善通寺にて

2006年07月31日 | メンタル・ヘルス

 昨日から大学の夏期集中授業で来ています。

 瀬戸内海は猛烈な暑さですが、そこで生まれ育った人間にはある種懐しい暑さです。

 歩いているとくらくらしそうなほどの強烈な日射し、白い砂地の道のたまらない照り返し、クマゼミがジャンジャンジャン…と鳴きしきっています。

 空海の生誕の地とされる寺には、空海の生まれた頃からあったという楠の大木がいまなお青々と繁って、夏の激しい日射しをものともせず、葉をきらきらと輝かせています。

 五重の塔は青空の下、悠然と立っていました。

 今日の授業は近代のニヒリズムの話まで、明日からコスモロジーの話をします。

 受講生は11名、22の瞳ですが、これからいくつの瞳が輝やき始めるでしょう。

 一昨年輝いた瞳の女子学生が母校の事務職についていて、用事で事務室に行ったら、さっと気をきかせてコーヒーを入れてくれました。

 とてもいい感じでした。

 また明日、(私としては)早起きしなければなりません。

 では、みなさんおやすみなさい。

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コスモロジー教育で心はすっきり晴れやかに

2006年07月28日 | 心の教育



  *越前の山々


 今年はいろいろ工夫して学生数を絞ったので、去年ほどではありませんが、それでも相当な数のレポートを読まなければなりません。

 というわけで時間を取られブログのネタが思い浮かばないのと、やっぱりご紹介したくなったのとで、毎度おなじみですが、学生たちの声をお伝えします。

                   *

 前期こういった話を聞いてきて、今までにないような気持ちになりました。どう表現すれば良いのかよくわかりませんが、心が晴れたというか、壁が崩れたというか、自分の中の世界が広がったような感じをうけました。世の中の全てのものはつながっている、全ての事が起きることはつながりがあるからだ、というのはなぜか安心するというか、気が楽になるような印象をうけました。このおかげで自分がなぜここに存在するかも考えられるようになり、またその意味も少しずつわかるようになれてきていると思います。また、他の「人」だけでなく、地球上全てのものに対する見方も少し変わったと思います。今まで自分の中に全てのことに対する納得がいかなかった部分というか、嫌になってしまうということころがあったのですが、物事の考え方が少し広くなり、自分なりに納得できるようになってきていると思います。地球や宇宙について興味が出てきて、自分で本を借りたりして勉強しています。
 今まで受けたことのない感じの授業だったので、本当に新鮮で楽しかったし、自分の実になりました。
 後期もよろしくお願いします。
                            (2年男)

 ……授業を受けた後に何というかこの心が軽くなり安らぐというか、言葉では表しきれないすっきりとしたすがすがしさを感じています。…… (2年男)

 ……「全宇宙と私の一体性」」の思想を授業で学び、なんというか言葉では表せない心地よさを感じました。正直に感動できたのは、それがなんら科学的にも矛盾することのないものだからだと思います。……あらゆるものと、「つながり」を感じながら生きるということはとても素敵なことであり、大変心地良いです。……(2年男)

 ……宇宙も自分も昔は1つのもので、今も1つなんだということに気付けることがこんなにも素晴らしいものだとは、思ってもみませんでした。そのことによって意味のないものなんてない、すべてのものに意味があると思えるようになり、なんだか心の中がスッキリ晴れやかになった気がします。……(2年男)

 前期の授業を受けただけだが、なんとなく生きる希望が見えてきた気がする。この授業を受ける前は、ただなんとなく生きて、なんとなくバイトして、なんとなく学校にきていた。しかし、先生の授業を受けるたびに、「宇宙誕生」の話しや「仏教」の話を聞いて、少しずつ僕たちがなんのために生きているのか分かってきた。後期の授業もしっかり出て、「生きる」とはなんなのか? 誰かに伝えられるようにしたい。(2年男)

                   *

 何人もの学生が特徴的な感想を述べています。

 「心が晴れた」「安心」「気が楽になった」「心が軽くなった」「安らぐ」「すっきりとしたすがすがしさ」「心地よい」「スッキリ晴れやかになった」……。

 これは、理論的納得が実感に変わった、ヘッドからハートへという深まりだと捉えていいでしょう。

 「生きる希望が見えてきた」というのは、コスモロジー教育の目的がみごとに達成できたということだと評価していいと思います。

 学生たちも「誰かに伝えられようにしたい」と言っています。

 ネット学生のみなさんも、ぜひ、伝えてください。



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つながりの心を育む

2006年07月27日 | 心の教育




 永平寺に行ってきました。

 永平寺で、道元禅師の思想のエッセンスは「一顆明珠」だと言わせていただきました。

 これは、私にとっては画期的に名誉なことです。

 そして、90人ほどの、その90%くらいは若い、保育園・幼稚園の先生に、以下のような投影画像を見ていただきながら、以下のレジュメのようなコスモロジー教育の話をさせていただきました。

 朝3時から起きて研修を受けているみなさんの中には最初は眠そうにしている方もいましたが、ワークになるとすっかり元気になって、楽しんでくださったようです。

 きっと彼女たちは、たくさんの曹洞宗のお寺の付属幼稚園・保育園で、子どもたちに「つながりの心」を伝えてくださるでしょう。

 そうしたら、コスモロジー教育が、子どもたちにいのちの意味を伝える上で、大学から幼稚園・保育園までの年齢層すべてに有効であることも実証されることでしょう。

 二重に楽しみです。








   「つながりの心を育む」 要旨

                     2006/07/26 於 福井県・大本山永平寺
                     曹洞宗保育連合会・第53回保育研修大会
                     サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也


 コスモロジー教育は仏教教育の現代版

 コスモロジー教育=コスモス・宇宙とのつながりを伝え、実感させることによって子どもを元気にする教育。

 現代科学と仏教の教えはとてもよく一致している。

 20世紀初め、ハッブルという天文学者が銀河同士が遠ざかっていることを発見→宇宙が拡大している→時間を遡ると宇宙は今より小さかった→今から137億年前、宇宙は限りなく小さかった(10の-34乗cm)。小さすぎて物質の大きさではなくエネルギーだった。エネルギーのいちばん典型的なかたちが光。

 →1947年、ガモフという科学者が宇宙は限りなく小さいエネルギーの玉が大爆発的に広がって百数十億年たったら今の大きさ・すがたになったという説「ビッグバン仮説」を唱えた。

 最初一つだったものは、どんなに拡大しても今でも一つ。エネルギーとしては宇宙のすべてが一体である。

 道元禅師の教えの中心も、「尽十方界一顆明珠(じんじっぽうかいいっかみょうしゅ)」つまり宇宙のすべてのものは「つながって一つ」ということ。

 お釈迦さまの教えの中心も「縁起」つまり「つながり」ということ、さらにすべてがつながりあっていて結局は一つということ=「一如」。

 切れる子どもたち

 相手との肯定的なつながり感が切れている。
 今自分がこうしたら後でどうなるかという時間的なつながり感も切れている。
 今の、自分だけの感情で動いている。

 リストカット(手首を切る)をする若者

 自分のことを心配してくれているまわりの人とのつながり感が切れている=孤独感。
 自分の未来への希望を見失っている=肯定的なつながり感が切れている。

 つながりを見失うと心の病、再発見すると健康に

 現代の心の病のほとんどが、〔肯定的な〕つながりを見失っているという原因で、他者か自分かどちらかを否定するという結果になっているものと見ることができる。

 つながりを再発見すると、自分も他者も肯定できるようになり、元気になる。

 心理的に健康ないい人生の基礎として、つながりの大切さと楽しさを伝えていただきたい。それは、心の健康教育であり、切れたり、自殺したりする子どもを生み出さないための予防教育でもある。

 コスモロジー教育は幼児にも適用できる

1)他者との肯定的なつながり感-一体感

○スキンシップの遊び
○自分のいいところさがし、ともだちのいいところさがし→さがしたいいところを認めあう=ほめあう

2)自然との肯定的なつながり感-一体感

○空気とのつながりを感じるワーク
○水とのつながりを感じるワーク
○食べ物になってくれる動物や植物とのつながりを感じるワーク
○大地とのつながりを感じるワーク
○太陽とのつながりを感じるワーク

*これらは、まだまだ工夫中ですし、もっともっとたくさんの方法が工夫できると思います。おそらくこれまで幼児教育でやってきたことの多くが、「つながり・一体性の実感」というところに特に焦点を当てていけば、そのままコスモロジー教育=現代の仏教教育になると予想・期待されます。ご一緒に工夫していけると幸いです。

参考図書:岡野守也『生きる自信の心理学――コスモス・セラピー入門』(PHP新書)
       〃 『道元のコスモロジー』(大法輪閣)

参考ブログ:「伝えたい!いのちの意味――岡野の公開授業」(http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/)特に2005年10月5日以降の記事



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東尋坊で思ったこと

2006年07月24日 | 持続可能な社会
 明後日、曹洞宗大本山永平寺での催しで講演をさせていただくことになっています。

 道元禅師の『正法眼蔵』はそろそろ40年読んできた「私の古典」であり、その道元禅師の創建された大本山永平寺で講師として話をさせていただくのは、きわめて名誉なことであり、大きな喜びです。

 その『正法眼蔵』の有名な巻である「山水経(さんすいきょう)」の冒頭に、次のような美しい言葉があります。

 而今の山水は古仏の道現成なり。
(にこんのさんすいはこぶつのどうげんじょうなり。)

 「今目の前にあるこの山と河は永遠なる仏の真理がありありと実現したものである」というふうな意味でしょう。

 これは、道元禅師が京都におられた頃に書かれたものであり、とすればこの「山水」は直接には京都深草あたりの山や川のことでしょうが、永平寺に近い白山や九頭竜川などを見ると、むしろこうした雄大な風景こそ、この言葉にふさわしいという気がします。

 といっても、実は福井、永平寺に来るのはまだ二度目です。

 せめて、雄大な絶壁の風景で有名な東尋坊くらいは見ておきたいと思って、今日、小雨の中を行ってきました。





 東尋坊のみごとな岩場は、新生代第3紀にマグマが噴出しやがて固まってできたものだそうです。

 これもまた、「古仏の道現成」、コスモスの働きのありありとした現われにちがいありません。





 晴れていたらもっとすばらしい日本海の風景も見ることができたのにな、とやや残念でした。

 それよりももっと残念だったのは、プラスティック、発泡スチロール、ビニールといった、なかなか自然に還らないゴミが、何十メートルもある崖の上から見てもわかるくらい、岩場に打ち上がっていたことです。

 さらにそれだけではなく、バス停から岩場まで、いくつもの食堂などが廃業しているのが、物悲しい感じを誘いました。

 地方には景気の回復など及んでいないようです。

 自然は汚れ、地方はさびれていくばかり、今の日本はどう考えても道をまちがっているのではないか!という怒りと嘆きが湧いてきて、ただ楽しく観光とか、自然の美しさに感動するだけでいられないのが、物書きとしては、さらにさらに残念でした。

 高浜虚子や三好達治の句碑、詩碑が立っていましたが、彼らは私のように余計なことを考えないで、ひたすら自然の美しさを詠うことのできる時代に生きたという意味で、うらやましい、と思ったことです。





 無条件に礼賛できる自然の美しさと、ことごとに物悲しさを感じないでいい豊かな生活を、私たちは何としてでも再獲得する必要があるのではないでしょうか。

 でなければ、大自然や道元禅師や私たちのご先祖さまに申し訳がたたない、と改めて思いました。



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生態系崩壊の崖っぷち――ジャンプか転落か

2006年07月23日 | 持続可能な社会

 シルル紀(4億3千9百万年前)に植物が海から上陸しはじめ、デヴォン期(4億8百万年前)にそれを追って動物が上陸をはじめて、海と陸との「環境」と生物のバランス、微生物と植物と動物のバランスという意味での地球の「生態系(エコ・システム)の原型がほぼ出来上がってきたと考えられます。

 このシステム=組織は、コスモスの130億年以上の自己複雑化・自己組織化の成果です。

 地球の歴史でいっても、40億年以上の進化の産物、生命の歴史でいえば35億年あまりの進化の到達点です。

 このシステムは、生命と非生命(環境)、それぞれの生命グループというふうに分かれてはいても(分化)、一つのシステムとしてまとまりをもち絶妙のバランスを保ってきたようです(統合)。

 しかし人類の登場、特に文明の誕生以来、人類(の一部、文明を形成した人々)は、必ずといってもいいくらいその文明圏の生態系のバランスを壊してきたようです。

 「文明の後に砂漠が残る」という言葉があるとおりです。

 考えて見ると、古代文明の後はすべて砂漠的な環境になっています。

 いまや文明の規模はグローバルになっていますから、生態系の崩壊もグローバルに起こりつつあります。

 そういう状況を見て、「人間は地球・生態系のガンだ」という人もいます。

 確かにこのままだと、そう言われても仕方ないでしょう。

 そして、ガンそのものがガンの患者さんの死と共に死なざるをえないように、人類も〔人類が生き延びられるようなかたちの〕生態系の崩壊と共に崩壊するのは理の当然です。

 (といっても、人類をふるい落とした後、ややかたちを変えた生態系は確実に残り、コスモスはまちがいなく進化を続けると思われますが)。

 しかし私は、人類が地球のガンとして絶滅していくのか、コスモスの自己認識・自己感動器官として意味深い生存を続けるのかは、まだ決着がついていないと思っています。

 間違いなく、瀬戸際・崖っぷちではあるでしょう。

 そして、ジャンプして向こう岸に渡れるか崖から転落するのかは、ジャンプする覚悟ができるかどうか、覚悟ができたとして、ちゃんと必要な距離のジャンプができるかどうかにかかっていると思います。

 いずれにせよ、私たちがスリル満点の時代に生きていることは確かです。

 もちろん私は、ハラハラドキドキしながら、なんとか十分な飛距離のジャンプをしたいと身構えています。

 スウェーデン・モデルは、飛距離が十分かどうかという疑問は残りますが、確実に一つの大ジャンプだ、と私には見えています。

 さて、ここで、ご一緒に大ジャンプに挑戦してみませんか?



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日本も緑の福祉国家に

2006年07月22日 | 持続可能な社会
 去年の夏は記録的暑さでした。

 今年の冬は記録的豪雪でした。

 そして今年の梅雨は記録的豪雨が続いています。

 私の親しい環境専門家の方は、「明らかに地球温暖化による異常気象です」と言っておられました。

 私たちは「身近なできることをする」だけでは、「本当に効果のある」ことをすることはできないようです。

 では、どうすれば本当に効果が出るのでしょうか。

 私たちが今達している結論は、「人間の経済行為を自然の許容する範囲にとどめながら、しかも一定の安心で安全な豊かな社会を維持できるような成長は続ける」という戦略を政治主導-国家単位で実行するほかない、ということです。

 そういう、「経済・財政と福祉と環境のバランスを取る」という離れ業を実現しつつある国がある――スウェーデン!――というのは、驚くべきことですが、事実だと思われます。

 スウェーデンに関する情報を知れば知るほど、驚きと羨望とそして希望の思いが湧いてきます。

 今日も終電まで、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』の著者小澤徳太郎先生と、シンポジウムに向けての打ち合わせを、スタッフも含めて徹底的に行なってきました。

 「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」



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コスモロジー教育の効果、改めて実証

2006年07月20日 | メンタル・ヘルス

 2大学計3学部の授業がすべて終わりました。

 前期末のアンケートの最後の質問項目「授業をうけたことによって、人生観・世界観にプラスの変化があったと感じていますか」に対して、以下のような答えがいくつもあがってきました。

 コスモロジー教育=コスモス・セラピーの臨床効果としては例年のとおり確認された、ということですが、やはり改めて教えてよかったと喜んでいます。


 この授業は人間を変える力を持っています。 (3年男)

 超ネガティブ人間の私が人生をわくわくしながら楽しめていることに自分でびっくりです。そのくらい人生について考え方が劇的に変われました。
 今の方が楽しいです。どうもありがとうございました。 (3年女)

 これからもこのような授業が増えていけば、もっともっと多くの人たちが幸せになり、そして生きていく意味を考えることができると思います。 (3年男)

 人生観が変わった。 (2年男)

 自分の存在を肯定的にとらえることができてうれしいです。 (2年女)

 他の講義にはない「認識」や「考え方」を学べる授業で毎回新しい発見がありました。授業も工夫されていて飽きることがありませんでした。何よりもこの授業のおかげで新しい前向きな考え方ができるようになったと思います。 (4年男)

 8くらいプラス。誰かに伝えたい。 (4年女)

 プラスもプラス。でもたまにへこむから、そういった時は、この授業を思い出す。 (3年女)

 こんな風に人生をとらえることはなかったです。新しい出会いに感謝します。 (4年女)



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競争原理から協力・つながり原理へ

2006年07月16日 | 持続可能な社会

 以下は、2003年に『人材教育』という雑誌に書いた小エッセイですが、ふと思い出して、この時点で改めてみなさんに読んでいただこうかなと思いました。

                         *

 ごく最近、遅ればせながら、2002年度アカデミー賞主要4部門授賞で評判の『ビューティフル・マインド』を見ました。

 研究に打ち込むあまり精神のバランスを失い、統合失調症の幻覚に悩まされふつうの生活ができなくなった、天才数学者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアが、妻の愛に支えられて、やがて大学に復帰し、ついにノーベル賞を授賞するまでの47年の苦闘の、実話に基づいた物語です。

 「ゲーム理論」について多少は知っていたのですが、その土台を築いた数学者にこんなドラマがあったとは知りませんでした。

 そして、評判どおりとても感動的な物語でした。

 しかし、ここでは映画の紹介をしたいわけではありません。

 不勉強をさらけるようで恥ずかしいのですが、この映画で、「ゲーム理論」が――ノーベル賞を授けられるほど――確立され広く承認された理論であることを改めて確認したことを言いたいのです。

 主人公が友人達とバーに行くと、3人の女子学生が入ってきて、中の1人が大変な美人なので、目は彼女に集中します。

 その時、主人公はインスピレーションで、従来の競争理論に基づいて行動すると、男達は美女に集中して奪い合いをし、結果としては誰もが彼女を手に入れることができない、しかしもし「自分の利益とグループ全体の利益を同時に追求する」ことにして、競争をやめて他の2人にもアプローチしたら、みなが女子学生の誰かと付き合える(つまり全体の利益になる)、と言います。

 主人公はやがてそれを数学的に定式化し、150年間の定説であるアダム・スミスの理論――「各人が自由に自分の利益を追求することが本人の利益にも結局全体の利益にもなる」――を根底から覆したというのが、話の始まりです。

 しかし映画の話はそこまでで、私が言いたいのは、「ゲーム理論」がノーベル賞的に正しいとすると、もしかして「競争原理(理論)」が社会や会社を活性化すると思っている(ように見えます)、日本も含む先進諸国の多くのリーダーのやっていることは、とても古く(150年前)有効性を失った理論に基づいていることになるのではないか、ということです。

 数学理論そのものを論評する力はありませんが、どうもそうではないかという気がします。

 気がすると言っても、単に主観的・直感的に言っているわけではありません。

 ここ数年、現代科学の様々な分野の標準的な仮説をできるだけ統合的に学んでみた結果、近代科学から現代科学へは大きな飛躍があることに気づいたことと、その話が非常によく一致しているからなのです。

 そして、教育=人材育成、人材活性化=再教育に関わる世界でも、すでに「競争原理」(筆者の用語では「ばらばらコスモロジー」)ではなく「協力原理」(「つながりコスモロジー」)、しかもきわめてスケールの大きな規模の協力・つながり原理に移行することが、真の、長期的な、自・他の利益になる時代がはっきり来ている、と筆者は考えています。



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もう夏?

2006年07月15日 | 持続可能な社会

 まだ梅雨明け宣言はありませんが、湘南地方はかなりきつい日射しで、猛烈な暑さでした。

 私の好きな夏の花、ハチス(槿ともいう)が咲き始めました。

 特に真っ白なハチスが、暑い日射しにも負けず、凛と咲いているのが好きなのです。

 私も、ああいうふうでありたい、と思うのですが、この暑さではなかなか。

 夕方になって、いくらか涼しくなり、外に散歩に出たら、林で蝉が鳴き始めていました。

 妻に聞くと、昨日からのようです(私は朝から大学などずっと外出でしたので)。

 しかし、今日は何ともうカナカナが鳴き始めていたのです。

 これはちょっとちがうのではないか、と思ってしまいました。

 私の記憶では、カナカナは、夏の終わりを告げる少しさみしい気分にふさわし蝉だと思っていましたので。

 これは、異常気象のせいではないんでしょうか? くわしい方、教えてください。

 (*ふと思い出して、人に頼っていないで自分で調べようと、ウィキ・ペデイィアを見てみたら、「地域にもよるが、成虫は梅雨の最中の6月下旬頃から発生し、ニイニイゼミ同様、他のセミより早く鳴き始める。以後は9月中旬頃までほぼコンスタントに鳴き声を聞くことができる」とあって、この件に関しては大丈夫のようです)。


 しかし、去年の夏は記録的な暑さ、この冬は北では記録的な豪雪だったことは確かで、今年の夏はさらに記録的な暑さ……ということにならなければいいんですが。

 「茹で蛙」の話は、もう現実化しつつあるのかもしれない、と感じています。

 もっとも大きなコスモスのスケールでは心配していないんですが、地球規模のスケールについてはとても心配です。



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「よりよい」あるいは「まし」なコスモロジー?

2006年07月14日 | 生きる意味

 私は、「思想の自由」ということを相当に尊重しています。

 ですから、私の発言はいつも提案やお勧めであって強制ではないつもりです。

 しかし、なぜか強制に感じる方もあるようです。

 それは、一つはつながり・重なりコスモロジーの圧倒的な説得力によって、それまで自分が考えてきたことを全部否定されるように感じるからかもしれません。

 もう一つは、「強くお勧め」しすぎて、強く制しようとすること=強制に感じられてしまうのかもしれません。

 後のほうは、私の責任です。失礼。

 前のほうは、私の責任ではありません。

 さて、それについて、ここのところいただいているコメントへの返事のコメントですが、ネット受講生のみなさんと共有したいので、本文欄で書きます。

 まず、「自分の考え」は「自分そのもの」ではない、のではないでしょうか?

 考えは、いろいろ変わるもの、変わっていいもの、場合によっては変えたほうがいい、条件付で変えなければならないものだ、と私は考えています。

 認識、知識、体験等々が変われば当然変わります。

 生まれた時から、完全な、絶対に正しい考えを持っている人など、この世には存在しないでしょう。

 人間(とその考え方)は、生まれてから死ぬまでずっと不完全なものだと思うのです。

 だから、成長につれて変わっていいのです。

 それどころか、幼くて、不完全で不正確な考え方をしていて、ちゃんと生きていくのに不都合がある場合は、変えたほうが当人のためにも、まわりのためにも、いいでしょう。

 さらに、歪んでいて、倫理的あるいは法律的に他者に迷惑をかけ、かつ自己破壊的になるような考え方の場合、まわりに対する責任、自分自身に対する責任として、変えなければならないと考えられます。

 自分のこれまでの考え方を大切にするあまり、自分自身のいのちとまわりの人のいのちを大切にできなくなるとしたら、それはいわゆる「本末転倒」ではありませんか?

 つながり・重なりコスモロジーは、現代科学の標準仮説をベースにしているので、順を追って体系的に学んでいただくと、圧倒的な説得力が感じられると思います。

 ということは、これから圧倒的多数の人間の合意点になる可能性もきわめて高いということです。

 つまり、これからの世界平和のための人類的合意ラインになりうるのではないかということです。

 その上、自分と他の人々、そして世界のすべての存在をきわめて肯定的に捉えることができるようになります。

 だとすれば、これを採用しないという手があるでしょうか?

 強制に感じたりするお気持ちもよくわかりますが、できたら、心情的な抵抗感をご自分で克服していただいて、〔絶対でも完全でもないけれども〕自分と他者のために、「よりよい」あるいは「まし」だと思われるコスモロジーを採用していただくといいのではないでしょうか?

 でも、もちろん、最終的にはみなさんの思想の自由・選択の自由です。

 私は――半分残念ながら――人間には自分にもまわりにも不都合・迷惑・有害な考え方であってもこだわり続ける権利――あるいは抜き難い傾向――があって、それはなかなかどうにもならないな、と感じています。



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もうすぐ夏休み?

2006年07月13日 | Weblog

 今週は、まず一つの学部で前期授業が終わりました。

 これから、たくさんのレポートを読まなければなりません。

 メッセージがどのくらい届いたか楽しみなのと、作業としてはちょっと大変なのとで、複雑な心境です(若者なら「ビミョー」というところかな)。

 その次は、サングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』の第88号の原稿を書くのに追われていました。

 さっきようやく終わったところです。

 つかの間の解放感!

 明日はもう一つの学部で授業終了。

 来週もう一回で、すべて終了です。

 といっても、すぐに福井・永平寺での講演、四国の大学での夏期集中と、この夏もあまり夏休みにはなりそうにないのですが……

 ま、働けるうちが花、と思うことにしましょう。



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宇宙の感動器官?

2006年07月12日 | 生きる意味

 人間は、理性の領域で世界・宇宙を認識するわけですが、それだけではなく人間の心には情動の領域があります。

 つまり、知るだけでなく感じるのです。

 知らなかったことを知った時、新しいものを知った時、そして何より美しいものを知った時、ただクールに知るだけでは終わりません。

 感じる、感じて心を動かされる、感動するのです。

 私たち人間が生きていてやっていることには、かなりどうでもいいことや、どちらかというとやめたほうがいいことや、なんとしてでもやめたほうがいいことまで、あまり感心しないことがいろいろあります。

 抑圧、搾取、差別、憎悪、軽蔑、怒り、そして今もあちこちで起こり続けている戦争・紛争・テロ、環境破壊などなど……。

 にもかかわらず、人間がこの地球上でやっているましなことがあるかと考えると、まず思い浮かぶのが、感動するということです。

 美しいもの、世界の美しさに感動している人間の心はそれそのものもまちがいなく美しい、と私は思うのです。

 そして、認識の場合とおなじく、人間が感動するというのは、コスモスの心を持った部分がコスモスの他の部分を見て・感じて感動するということです。

 私の心において、コスモスがコスモスそのものに感動しているのですね。

 とすると、「人間はコスモスの自己感動器官である」という結論が自然に導き出されます。

 私は、このことに気づいた時、まさに感動しました。

 「そうか、私はコスモスが自己感動するために心を持ったコスモスの一部として存在しているのかもしれないぞ!」と。

 それ以来、人間は何のために生きるのかという問いには、まず「感動するため」と答えることにしています(もちろんそれだけではないのですが)。

 感動するためにこの世に生まれてきた私というのは、なかなか素敵ではありませんか?



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人間は宇宙の自己認識器官?

2006年07月10日 | 生きる意味

 宇宙カレンダーの12月22日(3億6千2百万年前)、石炭紀に爬虫類が創発し、脳幹が創発し、衝動が創発します。

 12月23日(2億9千万年前)、ペルム紀に哺乳類の先祖である哺乳類型爬虫類が繁栄しますが、12月24日、生物の大量絶滅で古生代が終わります。

 12月25日(2億4千5百万年前)、三畳紀に、大量絶滅を免れた哺乳類型爬虫類の中から哺乳類が創発し、大脳辺縁系が創発し、情動が創発します。

 12月29日(6千5百万年前)、新生代第3紀に霊長類が創発し、大脳新皮質が発達し、シンボルが創発します。

 そして12月30日、ようやくヒト科に属する生物が創発し、前頭葉が発達し、初歩的な言葉と概念が創発します。

 12月31日(1千6百万年以降)、新生代第4紀に人類が創発し、言葉を使った思考や認識が発達していきます。

 ここまでたどってみると、今の私たちの心には、蠕虫の神経組織と感覚、魚類の神経管と知覚、爬虫類の脳幹と衝動、哺乳類の大脳辺縁系と情動、霊長類の大脳新皮質とシンボルが引き継がれており、それに前頭葉と言葉・概念が積み重ねられているということが見えてきます。

 もちろんこの積み重ねはすべて宇宙の自己複雑化です。

 その積み重ねによる進化の結果、私たち人間において何が起こっているかというと、世界・宇宙を認識するということです。

 そして人間もまた宇宙の一部ですから、人間が宇宙を認識するということは、宇宙の一部が宇宙の他の部分を認識するということです。

 ……とここまで話してから、学生たちに「いい? ここでだまされちゃダメだよ。ここが大事だからね。ここまでの論理のつながりにごまかしはないよね? 大丈夫だよね? 僕の言っていることを鵜呑みにしないで、自分でしっかり考えてみてね」といいます。

 私の考えでは、どう考えても人間において「宇宙が宇宙を認識している」というほかありません。

 とすれば、人間は宇宙の自己認識器官だということになります。

 そうだとして、宇宙は自己認識器官をたまたま=偶然創り出したのでしょうか?

 それとも、ある種の意図があって――つまり自分が自分であることを認識したくて――人間を創り出したのでしょうか?

 ここからは、各人の解釈の問題になります。

 しかし、ビッグバン以降の宇宙に自己進化の方向性があることは、もはや現代科学的には疑う余地のないことのように思えます。

 その方向性は、偶然に決まった方向性なのか、それともある種の必然性のある意図なのか?

 今の段階では、どちらの解釈も可能だと思いますが、どちらの解釈を採用すると、自分の存在をすばらしいものと捉えることができるでしょう?

 どちらの解釈が元気になれるでしょう?

 いずれにしても、選択するのはみなさんです。

 もちろん私は、宇宙には意志があって私たちを生み出したという解釈を採用しています。

 「宇宙は、私を生み出したくて137億年もかけてくれたんだ!」と思うと、自分というのはなんとすばらしい存在なんだろうと感じられるからです。



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宇宙が宇宙を見始めた?

2006年07月09日 | いのちの大切さ

 大学の前期が終わりに近づき、以下のようなまとめの授業を行なっています。

 宇宙カレンダーの12月15日、蠕虫が創発し、神経組織と感覚が創発します。

 ここで、私たちの知るかぎりの宇宙に、初めて感覚するということが起こったのですね。

 それまでは、様々なものは存在していても、それが感覚されることはなかったのです。

 考えて見ると、とても不思議な気のすることですが。

 そして12月19日(オルドビス紀、5億1千万年前)に、脊椎動物=魚類が創発し、神経管と知覚が創発します。

 例えば「目」が誕生するのです。

 それまで、世界はあっても見るものがいなかったのに、ここで世界を見るものが生まれたのですね。

 そして、魚が見ている世界も魚自身も宇宙ですから、考えて見ると、宇宙の一部が宇宙の他の部分を見始めた、ということになります。

 縮めていうと、「宇宙が宇宙を見始めた」のです。

 これは、長い長い分化と統合による自己進化の結果です。

 もちろん私たち人間も今、「目」という進化の遺産を受け継いで、世界を見ています。

 ……このあたりで、「これは奇跡のような確率の偶然が重なってこうなったんだろうか? それともそこにはある種の必然があると解釈すべきなんだろうか?」と、学生たちに問いかけます。

 ブログ学生のみなさんはどう答えられますか?


 *過去の関連記事はこちらを参照。


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つながってこそいのち、つなげてこそいのち

2006年07月03日 | いのちの大切さ

 生命の創発、性の創発などのところで、

 「いのちは40億年、一ヵ所も途切れることなくつながって私に届いている。それが、いのちというものなんです」

 「だから、特別な事情がある場合は別にして、ここまでつながったいのちを私のところで途切れさせるのは、やっぱりおかしいんじゃないかな?」

 「つながってこそいのち、つなげてこそいのち、とぼくは思うんだけどねえ」


という話をします。

 そうすると、次のような感想を書いてくれる学生がいます。

                        *

  文学部4年 女

 毎回先生の講義を受けたときには、この感動を伝えたいと思って、母や兄弟、友人などに話そうとするのですが、うまく伝えられません。

 これは先生の話を受動的には理解できたつもりでも、能動的には理解しきれていないということなのかな、と思います。

 でも先生の話は、うわっつらの知識のお話ではなく、いつも実感を伴って伝わってくる話だなと思います。

 特に私が感動したのは、生命衝動のお話です。

 私は幼いころから、将来は結婚して子供をもうけたいと思っていました。

 いえ、もうけたい、というよりも、それがあたり前で、絶対にお母さんになっておばあちゃんになるんだ、と思っていました。

 しかし他の人の話や、世間のにニュースや何かを聞くと、「子供を産みたいと思わない」「子供を持つメリットがわからない」などという声も聞こえてきて、あれ、私は何で子供を欲しいと思ってたんだろう、子供を持つことに理由って必要なのかな?とふと考えてしまいました。

 でも先生のお話を聞いて、私が小さいころから持っていたこの気持ちは、生命のひとつとして普通のことだったんだ!と、はじめて納得できました。

 また、「すべてのものには関係があるから、関係ないと思うものでもほんとは関係がないのではなく関心がないだけ」とおっしゃっていたのがすごく印象に残っています。

 私はよく「関係ない」と言ってしまっていたけど、そう言う前に考えるようになりました。

 まだ私にはわからないことが多いけれど、後期を含めこれからもっともっと学んでいきたいです。

                        *

 こういう学生たちの声を聞いていると、子どもを産みやすい、育てやすい環境を整備することももちろん重要だが、こうした、いのちの意味、いのちをつなげることの意味を伝えることこそ、「少子化対策」にもっとも必要なことなのではないか、と思うのです。

 今の日本には、そういう「心・内面」のことまで伝えられるリーダーが必要なのではないでしょうか。

 ……といったところで、出てきそうなクレームに先にコメントしておきます。

 伝えることは、押し付けること・強制することとは違います。 




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