」と納得できるようなのがいい人生・質の高い人生だと思うんだよね。

 楽で、楽しくて、自分勝手なことをやっていて、そういう生き方ができると思う?

 もしかすると例外的にできちゃう人もいるかもしれないけど、たぶんたいていできないよねえ。

 特に、「あの人がいてくれてよかった」「あの人に会えただけでも生まれてきてよかった」というふうに人から思ってもらえるくらいでないと、なかなか自分の人生を「これでよかった」とは思えないと思うんだけどね。




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いのちのつながりを歌った詩:糸まきをする母と娘

2007年09月09日 | 生きる意味

 だいぶ前から兄に勧められていて、なんとなく読む機会のなかった大木実さん(1912~ )の詩集(『大木実詩集』思潮社)を図書館で見かけて、なんとなく借りてきて読み始めました。

 生活詩人とでもいうのでしょうか、しみじみとしたいい詩がたくさんありました。

 なかでも、昨日お話しした「いのちの自己実現」にも関わる次のような詩に感動しました。


   糸まきをする母と娘

  燈火のしたで 母と娘が
  糸まきをしている
  糸まきをする母と娘の
  影が障子に映っている

  母の両手にかけた糸たば
  糸たばは
  ほそい一本の糸となって
  娘の手のなかに巻かれてゆく
  くるくるくるくる 巻かれてゆく

  母と娘を結ぶ
  一本の糸
  母から娘へ続いてきた
  遠い昔からの一本の糸
  糸まきをする母と娘の
  影が障子に揺れている


 現代人の多くは、自分にこだわりすぎて、そもそも自分のいのちが「母から娘へ続いてきた/遠い昔からの一本の糸」のような、つながりによって生み出されたものであることをほとんど忘れているようです。

 そして、自己実現を目指しながら、実は自己喪失をしてしまっているのではないか、と私には思われてならないのです。

 ところで、私たちはつながりコスモロジーを学んでいるので、理論的に言えばいのちを結ぶ糸は一本ではなく無数なんだけどな、とつい思ってしまいます……理に走った、詩にはあまりふさわしくないコメントですね。

 ここでは実感-表現としてはやはり「一本の糸」なんでしょうね。

 他にもいい詩があります。




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いのちの自己実現

2007年09月08日 | メンタル・ヘルス

 他のものとのつながりのおかげで自分は自分であれるというのが、「自己」の本質だから、そういう自己を実現するというのは、他のものと自分のつながりを創造していく、より豊かにしていくことなんだよね。……と話は続きました。

 学ぶ気のある学生が相手だと、どんどん話が広がり深まって続いていきます。

 時々、「うっかり聞くと話が長い」と辟易されることもありますが、今回は大丈夫だったようです。

 他者とのつながりを無視した「自己実現」なんて、繰り返すけど、見せかけのいいエゴイズムだ、とぼくは思ってる。

 「私は、結婚したり、まして子どもを生んだりしたら、自分のしたいことができなくなるので、結婚も出産もする気がありませんでした」と感想文に書いてくる女子学生がよくいるけど、それは結局、「自分のしたいことをすることが自己実現だ」と思っていたということだよね。

 それどころかもっとはっきり、「結婚しても出産しても何のメリット(得)もないから、結婚も出産もしないつもりでした」と書いてくることもあるよ。

 (この件についても、授業を受けて考えが変わる学生、女子学生がたくさんいてくれます。)

 しかし、結婚や出産ってメリット・デメリット、つまり損得でしたりしなかったりするものなのかい?

 だとして、きみたちのお父さんやお母さんはきみたちを生んですごいメリットがあったのかねえ。

 そうとうデメリットが大きいから、内心「生んで、育てて、損した」と思ってるんじゃないか?……半分、冗談だけど。

 そうじゃなくって、自分のいのちをつなげようと思って、きみを生んで、苦労して育ててきてくれたんじゃないのかなあ。

 いのちをつなげていくというのは、メリットやデメリットということでは量れないことなんだ、とぼくは思うんだけどねえ。どう思う?

 ふだんきみたちには宇宙的な意味と価値があると言っておきながら、あえて言うけどさ、きみたちごときもののために、20年も面倒見て、大学卒業させてくれたとしたら4年間数百万円……実は小学校から大学そして自立まで育てると、平均的に2千万円以上3千万円とかかかったりするんだって……そんな金をかけてくれる人が他に誰がいるんだ?

 それは、「生んだ以上は親の責任、親の義務」とか、「自分の遺伝子を残すための必要経費」とかいうようなことなのかい?

 そういう面もないことはないけど、それがポイントじゃないんじゃないかな。それは、想いなんだよ、愛情なんだよ。

 想いがあるから育てる、愛情があるから苦労してくれた、そして育てても苦労しても損したとか思わない。

 きみたちがちゃんと育ってくれさえすれば、親はうれしいんだよ。まして自分たちよりも幸せになってくれたら、もっとうれしい。

つまり、いのちがつながっていくこと、より豊かになってつながっていくことは、もっとも深い意味で「いのちがやりたいこと」という意味で「自分がやりたいこと」なんだね。

 あえていえばそれは、個人的な損得を超越したいのちの得なんだよ。いわば「いのちの自己実現」だね。

 そういう親の想いにきみたちが思い至らないとしたら、それは本質的な想像力の欠如だよなあ、思いやりが足りないんじゃないかな。

 あ、言っておくけど、これは責めてるんじゃないよ。

 思い至らない、つまり事実への認識が不足していたり、思いやりが足らない、つまり事実だと思われることへの想像力が欠如していたら、きみたち自身の人生の質(Quality of Life)が低くなって、いい人生が送れない、つまり結局は損をすると思うから、忠告をしてるんだってことは、これまでのつきあいでもうわかってくれるよね。

 「ひとりよがりの勝手な思い込み」をしているのではなくて、「思い至る」「思いやる」――それにしても日本語はよくできているね――それがクォリティ・オヴ・ライフを高めるには必須なんだよね。




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自己実現という名の自分勝手

2007年09月06日 | メンタル・ヘルス

 「ふつう『自己実現』っていうと、自分のやりたいことをやって、社会的に認められる、できたらお金ももうかる、そういう意味で成功するってことだと思ってるよね?」ときくと、答えは「そうです」ということでした。

 その「自分のやりたいこと」という場合の「自分」が問題なんだよね。

 きみたち――僕も戦後生まれなので「ぼくたち」と言ったほうがいいかもしれないけど、みんな学校で戦後のアメリカ的な個人主義・民主主義がまるでぜんぶ正しいかのように教わってきたよね。

 「自分は自分、何よりもまず自分が大事、自分に権利がある。自分の人生は自分のもの、自分のためにある」と。

 それは、国や家という共同体にあまりにも一人一人の人生が犠牲にされるということがあったのに対する批判、改善という意味では、確かに一定の正しさがあると思うよ。

 しかし、それは話の半分、あるいは半分以下だったんじゃないかな、ぼくもだんだんに気づいてきたことなんだけど。

 これまで伝えて学んでくれたように、個人だけで存在している個人というのは実は幻想なんだったよね。

 つまり、自分というのは自分だけで生きてはいけない、つまり自分であることはできない。

 自分は自分でないものとのつながりで自分であることができる。

 つながってこそいのち、他のもの(者と物)とつながってこそ自分なんだよね。

 もちろん、自分と自分でないものはつながっているといっても、ちゃんと区分・区別はある。

 くっきりと区分はあるけれども、分離はしていなくて、切っても切れないつながりがある。

 自分・自己というのは、ほんとうはそういうものだったよね。

 だから、「自己実現」といっても、個人としての自己を実現しようとするのと、他とつながった、他のおかげで存在している自己を実現しようとするのでは、似て非なることになるんだよ。

 それは、他のために犠牲になること・自己犠牲とも違ってる。

もちろん、自分のため(だけ)に自分の好きなことをするとか、自分が他者に勝って押しのけて成功するというのとは根本的に違っている。

 「自己実現」というと聞こえはいいけど、結局自分のためしか考えていないとすると、それは実は自分勝手、見せかけのいいエゴイズムにすぎないんじゃないかな。

 ところで、結局は自分のことしか考えていないエゴイストが好きな人いる? いないよね。

 つまり、カモフラージュされたエゴイズムにすぎない自己実現・自分勝手を追求していると、結局他人から嫌われる。つまり認められないわけだ。

 他人から・社会で認められたいと思って始めた自己実現が、いつの間にか認められないという結果になるんだね。

 なぜそんなことになるかというと、最初の時点で「自分・自己」というものについて思い違いをしているからなんじゃないか、とぼくは思うんだけど、きみはどう思いますか?


 時々、光る海や明るい砂浜やそこで楽しそうに走りまわっている子どもたちに目をやりながら、話を続けていきました。




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ほんとうの自信に根拠はいらない!

2007年09月05日 | メンタル・ヘルス

 話は、「自分のやりたいことと今やっている仕事がずれていて、悩んでいます。どうしたらいいんでしょう?……」という質問から始まった、と記憶しています。

 まず、「自分のやりたいことをやれるようになるかどうか、自信がないんですが……」という点について、

 「やれるかどうかを考える前に、ほんとうにどうしてもやりたいのかどうか、自分の心の深いところを確かめる必要があると思うよ。どうしてもやりたいくらいじゃなきゃ、ほんとうにやりたいとは言わない。ほんとうにやりたいんじゃなかったら、できなくてもいいじゃない」

 「自分の心の深いところを確かめてみて、ほんとうにやりたいのなら、できるかどうかなんて考えないこと。できる、と根拠なしに信じることだよね」

 「何かをやる場合、できないんじゃないかなと思いながらやるのと、きっとできると信じてやるのと、どっちが成功率が高いだろう?」「信じてやる方です」「そう、そういうことだよね。だったら、信じることです!」

 「ところで、信じるには何か根拠がなければならないというルールや法律や宇宙法則があるのかな?」「ありません」「そうだよね、信じるには根拠はいらない。ほんとうの自信とは、なんの根拠もなしに自分の潜在可能性を信じることなんだよ。潜在可能性は、まさに潜在している・隠れているので、信じてやると出てくる・開発される、ことが多いんだよね」

 「だから、話はとてもシンプルで、ほんとうにやりたいんだったら、できると信じて、やる。それだけのことだと思うよ。絶対に成功するという保証はないけど、成功率が高まることは確実だからね」

というふうに答えました。

 これは私が考えたことではなく、古い古い聖書の智慧です(例えば「彼(イスラエル民族の父・アブラハム)は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたは多くの国民の父となるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」新約聖書・ローマ人への手紙4・18)。

 「ただ、もう一つの問題は、『自分のやりたいことをやる』のがほんとうにいいことなのか、ということなんだけどね。現代の日本人、特に若い世代は、自分のやりたいことができることを『自己実現』だと思っていて、人生は自己実現のためにあるというふうに思っている人が多いようだけど、そもそも『ほんとうの自己』とは何かということについて、根本的に誤解がある、と僕は思うんだよね」と、話が「自己実現」の話に移っていったのでした。

 別に連続ドラマのように気をもたせるわけではありませんが、長くなりすぎないほうがいいし、ちょっと片づけなければならないこともあるので、今日はここまでにします。




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落ち込みの3つの原因

2007年09月04日 | メンタル・ヘルス

 「ほんとうの自己実現」の話の前に、感受性豊かで、やさしすぎて、いろいろなことがあるたびに落ち込んでしまいがちで、現代社会では生きづらい人のために、ちょっとだけアドヴァイスをしておきたくなりました。

 詳しくは、そのために訳したホーク『きっと「うつ」は治る』(PHP研究所)を読んでいただくことにして、ごく一部を改訳・引用しておきます。


 落ち込みの三つの原因

 1.自分を責めること
 もしあなたが、いつも自分をやっつけ、憎み、自分は世界中で最悪の人間だと思い、だからいつもひどい目に遭うのは当然だ、などと考えていたら、100パーセントの確率でまちがいなく落ち込むでしょう。自分をかなりきつく叱っているとしたら、その理由が何であれ、実質的にちがいはありません。昇進できなくても、年に一度の「ブタの叫び声コンテスト」で勝てなくても、誰かがあなたに挨拶してくれなくても、自分を責めれば自分で落ち込みを引き込むだけのことです。もし強烈に自分を責めていたら、気持ちがものすごく混乱して、泣きたくなって、黙り込んで不機嫌になって、橋から飛び降りたくなったりするでしょう。
 ちょっと責めるだけなら、嫌な気分になりまちがいなく不機嫌になるというだけのことかもしれません。その程度なら事態は深刻ではないかもしれませんが、でもデートをすっぽかしたり、パーティーや旅行を台なしにしたり、まわりの人にあいつとは一緒にいたくないと思われたりするのです。

 2.自分をあわれむこと
 うつになる第二の道は、自分をあわれむことです。自分が公平に扱われなかったといって悲しみにうちひしがれていると、ただちに落ち込みます。人の同情を買おうとして悲しそうな顔をしていると、やがて落ち込んできます。世界にはあなたの面倒を見る責任があると考え、それなのにこの世界はなんて不公平なんだろうと思えば、落ち込むのです。
 意外に思う人が多いかもしれませんが、「他の人は自分を公平に扱うべきだ」、「自分がやさしくしたらやさしさが返ってくるべきだ」、「世界は生きるに価する場所であるべきだ」などと言い張るのは神経症的なことだと学んだほうがいいのです。もしそういうありえないことを信じていると、自分が当然だと思い込んでいるようにものごとがならないと、必ず落ち込み、傷つけられたと感じ、腹を立てることになります。
 これからあなたに――落ち込みたいくないのなら――学んでいただきたいのは、この世に生きている間、恩を仇で返す人がいるというのは例外というよりむしろよくあることで、ものごとはいつもなるようにしかならないのだと納得するればするほどより心理的に健康な人間になれる、ということです。

 3.人をあわれむこと
 自分が足を折っても他の人が折っても、気持ちが暗くなることがあります。世界には苦しみが限りなくあるので、自分の直接の家族でなくても、何百万のもかわいそうな人たちのひどい状態に思い入れをする機会も果てしなくあるわけです。私は、そうしたひどい状態や心痛むようなことが現実にあり、時には悲劇的でさえあるという事実を否定するわけではありません。しかし、松葉杖の子どもをあわれんだり、家が火事になった人のことをあわれんだり、戦争で息子を亡くした母親をあわれんだりしていると、自分自身を責めたりあわれんだりした時とまるでおなじで、あなたは落ち込みます。どの方法であれ落ち込むのはおなじで、一つの方法は他の方法とおなじくらいひどくあなたを落ち込ませることができます。唯一確実なのは、あなたが最悪の苦痛に陥るということです。……

 教養ある文明人なら誰もが、仲間の人間の苦しみを感じるものです。人々が体験していることに共感や感受性のない人間は、明らかに神経症的で愚かか、さもなければ無神経なのです。仲間である他の人間の逆境に対する思いやりは、教養ある文明人の徴です。しかし思い入れのしすぎは、そうではないのです。これは、あなたが心理的に健康でいたいと思うなら、引いておかなければならない一線です。

 「ただ思いやりをしているのでなく、思いやりをしすぎているというのは、どうやってわかるのだろう?」という疑問が出てくるかもしれません。単純です。それはあなたが傷ついたときです。落ち込み、暗い気分、怒りを感じはじめたら、それは人のために思いやりをしすぎていて、かつ神経症的に行動している証拠です。そう、それは神経症的なのです。あなたの傷ついた気持ちはその人の悲惨の上にもう一つ悲惨を加えるだけなのですから。友達があなたに求めているのは、あなたが苦しんで落ち込むことではないのです。期待しているのは、あなたの元気さのレベルまで彼を引っ張り上げてくれることであって、彼が自分の落ち込みのレベルまであなたを引き下ろすことではありません。


 では、どうすればいいのか? と思った方は、ぜひ前掲書と拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)を読んでみてください。残念ながら、長くなりすぎてブログ引用は無理なので。

 きっと、気持ちがすっきりしてきて、有効な行動をしようという元気が出てくると思います。




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感性を開くワーク

2007年09月03日 | メンタル・ヘルス

 おととい、きのうとコスモス・セラピーのワークショップでした。

 4年ぶりの伊豆・弓ヶ浜の砂浜と海は、あいかわらず明るく、ゆったり、のんびりとしていて、とてもいい気持ちでした。

 天気予報は好都合に外れ、晴れたり少し曇ったり、暑すぎず涼しすぎず、ほとほどの温度で、ワークショップには最適でした(やはり紫外線は強烈でしたが)。

 参加者には、感性豊かで、しかしそのために現代の荒れた社会の中で生きづらさを感じている方が多いと見ていましたので、まず「状況に応じて、感性を開いたり閉じたりすることのできるコントロール能力を養うことが必要だと思います」というコメントをしました。

 そして、「感性を閉じていないと生きにくい社会で毎日生きていると、いつの間にか癖になって感性を閉ざしっぱなしになりがちです。でも、感性が閉じてしまうと、生きていることの意味が実感できなくなってしまいます。今日、明日は、日常生活の中で閉ざしがちになっていた感性を久しぶりに開く練習をしましょう」と。

 そして、長田弘さんの「最初の質問」を朗読して、まさにみなさんに質問をしました。

 この詩・質問は、みなさんの心にとても響いたようです。

 それから宇宙カレンダーの短いレクチャーの後で、渚に行って、「今日、あなたを呼んでいる、あなたと一緒に行きたいと言っているもの――例えば小石や貝がらや――を探して連れてきてください」と指示し、みんなで裸足になって渚を歩き、それぞれに何かを持ってきて、輪になり、一人ずつ砂浜に置いていって、みんなでいわばオブジェを作るワークをしました。

 夜にはまた浜に出て、シートを敷いて横になり、「私と分離した向こうにあるものとしてではなく、その秩序のなかに自分もいるものとして、天の川銀河を見る練習をしましょう」というワークをしました。

私も横になって、マルクス・アウレーリウスの言葉を思い出していました。


 星とともに走っている者として星の運行をながめよ。また元素が互いに変化し合うのを絶えず思い浮かべよ。かかる想念は我々の地上生活の汚れを潔め去ってくれる。(マルクス・アウレーリウス『自省録』より)


 帰ってきて、夜中の三時までみんなで真剣に話し合いました(今回は体のために少し早めに寝ようと思っていたのですが、今回もまた熱が入ってしまいました)。

 翌朝、また散歩に出て、海を見ながら立ち話でみなさんの質問に答えているうちに、話が深くなり、とうとう野外レクチャーになってしまいました。

 テーマは「ほんとうの自己実現」でした。

 それについては、できればここでも少し書いていきたいと思っていますので、続きはまた明日、ということで、今日はここまでにします。




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