問題山積の新年ですが……

2022年01月08日 | コスモロジー
 年末・年始はゆっくりし、今日から本格的な仕事始めです(リモート土曜講座:「深い気づきのメソッド――六波羅蜜を学ぶ」)。
 サングラハ教育・心理研究所は、この1月18日で満30年になるのですが、コロナがなかなか収まらないので、特別な記念行事的なことは行なわず、当面これまでどおりのことをさらに続けていくことにしました。
 それにしても、仕事始めのご挨拶くらいは書いたほうがいいかなと思っていたら、以下の過去の記事(混迷状況も実体ではない:唯識のことば35、2017.3.06)を思い出しました。これはこのまま今の心境なので、再掲させていただきます。
                *
 どのようにして、さまざまな外的対象が目の前に現象するにもかかわらず、それが実体的な存在ではないと知るのか。……

 一には、差異のある識という相を知ることである。

 たとえば、餓鬼、蓄生、人間、天人は、同じ対象についても〔それぞれの〕認識作用〔の差異〕によって〔認識内容に〕差異があるのである。

                      (摂大乗論第二章より)


 「ものごとは心のあり方しだいで実にいろいろなふうに見える」というのが唯識の基本的な考えの一つです。

 それは、抽象的な話ではなく、例えばここのところ目立ってきた世界の混迷という「外的対象」についても当てはまると思われます(この文章を最初に書いた時点では「不況」でした)。

 混迷状況があまりにもありありと「目の前に現象」してきているので、私たちはそれが変化することのない実体的な存在・問題であるかのように考えがちです。

 そして考えれば考えるほど、不安になったり、気が重くなったり、暗くなったり、困ったり、つらくなったり、絶望したりしがちです。

 その場合、いちばんふつうの対処法は、「考えると暗くなるから、考えるのはよそう」と、なるべく気にしないようにして、何とか一日一日やり過ごすというやり方でしょう。

 それはそれで何とかなっている方には、まさにそれでいいのだと思います。

 しかし唯識を学んだ私たちには、「考え方を変えて、もっと明るくなる」という手もあります。試みてはどうでしょう。

 まず第一に、どんな外的対象も、つまり混迷でさえも、実体ではなく無常であり、どんなに長くても永遠には続きません。いつかは終わります。

 どんな困難にも必ず終わりがあるのです。

 それどころか「破壊・混沌の後に新しいより高度な秩序の創発」というのはコスモスの法則です。

 そう思うと、かなり気が楽になってきませんか。

 あわてて心を乱さないで、ゆっくり気長に終わりを待ちましょう。

 第二に、混迷もまた「状況」の一つで、いろいろな見方ができるものです。

 餓鬼には、水が燃え盛る膿の流れに見えるように、これまでの日本のそこそこ安定した生活の水準を絶対視すると、混迷はとても不安なピンチに見えるでしょう。

 畜生・魚にはそれが生きる場所のすべてに見えているように、今の状況がすべてだと思っていると、暗くて出口のないトンネルに入ろうとしているように思えるかもしれません。

 しかし人間には、水は下手をすると溺れるものですが、基本的にはいのちの糧であるように、理性・知恵を使って能動的に対応すれば、どんな状況も「ピンチはチャンス」と捉え直すことができます。

 例えば、「混迷は避けられない」という見方を「確かに一定期間のカオスは避けられない。でも、なるべく短期に終わらせて新しい秩序を創造する可能性はゼロではない」と変えると、「では、どうすればいいか」と知恵が働きはじめます。

 混迷の終わりを受動的に待つだけでなく、さらに混迷、というより混沌・カオスを新しいよりよい秩序に向かうチャンスに変える能動的な工夫を精一杯していきましょう。

 天人になると、水はその上を歩くことのできる透明で美しい床に見えるのでした。「天人」とはいわば「コスモス的人間」です。

 コスモス的な見方ができれば、カオス状態にも意味があり、それを一つのステップとしてしっかりと踏んで歩むことができる、ということになります。

 「そんなこと言ったって」という声が聞こえてきそうなので、もう一言。

 これまでどおりの安定・安心を過剰に求める見方にこだわって元気が出ないのと、見方を変えて少しでも元気を出すのと、どちらが混迷・カオスを乗りきる可能性が高まるでしょう。

 見方を選ぶのは、もちろん個々人の自由です。

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現代科学はどうニヒリズムを超えるか 4

2019年06月15日 | コスモロジー





 宇宙即神?


 以上1―3の記事で述べたポイントで、ニヒリズムの克服はほぼ完了したと言ってもいいのですが、あえて②の「神(精神的で絶対な存在)はいない」というポイントについても一言だけ付け加えておきます。

 かつて筆者のコスモロジーの授業を受けた学生たちが、レポートの感想に「宇宙ってまるで神みたいですね」といった言葉を書いてくることがよくありました。

 それに対して筆者は、「まるで……みたい」ではなく、「宇宙はそのまま神だと言ってもいいんじゃないかな」と答えたものです。

 エネルギーから物質を、物質から生命を、生命から心を、心からさらに覚り・霊性を創発し続けている「全体としての宇宙」は、キリスト教の「万物の創造主」である「神」とまるでそっくり――神話的表現を丸呑みにせず象徴的に解釈すれば――いや、そのままそうだと言ってもいい、と筆者は考えています。

 近代的理性・科学が殺した、というより見失った神=絶対なるものを、現代的理性・科学は復活させようとしている、というより再発見しようとしている、と思われます。

 (もちろん神学的・哲学的・宗教学的に言えば、より詳しく厳密にいろいろ論じることができるのですが、ここではそういう必要以上に複雑になりがちな専門的議論は避けておきたいと思います。)


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現代科学はどうニヒリズムを超えるか 3

2019年06月14日 | コスモロジー




 克服のポイント4――「心は脳の働きにすぎない」から「心は宇宙進化の最高段階」へ

 これまで述べた3つのポイントは、特にニヒリズムのポイント①と③b、③cを克服するものですが、さらに現代科学の重要な五つの学説すべてを総合的に捉えると、③a「人生の絶対的な意味はない」という考え方も克服されます。

 近代科学の視点からすると、「心は脳(という物質の複雑な組み合わせである器官)の働きにすぎない」ということになり、愛、感動、喜び、創造性……など人生に意味を感じさせてくれる心の働きも、きわめて複雑ではあるが所詮脳という物質の働きにすぎない、ということになります。

 ところが、現代科学のコスモロジーを自分のこととして「主客融合的解釈」をすると、まったく違って見えてきます。

 複雑度をものさしとして見ると、「脳は宇宙進化の最高段階」であり、しかも「宇宙は一三八億年かけて、脳をベースとしてより複雑な高次な心というものを創発させた」ということになるのです。

 「物とは何か」、「宇宙とは何か」、「心とは何か」、「人間とは何か」、「私とは何か」といった反省的な思考は、コンピューターにたとえると、いわば「ソフト」の働きであって、脳という「ハード」には還元できません。

 それは、名画がキャンバスや絵の具に還元できないのに似ています。作品は材料に還元できないより高次の創発的・創造的な存在です。

 そして、心もまた宇宙の外に出来た宇宙以外のものではなく宇宙が生み出した宇宙の一部というほかありません。

 では、私たち人間の意識的な心は何をやっているでしょうか。

 心という宇宙の一部のもっとも基本的でもっとも重要な働きは、それ以外の自然・宇宙を対象として認識することです。

その場合、心も宇宙、心以外も宇宙なので、つづめて言えば「心において宇宙が宇宙を認識している」ということになります。

 だとすれば、「脳-心は宇宙の自己認識器官である」ということになるのではないでしょうか。

 しかも、人間の脳-心は、認識機能だけでなく、進化の過程ですでに感情機能を獲得していますから、大自然・宇宙のさまざまな創造を見た時、クールに認識するだけでなく、そのすばらしさに感動するのです。

その場合も、感動される対象も感動している心も宇宙の一部ですから、つづめると、「宇宙が宇宙に感動している」ということになります。

 だとすれば、「脳-心は宇宙の自己感動器官である」ということにもなるのではないでしょうか。

 しかも、宇宙には自己組織化・複雑化という進化の方向があるのですから、偶然そうなったというより、宇宙は自己認識と自己感動に向って進化してきた、と結果論から言ったほうが妥当だと思われます。

 「宇宙はきわめて多様で複雑な組織を生み出し、その創造のすばらしさを認識し、それに感動することを目的として進化してきた」のではないかという推測も、ほとんどまちがいないくらいの確率で成り立つのではないか、と私は考えています。

 以下は『コスモロジーの心理学』(青土社)などで詳しく述べてきたことですが、ここでも簡略に繰り返しておきます。

 そもそも「意味」とは「意識的な心が肯定的に味わう体験」のことだと思われます。

 つまり、宇宙は意識的な心を生み出すことによって、宇宙の一部・人間の心で意味体験が起こるということを生み出したのです。

 それこそ、宇宙的・絶対的な意味(体験)の創発と言うことができるのではないでしょうか。

 こう考えると、ニヒリズムのポイントの③c「人生には絶対的な意味はない」も克服されます。

 宇宙の一部としての人間の心が認識し感動することにおいて、宇宙的・絶対的な意味が創発し続けているのですから。

 さらに言うと、宇宙はその一部であるゴータマ・ブッダなどの覚者の心において、「私は宇宙と一体である」、「私は宇宙である」という、いわば「宇宙の自己覚醒」に到っている、と筆者は捉えています。

 宇宙の一部であるブッダが宇宙と一体であると自覚したということは、つづめて言えば、「宇宙が自らが宇宙であることに目覚めた」ということです。

 「自分という存在は、宇宙の自己認識―自己感動器官であり、自己覚醒器官になる可能性も秘めている」と自覚したら、そこにはもはや空しさ・無意味感・ニヒリズムは存在しえない、と筆者には思えます。
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現代科学はどうニヒリズムを超えるか 2

2019年06月13日 | コスモロジー




 克服のポイント2――「死んだら終わり」から「生命は生き続ける」へ

 相対性理論と散逸構造論とビッグ・バン仮説と、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究・分子生物学などを総合して「生命」を考えると、

 「生命も複雑ではあるが物質の組み合わせにすぎず、死んだら元のばらばらの物質に解体して終わり、相対的意味もなくなる」ということではなく、

 「生命は宇宙の自己複雑化・自己進化の成果であり、確かに個体は死ぬが、それですべてが終わりではなく、DNAによって生命そのものは引き継がれ、生き続けている。

 地球上の生命は、誕生してから約4〇億年生き続けているし、今後も(当分、数十億年は)生き続けるだろう」ということになったのです。

 ある生物学者は、「バス、電車、新幹線、飛行機などなど、どんなに乗り物を乗り換えても乗客はおなじ人であるように、さまざまな個体という乗り物を乗り換えながら、おなじいのちが生き続けているのだ」という意味のことを言っています。

 しかも、宇宙エネルギー・レベルで見ると、個体・個人もまた、宇宙エネルギーから生まれ、今も宇宙エネルギーの一つのかたちとして生きており、死んでも宇宙エネルギーであるまま、あるいは「宇宙エネルギーの世界に還るだけ」なのですから、「死んだら終わり」ではなく「死んだら宇宙という故郷に還る」と言ってもいいのです。


 克服のポイント3――「生存闘争」から「エコ・システム―相互依存」へ

 ダーウィン以来――というより、スペンサーらの「社会ダーウィニズム」による過度の一般化の強い影響により――

 「生物の世界は、弱肉強食、優勝劣敗の生存闘争の世界であり、個体同士も種同士も基本的には敵であり、勝ったものが生き残り、負けたものは滅びていく。それは自然法則なので、当然というか仕方ないことだ。

 だから人間の世界でも生存闘争は仕方ないのだ」と考えが横行していました。

 これは、社会的には強い国が弱い国を征服・侵略・植民地化する「帝国主義」と個人的には「エゴイズム」の自己弁護の根拠とされてきました。

 しかし、ワトソンとクリック以来のDNA研究の積み重ねによって、「地球上のすべての生命のDNAはたった一匹の単細胞微生物に遡る」、つまり「すべての生命がある意味で一つの家族である」ことが明らかになりました。

 加えて、ヘッケルが「エコロジー」を提唱してから一〇〇年あまりの研究の積み重ねによって、

 「地球上では、非生命・環境とすべての生命(微生物と植物と動物)が一つのエコ・システム(生態系)を成している」ことが明らかになっています。

 確かに一見「弱肉強食」や「生存闘争」に見える現象はあるのですが、それを全体のシステムの中で見ると、「食物連鎖」つまり微生物と植物と動物(草食動物と肉食動物)の間に食べて―食べられて―食べて……という関係があることがわかり、「競争的共存・共存的競争」がなされており、一つのエコ・システムの中では「相互依存」の関係が成り立っていることが、反論の余地のないほど明らかになってきました。

 エコ・システムが宇宙の自己組織化の成果だとすると、エコ・システムを維持・発展させることが宇宙の進化の方向に沿っているという意味で「善」、汚染、破壊することが「悪」というエコロジカルな倫理が成り立ちます。

 それは、硬直した絶対性ではありませんが、宇宙の方向性というかなり柔軟な幅のある、しかしある意味で絶対――宇宙に相対(あいたい)するものはありませんから――的な倫理だといえるでしょう。

 にもかかわらず、日本も含む世界のリーダーたちの大多数がいまだに社会ダーウィニズム的な偏見を持ち続けているのは、驚くべきというか、あきれてしまうというか、はなはだ人迷惑というか人類迷惑なことです。

 そろそろ目を覚ましてもらうか、でなければ、目の覚めたリーダーに交代してほしいものです。

 さらにエコ・システムに限らず、人間の営むあらゆることに関して、「宇宙進化の方向に沿うことが『善』、進化の方向から逸れることが『悪』という、宇宙的という意味である種絶対的な倫理が成り立つ」と言っていいと思われます。

 これで、ニヒリズムの3b「(絶対的な)倫理もない」というポイントも決定的に克服されることになるのではないか、と筆者は考えています。
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現代科学はどうニヒリズムを超えるか 1

2019年06月12日 | コスモロジー

 現代科学のコスモロジーのどういうポイントがどういうふうにニヒリズム(+エゴイズム+快楽主義)を克服するのか、数回に分けて、簡単な解説を加えておきます。


 「ニヒリズム」の定義

 私のいう「ニヒリズム」のポイントは、以下のとおりです。

 これは、ニーチェからも西谷啓治先生からもフランクルからも大きな示唆を受けてきましたが、必ずしも同じではありません。

 もっとも基本的なのは「1.すべては物質にすぎない」という考え方(物質還元主義)です。

 そこから必然的に「2.精神的で絶対な存在という意味での「神」はいない」ということになります。

 すると、すべては物質で、精神的で絶対的なものはないのですから、「3a.人生の絶対的な意味はない」ということなります。

 さらに恐るべきことは、その時代、その社会で通用している相対的な倫理はあっても、「3b.絶対的な倫理もない」という結論に到ることです。

 もう一つなんとも空しいのは、「3c. 死んだらすべては物質に解体して終わり」ということになり、ばらばらの物質は残るにしても、意味としては「無になる」という結論です。

 こうした「いない」「ない」「無」がラテン語の「ニヒル」にあたり、〔物質以外〕すべては無・空しいという考え方を「ニヒリズム」というわけです。

 すべてが空しいという考え方を突き詰めて考えてしまうと、そのプロセスで心身を病み、さらに突き詰めると自殺するしかなくなります。

 そうならないためには、絶対ではなくてもとりあえずある相対的で主観的な「自分の楽しみ」、パスカルの言う「気晴らし」を追求して生きるしかなくなります。

 そして絶対なもの・いちばん価値あるものはありませんから、自分(たち)がいちばん価値がある・いちばん大事と考えておくしかなくなります。そうした「自分・エゴがいちばん大事」という考え方を「エゴイズム」と呼びます。

 一言コメントしておくと、思想用語としての「エゴイズム」は、身勝手で自己中心的な考えや言動のことではなく、自分を超えた絶対的な大いなるものは存在せず、「自分・エゴがいちばん大事」という考えを指しています。

 また、自分を超えた絶対なものはないので、すべての価値の基準は自分と自分が価値があると思うこと・楽しみになっていきます。それを「快楽主義」というのでした。

 ニヒリズムは、とことん徹底してしまえば自殺に、かなり突き詰めると身心を病むことになり、そうなるのを避けるにはエゴイズムと快楽主義しかないということに到ります。

 しかし、「人間は所詮エゴと快楽を支えに生きるしかない」と考えるのはつらいので、多くの人は自分だけでなく自分たち、快楽と言わないで生きがいや幸福と置き換えることで、そのあたりをぼやかしながら――しかもぼやかしているという自覚はなく――なんとか生き延びているのではないか、と筆者には見えます。


 克服のポイント1――「ばらばらの物質」から「一体のエネルギー」へ

 それに対してきわめて幸いなことに、まず何よりもアインシュタインの相対性理論が、「すべてはばらばらの物質(にすぎない)」という近代科学の基礎的なドグマ(教条化した考え)を「すべては一つの宇宙エネルギー」というふうに、完全に克服というか止揚(含んで超える)してしまいました。

 そして、プリゴジーヌの散逸構造論=物質の自己組織化能力の理論によって、「宇宙における物質の運動は基本的に偶然的・アトランダムなもので意味や目標はない」という近代科学のもう一つのドグマも克服され、「全体としての宇宙には自己組織化・自己複雑化という進化の方向性がある」ということになりました。

 ガモフの「ビッグ・バン仮説」以来、宇宙はたった一点に凝縮していたエネルギーが広がったもので、広がり方のゆらぎ・ムラがさまざまな現象を生み出しているが、宇宙の現象のすべてはエネルギー・レベルで見ると依然として一体である、ということになりました。これでますます「すべてはばらばらの物質の寄せ集め」という近代科学的なドグマが克服されることになったのです。

 *長くなりますので、以下、続けて掲載していきたいと思います。
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現代科学はニヒリズムを超える

2019年06月11日 | コスモロジー

 *以下は2012年7月に書いた記事の修正・再掲です。もう7年も経ってしまいましたが、改めて今こそ読んでいただきたいと思い再掲することにしました。


 これまで繰り返し、当ブログや著書(『生きる自信の心理学』PHP、電子版、『コスモロジーの心理学』青土社など)で、現代の日本人の多くが感じている空しさや生きづらさの根っこはニヒリズムにある、と述べてきました。

 そして、近代科学のコスモロジーは突き詰めると必ずニヒリズムに到るが、現代科学のコスモロジーを体系的に、しかも自分のこととして学ぶと、必然的にニヒリズムは超えられる、と言ってきました。

 そのポイントをわかりやすくまとめるために、以下のような表を作ってみました。










 どういうポイントがどういうふうにニヒリズムを超えることになるのか、続けて解説をしていきます。ご期待ください。


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倫理性の崩壊が深刻化していると思う

2018年09月22日 | コスモロジー

 かつて、日本人の精神性の崩壊について書きました 1) 2) 3) 4) 5)。

 精神性・倫理性の崩壊はますます進んでいる・きわめて深刻化していると思わざるをえないことがまた起きました。

 文部科学省の次官他の汚職―辞任の事件です。

 「毎日のニュースを見聞きしていると、日本の上に立つ人たちの多くが、品性のないことをするだけでなく、法律を犯しているという事件がしきりに起こっています。昨日の新聞記事もそうでした。/これでは、「十七条憲法」の精神と真っ逆さま、あまりにも美しくない国ではありませんか。」と書いたのは2007年1月でした。

 またかと言えばまたかですが、文部科学省の次官他というのが、深刻化していると思わされます。

 彼らこそ、日本の子どもたちに倫理を教えるための規準と模範を示すもっとも責任ある立場にある大人たちだったはずです。

 こういう事件を見聞きしていると、日本人の倫理性が、頂上から麓まで崩壊しつつあるのではないか、と深く憂慮せざるをえません。

 改めて、聖徳太子『十七条憲法』、特に第四条の精神とはみごとに真っ逆さまだと思わされます。

 「第四条 もろもろの貴族・官吏は、礼法を根本とせよ。そもそも民を治める根本は礼法にあるからである。上に礼法がなければ、下も秩序が調わない。下に礼法がなければ、かならず犯罪が起こる。こういうわけで、もろもろの官吏に礼法がある時は、社会秩序は乱れない。もろもろの民に礼法がある時は、国家はおのずから治まるのである。」

 そこに書いたコメントも再録しておきます。

 「集団の重要な地位にある人は、法を守ることは当然ですが、まずそれに先立つモラルやエチケットつまり「礼法」を守って、人間としてのいい生き方の模範を示す責任がある、というのです。

 人々を治める――これはもちろん支配・搾取・抑圧するという意味ではなく、穏やかに秩序を保って平和に幸福に暮らせるようにするという意味です――には、根本的に生き方の模範を示すことが必要なのです。

 上に立つ人が、エチケット、モラル、さらには法にまで違反するようでは、下の人々がちゃんとするはずがありません。

 上に立つ人のモラルが乱れていれば、下々は犯罪さえ犯すようになるのです。

 しかし上に立つ人が、法律遵守することは当然、それ以上に品格のある行動をして模範を示せば、人々も「ちゃんとした人間はああいうふうに生きるものなのだ」と、それに倣って秩序を守るようになる、というのです。

 そして人々がエチケットやモラルをちゃんと守るようになれば、まして法律を犯すようなことはなく、強制しなくても自然に国が平和になっていくのだ、と太子は言っています。

 まさにそのとおり、話としては当たり前の話ではないでしょうか。

 しかし、毎日のニュースを見聞きしていると、日本の上に立つ人たちの多くが、品性のないことをするだけでなく、法律を犯しているという事件がしきりに起こっています。昨日の新聞記事もそうでした。

 これでは、「十七条憲法」の精神と真っ逆さま、あまりにも美しくない国ではありませんか。

 一日も早く、第四条の当たり前の話・理念が、同時に当たり前の事・現実であるような国になってほしいものです、いや、したいものです、ぜひそうしましょう。

 そう思われませんか。」

 右傾化ではない日本人の精神性の再建・再構築(レコンストラクション)が切実に求められていると思われます。

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なぜコスモロジーセラピーか

2018年01月08日 | コスモロジー

 昨年秋、研究所のオリジナルなプログラムである「コスモス・セラピー」を「コスモロジーセラピー」と改称しました。

 「コスモス・セラピー」という呼称で知られてきつつある状況なのになぜ? と思った関係者もおられたようでなので、以下簡単に説明をしておきます。

 それは、「人間は言葉(ロゴス)を使って生きる生き物である。したがって、人間が健全に生きるためには健全なコスモロジー(コスモス+ロゴス、宇宙観・世界観)が必要であるし、人間の心の根本的癒しには不健全なコスモロジーを健全なコスモロジーに変換することが必須である。要するにポイントは、コスモス・宇宙そのものというより、その捉え方つまりコスモロジーなのだ」という基本的な考え方が、私の中ではっきりしてきたことを表現したいと思ったからです。

 ついでになぜ「・」なしかというと、例えばフランクルのロゴセラピーはいわば固有の商標であるため表記が「ロゴ・セラピー」ではなく「ロゴセラピー」であるのとおなじように、「コスモロジーセラピー」もオリジナルなプログラムであるという自己主張です。

 より説明的にすれば単に「コスモロジーセラピー」ではなく「つながりコスモロジーセラピー」、さらに詳しく説明すれば「つながり・重なり・一体性コスモロジーセラピー」となるでしょうが、さすがにそれは長すぎるので「コスモロジーセラピー」にとどめました。

 私や私たち(もっとも広く言えば人類、さらには生命全体)が全体(whole)としての宇宙とつながっていて、究極のところ一体であること、さらに宇宙は重層的に自己複雑化・進化を続けていて、私たちはいわばその最前線にあることが、浅い意識的な知識にとどまらず、深層のコスモロジーになった時、私たちの心は根源的に癒され(heal)、健全(health)になる、というのがコスモロジーセラピーの基本的作業仮説であり、それはこれまで報告してきたとおり1)2)3) 実践の中で実証されてきたと考えています(残念ながらまだ純粋な第三者による検証はなされていませんが、何人ものセラピスト、精神科医、教育者による実践の成果の報告はいただいています)。

 できるだけ多くの人と共有したいと願って、コスモス・セラピーの文章化できる内容についてはかなりの部分を下記の著作とこのブログで公開してきましたが、単に知識的ではなく体験的なセラピーであるという要素が大きく、最終的にはやはり実際にワークショップに参加していただくほかありませんでした。

 コスモロジーセラピーについても、今後、公開できる部分は公開していくつもりですが、参加して体験していただくしかないという面はますます大きくなっています。

 今月から、東京でも高松でも講座を行ないます。関心を持っていただけた方は、どうぞ参加して、体験してみてください。

 *問合せ・申込みは、samgraha@smgrh.gr.jp へどうぞ。


生きる自信の心理学―コスモス・セラピー入門 (PHP新書)
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PHP研究所



コスモロジーの心理学 コスモス・セラピーの思想と実践
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来年はコスモロジー的ポジティブシンキングの年にしたい!

2017年12月31日 | コスモロジー

 身辺の用事に取り紛れ、なかなか記事を更新できませんでしたが、今年最後の記事を書いておきたいと思います。 

 タイトルどおり、「来年はコスモロジー的ポジティブシンキングの年にしたい!」と思っています。

 メンタル・タフネス(心の強さ)とポジティブシンキング(積極的思考)は大きく重なっています。ポジティブシンキングができるようになると、メンタルがタフになります。

 しかし、日本ではポジティブシンキングと能天気な楽天主義が混同されている傾向がありますので、ピールがはっきり、きっぱり、誤解を正した文章を引用しておきます。


 ポジティブシンキング(積極的思考)はどんな時にでも効果があるのか? 答えは「イエス」である。それがかなり大胆な言い方だということはわかっている。

 当然、次のような反論が予想できる。「本当にそうだろうか。私には問題がありすぎる。ポジティブシンキングについて読んでみたが、依然として行きづまったままだ」。

 また、次のように言う人もいるかもしれない。「私の仕事は行きづまっている。ポジティブシンキングをやってみたが、仕事はいまだに行きづまっている。ポジティブシンキングは事実を何も変えていない。破産はそのままだ。そのことを否定するとしたら、君は砂の中に頭を突っ込むバカなダチョウみたいなものだ」。

 よくあることだが、人々はポジティブシンキングの本質を本当には理解していないのだ。ポジティブシンキングをする人は、ネガティブなことがあると認めるのを否定するのではない。ただ、ネガティブなことをいつまでも考えているのを否定するだけなのだ。

 ポジティブシンキングとは、習慣として最悪の事態から最善の成果を探し求めるというかたちの考え方である。事態がよくないように見えても、建設的な何かを探すことはできるし、自分で最善のことを期待することはできる。そして注目すべきことは、いいことを探し求めれば、おそらくまちがいなくそれを見出すだろうということだ。

 積極的なものを探し求めるというのは、熟考されたプロセスであるし、さらにいえば選択の問題なのだ。

  (ビンセント・ピール『積極的思考の驚くべき結果』ダイヤモンド社、5~6頁、ただし全面的改訳)

 
 やってきつつある新しい年を前にして、一見破壊に見える出来事をとおして次々に新しいより複雑な秩序を産み出してきた・これからも産み出していく宇宙のポジティブな進化の働きに合わせて、私たちもよりよい新しい、よりよいものを創り出していきたい、いくぞ! と思いを新たにしています。

 来年もよろしくおつきあいのほど、お願いいたします。


 *「コスモロジー的ポジティブシンキング」とは何か? これまでサングラハ教育・心理研究所に関わってきてくださったみなさんには、ある程度おわかりだと思いますが、改めて来年、初心者の方にも伝わるように、徐々に記事を書いていきたいと思っています。ご期待ください。




 
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ポジティブシンキングとコスモロジー心理学

2017年12月05日 | コスモロジー

 ひさしぶりに、アメリカのポジティブシンキングの元祖の一人であるノーマン・ヴィンセント・ピールの本を読んでいます。

 今、国の内外とも、現象だけをしかもある角度だけから見ていると悲観的・否定的になってもしかたのないような状態にあるので、ここでものごとのポジティブな見方を再確認―復習しておくといいと思ったからです。

 例えば『積極的考え方の原理』(ダイヤモンド社、残念ながら品切れ中)の冒頭で、ピールは次のように述べていました。


 人間には、自分が想像し、心に描くような人物になる傾向が強い。また、われわれには、自分を高く評価するか、さもなくば卑下するという傾向がある。だから、自らの可能性に制限をつけるか、あるいは無限に成長するか、これは自分が決めることになるのである。

 消極的考え方の人は、最後には自分で自分をダメにしてしまう。いつも消極的に考えてばかりいるから、自分の回りの世界を開拓する上でも、どうしても消極的になってしまう。引力の法則というものがあって、似た者同士が引っ張り合うのだ。類は友を呼ぶということわざもある。同じ考え方をする人が自然に集まるのである。消極的考え方の人はマイナスの考えを送り出すものだから、マイナスの結果しか戻ってこない。これは絶対不変の心の法則である

 逆に積極的考え方の人は、希望、楽観主義、創造性という生きいきした心のイメージとともに積極的な考え方を送り出す。そのため、自分の回りを積極的に、そして力強く開拓し、プラスの結果を引きつけてしまう。これもまた、心の働きの基本的な法則である。

 しかし、消極的考え方の人も、これまで持ち続けてきた消極的考え方を改めることによって、劇的に生まれ変わることができる。有名な哲学者で心理学者のウィリアム・ジェイムズがいっているように、「現代の最大の発見は、人間はその心の持ち方を変えることによって人生を変えることができるということ」なのである。

 積極的原理とは、精神を入れ替えることによって、自己制約の考え方から自己改善の考え方へ、墜落から成長へ、失敗から成功へと変わっていく生きいきとした精神活動のプロセスのことである。……

 積極的考え方の人は、困難を直視する。たじろがず、逃げ出さない。……積極的考え方の人は、どんな困難にも、それ自体に解決の糸口があること知っている。かれはまた、神の助けによって、さらに彼自身に固有の力を発揮することによって、いかなる問題をも処理し、解決することができることを知っている。……積極的考えの人は、困難にであっても、感情に走ることがない。興奮したり、感情が高ぶっているときは、人間の頭脳はベストの働きをしないことを知っているからである。積極的考え方の人は、頭が冷たいぐらいにひえており、また心のコントロールが強い時にだけ、感情的でなく、合理的で知的な考え方を生み出し、それによって健全で実行可能な解決策への道を進むことができることを知っている。……

 もちろんバランスを保つためには、消極性も必要であるというのも、真実である。自然の構造の中にも、正反対のものがある。そして、考え方の世界では、消極性は二者択一の考えの中で重要な働きをするものだ。がしかし、それが考え方の主流を占めると、バランスが崩れて 消極性が前面に出てくるようになる。

 消極的原理には否定しかない。積極的原理は創造する。消極的原理は懐疑を生む。積極的原理は信頼を生む。消極的原理は敗北を認める。積極的原理は勝利を目指して前進する。


 なかなか元気の出てくる言葉です。

 ただピールは、ニューソートと呼ばれるキリスト教の一派の牧師であり、神の存在と神への信仰を前提あるいは根拠にしてあらゆる問題にポジティブに対処しうる方法を語っているため、科学主義的無神論が染みついた現代の日本人にはそのまま受け入れるのが難しいからか、最近はあまり読まれなくなったようで、かつてはかなりの数があった翻訳本のうち、主著の『積極的考え方の力』(ダイヤモンド社)以外は品切または絶版になっているようです。

 しかし読み返しながら、「神」という言葉を「(物質的外面だけでなく精神的内面も含んだ全体としての)宇宙」と読み換えれば、そのまま今の日本人にもきわめて有効なものだと思いました。

 もっとも「宇宙」が物質的外面だけで出来ているという近代科学主義的な宇宙観・コスモロジーで教育=洗脳されてきた戦後の日本人が、ポジティブシンキングを本格的に活かすためには、現代科学の宇宙観・コスモロジーの、しかも主客融合的解釈を身に付けなおすというもうひと手間が必要かもしれません。

 コスモロジー心理学は、現代科学のコスモロジーの主客合一的解釈によって、心を癒し成長させることができるだけでなく、またポジティブシンキングを本格的に有効活用するベースになる考え方でもあるな、と改めて感じています。

 実際にどういうふうに活用すればいいか、そのうち実例も書きたいと思っていますので、ご期待ください。



【新訳】積極的考え方の力
ダイヤモンド社



コスモロジーの心理学 コスモス・セラピーの思想と実践
/
青土社


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「死にたい」と「死ぬのが怖い」は同根

2017年11月12日 | コスモロジー

 ここのところ、「死ぬのが怖い」という新聞の人生相談の投書を読み、「死にたい」と思っている若い女性たちがだまされて殺されたという事件のニュースを聞きながら、「一見まったく逆のように見える2つのことの根っこは実はおなじなのだから、そこから取り組んでこそ根っこからの、つまり根本的な解決に到ることができるのだがな……」と思っています。

 それは、現われた感情は逆でもその元・根っこになっている「死」の観念はまったくおなじだということです。

 今、日本人の多くは「死」をすべての終わりあるいは無になることと考えているように見えます。

 死がすべての終わりあるいは無になることだとすると、現状の生・生活がそれなりに楽しくて一定の愛着・執着があれば、それを失いたくないので、当然、「死にたくない」「死ぬのが怖い」ということになります。

 しかし、現状の生・生活が耐えられないくらい苦しいと感じられると、すべてが終わる=苦しみも終わる=楽になれると思うので、「死にたい」という気持ちになるわけです。

 しかし、ほんとうに「死はすべての終わり・無になること」なのでしょうか?

 確かに個人のことだけを考えると、死はすべての終わりのように見えます。

 しかし、「いのち」というものは先祖から子孫へと続いているもので、現代科学によればおそらく地球上での生命の誕生以来38億年か40億年前から続いています。

 ある生物学者の譬えによれば、ある乗客が自転車からバスへ、そして電車に、さらに飛行機へ……と乗り換えていく場合、乗り物は換わっても乗る人はずっとおなじであるように、いのちは個体を乗り換えながら40億年生き続けている、ということになるのだそうです。

 私という個体は、いのちを前の世代から受け継ぎ次の世代へとバトンタッチしていく存在なのです(私個人が子どもに恵まれなかったり産まなかったとしても、前の世代やその前の世代から枝分かれしていのちは続いていきます)。

 死は、個体にとって終わりであっても、いのちにとっては自然な引き継ぎのプロセスであって、終わりではありません。

 ところが、戦後教育で近代的個人主義を教え込まれたため、現代の日本人は、若ければ若いほど、自分を自分・個人だけで考え、連続するいのちの鎖の一つとは捉えないようです。

 しかし、「個体は死んでもいのちは終わらない」のです。

 だとしたら、個人の生きて死ぬ理由は、自分だけが幸福・楽しいか不幸・苦しいかだけにあるのではなく、自分の代でいのちをより豊かにしてそれを次の世代につなげることができるかどうかにある、そちらのほうがより重要なのではないか、と私は考えます。

 さらに、戦後教育ですべてを物質と捉える近代科学主義を教え込まれたため、現代の日本人の多くは、物質の複雑なメカニズムである生命体・私は、死んだらばらばらの物質(原子や分子)に解体して終わりであり、物質は残るが、それは意味としては無意味なので、「無になる」と考えているようです。

 しかし、アインシュタイン以降の現代科学の眼で見れば、「すべては物質」であるのはあるレベルのことであって、もっと掘り下げると「すべては宇宙エネルギー」しかも「すべては一つの宇宙エネルギーの現われ」ということになるようです。

 生も死も、宇宙エネルギーのある時の現われ・かたちなのです。

 そういう意味で言えば、個人は死んだら宇宙エネルギーの世界に帰るのであって、無になるのではありませんし、なによりもいのちは生き続けるのです。

 こうしたことがしっかりとわかり、心に染みてくると、少しつらいくらいですぐ死にたいと思ったり、自然なプロセスとしてやがて来る死を過剰に怖れたりすることがなくなるのは、すでにご紹介したコスモロジー教育の効果からして明らかだ、と私は自己評価していますが、読者はどうお考えになるでしょう。

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死にたくなくなるセラピー

2017年11月10日 | コスモロジー

 ここのところ毎日のように、「死にたい」と思っていた若い女性とその関係者あわせて9人をだまして殺したという神奈川県座間市の事件が報道されています。

 事件の残虐さ、容疑者――報道によれば犯行を認めているとのことなので「犯人」と言っても差し支えないでしょうが――の極端なエゴイストぶり、異常な心理については言うまでもありません。

しかし、ここで改めて指摘したいのは、死にたいと思っている若者がそんなにも多いという事実、それに対して適切かつ十分な社会的対応が取られていないのではないかという疑問です。

 それに関わって言えば、コスモロジーセラピー(旧称コスモス・セラピー、教育場面ではコスモロジー教育)は、一言で言えば、「死にたくなくなるセラピー」です。もっと言えば、「死にたい」から「生きます!」への大逆転セラピーです。

 それは、以下のエピソードとコスモロジー教育の授業を受講した学生の感想(かつて紹介したものですが、現時点で意味があると思うので、改めて掲載します。了承は得てあります)を読んでいただけば、わかっていただけると思います。


 「典型的なエピソードをあげると、初めて大学に毎週講義に行くようになった年、数回の授業が終わった後、やや幼い顔をした女子学生が、その顔に似合わない本気で深刻な表情で質問に来て、
 「先生、私は、考えれば考えるほど死にたくなるんですが、友達に相談したら、『バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめろ』と言われました。やっぱり考えないほうがいいんでしょうか?」
と言うのです(その後、次第にわかってきたことですが、彼女のような死にたくなる若者、心を病んでいる若者が驚くほど多数いるのです。統計を見ると大人もです)。
 そこで筆者は、こう答えました。
 「戦後、ぼくたちやきみたちが学校で教わってきたことを元にして考えると、考えれば考えるほど死にたくなるんだけど、これから、考えれば考えるほど死にたくなくなる、それどころか生きたくなる考え方を伝えるから、あわてて死にたがらないで、がんばって授業に出ておいで」と。
 するとその後、彼女はがんばって続けて授業に出てきて真剣に聞いている様子で、回を重ねるにつれて目が輝いてくる様子なので、そっとして深追いはしないで前期末まで待ってから、
 「どう、まだ死にたい?」と聞きました。
 すると、彼女はニコリと微笑んで、
 「だいぶ死にたくなくなりました」と答えてくれたのです。
 そして、さらに学年末にはすっかり元気になっていきました。」(拙著『コスモロジーの心理学』(青土社、「まえがき」より)。


 以下の感想は大学2年の女子学生のものです。

 〔授業の要約部分省略〕
 先生が授業でおっしゃっていた、「人間は水素と炭素と酸素とちっ素と少しの何か」でできていると聴いたときは、正直言って、「人間を原子つまりモノのように言っているなんて……」と否定的な気持ちになってしまいましたが、私たちが生きている世界、また宇宙も原子からできていて、私たちは「星の子」と聴いたときは、胸から何かがこみ上げてきました。
 宇宙カレンダーを見たときは、人間は、自然の力でできたのだなと思い、いのちのでかさを感じさせられました。
 仏教も、いのちの大切さを教えてくれるけど、私は正直言って、現代科学の説明をして下さった先生の授業のほうが現実的で、よりいのちの大切さを学ぶことができました。
 ニヒリズムの塊であった私を先生はハンマーで砕いてくれました。現代科学は、仏教では説明しきれない、いのちの大切さを教えられる気がしました。
 だから、先生は仏教心理論なのに現代科学の話をしたのではないかと私は思いました。
 また、私は過去または今でもたまに自殺したいと思ってしまう時があります。それは、高校の時少しいじめられたことや、所詮、人間は、エゴイズムでしかない。そういう考えからです。
 でも、私が今、こうして元気に生きていられるのは、お母さん、お父さん、ご先祖様、そして、宇宙の歴史なのです。私のつらさなんか、米粒くらいのことでしょう。ご先祖様たちが今までつらいこともあった中で、子孫に継いでいた中の1人が私なのです。良く言えば、私は宇宙の歴史の中の代表者なのです。これは、今生きている人間全員に言えることです。
 こんな大切ないのちを捨てるわけにはいきません。私は生きます!……
 ありがとうございました。私は変わります。


 こうした若い世代の気持ちが「死にたい」から「生きます!」に変わることを教育現場で体験してきましたので、単に個人の自己宣伝ということではなく、日本社会全体のために、ぜひコスモロジーセラピー=コスモロジー教育が広がることを切望しています。

 関心を持っていただけた方、ぜひコスモロジーセラピーの講座にお出かけください。そして、体験して納得できたら、拡げることにご協力ください(今年は、あと2回、11月18日、12月16日、東京神田の会場で。問合せは samgraha@smgrh.gr.jp へ)。


 
コスモロジーの心理学 コスモス・セラピーの思想と実践
クリエーター情報なし
青土社

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コスモロジー心理学の効果2

2017年11月09日 | コスモロジー

 この10月からコスモス・セラピーのヴァージョンアップ版を「コスモロジー・セラピー」と改称することにし、東京で入門講座を開始しています。

 第1回は終わっていますが、テキストを読んでいただけば、第2回(11月18日)からの参加も可能ですし、効果も期待していただけると思います。ご希望の方は samgraha@smgrh.gr.jp 宛にお問い合わせください。

 それにちなんで、これまでのコスモス・セラピー=コスモロジー教育の効果について、感想やアンケート調査の結果などをまとめておくことにしました。

 長くなったので、1,2と分割して掲載します。


 「唯識心理学の教育的・セラピー的効果」2011年02月08日

 「若者の心にヒューマニズム復活の兆し?」2011年10月21日

 「2011年度授業の成果 1」2012年05月06日

 「2011年度授業の成果 2」2012年05月06日

 「授業への感想 第1回」2012年05月14日

 「民主主義とエゴイズム」2012年07月11日

 「レポート感想:中2の自分に聞かせてやりたかった!」2012年07月23日

 「病院に行くより先にコスモロジーを」2012年08月08日

 「ピンチを支えるコスモロジー:3つのケース」2012年08月10日

 「人生の質、癒しの始まり、そして定着:学生の報告から」2012年08月12日

 「敗戦、心の闇、いのちの鎖」2012年08月16日

 「震災-津波体験を超えて」2012年08月17日

 「心のガンを取る薬」2012年08月19日

 「変化への不安や抵抗」2012年08月20日

 「自殺を考えている人にかける言葉が見つかった!」2012年08月21日

 「私たちが生きるこの場所も宇宙、私たちも宇宙」2012年08月22日

 「みんな星の子・宇宙の子」2012年08月23日

 「コスモス・セラピーというメソッドの確立」2012年08月24日

 「ばらばらからつながりへのパラダイム転換」2012年08月26日

 「認識のパラダイム-コスモロジーの転換」2012年08月27日

 「コスモロジー授業へのQ&A 2012-1」2012年08月29日

 「なぜ、中枢で仕事をしないのか?:Q&A2012-2」2012年08月31日



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コスモロジー心理学の効果1

2017年11月07日 | コスモロジー

 この10月からコスモス・セラピーのヴァージョンアップ版を「コスモロジー・セラピー」と改称することにし、東京で入門講座を開始しています(なぜ改称したかについては、文末参照)。
 第1回は終わっていますが、テキストを読んでいただけば、第2回(11月18日)からの参加も可能ですし、効果も期待していただけると思います。ご希望の方は samgraha@smgrh.gr.jp 宛にお問い合わせください。

 それにちなんで、これまでのコスモス・セラピー=コスモロジー教育の効果について、感想やアンケート調査の結果などをまとめておくことにしました(手間と時間がかなり必要で一挙にはできませんので、少しずつ更新していきます)。


 「教師の勲章」2005年10月22日
 「学生たちの変化」2005年11月3日
 「若者には縁起がわかる」2005年12月6日
 「レポートの採点開始」2005年12月27日
 「授業の成果」2006年1月11日
 「唯識を学ぶと」2006年1月25日
 「リトル・ボサツの創発」2006年01月27日
 「唯識は希望を生み出す魔法の言葉」2006年01月28日
 「仏教を楽しむ」2006年01月30日
 「宇宙カレンダーの授業の感想」2006年06月20日
 「つながってこそいのち、つなげてこそいのち」2006年07月03日
 「コスモロジー教育の効果、改めて実証」2006年07月20日
 「コスモロジー教育で心はすっきり晴れやかに」2006年07月28日
 「非日常体験」2006年08月04日
 「コスモロジーを伝えても元気にはならない?」2006年08月19日
 「最終授業1」2006年12月19日
 「最終授業2:授業効果」2006年12月22日
 「最終授業3:授業効果2」2006年12月23日
 「目の前がパァッと明るくなるのを感じた」2007年06月24日
 「うつが完治したケース」2007年07月05日
 「授業効果――質か量かの悩み」2007年07月20日
 「環境・エコロジー教育とコスモロジー教育」2007年07月21日
 「コスモロジーへの典型的な反応 1」2007年07月22日
 「コスモロジーへの典型的な反応 2」2007年07月23日
 「コスモロジーへの典型的な反応 3」2007年07月25日
 「「命の授業」:うれしい報告」2007年10月05日
 「今年ももらった〈教師の勲章〉」2008年01月18日
 「仏教の有効性は未だ色褪せていない!」2008年01月23日
 「平和と調和の国・実現への希望と意欲」2008年01月24日
 「命の重さを知ることができました」2008年02月03日
 「コスモロジーへの反応-途中経過」2008年06月06日
 「コスモロジーは綺麗事?」2008年06月27日
 「いのちの大切さが伝わる授業」2008年07月06日
 「私は生きます! 私は変わります。」2008年07月19日
 「この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか」2008年07月20日
 「宇宙が怖くなくなりました」2008年07月29日
 「人生を投げ出さないためのコスモロジー」2009年02月04日
 「一刻も早く現代人になることが必要だ」2009年02月09日
 「コスモス・セラピー ’09前期授業の成果1」2009年07月26日
 「コスモス・セラピー ’09前期授業の成果2」2009年07月28日
 「教育の愉しみ?」2010年01月29日
 「コスモロジーの肯定的変容1」2010年02月08日
 「コスモロジーの肯定的変容2」2010年02月09日
 「新学期が始まります」2010年04月13日
 「自由自在に宇宙の働きの一部になる」2010年12月29日
 「皆なんだかんだでこの授業が好き?」2010年12月30日
 「自分の世界が開けていく」2011年01月02日
 「つながりあって生きていくことができる」2011年01月03日
 「ひねくれた私の態度を変えた」2011年01月04日
 「手をつながなくても僕らは1つ」2011年01月05日
 「死に対する恐怖や悲しさは無くなった」2011年01月06日


 ●以後、さらに更新していきます。


  なぜ、コスモロジー・セラピーか

 「これまでは、コスモス・セラピー、唯識心理学、論理療法、ロゴセラピー、アドラー心理学、フランクル心理学などなどをそれぞれ別々の講座のかたちでお伝えしてきましたが、今後はそれらを統合したかたちを新たに「コスモロジー心理学」(セラピーとして行う場合は「コスモロジー・セラピー」、教育としては「コスモロジー教育」)と呼び、まさに統合的なプログラムを行なっていきたいと考えています。

 コスモロジー・セラピー=コスモロジー教育は、講義(トーク)と実習(ワーク)と対話(ダイアローグ)を通じて、クライアントの生き方のいわばOSになっている深層のコスモロジーをばらばらコスモロジーからつながり・一体性のコスモロジーに変容させること、そのことによって自我の確立・再確立、自己実現、自己超越という人間成長のプロセスを総合的・統合的に促進することを目指しています。

 そこで、特に講義(トーク)について言えば、参加者・クライアント・聴衆に、①新しい科学的知識を伝え、②それだけでなくさらにそれに対する新しい解釈・主客融合的解釈を伝え、③それによって感動を誘発し、④その積み重ね・繰り返しによって深層記憶に定着させ(熏習)、⑤深層のコスモロジーを近代科学主義的でニヒリズムに到るようなものから現代科学的でニヒリズムを超えるものへと変容させる(転識得智)ことを目標とします。」


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「死んだら終わり」から「生命は生き続ける」へ

2017年10月31日 | コスモロジー

 前回の記事「死の怖れとコスモロジー教育」にたくさんの読者がアクセスしてくれました。
 
 有難うございました。

 リンクしておいた関連記事まで読んでくださった方も少なくなかったようなので、読み返しながら、さらに他の関連記事も再録したりリンクしたりしておくともっといいと思い、以下、再録とリンクをします。

 続けて読んで参考にしていただけると幸いです。

 前の記事で「戦後教育を真に受けたら当然こうなる」と書きました。

 それについてくわしくは

 「死んだらどうなると思っていますか?」(2005年08月20日)
 「近代化の徹底とニヒリズム」(2005年08月30日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 1(2005年09月02日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2(2005年09月03日)
 「現代科学のコスモロジー:そのアウトライン」(2005年10月9日)

などを参照していただきたいのですが、

 ともかく「いろいろな事情があって、日本の戦後教育では『近代科学』の大まかな成果は学校で教えられるのですが、『現代科学』の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられてい」ないのが大問題なのです。

 「近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な姿を捉える努力をしてきました。…/それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。
 そして第2の問題点は…そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということです。
 個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。
 「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」ということになります。
 世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉と呼んでいます。
 近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント)がある、というのが私の見方です。」

 しかし現代科学のコスモロジーからは、以下のようなことが言えるのです。 

 「相対性理論と散逸構造論とビッグ・バン仮説と、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究・分子生物学などを総合して「生命」を考えると、

 「生命も複雑ではあるが物質の組み合わせにすぎず、死んだら元のばらばらの物質に解体して終わり、相対的意味もなくなる」ということではなく、

 「生命は宇宙の自己複雑化・自己進化の成果であり、確かに個体は死ぬが、それですべてが終わりではなく、DNAによって生命そのものは引き継がれ、生き続けている。

 地球上の生命は、誕生してから約4〇億年生き続けているし、今後も(当分、数十億年は)生き続けるだろう」ということになったのです。

 しかも、宇宙エネルギー・レベルで見ると、個体・個人もまた、宇宙エネルギーから生まれ、今も宇宙エネルギーの一つのかたちとして生きており、死んでも宇宙エネルギーであるまま、あるいは「宇宙エネルギーの世界に還るだけ」と言ってもいいのですから、「死んだら終わり」ではないのです。」


 よりくわしくは

 「現代科学のコスモロジー:ポイントの整理表」(2012年07月13日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 1」(2012年07月26日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 2」(2012年07月27日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 3」(2012年07月28日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 4」(2012年07月29日 )

などをお読みください。

 きっと、過度な死の怖れの緩和、空しさからの脱出、つまりニヒリズムの克服の確かな手掛かりにしていただけると思います。

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