天武天皇と『仁王般若経』

2020年02月26日 | 歴史教育

 

 話を天武天皇に戻します。

 『日本書紀』によれば天武天皇は、天武五年(六七六)、『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』と『金光明経(こんこうみょうきょう』を諸国で講読させ、天武十四年(六八五)、宮中で『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』を講読させています。

 どれもが般若経系統の経典ですから、それはつまり天武は、理解度はどうであれ、ともかく般若経系統の経典を重んじたということです。

 まず『仁王般若経』の内容と天武天皇との関わりについて考えていきましょう。

 『仁王般若経』は、略して『仁王経』、詳しくは『仏説仁王般若波羅蜜経』あるいは『仁王問般若波羅蜜経』といい、四種類の漢訳があり二種類が現存していますが、古代日本では、鳩摩羅什訳がもっとも用いられました。

 「仁王」とは、民への仁・慈しみの心のある帝王という意味で、十六の国(釈尊当時のインドの主な国)の王たちが仏陀に徳のある王になって国を護るにはどうしたらいいかを質問して答えていただいた経というのが経題の意味です。

 中国で書かれた偽経ではないかという説もありますが、中国・朝鮮・日本では早い時期から、『金光明経』『法華経』と並んで「護国三部経」として尊重され、「仁王会(にんのうえ)」が開かれて盛んに講読されました。

 目次をあげると、序品(じょほん)第一、観空品(かんくうほん)第二、菩薩教化品(ぼさつきょうけほん)第三、二諦品(にたいほん)第四、護国品(ごこくほん)第五、散華品(さんげほん)第六、受持品(じゅじほん)第七、 嘱累品(しょくるいほん)第八の八巻・八章からなっています。

 以下、その内容のポイントを述べていきます。

 

 「序品」に「大いなる覚者世尊は、先にすでに私たち弟子たちのために、二十九年間、摩訶般若波羅蜜、金剛般若波羅蜜、天王問般若波羅、光讃般若波羅蜜を説いてくださっている。今日、如来は大光明を放って何事をしようとされるのだろう」とあるとおり、自ら般若経典群のなかでは後期のものであり、これまでの般若経典でまだ論じられていないこと――徳ある王となって国を護るにはどうあるべきか――があるからさらに語るのだと主張しています。

 

 そして、「観空品」では、仏陀は十六の国の王たちが「国土を護るための因縁(直接・間接の原因)」を問いたがっていることを見抜いたうえで、「その前にまず菩薩たちが、仏という結果を護る因縁と、菩薩の十段階を護る因縁を説く。よくよく聴いて、理解し、真理に沿った修行をするように」と答え、空について説いています。

 つまり、王が王として国土を護りたいのなら、菩薩としての修行をしなければならない、ということです。

 

 続いて、「菩薩教化品」では、すべての存在は縁によって成り立っており、仮に衆生を成り立たせている。自らがそうした空であり幻のような存在であることを覚った菩薩が、空であり幻のような存在である衆生を教化するのだ、説かれています。

 

 さらに、「二諦品」では、プラセナジット(波斯匿)王に対して、「大王よ、菩薩大士は、最高の真理において常に真の理解と世俗の理解を明らかに把握しながら、衆生を教化するのである。仏と衆生は一体であって二ではない。なぜならば、衆生は空であるので菩薩の空に同置することができ、菩薩は空であるので衆生の空に同置することができるからである」と説いており、仏と菩薩と衆生の一体平等性・一如がはっきりと語られています。

 

 そして「護国の経典」とされる元になったと思われる「護国品」では、驚くべきことに、「天地でさえ滅ぶのだから、どうして国が永遠で頼りになるものでありえよう」と国の無常・空が説かれ、しかもそのことを説いたこの経を尊重し唱えたり、講義をさせたりすることが、かえって国・国土を護ることになる、と説いています。

 

 それは、国に関しても、実体視して執着することによって過剰な欲望が生じ、それがすべての争い・災いの元になるのであり、まず菩薩として指導者が実体視―執着―貪欲を離れ、すべてが空・縁起・無自性・無常・無我・一如であることを学び覚って慈悲行を行ない、人々をもそのように教え導くことによってこそ、国が平和になり治まっていくのだ、という意味だと解釈していいでしょう。

 

 次の「散華品」では、一切が空・一如であることを壮大なヴィジョンで語っていて、『華厳経』に似ています。

 「その時、十六の大国の王は、仏が十万億の詩句をもって般若波羅蜜を説かれるのを聞き、限りなく歓喜した。そこで、十万億の花を撒いたところ、虚空のなかで変化して一つの座になった。全宇宙の仏たちが共にこの座に坐って般若波羅蜜を説かれた。無数の人々も共に一座に坐り、金色の花をもって釈迦牟尼仏の上に撒くと、万輪の花になって人々を覆い、また八万四千の般若波羅蜜の花を撒くと、虚空のなかで変化して白い雲の台になった。……その時、仏は王のために五つの不思議な神秘的現象を現わされた。一つの花を無数の花に入れ、無数の花を一つの花に入れ、一つの仏国土を無数の仏国土に入れ、無数の仏国土を一つの仏国土に入れ、 無数の仏国土を一つの毛穴にある国土に入れ、一つの毛穴の国土を無数の毛穴の国土に入れ、無数のシュメール山と無数の大海をケシ粒のなかに入れ、一人の仏の体を無数の衆生の体に入れ、無数の衆生の体を一つの仏の体に入れ、六道の体に入れ、地・水・火・空の体に入れられた。仏の体も不可思議であり、衆生の体も不可思議であり、世界も不可思議である。……」

 

 「受持品」では、プラセナジット王が仏陀に「般若波羅蜜は説くことができず、理解することもできず、〔ふつうの〕意識では認識もできないものです。善き男子たち(修行者)は、どうすればこの経典を明瞭に覚り、真理に沿って一切の衆生のために空の教えへの道を開けばいいのでしょうか」と問い、仏陀がいろいろな修行の仕方を説いた後で、「私が涅槃に入った後、真理の教えが滅びようとする時に当たって、この般若波羅蜜を受け保ち、大いに仏のことを行ないなさい。一切の国土が安全であり、すべての人々が幸福であれるのは、みな般若波羅蜜による。そこで、〔この経典を〕もろもろの国王に委託し、僧や尼僧、男信徒・女信徒には委託しないことにする。なぜかというと、王のような力がないからである。王のような力がないので、委託しない。あなたが、受け保ち、読誦し、この経典の教えを理解するように。……世界の国々に七つの災難があるだろう。すべての国王は、それらの災難があっても、般若波羅蜜を講読するならば、 七つの災難は滅し、七つの福が生じ、すべての人々は安楽になり、帝王は喜ぶだろう。……」 と困難な時代の到来の予言とそれへの対処の仕方を語っています。

 

 天武天皇との関係で特に重要なのが次の個所です。

 

 「大王よ、私が五つの眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)で過去・現在・未来の三つの世を明らかに見るところ、 一切の国王はみな過去に五百の仏に仕えることによって、帝王の主になることができるのである。それゆえに、一切の聖人・羅漢は、その国にやって来て大きな利益を与えるのである。もし王の福(徳)が尽きてしまった時になれば、一切の聖人はみな捨て去るだろう。もし一切の聖人が去った時には、七つの災難が必ず起こるだろう。大王よ、もし未来の世にもろもろの国王がいて三宝を護持するならば、私は五つの大きな力をもった菩薩を往かせて、その国を護らせるだろう。……」

 

 最後の「嘱累品第八」では、「仏の入滅後八十年、八百年、八千年に、三宝を信じるものがいなくなる時が来るだろう。その時にこそ『仁王般若経』を国王に託すが、経に説かれるとおりにしなければ、七つの難が生じ、民は苦しみ、正法は滅し、国も滅亡するだろう」という「破仏破国」の警告がなされています。

 

 さて、そうした内容のある『仁王般若経』(そして他の般若系統の経典)を、天武は、訳もわからず呪術的に有難がっただけなのでしょうか、それともわかって尊重したのでしょうか。

 天武は、そもそも推古天皇・聖徳太子-舒明天皇-天智天皇から律令国家の構想を引き継ぎ、律令を制定させ、『古事記』『日本書紀』の編纂を命じていますから、どう見てもただ粗野で無教養な武人ではなく、非常な教養人でもあったことが確実に推測できます。

 さらにいえば、当時の公文書や上流階級の教養の元になる文書はすべて漢文で書かれたものですから、天武は漢文が読めたはずで、だとしたら、経典の漢文だけは読めない・読まないということはほとんどありえないのではないでしょうか。

 そして、『仁王経』を重んじて、諸国で講読させたということは、自分も僧たちの講読・講義を聞いたことがあるはずですし、当然自分でも読んで理解できたはずで、読みもせず訳もわからず呪術的に「護国の経典」として信仰したのではなく、読んで、少なくともかなりの程度まで理解したうえで重んじたのだと解釈するほうが妥当ではないか、と筆者には思われます。

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大乗の菩薩は仏国土建設を目指す

2020年02月24日 | 歴史教育

 大乗の菩薩は、智慧と慈悲が一つであるという原点からスタートして、慈悲の実践の具体的内容として「諸誓願」を立てます。 

 『大般若経』「初分願行品第五十一」ではなんと三十一もの菩薩の誓願が挙げられています。

 それらの誓願はすべて仏国土の建設を目指すものであり、仏国土で実現されるべきことが具体的に述べられています。

 戦前の国家神道と政治の癒着・「祭政一致」がもたらした惨害に対する批判・反省・反動として「宗教・信仰は自由であるが、個人の内面のことにとどめるべきである」「宗教は政治に関わるべきではない」という考え方が戦後の常識になっています。

 しかし、それが適切かどうかは別にして、実際、般若経典のテキストは「菩薩(つまり宗教者)は積極的に仏国土建設(つまり政治)に関わるべきだ」と主張している、と筆者には読めます。

 なかでも特に重要だと思うものを筆者の訳でいくつかご紹介します。

 

 1.布施成就衣食資生充足の願

 スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の衆生もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕かぎりなく接近(隣近・りんごん)するのである。

 

  「仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて……我が仏国土の中には……我が仏国土中の衆生……」という言葉は、具体的な仏国土建設を目指すという目標設定としか読めないのではないでしょうか。

 しかも「私は渾身の努力をし身命を顧みず」とあるように、全力で命がけで仏国土建設を目指すというのです。

 そしてその内容は、現代的に言えば貧困が完全に克服された「福祉国家」の政策です。

 さらに、その福祉国家は「友愛社会」でなければならないとされています。聖徳太子風に「和の国」と言ってもいいでしょう。

 

 2.浄戒成就諸善善報具足の願

 また次に、スブーティよ、菩薩大士が持戒波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が煩悩が盛んで、さらに殺し合い、与えられていないものを盗り、邪なセックスをし、ウソをつき、荒々しい言葉を使い、裏表のあることを言い、汚い言葉を使い、さまざまな貪り・怒り・まちがった考えを起こし、それが因縁となって寿命が短く病が多く、顔色は衰えきって元気がなく、生活の糧が乏しく、下賎な家に生まれ、からだ・かたち・ふるまいが汚く臭く、いろいろなことを言っても人に信用されず、言葉が乱暴なために友達が離れてしまい、およそ言うことすべてが下品で、ケチ、欲張り、嫉妬、まちがったものの見方があまりにひどく、正しい教えを非難し、賢人・聖者を攻撃するのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって彼らをもろもろの悪業とその報いから離れさせてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず持戒波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした悪業をなすこととその報いを受けるようなもろもろの有情がおらず、すべての有情が十善戒を行ない、長寿などのすばらしい果報を受けられるようにしよう」と。

 

 3.忍辱成就慈悲具足の願

 ……菩薩大士が忍辱波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が互に怒り憤りののしり侮辱しあい、刀や棒や瓦や石や拳やハンマーなどで互に傷つけあい、殺しあうに到ってもひたすらやめようともしないのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはこうした煩悩・悪業まみれの有情がおらず、一切の有情がお互いを見るのが父のよう、母のよう、兄のよう、弟のよう、姉のよう、妹のよう、男のよう、女のよう、友のよう、親のようであって、慈悲の心を向けあいお互いに利益を与えあうようにしよう」と。……

 

 初めて読んだ時に驚いたのは、次の第十二願、第十三願、第十五願です。

 

 12.無四種色類貴賎差別の願

 ……菩薩大士が……もろもろの有情に四種類の貴賎の差別、すなわち一にクシャトリア、二にバラモン、三にヴァイシャ、四にスードラがあることを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすれば巧みな手立てによってもろもろの有情を救いとってこのような四種類の貴賎の差別がないようにしてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず六波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこのような四種類の貴賎の差別がなく、一切の有情が同じ階級であってみな尊い人間という生存形態に含まれるようにしよう」と。……

 

 13.無上中下家族差別の願

 ……菩薩大士が……もろもろの有情の家族に下流・中流・上流の差別があるのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏の国土の中にはこのような下流・中流・上流の家族の差別がなく、一切の有情がみな金色に輝いて美しく人々が見たいと思うような最高に充実した清らかな様子になるようにしよう」と。……

 

 15.無主宰得自在の願

 ……菩薩大士が……もろもろの有情が君主に隷属しておりいろいろしたいことがあっても自由にならないのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……私の仏の国土の中のもろもろの有情には君主がなくいろいろしたいことはみな自由であるようにしよう。ただし、如来・真に正しい覚った方があって真理の教えのシステムで〔有情を〕包み込むのは法王であって例外である」。……

 

 これはまるで、階級差別の否定、貧富の格差の否定、独裁的支配の否定つまり民主的自由が、菩薩の建設する仏国土の具体的内容として示されている、ということではないでしょうか。

 これだけ挙げただけでも、先に述べた、「②『仏教の根本精神が個人の魂の救いを得る』ことだという理解は、大乗仏教・般若経典の思想の理解不足・誤解であること」を文献的証拠に基づいてはっきりさせることができたのではないかと思います。

 話が少し先に跳びますが、聖武天皇が、天平十三年(七四一)、全国に国分寺・国分尼寺を造営させる詔のなかで、すべての寺にこうした誓願が書かれている『大般若経』を揃えるよう命じています。

 天武天皇と同様あるいはさらに教養豊かな知識人であったと思われる聖武天皇が、『大般若経』の内容については、読まず・理解しないまま、単に自分の権力を護るための呪術として尊んだと解釈することは可能・妥当なのでしょうか。

 最後に、誤解されたくないので何度でも繰り返しますが、こうした考察が当たっているかどうかの評価は参加者のみなさんにお任せするとして、筆者の意図としては右でも左でも中道でもなくそれぞれの妥当な部分を統合して、「生きる自信」の3つのレベルの1つ、社会的・集団的アイデンティティの核となる日本人としての正当で妥当なアイデンティティを確立するための試みです。

 

 

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大乗の菩薩は自利利他を目指す

2020年02月23日 | 歴史教育

 般若経典、広く言えば大乗仏教のエッセンスは「智慧(=般若)と慈悲」にある、と筆者は捉えています。

 もちろん単なる筆者の解釈ではなく、経典に典拠があります。それをもっとも端的に表現しているのが次の、『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)の句でしょう。 

 スブーティよ、菩薩・大士は二つのことを成し遂げるので、悪魔も〔それらを〕破壊することはできない。何を二つのことと言うか。一切の存在が空であることを洞察することと、一切の生きとし生けるものを捨てないということである。スブーティよ、菩薩はこの二つのことを成し遂げるので、悪魔も破壊することはできない。

 須菩提、菩薩摩訶薩は二法を成就すれば、魔、壊すこと能はず。何等か二なる。一切法空なるを観ずると、一切衆生を捨てざるとなり。須菩提、菩薩は此の二法を成 就すれば、魔、壊すこと能はざるなり。(度空品第六十五)

 「一切法空なるを観ず」が智慧=般若、「一切衆生を捨てざる」が慈悲に当たります。この二つのことを究極的には一つのこととして実践するのが、菩薩・大士です。

 「菩薩」とはボーディサットヴァ・菩提=覚りを求める人という意味であり、「大士」とはマハーサットヴァ、自分だけの覚りではなくすべての人の覚り・救いを求める志の大きな人という意味です。

 智慧を得て(菩提=覚り)苦しみの生存の廻り(輪廻)から解放され(解脱)、究極の安らぎ(涅槃)に到ることは自分の利益・自利です。

 そして生きとし生けるものすべてをも、覚り、苦しみからの解放、究極の安らぎに到らせたいと思い行動することは利他です。

 その両方を同時に一つのこととして追求する「自利・利他」が大乗の修行者・菩薩の目指すところです。「自利利他円満」「自利利他一如」という言葉で表現されます。

 大乗仏教は、そういう自分だけでなくすべての人と共に覚り・救いを求めていく大きな乗り物である菩薩・大士の仏教なのです。

 単に「個人の魂の救いを得る」ことを求めるのは、目的ではないどころか、むしろ小乗として批判・否定されています。

 つまり、前に挙げた井上清氏家永三郎氏など多くの近代主義的・進歩主義的な戦後知識人の理解(あえて言えば誤解)と異なり、大乗仏教は個人の内面のことも問題にしてはいますが、それだけを問題にしているのではない、と筆者には思われます。

 『八千頌般若経』の中に、智慧と慈悲に関して非常に要領よく述べた言葉があります。(中公文庫『大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ』、一七六―七頁)

  ……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士 は最高の難行の行者である。それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかない からである。彼には「私あらゆる有情を解放しなければならない」という性質の諸誓願があるのである。

 菩薩・大士は、空・如を追求します。とことん追求し空・如と一体化してしまうと、あとはもうやらなければならないことは何もなくなり、解脱・涅槃に入るだけということになってしまいそうのですが、その手前のところで「いや、解脱・涅槃はやめよう。慈悲で行こう」と。空の覚りを、その手前ギリギリまで徹底的に目指す。しかし最後の最後のところで、入りきってしまわず戻ってくる。だから最高の難行といわれるわけです。

 「有情」は、サンスクリット語で「サットヴァ」といい、「衆生」とも訳されます。「誓って必ずこれを実現しよう」という願いを誓願といいますが、まさにその諸々の誓願に生きるのが菩薩・大士あるいは菩薩・摩訶薩なのです。

 これは日本の思想一般における「志に生きる」という言葉と言い換えてもいいと思います。

 しかしその内容は非常に明確で、一切衆生・生きとし生けるものすべてを救おうという大きな志があって、そのためにはあれもしようこれもしよう、できるあらゆる手段を尽くそう、というのです。

 長くなるので、次の記事にしようと思いますが、そのあらゆる手段のなかには「仏国土の建設」も含まれていて、単に個人の内面・魂の救いだけがテーマになっているのではないことは明確だと思われます。

 

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古代日本仏教への否定的見解:家永三郎氏の場合

2020年02月11日 | 歴史教育

 かつて、進歩的知識人の代表のような印象のあった歴史学者家永三郎氏の古代仏教への否定的見解は、若い頃、筆者も大きな影響を受けたものの一つです。

 以下、長めの引用の結論部分を先にあげておきます。

 「「鎮護国家」とは、具体的には、奴隷制的支配を内容とする律令支配機構を呪術的に「護持」するという意味であり、一切の身分階級を否定し、すべての人間がみな成仏できるという確信から出発した仏教の本来の立場を完全に裏切るスローガンとされても弁解の余地がない」というのです。徹底的な酷評です。

 「律令制」はひたすら奴隷制的支配なのか、呪術は近代人にとってはともかく古代の日本人にとっても、否定的意味しかなかったのか、「護国」という言葉がはっきりある『仁王般若経』や『金光明経』は仏教の経典であるにもかかわらず、「仏教本来の立場を完全に裏切るスローガン」を掲げていると言えるのか、それらの主張には根本的に疑問、というより反論のあるところです。

 仏教の本来の立場を完全に裏切る飛鳥・白鳳・天平の仏教が、世界に誇りうる日本文化の粋ともいうべきすばらしい仏教芸術を生み出したのはなぜか、家永氏は「今日まだ学問的に完全な解答のなされていない歴史の秘密に属している」、つまりナゾだと言っていますが(『日本文化史 第二版』岩波新書、一九八二年、七〇頁)、偽りの思想が怪我の功名で美しいものを生み出すなどということがありうるのでしょうか。筆者はありえないと考えます。

 そうした反論を、まず、15日の東京土曜講座で、詳しく述べるつもりです。

 後日、本ブログでも一定程度書くつもりですが、できるだけ多くの積極的関心のある方に、ぜひ講座に参加して、ご一緒に考えていただきたいと思います。

 それは、日本人のアイデンティティの確立を可能にする、右-左の対立を超えた普遍性のある基礎があるのかないのか、という問題に関わるからです。

 

 「仏教が百済から伝来したときに、日本人はこれを「異国の神」として理解した。今日でも仏教徒と称する多数の日本人のしていることがそうであるように、六、七世紀の日本人は、仏教を呪術として受けとったのである。その点で民族宗教の機能と本質的にかわるところがあったとは思われない。

 現に仏教が輸入されてから後も、民族宗教との間に信仰の衝突をひき起した形跡がないばかりか、七、八世紀の記録をみると、たとえば病気の平癒とか天災地変の消除とかの祈願が、神社と寺院とに双頭的にささげられている例がすこぶる多いのであって、神社信仰と仏教信仰とは平行してなんら他をさまたげていない事実が確かめられるのである。

 ということは、現世の禍福を呪術の力をもって処理しようと望む呪術的欲求が共通の主体となって、それが一方で神社への祈願、他方で仏寺への祈願となってあらわれるにすぎなかったためであり、要するに、仏教が民族宗教と本質的にかわらない呪術的儀礼として受けとられていたからであった。

 仏教は最初は蘇我氏ら豪族の間で私的に信仰せられるにとどまったが、大化の改新の前後のころから、朝廷から公的な信仰を受けることとなり、舒明天皇はその皇居とならべて百済大寺を造り、天武天皇は百済大寺を移して大官大寺の造営をはじめ、また薬師寺を建て、さらに諸国に命じて公の行事として金光明経を読諦させるなど、政府が仏教興隆のために全力をそそぐにいたった。

 朝廷の仏教興隆政策は、聖武天皇のときに絶頂に達し、七四一(天平十三)年には国ごとに金光明最勝王護国之寺すなわち国分寺を建立することを命じ、ついで平城京に五尺三寸の盧舎那大仏の造営をはじめ、これを本尊とする壮大な東大寺を建立し、天皇みずから大仏の前にひれふして「三宝の奴」と称するなど、熱狂の域にいたっているのである。

 このような朝廷の積極的な仏教信仰が、律令国家の安寧を呪術的に保障しようとする要求に出たものであることは、もっぱら護国の功徳を説いた金光明経(およびその新訳の金光明最勝王経)がもっとも尊重された一事をみても明らかである。この時代における朝廷の仏教興隆への異様なまでの熱情は、まったく「鎮護国家」の期待を仏教にかけた結果にほかならなかった。

 したがって、病気の平癒その他の個人的な祈願も付随的に生じていないわけでもなかったけれど、仏教本来の使命である正覚(正しい悟りをひらくこと)の道は顧慮せられるところがなかったのである。

 長い間、国家権力に卑屈な態度をとってきた後世の教団は、あたかも「鎮護国家」を日本仏教の誇るべき特色であるかのごとく説いていたけれど、「鎮護国家」などということは、個人が正道を修めて成仏することを教えの根本とする仏教の教義とはまったく縁のない、権力への迎合以外の何ものでもなかったことを知らねばならない。

 ましてその「鎮護」せらるべき「国家」とは、「ミカド」と訓読せられているところからも察せられるように、もっぱら政治権力の掌握者としての君主またはその政府を指していたのであるから、「鎮護国家」とは、具体的には、奴隷制的支配を内容とする律令支配機構を呪術的に「護持」するという意味であり、一切の身分階級を否定し、すべての人間がみな成仏できるという確信から出発した仏教の本来の立場を完全に裏切るスローガンとされても弁解の余地がないのである。」

    (『日本文化史 第二版』五四-五六頁、読みやすくするために筆者が改行を加えた。)

 

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東京土曜講座: 天武天皇と『仁王般若経』

2020年02月08日 | 歴史教育

 

 来週15日の東京土曜講座の内容について、少し詳しくお知らせし、ご参加をお誘いしたいと思います。

 

 古代日本の天皇と仏教:従来の左翼進歩派的評価への反論

 戦後から一九七〇年前後まで、日本の言論界の主流はソ連型社会主義・共産主義を目指すべき社会的正義のモデルとする左翼進歩派だったと思われます。そして一九八九年の東欧の共産党政権の崩壊、一九九一年十二月のソ連の崩壊によって、もはや完全に主流ではなくなっていますが、まだ名残りは残っているようです。

 筆者は、かつてそうした左翼進歩派の歴史学者の日本史の見方(あえて言えば偏見)に大きく影響を受けてしまいました(あえていえば洗脳)。代表的な言葉を引用しておきます。

 「仏教は、聖徳太子の後も、歴代の朝廷から、ますます厚く保護された。……これほど朝廷から保護された仏教は、もっぱら『国家鎮護』すなわち天皇制の安泰を祈ることを使命とするもので、個人が戒律をまもり正しい道をおさめて、悟りをひらき魂の救いを得るという仏教の根本精神からは、まったくはなれたものであった。またこの仏教は民衆の信仰とも関係がなく、僧侶が民衆の間に仏教を説くことや、民衆が寺に参るのはゆるされないことも、以前と同じであった。」(井上清『日本の歴史 上』八四頁、一九六三年、岩波新書、強調は筆者)

 ここでは、国家=朝廷=天皇制=悪、民衆=善という左翼史観の図式による古代仏教への否定的評価がなされています。

 そして、「仏教の根本精神」は「個人が魂の救いを得る」ことであり、個々人としての民衆の信仰=魂の救いにならなかった・しなかった国家仏教は、左翼史観からはもちろん、仏教として見てもダメだという評価がなされています。

 こうした古代仏教への否定的評価は、いまでもかなり多くの日本史の本や論文に見られるものです。

 それに対して筆者は、これまで『日本書紀』や唯識や般若経典そのものの内容を学ぶことによって、

 ①「『国家鎮護』すなわち天皇制の安泰を祈ること」という評価は事の半分しか見ていないこと、

 ②「仏教の根本精神が個人の魂の救いを得る」ことだという理解は、大乗仏教・般若経典の思想の理解不足・誤解であること、

 ③仏教・唯識の「支配者であれ民衆であれ人はみな無明に捉えられた八識の凡夫であって煩悩だらけである」という洞察からすると、国家・支配者=悪、民衆・人民=善(したがって人民の味方である共産党とその指導者の独裁=絶対的善)という図式的人間観は、あまりに単純かつ無効・有害だと思われること、

という三点について、古代日本とそのリーダーたちに関するネガティヴな偏見を克服することができたと考えています。

 今回は、天武天皇と聖武天皇に関わって、主に①と②について述べていきたいと思いますが、第一回2月15日(土)は、まず天武天皇と『仁王般若経』について考察していきます。

 誤解を避けるために最後に一言コメントしておくと、こうしたアプローチは、成功しているかどうかの評価は参加者のみなさんにお任せするとして、筆者の意図としては右でも左でも中道でもなくそれぞれの妥当な部分を統合する試みです。

 ぜひ、日本人のアイデンティティの確立・再確立について関心のある多くの方に参加していただき、ご一緒に考えていただければと願っています。

 

*お問合せ・お申込みは、研究所HPのフォームからどうぞ。

 

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右も左も違うのではないか、『十七条憲法』理解

2018年11月26日 | 歴史教育

 聖徳太子『十七条憲法』について、10月29日の衆議院本会議で自民党の稲田朋美氏が発言し、11月4日の毎日新聞に批判的な記事が掲載されていました(稲田氏の発言の動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=k0UDVczATxo)。

 日本人の安定したアイデンティティを再確立するうえで『十七条憲法』は決定的に重要だ、と筆者は考えていますので、一言コメントをしておくといいと思いながら、研究所の会報誌『サングラハ』の原稿と講座の準備に追われて遅くなりました。

 結論を先に言えば、きわめて残念ながら保守派もリベラルも日本の精神的伝統(遺すべき・遺るべき側面)について、私とは見方が違うということです。

 私の学びえた範囲では、『十七条憲法』を含め日本の精神的伝統には遺して活かすべき部分と、歴史的記念物としてのみ遺すべき部分と、きっぱり捨て去るべき部分が混在していると思われます。

 それについては「赤ん坊と汚れたタライの水の譬え」がわかりやすいかもしれません。

 つまり、保守派は汚れた水と赤ん坊を一緒にタライに残しておこうとしており、リベラルは汚れた水と一緒に赤ん坊を流してしまおうとしている、ように私には見えます。

 そして、どちらも適切ではないと思います。

 赤ちゃんがどんなに大切でも、垢やウンチで汚れた水は捨てる必要があります。
 しかし、汚れた水と一緒に肝心の赤ん坊を流してしまったのでは、すべては意味がなくなります。

 では、何が赤ちゃんで何が汚れた水かが問題ですが、話が長くなりそうなので、先に以下毎日新聞の記事を転載・文字起こししておきます。

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  和を以て貴し……/天皇の命令は必ず
  1400年前 民主主義?

 稲田朋美.自民党筆頭副幹事長が10月29日の衆院本会議で、聖徳太子=写真=の十七条憲法から「和をもって貴しとなす」を引用して「民主主義の基本は日本古来の伝統」などと主張した。しかし、1400年前の日本に民主主義という考え方はあったのか。歴史をひもとくと、矛盾が浮かび上がる。【大村健一、佐藤丈一、小国綾子】

 稲田氏は安倍晋三首相の所信表明に対する各党代表質問の冒頭で次のように訴えた。「『和をもって貴しとなす』という、多様な意見の尊重と、徹底した議論による決定という民主主義の基本は、我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません」
 しかし、保立道久・元東京大史料編纂所所長(名誉教授)によれば、民主主義が世界で曲がりなりにも現実化したのは「20世紀の普通選挙の実施以降」という。「民主主義とは、平等で自由な個人が出自や職業などの相違を超えて宗教・思想などを含むすべての尊厳と自由を行使すること。前近代の世界に存在しなかったことは言うまでもありません」
 十七条憲法に国民主権や基本的人権の保障の規定はない。1条の「和をもって……」の後3条には「詔を承りては必ず謹め」(天皇の命令は必ず謹んで従うこと)と、民主主義とは椙いれない表現がある。
 8条には「役人は朝早く役所に出勤し、夕方は遅く退出せよ」、16条には「人民を使役するには時期を選ぶように」との趣旨の規定もある。
 東野治之・奈良大、大阪大名誉教授(日本古代史)によると、十七条憲法は「冠位十二階」と密接に関連しているという。同憲法ができる前年の603(推古11)年に創設された冠位十二階は、朝廷の役人たちを働きぶりで評価し、冠の色で識別する制度。憲法は役人の心構えを示し、勤務を励ます意味があつたと解釈できるという。
東野氏は「1条は朝廷で『和を尊ぶ』と理解できる。全体を見れば分かるが、庶民に向けた内容ではなく、現在の民主主義と結びつけるのは妥当ではない」と話す。
 江戸の商人や町人の美徳として語られる「江戸しぐさ」が、実は1980年代の創作だったことを明らかにした在野の歴史研究家、原田実さんは「稲田議員の主張は、今の保守層が『江戸しぐさ』を例にして、現代的なマナーや思いやりが『実は日本に昔から…あった』と主張したがるのとそっくり」と指摘する。「聖徳太子に民主主義の基本を求めるのは、これまでにないほどずさんな意見だと思う。『昔からあった』と主張するよりも、むしろ今の民主主義を誇れるものにすればいいでしょうに」

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 さて、どうコメントしようかと考えているうちに、2013年『ファム・ポリティク』という雑誌に掲載していただいた原稿に言いたいことをほぼすべて書いてあることを思い出したので、以下、現時点でのわずかな修正・追補を加えて、再掲することにしました。

   「日本という国について」

 混迷する日本

 今、日本には、経済、財政、福祉、環境などの各分野で問題が山積しており、そのどれを取っても対症治療的に対処して短期間で解決のめどがつくとは思えない。

 では、中長期にわたって、どう対応すれば真に解決の方向に向かえるのか、何を目指せばいいのか、与党にも野党にも方向指示のできる理念とビジョンはないように思える。
 そういう意味で日本のリーダーたちは方向性を見失っている、と私には見える(もちろん、ご当人たちは見失っているとは思っていないのだろうが)。
 そういう意味で日本という国は、混迷のただなかにあるのではないだろうか。

 そうしたなかで、そもそも日本という「国」は何を目指してきたのか、原点あるいは出発点と到達目標、そういう意味での「国家理想」はどこにあったのかを見なおしてみたい。

 未来のために過去を振り返る

 その場合、筆者は、予め伝統というだけで価値があると信じがちな保守派・右の姿勢も、逆に伝統であればすべて否定しがちな進歩派・左の姿勢も採らない。

 そうではなく、伝統のなかにほんとうに未来に向かって引き継ぐべき普遍的に価値あるものがあるのかないのかを確かめ、あるのならば意識的に引き継ぐという姿勢を採っている。
 モットー風に表現すれば、「未来に向かうために過去を振り返る」という姿勢である。

 与えられた頁数が少ないので、本稿では確かめてきた作業について述べることは省略し、確かめた結果について、以下できるだけ簡潔に述べたいと思う。

 日本初の憲法

 「日本」という国名が決まり、日本という「国」が確立したのは、ほぼ天武天皇の時代だと考えてまちがいないだろう。

 そして注目しておくべきなのは、まさにこの時代に、中国にならって正式の国史である『古事記』と『日本書紀』が撰述されていることである。

 好むと好まざるとにかかわらず、つまり自分の立場が右であろうと左であろうと、この二つの文献はまちがいなく日本の初と二番目の「国史」である(*より厳密に言えば、『日本書紀』が『六国史』という官製・正式の国史の一番目である)。

 さらに注目しておくべきことは、この二書はどちらも天武天皇の意思によって編纂されたことである。
 天武は、すでに『古事記』が出来ていたにもかかわらず『日本書紀』を編纂させたのである。
 それは、天武が国史として『古事記』だけでは不十分だと考えたことの状況証拠だと見てまちがいないだろう。

 では、天武以下、持統、文武、元正、元明――および特にいわば最終的な編集長としての藤原不比等――が、『古事記』に不足していると思い『日本書紀』で補足したものは、いったい何だったのか。

 論証の細部をすべて省いて私見を述べれば、もっとも重要な補足は、日本という国の理想のリーダー像としての「聖徳太子」(これはいうまでもなく後の時代に贈られた尊称で在世当時は厩戸皇子と呼ばれている)と、日本の国家理想としての『十七条憲法』だったのではないだろうか。

 『古事記』では、厩戸皇子は名前が記されているだけで、その伝記的物語や『十七条憲法』は採録されていない。
 それに対し『日本書紀』では、全体の叙述とのバランスからいえば異例といっていいくらい詳しく聖徳太子の事績が語られ、『十七条憲法』は全文採録されている。
 それは偶然ではなく、編纂を命じた天武以下、持統、文武、元正、元明と最終的な編集長としての不比等の合意に基づく意図的なものであった、と考えるのが自然だろう。

 ここで一言コメントをしておくと、筆者は今日本史の学界では聖徳太子不在説が盛んであり、さらに『日本書紀』全体が天武というより不比等の意図によるほとんど全面的な創作であるという説があることも承知している。

 しかしそうした説の当否にかかわらず、筆者にとって――おそらく日本人全体にとっても――重要なことは『日本書紀』は日本の最初の正式な国史であり、しかも『古事記』にない事績が採録されており、その中に『十七条憲法』全文が含まれているということである。

 『憲法』とは、司馬遼太郎風に言えば「国のかたち」である。「この国はこうであるべきだ」「この国をこうしたい」という「国家理想」が明快に言語化されているものである。

 筆者を含め戦後教育を受けた世代は、「憲法」と聞くと現行の『日本国憲法』を思い浮かべ、あるいはそれに加えて否定・批判の対象として明治憲法・『大日本帝国憲法』を思い出すだろう。

 しかし、日本の最初の「憲法」はそのどちらでもなく『十七条憲法』なのである。
 もう一度言うが、好むと好まざるとにかかわらず、である。

 明治憲法は、欧米先進諸国がすべて自らの国のかたちを明らかにした Constitution をもっているのに対し、日本にはそれがないことは恥だと考え、主に伊藤博文が苦心を重ねてようやく編んだものであることはいうまでもない。
 その時、Constitution をどう日本語に訳すか、伊藤が考え抜いて選んだ言葉が『十七条憲法』に由来する「憲法」だったという。

 そういう意味でも、初めて「国」のかたちを明文化したという意味でも、『十七条憲法』はまぎれもなく日本初の「憲法」つまり国家理想なのである。

 だとして、こういうことにはならないだろうか。

 初めての憲法が優れているかいないかは、その国が少なくともスタートにおいて優れていたかどうかの決定的な基準になる。
 初の憲法がくだらない国は初めからくだらない国であり、初の憲法が優れていた国は少なくともスタート時点においては優れていた国であると言える、と。

 そしてとても幸いなことに、『十七条憲法』にはきわめて優れた国家理想が述べられている、と私は理解している……というか、ある時期から理解するようになった。

 和という国家理想

 それは、あまりにもそこだけが有名な冒頭の「和を以って貴しとなせ」(「なす」ではなく「なせ」と命令形に読み下すほうがいい)という句の「和」の意味するものが、人間と人間との平和はもちろん、実はさらに人間と自然との調和をも目指す、きわめて普遍的で、そのまま現代にも通用する、現代にこそ必要な、すばらしい国家理想の宣言であることに気づいたからである。

 右と左の偏見を排して、十七条全体を流れに沿って素直によく読むと、そう読める。(詳細は拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣、参照)

 まず、気づけば、「平和を希求」してきたのは『日本国憲法』だけでなく『十七条憲法』が先だった。
 しかも千四百年あまりも前に、『十七条憲法』は冒頭・第一条で「日本という国が最優先的に目指すのは平和である」と高々と宣言していたのである。
 そして、その平和は、国内はもちろん国際的視野における平和をも意味していた。

 加えて、現代的に表現するならば人間と自然が調和した「エコロジカルに持続可能な国家」をこそ、日本は目指さなければならないと、時代を超えて普遍的な到達目標の実現を呼び掛けていたのである。

 「和」という理想を現代的に言いかえれば、「協力・協調原理」である。
「協力・協調原理によって、国内外において平和で、エコロジカルに持続可能な国家を!」という理念・理想は、今、世界のすべての国が追求すべき国際社会の最優先課題を示している。
 そういう意味で、まったく古びていない、どころか、今こそ再確認して私たちが全力を挙げて実現すべき到達目標なのではないだろうか。

 私たちの日本という「国」は、そういう非常に高い国家理想を掲げて出発した国なのだ。
 そして、そういう高い理想をもったトップリーダーがいた国なのである(一歩譲って「という物語のある国なのだ」と言ってもいい)。
 そのことに関しては、歴史的なアイデンティティとして、私たちは権利を持って誇っていいのではないだろうか。

 もちろん、聖徳太子以後千四百年あまり、日本人がその国家理想を実現できたかどうかについては、ある程度実現できた時代もあれば失敗した時代もあり、特に残念ながら近代については大きな失敗をした時代だと評価せざるをえない。

 しかし、それは国家理想の実現を誤ったということであって、国家理想そのものが誤っていたということではない。

 戦後アメリカの日本人の精神性を根本から変えようという政策のせいもあって、私たちはその二つの違いを混同させられて・してしまったのではないだろうか(拙著『コスモロジーの創造』法蔵館、参照)。

 「和」という国家理想は、今こそ再発見し、再度目指すべき価値のある日本という「国」の原点でもあり到達目標ではないか、と筆者は考えている。

 だが、左寄りの『十七条憲法』=天皇絶対主義のバイブルという先入見からすれば、「そんなものは支配者と人民の本質的対立関係をごまかすための虚偽意識(イデオロギー)・綺麗事にすぎない」と思えるかもしれない。

 『十七条憲法』の民主性

 しかし、多くの誤解とは異なり、『十七条憲法』には、古代にあっては限りなく「民主主義」に近い発想がある。

 第一条では「上も下も和らいで睦まじく、問題を話し合えるなら」と、結論に当たる第十七条では、「そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである」と述べられている(現代語訳はすべて筆者)。
 一貫して合議制が主張され、トップの独断・独裁は念入りに最初と最後で否定されているのである。

 さらに、例えば典型的には第三条、特に冒頭の「詔を受けては必ず謹め」という言葉は、従来左右どちらの陣営からも天皇の命令への絶対服従を要求するものと理解されてきたが、よく読んでみると、どうも違うのである。

 そうではなく、ここで語られているのは聖徳太子の世界観(コスモロジー)とそれに基づく統治論である。
 「君は天のようであり、臣民は地のようである。天は覆い、地は載せるものである」と、天地を比喩として天皇と豪族・官僚の役割が語られている。

 そこで問題は、天は何を覆い、地は何を載せるのか、ということだが、それに続く「四季が順調に移り行くことによって、万物の生気が通じることができる」という句を素直に読むと、天が蓋い、地が載せるのは、「民」さらには「万物の生気」である。
 つまり、君主の役割は天のように人民さらにはすべての生き物がよく生きられるよう覆うこと=庇護することにあり、官僚・豪族の役割は地のように人民やすべての生き物を載せること=背負いサポートすることにあるという。
 真のエリートの存在理由は、人々と全生命とがいつも・いつまでも生き生きと幸せに暮らせる持続可能な国を創ることにある。

 そうしたそれぞれの役割を知らず、君主の座を権力・利権の座と誤解してそれを狙い、「地が天を覆うようなことをする時は」、国中が「破壊に到るのである」と。

 こう読むと、以下の「こういうわけで、君が命じたなら臣民は承る。上が行なう時には下はそれに従うのである。それゆえ、詔を受けたならばかならず謹んで受けよ。謹んで受けなければ、おのずから事は失敗するだろう」という言葉も、人民を庇護するために下した詔つまり第一条の「和の国日本の建設という重大事項」に忠実に従うことを求めているのであって、無条件な独裁者への絶対服従・盲従を求めているのではないことがわかる。

 詳述できないのは残念だが、その他、憲法のいたるところに「百姓」や「民」への思いが語られていて、第十四条の終わりには「それ賢聖を得ずば、何を以ってか国を治めん」とある。
 「仁愛・愛民」を志とした「賢者(仏教的には菩薩)」による「民のための政治」が、聖徳太子の理想だったのだと思われる。

 もちろん、民主主義的代議制政治という制度も思想もない時代だから、リーダーは民によって選ばれるものではなかった。
 「人民の、人民による、人民のための政治」は、古代日本にあっては想像することさえ不可能だったろう。
 そうしたなかで、血、伝統、武力で決まった身分はやむをえない前提としたうえで、しかしそうした豪族たちが民のための賢者・菩薩的なリーダーになることを太子は望んだのである。

 聖徳太子とその憲法に、時代的な制約や限界があることは言うまでもない。
 しかし、それは「和」や生きとし生けるものすべてのために働くことを自らの志とする菩薩的リーダーという理想の価値を少しも減ずるものではない。

 それは民主主義をどう考えるかということにもなるが、筆者は、まず何よりも「民のための」が優先事項だと考える。
 「民の」「民による」ものであることが望ましいのは言うまでもないが、愚かな民が支持した愚かな民出身の愚かな支配者による民のためにならない政治(例えばヒトラー、例えばスターリン)よりも、賢者・エリートによる民のための政治(例えば上杉鷹山)のほうが、はるかに民主性があると言えるのではないだろうか。

 古代日本と異なり日本にはすでに形式としては「民の、民による」という制度はある。
 今日本に決定的に不足しているのは、中長期本当に「民のため」になる方向に向いた理念・志・展望をもった真のエリート・リーダーではないのだろうか。

 競争原理から協力原理へ

 すでに読者には気づいている方も多いかもしれないが、改めて注意を喚起しておく価値があるのは、冒頭にあげたような現代日本が抱えているいろいろな問題は、個々別々に発生しているのではなく、社会システムの欠陥が生み出している一連のシステマティックにつながりあった問題群だということである。

 戦後日本が採用してきた資本主義とりわけ近年の新自由主義的な資本主義は、競争を原理とする社会システムである。
 「競争原理」といえばいくらかスマートに聞こえるし、「努力した人が報われるのは当然だ」という言い方をすれば、一見当然に思えるが、実はそれは煎じつめれば「勝った者が生き残り、負けた者は死に絶える。それは当然のことだ」というきわめて野蛮な原理だったのである。

 それでも、一九七〇年代以降、高度経済成長―好景気を続けることのできた九〇年代までは、「パイが大きければ、取り分に差はあっても、全員満腹にはなる」という原理で、「一億総中流」という気分を生み出すことができた。そして、一億総中流という気分のなかで、日本はすでに十分福祉国家であるかのように見え、競争と不公平はかえって社会を活性化するものであるかのように見えた。

 しかしバブルの崩壊と失われた十年という長い不況の後、規制緩和、「官から民へ」(実は「公から私へ」のすり替えにすぎない)、雇用の流動化などなどの新自由主義的政策の推進によって、ようやく大企業と富裕層のみには景気回復が訪れはじめたかに見えたが、恩恵は国民全体に届かないまま、リーマン・ショック、ドバイ・ショックと続いた金融恐慌によって、日本はふたたび先の見えない長い長い不況時代に突入した。

 その後、ようやく大企業のみの当面の景気回復はしてきたが、国民全体の生活の質・幸福度が回復してきたようには思えない。

 競争原理の社会は、それでも好況の間は「余りを恵む」といった発想の福祉を行なわないこともなかったが、いったん不況になると財政がひっ迫し、理の当然ながら弱者・敗者を切り捨てる「格差社会」=非福祉社会になった。
 景気回復後も格差は縮まらずさらに広がるばかりなのではないだろうか。

 非福祉社会は、これまた理の当然ながら、少子高齢化、育児、教育、非行、引きこもりなどの心の病、自殺、介護、年金、医療、地域の疲弊、限界集落……に十分な対応はしない・できない。
 さらに財政がひっ迫すれば、「人間(経済と最低限の福祉)のことだけで手一杯で環境どころではない」と考えはじめるだろう。

 しかし中長期で考えれば明らかなように、エコロジカルに持続可能でない社会はまさに持続可能ではなく必ず崩壊するのである。
 「どころではない」といって済ませるような問題ではないのだ。
 かといって、環境のために当面の福祉を大幅削減することは困難である。環境のためにも福祉のためにも、豊かな財政が必要である。豊かな財政のためには豊かな税収が必要であり、豊かな税収のためには豊かな経済が必要である。

 だとすれば、今、日本という国に必要なのは、協力原理に基づいて経済と財政と福祉と環境が好循環‐相互促進するような社会システムを構想することなのではないだろうか。
 そしてそれは可能である、と私たち(「持続可能な国づくりを考える会」)は考えている(ブックレット『持続可能な国づくりの会――理念とビジョン――』参照)。

 そのためになによりもまず必要なことは、社会の原理を競争原理から協力原理へと根本的に変革することである(ただしその場合、経済分野のみ活性化に役立つ範囲で競争原理を許容し、社会総体は協力原理で行なう)。

 そして繰り返せば、幸いかつ不思議なことに、私たちの国日本は、飛鳥から奈良にかけて国のかたちが明らかになる段階で「和」という国家理想を掲げた国なのである。
 つまり協力原理、協力してすべての人・すべての生き物が生き生きと生きられる国を創り上げることこそ、日本という「国」の出発点でもあり到達目標でもあったのである。

 『十七条憲法』にもある言葉だが、日本ではもともと「国・国家」は同時に「公(おおやけ)・大きな家」であった。国家とは民たちが協力しあって共に生きる大きな家・国民の家であるべきだったのである。

 以上述べたような意味で、だから、今私たちは、自分たちの原点を再発見してそこに帰ることができるし、帰らなければならないのだ、と筆者は考えている(拙著『日本再生の指針――聖徳太子『十七条憲法』と緑の福祉国家』太陽出版、参照)。


(もっと掘り下げたもっと長い話に関心を持っていただける方は、ぜひ来年2月からの東京土曜講座にお出かけください。)


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日本の理想・原点としての『十七条憲法』 講演要旨

2014年12月18日 | 歴史教育

16日夜、聖徳太子『十七条憲法』について講演をしてきました。

 折も折、憲法改正が実際の日程にのぼるかもしれないという状況のなかで、タイトルのような話をする機会が与えられたのは、ある種、時なのかもしれない、という気がしています。

 聴衆の反応には大きな手ごたえを感じました。

 すでに、2003年、つまり十年も前に書いた拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』(大法輪閣)でも、2011年の『日本再生の指針――聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」』(太陽出版)でもあまり感じられなかった手ごたえでした。

 日本人のアイデンティティはどこにあり、これから日本をどういう国にすればいいのか、本格的な危機感と問題意識をもつ人が増えてきているのでしょう。

 これが、日本を持続可能な方向へと方向転換させる大きな潮流になっていくことを願わずにはいられません。

 詳しくは、拙著2点をお読みいただきたいし、このブログにも関連記事をたくさん書いてきましたが、とりあえず当日の講演要旨を以下に収録・紹介しておきたいと思います。


 『十七条憲法』は日本初の憲法である。

 そこには、「和」こそ、これから目指すべき日本の国家理想・国家目標だという高らかな宣言がなされている。

 「和」には、人間同士の平和はもちろんさらに人間と自然の調和という意味も含まれており、そうした「和」の国日本を建設するという国家的プロジェクトを実行-実現するうえで不可欠の心がまえが語られている。

 そういう意味で、『十七条憲法』は、日本の目指すべき「国のかたち」と「心のかたち」を示したものである。

 なぜ「和」の国でなければならないかを、聖徳太子は、伝統的神道に加えて仏教と儒教を統合的に捉えた「神仏儒習合」の教えによって明らかにしている。

 そうした「神仏儒習合」の精神は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と時代を経ながら全国津々浦々、庶民のすべてに到るまで日本人全体に浸透し、いわば「日本の心」になっていった。

 日本人の正直で真面目で勤勉で親切で……といった善良な心・心の「型」は、「神仏儒習合」の教えによって育まれたものである。

 その「神仏儒習合」という心の型・精神性・倫理性が、明治維新による近代化・西洋化、敗戦によるアメリカ化、そして70年代以降ますます進む過度の経済偏重・物質主義によって「型崩れ」を起こしているというのが、現在の日本の精神性・倫理性の荒廃-崩壊のもっとも大きくかつ深い原因なのではないか。

 そういう状況のなかで、私たち日本人にとって日本という国の原点である『十七条憲法』と「神仏儒習合」のもっていた意味を再発見することが急務なのではないか。

 第一条には、国家理想としての「和」とそれを妨げる「黨」つまり無明から生まれる党派心が明らかにされ、徹底的話し合いを通した合意による国家建設への決意が語られている。

 第二条には、無明の心を正す方法として仏教を国教化することが宣言されている。

 第三条には、そうした国家建設の目的は人間同士の平和と人間と自然の調和であることが明らかにされ、それへの全面的協力への要請がなされている。

 第四条以下には、到達目標としての自治、それに到るプロセスとして徳治、法治が語られ、国家リーダーが「愛民」・菩薩の心を持って協力しあうべきこと、統治は民のためになされるべきことが語られる。

 とりわけ要となる第九条には「信」を共有すべきことが語られ、最後の第十七条には改めて独裁ではなく合議による国家建設が説かれている。

 そこには、賢者・菩薩的リーダーが協力しながらリードして日本を、人間同士も人間と自然も穏やかに幸福に生き続けることのできる、現代的に言えば「エコロジカルに持続可能な福祉国家」にしたい・しようという国家理想の宣言とその実現への強い勧誘・勧告がなされている。


聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想
クリエーター情報なし
大法輪閣


「日本再生」の指針―聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」
クリエーター情報なし
太陽出版


 
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『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 2

2010年08月30日 | 歴史教育

 あまり長い引用はかえって紹介になりませんが、幸い小室氏自身が、本書『日本国民に告ぐ』を書いた理由について、「自虐教育がアノミーを激化させる」という見出しで以下のようにまとめています。


 このアノミーが、歴史始まって以来、比較も前例も絶して、いかに恐ろしいものか。縷述(るじゅつ)してきたが、その「恐ろしさ」は繰り返しすぎることはない。ここに、本書の論旨をまとめて開陳しておきたい。

 本書が上梓される所以は、「謝罪外交が教育にまで侵入した」からである。日本の謝罪外交が本格的にスタートを切ったのは、昭和五十一年の「“侵略→進出”書き換え誤報事件」以後である。それから後は、日本は外国に内政干渉されっぱなし。中国、韓国などの外国が日本人の「歴史観が悪い」と言ってくると、何がなんでも「ご無理、ごもっとも」とストレートに謝罪してしまう。このパターンが定着した。

 これを見て反日的日本人がつけあがった。「あることないこと」ではない。ないことをあることとして捏造して反日史観をぶちあげる。挙げ句の果てには、日本政府が平目よりもヒラヒラと謝って、反日史観が拡大再生産される。この謝罪外交は、日本の主権と独立を否定する。その謝罪外交が、ついに教科書に侵入した。

 日本の教科書は、共産党の「三二年テーゼ」と、日本は罪の国とした「東京裁判史観」によって書き貫かれている。占領軍とマルキシズムによる日本人のマインド・コントロールは、ここに完成を見たのであった。

 史上、前例を見ない急性アノミーが、これまた前例を見ない規模と深さにおいて昂進することは確実である。戦後日本における急性アノミーは、天皇の人間宣言と、大日本帝国陸海軍の栄光の否定から端を発した。これほどの絶望的急性アノミーは、どこかで収束されなければならない。

 収束の媒体となったのが、一つにはマルキシズムであり、もう一つは、企業、官僚(組織)などの企業集団だった。はじめの外傷があまりにも巨大だったため、急性アノミーは猖獗(しょうけつ)をきわめた。

 これを利用したのが占領軍である。占領軍は、日本の対米報復戦を封じ、日本を思うままに操縦するために、空前の急性アノミーをフルに利用すべく戦術を立てたのであった。アメリカ占領軍は、社会科学を少しは知っていた。日本人は、昔も今も、まったくの社会科学音痴いや無知である。これでは、勝負にも何にもなりっこない。猖獗する急性アノミーで茫然自失、巨大な精神的外傷(トラウマウ)で精神分裂症を起こしかけていた日本人に、マインド・コントロールがかけられた。

 「巧妙な」と評する人が、あるいは、いるかもしれないが、実は「巧妙」でもなんでもない。「公式どおり」のマインド・コントロールであった。だが、公式どおりのマインド・コントロールでも、急性アノミーの渦中にいる科学無知の日本人にはズバリ効いた。受験勉強しか知らない偏差値秀才にカルト教団のマインド・コントロールが利くように――。ただし、占領軍によるマインド・コントロールは、「日本の歴史は汚辱の歴史である」と教育したために、日本の急性アノミーを、さらに昂進させた。

 終戦後、当初の急性アノミーを吸収するはずだったマルキシズムは、昂進しすぎた急性アノミーによって解体されることになった。マルキシズムは、日本共産党を見棄てて新左翼に突入することによって、無目的殺人、無差別殺人にまで至る――これらはその後、特殊日本的カルト教団に引き継がれる――。前代未聞のことである。

 新左翼が下火になってきた頃から、「家庭内暴力」さらにすすんで「いじめ」が跳梁(ちょうりょう)をきわめるようになる。いずれも根は同じ。ますます昂進していく急性アノミーである。急性アノミーの激化を助長したものは何か。一つには、友人をすべて敵とする受験戦争である。しかし、決定的なものは何か。致命的なものは何か。
 「日本の歴史は汚辱の歴史である」「日本人は罪人である」「日本人は殺人者」であるとの自虐教育である。古今東西を通じて前例を見ない徹底した自虐教育である。

 占領下で自虐教育を受けた人びとが、成長して今や要路にいる。これらの人びとが、内においては、無目的・無差別殺人を敢行し、外においては平謝り外交を盲目的に続けている。「親子殺し合いの家庭内暴力」「自殺に至る“いじめ”」を生んだのもこれらの人々である。

 平成九年度から行われる究極的自虐教育。急性アノミーはどこまで進むであろうか。どのような日本人を生み出すであろうか。
 (『日本国民に告ぐ』三三〇~三三三頁)


 上記のようにまとめられた論旨が、本書全体を通してどのように展開していくか、細かいところまで紹介することはできませんが、以下のような章立てを見ていただくと、ある程度推測できるでしょう。

 第1章 誇りなき国家は滅亡する――謝罪外交、自虐教科書は日本国の致命傷
 第2章 「従軍慰安婦」問題の核心は挙証責任――なぜ、日本のマスコミは本質を無視するのか
 第3章 はたして、日本は近代国家なのか――明治維新に内包された宿痾が今も胎動する
 第4章 なぜ、天皇は「神」となったのか――近代国家の成立には、絶対神との契約が不可欠
 第5章 日本国民に告ぐ――今も支配するマッカーサーの「日本人洗脳計画」
 第6章 日本人の正統性、復活のために――自立にもとづく歴史の再検証が不可欠なとき
 附 録 東京裁判とは何であったか


 さて、私は、敗戦以後、日本人は急性アノミーの状態を脱出できていない、どころか急性アノミーは拡大再生産され、いまや極限的危機にある、という論点については、基本的に同感です。

 しかし、もっとも議論の多い「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」については、自分でしっかり検証していないので、判断留保状態にあります。

 また、日本が欧米の植民地になることを免れる上で、国民が一丸になるためのイデオロギーあるいはコスモロジーとして「国家神道」ないし「天皇教」が必要だったことも歴史的事実として認めます(他に代案はなかなか考えようがなかったでしょう)。

 けれども、本書での小室氏の所説には急性アノミーに対する処方箋が示されていないところに、大きな不満を感じます。

 他に、『日本人のための宗教原論――あなたを宗教はどう助けてくれるのか』(徳間書店、200年)や大越俊夫氏との対談・共著『人をつくる教育 国をつくる教育――いまこそ、吉田松陰に学べ!』(日新報道、2002年)なども読んでみましたが、決定的な代案はないようです。

 それどころか、「私が以前、防衛庁で講演した際、手が挙がり、「小室先生、日本の沈没をどこかで止められませんか」とか、「日本はどうやったら治りますか。方法は?」とか相談を受けました時、少し間をおいてから、「方法はない!」とひとこと言うと、ワーッと会場が沸きました」といった発言を、冗談かもしれませんが、しています(冗談だとしたら悪い冗談です)。

 それらしい発言は、『日本人のための宗教原論』で、次のように述べているところです。


 世相はますます混乱の様相を呈している。宗教事件ばかりか、幼児殺人、少女監禁……、目を蓋わんばかりの悲惨な事件が引きも切らない現代日本。アノミーが解消されるどころか、ますます進行の一途をたどっている。日本が壊れるどころか、日本人が壊れてきているのだ。/新世紀、事態はさらに悪化するであろう。/ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。あなたを救うのも宗教、あなたを殺すのも宗教である。(三九六頁)


 小室氏がどこかではっきり言っているどうか知りませんが(『三島由紀夫が復活する』とか『「天皇」の原理』などで、どう言っているのか、やがて確かめようとは思っていますし、ご存知の読者にはコメントして教えていただけると幸いですが)、こうした発言と「カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない」という言葉を合わせて考えると、どうも「もう一度天皇教を」と考えているのかもしれません。

 そうだとすると、私は反対です。

 私は、日本の歴史を肯定できるかどうかの決定的ポイントは、好き嫌いをまったく別にして、否応なしに、日本の最初の憲法=国のかたちである――これは聖徳太子が歴史的に実在したかどうか、偽作であるかどうかに関わらない事実です――聖徳太子「十七条憲法」が、普遍的な根拠をもって肯定できるものであるかどうかにかかっていると考えています(拙著『聖徳太子「十七条憲法」を読む――日本の理想』大法輪閣、2003年、本ブログ「平和と調和の国へ:聖徳太子・十七条憲法」、を参照)。

 そして、日本人が国民的アイデンティティを取り戻すには、「十七条憲法」とその根底にある大乗仏教の菩薩思想をベースにした「神仏儒習合」のコスモロジーの意味を、現代科学のコスモロジーと照らし合わせながら再発見することが、もっとも適切であり、不可欠でもある、と考えています(本ブログはそのための準備作業という面があります)。

 ここで改めて言っておかなければならないのは、私の解釈では、これまで誤解・曲解されてきたのとは異なり、「十七条憲法」は「天皇教」のバイブルではありません。

 そうではなく、菩薩的リーダーの指導による「平和と調和の国日本」という国家理想の宣言なのです。

 そして、日本の歴史全体を「和の国日本という国家理想の実現に向かっての紆余曲折・苦闘の歴史」として読み直すことこそ、いわゆる「自虐史観」を根本から超えることになるだろう、と予測しています(その作業は水戸藩の「大日本史」編纂のような大変な作業で、私が個人で出来るとは思いませんが)。

 小室氏の著作は、これからもう少し読んでみようと思っていますが、以上が私の現段階での暫定的コメントです。

 読者からの「荒らし」ではない、建設的なコメントをいただけると幸いです。



日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
小室 直樹
ワック

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聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想
岡野 守也
大法輪閣

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『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 1

2010年08月30日 | 歴史教育

 先日の『国家神道』に続いて、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック社、2005年、クレスト社、1996年の改訂版)のポイントを紹介し、コメントしておきたいと思います。

 今日も、話は長くなります。

 小室氏は、まず最初の方で、日本国民に向かって、次のような警告をしています(一行空きは筆者)。


 日本滅亡の兆しは、今や確然たるものがある。人類は一九九九年に滅亡するとノストラダムスが言ったとか。中国は香港返還後半年で滅亡する、と長谷川慶太郎氏は言った(『中国危機と日本』光文社)。しかし、より確実に予言できることは近い将来における日本滅亡である。

 滅亡の確実な予兆とは、まず第一に、財政破綻を目前にして拱手傍観(きょうしゅぼうかん)して惰眠を貪っている政治家、役人、マスコミ、そして有権者。
財政危機は先進国共有の宿痾(しゅくあ 持病)である。欧米では、人々は財政危機と対決し、七転八倒している。政治家も有権者も、早く何とかしなければならないというところまでは完全に一致し、そこから先をどうするかを模索して必死になって争っているのである。
それに対し、はるかに重要で病すでに膏肓に入っている日本では、人々は案外平気。財政破綻とはどこの国のことか、なんて顔をしている始末。

 日本絶望のさらに確実な第二の予兆は、教育破綻である。
 その一つは、数学・物理教育の衰退枯死。このことがいかに致命的か。
日本経済は技術革新なしに生き残ることはできない。しかし長期的には、日本の技術立国の基礎は確実に、崩壊しつつある。工学をはじめ「理科系」へ進学する(あるいは進学を希望する)学生が急激に減少している。まことに由々しきことである。
 技術立国のためだけではない。数学・物理は、社会科学を含めたすべての科学あるいは学問の基礎であるとまで断言しても、中(あた)らずといえども遠からず。このことをトコトン腑に落とし込んでおくべきである。

 だが、さらにより確実な滅亡の予兆は、自国への誇りを失わせる歴史教育、これである。
誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する――これ世界史の鉄則である。この鉄則を知るや知らずや。戦後日本の教育は、日本の歴史を汚辱の歴史であるとし、これに対する誇りを鏖殺(おうさつ)することに狂奔してきた。
(小室直樹『日本国民に次ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』ワック社、二〇―二二頁)


 ここでまずコメントしておくと、小室氏があげている三つの予兆は、筆者もまさにそのとおりだと考えています。これらはみなまさに大問題・死活問題です。

 しかし、不思議なことに小室氏は日本の多くの学者、政治家、財界人と同様、環境問題という根本的な「滅亡の予兆」についてはまったくと言っていいほど注目していません。

 環境問題への適切な対処をしなければ滅亡するのは人類であって、日本国民だけではありませんが、もちろん人類には日本国民も含まれているのですから、「日本国民に告ぐ」べき滅亡の予兆には環境問題もぜひ含まれる必要がある、と筆者は考えます。

 しかし、もう一度言うと、3つの予兆については、確かにそのとおりだと思いますし、それがどうして生まれてきたのかという社会学的分析については、きわめて鋭く適切で、教えられたことが多くありました。

 小室氏がソ連崩壊の10年も前に崩壊を予測していたことは、知る人ぞ知るです(『ソビエト帝国の崩壊』光文社、1980年、私も本が出た当時、すぐに買ってざっと読んだ覚えがありますし、さかのぼって1976年に出た『危機の構造――日本社会崩壊のモデル』(現在中公文庫)も買って読むには読みましたが、その時点では正直なところ小室氏の警告の本質的な意味を理解することができたとはいえませんでした)。

 その小室氏が、基本的に同じ理論から日本の崩壊を予測しているのですから、賛成するしないは別として耳を傾けるに値するのではないでしょうか。

 小室氏が拠って立つ基本的理論は「アノミー論」と呼ぶことができるでしょう。

 その概要は、小室氏自身が「カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない」という小見出しのところで、以下のように要約しています。


 アノミー (anomie) とは何か。「無規範」と訳されることもあるが、それよりも広く“無連帯”のことである。…

 アノミー概念を発見したのは「社会学の始祖」E・デュルケム(フランス人、一八五八~一九一七年)である。デュルケムがアノミー現象を発見したのは、自殺の研究を通じてであった。彼は、生活水準が急激に向上(激落の場合だけではない)した場合にも自殺率が増加することを発見した。
 なぜか。生活水準が急上昇すれば、それまでつき合っていた人たちとの連帯が断たれる。他方、上流社会の仲間入りを果たすのも容易ではない。成り上りものと烙印を押され、容易には付き合ってくれない。かくして、どこにも所属できず、無連帯(アノミー)となる。連帯(ソリダリテ、solidarite)を失ったことで狂的となり、ついには自殺する。
 これがアノミー論の概略。このように生活環境の激変から発生するアノミーを「単純(シンプル)アノミーと呼ぶ。その心的効果は「自分の居場所を見出せない」ことにある。どうしてよいか途方に暮れる。そして正常な人間が狂者以上に狂的となる。

 アノミーには、この単純アノミーのほかに、「急性(アキュート)アノミー」と呼ばれる概念がある。これは、信じきっていた人に裏切られたり、信奉していた教義が否定されたときに発生するアノミーである。
 急性アノミーが発生すれば、人間は冷静な判断ができなくなる。茫然自失。正常な人間が狂者よりもはるかに狂的となる。社会のルールが失われ、無規範となり、合理的意思決定ができなくなる。

 精神分析学者のフロイトは、急性アノミー現象を、軍隊の上下関係の中に発見した。どんな激戦・苦戦に陥っても、指揮官が泰然としていれば、部下の兵隊はよく眠り、よく戦う。厳正な軍規が保持され、精強な部隊であり続ける。しかし、指揮官が慌てふためいたらどうなるか。急性アノミー現象が発生し、部隊は迷走。あっという間に崩壊する。

 ヒトラーはこれをローマ教会に似た。ローマ・カトリックは、なぜ一五〇〇年以上も世界最大の宗派たりえるのか。それは、ローマ教会が絶対教義の過ちを認めないからである。これが世界最大の教団でありえた理由であるとヒトラーは説明する。

 かくて、急性アノミー理論は、別名「ヒトラー・フロイトの定理」ともいう。この定理を換言すれば、こうなる。カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない。傷つけてもならない。もしカリスマが傷つけば、集団に絶大な影響が及ぶ。もしカリスマを失えば、集団は崩壊する。筆者が、フルシチョフによるスターリン批判を踏まえ、昭和55年(1980年)、『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)を著したのも、実はこの急性アノミー理論によるのである。


 国民同士の間に規範と連帯がなければ国家が滅亡するのは、自明の理、時間の問題と言ってまちがいないでしょう。

 上記のような理論を基にして、小室氏は「なぜ戦後日本は無連帯(アノミー)社会となったのか」について、以下のような鋭く適切な分析をしています。


 終戦により発生した熾烈な急性アノミー、これを利用したGHQによる巧妙なマインド・コントロールによって、戦後の日本の「急性アノミー」は、さらに深く広いものとなっていった。

 根本的な原因は、GHQの「日本人洗脳計画」に基づき、「太平洋戦争史観」すなわち「東京裁判史観」を植え付けられたからである。「自存自衛」の「大東亜戦争」が、「侵略戦争」と断罪されたからである。間違った戦争だとされたからである。日本軍が「南京大虐殺」をやったと脳髄にたたき込まれたからである。しかも、繰り返し繰り返し。新聞、雑誌、ラジオ、映画、そして学校教育によって。
 日本の歴史は間違いだった、日本軍は大虐殺をやった、日本人は悪い人間である、と教えられた。これは恐ろしい。日本人には大虐殺という概念がなかった。欧米や中国ではあったが日本にはなかった。
 ところが、日本軍が大虐殺をしていたということになった。日本は大虐殺をする侵略国家とされた。多くの善良な日本人が、後ろめたい心理状態になったのは当然だ。GHQの「日本人洗脳計画」によって骨の髄から「贖罪意識」を植え付けられたからである。

 戦後、日本人はGHQによって、日本人としての誇りを奪われた。しかし、戦前の日本はそうではなかった。学校でも家庭でも日本人であることに誇りを持てと、繰り返し教育した。誇りは規範や倫理の根本である。特に、軍人が「お前らは日本人の鑑になれ、手本になれ」と教えられた。一般の日本人も、「兵隊さんだったら悪いことはしない」と当然のように思っていた。だから、民家に兵隊が泊まる場合でも、誰もが安心し、喜んで宿を提供した。実際に、悪いことはしなかった。……
 (『日本国民に告ぐ』二九三~二九六頁)


 戦前の日本を支えていた根本は何か。トップにおいては天皇共同体。天皇イデオロギーによる共同体である。天皇と日本人は、共同体を作っていると考えられた。GHQはこれを破壊しようとした。天皇イデオロギーの破壊は、天皇の人間宣言に始まり、そこで終わった。……
 カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない。カリスマが失われ、それまでの正当性(レジテマシー)が変更されたとき、その集団は崩壊し、崩壊した集団は急性アノミーになる。
 ――実は朕は人間であった――
 かくて天皇イデオロギーによる共同体は、天皇の「人間宣言」によって崩壊した。

 これはあたかも、アラーがイスラム教徒に「わしは実は悪魔であった。コーランはみんなさかさまに読め」と言ったような話ではないか。そうなったらイスラム教はどうなる。
 世界の国家(民族、宗教)には、それぞれ、その国がよって立つ正統性がある。アメリカなら建国の精神、中国(漢民族)や中華思想、イスラエルならユダヤ教、といった具合だ。かつてのソ連ならマルキシズム。正統性はその国家の背骨だから、失われたり、大きく変更されたりしてはならない。そんなことすると国家はアイデンティティーを喪失してアノミーを起こす。

 ソ連崩壊の原因がフルシチョフによるスターリン批判だったことは、すでに述べた。だから世界中の国は、その国の正統性を教育によって子供に叩き込む。戦前、日本の正統性は天皇イデオロギーであった。それが天皇の人間宣言によって崩壊したのである。
 (『日本国民に告ぐ』二九九~三〇三頁)


 小室氏はさらに、日本国民が深刻なアノミー――無規範、無連帯――状態に陥ったもう一つの原因とその結果について次のように述べています。


 一方、天皇イデオロギーによる共同体とともに、戦前の日本を支えていたもう一つの共同体が、村落共同体。天皇イデオロギー共同体を頂点とするが、底辺にあったのが村落共同体であった。……占領政策によって、頂点における天皇システムは大打撃を受けた。底辺における村落共同体も、高度成長の始まりとともに昭和三十年頃から急速に解体した。かくて、日本を支えていた共同体が頂上と底辺の両方から破壊された。そして、まさに無連帯、大アノミー。

 では、破壊された共同体はどこに吸収されていったのか。……ほとんどが大企業、その他、お役所。いずれも、本来は機能集団(ファンクショナル・グループ)。それが急速に共同体化した。
 つまり、企業という機能集団が共同体となってしまったのである。戦前、戦中までは、基礎的な人間関係は天皇との関係であり、村落における人間関係だった。しかし、そうした人間関係が全部崩れて、企業が共同体になってしまった。日本社会を作っていた共同体が、機能集団である企業の中にもぐり込んでしまった。

 これがいかに恐ろしいことか。本来、企業集団にはその集団の存在理由、目的がある。民間企業であるが収益を上げることであり、官庁であれば国益を追求することだ。ところが、機能集団が一度、共同体と化せばどうなるか。

 すでに述べたように、共同体の社会学的特徴は二重規範である。共同体の「ウチの規範」と「ソトの規範」とは、まったく異なる。「してよいこと」と「してはならのこと」とが、共同体のウチとソトでは、異なるのである。つまり、ウチでもソトでも共通に通用する普遍的な規範が存在しないことが、共同体の特徴なのである。
 したがって、企業集団が共同体と化せば、そこには普遍的な規範は存在しない。共同体のソトでは悪いことでも、共同体のウチではよいことになってしまう場合が出現する。たとえば、薬害エイズ事件での厚生省の対応。厚生省の本来の存在理由である国民の健康守るという国益は蔑(ないがし)ろにされ、身内の失策をかばうという内部規範が優先されたではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三〇三~三〇五頁)


 続いて小室氏は、受験戦争が急性アノミーを拡大生産したことを指摘していますが、これもまたまったく同感するところです。


 戦後日本に発生した「急性アノミー」を拡大再生産したのが、いわゆる受験戦争である。受験勉強は、なぜいけないのか。子供たちが泣くのが可哀相というだけではない。最大の問題は、友だち、同世代の人間が全部敵になることだ。子ども同士の連帯がズタズタになる。若者にとって最も大切なのは、同じ年齢の人びととの連帯感。それが破壊されてしまった。……

 そもそも、教育とは何か。ルソーは「教育の目的は機械を作ることではなく、人間を作ることだ」(『エミール』)と述べた。つまり、自分の頭で物事を考えるような人間に育てるということである。そして、実生活で直面するさまざまな問題を解決する能力を与えることである。そのために必要な知識を教え、知力や体力を育てることだ。それは、人間は教育されたことを土台としてしか、問題を解決できないからである。

 ところが、戦後日本の教育はどうだ。人間を作ることではなく、条件反射するネズミを作ることを目的としているではないか。……入学試験で出題される問題には、あらかじめ「正解」が用意されている。答えるべき「正解」は一つである。マークシートの上で、唯一の正解を塗り潰すことに成功したものだけが、優秀と言われエリートとして選抜される。正解に達することができなかった者は、人生の落伍者となる。……

 実生活で直面する問題に「正解」があるとは限らない。むしろほとんどの場合、「正解」が用意されていないと言ってよい。仮にあったとしても、「正解」が一つであるという保証はない。正解が一つであったとしても、求める方法がないために、近似値にしか近づけない場合もある。まさに「一寸先は闇」なのだ。その闇に果敢に立ち向かっていくための土台を築くことが本来の教育の目的なのである。

 ところが、受験勉強というプロセスの中で、問題には必ず一つの正解があるという刷込みを受ければどうなるか。正解が用意されていない問題に直面したとき、右往左往するばかりで、どう対処してよいか分からなくなるではないか。

 日本人がすぐに思考停止するのはこのためである。決して自分の頭で考えようとしない。右往左往しながら、誰かが正解を教えてくれるのを待ち望み、教えられたことだけを従順に信じこむのである。

 だから、日本人はアメリカが偉いとなったらアメリカだけ。南京大虐殺があったと教えられれば、鵜呑みにする。何が正しくて、何が正しくないかを判断する能力がなくなった。誰かが、これが絶対に正しいと言えば、盲目的についていく。その意味で象徴的だったのがオウム事件である。
 一流大学を卒業した四十代の医師が、「教祖」から地下鉄にサリンを撒けと言われたら、「ハイ」と撒く。事件の全容が次第に明らかになるにつれ、世間は「なぜ、あんな真面目で優秀な人が」と驚いた。精神に狂いが生じたわけではない、アノミーなのである。

 オーム事件は、まさに現代日本の縮図であった。なんでもアメリカ様の言うとおり。アメリカ様の言うことはすべて正しい。アメリカ様に逆らえば、地獄に落ちる……。「アメリカ」を「教祖」に置き換えれば、まったく同じ構造ではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三一〇~三一五頁)


 自虐史観・暗黒史観を教育され、受験競争で育った子どもたちが、社会のエリートになった時、何が起こるか、それはまちがいなく日本という国家の滅亡だ、と小室氏は警告します。


 本来なら友だちとなるべき人びとを敵と見做し、アノミーを起こしながら、ひたすら暗黒史観を頭に書き込んだ連中が、拡大再生産されている。その中で暗黒史観を最もしっかり記憶した者がエリートとなって、この国の中枢に入っていく。日本よ、汝の日は数えられたり。(『日本国民に告ぐ』三三〇頁)



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かつての日本人はなぜ一丸となって戦えたか:国家神道について

2010年08月27日 | 歴史教育

 今日の記事は、かなり長くなります。

 7月末、岩波新書で友人の島薗進氏の『国家神道と日本人』が出たという新聞広告を見て、買わなくてはと思っていたところ、送っていただきました。


国家神道と日本人 (岩波新書)
島薗 進
岩波書店

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 前期末の厖大な数のレポート採点と久しぶりに秋に出す本(『アドラー心理学と仏教――自我から覚りへ(仮題)』佼成出版社)の原稿締切りとで、すぐに読むことができなかったのですが、それが終わってちょうど終戦記念日(というより敗戦記念日)をはさんで数日かけて読み終えました(いつもなら新書一冊は半日もかからないのですが、重要な内容だったのでじっくり読んだので少し時間がかかりました)。

 昨日の記事に書いたとおり、非常にすぐれた分析で、「おもわず膝を打つ」という表現がありますが、そんな感じでした。

 戦前の日本という国家(大日本帝国)のコスモロジーであり、日本人のアイデンティティとなったのは、まぎれもなく「国家神道」だったことが、コロンブスの卵――自分では思いつかないのにやって見せてもらうと「なんだ、そんな簡単なことか」と思ってしまうこと――風に了解できました。

 その直後、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック出版)も読んで、さらにうなづくものがありました。

 そちらについてもできればまた記事を書きたいと思っていますが、今日はまず、『国家神道と日本人』の要点――だと私が思ったところ――を引用‐紹介しておきたいと思います(島薗さん、私の問題意識に引きつけすぎた曲解だったら、ごめんなさい)。


 「国家神道とは何か」が見えなくなっているために、日本の文化史・思想史や日本の宗教史についての理解もあやふやなものになっている。当然、「日本人」の精神的な次元でのアイデンティティが不明確になる。「国家神道とは何か」を理解することは、近代日本の宗教史・精神史を解明する鍵となる。この作業を通して、明治維新後、私たちはどのような自己定位の転変を経て現在に至っているのかが見えやすくなるだろう。このことこそ、この本で私がもっとも強くした主張したいことだ。(はじめに~)

 明治維新後の皇室祭祀の展開が、神道の近代的な形態のきわめて重要な一部であること、また、それが伊勢神宮を頂点として組織化されていく神社界と密接不可分なものとして理解されてきたことは、誰の目にも明らかである。また、国体論が天皇「神孫」論や伊勢神宮崇敬と結合し、皇室祭祀や神社界と切り離しがたい関係をもっていたことも否定のしようがない。これらを総合的に捉えて、国家神道と呼ぶのはきわめて自然なことだ。(八二頁)

 それ(『神社本義』――引用者注)によれば、日本の「歴代の天皇は常に皇祖と御一体であらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし」てきた。戦時中のこの文書では、天皇は「現御神」「神ながら」の特性をもつ、神的な存在として仰ぎ見られている。そして、「国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉つて忠孝の美徳を発揮」してきたという。こうして「君臣一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生成発展し続けて」いるのだ――『神社本義』はこう述べている。
 確かに国家神道は、人々をこのような信仰の境地にまで進ませた。第二次世界大戦の末期などはそうした信仰が昂揚し、多くの人たちがそれに巻き込まれていった。天皇陛下のために命を投げだすことも覚悟する人々が少なくなかったのだ。しかし、一九三〇年頃までのことを考えると、このような境地に達していた人はそう多くはなかった。(六六頁)

 実際には神社神道は皇室祭祀と一体をなすべきものとして形成されていった。そしてそれらは国民に天皇崇敬を広め、それによって国家統合を強化しようという意図と切り離せないものだった。……その導きの糸となった理念は、祭政一致とか祭政教一致とか皇道と呼ばれたものである。神道祭祀や天皇崇敬を核とする、あるべき国家の像が江戸時代末期に形成され、維新政府の政策の指標となった。そうした指標に従って、神社政策、宗教政策、祭祀政策、国民教化政策が行われていった。神道祭祀と天皇崇敬が核にあるという点で、それらの諸政策は相互に連関しあっており、天皇崇敬の周囲に形作られた「祭」や「教」は一体をなすものであり、「国家神道」と呼べるような全体を形づくっていた。(九二頁)

 まず注目したいのは、「大教」「皇道」などの語である。明治維新後の早い時期にこうした理念が聖典的な意義をもつ天皇の言葉、つまり「詔勅」として提示され、以後も正統理念としての地位を失わなかった。それは、万世一系の「国体」や天皇崇敬と神道の祭や神祇崇敬を結びつけ、国民の結束と国家奉仕を導き出すことができる理念だった。一方、それはまた多様化や自由化を含意し、個々人の自発性を尊びながら富国強兵に向かう国家を支えることができるような理念としても捉えられていた。今、私たちが「国家神道」とよんでいるものの観念内容(「国家神道の教義」にあたるもの)は、明治維新前後の時期に「大教」「皇道」などとよばれていたものとおおよそ重なり合うものなのだ。(一〇六~一〇七頁)

 教育勅語の成立によって、学校では天皇による聖なる「教」が絶大な威力を発揮することになった。そうした帰結と見比べるとき、少数の関与者のやりとりを通して進行したその成立経緯は、必然性を欠いた歴史の気まぐれのような印象を与える。しかし、巨視的に見れば、元田と明治天皇を動かしていた力は、明治維新の枠組みそのものが準備したものである。すなわち皇道論や「祭政教一致」の建前が掲げられ、それに従って制度構築が進められ教育勅語に結晶したのだ。(一三一頁)

 国家神道の祭祀体系の形成と「教育勅語」に至る「教え」の形成は、いちおう別個の過程をたどっている。しかし、それらはどちらも天皇崇敬と祭政一致・祭政教一致の理念に基づいたものである。その導きの糸となる天皇の言葉は、皇道論者が起草した一八七〇年の「大教宣布の勅」によって示されていた。そこでは「天皇の祭祀」と「皇道」「治教」とが一体のものと考えられ、新たな国家の根本原則と見なされている。その意味で「大教宣布の勅」は、天皇自身が示した国家神道のグランドデザインを示す文書となったと見ることができる。(一三五頁)

 学校や軍隊や国家行事を通してナショナリズムが育てられるのは、欧米をはじめとして世界各地の国民国家で広く共通に見られることである。日本ではナショナリズムが国家神道という宗教的要素と絡み合って展開した。世俗的ナショナリズムが標準的と考えられたヨーロッパとは異なるパターンであるが、世界各地を見渡せば、ナショナリズムと宗教が重なり合って展開する例は珍しくない(ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』)。宗教的ナショナリズムが目立つ国として、インド、イスラエル、イランを初めとするイスラーム諸国が思い浮かぶが、ロシアや東欧諸国やアジアの仏教国もそこに含まれよう。
 このような観点に立つ時、国家神道が国民自身で担い手となる下からの運動という性格を帯びるようになったことに注意する必要がある。ナショナリズムが国民によって下から支えられていく性格をもっていることは広く認識されている。国家神道も武士層が鼓吹し国家制度に取り込まれて広まっていったのだが、やがて民衆に受け入れられ、下からの国民運動として、あるいは宗教的ナショナリズムとして広まるようになっていったと見ることができる。(一六六~一六七頁)

 こうした近代日本宗教史の見解を理解する上で示唆に富んだ指摘をしているのは、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(一九五六年)の久野が執筆した「第四章 日本の超国家主義」だ。久野は宗教について論じているのではなく、政治理念について論じているので少々文脈は異なるが、国家神道の歴史という問題に適用してみる価値があると思う。
 久野によると明治憲法の国家体制は、国民向けの「顕教」とエリート向けの「密教」との組み合わせで成り立っていた。
 天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕上げるほど強力に作用した。/しかし天皇の側近や周囲の輔弼機関から見れば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作り出された。/注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の効果がなりたっていたことである。(久野・鶴見『現代日本の思想界』一三一―一三二ページ)
 国民全体に対しては、無限の権威をもつ天皇を信奉させる建前を強化し、国民の国家への忠誠心を確保しようとした。これが「たてまえ」、つまり「顕教」だ。他方、国家と社会の運営にあたる際には、近代西洋の民主主義や自由主義の生徒に準拠し、経済や学問知識の発展、そのための人材活用を尊んだ。これが支配層間の「申しあわせ」で、「密教」にあたる。
 憲法解釈に即していうと、「顕教」は天皇=絶対君主説となり、「密教」が立憲君主制の立場であり天皇機関説となる。「小・中学校および軍隊では、「建前」としての天皇が決定的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された」(同前、一三二ページ)
 伊藤博文や井上毅の意図では、この「密教」の立場が政治システムを統御し続けるはずだったが、「顕教」を掲げる下からの運動、そしてその影響を受けた軍部や衆議院が統御を超えて「密教」の作動を困難にしていく。「軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省をしたがえ、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後にはメチャメチャにしてしまった。昭和の超国家主義が舞台の正面におどり出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって教育された国民大衆がマスとして目ざまされ、天皇機関説のインテリくささに反撥し、この征伐に動員される時を待たねばならなかった」(同前、一三三ページ)
 近代的な政治は世俗的な力によって動くと考えていた久野は「超国家主義」という「イデオロギー」が基軸だったと考え、宗教用語をたとえとして用いているが、久野のいう「顕教」は事実、国家神道としてとらえるのが適切なのだ。(一七八~一七九頁)

 ……この書物では、これまであまり注目されてこなかった理由に目を止めている。――国民国家の時代には国家的共同性の馴致が目指されるが、民衆自身の思想信条は為政者や知識階級の思惑を超えて歴史を動かす大きな要因となる。また、啓蒙主義的な世俗主義的教育が進む近代だが、にもかかわらず民衆の宗教性は社会が向かう方向性を左右する力をもつことが少なくない――。日本の国家神道の歴史は、このような近代史の逆説をよく例示するものだろう。(一八一頁)


 「国家神道」こそ「ほとんど国民の第二の天性」となったものの基礎、つまり江戸末期に始まり、大東亜戦争期に完成された、「日本人の国民的アイデンティティ(大和魂)」の基礎となるコスモロジーだったのです。

 それは、聖徳太子「十七条憲法」を出発点として形成‐完成された日本のコスモロジーである「神仏儒習合」を換骨奪胎して「天皇教」としたものであり、だからこそ、国民はただだまされて信じたのではなく、かなり自然に本気で信じることができるようになったのだ、と考えられます(軍神杉本五郎『大義』参照)。

 それがあったからこそ、日本人は一丸となって植民地化される危機を乗り切り、近代国家を形成し、富国強兵へと邁進し、植民地化される側から植民地化する側にまわり、そして先に植民地化をしていたイギリスや遅れて植民地化に向かったアメリカと植民地をめぐる利害が対立した時、自らの正当性(大義)を信じて本気で戦うことができたのではないでしょうか。

 (どうも、「明治維新は善、大東亜戦争は悪」では、話のつじつまが合わないような気がします。たとえ、その中間「坂の上の雲」まではよかった、でも、どうも……)。

 善悪、功罪の評価をする前に、その歴史的事実をしっかりと認識しておく必要があると思います。

 本気で信じて死ぬつもりだった若者が、敗戦によってどのようなアイデンティティ・クライシス(危機)に陥ったか、自らの体験をベースに描いた城山三郎の『大義の末』『忘れ得ぬ翼』『硫黄島に死す』を読みながら、その後、日本人の魂はいまだにアイデンティティの再構築をできないままさ迷っているなあ(それどころか、すべての物語〔つまりコスモロジー〕の「脱構築」が正しいかのような言説がこの間まで流行しており、まだかなり強くその名残があります)、それでは環境問題を筆頭とする現在の国家的危機に対して一丸となれないのも戦えないのも当然だなあ、と慨嘆しています。

(何度も繰り返しておきますが、私は右でも左でもありません。国家神道の復活を考えているわけでは全然ありません。両方の正当な部分を統合したいと思っていて、統合のためには右のエッセンスが何だったかをも知っておく必要がある、と考えているのです)。



大義―杉本五郎中佐遺著 (1939年)
杉本 五郎
平凡社

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大義の末 (角川文庫 緑 310-8)
城山 三郎
角川グループパブリッシング

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忘れ得ぬ翼 (角川文庫)
城山 三郎
角川書店

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硫黄島に死す (新潮文庫)
城山 三郎
新潮社

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テキスト紹介:コスモロジーの創造

2010年04月24日 | 歴史教育

 今月13日から大学の授業が始まりました。

 使用するテキストや参考文献の紹介を少しずつするつもり、と学生に約束しましたので、まずテキストから紹介します。

 授業のキー・コンセプトである「コスモロジー」とは、ギリシャ語のコスモスとロゴスの合成語で、「宇宙の秩序を語る言葉の体系」といった意味です。

 言葉(ロゴス)を使う動物である人間は、言葉によって自分の生きている世界・宇宙がどうなっているのかを秩序だてて知ることなしには、心の秩序や行動の秩序を保つことができません。

 人間はコスモロジーなしには生きられない生物なのです。

 そして、ですから、人間は安心できるコスモロジーなしには安心して生きることはできませんし、安心して死ぬこともできません。

 前近代、人間は神話的・宗教的コスモロジーによって安心を得ていました。

 しかし、近代の理性・科学(主義)的なコスモロジーによって、神話的宗教は否定されることになりました。

 ところが、近代の科学主義的なコスモロジーは、「すべてはモノにすぎない」と見えてくるようなコスモロジーであり、必然的にニヒリズムを招くことになります。

 ニヒリズムに陥っては、もちろん安心して生きることも死ぬこともできません。

 しかし幸いにして、近代科学を含んで超える「現代科学」のコスモロジーは、宗教のエッセンスと調和するものであり、ニヒリズムを超えるものだと思われます。

 現代科学と宗教のエッセンスの統合から描き出される新しいコスモロジーは、理性・科学と反することなく、しかも人間が安心して生き死にできるベースになるものだ、と筆者は考えています。

 そうした趣旨をいろいろな角度から論じたのが、下記のテキストです。

 授業、ブログ授業で話しきれていないこともたくさんありますから、ぜひ、並行して読んでください。

 きっと、自分と世界の未来に希望が見えてくると思います。


コスモロジーの創造―禅・唯識・トランス・パーソナル
岡野 守也
法蔵館

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原点と到達目標としての十七条憲法

2010年02月12日 | 歴史教育

 私が『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を出した時、前々回の学生のように、「十七条と聞いて、「えっ」と正直おも」った人が多いようです。

 私自身、戦後の進歩主義的な教育を受けてきて、正直、自分がやがて十七条憲法の本を書くことになろうとは夢にも思っていませんでした。

 それだけ日本の戦後教育は、日本の精神的伝統を「忘れさせられて忘れた」ものであり、日本人のアイデンティティを見失わせるものだったということでしょう。1) 2) 3)

 しかし、縁あってその意味を再発見することができ、それは忘れてはならない日本の原点であり到達目標・国家理想であると思うようになり 4)、そのことを次の世代にもぜひ伝えておくべきだと考え、H大学では1年間の最後の4分の1を使って講義をします。

 そうすると、以下の感想文のように若者たちもしっかりと理解をしてくれるようです。

 こういう感想文を読むと、日本もまだ大丈夫だと思います。

                    *

 日本に閉塞感があると言われて久しいが、政権交代をしても、やっぱり変わらなかった。

 私は失望したが、この本を読み希望が持てた。

 偉大な聖徳太子のような人が現代にもいて欲しいと思った。

 (筆者注:この本とはテキストとして使っている『聖徳太子『十七条憲法』を読む』のこと)

   社会学部1年男子


 この本を読んで、聖徳太子という人物を知るのももちろん、日本の国家は何を目指すべきなのかを学ぶことができた。

 十七条の憲法はまさに理想の国のあり方であると感じると同時に、実践するのは非常に難しいことでもあると感じた。

 しかし、諦めてはいけない。理想の国家に向かって希望をもち、前に進もうとする力が現代に生きる私たちには必要だと思った。

 そして、そのことを教えてもらった授業にとても感謝しています。ありがとうございました。

    社会学部1年女子


 昔にこんな立派な人物がいたというのは、やはり日本はすばらしい国だと思った。

 我々は宇宙と一体であるということを学び、かなり衝撃的でした。

 この十七条憲法には、今、我々がどういう方向に進んでいけばよいか書かれていると感じました。

 いろいろなことに気づくことができたのは先生の授業のおかげです。

 何のために生きるのか? それをずっと考えてきて、先生の授業に出会って答えがはっきりし、自分が何をなすべきかはっきりしました。

 もやもやがはれてすごくすっきりしました。

 これからの日本をつくるのは僕たちなので、その自覚をもち、自分がやるべきことをしっかりやりたいと思います。

 1年間ありがとうございました。

     社会学部1年男子


 以上で「十七条憲法」の第一条から第十七条の構造についてまとめてきたが、では聖徳太子は何を一番に考えてこの「十七条憲法」をつくり出したのだろうか。

 それは国民の幸せだと思う。

 聖徳太子は自分のことを二の次に考えて、国民たちを一番に考えだ。

 そして自分の権力にもかかわらず、国民と自分を平等に考えた。

 現在の日本、いや世界中探しても一人いるかいないかの理想のリーダー像であろう。

 今、上で書いたことはこのテストの題である「十七条憲法」の構造とはあまり関係のないことではあるが、聖徳太子の素晴らしさに思わす感銘して書いてしまった。

 この日本にこのような素晴らしい人がいたことを素直にうれしく思いながら、さらに、将来このような人が現れないか、いや自分がこのような他人を思える人間に成長するんだと思わずにはいられなかった。

    社会学部1年男子


*拙著にも書いたことですが、今日本史の学界では、聖徳太子は歴史的に実在しなかったという説が主流(代表的には大山誠一氏のように)になっていることは承知していますし、学生にも伝えています。

 しかし私は、いわゆる「聖徳太子」が歴史的に実在したかどうかよりも、「十七条憲法」のようなすばらしい国家理想を掲げた文章が残っているという歴史的事実のほうが重要だと考えている、と話すのです。

 たとえそれが聖徳太子に仮託した藤原不比等の作文だったとしても、です。

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菩薩の誓願

2010年01月02日 | 歴史教育

 飛騨という言葉には、魅力的な響きがあり、行きたいと思いながら、機会がなかった。

 ようやく昨年秋、思い立って取材と充電をかね、妻と二人で高山に行った。高山を選んだのは、飛騨国国分寺が残っていることも理由の一つである。

 空に関する自分の理解が正しいかどうかを確かめたくて、2006年から般若経典をいろいろ読んでいたのだが、不遜な言い方をするととても面白くて止まらず、2007年の正月にはとうとう『大般若経』六百巻を全部読もうという気になった。こんなやたらに長いお経をちゃんと読もうという気になるなど、まさに夢にも思っていなかった。

 毎日少しずつ読み、3年かけて昨年11月末ようやく終えたが、読めば読むほど、『大般若経』における菩薩という理想の美しさ、その深い意味がわかってきて、読み終えてしまうのが惜しいような気さえした。

 わかってくるにつれ、その具象化としての書写や大般若会そして国分寺の創建などもただの空虚な形式ではないと思うようになってきた。

 改めて学んでみると、大般若経を書写させたこと、大般若会を始めたこと、そして総国分寺としての東大寺の創建、諸国の国分寺の創建などなどはみな、聖武天皇が大乗仏教の説く智慧と慈悲を基礎に国づくりをしたいと願ったことの表われと解釈できるようである。

 今、国分寺も大般若経も大般若会も形としては残ってはいるし、まさにこの年越し―新年、行事として大般若会を行なっていた寺院も少なくないようだが、意味が忘れられていることが多いように思える。そして、意味がわかってくればくるほど、それは日本人にとってとても不幸なことだと思うようになった。

 しかし、「形骸化」などというネガティブな言い方はしない。たとえ意味が忘れられかけていても、形が残っているということは幸いなことだ。残っていればこそ、再発見することも再理解することも可能なのだから。

 私の理解では、聖武天皇は仏教の精神を日本全国に行き渡らせることによって、日本を平和で美しい国にしたいと願ったのだ。それは聖徳太子の志の継承でもある。

 もちろん古代の人だから、そこには、現代人から見ると呪術的な信仰もあっただろうし、御利益信仰もあっただろう。しかしそれだけではなく、続日本紀を読むと、聖武天皇や光明皇后、孝謙天皇などは仏教の思想についてかなり深い理解ももっていたようである。

 そうした理解と日本を平和で美しい国にしたいという深い思いが具象化したのが、大般若経の書写であり、大般若会であり、国分寺である、と思って見ると、それらがいっそう美しく見えてくる。

 飛騨国分寺の現在の建物は、昭和になってから再建されたものだそうが、三重の塔など、最近のものとは思えない古びた風格のある清々しい姿で立っていた。

 境内に残っている大きな銀杏の木は、樹齢千数百年のものだというから、創建当時に植えられたものだろうか。みごとな大きさでありながら、樹勢が盛んで、晩秋なのにとても若々しく瑞々しく繁っていて、木の下に立つと、抱かれ包まれているような感だった。

 その下で、お寺の奥さんが心を込めて落ち葉を掃いておられたのが印象的だった。

 




 本尊の薬師如来や円空作の弁財天なども拝観させていただき、すがすがしい気分で門を出ると、門前に円空彫りの店があったので、入ってみると、ただのレプリカとは思えない、なかなかいいものがあった。

 あれこれと見ているうちに、笑顔の薬師さまに会った。これまでのご縁からすると観音さまのようにも思ったのだが、なぜか今回は「このお薬師さまを家にお迎えしよう」という気になって、買い求めた。

 家に帰ってお祀りしてから、これもご縁だと思って、まだ読んでいなかった『薬師経』、正式には『薬師瑠璃光如来本願功徳経』を読んでみた。

 そこには、薬師如来がまだ菩薩であった時に立てた「十二大願」が記されていて、薬師信仰の意味がわかったような気がした。ここでも、言うまでもないが大乗仏教の目指すものは「智慧と慈悲」なのである。

 例えば第三大願は「私が来世に覚りを得た時には、量りしれず極みのない智慧の方便をもって、心ある生きもの(有情)が必要とするものを限りなく得られ、生きとし生けるものが貧しく足りないことがないようにする、と誓願する」というものである。

 また第七大願は「私が来世に覚りを得た時には、もし心ある生きものがもろもろの病に苦しめられ、救いがなく、頼るものがなく、医者がおらず、薬がなく、親がなく、家がなく、貧窮して苦しみが多かったら、私の名号とお経を耳にしただけで、もろもろの病はことごとく除かれ、身心が安楽になり、家や必要なものがことごとく豊かに足りて、その上でこの上ない覚りを得られるようにする、と誓願する」というものである。






 今の我々にとって、「薬師信仰」とは、そうした薬師如来の本願の功徳にすがりあずかろうとするだけでなく(もちろんそれも悪くはないが)、薬師如来が菩薩であった頃の本願を菩薩たりたいと思っている自分自身の願とすることでもなければならない、と思う。

 まだ本格的なものを買っていないのだが、我が家の仏壇的スペースの中央に、そのお薬師さまが本尊風にお立ちになっていらっしゃる。朝夕に手を合わせると、清々しい気持ちになれるのはありがたいことである。

 今年も、文字通り及ばずながらとはいえ微力は無力ではないので、四弘誓願を自らの願として過ごしたいと思っている。


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日本人の精神的崩壊の3つまたは4つの段階 3 「理想」の死

2009年06月05日 | 歴史教育

 前期授業が始まって2ヶ月弱、今学期の受講者数は3大学合計で700名弱で決まり、コスモロジーの授業を続けています。

 熱心な学生たちがたくさんいて、喜んでいます。

 しかし、日本人の精神的荒廃(崩壊)の3段階」について話し終え、レポート課題を出したら、かなりの数の学生たちから、「〈3段階〉がよくわからない」という質問がありました。

 テキストの『コスモロジーの創造』(法蔵館)には書いてあるので、ブログにも書いたような気がしていましたが、過去の記事を調べてみると、書いていませんでした。

 この質問には「ちゃんと話したよね。あとはテキストを読んでください」と答えてもいいわけですが、もう少し親切心を出して、ここでも改めて書いておくことにしました(ただし、レポート作成中の学生諸君、あくまで参考です。このままコピペは、ぜんぜん評価できませんからね)。

 まず前近代、つまり明治維新以前、江戸時代の日本です。

 この時代、「神仏儒習合」のコスモロジーが生きていた、つまり「神・仏・天地自然・祖霊」が日本人の心のなかに生きていた時代には、精神的な荒廃――ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義――はほとんどなかったのではないか、と筆者は考えています。

 ほとんどの日本人が、神・仏・天地自然・祖霊を信じていたということは、当然、「すべては物だから意味はない」のではなく、神仏という霊的な存在があり、個々人にも霊魂があり、したがって世界には深い意味があるということですし、「絶対的な倫理の根拠はない」のではなく、神仏・天地の法・道・掟が確固としてあると信じられていたのです。

 崩壊の第1段階は、すでに述べたとおり明治維新の神仏分離、天皇制神道の国教化、社会の実際上の主流の洋学化です。

 近代化と並行して「神仏儒習合」のコスモロジーの崩壊が始まります。

 しかし戦前、社会全体、特に庶民の心のなかには「神仏儒習合」のコスモロジーは残りつづけていましたから、荒廃-ニヒリズムは一部の知識人たちの問題で、社会全体を蝕むには到りませんでした。

 決定的なのは、第2段階、第二次世界大戦・太平洋戦争・大東亜戦争の敗戦後、アメリカの占領政策――日本人の精神的武装解除――として行なわれた国家と宗教の分離、特に公教育と宗教の分離です。

 ここで、日本の子どもたちは学校で神・仏・天地自然・祖霊の大切さをまったく教わることがない・できないという教育制度が作られました。

 日本の精神的伝統であった「神仏儒習合」のコスモロジーの全国民的剥奪です。

 ここで、人生の意味と倫理の根拠になる絶対的なものが、日本の公式文化のなかから姿を消した・消されたのです。

 しかし、そこでただちに日本人の精神的荒廃が全面的になったわけではありません。

 そこに到るまでにはもう一つ段階があったと筆者は考えています。

 神仏は死んでも、それに代わるものとしての「人類とその進歩」という「理想」つまりヒューマニズムを信じられれば、まだニヒリズムには到りません。

 理想を追求することが人生の価値・意味であり、ヒューマニズムは倫理の絶対的な根拠示しうるように思えたからです。

 戦後、1970年頃までは、多くの人、特にまじめな学生は、科学や民主主義による「人類の進歩」や「人権の解放」を信じていました。

 ところが、第3段階、70年前後、学生闘争の終結以降、「理想」はほとんど死に絶えたといってもいい状態にあるのではないかと思われます。

 そうなった最大(唯一ではないにしても)の原因は、学生闘争の決着の付け方にある、というのが筆者の推測です。

 筆者も60年代、学生であり、友人のかなり多くが学生運動家とまでいかなくてもそのシンパ(共鳴者)という状態でしたが、ここでは長くなるので割愛する理由があって、運動には参加しませんでした。

 ですから、全面的に肯定してはいないのですが、学生運動の良質な部分に関しては「世の中をよくしたい」という情熱に突き動かされた「まじめな」運動であったと評価していい、と今でも思っています(若気の至りの、お祭り騒ぎにすぎなかった、あまり良質でない部分ももちろんありましたが)。

 つまり、ヒューマニスティックな「理想」の追求が根本的な動機だったのです。

 ところが、運動は、もっとも象徴的には東大安田講堂への機動隊の導入などの外部の力で鎮圧され、内部的にも中核―革マルの内ゲバや連合赤軍の浅間山荘事件などに見られる対立―荒廃現象が起こり、市民の共感・支持を失ってしまいました。

 それは後の世代に、「世の中をよくしようという理想など抱いたって、権力に鎮圧されておしまいだし、そうでなくても内部対立でこわいことが起こるだけで、理想の実現なんかできないんだ」といった強烈な印象を与えたようです(これは、たくさんの後輩世代に聞き取り調査的に確かめました)。

 そして以後の経済的繁栄とあいまって、「世の中をよくしようなんてめんどうな理想を持たなくても、みんなでもうけて、パイを分けあって、楽しく生きていけばいいんだ」といった、軽薄、ネアカ、ルンルン……の風潮が、社会の、特に若い世代の気分の主流になりました。

 そうした状況で、誰かが真剣に考えようとすると、仲間から「ネクラ」と非難され、「マジになるなよ、ダサイぜ」と冷やかされました。

 そういうふうにして起こったのは、若い世代の心のなかでの「理想の死」です。

 情熱を注ぐべき「理想」がなければ、「シラケル」のは当然です。

 表面は「ネアカ」、内心は「シラケ」というのが、若い世代の基本的な気分になったのではないでしょうか。

 「シラケ」は、徹底されていないけれども、ニヒリズムの兆候だと見てまちがいないでしょう。

 徹底すると死にたくなることがわかっているので、表面はネアカ・ルンルン…と快楽主義でやりすごそうとするのだと推測されます。

 「神・仏・天・祖霊」に加えて、それに代わる「理想」まで死んでしまったとしたら、生きていることの意味や正しく生きることの根拠も見失われ、もうニヒリズムが氾濫・浸透することをとどめるものはなくなるのではないでしょうか。

 それでも景気がよく日本人全体の金回りがよかった時代には、快楽主義でやり過ごせる人口も多かったのですが、90年代のバブル崩壊、そして今回の大不況で、快楽を追求する金もなくなってくると、心の荒廃はいっそう進み、それを行動化(アイティング・アウト)した犯罪・事件がどんどん増えてくるのではないか、と危惧しています。

 このままで大丈夫なのか、どうにかしなければいけないのではないか、どうすればいいのか、本ブログではすでにさまざまなかたちで提案をしてきましたが、これからもご一緒に考えていきましょう。



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終戦の詔

2008年08月16日 | 歴史教育

 昨日、終戦・敗戦記念日にちなんで、ネット検索して「終戦の詔」をきちんと読み直しました。

 訳文を借りると、最後のところで昭和天皇は、「そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。」と国民に語りかけています。

 原文は難解であり、しかもラジオの音が悪く、ほとんどの国民には内容はまったくといっていいほど伝わらなかったでしょうし、いまだに伝わっていないようです。

 リンクした記事には、全面的ではありませんが、半分くらい共感できるところがありました。

 確かに、戦後の日本国民は、経済的面で「世界の進む道におくれを取らぬよう心がけ」、それなりに成功はしてきたわけですが、「道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮」することは、ほとんど置き去りにしてきたのではないでしょうか。

 「国体」というとそれだけでアレルギーを起こしていた頃と違い、これは「国家と国民のアイデンティティ」と言い換えれば、否定するどころかぜひ再構築しなければならないことだ、と理解できます。

 そして、日本の国体とは絶対化された天皇制のことなどではなく、聖徳太子「十七条憲法」に成文化された「和の国日本」という国家理想でなければならない、と私は理解しています。

 「終戦の詔」の中から、受け取るべき・受け継ぐべきメッセージはちゃんと読み取りたい(もちろん無批判に盲信する必要はまったくありませんが)と思いました。




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