『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 2

2010年08月30日 | 歴史教育

 あまり長い引用はかえって紹介になりませんが、幸い小室氏自身が、本書『日本国民に告ぐ』を書いた理由について、「自虐教育がアノミーを激化させる」という見出しで以下のようにまとめています。


 このアノミーが、歴史始まって以来、比較も前例も絶して、いかに恐ろしいものか。縷述(るじゅつ)してきたが、その「恐ろしさ」は繰り返しすぎることはない。ここに、本書の論旨をまとめて開陳しておきたい。

 本書が上梓される所以は、「謝罪外交が教育にまで侵入した」からである。日本の謝罪外交が本格的にスタートを切ったのは、昭和五十一年の「“侵略→進出”書き換え誤報事件」以後である。それから後は、日本は外国に内政干渉されっぱなし。中国、韓国などの外国が日本人の「歴史観が悪い」と言ってくると、何がなんでも「ご無理、ごもっとも」とストレートに謝罪してしまう。このパターンが定着した。

 これを見て反日的日本人がつけあがった。「あることないこと」ではない。ないことをあることとして捏造して反日史観をぶちあげる。挙げ句の果てには、日本政府が平目よりもヒラヒラと謝って、反日史観が拡大再生産される。この謝罪外交は、日本の主権と独立を否定する。その謝罪外交が、ついに教科書に侵入した。

 日本の教科書は、共産党の「三二年テーゼ」と、日本は罪の国とした「東京裁判史観」によって書き貫かれている。占領軍とマルキシズムによる日本人のマインド・コントロールは、ここに完成を見たのであった。

 史上、前例を見ない急性アノミーが、これまた前例を見ない規模と深さにおいて昂進することは確実である。戦後日本における急性アノミーは、天皇の人間宣言と、大日本帝国陸海軍の栄光の否定から端を発した。これほどの絶望的急性アノミーは、どこかで収束されなければならない。

 収束の媒体となったのが、一つにはマルキシズムであり、もう一つは、企業、官僚(組織)などの企業集団だった。はじめの外傷があまりにも巨大だったため、急性アノミーは猖獗(しょうけつ)をきわめた。

 これを利用したのが占領軍である。占領軍は、日本の対米報復戦を封じ、日本を思うままに操縦するために、空前の急性アノミーをフルに利用すべく戦術を立てたのであった。アメリカ占領軍は、社会科学を少しは知っていた。日本人は、昔も今も、まったくの社会科学音痴いや無知である。これでは、勝負にも何にもなりっこない。猖獗する急性アノミーで茫然自失、巨大な精神的外傷(トラウマウ)で精神分裂症を起こしかけていた日本人に、マインド・コントロールがかけられた。

 「巧妙な」と評する人が、あるいは、いるかもしれないが、実は「巧妙」でもなんでもない。「公式どおり」のマインド・コントロールであった。だが、公式どおりのマインド・コントロールでも、急性アノミーの渦中にいる科学無知の日本人にはズバリ効いた。受験勉強しか知らない偏差値秀才にカルト教団のマインド・コントロールが利くように――。ただし、占領軍によるマインド・コントロールは、「日本の歴史は汚辱の歴史である」と教育したために、日本の急性アノミーを、さらに昂進させた。

 終戦後、当初の急性アノミーを吸収するはずだったマルキシズムは、昂進しすぎた急性アノミーによって解体されることになった。マルキシズムは、日本共産党を見棄てて新左翼に突入することによって、無目的殺人、無差別殺人にまで至る――これらはその後、特殊日本的カルト教団に引き継がれる――。前代未聞のことである。

 新左翼が下火になってきた頃から、「家庭内暴力」さらにすすんで「いじめ」が跳梁(ちょうりょう)をきわめるようになる。いずれも根は同じ。ますます昂進していく急性アノミーである。急性アノミーの激化を助長したものは何か。一つには、友人をすべて敵とする受験戦争である。しかし、決定的なものは何か。致命的なものは何か。
 「日本の歴史は汚辱の歴史である」「日本人は罪人である」「日本人は殺人者」であるとの自虐教育である。古今東西を通じて前例を見ない徹底した自虐教育である。

 占領下で自虐教育を受けた人びとが、成長して今や要路にいる。これらの人びとが、内においては、無目的・無差別殺人を敢行し、外においては平謝り外交を盲目的に続けている。「親子殺し合いの家庭内暴力」「自殺に至る“いじめ”」を生んだのもこれらの人々である。

 平成九年度から行われる究極的自虐教育。急性アノミーはどこまで進むであろうか。どのような日本人を生み出すであろうか。
 (『日本国民に告ぐ』三三〇~三三三頁)


 上記のようにまとめられた論旨が、本書全体を通してどのように展開していくか、細かいところまで紹介することはできませんが、以下のような章立てを見ていただくと、ある程度推測できるでしょう。

 第1章 誇りなき国家は滅亡する――謝罪外交、自虐教科書は日本国の致命傷
 第2章 「従軍慰安婦」問題の核心は挙証責任――なぜ、日本のマスコミは本質を無視するのか
 第3章 はたして、日本は近代国家なのか――明治維新に内包された宿痾が今も胎動する
 第4章 なぜ、天皇は「神」となったのか――近代国家の成立には、絶対神との契約が不可欠
 第5章 日本国民に告ぐ――今も支配するマッカーサーの「日本人洗脳計画」
 第6章 日本人の正統性、復活のために――自立にもとづく歴史の再検証が不可欠なとき
 附 録 東京裁判とは何であったか


 さて、私は、敗戦以後、日本人は急性アノミーの状態を脱出できていない、どころか急性アノミーは拡大再生産され、いまや極限的危機にある、という論点については、基本的に同感です。

 しかし、もっとも議論の多い「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」については、自分でしっかり検証していないので、判断留保状態にあります。

 また、日本が欧米の植民地になることを免れる上で、国民が一丸になるためのイデオロギーあるいはコスモロジーとして「国家神道」ないし「天皇教」が必要だったことも歴史的事実として認めます(他に代案はなかなか考えようがなかったでしょう)。

 けれども、本書での小室氏の所説には急性アノミーに対する処方箋が示されていないところに、大きな不満を感じます。

 他に、『日本人のための宗教原論――あなたを宗教はどう助けてくれるのか』(徳間書店、200年)や大越俊夫氏との対談・共著『人をつくる教育 国をつくる教育――いまこそ、吉田松陰に学べ!』(日新報道、2002年)なども読んでみましたが、決定的な代案はないようです。

 それどころか、「私が以前、防衛庁で講演した際、手が挙がり、「小室先生、日本の沈没をどこかで止められませんか」とか、「日本はどうやったら治りますか。方法は?」とか相談を受けました時、少し間をおいてから、「方法はない!」とひとこと言うと、ワーッと会場が沸きました」といった発言を、冗談かもしれませんが、しています(冗談だとしたら悪い冗談です)。

 それらしい発言は、『日本人のための宗教原論』で、次のように述べているところです。


 世相はますます混乱の様相を呈している。宗教事件ばかりか、幼児殺人、少女監禁……、目を蓋わんばかりの悲惨な事件が引きも切らない現代日本。アノミーが解消されるどころか、ますます進行の一途をたどっている。日本が壊れるどころか、日本人が壊れてきているのだ。/新世紀、事態はさらに悪化するであろう。/ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。あなたを救うのも宗教、あなたを殺すのも宗教である。(三九六頁)


 小室氏がどこかではっきり言っているどうか知りませんが(『三島由紀夫が復活する』とか『「天皇」の原理』などで、どう言っているのか、やがて確かめようとは思っていますし、ご存知の読者にはコメントして教えていただけると幸いですが)、こうした発言と「カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない」という言葉を合わせて考えると、どうも「もう一度天皇教を」と考えているのかもしれません。

 そうだとすると、私は反対です。

 私は、日本の歴史を肯定できるかどうかの決定的ポイントは、好き嫌いをまったく別にして、否応なしに、日本の最初の憲法=国のかたちである――これは聖徳太子が歴史的に実在したかどうか、偽作であるかどうかに関わらない事実です――聖徳太子「十七条憲法」が、普遍的な根拠をもって肯定できるものであるかどうかにかかっていると考えています(拙著『聖徳太子「十七条憲法」を読む――日本の理想』大法輪閣、2003年、本ブログ「平和と調和の国へ:聖徳太子・十七条憲法」、を参照)。

 そして、日本人が国民的アイデンティティを取り戻すには、「十七条憲法」とその根底にある大乗仏教の菩薩思想をベースにした「神仏儒習合」のコスモロジーの意味を、現代科学のコスモロジーと照らし合わせながら再発見することが、もっとも適切であり、不可欠でもある、と考えています(本ブログはそのための準備作業という面があります)。

 ここで改めて言っておかなければならないのは、私の解釈では、これまで誤解・曲解されてきたのとは異なり、「十七条憲法」は「天皇教」のバイブルではありません。

 そうではなく、菩薩的リーダーの指導による「平和と調和の国日本」という国家理想の宣言なのです。

 そして、日本の歴史全体を「和の国日本という国家理想の実現に向かっての紆余曲折・苦闘の歴史」として読み直すことこそ、いわゆる「自虐史観」を根本から超えることになるだろう、と予測しています(その作業は水戸藩の「大日本史」編纂のような大変な作業で、私が個人で出来るとは思いませんが)。

 小室氏の著作は、これからもう少し読んでみようと思っていますが、以上が私の現段階での暫定的コメントです。

 読者からの「荒らし」ではない、建設的なコメントをいただけると幸いです。



日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
小室 直樹
ワック

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聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想
岡野 守也
大法輪閣

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『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 1

2010年08月30日 | 歴史教育

 先日の『国家神道』に続いて、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック社、2005年、クレスト社、1996年の改訂版)のポイントを紹介し、コメントしておきたいと思います。

 今日も、話は長くなります。

 小室氏は、まず最初の方で、日本国民に向かって、次のような警告をしています(一行空きは筆者)。


 日本滅亡の兆しは、今や確然たるものがある。人類は一九九九年に滅亡するとノストラダムスが言ったとか。中国は香港返還後半年で滅亡する、と長谷川慶太郎氏は言った(『中国危機と日本』光文社)。しかし、より確実に予言できることは近い将来における日本滅亡である。

 滅亡の確実な予兆とは、まず第一に、財政破綻を目前にして拱手傍観(きょうしゅぼうかん)して惰眠を貪っている政治家、役人、マスコミ、そして有権者。
財政危機は先進国共有の宿痾(しゅくあ 持病)である。欧米では、人々は財政危機と対決し、七転八倒している。政治家も有権者も、早く何とかしなければならないというところまでは完全に一致し、そこから先をどうするかを模索して必死になって争っているのである。
それに対し、はるかに重要で病すでに膏肓に入っている日本では、人々は案外平気。財政破綻とはどこの国のことか、なんて顔をしている始末。

 日本絶望のさらに確実な第二の予兆は、教育破綻である。
 その一つは、数学・物理教育の衰退枯死。このことがいかに致命的か。
日本経済は技術革新なしに生き残ることはできない。しかし長期的には、日本の技術立国の基礎は確実に、崩壊しつつある。工学をはじめ「理科系」へ進学する(あるいは進学を希望する)学生が急激に減少している。まことに由々しきことである。
 技術立国のためだけではない。数学・物理は、社会科学を含めたすべての科学あるいは学問の基礎であるとまで断言しても、中(あた)らずといえども遠からず。このことをトコトン腑に落とし込んでおくべきである。

 だが、さらにより確実な滅亡の予兆は、自国への誇りを失わせる歴史教育、これである。
誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する――これ世界史の鉄則である。この鉄則を知るや知らずや。戦後日本の教育は、日本の歴史を汚辱の歴史であるとし、これに対する誇りを鏖殺(おうさつ)することに狂奔してきた。
(小室直樹『日本国民に次ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』ワック社、二〇―二二頁)


 ここでまずコメントしておくと、小室氏があげている三つの予兆は、筆者もまさにそのとおりだと考えています。これらはみなまさに大問題・死活問題です。

 しかし、不思議なことに小室氏は日本の多くの学者、政治家、財界人と同様、環境問題という根本的な「滅亡の予兆」についてはまったくと言っていいほど注目していません。

 環境問題への適切な対処をしなければ滅亡するのは人類であって、日本国民だけではありませんが、もちろん人類には日本国民も含まれているのですから、「日本国民に告ぐ」べき滅亡の予兆には環境問題もぜひ含まれる必要がある、と筆者は考えます。

 しかし、もう一度言うと、3つの予兆については、確かにそのとおりだと思いますし、それがどうして生まれてきたのかという社会学的分析については、きわめて鋭く適切で、教えられたことが多くありました。

 小室氏がソ連崩壊の10年も前に崩壊を予測していたことは、知る人ぞ知るです(『ソビエト帝国の崩壊』光文社、1980年、私も本が出た当時、すぐに買ってざっと読んだ覚えがありますし、さかのぼって1976年に出た『危機の構造――日本社会崩壊のモデル』(現在中公文庫)も買って読むには読みましたが、その時点では正直なところ小室氏の警告の本質的な意味を理解することができたとはいえませんでした)。

 その小室氏が、基本的に同じ理論から日本の崩壊を予測しているのですから、賛成するしないは別として耳を傾けるに値するのではないでしょうか。

 小室氏が拠って立つ基本的理論は「アノミー論」と呼ぶことができるでしょう。

 その概要は、小室氏自身が「カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない」という小見出しのところで、以下のように要約しています。


 アノミー (anomie) とは何か。「無規範」と訳されることもあるが、それよりも広く“無連帯”のことである。…

 アノミー概念を発見したのは「社会学の始祖」E・デュルケム(フランス人、一八五八~一九一七年)である。デュルケムがアノミー現象を発見したのは、自殺の研究を通じてであった。彼は、生活水準が急激に向上(激落の場合だけではない)した場合にも自殺率が増加することを発見した。
 なぜか。生活水準が急上昇すれば、それまでつき合っていた人たちとの連帯が断たれる。他方、上流社会の仲間入りを果たすのも容易ではない。成り上りものと烙印を押され、容易には付き合ってくれない。かくして、どこにも所属できず、無連帯(アノミー)となる。連帯(ソリダリテ、solidarite)を失ったことで狂的となり、ついには自殺する。
 これがアノミー論の概略。このように生活環境の激変から発生するアノミーを「単純(シンプル)アノミーと呼ぶ。その心的効果は「自分の居場所を見出せない」ことにある。どうしてよいか途方に暮れる。そして正常な人間が狂者以上に狂的となる。

 アノミーには、この単純アノミーのほかに、「急性(アキュート)アノミー」と呼ばれる概念がある。これは、信じきっていた人に裏切られたり、信奉していた教義が否定されたときに発生するアノミーである。
 急性アノミーが発生すれば、人間は冷静な判断ができなくなる。茫然自失。正常な人間が狂者よりもはるかに狂的となる。社会のルールが失われ、無規範となり、合理的意思決定ができなくなる。

 精神分析学者のフロイトは、急性アノミー現象を、軍隊の上下関係の中に発見した。どんな激戦・苦戦に陥っても、指揮官が泰然としていれば、部下の兵隊はよく眠り、よく戦う。厳正な軍規が保持され、精強な部隊であり続ける。しかし、指揮官が慌てふためいたらどうなるか。急性アノミー現象が発生し、部隊は迷走。あっという間に崩壊する。

 ヒトラーはこれをローマ教会に似た。ローマ・カトリックは、なぜ一五〇〇年以上も世界最大の宗派たりえるのか。それは、ローマ教会が絶対教義の過ちを認めないからである。これが世界最大の教団でありえた理由であるとヒトラーは説明する。

 かくて、急性アノミー理論は、別名「ヒトラー・フロイトの定理」ともいう。この定理を換言すれば、こうなる。カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない。傷つけてもならない。もしカリスマが傷つけば、集団に絶大な影響が及ぶ。もしカリスマを失えば、集団は崩壊する。筆者が、フルシチョフによるスターリン批判を踏まえ、昭和55年(1980年)、『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)を著したのも、実はこの急性アノミー理論によるのである。


 国民同士の間に規範と連帯がなければ国家が滅亡するのは、自明の理、時間の問題と言ってまちがいないでしょう。

 上記のような理論を基にして、小室氏は「なぜ戦後日本は無連帯(アノミー)社会となったのか」について、以下のような鋭く適切な分析をしています。


 終戦により発生した熾烈な急性アノミー、これを利用したGHQによる巧妙なマインド・コントロールによって、戦後の日本の「急性アノミー」は、さらに深く広いものとなっていった。

 根本的な原因は、GHQの「日本人洗脳計画」に基づき、「太平洋戦争史観」すなわち「東京裁判史観」を植え付けられたからである。「自存自衛」の「大東亜戦争」が、「侵略戦争」と断罪されたからである。間違った戦争だとされたからである。日本軍が「南京大虐殺」をやったと脳髄にたたき込まれたからである。しかも、繰り返し繰り返し。新聞、雑誌、ラジオ、映画、そして学校教育によって。
 日本の歴史は間違いだった、日本軍は大虐殺をやった、日本人は悪い人間である、と教えられた。これは恐ろしい。日本人には大虐殺という概念がなかった。欧米や中国ではあったが日本にはなかった。
 ところが、日本軍が大虐殺をしていたということになった。日本は大虐殺をする侵略国家とされた。多くの善良な日本人が、後ろめたい心理状態になったのは当然だ。GHQの「日本人洗脳計画」によって骨の髄から「贖罪意識」を植え付けられたからである。

 戦後、日本人はGHQによって、日本人としての誇りを奪われた。しかし、戦前の日本はそうではなかった。学校でも家庭でも日本人であることに誇りを持てと、繰り返し教育した。誇りは規範や倫理の根本である。特に、軍人が「お前らは日本人の鑑になれ、手本になれ」と教えられた。一般の日本人も、「兵隊さんだったら悪いことはしない」と当然のように思っていた。だから、民家に兵隊が泊まる場合でも、誰もが安心し、喜んで宿を提供した。実際に、悪いことはしなかった。……
 (『日本国民に告ぐ』二九三~二九六頁)


 戦前の日本を支えていた根本は何か。トップにおいては天皇共同体。天皇イデオロギーによる共同体である。天皇と日本人は、共同体を作っていると考えられた。GHQはこれを破壊しようとした。天皇イデオロギーの破壊は、天皇の人間宣言に始まり、そこで終わった。……
 カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない。カリスマが失われ、それまでの正当性(レジテマシー)が変更されたとき、その集団は崩壊し、崩壊した集団は急性アノミーになる。
 ――実は朕は人間であった――
 かくて天皇イデオロギーによる共同体は、天皇の「人間宣言」によって崩壊した。

 これはあたかも、アラーがイスラム教徒に「わしは実は悪魔であった。コーランはみんなさかさまに読め」と言ったような話ではないか。そうなったらイスラム教はどうなる。
 世界の国家(民族、宗教)には、それぞれ、その国がよって立つ正統性がある。アメリカなら建国の精神、中国(漢民族)や中華思想、イスラエルならユダヤ教、といった具合だ。かつてのソ連ならマルキシズム。正統性はその国家の背骨だから、失われたり、大きく変更されたりしてはならない。そんなことすると国家はアイデンティティーを喪失してアノミーを起こす。

 ソ連崩壊の原因がフルシチョフによるスターリン批判だったことは、すでに述べた。だから世界中の国は、その国の正統性を教育によって子供に叩き込む。戦前、日本の正統性は天皇イデオロギーであった。それが天皇の人間宣言によって崩壊したのである。
 (『日本国民に告ぐ』二九九~三〇三頁)


 小室氏はさらに、日本国民が深刻なアノミー――無規範、無連帯――状態に陥ったもう一つの原因とその結果について次のように述べています。


 一方、天皇イデオロギーによる共同体とともに、戦前の日本を支えていたもう一つの共同体が、村落共同体。天皇イデオロギー共同体を頂点とするが、底辺にあったのが村落共同体であった。……占領政策によって、頂点における天皇システムは大打撃を受けた。底辺における村落共同体も、高度成長の始まりとともに昭和三十年頃から急速に解体した。かくて、日本を支えていた共同体が頂上と底辺の両方から破壊された。そして、まさに無連帯、大アノミー。

 では、破壊された共同体はどこに吸収されていったのか。……ほとんどが大企業、その他、お役所。いずれも、本来は機能集団(ファンクショナル・グループ)。それが急速に共同体化した。
 つまり、企業という機能集団が共同体となってしまったのである。戦前、戦中までは、基礎的な人間関係は天皇との関係であり、村落における人間関係だった。しかし、そうした人間関係が全部崩れて、企業が共同体になってしまった。日本社会を作っていた共同体が、機能集団である企業の中にもぐり込んでしまった。

 これがいかに恐ろしいことか。本来、企業集団にはその集団の存在理由、目的がある。民間企業であるが収益を上げることであり、官庁であれば国益を追求することだ。ところが、機能集団が一度、共同体と化せばどうなるか。

 すでに述べたように、共同体の社会学的特徴は二重規範である。共同体の「ウチの規範」と「ソトの規範」とは、まったく異なる。「してよいこと」と「してはならのこと」とが、共同体のウチとソトでは、異なるのである。つまり、ウチでもソトでも共通に通用する普遍的な規範が存在しないことが、共同体の特徴なのである。
 したがって、企業集団が共同体と化せば、そこには普遍的な規範は存在しない。共同体のソトでは悪いことでも、共同体のウチではよいことになってしまう場合が出現する。たとえば、薬害エイズ事件での厚生省の対応。厚生省の本来の存在理由である国民の健康守るという国益は蔑(ないがし)ろにされ、身内の失策をかばうという内部規範が優先されたではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三〇三~三〇五頁)


 続いて小室氏は、受験戦争が急性アノミーを拡大生産したことを指摘していますが、これもまたまったく同感するところです。


 戦後日本に発生した「急性アノミー」を拡大再生産したのが、いわゆる受験戦争である。受験勉強は、なぜいけないのか。子供たちが泣くのが可哀相というだけではない。最大の問題は、友だち、同世代の人間が全部敵になることだ。子ども同士の連帯がズタズタになる。若者にとって最も大切なのは、同じ年齢の人びととの連帯感。それが破壊されてしまった。……

 そもそも、教育とは何か。ルソーは「教育の目的は機械を作ることではなく、人間を作ることだ」(『エミール』)と述べた。つまり、自分の頭で物事を考えるような人間に育てるということである。そして、実生活で直面するさまざまな問題を解決する能力を与えることである。そのために必要な知識を教え、知力や体力を育てることだ。それは、人間は教育されたことを土台としてしか、問題を解決できないからである。

 ところが、戦後日本の教育はどうだ。人間を作ることではなく、条件反射するネズミを作ることを目的としているではないか。……入学試験で出題される問題には、あらかじめ「正解」が用意されている。答えるべき「正解」は一つである。マークシートの上で、唯一の正解を塗り潰すことに成功したものだけが、優秀と言われエリートとして選抜される。正解に達することができなかった者は、人生の落伍者となる。……

 実生活で直面する問題に「正解」があるとは限らない。むしろほとんどの場合、「正解」が用意されていないと言ってよい。仮にあったとしても、「正解」が一つであるという保証はない。正解が一つであったとしても、求める方法がないために、近似値にしか近づけない場合もある。まさに「一寸先は闇」なのだ。その闇に果敢に立ち向かっていくための土台を築くことが本来の教育の目的なのである。

 ところが、受験勉強というプロセスの中で、問題には必ず一つの正解があるという刷込みを受ければどうなるか。正解が用意されていない問題に直面したとき、右往左往するばかりで、どう対処してよいか分からなくなるではないか。

 日本人がすぐに思考停止するのはこのためである。決して自分の頭で考えようとしない。右往左往しながら、誰かが正解を教えてくれるのを待ち望み、教えられたことだけを従順に信じこむのである。

 だから、日本人はアメリカが偉いとなったらアメリカだけ。南京大虐殺があったと教えられれば、鵜呑みにする。何が正しくて、何が正しくないかを判断する能力がなくなった。誰かが、これが絶対に正しいと言えば、盲目的についていく。その意味で象徴的だったのがオウム事件である。
 一流大学を卒業した四十代の医師が、「教祖」から地下鉄にサリンを撒けと言われたら、「ハイ」と撒く。事件の全容が次第に明らかになるにつれ、世間は「なぜ、あんな真面目で優秀な人が」と驚いた。精神に狂いが生じたわけではない、アノミーなのである。

 オーム事件は、まさに現代日本の縮図であった。なんでもアメリカ様の言うとおり。アメリカ様の言うことはすべて正しい。アメリカ様に逆らえば、地獄に落ちる……。「アメリカ」を「教祖」に置き換えれば、まったく同じ構造ではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三一〇~三一五頁)


 自虐史観・暗黒史観を教育され、受験競争で育った子どもたちが、社会のエリートになった時、何が起こるか、それはまちがいなく日本という国家の滅亡だ、と小室氏は警告します。


 本来なら友だちとなるべき人びとを敵と見做し、アノミーを起こしながら、ひたすら暗黒史観を頭に書き込んだ連中が、拡大再生産されている。その中で暗黒史観を最もしっかり記憶した者がエリートとなって、この国の中枢に入っていく。日本よ、汝の日は数えられたり。(『日本国民に告ぐ』三三〇頁)



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かつての日本人はなぜ一丸となって戦えたか:国家神道について

2010年08月27日 | 歴史教育

 今日の記事は、かなり長くなります。

 7月末、岩波新書で友人の島薗進氏の『国家神道と日本人』が出たという新聞広告を見て、買わなくてはと思っていたところ、送っていただきました。


国家神道と日本人 (岩波新書)
島薗 進
岩波書店

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 前期末の厖大な数のレポート採点と久しぶりに秋に出す本(『アドラー心理学と仏教――自我から覚りへ(仮題)』佼成出版社)の原稿締切りとで、すぐに読むことができなかったのですが、それが終わってちょうど終戦記念日(というより敗戦記念日)をはさんで数日かけて読み終えました(いつもなら新書一冊は半日もかからないのですが、重要な内容だったのでじっくり読んだので少し時間がかかりました)。

 昨日の記事に書いたとおり、非常にすぐれた分析で、「おもわず膝を打つ」という表現がありますが、そんな感じでした。

 戦前の日本という国家(大日本帝国)のコスモロジーであり、日本人のアイデンティティとなったのは、まぎれもなく「国家神道」だったことが、コロンブスの卵――自分では思いつかないのにやって見せてもらうと「なんだ、そんな簡単なことか」と思ってしまうこと――風に了解できました。

 その直後、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック出版)も読んで、さらにうなづくものがありました。

 そちらについてもできればまた記事を書きたいと思っていますが、今日はまず、『国家神道と日本人』の要点――だと私が思ったところ――を引用‐紹介しておきたいと思います(島薗さん、私の問題意識に引きつけすぎた曲解だったら、ごめんなさい)。


 「国家神道とは何か」が見えなくなっているために、日本の文化史・思想史や日本の宗教史についての理解もあやふやなものになっている。当然、「日本人」の精神的な次元でのアイデンティティが不明確になる。「国家神道とは何か」を理解することは、近代日本の宗教史・精神史を解明する鍵となる。この作業を通して、明治維新後、私たちはどのような自己定位の転変を経て現在に至っているのかが見えやすくなるだろう。このことこそ、この本で私がもっとも強くした主張したいことだ。(はじめに~)

 明治維新後の皇室祭祀の展開が、神道の近代的な形態のきわめて重要な一部であること、また、それが伊勢神宮を頂点として組織化されていく神社界と密接不可分なものとして理解されてきたことは、誰の目にも明らかである。また、国体論が天皇「神孫」論や伊勢神宮崇敬と結合し、皇室祭祀や神社界と切り離しがたい関係をもっていたことも否定のしようがない。これらを総合的に捉えて、国家神道と呼ぶのはきわめて自然なことだ。(八二頁)

 それ(『神社本義』――引用者注)によれば、日本の「歴代の天皇は常に皇祖と御一体であらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし」てきた。戦時中のこの文書では、天皇は「現御神」「神ながら」の特性をもつ、神的な存在として仰ぎ見られている。そして、「国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉つて忠孝の美徳を発揮」してきたという。こうして「君臣一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生成発展し続けて」いるのだ――『神社本義』はこう述べている。
 確かに国家神道は、人々をこのような信仰の境地にまで進ませた。第二次世界大戦の末期などはそうした信仰が昂揚し、多くの人たちがそれに巻き込まれていった。天皇陛下のために命を投げだすことも覚悟する人々が少なくなかったのだ。しかし、一九三〇年頃までのことを考えると、このような境地に達していた人はそう多くはなかった。(六六頁)

 実際には神社神道は皇室祭祀と一体をなすべきものとして形成されていった。そしてそれらは国民に天皇崇敬を広め、それによって国家統合を強化しようという意図と切り離せないものだった。……その導きの糸となった理念は、祭政一致とか祭政教一致とか皇道と呼ばれたものである。神道祭祀や天皇崇敬を核とする、あるべき国家の像が江戸時代末期に形成され、維新政府の政策の指標となった。そうした指標に従って、神社政策、宗教政策、祭祀政策、国民教化政策が行われていった。神道祭祀と天皇崇敬が核にあるという点で、それらの諸政策は相互に連関しあっており、天皇崇敬の周囲に形作られた「祭」や「教」は一体をなすものであり、「国家神道」と呼べるような全体を形づくっていた。(九二頁)

 まず注目したいのは、「大教」「皇道」などの語である。明治維新後の早い時期にこうした理念が聖典的な意義をもつ天皇の言葉、つまり「詔勅」として提示され、以後も正統理念としての地位を失わなかった。それは、万世一系の「国体」や天皇崇敬と神道の祭や神祇崇敬を結びつけ、国民の結束と国家奉仕を導き出すことができる理念だった。一方、それはまた多様化や自由化を含意し、個々人の自発性を尊びながら富国強兵に向かう国家を支えることができるような理念としても捉えられていた。今、私たちが「国家神道」とよんでいるものの観念内容(「国家神道の教義」にあたるもの)は、明治維新前後の時期に「大教」「皇道」などとよばれていたものとおおよそ重なり合うものなのだ。(一〇六~一〇七頁)

 教育勅語の成立によって、学校では天皇による聖なる「教」が絶大な威力を発揮することになった。そうした帰結と見比べるとき、少数の関与者のやりとりを通して進行したその成立経緯は、必然性を欠いた歴史の気まぐれのような印象を与える。しかし、巨視的に見れば、元田と明治天皇を動かしていた力は、明治維新の枠組みそのものが準備したものである。すなわち皇道論や「祭政教一致」の建前が掲げられ、それに従って制度構築が進められ教育勅語に結晶したのだ。(一三一頁)

 国家神道の祭祀体系の形成と「教育勅語」に至る「教え」の形成は、いちおう別個の過程をたどっている。しかし、それらはどちらも天皇崇敬と祭政一致・祭政教一致の理念に基づいたものである。その導きの糸となる天皇の言葉は、皇道論者が起草した一八七〇年の「大教宣布の勅」によって示されていた。そこでは「天皇の祭祀」と「皇道」「治教」とが一体のものと考えられ、新たな国家の根本原則と見なされている。その意味で「大教宣布の勅」は、天皇自身が示した国家神道のグランドデザインを示す文書となったと見ることができる。(一三五頁)

 学校や軍隊や国家行事を通してナショナリズムが育てられるのは、欧米をはじめとして世界各地の国民国家で広く共通に見られることである。日本ではナショナリズムが国家神道という宗教的要素と絡み合って展開した。世俗的ナショナリズムが標準的と考えられたヨーロッパとは異なるパターンであるが、世界各地を見渡せば、ナショナリズムと宗教が重なり合って展開する例は珍しくない(ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』)。宗教的ナショナリズムが目立つ国として、インド、イスラエル、イランを初めとするイスラーム諸国が思い浮かぶが、ロシアや東欧諸国やアジアの仏教国もそこに含まれよう。
 このような観点に立つ時、国家神道が国民自身で担い手となる下からの運動という性格を帯びるようになったことに注意する必要がある。ナショナリズムが国民によって下から支えられていく性格をもっていることは広く認識されている。国家神道も武士層が鼓吹し国家制度に取り込まれて広まっていったのだが、やがて民衆に受け入れられ、下からの国民運動として、あるいは宗教的ナショナリズムとして広まるようになっていったと見ることができる。(一六六~一六七頁)

 こうした近代日本宗教史の見解を理解する上で示唆に富んだ指摘をしているのは、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(一九五六年)の久野が執筆した「第四章 日本の超国家主義」だ。久野は宗教について論じているのではなく、政治理念について論じているので少々文脈は異なるが、国家神道の歴史という問題に適用してみる価値があると思う。
 久野によると明治憲法の国家体制は、国民向けの「顕教」とエリート向けの「密教」との組み合わせで成り立っていた。
 天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、ほとんど国民の第二の天性に仕上げるほど強力に作用した。/しかし天皇の側近や周囲の輔弼機関から見れば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作り出された。/注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の効果がなりたっていたことである。(久野・鶴見『現代日本の思想界』一三一―一三二ページ)
 国民全体に対しては、無限の権威をもつ天皇を信奉させる建前を強化し、国民の国家への忠誠心を確保しようとした。これが「たてまえ」、つまり「顕教」だ。他方、国家と社会の運営にあたる際には、近代西洋の民主主義や自由主義の生徒に準拠し、経済や学問知識の発展、そのための人材活用を尊んだ。これが支配層間の「申しあわせ」で、「密教」にあたる。
 憲法解釈に即していうと、「顕教」は天皇=絶対君主説となり、「密教」が立憲君主制の立場であり天皇機関説となる。「小・中学校および軍隊では、「建前」としての天皇が決定的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された」(同前、一三二ページ)
 伊藤博文や井上毅の意図では、この「密教」の立場が政治システムを統御し続けるはずだったが、「顕教」を掲げる下からの運動、そしてその影響を受けた軍部や衆議院が統御を超えて「密教」の作動を困難にしていく。「軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省をしたがえ、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後にはメチャメチャにしてしまった。昭和の超国家主義が舞台の正面におどり出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって教育された国民大衆がマスとして目ざまされ、天皇機関説のインテリくささに反撥し、この征伐に動員される時を待たねばならなかった」(同前、一三三ページ)
 近代的な政治は世俗的な力によって動くと考えていた久野は「超国家主義」という「イデオロギー」が基軸だったと考え、宗教用語をたとえとして用いているが、久野のいう「顕教」は事実、国家神道としてとらえるのが適切なのだ。(一七八~一七九頁)

 ……この書物では、これまであまり注目されてこなかった理由に目を止めている。――国民国家の時代には国家的共同性の馴致が目指されるが、民衆自身の思想信条は為政者や知識階級の思惑を超えて歴史を動かす大きな要因となる。また、啓蒙主義的な世俗主義的教育が進む近代だが、にもかかわらず民衆の宗教性は社会が向かう方向性を左右する力をもつことが少なくない――。日本の国家神道の歴史は、このような近代史の逆説をよく例示するものだろう。(一八一頁)


 「国家神道」こそ「ほとんど国民の第二の天性」となったものの基礎、つまり江戸末期に始まり、大東亜戦争期に完成された、「日本人の国民的アイデンティティ(大和魂)」の基礎となるコスモロジーだったのです。

 それは、聖徳太子「十七条憲法」を出発点として形成‐完成された日本のコスモロジーである「神仏儒習合」を換骨奪胎して「天皇教」としたものであり、だからこそ、国民はただだまされて信じたのではなく、かなり自然に本気で信じることができるようになったのだ、と考えられます(軍神杉本五郎『大義』参照)。

 それがあったからこそ、日本人は一丸となって植民地化される危機を乗り切り、近代国家を形成し、富国強兵へと邁進し、植民地化される側から植民地化する側にまわり、そして先に植民地化をしていたイギリスや遅れて植民地化に向かったアメリカと植民地をめぐる利害が対立した時、自らの正当性(大義)を信じて本気で戦うことができたのではないでしょうか。

 (どうも、「明治維新は善、大東亜戦争は悪」では、話のつじつまが合わないような気がします。たとえ、その中間「坂の上の雲」まではよかった、でも、どうも……)。

 善悪、功罪の評価をする前に、その歴史的事実をしっかりと認識しておく必要があると思います。

 本気で信じて死ぬつもりだった若者が、敗戦によってどのようなアイデンティティ・クライシス(危機)に陥ったか、自らの体験をベースに描いた城山三郎の『大義の末』『忘れ得ぬ翼』『硫黄島に死す』を読みながら、その後、日本人の魂はいまだにアイデンティティの再構築をできないままさ迷っているなあ(それどころか、すべての物語〔つまりコスモロジー〕の「脱構築」が正しいかのような言説がこの間まで流行しており、まだかなり強くその名残があります)、それでは環境問題を筆頭とする現在の国家的危機に対して一丸となれないのも戦えないのも当然だなあ、と慨嘆しています。

(何度も繰り返しておきますが、私は右でも左でもありません。国家神道の復活を考えているわけでは全然ありません。両方の正当な部分を統合したいと思っていて、統合のためには右のエッセンスが何だったかをも知っておく必要がある、と考えているのです)。



大義―杉本五郎中佐遺著 (1939年)
杉本 五郎
平凡社

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大義の末 (角川文庫 緑 310-8)
城山 三郎
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忘れ得ぬ翼 (角川文庫)
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角川書店

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硫黄島に死す (新潮文庫)
城山 三郎
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生きているだけでも大変な奇跡

2010年08月26日 | メンタル・ヘルス

 筆者がコスモス・セラピーのなかでよく使わせていただくエピソードがありますが、どこで読んでのか忘れてしまっていて、数字も少し記憶違いをしていました(過去の記事「奇跡的大成功の連続の成果としての私」の数字も訂正しておきました)。
 今日、書棚の本をぱらぱらとめくっていてたまたま見つけたので、備忘録も兼ねて、引用紹介しておきたいと思います。

 世界的な遺伝学者の村上和男さんが、おなじく世界的な遺伝学者の木村資生(もとお)さんの言葉を引用して、次のようにいっておられます(改行は筆者)。


 ダーウィンの進化論では、何十億年という長い時間をかけて、人間も動物の植物もみんな進化してきたことになっています。そのキーワードが自然淘汰による適者生存です。

 環境の変化に適応し、適応できた強者のみが生き残ってきた、その進化の実体は何かといえば、「遺伝子を通じて変わった」ということなのでしょう。

 妊娠初期の人の胎児は、魚に似た形態をとります。
 人間の遺伝子の中には、昔の魚や、爬虫類などの遺伝子も入っており、受精してから誕生するまでに、胎児は母親の体内で過去の進化の歴史をもう一度大急ぎで再現するのです。

 これは遺伝子のなかに進化の歴史が全部インプットされているためと思われますが、それでも人間から魚や爬虫類が生まれないのは、そういう遺伝子はどこかでOFFになるからで、万が一、ONになっても生まれてこないようにセットされているようです。

 木村資生という有名な遺伝学者がおります。木村さんはダーウィンの進化論に対し「中立的進化論」を唱えて世界的に名を知られた人なのですが、その木村さんによれば、

「生き物が生まれる確率というのは、一億円の宝くじに百万回連続で当たったのと同じくらいすごいことだ」

 といっておられます。

 ふつうの人は天才や秀才をうらやましがりますが、その立場に立てば別のつらさもあって、逆に凡庸に生まれた人間をうらやましがっているかもしれません。

 いずれしろ、人間はこの世に生まれてきただけでも、この自然界で大変な偉業を成し遂げたのであり、現在、自分が生きているということはまさに奇跡中の奇跡、素晴らしいことなのだともっと自覚するべきではないかと思います。

 あなたが今この世に存在して、生きているだけでもまさに大変な奇跡なのです。遺伝子からの発想では、そういうことが言えるのです。

(村上和雄『生命の暗号――あなたの遺伝子が目覚めるとき』(サンマーク文庫、一六九―一七〇頁)



生命(いのち)の暗号―あなたの遺伝子が目覚めるとき
村上 和雄
サンマーク出版

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猛暑の中、環境問題の根本問題について考える

2010年08月25日 | 持続可能な社会

 65年前の暑い夏、日本は敗戦しました。

 65年後のさらに猛烈に暑い夏、日本は財政破綻などなどの危機にあります。

 なかでも、環境問題はもっとも基本的な大問題でしょう。この暑さは気候変動・温暖化によるものと考えてまちがいないのではないでしょうか。

 2007年4月、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が、

 2020年代(気温上昇幅 0.5~1.2度程度)

 ・ 数億人が水不足による被害にさらされる
 ・ サンゴ礁の白化現象が広がる
 ・ 生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す
 ・ 洪水と暴風雨の被害が増える
 ・ 栄養不足、下痢、呼吸器疾患、感染症による負担が増える
 ・ 熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える
 ・ 感染症を媒介する生物の分布が変わる
 ・ 北米では、河川の流量が減り、現在のような水需要は満たせなくなる

という近未来予測と警告を公表していました。

 これらの予測は、すでに顕著に予測以上のスピードで現実化していると見えます。

 しかし、「今年も暑いね」という反応が多いようです。

 このままでは、日本人は確実に「茹で蛙」です。

 その先触れである「熱中症」について検索してみると、「熱中症で搬送、4万人突破 今夏の死者145人」「統計を取り始めた2008年以降で最悪のペース」ということでした。

 戦前の日本人は、一丸となって米英という大きな敵と戦うことができました。結果が敗北だったこと、あまりの犠牲の多さ、そもそも戦争の是非といったことはおいて、戦いぶりについてだけいえば、ともかく日本人は実によく戦ったといえるのではないでしょうか。

 もし、現代の日本人がかつてのように一丸となって環境問題という大問題と適切なアプローチで戦うことができれば、今回は敗北ではなく、大勝利・大成功できることはまちがいありません。

 そして、私たちの考えでは、何が適切なアプローチであるかも、大筋はすでに明らかです (持続可能な国づくりの会「理念とビジョン」参照)

 しかし、現状の問題はそもそも、現代の日本人は一丸になれないし、戦えないというところにあるのではないでしょうか。環境問題を真剣に考えている人同士でさえなかなか一丸となれないようです。

 この根本問題を放置しておいて、どれだけ環境問題を論じても、提案をしても、運動をしても、目標の達成・勝利は不可能ではないかと思われます。

 なぜ、戦前の日本人が一丸となって戦えたか、なぜ現代の日本人が一丸となれないか・戦えないかは、どういうコスモロジー・世界観が共有できていたか、今はできていないかというところに根本的原因がある、と私は考えています。

 最近読んだ以下の二冊は、そのあたりの問題――国家神道・天皇教というコスモロジーの成立から浸透そして崩壊まで、そしてその後、日本人が陥った急性アノミー(規範と連帯の喪失)――について、非常に豊富なデータをベースにしかも明快な分析をしていて、私が「森を見て木を見ず」風に大まかに捉えていたことの詳細な裏付けができた感じで、とても参考になりました。

(しかし残念ながら、それぞれの本のテーマではないのでやむをえませんが、代案になるコスモロジーに関する提言はありません。私の分析と代案は、『コスモロジーの創造』〔法蔵館〕や本ブログ全体で提言してきました。特に最近のものとしては、 「環境問題と心の成長」参照)



国家神道と日本人 (岩波新書)
島薗 進
岩波書店

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日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
小室 直樹
ワック

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コスモロジーの創造―禅・唯識・トランス・パーソナル
岡野 守也
法蔵館

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環境問題と心の成長 目次

2010年08月23日 | 持続可能な社会

  環境問題と心の成長 目次

環境問題と心の成長 1  はじめに、道元禅師とのご縁、環境問題への関心
環境問題と心の成長 2  古代文明の興亡、地球全体の問題、認識と対処の可能性
環境問題と心の成長 3  成長の限界、政府(本音)と環境省(建前)のズレ
環境問題と心の成長 4  近代を公平に評価する、近代文明のプラス面、近代の合理主義と科学
環境問題と心の成長 5  近代の自由とばらばらコスモロジー、近代のマイナス面①植民地化、近代のマイナス面②植民地獲得競争から戦争へ、近代のマイナス面③環境破壊
環境問題と心の成長 6  近代のマイナス面④ニヒリズム・エゴイズム・快楽主義、空しい自分のことで精一杯、いのちも物にすぎない?
環境問題と心の成長 7  ばらばらコスモロジー―無神論―倫理の崩壊、ニヒリズムと自殺・うつ、ニヒリズムとエゴイズム・快楽主義
環境問題と心の成長 8  ばらばらコスモロジーとミーイズム、ささやかな幸せ――小市民と庶民の違い、快楽主義と大量消費社会
環境問題と心の成長 9  環境先進国・北欧への旅、迫る危機、
環境問題と心の成長 10  近代以前の見直し 
環境問題と心の成長 11  前近代のマイナス面、前近代のプラス面①持続する平和、鎖国は自衛手段だった
環境問題と心の成長 12  前近代のプラス面②持続可能な社会の先駆的実現、前近代のプラス面③つながりコスモロジーと倫理感 
環境問題と心の成長 13  洞爺湖サミットの「待った」状態、今年の夏、北極の氷は消滅する? 
環境問題と心の成長 14  環境問題解決のための4象限の条件
環境問題と心の成長 15  欲望は肥大する?、欲望についての3つの考え方、
環境問題と心の成長 16  自然な欲求の階層構造、自然な欲求と神経症的欲求=欲望
環境問題と心の成長 17  近代の産業社会と神経症的欲求、ニヒリズム・快楽主義と欲望、神経症的欲求の治癒 
環境問題と心の成長 18  仏性と環境、自我と無我は対立概念か、無我は非実体性を意味する
環境問題と心の成長 19  心の成長と自我中心性の克服、感覚‐運動期――自分と他者の区別がつく、前操作期――ものごとをコントロールする思考が身につく
環境問題と心の成長 20  具体操作期――他者の視点を推測できる、形式操作期――自我の確立と自己中心性の克服、エゴの確立とエゴ中心性の克服、形式操作とエコロジカルな認識 
環境問題と心の成長 21  日本的自然感から合理的自然観へ、ヴィジョン・ロジック段階――総合的合理性、ヴィジョン・ロジックと人類の未来
環境問題と心の成長 22  個人性を超えた(トランス・パーソナルな)発達段階、自我の成長とビッグ・クエスチョン、前(プレ)パーソナルと超(トランス)パーソナルの区別
環境問題と心の成長 23  トランスパーソナルな段階の否認、体験と意味内容と言葉、トランスパーソナルな体験の妥当性
環境問題と心の成長 24  スピリチュアルな発達の四段階、心霊段階、自然・心霊神秘主義と環境倫理
環境問題と心の成長 25  微妙段階、神との合一に至る七つの段階、自然と神・スピリットの関係
環境問題と心の成長 26  心の成長の最高・最終段階、元因段階
環境問題と心の成長 27  非二元段階の大乗仏教的表現、禅的表現、道元禅師の表現、非二元段階の普遍性、非二元段階と環境問題
環境問題と心の成長 28  智慧と慈悲、菩薩の誓願、菩薩と環境問題


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エディソンの不屈の精神:就活に勝つメンタル・タフネス9

2010年08月21日 | メンタル・ヘルス

 9月30日から始まる秋の講座「ポジティヴ・シンキングの心理学」の準備に、N・V・ピールの著作のエッセンスの抜粋を作っています。

 その一部をご紹介してきましたが、今日もまた一つ。

 「そんなにネタを明かしてしまっていいんですか?」と心配してくださる方があったので、
 「だいじょうぶです。あなたの好きな歌手の好きな歌があるとして、その楽譜とCDとライヴと、どれがいちばん感動すると思いますか?」と聞きました。
 「もちろん、ライヴです」という返事。
 「レクチャーも同じです。心に関しては、心理学のレクチャーのレジメを読むより、本を読むより、ライヴのレクチャーやワークショップのほうが、圧倒的に学ぶものが多いんです。だから、そのことがわかっている人は、ただのブログ記事で済ませないで、きっと講座に来るでしょう。ブログ記事でのネタ明かしは、レクチャーの案内文なんです。」
 「なるほど!」

 というわけで、以下、とてもいいなあと思ったポジティヴ・シンキングのエピソードをご紹介します。

 エピソードの主人公はかのエディソン(エジソンとも表記)です。



 故人となったニュージャージー州知事チャールズ・エディソンが、その父、有名な発明王であるトーマス・A・エディソンの不屈の闘志と立ち直りの早さについて、私に語ってくれたことがある。

 一九一四年の十二月九日、ウェスト・オレンジにあったエディソンの工場が火災で焼け落ちてしまった。トーマス・エディソンはその夜、二百万ドルを消失し、労作の多くが灰になってしまった。保険には二十三万八千ドルしか入っていなかった。コンクリート造りの建物は火災になることはないと、そのころは信じられていたからである。

 エディソンの息子は二十四歳、彼自身は六十七歳だった。息子は狂ったように駆けまわり、父を探した。ようやく見つけたとき、エディソンは火のそば近くに立っていたが、顔は火を反射して赤くなり、白髪は十二月の風になびいていた。

 「父のことを思って、私の心は痛みました」と、チャールズ・エディソンは言った。「父は六十七歳、もう若くはない。それなのに、すべてが燃えてしまった。そのとき、父は私を見つけて怒鳴りました。『チャールズ、お母さんはどこだ』知らないと言うと、父は言いました。『お母さんを見つけて、ここに連れてきなさい。お母さんも、生きているあいだに、二度とこんな光景、見ることはできないんだから』」

 翌朝、トーマス・エディソンは、すべての希望と夢を焼き尽くしたその焼け跡を歩き、そして言った。「災難というのもいいもんだ。失敗も全部、燃えてしまったんだから。まったく新しくやり直せる、ありがたいことだ」

 火災から三週間、彼の新しい工場は、世界ではじめての蓄音機を作り出した。これが、人間として避けがたい不運にあいながら、不屈の精神と勇気と信念を持って生きていった男の物語だ。彼は、六十七歳という年齢を意に介さなかった。いつでも立て直しができたからである。

 このような話をすると、きまって、「エディソンは天才だったから、そんなこともできたのだろうが、私はだめだ」と言う人がいる。

 たしかに、エディソンはふつうの人ではない。しかし私は、天才的能力もなければ名声にも財産にも恵まれない多くの人たちが、エディソンのように力を発揮するのを見てきた。
 正しくものごとを考える人なら、逆境のときに正しく行動し、正しく信じるものだ。どんなことが起こっても乗り越えることができるという信念をもてば、世界もそれに応えてくれるのである。

 聖書もそのことを約束している。「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネによる福音書16章33節)もし、あなたが積極的な信念を持っているなら、あなたもまた、すでに世に勝っているのである。

              (『積極的考え方の人生』64頁~66頁)


 エディソンのような天才でない人間がエディソンのような不屈の精神と勇気をもてるようになれるのか? なれます! というのが、ピールと筆者の答えです。

 これまでに書いてきた記事をよく読んで理解し、実践してください。それだけでも、かなりのところまで行けるでしょう。

 それから、ご紹介してきた本も読んでみてください。

 そして、できれば、できるだけ、ぜひ、講座にもお出かけください。

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就活に勝つメンタル・タフネス 8

2010年08月11日 | メンタル・ヘルス

 年2回、夏休みの初めと冬休みの初めに、レポート採点に忙殺されます。

 今年は、8月第1週まで授業という大学があり、昨日ようやく3つの大学の採点―成績評価が終わり、「今期もまた全体としては学生たちはよく学んでくれたな。教えてよかった」という満足感と同時に、どっと疲労感も感じました。

 今回はタイミングが書き下ろしの原稿(仮題『仏教心理学とアドラー心理学』佼成出版社、10月初旬刊行予定)の締め切りと重なり、けっこうしんどい作業でした(でも、ちゃんとやれました!)。

 若干の手直しを残しひとまず終わったところで、久しぶりに記事の更新をします。

 今日も、ここのところ続けてご紹介しているノーマン・V・ピールの文章の一節をご紹介しましょう。とても素敵なエピソードです。

 本文にはない、私がつけた小見出しは「朝の選択:今日一日幸福でいること選ぶ」です。


 あなたが将来、幸福になるか不幸になるかを決定するのはだれだろうか。それは、ほかならない、あなた自身だ。

 あるテレビ番組の有名な司会者が、一人の老人のゲストに招いた。その老人が何か言うたびに、それが実に素朴で適切だったので、観客は大声で笑い、老人を好きになった。この司会者も深い感銘を受け、ほかの人々と一緒に楽しんだ。最後に司会者はその老人に尋ねた。

 「なぜあなたはそんなに幸福そうなのですか。何か秘訣をお持ちなのですか」

 「いいや。秘訣など一つもないよ。平々凡々たるものさ。ただ、わしは朝起きた時に二つに一つを選ぶのさ――幸福であるか、それとも不幸であるかをね。それで、私がどちらをとると思うかね。幸福を選ぶのだよ。それだけのことさ」

 これはあまりに単純すぎるように思われるかもしれない。しかしアブラハム・リンカーンの言葉なら、だれも非難することはできないだろう。リンカーンは、「人々が幸福になろうと決心すれば、それだけで幸福になれる」と言っている。

    (ノーマン・V・ピール『積極的考え方の力』(ダイヤモンド社、32頁)


 こうした朝の選択が、就活に何の関係があるんだろう、何の役に立つのだろう、と疑問に思った人がいるかもしれません。

 しかし、実は大いに関係あり、大いに役に立つのです。

 朝起きて、幸福感があるのとないのとでは、どちらが元気が出るでしょう。

 元気があるのとないのとでは、どちらが今日の就活がうまくいく可能性が高いでしょう。

 「でも……」と言いたい人には、過去の記事、「心の向きを変える」「心の向きを変える続」を読んでいただくといいと思います。

 確かに、世界には、どこをどう探しても「幸福と感じられる理由」が一つもないように思える極度に悲惨な状況におられる方もあるでしょう。

 しかし、インターネットを利用でき、このブログを読むことのできる人には、そういう人はいないと思います。

 自分が見るものをちゃんと選択すれば、幸福を感じることのできる理由はいくつもあるはずです。もちろん、不幸を感じる理由ばかり見ていれば、不幸感でいっぱいになるのは当然ですが。

 ぜひ、心の目の向きを変えて、探してみてください。きっとあるはずです。

 例えば、「私は、こうしてちゃんと食べるものがあり、眠る部屋があって、健康で、就職活動ができるだけでも、幸福だ! それに今日は空も青いし」と。

 そして、幸福を感じる理由を発見できれば、確実にメンタルは一歩も二歩もタフネスに近づきます。

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