天武天皇と『仁王般若経』

2020年02月26日 | 歴史教育

 

 話を天武天皇に戻します。

 『日本書紀』によれば天武天皇は、天武五年(六七六)、『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』と『金光明経(こんこうみょうきょう』を諸国で講読させ、天武十四年(六八五)、宮中で『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』を講読させています。

 どれもが般若経系統の経典ですから、それはつまり天武は、理解度はどうであれ、ともかく般若経系統の経典を重んじたということです。

 まず『仁王般若経』の内容と天武天皇との関わりについて考えていきましょう。

 『仁王般若経』は、略して『仁王経』、詳しくは『仏説仁王般若波羅蜜経』あるいは『仁王問般若波羅蜜経』といい、四種類の漢訳があり二種類が現存していますが、古代日本では、鳩摩羅什訳がもっとも用いられました。

 「仁王」とは、民への仁・慈しみの心のある帝王という意味で、十六の国(釈尊当時のインドの主な国)の王たちが仏陀に徳のある王になって国を護るにはどうしたらいいかを質問して答えていただいた経というのが経題の意味です。

 中国で書かれた偽経ではないかという説もありますが、中国・朝鮮・日本では早い時期から、『金光明経』『法華経』と並んで「護国三部経」として尊重され、「仁王会(にんのうえ)」が開かれて盛んに講読されました。

 目次をあげると、序品(じょほん)第一、観空品(かんくうほん)第二、菩薩教化品(ぼさつきょうけほん)第三、二諦品(にたいほん)第四、護国品(ごこくほん)第五、散華品(さんげほん)第六、受持品(じゅじほん)第七、 嘱累品(しょくるいほん)第八の八巻・八章からなっています。

 以下、その内容のポイントを述べていきます。

 

 「序品」に「大いなる覚者世尊は、先にすでに私たち弟子たちのために、二十九年間、摩訶般若波羅蜜、金剛般若波羅蜜、天王問般若波羅、光讃般若波羅蜜を説いてくださっている。今日、如来は大光明を放って何事をしようとされるのだろう」とあるとおり、自ら般若経典群のなかでは後期のものであり、これまでの般若経典でまだ論じられていないこと――徳ある王となって国を護るにはどうあるべきか――があるからさらに語るのだと主張しています。

 

 そして、「観空品」では、仏陀は十六の国の王たちが「国土を護るための因縁(直接・間接の原因)」を問いたがっていることを見抜いたうえで、「その前にまず菩薩たちが、仏という結果を護る因縁と、菩薩の十段階を護る因縁を説く。よくよく聴いて、理解し、真理に沿った修行をするように」と答え、空について説いています。

 つまり、王が王として国土を護りたいのなら、菩薩としての修行をしなければならない、ということです。

 

 続いて、「菩薩教化品」では、すべての存在は縁によって成り立っており、仮に衆生を成り立たせている。自らがそうした空であり幻のような存在であることを覚った菩薩が、空であり幻のような存在である衆生を教化するのだ、説かれています。

 

 さらに、「二諦品」では、プラセナジット(波斯匿)王に対して、「大王よ、菩薩大士は、最高の真理において常に真の理解と世俗の理解を明らかに把握しながら、衆生を教化するのである。仏と衆生は一体であって二ではない。なぜならば、衆生は空であるので菩薩の空に同置することができ、菩薩は空であるので衆生の空に同置することができるからである」と説いており、仏と菩薩と衆生の一体平等性・一如がはっきりと語られています。

 

 そして「護国の経典」とされる元になったと思われる「護国品」では、驚くべきことに、「天地でさえ滅ぶのだから、どうして国が永遠で頼りになるものでありえよう」と国の無常・空が説かれ、しかもそのことを説いたこの経を尊重し唱えたり、講義をさせたりすることが、かえって国・国土を護ることになる、と説いています。

 

 それは、国に関しても、実体視して執着することによって過剰な欲望が生じ、それがすべての争い・災いの元になるのであり、まず菩薩として指導者が実体視―執着―貪欲を離れ、すべてが空・縁起・無自性・無常・無我・一如であることを学び覚って慈悲行を行ない、人々をもそのように教え導くことによってこそ、国が平和になり治まっていくのだ、という意味だと解釈していいでしょう。

 

 次の「散華品」では、一切が空・一如であることを壮大なヴィジョンで語っていて、『華厳経』に似ています。

 「その時、十六の大国の王は、仏が十万億の詩句をもって般若波羅蜜を説かれるのを聞き、限りなく歓喜した。そこで、十万億の花を撒いたところ、虚空のなかで変化して一つの座になった。全宇宙の仏たちが共にこの座に坐って般若波羅蜜を説かれた。無数の人々も共に一座に坐り、金色の花をもって釈迦牟尼仏の上に撒くと、万輪の花になって人々を覆い、また八万四千の般若波羅蜜の花を撒くと、虚空のなかで変化して白い雲の台になった。……その時、仏は王のために五つの不思議な神秘的現象を現わされた。一つの花を無数の花に入れ、無数の花を一つの花に入れ、一つの仏国土を無数の仏国土に入れ、無数の仏国土を一つの仏国土に入れ、 無数の仏国土を一つの毛穴にある国土に入れ、一つの毛穴の国土を無数の毛穴の国土に入れ、無数のシュメール山と無数の大海をケシ粒のなかに入れ、一人の仏の体を無数の衆生の体に入れ、無数の衆生の体を一つの仏の体に入れ、六道の体に入れ、地・水・火・空の体に入れられた。仏の体も不可思議であり、衆生の体も不可思議であり、世界も不可思議である。……」

 

 「受持品」では、プラセナジット王が仏陀に「般若波羅蜜は説くことができず、理解することもできず、〔ふつうの〕意識では認識もできないものです。善き男子たち(修行者)は、どうすればこの経典を明瞭に覚り、真理に沿って一切の衆生のために空の教えへの道を開けばいいのでしょうか」と問い、仏陀がいろいろな修行の仕方を説いた後で、「私が涅槃に入った後、真理の教えが滅びようとする時に当たって、この般若波羅蜜を受け保ち、大いに仏のことを行ないなさい。一切の国土が安全であり、すべての人々が幸福であれるのは、みな般若波羅蜜による。そこで、〔この経典を〕もろもろの国王に委託し、僧や尼僧、男信徒・女信徒には委託しないことにする。なぜかというと、王のような力がないからである。王のような力がないので、委託しない。あなたが、受け保ち、読誦し、この経典の教えを理解するように。……世界の国々に七つの災難があるだろう。すべての国王は、それらの災難があっても、般若波羅蜜を講読するならば、 七つの災難は滅し、七つの福が生じ、すべての人々は安楽になり、帝王は喜ぶだろう。……」 と困難な時代の到来の予言とそれへの対処の仕方を語っています。

 

 天武天皇との関係で特に重要なのが次の個所です。

 

 「大王よ、私が五つの眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)で過去・現在・未来の三つの世を明らかに見るところ、 一切の国王はみな過去に五百の仏に仕えることによって、帝王の主になることができるのである。それゆえに、一切の聖人・羅漢は、その国にやって来て大きな利益を与えるのである。もし王の福(徳)が尽きてしまった時になれば、一切の聖人はみな捨て去るだろう。もし一切の聖人が去った時には、七つの災難が必ず起こるだろう。大王よ、もし未来の世にもろもろの国王がいて三宝を護持するならば、私は五つの大きな力をもった菩薩を往かせて、その国を護らせるだろう。……」

 

 最後の「嘱累品第八」では、「仏の入滅後八十年、八百年、八千年に、三宝を信じるものがいなくなる時が来るだろう。その時にこそ『仁王般若経』を国王に託すが、経に説かれるとおりにしなければ、七つの難が生じ、民は苦しみ、正法は滅し、国も滅亡するだろう」という「破仏破国」の警告がなされています。

 

 さて、そうした内容のある『仁王般若経』(そして他の般若系統の経典)を、天武は、訳もわからず呪術的に有難がっただけなのでしょうか、それともわかって尊重したのでしょうか。

 天武は、そもそも推古天皇・聖徳太子-舒明天皇-天智天皇から律令国家の構想を引き継ぎ、律令を制定させ、『古事記』『日本書紀』の編纂を命じていますから、どう見てもただ粗野で無教養な武人ではなく、非常な教養人でもあったことが確実に推測できます。

 さらにいえば、当時の公文書や上流階級の教養の元になる文書はすべて漢文で書かれたものですから、天武は漢文が読めたはずで、だとしたら、経典の漢文だけは読めない・読まないということはほとんどありえないのではないでしょうか。

 そして、『仁王経』を重んじて、諸国で講読させたということは、自分も僧たちの講読・講義を聞いたことがあるはずですし、当然自分でも読んで理解できたはずで、読みもせず訳もわからず呪術的に「護国の経典」として信仰したのではなく、読んで、少なくともかなりの程度まで理解したうえで重んじたのだと解釈するほうが妥当ではないか、と筆者には思われます。

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大乗の菩薩は仏国土建設を目指す

2020年02月24日 | 歴史教育

 大乗の菩薩は、智慧と慈悲が一つであるという原点からスタートして、慈悲の実践の具体的内容として「諸誓願」を立てます。 

 『大般若経』「初分願行品第五十一」ではなんと三十一もの菩薩の誓願が挙げられています。

 それらの誓願はすべて仏国土の建設を目指すものであり、仏国土で実現されるべきことが具体的に述べられています。

 戦前の国家神道と政治の癒着・「祭政一致」がもたらした惨害に対する批判・反省・反動として「宗教・信仰は自由であるが、個人の内面のことにとどめるべきである」「宗教は政治に関わるべきではない」という考え方が戦後の常識になっています。

 しかし、それが適切かどうかは別にして、実際、般若経典のテキストは「菩薩(つまり宗教者)は積極的に仏国土建設(つまり政治)に関わるべきだ」と主張している、と筆者には読めます。

 なかでも特に重要だと思うものを筆者の訳でいくつかご紹介します。

 

 1.布施成就衣食資生充足の願

 スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の衆生もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕かぎりなく接近(隣近・りんごん)するのである。

 

  「仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて……我が仏国土の中には……我が仏国土中の衆生……」という言葉は、具体的な仏国土建設を目指すという目標設定としか読めないのではないでしょうか。

 しかも「私は渾身の努力をし身命を顧みず」とあるように、全力で命がけで仏国土建設を目指すというのです。

 そしてその内容は、現代的に言えば貧困が完全に克服された「福祉国家」の政策です。

 さらに、その福祉国家は「友愛社会」でなければならないとされています。聖徳太子風に「和の国」と言ってもいいでしょう。

 

 2.浄戒成就諸善善報具足の願

 また次に、スブーティよ、菩薩大士が持戒波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が煩悩が盛んで、さらに殺し合い、与えられていないものを盗り、邪なセックスをし、ウソをつき、荒々しい言葉を使い、裏表のあることを言い、汚い言葉を使い、さまざまな貪り・怒り・まちがった考えを起こし、それが因縁となって寿命が短く病が多く、顔色は衰えきって元気がなく、生活の糧が乏しく、下賎な家に生まれ、からだ・かたち・ふるまいが汚く臭く、いろいろなことを言っても人に信用されず、言葉が乱暴なために友達が離れてしまい、およそ言うことすべてが下品で、ケチ、欲張り、嫉妬、まちがったものの見方があまりにひどく、正しい教えを非難し、賢人・聖者を攻撃するのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって彼らをもろもろの悪業とその報いから離れさせてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず持戒波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした悪業をなすこととその報いを受けるようなもろもろの有情がおらず、すべての有情が十善戒を行ない、長寿などのすばらしい果報を受けられるようにしよう」と。

 

 3.忍辱成就慈悲具足の願

 ……菩薩大士が忍辱波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が互に怒り憤りののしり侮辱しあい、刀や棒や瓦や石や拳やハンマーなどで互に傷つけあい、殺しあうに到ってもひたすらやめようともしないのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはこうした煩悩・悪業まみれの有情がおらず、一切の有情がお互いを見るのが父のよう、母のよう、兄のよう、弟のよう、姉のよう、妹のよう、男のよう、女のよう、友のよう、親のようであって、慈悲の心を向けあいお互いに利益を与えあうようにしよう」と。……

 

 初めて読んだ時に驚いたのは、次の第十二願、第十三願、第十五願です。

 

 12.無四種色類貴賎差別の願

 ……菩薩大士が……もろもろの有情に四種類の貴賎の差別、すなわち一にクシャトリア、二にバラモン、三にヴァイシャ、四にスードラがあることを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすれば巧みな手立てによってもろもろの有情を救いとってこのような四種類の貴賎の差別がないようにしてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず六波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこのような四種類の貴賎の差別がなく、一切の有情が同じ階級であってみな尊い人間という生存形態に含まれるようにしよう」と。……

 

 13.無上中下家族差別の願

 ……菩薩大士が……もろもろの有情の家族に下流・中流・上流の差別があるのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏の国土の中にはこのような下流・中流・上流の家族の差別がなく、一切の有情がみな金色に輝いて美しく人々が見たいと思うような最高に充実した清らかな様子になるようにしよう」と。……

 

 15.無主宰得自在の願

 ……菩薩大士が……もろもろの有情が君主に隷属しておりいろいろしたいことがあっても自由にならないのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……私の仏の国土の中のもろもろの有情には君主がなくいろいろしたいことはみな自由であるようにしよう。ただし、如来・真に正しい覚った方があって真理の教えのシステムで〔有情を〕包み込むのは法王であって例外である」。……

 

 これはまるで、階級差別の否定、貧富の格差の否定、独裁的支配の否定つまり民主的自由が、菩薩の建設する仏国土の具体的内容として示されている、ということではないでしょうか。

 これだけ挙げただけでも、先に述べた、「②『仏教の根本精神が個人の魂の救いを得る』ことだという理解は、大乗仏教・般若経典の思想の理解不足・誤解であること」を文献的証拠に基づいてはっきりさせることができたのではないかと思います。

 話が少し先に跳びますが、聖武天皇が、天平十三年(七四一)、全国に国分寺・国分尼寺を造営させる詔のなかで、すべての寺にこうした誓願が書かれている『大般若経』を揃えるよう命じています。

 天武天皇と同様あるいはさらに教養豊かな知識人であったと思われる聖武天皇が、『大般若経』の内容については、読まず・理解しないまま、単に自分の権力を護るための呪術として尊んだと解釈することは可能・妥当なのでしょうか。

 最後に、誤解されたくないので何度でも繰り返しますが、こうした考察が当たっているかどうかの評価は参加者のみなさんにお任せするとして、筆者の意図としては右でも左でも中道でもなくそれぞれの妥当な部分を統合して、「生きる自信」の3つのレベルの1つ、社会的・集団的アイデンティティの核となる日本人としての正当で妥当なアイデンティティを確立するための試みです。

 

 

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大乗の菩薩は自利利他を目指す

2020年02月23日 | 歴史教育

 般若経典、広く言えば大乗仏教のエッセンスは「智慧(=般若)と慈悲」にある、と筆者は捉えています。

 もちろん単なる筆者の解釈ではなく、経典に典拠があります。それをもっとも端的に表現しているのが次の、『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)の句でしょう。 

 スブーティよ、菩薩・大士は二つのことを成し遂げるので、悪魔も〔それらを〕破壊することはできない。何を二つのことと言うか。一切の存在が空であることを洞察することと、一切の生きとし生けるものを捨てないということである。スブーティよ、菩薩はこの二つのことを成し遂げるので、悪魔も破壊することはできない。

 須菩提、菩薩摩訶薩は二法を成就すれば、魔、壊すこと能はず。何等か二なる。一切法空なるを観ずると、一切衆生を捨てざるとなり。須菩提、菩薩は此の二法を成 就すれば、魔、壊すこと能はざるなり。(度空品第六十五)

 「一切法空なるを観ず」が智慧=般若、「一切衆生を捨てざる」が慈悲に当たります。この二つのことを究極的には一つのこととして実践するのが、菩薩・大士です。

 「菩薩」とはボーディサットヴァ・菩提=覚りを求める人という意味であり、「大士」とはマハーサットヴァ、自分だけの覚りではなくすべての人の覚り・救いを求める志の大きな人という意味です。

 智慧を得て(菩提=覚り)苦しみの生存の廻り(輪廻)から解放され(解脱)、究極の安らぎ(涅槃)に到ることは自分の利益・自利です。

 そして生きとし生けるものすべてをも、覚り、苦しみからの解放、究極の安らぎに到らせたいと思い行動することは利他です。

 その両方を同時に一つのこととして追求する「自利・利他」が大乗の修行者・菩薩の目指すところです。「自利利他円満」「自利利他一如」という言葉で表現されます。

 大乗仏教は、そういう自分だけでなくすべての人と共に覚り・救いを求めていく大きな乗り物である菩薩・大士の仏教なのです。

 単に「個人の魂の救いを得る」ことを求めるのは、目的ではないどころか、むしろ小乗として批判・否定されています。

 つまり、前に挙げた井上清氏家永三郎氏など多くの近代主義的・進歩主義的な戦後知識人の理解(あえて言えば誤解)と異なり、大乗仏教は個人の内面のことも問題にしてはいますが、それだけを問題にしているのではない、と筆者には思われます。

 『八千頌般若経』の中に、智慧と慈悲に関して非常に要領よく述べた言葉があります。(中公文庫『大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ』、一七六―七頁)

  ……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士 は最高の難行の行者である。それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかない からである。彼には「私あらゆる有情を解放しなければならない」という性質の諸誓願があるのである。

 菩薩・大士は、空・如を追求します。とことん追求し空・如と一体化してしまうと、あとはもうやらなければならないことは何もなくなり、解脱・涅槃に入るだけということになってしまいそうのですが、その手前のところで「いや、解脱・涅槃はやめよう。慈悲で行こう」と。空の覚りを、その手前ギリギリまで徹底的に目指す。しかし最後の最後のところで、入りきってしまわず戻ってくる。だから最高の難行といわれるわけです。

 「有情」は、サンスクリット語で「サットヴァ」といい、「衆生」とも訳されます。「誓って必ずこれを実現しよう」という願いを誓願といいますが、まさにその諸々の誓願に生きるのが菩薩・大士あるいは菩薩・摩訶薩なのです。

 これは日本の思想一般における「志に生きる」という言葉と言い換えてもいいと思います。

 しかしその内容は非常に明確で、一切衆生・生きとし生けるものすべてを救おうという大きな志があって、そのためにはあれもしようこれもしよう、できるあらゆる手段を尽くそう、というのです。

 長くなるので、次の記事にしようと思いますが、そのあらゆる手段のなかには「仏国土の建設」も含まれていて、単に個人の内面・魂の救いだけがテーマになっているのではないことは明確だと思われます。

 

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公開学習会延期のお知らせ

2020年02月18日 | 持続可能な社会

 先日お知らせしました下記の学習会ですが、大変残念ながら3月中旬には新型ウィルス肺炎の本格的流行期に入っているのではないかという危惧があるため、流行期が過ぎるまでということで延期にさせていただくこととしました。

 よろしくご了解・ご海容のほどお願い申し上げます。

 みなさんのご健康を心からお祈り申し上げ、催行できるようになりましたら、ぜひご参加いただけますようお願いいたします。

 

 

 

 上掲チラシのとおり、「持続可能な国づくりを考える会」の公開学習会を行ないます。

 環境の危機は他人事ではありません。私たち全員に降りかかってくる問題です。

 趣意書にも書いたとおり、事態は改善どころか予想以上に悪化の一途をたどっています。

 このままだと、どうなるかは明らかです。取り返しのつかないところまで行くでしょう。

 「どうなるのだろう?」と不安を感じながらも「どうにかなるだろう」と日々を過ごすという姿勢は、もう終わりにすべき時なのではないでしょうか。

 これからどうすべきか、ご一緒に考えませんか。

 

・日 時 3 月 14 日 13 00 〜 17 00
・場 所 フォーラムミカサエコ 7 F(JR神田駅西口徒歩3分)
・参加費 1000 円 (当日お支払いください)
・申込先 「持続可能な国づくりを考える会」
      事務局申込担当:増田満
      Email : mit.masuda@nifty.com FAX. 042‐792‐3259

 

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2020年1月〜の講座予定

2020年02月12日 | 広報

●今年1月以降の講座予定を改めてお知らせします(東京日曜講座の会場の訂正があります)。

 

 【東京】土曜講座「般若経典と日本の心」

 『仁王般若経』『金光明経』と天武天皇、『大般若経』と聖武天皇等、「般若経典」は、飛鳥以来、日本人、特にリーダーたちの心を深いところで育み支えてきました。

 そこで語られている、縁起、空、無、如、慈悲、菩薩についての教えは、私たち現代の日本人にとっても、右左の対立を統合した揺るぎないアイデンティティの再発見・再確立の基礎になると思われます。

 短い瞑想も合わせ、そのエッセンスをご一緒に学んでいきましょう。

 

 2月15日 4月11日(2回) 

▼講師:研究所主幹・岡野守也▼テキスト:随時配布。▼時間:13時―17時▼会場:フォーラムミカサ・エコ(JR神田駅西口4分、内神田1―18―12 内神田東誠ビル8F)▼参加費:一般=1万4千円、会員=1万2千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=8千円、学生2千円

 

 【東京】日曜講座「『正法眼蔵』と坐禅によるやすらぎの時間」

 道元禅師の言葉は、現代的に言い換えれば「宇宙が一三八億年かけて生み出した宇宙からのメッセージ」と読むことができます。

 喜びも悲しみも、生も死も、大きな宇宙的生命の働きであることに気づくにつれ、心に深いやすらぎがもたらされます。 

 

 2月16日 4月12日(2回) 

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼時間:13時―17時▼会場:東京マインドフルネスセンター(東京メトロ赤坂見附駅徒歩1分)▼参加費:一般=1万4千円、会員=1万2千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=8千円、学生2千円

 

●6月の東京は以下の特別講座を予定しています。詳細は後日改めてお知らせします。 

*6月6日 特別講座「180分でコスモロジーセラピーを学ぶ」 

*6月7日 特別講座「180分で唯識心理学を学ぶ」 

 

 【高松】水曜講座「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間続」

 講義の前にイス瞑想を行ない、『正法眼蔵』他、道元禅師の著作を学び味わいます。

 悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になるでしょう。

 

 1月15日 2月19日 3月18日(3回)

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼時間:19時半―21時▼参加費:一般7千5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方6千円、学生3千円

▼会場:サンポートホール高松会議室 

 

 【高松】日曜講座「般若経典を学ぶ①」

 最短の『般若心経』から最長の『大般若経』六百巻までさまざまな「般若経典」は、飛鳥以来、日本人の心を深いところで育み支えてきたもので、その教えは現代の日本人にとっても大きな意味があります。短い瞑想も合わせて、エッセンスを学びます。

 

1月26日 3月1日(二回)

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。

▼時間:13時半―16時半▼参加費:一般7千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方5千円、学生2千円 

▼会場:サンポートホール高松会議室 

 

*3月22日

特別講座「160分でコスモロジーセラピーを学ぶ」

 空しさ、淋しさ、落ち込み、苛立ち、不安…に悩む現代人の心を根っ子から癒すセラピー。東京講座とほぼ同じ内容ですが、会場の都合で時間がやや短くなっています。

 

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼時間:13時半―16時半▼参加費:一般=3千5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=2千5百円 

▼会場:サンポートホール高松会議室

 

○受講申込方法(各講座共通)

氏名、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、HPのフォームからお申込みください。

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古代日本仏教への否定的見解:家永三郎氏の場合

2020年02月11日 | 歴史教育

 かつて、進歩的知識人の代表のような印象のあった歴史学者家永三郎氏の古代仏教への否定的見解は、若い頃、筆者も大きな影響を受けたものの一つです。

 以下、長めの引用の結論部分を先にあげておきます。

 「「鎮護国家」とは、具体的には、奴隷制的支配を内容とする律令支配機構を呪術的に「護持」するという意味であり、一切の身分階級を否定し、すべての人間がみな成仏できるという確信から出発した仏教の本来の立場を完全に裏切るスローガンとされても弁解の余地がない」というのです。徹底的な酷評です。

 「律令制」はひたすら奴隷制的支配なのか、呪術は近代人にとってはともかく古代の日本人にとっても、否定的意味しかなかったのか、「護国」という言葉がはっきりある『仁王般若経』や『金光明経』は仏教の経典であるにもかかわらず、「仏教本来の立場を完全に裏切るスローガン」を掲げていると言えるのか、それらの主張には根本的に疑問、というより反論のあるところです。

 仏教の本来の立場を完全に裏切る飛鳥・白鳳・天平の仏教が、世界に誇りうる日本文化の粋ともいうべきすばらしい仏教芸術を生み出したのはなぜか、家永氏は「今日まだ学問的に完全な解答のなされていない歴史の秘密に属している」、つまりナゾだと言っていますが(『日本文化史 第二版』岩波新書、一九八二年、七〇頁)、偽りの思想が怪我の功名で美しいものを生み出すなどということがありうるのでしょうか。筆者はありえないと考えます。

 そうした反論を、まず、15日の東京土曜講座で、詳しく述べるつもりです。

 後日、本ブログでも一定程度書くつもりですが、できるだけ多くの積極的関心のある方に、ぜひ講座に参加して、ご一緒に考えていただきたいと思います。

 それは、日本人のアイデンティティの確立を可能にする、右-左の対立を超えた普遍性のある基礎があるのかないのか、という問題に関わるからです。

 

 「仏教が百済から伝来したときに、日本人はこれを「異国の神」として理解した。今日でも仏教徒と称する多数の日本人のしていることがそうであるように、六、七世紀の日本人は、仏教を呪術として受けとったのである。その点で民族宗教の機能と本質的にかわるところがあったとは思われない。

 現に仏教が輸入されてから後も、民族宗教との間に信仰の衝突をひき起した形跡がないばかりか、七、八世紀の記録をみると、たとえば病気の平癒とか天災地変の消除とかの祈願が、神社と寺院とに双頭的にささげられている例がすこぶる多いのであって、神社信仰と仏教信仰とは平行してなんら他をさまたげていない事実が確かめられるのである。

 ということは、現世の禍福を呪術の力をもって処理しようと望む呪術的欲求が共通の主体となって、それが一方で神社への祈願、他方で仏寺への祈願となってあらわれるにすぎなかったためであり、要するに、仏教が民族宗教と本質的にかわらない呪術的儀礼として受けとられていたからであった。

 仏教は最初は蘇我氏ら豪族の間で私的に信仰せられるにとどまったが、大化の改新の前後のころから、朝廷から公的な信仰を受けることとなり、舒明天皇はその皇居とならべて百済大寺を造り、天武天皇は百済大寺を移して大官大寺の造営をはじめ、また薬師寺を建て、さらに諸国に命じて公の行事として金光明経を読諦させるなど、政府が仏教興隆のために全力をそそぐにいたった。

 朝廷の仏教興隆政策は、聖武天皇のときに絶頂に達し、七四一(天平十三)年には国ごとに金光明最勝王護国之寺すなわち国分寺を建立することを命じ、ついで平城京に五尺三寸の盧舎那大仏の造営をはじめ、これを本尊とする壮大な東大寺を建立し、天皇みずから大仏の前にひれふして「三宝の奴」と称するなど、熱狂の域にいたっているのである。

 このような朝廷の積極的な仏教信仰が、律令国家の安寧を呪術的に保障しようとする要求に出たものであることは、もっぱら護国の功徳を説いた金光明経(およびその新訳の金光明最勝王経)がもっとも尊重された一事をみても明らかである。この時代における朝廷の仏教興隆への異様なまでの熱情は、まったく「鎮護国家」の期待を仏教にかけた結果にほかならなかった。

 したがって、病気の平癒その他の個人的な祈願も付随的に生じていないわけでもなかったけれど、仏教本来の使命である正覚(正しい悟りをひらくこと)の道は顧慮せられるところがなかったのである。

 長い間、国家権力に卑屈な態度をとってきた後世の教団は、あたかも「鎮護国家」を日本仏教の誇るべき特色であるかのごとく説いていたけれど、「鎮護国家」などということは、個人が正道を修めて成仏することを教えの根本とする仏教の教義とはまったく縁のない、権力への迎合以外の何ものでもなかったことを知らねばならない。

 ましてその「鎮護」せらるべき「国家」とは、「ミカド」と訓読せられているところからも察せられるように、もっぱら政治権力の掌握者としての君主またはその政府を指していたのであるから、「鎮護国家」とは、具体的には、奴隷制的支配を内容とする律令支配機構を呪術的に「護持」するという意味であり、一切の身分階級を否定し、すべての人間がみな成仏できるという確信から出発した仏教の本来の立場を完全に裏切るスローガンとされても弁解の余地がないのである。」

    (『日本文化史 第二版』五四-五六頁、読みやすくするために筆者が改行を加えた。)

 

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東京土曜講座: 天武天皇と『仁王般若経』

2020年02月08日 | 歴史教育

 

 来週15日の東京土曜講座の内容について、少し詳しくお知らせし、ご参加をお誘いしたいと思います。

 

 古代日本の天皇と仏教:従来の左翼進歩派的評価への反論

 戦後から一九七〇年前後まで、日本の言論界の主流はソ連型社会主義・共産主義を目指すべき社会的正義のモデルとする左翼進歩派だったと思われます。そして一九八九年の東欧の共産党政権の崩壊、一九九一年十二月のソ連の崩壊によって、もはや完全に主流ではなくなっていますが、まだ名残りは残っているようです。

 筆者は、かつてそうした左翼進歩派の歴史学者の日本史の見方(あえて言えば偏見)に大きく影響を受けてしまいました(あえていえば洗脳)。代表的な言葉を引用しておきます。

 「仏教は、聖徳太子の後も、歴代の朝廷から、ますます厚く保護された。……これほど朝廷から保護された仏教は、もっぱら『国家鎮護』すなわち天皇制の安泰を祈ることを使命とするもので、個人が戒律をまもり正しい道をおさめて、悟りをひらき魂の救いを得るという仏教の根本精神からは、まったくはなれたものであった。またこの仏教は民衆の信仰とも関係がなく、僧侶が民衆の間に仏教を説くことや、民衆が寺に参るのはゆるされないことも、以前と同じであった。」(井上清『日本の歴史 上』八四頁、一九六三年、岩波新書、強調は筆者)

 ここでは、国家=朝廷=天皇制=悪、民衆=善という左翼史観の図式による古代仏教への否定的評価がなされています。

 そして、「仏教の根本精神」は「個人が魂の救いを得る」ことであり、個々人としての民衆の信仰=魂の救いにならなかった・しなかった国家仏教は、左翼史観からはもちろん、仏教として見てもダメだという評価がなされています。

 こうした古代仏教への否定的評価は、いまでもかなり多くの日本史の本や論文に見られるものです。

 それに対して筆者は、これまで『日本書紀』や唯識や般若経典そのものの内容を学ぶことによって、

 ①「『国家鎮護』すなわち天皇制の安泰を祈ること」という評価は事の半分しか見ていないこと、

 ②「仏教の根本精神が個人の魂の救いを得る」ことだという理解は、大乗仏教・般若経典の思想の理解不足・誤解であること、

 ③仏教・唯識の「支配者であれ民衆であれ人はみな無明に捉えられた八識の凡夫であって煩悩だらけである」という洞察からすると、国家・支配者=悪、民衆・人民=善(したがって人民の味方である共産党とその指導者の独裁=絶対的善)という図式的人間観は、あまりに単純かつ無効・有害だと思われること、

という三点について、古代日本とそのリーダーたちに関するネガティヴな偏見を克服することができたと考えています。

 今回は、天武天皇と聖武天皇に関わって、主に①と②について述べていきたいと思いますが、第一回2月15日(土)は、まず天武天皇と『仁王般若経』について考察していきます。

 誤解を避けるために最後に一言コメントしておくと、こうしたアプローチは、成功しているかどうかの評価は参加者のみなさんにお任せするとして、筆者の意図としては右でも左でも中道でもなくそれぞれの妥当な部分を統合する試みです。

 ぜひ、日本人のアイデンティティの確立・再確立について関心のある多くの方に参加していただき、ご一緒に考えていただければと願っています。

 

*お問合せ・お申込みは、研究所HPのフォームからどうぞ。

 

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『サングラハ』第169号が出ました

2020年02月01日 | 広報

 『サングラハ』第169号が出ました。

 会員のみなさんには本日発送しましたので、数日中にお手元に届くと思います。

 内容については、「編集後記」にまとめられていますので、引用―紹介しておきます。

 編集後記

 新年号は三本の新連載がスタートしています。

 まず、東大名誉教授で医師であられる大井玄先生の「痴呆、認知症そして老耄(認知障)」。敬意とやさしさのある環境では、認知症に付き物とされるつらい症状が起きないというのは目からウロコの事実です。身近に要介護老人を抱えている方、将来に不安を感じている方に必読です。

 また、羽矢辰夫先生は「仏弟子たちのことば」を開始されました。より親しみやすい仏弟子たちの姿が楽しみです。

 増田さんからは岡野主幹の過去の著作再訪のご寄稿をいただきました。歴史的大誤解をスッパリと正した名著、今こそ世に知られてほしいと思われます。

 岡野主幹の唯識講義録は、今回は五位説の全体像の話です。現状の世界がどれほどそこから遠くとも、ともかく私たちに覚りの可能性が与えられていること、それを知るだけでも希望が湧いてきます。主幹のコスモロジー記事は、私たちの命の連続を担うDNAによって、全生命の一体性が確認されていることが語られています。

 三谷記事は内面象限の復権に関しウィルバーの視点を借りて論じています。

 

     目  次


■ 近況と所感…………………………………………………………… 2

■『唯識三十頌』を学ぶ(10) ………………………………岡野守也… 6

■ コスモロジー心理学入門(5) ……………………………岡野守也… 14

■ 痴呆、認知症そして老耄(認知障) (1) …………………大井玄…… 21

■ 仏弟子たちのことば(1) …………………………………羽矢辰夫… 32

■ 名作再訪『自我と無我』(1) ………………………………増田満…… 34

■ ベラー『徳川時代の宗教』を巡って(16)……………………三谷真介… 41

■ 講座・研究所案内 ……………………………………………………… 50

■ 私の名詩選(68) 良寛の冬の歌………………………………………… 52

 

●購読をご希望の方は研究所HPのフォームからどうぞ。

 

 

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