国際セミナー「いのちと自然の尊さについて考える」案内

2013年03月02日 | いのちの大切さ




 サングラハ教育・心理研究所の会員にもなっていただいている茨城大学の中川先生のお誘いで参加している国際セミナーの案内です。

 サングラハの東京集中講座の前日ですが、興味とお時間のある方はぜひお出かけください。

 筆者も、短い時間ですが、根本的な問題を提起する報告を行なう予定です。

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自殺を考えている人にかける言葉が見つかった!

2012年08月21日 | いのちの大切さ

 学生の感想・報告の紹介を続けます。

 ご紹介したい文章があまりにたくさんあって、どこで区切りをつけるか、かなり困惑していますが、とりあえずもうしばらく続けたいと思っています。



 H大学社会学部3年男子

 現代科学のコスモロジーが、ニヒリズム、エゴイズム、快楽主義を克服していく過程は僕にとっては、いわばカタルシス状態であった。

 宇宙全体はひとつの宇宙エネルギーであるという考えは驚愕に値した。

 宇宙137億年という歴史が僕の体の中に秘められており、僕と宇宙は1つでつながっているという考えは、人の命には絶対的な価値や尊厳があるのだということ思い知らせることが可能であり、そのことによって人がニヒリズムやエゴイズム、快楽主義を克服していくことができると実感した。
 それは、実際に、僕個人として、体感として身をもって実感した。

 特に、ニヒリズムに陥っている考え方をもち、自殺したいと考えている人にたいして、僕がその人にどのような言葉をかけて、その自殺を思いとどまらせるのかという、具体的な言葉や文章が頭の中に今まではなかった。
 むしろただ単に、「頑張って」とか「君なら大丈夫だよ」とか「もう少し考えてみようよ」など、そのようないわば誰でも言えるような、短くて、根拠のない、自殺しようと思い悩んでいる人からすればなんの効果もない形式的、儀礼的な言葉しか思いついていなかった。

 しかし、この講義を通じて、その自殺しようとしている人にたいして投げかけるべき言葉が見つかった。それはこういう言葉である。

 「考えたことないだろうけど、君の祖先は10代遡ると1024人もいることになるんだよ。その人たちが本当に必死になって努力して、苦労して、愛情を次の世代に注いでくれたから、今の君がいるんだよ。その1024人の愛情の結晶が君なんだよ。もちろん、会ったことも、見たことも、聞いたこともない、けれども確実に君の祖先である多くの人が、今の生きてる君をつくったんだ。その君という人間がどうして死ぬことを考えるんだい。君には間違いなく生きていく価値があるし、生きていく意味があるよ。」と。

 実は、僕が高校2年生になったばかりの4月、同じクラスメートの弟が電車に飛び込んで自殺した。
 そのクラスメートの弟には、会ったこともないし、顔も知らなかったけれども、上の言葉を投げかけてあげるべきだったと後悔している。
 その弟本人に、直接言う機会がなかったとしても、僕がそのクラスメートと話をして、間接的にでも、その弟に、言葉を届けることができたかと思うと、とても残念で、後悔している。

 理由はもちろん、その弟は、生きる価値があったし、生きる意味があったからである。

 現代科学のコスモロジーを理解していくにつれて、僕という存在は、両親だけではなく、様々な人のおかげで生きているということも実感した。

 僕が小学6年生のときの話である。
 卒業式が無事終了し、卒業式が行われた体育館から教室に戻り、担任の先生の最後の話を聞くことになった。
 何を話すのかなとドキドキしていたところ、先生は好きな言葉について話し始めた。先生が好きな言葉は「お陰さまで…」という言葉であるとのことだった。
 当時の僕は、その話を聞いている時、ポカンとしていた。何のことを言っているのかイメージできなくて、理解できていなかったからだと思う。先生が最後の話に、わざわざ、その好きな言葉を話した理由も分らなかった。
 だが、今になって思うことは、先生が、「様々な人のお陰で生きていることを、今は分からなくても、いつかこの子たちが分かるようになったら、うれしいわ」と思い、だからこそ1番貴重で、大切な最後のお話で、このことを話されたに違いないということである。

 現代科学のコスモロジーが認知されて、日本に浸透していき、ニヒリズムやエゴイズム、快楽主義をもつ人々の数を減少させていき、その結果として、最終的には、様々な面において日本人が再び元気を取り戻すことができると確信している。

 また、この考え方は日本中にとどまらず、世界中で通用する思考法であるとも僕は考えている。



 コスモロジー教育のメッセージを伝えた場合、前回書いたように、当初不安や抵抗という反応があることも少なくありませんが、当人のレディネス(準備状態)が熟している場合にはきわめてスムーズに受け入れられることもあります。

 上記の学生の場合は、友人の弟という身近な存在が自殺したというきつい体験があったため、「自殺したいと考えている人を思いとどまらせることのできるような言葉をつかみたい」という切実な思い、つまり心理的な準備状態が熟していたのだと思われます。

 彼自身も、授業のプロセスを通じて自分の内部のニヒリズム、エゴイズム、快楽主義が克服されていく「カタルシス体験」を「実際に、僕個人として、体感として身をもって実感した」と報告してくれています。

 それだけに、かける言葉を見つけるのが間に合わなかったこと、本当に悔やまれることでしょう。私も本当に残念です。


 コスモス・セラピー=コスモロジー教育は、繰り返して言っているとおり、いつでも・どこでも・誰にでも効果があるわけではありませんが、このケースのように顕著なカタルシス体験をもたらし、ニヒリズム、エゴイズム、快楽主義を一掃してしまうこともしばしばありますし、実際、自殺を思いとどまらせる効果があったケースもあります。

 たとえ自殺を考えている人全員にでなくても、その中の何人かにでも効果があった・ありそうだとしたら、教育、心理療法・精神医学の現場で試してみていただく価値はあるのではないでしょうか。

 そういう意味で、ぜひ日本中で認知され浸透していってほしいものだと願っています。

 共感していただける方は、ぜひ広報・拡散にご協力ください。

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いじめと自殺2:学生の報告・意見

2012年08月05日 | いのちの大切さ

 「現代科学のどういうポイントがニヒリズム、エゴイズム、快楽主義を克服するのか」というレポートの解答と感想の膨大な枚数を読み続けています。

 その中に、大津の事件にかかわって感想や意見を書いているものがいくつもありました。すでに2回紹介していますが、あえてもう1回、紹介しておきたいと思います。

 今回の感想は、1つは、いじめた側も近代科学のコスモロジーに染まっていたと思うというカミングアウト、もう1つは、自殺も辛さからの逃避という意味で「快楽主義」だと思うという意見です。



 H大政策学科1年男子

 今回のレポートをまとめてみて、現代科学のコスモロジーが近代化の問題点である「ニヒリズム」「エゴイズム」「快楽主義」を克服するために必要な要素を含んでいるということが分かった。

 最近では大津の中学校でのいじめによる自殺の事件などが大きく報道されているが、自分の小学生のときに加害者としていじめに関わってしまったことがあり、その頃の自分は近代科学主義的な世界観だったために他のものとのつながりを否定してしまっていたのだと思った。

 その当時から十年近くが立ち、多くの経験をしていく中で、多少は現代科学的な「すべてはひとつの宇宙である」というコスモロジーになってきたのではないかと思う。

 これからは、この授業で教わったことを胸に、自分の人生をよりよいものにしていきたい。



 上の学生は、「その頃の自分は近代科学主義的な世界観だったために他のものとのつながりを否定してしまっていた」と証言してくれています。

 さらに私のコメントを加えると、特に現代日本の学校に「生存闘争」「優勝劣敗」という社会ダーウィニズム的誤解が蔓延していることが問題のポイントにあると思われます。

 いじめる子どもの心の中にある「強い者が弱い者に勝つ(いじめる)のは、生物の世界の法則だからしかたないんだ、それでいいんだ」という思い込みが、自分たちがやっているいじめの正当化の理屈になっているのではないでしょうか。

 それから、子どもの心の中での「(神仏なんていないんだから)隠れてやれば、バレない。バレなきゃ、罰せられることもないから平気だ」というニヒリズム的なモラル・ハザードも大きいでしょう。

 そのどちらも、大人たちが善意で近代科学的コスモロジーの教育をしてきた「想定外の結果」なのではないか、と私は推論していますが、みなさんはどうお考えでしょう。



 H大政策学科1年男子

 この部分の先生の教科書を読んでいて、大津のいじめで自殺した中学生のことを考えていました。

 思ったことは先生の講義を申し受けていれば、先生の本を読んでいれば考えが変わり、自殺なんてとてもできないだろうな、と思っていました。

 いじめが辛いから死んで楽になりたい、という考えは私は「快楽主義だな」という風に感じました。

 この事件を耳にしたとき、まだ現代科学のコスモロジーは浸透していないんだと思いました。

 大学1年という若い時期にこのコスモロジーの存在を知れた私はとてもラッキーでした。

 これから、なにか壁にぶつかったとき、このコスモロジーを私の力にしたいです。

 また、このコスモロジーを広げたいです。



 私は、かなり前から年度の最初の授業の時に、

 「若者のかなり多くが『人生は楽しむためにある。楽しくなきゃ人生じゃない』と思っているように見えるけど、それはとても弱い人生観だよ。
 そういうのを『快楽主義』というんだけど、そう思っていると、苦しくなったら、それでも生き抜かなければならない理由がわかってないから、すぐにへこむ、傷つく、病む、死にたくなる、死ぬというふうになってしまうんだよ。
 そうならないために、これから、苦しくても生き抜く理由があるという話をしていくから、よかった聞いて、考えて、よかったら自分のものにしてほしい」

という話をしています。

 上の感想を書いてくれた学生は――そしてもっとたくさんの学生たちも――その話=コスモロジー教育をちゃんと受け止め、受け入れてくれたようです。

 こういうレポートを読んでいると、今学期も教えてよかった、苦労してレポートを読む甲斐がある、と感じます。

 これからもまた、採点の合間に、いろいろご紹介していきたいと思っています。

 読者のみなさんもコメントをお寄せください。


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いじめと自殺:学生の提言

2012年08月04日 | いのちの大切さ

 ここのところずっと膨大なレポートの採点に忙殺されています。ようやく3分の2くらいこなしたところです。

 その中で、大津のいじめと自殺の事件にふれて、学生が次のような感想―提言をしてくれたものがありましたので、ご紹介したいと思います。



 H大社会政策学科1年男子

 この本(テキスト『コスモロジーの心理学』―筆者注)を読み、授業を受けたことで「宇宙とのつながり」に気づけ、意識できたことは自分にとって大きな収穫だったと思います。

 自分はあま悩みの多いタイプではないですが、この本の力を必要としている人が日本にはたくさんいると思います。

 近ごろは若年層の自殺も増えています。

 先日の大津の話もそうですが、まだ僕より幼い子が一人悩み、死を選んだ心境を想像するとものすごく胸が痛みます。

 もし、彼が、先生、せめて『コスモロジーの心理学』に出会っていたならば、死ななくて済んだのではないかという思いもあります。

 自分は一人ではない、みんなつながっている仲間だと思えたら…。これは加害少年側にも言えると思います。

 彼らがつながりを意識し、やさしい心をもっていれば、死に追いやることはなかったと思います。

 いじめられている側の救いにもなって欲しいですが、いじめている側の救いにもなって下さい。

 また、こうしてつながっている仲間たちが亡くなったわけですから非常に悲しいです。

 震災もそうですが、「つながっている仲間」が亡くなった、いなくなったということを意識するだけで大きくかわっていくように思います。



 H大社会政策学科1年女子

 先生の講義を受けて、コスモロジーやエゴイズム、ニヒリズムなど、今までなんとなく聞いたことのあるような言葉の意味が徐々にわかるようになってきました。

 世間の人々はニヒリズムの人ばかりなのではないかと思います。

 今、ニュースになっている中学生のいじめ問題も、自分が宇宙の一部だとか人類はみな親せきだとかいった考え方をもっていたら、孤独じゃないと思えて、自殺なんて絶対にしなかったと思います。

 いじめられた方だけではありません。いじめた側も、現代科学的な考えを持っていたら、いじめることはできなかったはずだし、ニヒリズムに染まってしまっていて、本当にかわいそうだなと思います。

 中学生には難しい話かもしれないけれど、宇宙と自分の一体性を人類全員がわかっていたら、いじめはもちろん、紛争や戦争だって起こらない、平和な世の中になると思います。

 自分は宇宙の一部だと知ったときの驚きと感動と、そのときに生まれる心の余裕をもっと多くの人に知ってもらえたらいいのになと思います。



 筆者は、中学や高校で講演をしたことはありますが、日々の教育実践に関わったことはありませんので、断定はできませんが、コスモロジー教育には、いじめや自殺の防止に大きな効果を期待できると確信しています。

 現代科学のコスモロジー(宇宙論)を教えたくらいで、自殺を防止することができるのか、という疑いをもたられる読者のために、以下の学生の報告を掲載しておきます。7月23日の記事と合わせて読んで参考にしてください(掲載に関し、学生たちには、予め了承をとってあります)。



 H大社会政策学科1年男子

 私は今回かなりのワクワクと共にこのレポート課題をやっていた。

 すべての授業に出席するにつれ、自分の考えと改めて対峙することができたと感じている。

 このように宇宙というような極めてスケールの大きいものでも、元をたどれば、私たちと常に関係しているのだ。

 宇宙のどこかに地球が存在し、その中に私たちが暮らしている。考えてみれば、かなりの身近な存在であったのだ。

 私は正直驚きをかくせない。先生のこの授業を受けていることによって、ここまで私自身の考えが変わっていっているなんて。

 前のレポートにも書いたが、私は人生のドン底ではないかというくらい沈み、うつになり、死にたいと思っていた。

 が、今、人とのつながり、宇宙とのつながりを感じることにより、自分は一人ではないのだと実感できているのだ。

 先生には感謝してもしたりないくらい私を変えてくれた。

 後期もぜひ、全授業に出席をしたい。

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レポート感想:中2の自分に聞かせてやりたかった!

2012年07月23日 | いのちの大切さ

 今、H大学の前期末のレポート600枚以上を読みはじめました(実は前期中間のレポートもかなり残っているのですが、前期授業全体の効果を確認したくて、少しフライングしています)。

 課題のタイトルは「現代科学のどういうポイントがニヒリズム・エゴイズム・快楽主義を克服するのか?」です。

 現代科学のポイントについては、ブログ掲載のと同じ整理表(下段のもの)を渡してあります。

 これらのポイントがニヒリズムの克服にどう関わっているのかをしっかりと理解してもらうことが、本人自身のニヒリズムの克服にも連動すると思うので、課題にしています。

 さて、これまでも今回もレポートのなかでそうとうたくさん「自分も自殺を考えたことがある」「いじめにあったことがある」という報告があるのには、「やはり」という思いと同時に「そこまで」というショックがあります。

 自分の体験を書くことはまったく要求していないのですが、あえて書いてくれるのは、責任ある大人に伝えて、自分だけでなく自分と同じような苦しい状況にあった・ある人への理解と対処を求めているのではないか、と感じています。

 以下は、今大きく報道されている大津でのいじめ事件に関わって、あえて自分のことを書いてくれたものです。

 匿名で参考資料として公的に使わせてもらうことがあることは、予め話して了解を取ってありますので、まさに今の「いじめ―自殺問題」解決のための1つの参考資料として掲載させていただくことにしました。

 読んでみて、ご一緒に考えてください。



 “宇宙と私は一体である” という先生の話を聞いて以来、私の人生観は明らかに変わった。私の身体には137億年の歴史が流れている…そう考えると、私は毎日生きていることが楽しくて、“生きているのだ” ということを常に感じるようになった。“あの人も、あの木も、あの虫も、あの雲も、あの建物も、あの星も…! みんな、親戚なんだ!” という考え方は、先生の“宇宙一体論” ともいえる思考を持っていない人にとっては「バカみたい」「くだらない」「あたりまえじゃないか?」と思われるかもしれない。しかしながら、注目すべきことは、これは現代の科学によって証明された事実を述べたに過ぎないということだ。「あたりまえじゃないか」という人はいるだろう、だが、主客分離という思考法が当然のようにフィルターとして働いているために、宇宙と私が一体であるという事実を感動的なこととして受け止めることができないのではないか、というのが私の見方である。

 話は少し変わってしまうが、人生観が変わるという話を出したので、ぜひとも先生の耳に入れて頂きたいと思い、述べることにする。2012年7月現在、滋賀県の大津市の中学生がいじめが原因で自殺をしたのではないかという報道が連日のようにニュースを賑わせているが、実は自分も中学校2年生の時にいっそのこと自殺してしまおうか、と悩んでいた時期があった。大津市のような暴行などはなかったが、ずっと仲が良かった人に裏切られ、陰湿ないじめ(ハブかれるなど)をうけたことが原因だ。完全に人間不信に陥った。「死んでしまえば、なにもかもが終わる」…当時の私はこう考えていた。楽になりたいという気持ちが大きかったのだ。結果的に私は周囲の人たちの支えがあり、こうして毎日を生きているわけではあるが、先生の話されたことが実体験としてあるということに驚きを隠せなかった。私は近代科学による思考を持っていたためにこう考えたのであろう、と今は思える。しかし、これを私だけの問題ではないだろう。というのも、日本人の自殺率は驚異的に高いということはデータとして表れている。つまり、かなり多くの人がまだ近代の考え方のなかで生きているのではないだろうか。

 宇宙と私は一体であるという、単純な事実だけれども、非常に感動的で壮大なスケールの話を18歳という段階で聞けたことに本当に良かったと感じている。できれば中2のときの自分に聞かせてやることができれば…とも思う。しかし、現在の自分のコスモロジーの変化は想像以上のもので、何だか心がスーっとする感覚を得ているというのが現実である。毎日が楽しく、笑顔あふれてイキイキとした毎日を送っているのも事実です。これもまた、この授業を取ったおかげだと思う。先生と学生という立場ではあったが、私は人生観を変えて頂いた恩師として今後も慕いたいと思う。後期のご講義も楽しみにしています、ありがとうございました。


 このケースの重要なポイントは2つある、と私は思いました。

 1つは、彼自身言っているとおり「周囲の人たちの支え」があったことです。これはある意味では当然のことです。問題は当然のことが当然のこととして実行されにくいことですが。

 もう1つも彼自身気づいたとおり、「死んでしまえば、何もかも終わる」「楽になりたい」という考えの問題です。

 「楽になりたい」という気持ちはある程度自然なものですが、「楽でなかったら・楽しくなければ、生きている意味がない」という思い込みにまで到ると、それは快楽主義という近代の心の病です。

 「死んでしまえば、何もかも終わる」のは、当人個人だけの問題であって、遺された人にはいつまでも終わらない心の重荷が遺されます。

 あえて言うのですが、遺される人の気持も考えず、自分だけ楽になりたい・なれればいいというのは、やはりある種のエゴイズムです。

 「死んだらすべてはばらばらの物質に解体し、意味上は無になる」というのは、ニヒリズムです。

 近代科学的なコスモロジー(世界観・人生観・価値観のシステム)は、「今どんなに苦しくても、耐えて生き抜かなければならない・生き抜いたほうがいい絶対的な理由がある」ことを示しえません。

 それに対し、現代科学のコスモロジー――あえて言えば「コスモス・セラピー」=「コスモロジー教育」的解釈――は、苦しくても生き抜く理由を語ることができる、というのが筆者の年来の主張です。たくさんの親御さん、教育関係者、特に教育行政の責任ある立場の方に届くといいのですが。

 この感想を書いてくれた学生だけでなく、かなり多数の学生に「生き抜く理由」「生きる勇気」のメッセージは届いたのではないか、と期待を持って、これから膨大なレポートと取り組もうと思っているところです。

 なお、この学生の感想の部分だけでなく、まとめの部分も公表すると、コスモロジー教育の「わかる―実感する―身につく」というプロセスがいっそうよく理解していただけるのですが、明日までまだレポートを提出する学生がいますから、「コピペ」のネタにならないよう、後日にしたいと思います。

(*なお、「恩師として今後も慕いたい」という言葉の部分まで自分で掲載するのは面映く、省略しようかとも思いましたが、実際書いてくれたことでもあり、もっと一般的・本質的なことから言えば、やはり教師と学生の関係はこうありたい、教えるべきことを教えれば次世代はちゃんと前の世代を尊敬・敬愛・尊重してくれるのだという見本として、あえて残すことにしました。T君、そう言ってくれてありがとう!)

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NHK「日曜討論:いじめ問題」に思う

2012年07月22日 | いのちの大切さ

 今朝のNHKテレビ「日曜討論」――まだNHKを見ているのですが――の後半が「いじめ問題――いま子どもを守るためには」という特集でした。

 残念ながら毎度のことですが、「いのちの大切さを子どもに伝えなくては」という発言がありました。

 「いのちは大切だ」と言えば、子どもが「いのちは大切だ」と考え、実感し、それが価値観として定着するのなら、問題は簡単です。

 そうでないところに問題があるにもかかわらず、責任ある立場の人から相変わらずの発言しかないのは非常に困った状況です。

 もう一つ、「いのちの大切さを実感的に…」という言葉もありました。

 これは半分ほどそのとおりだと思いますが、人間の心というものが考え方・捉え方抜きに実感するものだという日本人特有の思い込み――「理屈じゃないよ、気持だよ」という決まり文句に現われているいるような――から出ている発言ではないか、とも思えました。

 論理療法、認知療法、認知行動療法が、膨大な臨床事例の検討によって明らかにしているように、人間の感情(例えばうつ)はものごとの考え方・捉え方、つまり認知のあり方によって、まるでといっていいくら異なってきます。

 「理屈じゃない」という発想からは、いのちというものをどう考え・捉えたら、「いのちは大切だ」と実感できるようになるのか、という問題が抜けてしまっているのではないでしょうか。

 私の年来の主張に引き付けるのですが、いのちはなぜ大切だと言えるのかという考え方・思想的な答えなしには、子どもたちにいのちの大切さを十分感じさせ、価値観として定着させることはできないと思われます。

 もちろん、例えば小動物を抱いて心臓の鼓動を感じさせるとか、飼っていた昆虫や小動物が死んだ時の悲しさを体験させる、広くいえば直接的な自然体験をさせるといった方法は、ある程度有効ですし必要ですが、十分ではない、と私は考えています。

 自己宣伝になってしまうのですが、私の授業を受けた学生のきわめて多くが、「なぜいのちが大切なのかがわかった」と感想を書いてくれます。

 まだ読んでおられない方、ぜひ、これまで書いてきた記事を読んで見てください(私のブログのタイトルは「伝えたい! いのちの意味」なのです)。

 最初から共感や同意は必要ありません。読んでみて、理解したうえで評価していただけると幸いです(例えば、「これならいけそう」とか「これじゃやっぱりダメだ」とか)。

 もう一つ、大津の事件に関して、「もう『いじめ』という言葉だけでは表現できないことだと思う。これは、『虐待』であり、『人権侵害』と言うべきだ」といった趣旨の発言がありました。

 まったくそのとおりだと思います。「いじめ」は、子ども間での「虐待」であり、「暴力」であり、「人権侵害」であり、人権の尊重が大前提である私たちの社会にあって、大問題です。

 私たち大人は、子ども=私たちのいのちを引き継いでくれる次世代への「虐待」、「暴力」、「人権侵害」を放置しておいてはいけないと思います。
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唯識心理学の教育的・セラピー的効果

2011年02月08日 | いのちの大切さ

 先日、伝統のある大手の出版社から大きな心理学辞典の「唯識心理学」という項目の執筆依頼が届きました。

 すでに他にも「唯識」の項目が入った小さめの心理学辞典はあり、項目執筆をしたことがあるのですが、さすがに「唯識心理学」は初めてです。

 心理学の専門家が監修する大型辞典に載るということは、「唯識は大乗仏教の深層心理学だ」という私の主張がアカデミックな世界にも認められるようになってきたということだと思われ、「やっとそういう時代になったんだなあ」という感慨がありました。

 コスモロジーと唯識を組み合わせた講義が教育的・セラピー的効果をもたらすことは、繰り返し報告してきたとおりです。

 例えば、教えている3つの大学のうち最後になったM大学の「仏教心理論」のクラスも今週の補講で終わりますが、先週すでにレポートを提出した2年生の女子学生が次のような感想を書いてくれました。


 前期、後期を通して授業を受けて、仏教に対する暗い・古いというイメージが変わったのはもちろん、なにより自分の中の心の変化が大きかった。今までの私は周りとのつながり、ましてや宇宙とのつながりなんて考えたことはなかった。しかし、授業で「私は私でないものによって私であることができる」という先生の言葉を聞いて、つながっていることのすごさ、大切さ、ありがたさを感じるようになった。このことにより、前は嫌いだった雨も少しは好きになれたし、周りの人の成功やよろこびにすこし嫉妬を感じたりしてけど、今は一緒に素直によろこべるようになってきた。また、前はなかなか家族に言えなかった心からの「ありがとう」を伝えられるようになった。周りからしたら当たり前で、ちょっとしたことかもしれないけど、私にとっては大きな変化、成長である。正直、はじめは単位のために受けていたこの授業も、気づけば興味を持つようになっていたし、1回1回の授業が私にとってのプラスとなっていた。この授業を受けれたことをムダにしないために、普段の生活の中に七施を取り入れてみたり、ふと、周りとのつながりを心から感じられる時間を持つことができればいいと思う。普段は授業後に教科書を開くことのない私。でもきっとこの教科書は読み返す日が来ると思う。良いことを多く書いたので、逆にウソのように感じられてしまうかもしれないが、私はこの授業を受けられたことが生活のプラスになり、すごくうれしく、先生の授業に巡り会えたつながりに感謝している。1回も欠席していない私にとって、10日の最後の授業に用事で出席できないことだけがすごく残念ですが、毎回の先生のお説教っぽい所がうれしかった。これからも体に気をつけて、このすばらしい授業を続けてほしいです。1年間ありがとうございました。


 読みながら、「良いことを多く書いたので、逆にウソのように感じられてしまうかもしれないが」という言葉に、思わずにやにやしてしまいました。

 確かにちっとも授業に出席していないし、あまり内容を理解していると思えない学生がいいことばかり書くと、お世辞・ウソと思わざるをえませんし、そういうのもある程度はあるのですが、上記の学生の場合はAプラス評価のレポートの最後に書いてくれたものですから、信用していいでしょう。

 もう一つうれしかったのは、「毎回の先生のお説教っぽいのがうれしかった」という言葉です。

 もちろん反発する学生もいますが、全体として若者たちは上の世代に「どう生きるべきか」、根拠のあることを自信を持って語ってくれることを期待していると思います。

 私は、告知と合意(インフォームド・コンセント)の手続きとして、年度・学期の最初の授業で、「この授業を受けたら、一年または半年ずっと親父の説教を聞かされることになります。説教のいやな人は受講しないように」と言うことにしていますが、それでも受ける学生は全体としてずっと増え続けているのを見ると(今年はそうとうきついことを言って少し減らすことができましたが)、そうとう多くの若者が求めていると考えてまちがいないでしょう。

 もうまもなく64歳、来年は高齢者、20歳前後の彼ら、彼女らにとって、お祖父ちゃんでもいいくらいの歳にいつの間にかなってしまいました。

 しかし、「これからも体に気をつけて、このすばらしい授業を続けてほしいです」という孫のような言葉に励まされて、来年度もしっかり「親父の説教」、いやそろそろ「お祖父ちゃんのお説教」を続けようと思っています。


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全生物は同じ単細胞生物から進化した!?

2010年06月30日 | いのちの大切さ

 コスモロジーの授業の素材を得るためにネット検索していて、「全生物は同じ単細胞生物から進化した」という説がほぼ確定したという重大ニュースを知りました(ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト5月14日(金) 16時48分配信 / 海外 - 海外総合)。

 世界的な権威のある科学雑誌「Nature」に掲載された論文を元にした記事です。

 これでいよいよ、「すべての生命は共通の先祖から生まれた?」、「すべての生命は親戚である」というつながりコスモロジーの大きなポイントが現代生物学のほぼ定説になった、と考えていいようです。

 過去の記事の一部を再掲載します。

 「すべての生命は、最初のたった1つの単細胞生物の生命を引き継ぎながら、30数億年かけて多様に進化-分化したものです。
 そういう意味でいうと、すべての生き物は共通の先祖を持った親戚です。遠い遠い関係だとしても、でもやはり親戚なのですね。
 水中や地下の微生物も、道端の草や山の木も、セミやトンボもチョウも、イヌもネコも、数え切れないほどのいろいろな生き物が、みんな自分の親戚だということが、科学の眼からも語ることができるというのは、とても不思議で、とても感動的なことだとは思いませんか。」


 以下に、ニュースの主な部分も引用しておきましょう。



 地球上のすべての生物は約35億年前の単細胞生物から進化したことを確認したとする最新の研究が発表された。150年以上も前にチャールズ・ダーウィンが初めて提唱し、現在広く受け入れられている“全生物の共通祖先”説を裏付けるものとなる。

 アメリカのマサチューセッツ州ウォルサムにあるブランダイス大学の生化学者ダグラス・セオバルド氏は、生物の3つの大きな分類(ドメイン)に属するすべての種が共通の祖先から進化した確率と、複数の異なる生命体から進化した確率、アダムやイブのように現在の形態のまま発生した確率などを、コンピュータモデルと統計モデルを用いて算出して比較した。ドメインとは、生物分類学における最上位の分類群(タクソン)で、真正細菌、バクテリアに似た微生物である古細菌、植物やヒトなどの多細胞生物を含むグループである真核生物の3つがある。

 セオバルド氏によると、「複数の祖先が存在したとする説で最も有力なもの」は、1つの種が真正細菌に進化し、1つの種が古細菌と真核生物に進化したという説である。しかし今回の分析結果から、その確率は10の2680乗分の1であることがわかった。10の2680乗とは10の後ろにゼロが2680個並ぶ数字である。「これは天文学的な数字で、あまりの小ささに、口にするのもはばかられるほどだ」。

 同氏はまた、ヒトは始めから現在の形でこの世に存在し、進化的な祖先など存在しないとする創造論的な考え方についても検証を行った。統計分析の結果、ヒトが独自の起源を持つなど「ひどくお粗末な仮説だ」との結論に達した。ヒトが他のどの生物とも別に創造された確率は10の6000乗分の1だという。

 (中略)

 この研究は2010年5月13日発行の「Nature」誌に掲載されている。
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我は幻の如く夢の如し

2008年08月19日 | いのちの大切さ

 まだ若いいとこがガンで亡くなり、お別れに行ってきました。

 ちょうど五十歳、本人も「人生五十年か……」と言っていたそうです。

 短いけれど密度の濃い充実した人生を送ったようです。

 しかしやはり、遺された者には、惜しい、悲しい、どうしてこんな若さでという想いがあります。

 死に顔を見ながら、『摩訶般若波羅蜜経』の「幻聴品(げんちょうぼん)」の言葉を思い出していました。


 〔実体としての〕自我は幻のようであり夢のようであり、生きものというのも知る者も見る者もまた幻のようであり夢のようである。……物質的現象は幻のようであり夢のようであり、感受、想念、意思、思考は幻のようであり夢のようであり、眼から意識に至る接触という因縁から生まれる感受は幻のようであり夢のようであり、布施という修行から智慧という修行に至るまで幻のようであり夢のようである。……仏道は幻のようであり夢のようである。

 我は幻の如く夢の如し、衆生乃至知者見者も亦幻の如く夢の如し。……色は幻の如く夢の如く、受想行識は幻の如く夢の如し、眼乃至意触因縁生の受は幻の如く夢の如く……檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜は幻の如く夢の如し。……仏道は幻の如く夢の如し。


 かたちあるこの身心のいのちが実体ではなく有限であることを、死者から改めて学ばなければならない、と思いました。

 「幻の如く夢の如し」ということが、決して空しいことではなく、だからこそ執着することなく爽やかに生きて爽やかに死ぬことのできる根拠であることを、どのくらい自分自身の坐りとして、生き死にすることができるか。

 帰宅してから、鎮魂の想いを込めて静かに坐禅をしました。




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盂蘭盆

2008年08月13日 | いのちの大切さ

 山梨では昨夜あたりから虫が鳴きはじめました。

 今日から盂蘭盆です。

 先祖・死者のいのちと心と私たち・生者のいのちと心とのつながりをしみじみと思い出す季節です。

 夜、甥たちと迎え火を焚きました。

 日本人としていつまでもこの美しい習俗を伝えていきたいものだと思います。



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夏の朝の花

2008年08月12日 | いのちの大切さ


 かみさんの実家のあたりは野の花の多いところで、帰るといつも近所を散歩します。

 今朝も、近くの道端にツユクサが咲いていました。

 ありふれた花ですが、朝露に濡れた様子がまさに「露草」で可憐そのものです。

 こんなふうな、平凡だけれども、可憐でけなげな野の花のような美しさは、日本ではいまや絶滅危惧品種になりつつあるなあ、と余分な連想をしてしまいました。



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夏の花

2008年08月11日 | いのちの大切さ


 ノウセンカツラの艶やかな花が暑い日盛りに咲いていました。

 残暑の厳しいお盆時です。

 いのちについて、いろいろなことを感じ、考えさせられる季節です。



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母心の荒廃:日本人の精神的荒廃の重要局面

2008年07月06日 | いのちの大切さ

 「日本人の精神的荒廃の三段階」の講義をすると、必ずといっていいくらい出てくる反論・疑問の一つに、「荒廃しているという根拠(データ)はあるのか?」「最近凶悪犯罪、青少年犯罪が増えているというのはメディアがでっち上げたイメージで統計的には増えていない」といったものがあります。

 犯罪件数については、すでに述べたので、今回は、「児童虐待」についてふれておきたいと思います。

 幼い子どもが大切にされるどころか虐待されるというのは、明らかに社会の荒廃を示す現象だと思うからです。

 第72回日本社会学会大会での金原克憲氏の報告によれば、「幼児虐待は近年著しい増加傾向がみられる。全国の児童相談所における幼児虐待処理件数は、集計結果が公開開始された1990年の1101件から1997年では5352件と、7年間で5倍近く増加している。虐待者別に処理件数をみると、1位は実母による虐待であり、2943件(55%)と半数以上を占めている。」とのことです。


 そうした状況に対して、厚生労働省等、責任ある公的機関は十分に対応しているのでしょうか。

 平成15年6月付けの「社会保障審議会児童部会『児童虐待の防止等に関する専門委員会』報告書」の「はじめに」にはこう書かれています。


 児童虐待への対応については、「児童虐待の防止等に関する法律」(施行:平成12年11月20日。以下「児童虐待防止法」という。)の施行以来、広く国民一般の理解の向上や関係者の意識の高まりが見られ、また、この間、様々な施策の推進が図られている。
 しかし、全国の児童相談所に寄せられる虐待の相談処理件数も、ここ数年の間に急増し、平成13年度においては、児童虐待防止法が施行される直前の平成11年度の約2倍となる約2万3千件にも上っている。
 また、児童相談所の職権による一時保護や、保護者の意に反する児童福祉施設への入所措置を家庭裁判所に申し立てる件数の増加など質的にも困難なケ-スが増加している。児童養護施設に入所する子どももここ数年増加し、虐待を受けた子どもの入所も増加している。
 このような状況にあって、児童虐待対応の中核機関である児童相談所や虐待を受けた子どもを受け入れている児童福祉施設をはじめとする関係機関においては、様々な取り組みを行っているものの、十分には対応し切れていないなど、大変厳しい現状におかれており、児童虐待への対応は、早急に取り組むべき社会全体の課題である。


 「児童虐待への対応は、早急に取り組むべき社会全体の課題である」と書かれてから5年経った今年の6月朝日新聞の報道によれば、「全国の児童相談所が対応した児童虐待が07年度は過去最多の4万618件(速報値)に上ることが17日、厚生労働省のまとめで明らかになった。前年度より約3300件増え、初めて4万件を超えた。虐待を受けて死亡した児童は03~06年に295人いた。」とのことです。


 3つの資料を合わせて考えてみましょう(他にもいろいろな資料があるでしょうが、専門家ではないので、手近に入手できる社会的権威ある(と思われる)機関のものを使っておきます。)

 平成2(1990)年 1101件
 平成9(1997)年 5352件(7年で5倍近く増)
 平成13(2001)年 約2万3千件
 平成19(2007)年 4万618件

 もし資料に大きな誤りがないとすれば、調査が始まった平成2(1990)年からなんと約37倍になっています。

 ……とここまで書いて再度検索したところ、より詳細な「児童虐待相談対応件数の推移」というデータが見つかりました。

 これは、児童虐待の実数ではなく「相談対応件数」にすぎません。

 かつて相談されなかったのが相談されるようになったので増えた数も一部あるとは思われますが、それだけでなく実際増加しているのであり、おそらく相談されていない何倍もの件数の実態があるのだと推測されます。

 知れば知るほど、きわめて心の痛む深刻な事態、恐るべき荒廃というほかないのではないでしょうか。

 もちろんいろいろな社会的条件もあって、虐待してしまうお母さんのつらい事情もあるでしょう。

 しかしそれにしても日本社会全体として見れば、いのちを産み、守り、育てる中核であるはずの母(の心・精神性)が荒廃しているとしかいえない、と私は思うのですが、読者はどうお考えですか。

 そして、そうした事態を招いた責任の大きな部分が、「お金にならない家事・育児など価値はない」といわんばかりの価値観を流通させた、経済優先社会のリーダーたちにある、と思えてなりません。



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いのちの大切さが伝わる授業

2008年07月06日 | いのちの大切さ

 学生(2年女)がまた次のような授業への感想・評価・証言を書いてくれました。


 ……私はこの授業をうけるまで自分が他人と親せき(つながっている)と考えたことがなかった。

 この授業を通して、自分は今までの歴史が集積したものであり、進化の一部であることを知ったし、家族以外の人ともつながり、親せきで、かけがえがないということも知った。

 中学校の頃も薬物についての授業などで「自分は大切な存在なのだから……」と度々聞いていたが、単なるきれい言だと思っていた。

 今なんとなく、その意味が自分のものとなりつつある。

 最近、自分の行動によって次になにが起こるかを考えるようになった。

 授業をうけて自分の行動がかわるなんて授業は今までなかった。


 児童・生徒・学生が関係した悲惨な事件が起こるたびに、学校関係者の口から「これまでも教えてきたのですが……いっそういのちの大切さを教えていきたいと思います」といった言葉が聞かれます。

 そのたびに私は、「いのちは大切だ」といいさえすれば子どもがいのちの大切さへを納得するのならば、こんなに問題は起こらないはずなのに、と残念でなりません。

 「度々聞いていたが、単なるきれい言だと思っていた」、「授業をうけて自分の行動がかわるなんて授業は今までなかった」と学生が証言しているとおりです。

 私の10年以上のアンケートや聞き取り調査からすると、この学生の証言は特殊例ではなく、きわめて一般的なものだと思われます。

 あえていわせていただきますが、従来の〔絶対の根拠不明の〕ヒューマニズム的な教育法では、十分な質と量の納得は起こっていないのではないでしょうか(「そんなことはない。こんなに効果が上がっている」という反論があれば、ぜひお聞かせ下さい)。

 どういう思想と方法ならば、聞いている子どもの心に「いのちは大切だ」ということが「自分のものになる」という体験が起こるのか、教育関係者の方や親御さんに、ぜひ根本的な再検討をしていただきたいと切望しています。

 でなければ、ほぼまちがいなく同質の問題がこれからも繰り返し起こると予測されるからです。

 そして、コスモス・セラピー=コスモロジー教育は、唯一・最高かどうかはともかく、検討していただくに値する実績のある、一つの有力な候補であると思っています。
 


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瞑想の詩集

2008年07月04日 | いのちの大切さ

 17世紀ドイツのシレジウスという宗教詩人がいます。

 岩波文庫に『シレジウス瞑想詩集』上下があり、愛読書の一つです。

 次のような美しい言葉があります。



 あなたの外面的な目がここで見ている薔薇は、永遠に神の中で咲いている。(108)

 薔薇はなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。薔薇は自分自身を気にしない。人が見ているかどうかも問題にしない。(289)



 とても深くて美しい言葉だと感じます。



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