政治アレルギーの治癒

2006年10月30日 | 持続可能な社会

 竹崎孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』(あけび書房)を読んでいます。

 まさに「なぜ生活大国になれたのか」が、わかりそうです。

 読み終わったら、またポイントを書きたいと思いますが、今夜は引用されていた、古代ギリシャの格言が心に響いたので、ご紹介したくなりました。

 政治に無関心な人民は愚かな政治家に支配される。

 日本は大きな転機にさしかかっていると思うにつけても、一日も早く日本人の政治アレルギーが治ることを、心から願わずにはいらません。



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仏教とキリスト教のフュージョン?

2006年10月28日 | Weblog

 最近読み続けている『摩訶般若波羅蜜経』(昭和新纂国訳大蔵経版)は、全部で90品(章にあたる)もある、長いお経です。

 これまで何度も挑戦しかけて途中で挫折したのですが、今回はなぜか続いています。

 といっても、他の仕事の合間を見ながらなので、まだようやく第40のところまで到達したところですが。

 でも、この調子なら、最後まで読み通せそうです。

 続いている理由を考えみると、2つあるようです。

 1つは、かつて読み始めた時は意味を十分に読み取れなかったので、文字面を追っているだけになって厭きてきたということです。

 今回は、「なんと深いのだろう!」と驚くことができる程度に読み取ることができているのです。

 年季は重ねるものです(もっと年季を重ねたら、もっと深いと思うことでしょう)。

 もう1つは、繰り返しが多いことの意味も感じられるようになったことです。

 わかったつもりになり、おぼろげに覚えてはいても、しっかりとわかりしっかりと記憶してない修行者が、声に出してこの繰り返しを読んでいるうちに知らず知らずのうちにそのリズムと一緒に内容のもっている雰囲気が無意識(アーラヤ識)に熏習され定着していく、というのがお経の文句の繰り返し効果なのではないかと思うのです。

 私は、まだ声に出して読んではいませんが、目で追っているだけでもそういう感じになってきます。

 これから、この書き下し文をお経として読んでみるとさらにいいのではないか、やってみようという気になっています。

 ところで、今夜は仕事の後で、ものすごく久し振りにかみさんとコンサートに行きました。

 サングラハの仲間のお母様が加わっている合唱団のコンサートで、招待していただいたのです(感謝、合唱に合掌)。

 プログラムはプーランク『グロリア』とデュリュフレ『レクイエム』、そしてアンコール曲はフォーレ『レクイエム』の一部という、近代フランスの宗教音楽づくしでした。

 どれも心洗われるような美しい曲、感動的な演奏でした。

 指揮者、合唱団、オーケストラ、オルガニスト、全員に心から拍手をしました。

 帰り道、デュリュフレかフォーレのレクイエムをバックに道元『正法眼蔵生死巻』か『摩訶般若波羅蜜経』のどれかの品(章)の朗読をやってみてはどうか、きっと感動的になるのではないか、というアイデアが浮かびました。

 そのうち、密かに実行して、MD録音でもしようかなと思っています。

 成功したら――「たら」です――サングラハの関係者のみなさんには、お聞かせするかもしれません(著作権の関係で内部使用にとどめざるをえないのがちょっと残念ですが)。

 かつて、新潟・旧山古志村の木喰観音堂で、CDプレーヤーでバッハのカンタータ『目覚めよと我を呼ぶ声あり』(カール・リヒターの指揮のもの)をバックに流しながら『般若心経』を唱えたことがありましたが、実によかったので、今回もきっといいのではないかと予想しています。



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仏教は劣化している?

2006年10月27日 | 心の教育

 今日も電車の中の読書は、『摩訶般若波羅蜜経』です。

 繰り返しの多いいかにもインドのお経といった文体に少しうんざりしかかりながらも、やはり深いなあと感心しながら、読み続けています。

 こんなに深いのが本来の仏教なんだなと思いつつ、最近学生の感想にあった言葉がしきりに思い出されました。

 「もともと仏教はそういうものだったのかもしれませんが、日本の仏教はもう劣化していてダメなのではないでしょうか?」と。

 ダメではない、希望の法師も確実にいますが、全体としては……

 これだけの深いものが本来あるのですから、ぜひ再発見してほしいものです。

 電車を降りて待ち時間、喫茶店で安いコーヒーを飲みながらの感想でした。



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宗教同士なのになぜ戦争をするのか?

2006年10月26日 | 歴史教育

 「宗教は愛とか慈悲ということを教えているはずなのに、どうして宗教同士で戦争をするんでしょう?」

 宗教についての授業や講演をしていると、非常にしばしば出される質問です。

 先日の授業の後、学生に書いてもらった授業への感想・質問の文章にも、おなじような質問がありました。

 思わず、「テキストの24ページ以下の『〈宗教〉には未来はない』のところを読んで下さい。テキストは買ってありますか?」とコメントを書きたくなって、今年は『コスモロジーの創造』(法蔵館)をテキストにしていなかったことを思い出しました。

 なので、ポイントを引用しておくことにします。

 「まず明確にしておくと、未来がないという〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での『信仰』と『服従』を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。

 これには……私の知りえたかぎりでの大多数の既成宗教、新宗教、新新宗教が含まれる(「すべて」ではない)。……そしてこれには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。」

 「何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。  自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。

 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。

 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。

 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。」

 「その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判の言葉は、古典的でいまさらのようだが、依然として日本の市民――特に七〇年代以後の若い世代――の大多数の常識にはなっていない、どころかほとんど知られてもいないらしいから、改めて引用しておきたい。……

  ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(邦訳下、122頁)

  ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、126~127頁)

 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。

 もちろん、悲しいことながら、ここ当分人類は争い続けるだろうし、争い続けながらも生き延びている間は、建て前として平和を叫びながら実際には平和をもたらせない〈宗教〉も生き延びるだろうし、そういう意味でなら、まだしばらく宗教に未来はある(それどころか、現象的には、一時、宗教紛争、宗教戦争の元になるような宗教の勢力はかえって増大するかもしれない)。

 しかし、繰り返すが、人類規模の平和な未来の実現ということからいえば、もはや宗教に有効・妥当性はない、と思う。」

 〈コスモロジー〉というキータームを使って、言い換えてみましょう。

 他の生物のように生まれつきの本能によって外界を知覚するのではなく、言葉によって外界を認識するようになった人間という生き物は、外界=世界についての言葉のまとまり、つまりコスモロジーなしには生きられません。

 過去の人類が生み出してきた呪術的・神話的宗教は、特定の人間集団が生き延びるためのコスモロジーでした。

 同じ呪術・神話を信じることによって、集団の合意が形成され、共通の目標に向かって協力することができたのです。

 当然、信じる者は集団のメンバーであり、信じない者は集団のメンバーではないのです。

 コスモロジーは、合意を形成し共通の目標に向かって協力することで集団が生き延びるためのものですから、これを信じるか信じないかは集団にとっては死活問題でした。

 まだ信じていないよそ者は怪しく感じられ、教えても信じようとしないよそ者は敵と見なされます。

 特定の集団にとっては合意-協力、つまり愛し合う根拠であるコスモロジー=宗教は、他の集団に対しては無視し、敵意を抱き、敵対する根拠にもなりうる潜在的可能性をいつも持っていますし、状況次第ではいつでも実際に現実化してきました。

 宗教の説く「愛」は、仲間に対してのみ有効で、外部に対しては敵意を生み出しかねないものだったのです。

 それは、とても残念ながら、「あなたの敵を愛しなさい」と教祖が語っているはずのキリスト教でも、歴史的実態としてはかなりの程度、そうでした(です)。

 そういうわけで私は、「宗教同士なのに、どうして戦争するんですか?」という問いに対しては、「宗教同士だから、戦争するんです」と答えることにしています。

 ただし、それは呪術的・神話的宗教のことで、理性・哲学的宗教や霊性的宗教は、つながりコスモロジーという点で現代科学のコスモロジーとも調和し、人間同士の永続する平和を実現するための合意ラインになりうる、というのが私の考えです。

 詳しいことは、よかったら、このブログの過去の記事や、テキスト……に今年は指定しなかった『コスモロジーの創造』を読んでみてください。



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菩薩の大きな願い

2006年10月24日 | 心の教育

 今日の電車中の読書は、スウェーデンものと、『摩訶般若波羅蜜経』の続きの半分ずつでした。

 後者の心に響いた句をご紹介します。


 菩薩・大士の大きな誓い・願いの美しさは、生きとし生けるものを限定して、私は一定の人を救うつもりであって、その他の人を救うつもりはない、としないことにある。私は一定の人をこの上なく等しいもののない覚りに至らせるつもりで、その他の人をこの上なく等しいもののない覚りに至らせるつもりはない、と言ったりしない。この菩薩・大士は、すべての生きとし生けるもののためにこそ大きな誓い・願いを厳かに美しくも立てるのである。(弁才品第十五)


 これは、菩薩の布施-慈悲の実践が、相手を選ばない「無差別平等」なものであることを語っています。

 こんなにすごいことがすぐ自分にできるとは思えなくても、誇大妄想的にさえ感じられても、それでもなぜか心うたれるきわめて美しい理想です。

 たとえ100パーセントでなくても、たとえ何万分、何十万分の一でも、ただの真似ごとでも、したいと思わせられます。

 せめて授業に出て来てくれる学生だけでも全員の「仏性(ぶっしょう)」を信じて、選り好みせず本気で教えよう、と改めて思いました。



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ススキ原で思ったこと

2006年10月23日 | 生きる意味



                    箱根仙石原のススキ



 土日、箱根仙石原でサングラハのミーティングを行ないました。

 終わって、参加者のみなさんと有名なススキ原に行きました。

 残念ながらまだ穂ぜんぶが真っ白になっておらず、雨模様だったので、ススキ原全体が純銀に輝いている様子までは見せてあげられませんでしたが、それでもみごとに広いススキの原に「すごい!」と歓声が上がりました。

 真っ白なススキに、今読んでいる『摩訶般若波羅蜜経』の「幻学品(げんがくぼん)第十一」のスブーティ(須菩提)と釈尊の問答を思い出しました。



 「スブーティ(須菩提)よ、おまえはどう思うか、布施という波羅蜜と幻と異なりがあるだろうか?……」

 「いいえ、そうは思いません、世尊よ。なぜかというと、色(しき、物質的現象)は幻と異ならず、幻は色と異ならず、色はすなわち幻であり、幻はすなわち色だからです。……それから、この上なく等しいもののない覚りは幻と異ならず、幻はこの上なく等しいもののない覚りとことならず、この上なく等しいもののない覚りはすなわち幻であり、幻はすなわちこの上なく等しいもののない覚りだからです。」……

 スブーティが仏陀に申し上げるには、「世尊よ、初めて大乗に志した求道者(新発大乗意菩薩、しんぽつだいじょういぼさつ)は、般若波羅蜜が説かれるのを聞いて、恐怖はないでしょうか?」と。

 仏陀がスブーティに告げられるには、「もし初めて大乗に志す求道者は、般若波羅蜜について巧みな手だて(方便)がなく、またよい指導者(善知識、ぜんちしき)を得なければ、その求道者は、あるいは驚いたり、あるいはおののいたり、あるいは恐れたりすることだろう」と。


 「すべてが空であり幻のようなものである」と聞くと、初心者は下手をすると、すべては虚しいのかと不安になったり、恐れたり、ニヒリズムに陥ったりしかねません。

 「すべてが、さまざまなものとのつながりの中である時間だけ現われて消える現象だ」ということと、だからこそ生きることには意味がある、あるいは人生は意味体験をするチャンスであるということは、いい指導者に出会うことができ、巧みな方法で教えてもらわなければ、なかなか理解できないのです。

 それどころか、勝手に「消える」という部分だけ強調して聞いてしまい、恐ろしくなったり、虚しくなったりしてしまいがちです。

 しかし幸いなことにいい指導者の上手な説き方に出会うことができると、例えば、真っ白なススキがやがて風に吹かれてすべてどこかに飛んでいってしまい、後には枯れた葉が残り、それもまた朽ちていき、やがて野焼きで焼かれて灰になっていくことだけでなく、ススキがいま・ここで純銀のように光輝いていること、そして飛び散った白い毛は新しいいのちの種を運んでいることに目を向けることができるようになるでしょう。

 「花の咲かない枯れススキ」に見えるものは、実は新しいいのちの種子の群であり、やがて新しい場所で新しいいのちの姿に生まれ変わります。

 このように生から死へと、そしてまた死から生へと、幻のように変化すること、ダイナミックに運動することこそ自然の本質であり、それが空ということなのです。1) 2) 3) 4) 5) 6)

 こうして、幻のように、万華鏡のように、さまざまに変化していく自然の姿を、親しい人たちと一緒に爽やかに楽しめる人生の一日を与えられたのはとても有難いことだ、と思ったことでした。



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自然な行為としての慈悲

2006年10月21日 | メンタル・ヘルス

 今日は、これから秋の山を見に行きます。紅葉が始まっているでしょうか。

 なので、今日も簡単に『摩訶般若波羅蜜経』の一節をご紹介して記事にすることにしました。


 一切衆生を救済(ぐさい)し、一切衆生を捨てず。是の事あるも、亦(また)是の心有るを念(おも)わず。是れを菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、一切衆生の中に於て、利益安楽心(りやくあんらくしん)を生ずと名づく。」(金剛品第十三)


 菩薩という大乗の理想は、自分だけでなく生きとし生けるものすべてを救いたいという願にあります(これは下手をすると誇大妄想といってもいいくらいの理想ですね)。

 しかし、それがふつうの自意識的な願望と違うのは、「一切衆生を救済する」という事実があるにも関わらず、それを「念わず」つまり意識しないというところです。

 分離した実体としての私が、分離した実体としてのあなたがたをお救いしたいと思うのではないのです。

 般若波羅蜜・三昧が深まれば深まるほど、自然に心の奥底から他者と自分との一体性の実感が湧いてくるので、自然に他者=自分の利益や安楽につながるような行動をしてしまう、ということでしょう。

 唯識で説明すれば、「念う」のはマナ識にコントロールされた意識の働きです。

 「利益安楽心」というのは、平等性智に裏付けられた妙観察智成所作智の働きのことでしょう。

 そういう深い大きな心になれるよう――ということはまだなっていないという意味ですが――般若波羅蜜・三昧を精進していきたいと思っています。

 これから山を見に行くのも、自然との一体感を少しでも実感したいからです(と、別に言い訳をする必要もないんですけどね)。

 今日、明日、天気になーれ!



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智慧と瞑想と菩薩

2006年10月20日 | 心の教育


 少しずつ読むつもりだった『摩訶般若波羅蜜経』が面白くて、今日も大学の行き帰りの電車の中でずっと読みふけってしまいました。

 そろそろ、またスウェーデンものに帰ったほうがいいんですけどね……

 今日、心に残ったのは、次の言葉でした。これは、漢文書き下しのままでもわかる文章なので、そのまま引用しておきます。


 「般若波羅蜜は諸(もろもろ)の三昧(さんまい)に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ちこれ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は即ち是れ菩薩なればなり。」(相行品第十)


 ものごとをばらばらに見てしまう分別知に対して、すべてを一体であり空であると見る智慧を般若といいます。そして、その智慧に到る修行が般若波羅蜜であり三昧なのですが、菩薩(求道者)は徹底的に般若波羅蜜および三昧と一体であってこそ菩薩なのだ、というのです。

 こうした句を読んでいると、大乗仏教で語られる「般若」や「空」といったコンセプトは、単なる哲学的な理念・概念・観念ではなく、徹底的に実践-体験に裏付けられたものであることが、はっきりとわかります。

 般若・空の智慧を得たかったら、三昧・瞑想を行なうこと。三昧・瞑想のない般若や空の話は、『摩訶般若波羅蜜経』の語っている大乗の菩薩のものとしての般若・空ではない、ということでしょう。

 美しい秋の山を味わいたかったら、山の本を読んでいるだけでなく、実際に山の見えるところまで行くこと、できれば自分の足で登ること。



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銀河瞑想

2006年10月19日 | メンタル・ヘルス

 ゴータマ・ブッダの弟子たちの言葉を記した『テーラーガータ』というお経があります。

 そのなかに、こんな言葉がありました。

 「きらめく星の花環は、さしあたって〔われわれが〕眠るためにあるのではない。こうした夜は、識見ある人がめざめて努めるためにあるのである」

 美しくて深い言葉です。

 夜の坐禅を「夜坐(やざ)」といいますが、古代インドの修行者たちの夜坐は禅堂の中や僧堂の縁側などではなく、まったくの野外で行なわれたそうです。

 他に明かりなどまったくない深い闇の上には、数え切れない星々がきらめいていたのです。

 そのかすかな星明りをたよりに、修行者たちは、お互いに離れて思い思いの場所に一人で行き、深く深く禅定に入っていきます。

 夜が更ければ更けるほど、禅定も深まっていったことでしょう。

 夜空の星も冴えわたり、修行者の心も冴えわたっていきます。







 私もワークショップの時に行なったりするのですが、満天の降るような星空の下で、夜遅くまで瞑想に耽っていると、心の中がいいようもなく爽やかで透明になっていきます(時には妄想が湧いてくるだけの時もありますけどね)。

 そういう自然の中に行けなくて家の中にいる時には、今坐っている自分の頭上にも実は銀河がきらめているのだ、というイメージ瞑想をすることがあります。

 そういう瞑想法を私は、「銀河瞑想」と呼んでいます。

 銀河瞑想をしたりていると、ふと、「坐禅は大安楽の法門」という言葉を思い出すことがあります。それもまた、雑念の一種ではありますが。



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言葉を止めると心は爽やか

2006年10月18日 | 心の教育






 最近、鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』を、少しずつ読んでいます。

 昨日読んだところにあった句が、実に深く的確だなあと思いました。

 「シャーリプトラよ、ただ言葉があるので菩提(覚り)だというのである。ただ言葉があるので菩薩だという。……〔しかし〕言葉は、直接的原因と間接的原因が結びついて作られたものにすぎず、ただ分別し想定して仮に名前で呼ぶだけのことである。そういうわけで、菩薩・大士は、般若波羅蜜を実践する時、一切の言葉を見ることをしない。見ないので、執着することもないのである。」(私訳)

 覚りを求めている人=菩薩が、深い智慧=般若波羅蜜の修行を実践する時には、心の中で言葉がめぐり、分別知が働くことを、徹底的に休止させていきます。

 その場合、自分が「覚り」を求めているとか、自分は菩薩だとかいうことさえも忘れてしまうのです。

 「覚りたい」とか「すぐれた菩薩になりたい」という願い・欲求さえも、もはや心から消えていきます。

 言葉によって対象を分別・想定しなければ、願ったり執着したりしようもないからです。

 言葉の働きが休止すると、執着して悩んでいた心も休止し、静かに、爽やかになっていきます。

 私も、坐禅をしている間は、いささかそういう気分になれるようになりました。

 別に自慢するほどのことではないのですが、ともかく坐禅をするとその時だけでも確実に爽やかないい気分になれるので、みなさんにお勧めしたくなる(慣れるまで少し足が痛かったりしますが)というだけのことです。

 よかったら、あなたも坐禅をしてみませんか。



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明るい方を見るという技術

2006年10月17日 | メンタル・ヘルス





 コスモス・セラピーでは、まずものごとの明るい面を集中的に見るようにお勧めします。1) 2)

 そうすると、まじめで落ち込み癖のある方から、「現実にはもっと暗いことがたくさんあるのに、それでいいんでしょうか? もっと現実を見つめる必要があるんじゃないでしょうか?」といった質問が出てきます。

 そういう質問に対しては、次のようにお答えします。

 暗い現実を「問題」と言い換えてみましょう。

 問題は、見つめていると、解決したり、解消したりしますか?

 しませんよね?

 どうしたら、解決できるんでしょう。

 原因をよく考えて、それがわかったら、無くすように取り組んで、原因が無くなったら結果としての問題も解決または解消するんですよね?

 で、冷静なのとあせっているのと、どちらがよく考えられるでしょう?

 元気なのと落ち込んでいるのと、どちらがうまく取り組めるでしょう?

 そうですね、当たりっ! 冷静で元気、ですよね。

 では、明るい方を多めに見るのと、暗い方を多めに見るのと、どちらが冷静かつ元気になれると思いますか?

 そうですよね、明るい方を多めに見ることですね。

 私が、北朝鮮やアフガンやイラクなどなどについてあまりふれず、最近スウェーデンに集中的に注目しているのは、そういうわけです。

 あ、いうまでもなく、この心の技術は、暗い現実ばかり見つめていても心はまるで暗くならないという「メンタル・タフネス」「メンタル・マッチョ」の方には必要ありませんので、お勧めしていません。



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ものわかりの悪い弟子とよき師

2006年10月15日 | 心の教育

 先日久しぶりに、前に読んだことのあるブッダの伝記に手が伸びました。

 読んでいたら次のようなエピソードの個所にぶつかって、前から知ってはいたのですが、改めて深い感動を覚えました(訳は私訳です)。シェアさせていただきます。

                         *

 ある夕方、ブッダは祇園精舎の門の外で、弟子のチューラパンタカがひとりしょんぼりと涙を流しているのをご覧になり、優しく声をかけられました。

 「チューラパンタカよ、どうして泣いているのか」。

 「世尊よ、私は生まれつき頭が悪くて、修行3年になるのにまだ教えの言葉ひとつ暗記できなくて、兄から『おまえのような頭の悪いやつは、道を得ることなんかできはしない。修行をやめて、ここを去って家に帰れ』としかられたのですが、ここを去るのが悲しくて泣いていました」。

 ブッダは、「泣かなくてもよい」と彼の手を取り、部屋に連れて入って一本のホウキを渡し、「いつもこのホウキで精舎の庭を掃除し、『塵を去り垢を除こう』と唱えなさい」と教えられました。

 チューラパンタカは、それから毎日、教えの一句をただひたすら唱えていましたが、ある日、「塵とは心の塵、垢とは心の垢、修行とは心の塵と垢を掃除するということだ」と気づいて、仏陀に申し上げました。

 「世尊よ、私は今後、智慧のホウキで心の塵を掃除します」と。

 ブッダは、「チューラパンタカよ、おまえは気づきを得た。よいかな」とお喜びになった、ということです。

                         *

 読んでいてシーンがまるで目に見えるような気がして、ブッダの智慧に裏づけられた温かな思いやりに心打たれました。

 こういう師に出会った弟子は、なんと幸せなのでしょう。

 私も教師のはしくれですが、一見わかりの悪い学生も時間を十分かければ気づきを得る可能性があることを見抜く智慧、信じて待つ心、引き出す巧みな手立て(方便)をどのくらい持っているか、少なくとも持とうと努力しているか、深く考えさせられました。

 それ以前に、そもそも自分が、どのくらいいつも「塵を去り垢を除こう」と心がけているか、なまじいくらかの知識と知的な理解力があるために、わかったつもりになって、単純に真心を込めた行を実践することを忘れがちか、反省したことです。



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コスモロジーの移行に伴う危機

2006年10月14日 | メンタル・ヘルス


 

 つながりコスモロジーや唯識を伝えると、いくつか特徴的な反応があります。

 その中でも、最初の頃、私には不思議だと思えた反応のタイプがあります。

 それは、「こういう考え方を受け容れたら、私が私でなくなってしまうような気がする」、「今までの私って何だったんだろうと思ってしまう」というものです。

 それまでのものの考え方・コスモロジーでは、人生がむなしく感じられたり、落ち込みがちだったりしていたのに対し、新しいコスモロジーだと、人生が輝いて見えてきたり、元気が出てきたりするのだから、取り替えたほうが自分のためなのはわかりきったことなのに、と思ったのです。

 しかしやがて、これは臨床心理学的な目で見れば、十分ありうることだ、ある意味では当たり前だといってもいいくらいだということに気づきました。

 私たちは、自分なりの世界観・コスモロジーをもたないでは生きていけません。

 たとえ、それが自分をむなしくしたり、落ち込ませたりするものであっても、それがあったお陰で何とかここまでは生きてこられたわけです。

 「死にたい」と思わせるものであっても、それでも自分を自分らしく生きさせてくれる、いわば人生のシナリオ、ライフスタイル、アイデンティティだったのです。

 それを新しいものに取り替えるということは、それまでの自分を曲がりなりにも支えていたものを手放すということです。

 つまり、むなしかった人がむなしくなくなるには、ケースによって、大変なアイデンティティの変更・移行が必要になるのです。

 アイデンティティの移行には、しばしばアイデンティティ・クライシス(自己同一性の危機、自分が自分でなくなってしまうのではないかと感じる心理的な危機)が伴います。

 転居、転職、失職、老齢化などにはアイデンティティ・クライシスがありがちだということは知っていましたし、場合によっては昇進などまわりからはいいことに思えることにさえクライシスがありうることも知っていました。

 しかしうかつなことに、コスモロジーが否定的なものから肯定的なものに移行する時にもクライシスがありうることは予想できていませんでした。

 けれどもよく考えてみれば、コスモロジーはアイデンティティのさらに基盤にある心の支えのようなものですから、コスモロジー・クライシスがあっても不思議ではなかったのです。

 そこに気づいてから、次のように対処するようになりました。

 「それはそうでしょうね。今までそういう考え方で生きてきたんですものね。自分の考え方=自分だという気がして当然ですよね。

 ……でも、自分の考え方って自分(そのもの)ですか?

 考え方って、体験や状況や成長などで変わるものだし、変えられるものですよね。

 考えが変わったからといって、自分が自分でなくなったりしますか?

 今までの自分ではなくなりますけど、これからの自分も自分ですよね。

 そもそも自分って変わるもの、成長したりして変化するものなんじゃないですか?

 例えばお母さんのお腹の中にいた頃のあなたと、今のあなたでは、まるで別の生き物くらいに変化・成長してますよね。

 それでも、あなたはずっとあなたでしょう?

 つまり、自分というのは、変化するもの、変化していいもの、変化するしかないものですよね。

 変化すると、どうしても最初はとまどいますけどね、でもすぐに慣れるものでしょう?

 で、選べるとしたら、いい方に変化したいですか、悪い方に変化したいですか?

 今までの自分のままでいて、ずっとむなしいのと、これからの新しい自分に変わって元気になるのと、どちらがお好きですか?

 これまでの私って何だったんだろう? ですか? むなしかったけど、でもガンバって生きてきた私だったんじゃないですか?

 ガンバって生きてきたことはちゃんと評価してあげて、それから、でもずっとむなしいのは嫌だからやーめたっ!と。

 それで、これからは変化して元気でガンバれる私になればいいんじゃないでしょうか?

 コスモロジーを取り換えるだけですべてオーケーになるわけではありませんが、それにしても、これまでのばらばらコスモロジーを信じたままのあなたと、つながりコスモロジーを採用するあなたと、どちらが元気になれそうですか?

 そう、つながりコスモロジーを採用したあなたのほうが元気になれそうですよね。

 だったら、コスモロジーを換えてもいいんじゃないでしょうか? というか、換えたほうがいいんじゃないでしょうか?

 もちろん、最終的に決めるのはあなたですが。」

 実際のカウンセリング―納得のプロセスはこんなに直線的にすんなりとは行きませんが、紆余曲折しながらも、最終的にはこういうところに行き着くことがほとんどです。

 直接授業を受けたり、まして相談に来ていただいたりできないみなさん、読んで参考にして、ご自分の納得のプロセスに取り組んでみて下さい。

 もちろん、納得しない、却下するのもご自由です。



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人生の有限性と決断

2006年10月13日 | 生きる意味





 無常ということは、人生の持ち時間は有限ということだよ。

 どうでもいいことやつまらないこと、ましてよくないことで浪費していいような人生の時間なんてないんだよ。

 できるだけ、大切なことを学ぶために時間を使わなければね。

 ……という話を、しばしば授業でします。

 世界に溢れている情報は膨大で、そのすべてを収集し検討して、絶対にまちがいのないこと(真理)を摑んでから、その後で人生のシナリオを決める、というふうなことは、与えられた持ち時間の有限な私たち人間には、残念ながら不可能です。

 情報をできるだけ広く公平に、そして必要な時には深く、収集してから、しかしすべてを知っているわけではないという状態のまま、どこかで決断するほかありません。

 いのちの意味についても基本的にはおなじです。

 私たち人間は、言葉(ロゴス)によって世界・宇宙(コスモス)がどういう仕組みになっているかを体系的に捉えることなしには、安定・安心して生きていくことができません。

 しかし、宇宙に溢れている全情報を収集し解析して、それから絶対的・最終的コスモロジー(世界観)を描く=いのちの絶対的意味を知るなどということは、かつても、今も、これからも不可能でしょう。

 今の段階の自分の知識で、確からしいと思うコスモロジーを、決断して採用しておくほかないのです。

 そのうち絶対的・最終的結論に到達するのではないかという漠然とした気持ちで、情報収集をし続け、コスモロジーについて決断を留保し続けているかぎり、心も生き方も安定した方向性を得ることはできません。

 まちがっていると思ったら、そこで改めるつもりで、「しかし今はこう考えておくことにする」という決断が必要なのではないでしょうか。

 その場合、理性的・科学的に妥当性があり、しかもいのちに意味があると思わせてくれるようなコスモロジーを採用しておくのが、いちばん賢いのではないでしょうか。

 もちろん、たとえ一応であれ採用を決断するまで、一定の検討の時間は取っていいのですが、無限に引き延ばすことは不可能です。

 なるべく若いうちに一応の結論を出しておいたほうが、人生のシナリオ・方向性を決められるので、そのほうが望ましいですね。

 もちろん、決めるのはみなさんです。

 ……というふうなコメントを、コスモロジー授業の中で、時々しています。




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キャンパスの緑

2006年10月12日 | メンタル・ヘルス





 私が教えている大学の1つは、いわゆる「里山」的な環境にあって、緑がいっぱいです。

 学生たちの熱心度もなかなか気に入っていますが、特に緑の多いのが気に入っていて、通勤時間の長いのもあまり苦になりません。

 晴れた日には、カメラを持って行き、授業の前後にキャンパス内を歩きまわって緑の木々や野の花などを撮ることがあります。

 何をしているんだろう、という顔をして見る学生もいますが、まったく気にしていません。

 先日は、キャンパスの芝生の中の大きな木が気持ち良かったので、撮って、パソコンのデスクトップの背景にしたら、とてもリラックスできる感じになりました。

 ま、どうでもいい話ですけどね。



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