考え直し決め直す:唯識のことば29

2017年02月28日 | 仏教・宗教

 菩薩は福徳と智慧を生長させ その二種の糧は無限である 

 真理について思惟し心が決まるので 外界のあり方を分別する原因を理解する

                     (摂大乗論第三章より)


 時々、私は菩薩つまり自他の幸福(福徳)と覚り(智慧)を求めることを志している人間なのだろうか、凡夫つまり根本煩悩に駆られて自分(たち)だけの幸福――などというものがあると錯覚してそれ――を求めている人間なのだろうか、と反省します。

 すると、菩薩のつもりだったのに、いつの間にか凡夫的になっていることに気づきます。それを「退行」といいます。

 まあ、「凡夫の菩薩」という言葉もあるくらいですから、そのくらいの成長段階にいるのでしょう。

 筆者は、残念ながら決して退行しないというほどすばらしい境地には到っていないのですが、折々に気づいて、気を取り直せるくらいにはなっているので、あまりがっかりしないことにしています。

 もちろん反省はしますが、自己非難はしないのです。

 自分の幸福とみんなの幸福をバランスよく追求することと、智慧の心をみんなで育てていくことで、生活の糧と心の糧を得ようとする、それが真理・コスモスの法則に合った生き方だとはっきり理解できると、人生に迷いがなくなります。心そして志が決まるのです。

 決まっていたつもりなのに、いつの間にか迷いはじめる。

 そういう場合どうしたらいいのかというと、要するに原点にもどることです。

 ……と偉そうに言っていますが、筆者はそうしています。

 単純に、逸れたらもどる、逸れたらもどる、です。

 自分と他者とが分離しており、損と得が別々にあり、幸福と不幸が絶対に別のものであり……と外界を分別して捉えてしまうのは、実体視された自分と自分のつごうを物差しにしているから、でした。

 でもそれは、コスモスの現実に合っていない、非現実的、非論理的、非合理的な思い込みなのです。

 非現実的・非合理的な思い込みで行動すると、短期には得をするように見えますが、長期には必ず損・失敗をします。

 長期にわたってほんとうに自分のいのちを養ってくれるもの=糧を得たいのなら、コスモスの法則に従うのが賢いのでした。

 自分の迷いや悩みの原因がすっきりわかると、爽やかな勇気が湧いてきます。

 個人としても、社会・国も、人類も、一日も早く、コスモスの法則をしっかり見つめた英知に基づいた長期的な利益を追求できるようになるといいですね。

 まずは、自分からそうしましょう。

 きびしい時代だからこそ、短期的な幸不幸や損得に振り回されたりしないで、自他の長期的な幸福という目標に目を据えてしっかり追求していくというのが私のライフスタイルだ、と腹を固めなおしましょう。



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菩薩の持続する志:唯識のことば28

2017年02月27日 | 仏教・宗教

 ふつうの人・凡夫が、人生のいろいろな悩みに出会ってなんとかそれを乗り越えたいと思ったり、すばらしい教えに感動したりして、修行を始めると、そこで覚りを求める者・菩薩になります。

 どんなに初心であっても、どんなに煩悩だらけでも、どんなに愚かでも、菩薩は菩薩なのです。

 初めて覚りたいという心を発したのを「初発心(しょほっしん」といい(「新発意(しんぼち)」ともいいます)、はっきりと覚りたいと思ったら、それが「初発心」であり、そこで初発心の菩薩になります。

 もっともまだあまりの凡夫の状態で、とにかくやっと修行を始めたばかりだと、「凡夫の菩薩」という言い方もあります。

 私たちも、その程度かもしれませんが、でもやはりもう菩薩なのです。

 しかし長い仏教の修行の歴史のなかでは、いったん凡夫の菩薩になってももとの完全な凡夫に「退行」する人もしばしばいたようです。

 それは現在と変わりません。

 きっかけになった悩みが少し軽くなると、もう修行が面倒になってきたり、最初の感動が薄れてきて、なかなか実感できるような進歩がない、効果があがらないとなると、いやになってきたり、そこそこの体験があったり、ある程度の境地に到ったら自己満足してしまったり……と。

 初発心の時点からしばらくすると、ほとんど法則的といってもいいくらいに、停滞、退行の危険が忍び寄ります。

 人間成長・修行にとって、そこが一つの関門です。

 アサンガ菩薩は、おそらくみずからもそういう体験をしたのでしょうし、後輩、弟子たちが、そうした関門で行きどまってしまうのをたくさん見たのでしょう。

 『摂大乗論』のあちこちに、退行への警告と、関門を突破して前進するようにという励ましのことばがちりばめられています。


 もし菩薩が初発心から成仏に到るまで、飽き足りることのない心を捨てなければ、これを菩薩の長い時間の意志と名づける。

                  (『摂大乗論現代語訳』第四章より)


 菩薩には、ぜひ「長い時間の意志」、持続する志が必要です。どこかで倦み疲れたり、飽き足りたりしないで、精進しつづけること、それが菩薩の志というものなのです。

 初発心から成仏までは、唯識では三大カルパというおそるべき長い時間がかかることになっていますが、それでもどこかで満足してしまわない、あきらめてしまわない、へたばって坐りこんでしまわない。

 なかなかむずかしいことですが、せっかく人間、つまり覚る可能性をもった存在として生を受け、しかも幸運にもすばらしい道を見つけ、歩みはじめたのですから、途中でやめるなどというもったいないことはしたくないものです。

 自己満足しかかったら、人間にはほとんど無限の成長可能性があることを思い出して、疲れていたら少し休んでからでいいから、もう一度、前に向かって歩き出しましょう。

 これは、読者に向けていう前にまず自戒のことばです。


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苦しみといういいこと:唯識のことば27

2017年02月26日 | 仏教・宗教

 堅実でないものを堅実であると考え
 転倒した妄想にとどまり
 煩悩に汚染される者
 彼らこそ勝れた覚りを得る                

                 (摂大乗論第二章より)


 大乗仏教の言葉の中には、表面的な意味と深い意味がまるで違うものがあります。

 そういう表現方法を「逆説」といいます。

 右の言葉も、そうした逆説的な表現で、軽く読むと「え?」と思うようなことが書かれています。

 頼りにならないものを頼りにし、分別知から出た常識・浅知恵にこだわり続け、そのせいで悩みに悩んで心がドロドロになってしまうような人間、そういう人間こそすばらしい覚りに到ることができる、というのです。

 これは、すべては空であり実体ではなく、だから頼りにしてはならないと考え、常識は妄想だとして捨て去り、さっぱり爽やかに生きる人間が、「勝れた覚りを得る」のではない、ということになります。

 この言葉は、私たちの仏教に対する常識的な考え方とはかなり違っていて、非常に逆説的で、こういう表現に出会うと、私たちは単純に読み過ごすことができず、「これはいったい真意はどこにあるのだろう?」と考え込むことになったりします(もちろん「ふーん」というふうに読み飛ばしてしまうこともしばしばありますが)。

 しっかり考え込むことになったら、この言葉が禅でいう「公案」の役割を果たすことになるでしょう。

 「公案」に対する解答を「見解(けんげ)」といいますが、ご参考までに、私のとりあえずの見解を書いてみたいと思います。

 私は、この言葉からは、二つのことを読み取ります。

 第一は、これは本気で修行に苦闘した人の実感のこもった言葉だということです。

 頭では堅実ではない、空だといくら思っても、やはり頼りにしたくなるものがいろいろあります。

 地位、名誉、財産、健康、知識、容姿……。

 分別知は妄想だと教わり、納得しても、だからといってすぐにやめられるものではありません。

 意識だけでなく、アーラヤ識の底まで汚染されているからです。

 私たちの日常は、マナ識-アーラヤ識の働きで欲望(神経症的欲求)と悩みに汚れっぱなしです。

 しかしその悩み・葛藤がもう耐えられないほどだという気持ちになるからこそ、本気でそこから抜け出したい、だから修行するという気になるものです。

 ゴータマ・ブッダから始まって、深い悩みなしに修行する気になり、覚った人は、ほとんどいないようです。

 だとすると、今悩んでいて、修行を始めたみなさん、おめでとうございます。

 スタートを切ったら、途中で棄権しないかぎり、いつかはゴールに着くことが決まっています。

 第二は、それとも関わって、筆者がずっと言ってきたことですが、唯識、広く言えば大乗仏教は「絶対肯定の思想」であるということです。

 人生におけるあらゆること、悩みや苦しみさえもオーケーだ、人生には悩みはあるもので、それは究極的にはいいことだ、ということです。

 苦しみといういいこと・必要なことがあるからこそ、私たちはもっといいこと、つまり覚りへと向上しようとする、せざるをえなくなるのです。

 コスモスは、グッドからベターへ進化し続けていて、私たちはそのプロセスの一部なのです。

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覚りに基づく世界システムの可能性:唯識のことば26

2017年02月25日 | 仏教・宗教

 滅することが難しく解くことも難しいものを、共通の束縛(共結・ぐけつ)と名づける。

 瞑想修行する人は、心は〔ふつうの人が分別するのとは〕異なっており、相が大きいことによって外界を生ずる。

 清浄な人は、まだ〔外界が〕滅していなくても、そのなかに清浄さを見る。

 仏の浄土を完成するのは、清浄な仏の見方によるのである。

                      (摂大乗論第一章より)


 さまざまな面で進歩しているはずの二十一世紀になっても、人類は「滅することが難しく解くことも難しい」重大な課題を残したままです。

 主なものだけでも、戦争、テロ、宗教・民族対立、格差、環境破壊、ニヒリズム等々。

 それは、心ある個々人の努力にもかかわらず、世界共通の束縛・課題となっています。

 「私のせいではない」とか「私は知らない」ということで、それから逃れられるわけではありません。

 唯識では、自分と分離した世界・外界があるという錯覚・無明は、個々人だけではなく、人間すべてに共通の束縛であると捉え、「共結(ぐけつ)」と呼び、その錯覚から、怒りも恨みも敵意・殺意も独善も空虚感も生まれてくるといっています。

 つまり、現代の問題は、人類が始めから抱えている問題が極限状態になったもので、昨日今日、近代だけの問題ではないのです。

 しかし、瞑想修行する人の心が捉える外界は、外界とはいっても、「相が大きい」、どのくらいかというと「十方世界に通ずるが故に、相大という」くらい、つまり宇宙大に大きく、しかも「識を離れて、別の外境無し」で、自分の心と分離して関係のない外界ではないのです(真諦釈)。

 瞑想修行している人は、まだ完全に外界とか他者という見方を超えきってはいないにしても、ものの見方は清浄になっており、マナ識的な執着から解放されつつあり、マナ識‐自分のつごうを離れて世界を見ると、世界・宇宙は、根源的にはありのままでいい(本来自性清浄・ほんらいじしょうしょうじょう)のです。

 自分や自分のいのちを絶対化した価値観からすると、どんなにふつごう・不条理であるように見えても。

 しかも、そういう根源的にはありのままでいい=清浄と見る見方からこそ、現象としては煩悩で汚れたこの世界=穢土を変容させて、ほんとうに清浄な仏の国土を実現できるとアサンガ菩薩はいいます。

 一定の価値観・イデオロギーからする否定による革命ではなく、根源的肯定からする成長-完成としての変容です。

 釈では「若し智慧と慈悲あらば、分別を起し利他を為し、浄仏土を成就す」といわれています。

 意訳すると、「もし智慧だけではなく慈悲もあるなら、〔あえて〕統合的な理性としての分別を起動して他者の幸福を図り、世界をすばらしい仏の国土へと完成させていく」ということでしょうか。

 ただ、そのためには「清浄な仏の見方」が必須で、だとすると、私たちにはやはり無理ということになりそうです。

 ところが、釈には「初地は菩薩の見位なり。初地の中の清浄は、是れ、見道の清浄なり。見道の清浄なる、是れを『仏見の清浄』と名く。此の清浄に由りて、能く仏土の清浄を得。何に況んや修位及び究竟位をや」とあります。

 菩薩が初めてようやく到達できた程度の覚りでも、浄らかな仏の国は実現できる、ましてそれ以上の境地であればいうまでもない、と。

 そうだとすれば、人類的英知に基づく持続可能な世界システムは、もちろん安易に行ける距離にはないとしても、私たちにとっても絶対に到達不可能と思うほど遠くはないといえそうです。


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なぜ苦しみに遭うのか:唯識のことば25

2017年02月24日 | 仏教・宗教

 なぜ世間には衆生で重い苦しみの災難に会うものが見られるのか。

 菩薩は、衆生はカルマがあって苦の報いを受け、勝れた楽の結果をさえぎられることを見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施せば、善を行なうことを妨げることを見るからである。

 菩薩は、彼に楽なことがなければ、眼のあたりに生死を厭う心を起こすことを見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施すと、一切の悪い事柄を生長する因縁になると見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施すと、他の無量の衆生を迫害する因縁になると見るからである。

 こういうわけで、菩薩にはこのような勝れた能力がないのではないが、世間には苦しみを受ける衆生が現われるのである。

                    (『摂大乗論現代語訳』第八章より)


 すべてがコスモスの美しい夢ならば、なぜこの世に苦しみがあるのか、と疑問を感じることがあります。

 特に自分が苦しみに遭った時、「何も悪いことはしてないのに、なぜ私がこんな目に遭うのか」と思うことがあります。

 上に引用した言葉に出会った時、そういう疑問に対して「なるほど、唯識はこう答えるのか」とかなり納得しました。

 もちろん理論的にであって、いつも実感というわけにはいかないのですが。

 仏・菩薩がいるのに、なぜこの世に苦しみがあるのかと問いを立て、アサンガは五つの理由・場合があると答えます。

 納得しやすい順に変えていうと、①楽なことつまり力や富や健康を与えると、いい気になって他の人や生き物をいじめる場合がある。そういう人間には苦しみを与えたほうがいい、と。

 これはわかりやすい。ぜひ、そうあってほしいくらいです。

 ②次も同様で、金や暇が余るとろくでもないことをする人間の場合も、そういうものを与えない。これも納得です。

 ③それから、あまりにも幸福だと、それに満足して、それ以上いいことをする気にならない人の場合も、わかります。

 ④望まないことですが、言われれば納得せざるをえないのが次で、「楽なことがなければ、眼のあたりに生死を厭う心を起こす」場合です。

 幸せだと人間はあまりものを考えない。

 ふつうの人生に疑問を感じ、それを超えたいと願うには、不幸という苦い薬が必要なこともある。

 不幸を通じて人間性が成長する、魂が深まるということは確かにあります。

 ⑤納得しにくいのは「カルマ」です。しかし、苦しみに遭った時、偶然の不運・不条理ととるか、そこから何か深い意味を読み取ろうとするか、そこで生き方が決定的に変わります。

 これは一歩誤ると迷信的な因縁話になりますが、すでに唯識を知っている人には、深い生き方への導きになります。

 つまり、意識では知りえない過去の悪しきカルマのために、今、苦しみを受けている。

 けれども、一方すばらしいカルマを積んできたこともまちがいない。

 なぜなら、現に唯識という真理のことばに出会えたのだから。

 だとしたら、後は、幸不幸は関係ない、今生で過去のカルマをどう清算し、さらにどれほどいいカルマを重ねることができるかだけが問題だということになるからです。

 これは徹底的にポジティヴな人生観ではないでしょうか。

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コスモスが見ている夢:唯識のことば24

2017年02月23日 | 仏教・宗教


 「人生は夢」という感じ方は、日本の古典的な美意識のかたちの一つです。

 それは、いわゆる「無常感」のよりイメージ的な表現だと言ってもいいでしょう(拙著『能と唯識』青土社、参照)。

 そして無常感は、『方丈記』や『平家物語』、『徒然草』、『新古今和歌集』、西行などなど、特に中世の古典に共通した特徴です。

 筆者は、そうした日本の古典文学がとても好きだった(今でもかなり好きな)のですが、唯識とトランスパーソナル心理学を並行して学ぶことによって、人生への基本感覚がそうとう変わってきました。

 こうした無常感的な美意識には、言うまでもなく仏教の影響が大きいのですが、しかしそれは日本的に変容した仏教だということがわかってきたからです。

 これまでにいろいろなところでお話ししてきたように、大乗仏教はそういう無常感的な理解と違って、いわば「根源的な絶対肯定の思想」です。

 「すべてのものは、無常であり、過ぎ去っていくもので、はかなく悲しい。しかしはかなく悲しいからこそ、美しい」というかなり現世否定的な美意識は、悪くはありませんが、しかし本来の大乗仏教の思想とはかなり異なっているようです。


 譬えると夢などのようなものである。

 夢の中ではさまざまな外界はなく、ひたすら心の働きのみであるのに、種々の色・形、音、香り、味、感触、家や林、土地や山などのいろいろな外的対象が実際のように現象するが、そのなかの一つも外的対象として実際にあるものはない。

                  (『摂大乗論現代語訳』より)


 大乗仏教の無常観(無常感ではなく)からは、「すべてのものは、ダイナミックに動いていてとどまるところのないコスモスの働きの部分であり、いわばコスモスのきらめきであり、現象としては有限だが、コスモスそのものは永遠であり、だから現われることだけではなく消えることも根源的にいいことであり、そのままで美しい」といった美意識が生まれてくると思われます。

 引用したテキストを、そういう美意識の現われとして読み直してみると、こんなふうになるでしょう。

 今私たちが見る美しい花の色やかたち、小鳥の声、風や海の波やせせらぎの音、森の中のすがすがしい香り、実る果物の味、土や木の肌の手触り、懐かしい家のたたずまい、風の透きとおる雑木林、のどかに広がる土地、ゆったりと横たわっている山々などは、みなコスモスの現われであり、区別できるそれぞれのかたちはもっているが、でもほんとうは一つであり、見ている私とも一体である。

 それは、私と分離して私と無関係に向こう側に冷たく客観的に存在している「外的対象」ではなく、すべては私自身でもあるコスモスの心の内面の働きであり、あるがままで美しい。

 見られている物も見ている者も、実はどちらもコスモスが見ている美しい夢なのだ……と。

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瞑想と願望成就:唯識のことば23

2017年02月22日 | 仏教・宗教

 第八回に夢の話を書きました。

 その時は迷いという悪い夢から覚める話でしたが、今回は積極的にいい夢を見ようという話です。
 
 私たちふつうの人間は、すぐ完全に夢から覚めることはできませんから、どうせ見るならいい夢を見たほうがいいわけです。

 それに、悪い夢よりいい夢を見た後のほうが、すっきり目を覚ますことができます。

 そこで、いい気分で、ほどほどの時間に目を覚ませるように、その前にいい夢を見ておくのも悪くありません。

 唯識では、私たちがいい意味での夢=「さまざまな願い」をもつことを否定していません。

 そういう意味では、「禁欲主義」ではないのです。

 それどころか、「瞑想修行する人は、願いを実現することができる」といっています。


 瞑想修行する人は、さまざまな願いと見方を成立させることができる。

〔瞑想修行する人があるいは自分の自由さを完成するために、あるいは他の人を誘って正しい教えを受けさせたいと欲して願うならば、さまざまな変化の願いはみな成就しうる。もし願が成就するならば、自分の見方も他者の見方も願ったようにみな成就しうる。〕

               (『摂大乗論現代語訳』七一~七二頁)

 種々の願と及び見とを、観行の人は能く成ず。

 〔勧行の人、或は自の自在を成せんが為に、或は他を引いて正教を受けしめんと欲するが故に願ひ、種々の願を成ずることを得。若し願、己に成ずれば、自見他見は所願の如く亦皆成ずることを得。〕

      (国訳一切経『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、一〇二頁)


 といっても、もちろん人間にとって当然の、あるいは許される「願」と、歪んだ、自他に害のある欲望は違います。

 「観行」で「成ず」るのは「願」であって、「貪(むさぼり)」ではありません。

 でも、自分がほんとうに自由に、爽やかに生きたいという欲求と、まわりの人にもそういういい考え方、いい生き方を伝えたいという願いなら実現するというのです。

 アサンガ菩薩もそういっておられますし、私も全面賛成ですが、生き方の基本として、欲望を抑えようとするより、欲望の奥にある自然な欲求を回復するほうがいい。それから自利利他の高次の欲求を追求する。

 いわば〈生命欲〉の全面的解放を目指したいと思います。

 厳しい時代になってきたからといって、変にちぢこまったりしないで、のびのびと生きたいものです。

 人生は、マナ識的な自分の思いどおりになるわけではありませんが、自分の思いが宇宙と共振したときには、思いは実現するといわれています。

 宇宙が実現してくれるというのです。

 そういう意味で「いい」夢を描くと、夢は実現します。

 やすらかに眠る時のようにリラックスして、宇宙に全心身を任せて、子どもが欲しいもののことを夢に見ながら寝言をいうように、心の奥底からの願いをいえば、宇宙は聴いていて、いちばんいい時にかなえてくれる……ようです。

 ただし、子どもがどんなに欲しがる一見いいものでも、結局は害になるものを親は与えないように、結局はためにならないことは、宇宙はかなえてくれないようです。

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ほんとうのビッグな人生:唯識のことば22

2017年02月21日 | 仏教・宗教

 私たちは、唯識の理論を学んだり、坐禅をしたりし始めてからしばらくすると、なんだか大して得るものがないような気がしてくることがあります。

 「こんなことをやって、どんな効果があるのだろう」と。

 実践的な効果のことを仏教用語で「功徳」といいますが、功徳への疑問が生まれるのです。

 そういう疑問に対して、梁の武帝に対して達磨さんが答えた「無功徳」という答えは、実にさっぱりと徹底していて、いかにも禅という感じで、かつてはとても好きでした。

 そして、「仏教はこうでなくては」とも思ったものです。

 ところが、唯識を学び、特に『摂大乗論』を学ぶと、以下のような波羅蜜の功徳について述べたところがちゃんとあります。


 もろもろの波羅蜜の功徳はどのようなものだと知るべきであろうか。

 もし菩薩が生死輪廻するとしても、大いなる富を思いどおりにできる。

 大いなる人生を送ることができる。

 大いなる親族や家来を得る。

 大いなる生活の糧の事業が成就する。

 病気や悩みがなく、少欲でありうる。

 一切の技術的な智慧を得る。

 思いどおりであり、富を失うことなく、衆生を利益することをなすべきこととするので、菩薩の六波羅蜜を修行する功徳は、究極の清らかな悟りに悟入するまで、常にあって変わることがないからである。

                    (摂大乗論第四章より)

 アサンガ菩薩によれば、六つの波羅蜜の実践によって、いろいろすばらしい功徳が得られるといいます。

 その中には「大いなる富を思いどおりにできる」というのまであるのですから、学びはじめたころ、仏教は禁欲主義・清貧主義であるはずだと思っていた私には驚きでもあり、やや反発も感じました。

 それから、これは初心者に修行させるための方便(の嘘)であって、本心ではないのではないかとも考えました。

 しかし、読みが深まっていくにつれて、そうではないことに気づきました。

 ここでの「大いなる富を思いどおりにできる」の「思い」はマナ識の思いではなく、菩薩の思いであり、自分自身については「少欲」であるにもかかわらず、「富を失うことなく、衆生を利益することをなすべきこととする」布施の思いなのです。

 たくさんなければ、たくさんの衆生に施すことはできません。

 「大いなる生活の糧の事業が成就す」れば、食うに困る心配は、当然なくなります。

 食うには困らない、自分の欲は適当で大きくない、けれども大いなる富はある。

 だとすれば、思いどおりに使える富を使って、大きな欲・願という意味での思いどおりに衆生に利益を与えることができる。

 その上、病気や悩みがなく、すてきな仲間や協力者がいっぱいいて、あらゆるテクノロジーを駆使できる。

 これが、ほんとうの「ビッグな生活」ではないでしょうか。

 摂大乗論によれば、大乗の菩薩の目指すものは、ささやかで清らかな生活というより、こういう「大いなる人生を送る」ことです。

 例えば良寛さまのような清貧の生き方もすばらしいと思いますが、こちらのほうがより「大乗」的だと思われます。

 筆者―サングラハも、そういう路線で、いわば「いいことをして豊かになる。豊かになって、もっといいことをする」ような事業を目指したいと思いながら努力を続けていますし、そういう「ビッグな生き方」をする人がたくさん現われてくることで、社会―世界が変わることを期待しています。


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仏・菩薩には大きな欲がある:唯識のことば21

2017年02月17日 | 仏教・宗教

 一切の仏法は欲があること(有欲)を本性とする。

 欲のある衆生を愛し包み、自己と同体とすることを完成させるからである。

 一切の仏法は怒りがあることを本性とし、一切の仏法は愚かさのあることを本性とし、一切の仏法は凡夫のあり方を本性とする。

 一切の仏法は汚染のないことを本性とする。

 完成された真如は、どんな障害も汚染することができないからである。

                  (『摂大乗論現代語訳』第七章より)


 唯識の話をすると、初期に必ずといっていいくらい頻繁に出てくる疑問・反論的質問があります。

 「人間の欲はなくならないんじゃないですか?」「欲がなくなったら人生がおもしろくなくなるんじゃないですか?」というものです。

 それは、仏教は人間の欲望を否定するものだという、やや不正確な一般常識から来る部分と、欲望をなくしておもしろくない人生になるような仏教は受け容れたくないという気持ちから来る部分があるのではないかと思われます。

 筆者も大乗仏教‐唯識をちゃんと学ぶ前はそういう疑問をもっていましたが、ちゃんと学んだら疑問は氷解しました。

 まず、右に引用した言葉のとおり、「一切の仏法は欲があることを本性とする」のです。

 それどころか、凡夫の怒りも愚かさも共有するのが、仏法だといわれています。

 これは常識からは非常に意外な言葉ですが、よくわかってくると、なるほどとうなづかせられました。

 仏は「目覚めた人」ですから、人間なのです。

 人間には自然な欲求は必ずあります。

 例えば食欲がまったくなくなったら、栄養失調で死んでしまいます。

 死んでしまったら、他の人を愛することはできなくなります。

 ほどほどに食べて元気でなければ、人は愛せません。

 したがって、目覚めた人も、他者を愛するためには、適度な食欲が不可欠です。

 それから、たくさんの人を愛したいというのは、大変な欲です。

 ましてすべての生きとし生けるものを救いたいなど、常識からいえば誇大妄想的に大きな欲です。

 しかし、そういう大きな欲をもつのが菩薩つまり仏を目指す人ですし、また仏・目覚めた人ももちろんそうです。

 つまり、仏・菩薩は大変な欲張りなのです。

 そういうわけなので、唯識を学んだら、自然な欲求に加えて大きな欲求をもちましょう。

 もちろん、歪んだ、いきすぎた、そのくせどこかみみっちい欲望はコントロールし、癒していきましょう。

 とはいえ、歪んだ欲望も、自然な欲求も、仏・菩薩の欲求・願も、すべてコスモスの営みですから、究極的には汚染はないといわれています。

 「完成された真如は、どんな障害も汚染することができない」のです。

 しかし、すべてがコスモスの営みであり、だからすべてが肯定されていることに気づいた人は、そこで居直るのではなく、だからこそ、コスモスによりよいことを創発させるべく参加・努力していくのです。

 もちろん、自発的に、おもしろがりながら、です。

 今年も、一刻も休むことなくよりよいものを生み出しつつあるコスモスの進化の働きに楽しみながら能動的に参加していきましょう。

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敵意を抱いている衆生に直面する難しさ:唯識のことば20

2017年02月16日 | 仏教・宗教

 大乗の菩薩があえて引き受けて行なう十種類の難行、前回に第三をご紹介しました。続いて第四の難行です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。…十種の実行しがたい正しい行を包括している…

 第三は背を向けないという難行である。衆生が悪をなしても(なすからこそ)、ひたすらに彼に向かうからである。

 第四は直面するという難行である。敵意を抱いている衆生に直面し、そのためにあらゆる利益になることを実行するからである。

                       (摂大乗論第七章)


 これは、多くの方が読んでお感じになるとおり、もう大変な難行です。

 しかしこの言葉は、イエスの「汝の敵を愛せよ」とおなじように、「私にはとてもできることではない」と思いながらも、ある種の感動を受ける言葉です。

 第三の「背を向けない」というのよりももっと積極的な姿勢で、「敵意を抱いている衆生に直面し、そのためにあらゆる利益をなることを実行する」のですから、難行中の難行でしょう。

 しかも第三でいわれる「衆生が悪をなしても」というのは、文脈上、私に直接敵意を抱いて害を加えようとするのではなく、いわばそのあたりで悪いことをしているということです。

 自分に直接害がなくても、いろいろ悪いことをする人間があまりにもたくさんいることを見聞きするだけでも、もう世の中がいやになってしまいがちです。

 ところが、第四で語られる「衆生」は、敵意を抱いているわけですから、直接自分への被害がありそうです。

 それほど大げさなことではありませんが、筆者も教育やある種セラピー的なことに関わっていると、「恩を仇で返す」タイプの方に出会うことがありました。

 その方の「自分で自分を不幸にする」ような考え方や生き方を、ご本人のために変えることを提案せざるをえないのですが、タイミングが悪いと、びっくりするほど攻撃的な態度を示されたことがあります。

 幸いにしてその理由も学び、またかなり慣れてきたので、なんとか対応できるようになりましたが、かなり心理的にきついこともありました。

 それは、たとえ自滅型のものであってご自分のアイデンティティなので、「変えてはいかがですか」という提案が、「変えろ」という命令、「それではダメだ」という非難、「変えさせてやる」という攻撃に感じられるからなのだ…とわかっていても、こちらもまだ境地の浅い駆け出し菩薩なので、つい「じゃ、勝手にしろ」とか思いそうになったりしたものです。

 その程度のことでも大変だったのですから、ましてもっとはっきり敵意を向けてくる人に対応するのはもっと大変な難行だと思います。

 しかし例えば、自分の胃腸が病気で自分に痛みをもたらしても、それは自分の一部なので、復讐するわけにはいきません。

 痛みを感じながら、なんとか治療の努力をするわけです。

 確かに困難ですが、「私に敵意を抱く衆生も〔広く深い意味での〕私の一部なのだ」と思う努力をしながら、当面の自分の実力相応のことをしていくことにしています。

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衆生に背を向けない難しさ:唯識のことば19

2017年02月15日 | 仏教・宗教

 大乗が、小乗よりすぐれているのは、十種類の難行を行なうからだ、と摂大乗論はいいます。

 第一、第二も確かに困難ですが、第三はある意味でさらに困難です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。…

 十種の実行しがたい正しい行を包括している。…

 第一は自ら受容するという難行である。自ら悟りを得ようという善なる願を受容するからである。…

 第二は撤退しないという難行である。生死のさまざまな苦があっても撤退しないからである。…

 第三は背を向けないという難行である。衆生が悪をなしても(なすからこそ)、ひたすらに彼に向かうからである。

                     (摂大乗論第七章)


 第一、第二は自分のことですから、自分が努力すればなんとかできることですが、三は他の人々のことなので、自分では当面どうすることもできないことが多いので、いっそう困難です。

 良心的で純粋な人にありがちなのは、いろいろ悪い出来事を見聞きし、世の中・人々があまりにも醜く、それをどうすることもできないというので、すっかり嫌になってしまうことです。

 筆者もかつて割にそういうタイプでしたから、気持ちはよくわかります。

 しかし、唯識を学ぶにつれて気づいてきたことは、そういう純粋さは「善人という名の凡夫」の心だということです。

 「どうしてあんなことをするのかわからない」、「信じられない」、「なんてひどいんだ」…といったことばで表現されるような気持ちの裏には、善である自分と悪である他者や社会が完全に断絶・分離しているという思い込みが潜んでいるようです。

 驚いて理解できず(せず)、怒り、悲しみ、非難し、そして嫌になって心理的にも物理的にも、それと自分を分離しようとする(印象が強い間はひどく嫌悪し、しかしやがて忘れる。あるいは、巻きこまれないように逃げたり、避けたりする)のは、ふつうの健全な市民(凡夫)としてはとても自然なことです。

 筆者はここで、市民としてのごく健全な心情や行動は、とりあえずあくまでも健全なものだといっておきたいと思います。

 菩薩的な水準から市民を裁いて「ダメだ」というのは、それは適切ではないと思うからです。

 それは幼児に大人のようなことができないからといって、「ダメだ」というのに似ています。

 菩薩的な心の水準は、目指したい・目指せる段階にきた人自身の理想・目標であって、他人や自分を裁く秤ではありません。

 しかし菩薩を目指すのなら、その発達水準に近づこうとする努力は必要です。

 初歩の菩薩でも、まだ完全にではないにしても、自分と他者とは区分できても分離はしていない、できないということを知っているはずです。

 悪をなす衆生も、自分とつながってひとつであり、広く深い意味では自分なのです。だとしたら、背を向けることはできません。

 自分がまずいことをしても、それは自分ですから逃げることはできません。

 まずいと気づいたら、どんなに困難であっても、なんとか、ひたすらそれに直面して改善をしようと努力するほかないのです。

 筆者も、心痛む事件が起こるたびに、善良な市民的に嫌悪や絶望で反応するのではなく、菩薩的に対応しようと思い直します。

 確かに難しいことで、いつもできているわけではありませんが、なるべくそうありたいと思っています。

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撤退しないことの難しさ:唯識のことば18

2017年02月14日 | 仏教・宗教

 大乗と小乗の違いについて述べた個所で、実行しがたい行をあえて実行するのが大乗の菩薩にしかない特徴だといいます。

 前回、第一の「自ら受容するという難行」について述べました。

 自分に覚りを開く潜在力があるということを認めるのは、実は大変なことです。

 認めたとたんに、その潜在力を開発する努力を自分で自分に課さなければならなくなるからです。

 そのことを心のどこかで感じているので、多くの人が「私には覚りなんて、とてもとても」とか、「凡人ですから」とか言うことによって、その努力・苦労から逃げようとしているのかもしれません。

 楽なほうがいいと思うわけです。

 しかしいくら逃げて楽をしようとしても、私のいるところ、そこには私のアーラヤ識があります。

 つまり、そのままで煩悩に苦しむ可能性と努力しだいで覚れる可能性の両方を秘めた、心のもっとも深い領域が、自分の中にあるのです。

 ですから、逃げることは自分のもっとも深い心を裏切ることになると言えるかもしれません。

 自分の潜在力はまさに、自分のものであり、そしてまだ潜在しているものです。それを開発しないということは、今の自分よりも高次な自分を未発達のまま埋もれさせ、腐らせ、なくしてしまうことであり、可能性としての自分の自殺行為です。

 そういうことをしておいて、心理的に「くさる」とか「くさくさする」、「つまらない」、「空しい」と言っても、それは誰の責任でもありません。自分でそうしているのです。

 それは、今の自分に楽をさせることは、未来のより高次の自分が生きる歓喜を実感することを妨げているのだ、としっかり理解していないからです。

 あるいは目先、短期の心理的利益のために、長期の精神的・霊性的な利益を、無自覚に放棄しているのだと言ってもいいでしょう。

 私にはアーラヤ識がある、だから覚る潜在力が与えられている、だからたとえ困難でもそれを開発するための行をするほかない、と自らの本質を受け容れるのは、決して易しいことではありません。

 誰でもできるというものでも、しなければならないというものでもないのでしょう。

 秋、無数に落ちた木の実のうち、春芽生え、伸び、やがて時を経て、親木とおなじくらい、あるいはもっと高く聳えていくのは、ごく少数であり、それは自然なことです。

 同じく、人間・凡夫と生まれてアーラヤ識を与えられていても、覚ろうと努力しないまま、覚らないまま一生を終える人が多いのも、ある意味では自然なこととも言えます。

 しかしそれは人間の場合、木の実と違って成り行きまかせという意味の「自然」ではなく、自分の「自由な選択」です。

 ところが、私たちの「自由な」選択は実はしばしばその時だけの気まぐれな選択だったりして、いちおう始めても続かないことがあります。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。……

 十種の実行しがたい行を包括しているからである。……

 第二は撤退しないという難行である。生死のさまざまな苦があっても撤退しないからである。 
                  (摂大乗論第七章より)


 人生でさまざまな苦しみに出会っても、修行をやめない、撤退しないというのは、確かにそうとうな難行です。

 しかし、それはまず誰のためでもなく、自分の限りなく高い可能性を現実化するための難行で、そういう「自分のための難行」を自覚的に選んでしかも決して撤退しない人を菩薩という、と『摂大乗論』は言っています。

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自己肯定の難しさ:唯識のことば17

2017年02月12日 | 仏教・宗教

 『摂大乗論』第七章では、唯識の心による学びが他に勝っているといえるのはなぜかと問題設定をし、実行困難な正しい行が含まれているからだと答えています。

 唯識の学びは、エリートにしか実行できないと言われてきました。

 『摂大乗論』の最初に「私は、このことを、勝れた人のために説く」「凡夫に対しては、私はそれを説かない」ということばもあるほどで、かつては霊性のエリートとしての菩薩だけのための学で、「凡夫の救い」を説くものではなかったのです。

 では、どういう意味で菩薩はエリートなのでしょうか。それは例えば十種類の難行をあえて実行するからだと言うのですが、とても面白いのは、以下に引用した第一項目です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。……

 十種の実行しがたい正しい行を包括しているからである。

 何が十かというと以下のようである。

 第一は自ら受容するという難行である。自ら悟りを得ようという善なる願を受容するからである。…… 

                 (『摂大乗論現代語訳』第七章より)


 これは、他の力で救われようというのではなく、自分で悟ろうという願い・決心をはっきり持つことであり、自分はそれができる人間だという根本的な自己肯定・自己受容をすることです。

 根源的な自信を持つことと言い換えてもいいでしょう。

 ところが、この自分の極限の可能性を信じるという徹底的な肯定思考が、ふつうの人間には難しいのです。

 これは考えてみるととても奇妙なことです。

 人間にとって自分ほど大切なものはないはずなのに、自分で自分を肯定できないということがしばしば、多くの人に見られます。

 本当に「自分はダメな人間だ」と思っている人や、「自分はダメだ」と思ったり言ったりすることが謙虚だと取り違えている人など。

 自分はダメな人間だと思っている方には、唯識に併せて拙著『生きる自信の心理学』(PHP新書)をお勧めします。

 本当の自信は人間成長に不可欠の土台・出発点であることが納得できるでしょう。

 それを謙虚さだと思っている方には、「自分は悟れないなどと言うのは、あなたに心を与えた宇宙に対して失礼なのではありませんか」と問いかけたい気がします。

 生まれた時から悟りの依りどころである(迷いの依りどころでもあるのですが)アーラヤ識があるのが人間です。

 人間である以上アーラヤ識があり、アーラヤ識がある以上、実は最初から悟りの可能性が与えられている。

 だとすると、本当はすべての人が霊性のエリートで、ただそれに気づくかどうかだけの違いです。

 気づかなければ凡夫、気づけばそのままで勝れた人=菩薩です。

 自分のいのち・心の驚くべき可能性に気づくことは、古代の民衆には確かに困難だったでしょう。

 しかし、今の私たちにはそれほどの難行でしょうか。

 現代程度に恵まれた時代なら、気づくチャンスは十分ある。

 だから、現代の平均的な日本人はすべて霊性のエリート候補生だ、と私は思っているのです。

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持続可能な国づくりを考える会第五回学習会 案内

2017年02月11日 | 持続可能な社会

  長年「世界の警察」であり、自由主義市場経済のグローバリゼーション」の先頭を切ってきたアメリカが大きな方向転換をするかもしれないという歴史の曲がり角に来ています。

 これまで私たちは主に持続可能な「国」づくりについて様々な識者のアイデアと私たちのアイデアを突き合わせながら学んできましたが、そうした状況のなか、今回はさらに大きなスケールの持続可能な「世界」の可能性について、フランスの経済学者・思想家ジャック・アタリの著作を手がかりに、ご一緒に考えていきたいと思います。

 アタリは経済学者・思想家でありつつ、政界・財界でも重責を負って発言・行動を続けており、すでに2006年の『21世紀の歴史』(邦訳2008年、作品社)で世界金融危機を予見して言い当て、またさらにアメリカ帝国の終焉と世界の多極化を予見しています。

 そして、国家を超える〈超帝国〉の出現、さらにグローバルな紛争や地球規模の動乱すなわち〈超紛争〉の可能性も指摘しながら、その先に「人類が自らのアイデンティティが破壊される前に、世界の連帯の必要性を意識」し〈超民主主義〉に到達する可能性をも語っています。

 その驚くべき博識と展望力は、これからの世界を考えるうえで大きな指針になるのではないかと思います。ご一緒に学びましょう。

         (持続可能な国づくりを考える会運営委員長・岡野守也)


 テーマ:J・アタリ『21世紀の歴史』から何を学ぶか

 メンバーの増田満氏が内容を要約・紹介し、運営委員長岡野がコメントした後、参加者のみなさん全員と話し合いの時間を持ちます。本を読んでいなくても参加していただけます。かなり大部の本なので、概要を知った後さらに詳細に学びたくなったら読むという方法もいいと思われます。

 日時:3月17日(金)19時―21時

 会場:新宿区戸塚地域センター 5階会議室2(JR高田馬場徒歩3分)

 参加費:無料

 申込先:「持続可能な国づくりを考える会」事務局申込担当:増田満
      FAX 042-792-3259 E-mail:mit.masuda@nifty.com


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菩薩の32の特徴4:唯識のことば16

2017年02月11日 | 仏教・宗教

 菩薩の特徴の二十六から三十四番目です(原文には「三十二」とあるのに、実際に区切ってみると三十四なのはなぜか、最初の①②が総題で、③から数えるのかもしれませんが、よくわかりません)。


 ㉖「低次の乗(小乗)を喜ぶ心を生ぜず、大乗の教えに実の功徳があると見る」とは、すなわち功徳について正しく思惟することである。

 ㉗「悪しき友を離れ、善き友に親しむ」とは、善き友に師事する功徳を明らかにしている。


 ㉘「常に四種類の浄らかなあり方(四梵住)を治める」とは、完成のカルマを明らかにしている。

 ㉙「無量の心の清浄さを治め、常に五種類の神秘的力(通)の智慧に遊んでいる」とは、すなわち気高い徳を得ることである。

 ㉚「常に智慧によって行動する」とは、すなわち覚りを得るという功徳である。

 ㉛「正しいカルマにとどまる者と正しいカルマにとどまらない者のどちらの衆生に対しても見捨てる心がない」とは、すなわち他者に安らぎを与えるカルマである。

 ㉜「はっきりと方向の定まった言葉を説く」とは、すなわち迷いの心がなく、正しい教えと学の内容を定立することである。

 ㉝「実りあることを尊ぶ」とは、すなわち教えと資財の二つの教化手段である。

 ㉞「まず敬意をもって菩薩の心を行ずる」とは、すなわち汚れのない心のことである。

 こうした特長をもつ者を菩薩と名づける。

 このような句によって、前に説いた初句を知るべきである。
 

 こうした特徴は、最後の句にあるようにすべて「一切の衆生を利益し、安楽ならせたいという意志」という最初の句の内容説明だといわれています。

 つまり菩薩の特徴は、別のことばでいえば「慈悲」に集中しているのです。

 読んでいてそこにいつも、筆者は深い感動をおぼえます。

 四梵住(しぼんじゅう)とは四無量心(しむりょうしん)ともいわれ、慈・いつくしみ、悲・あわれみ、喜・ひとを幸福にする喜び、捨・平等な心を意味しています。

 五神通(ごじんずう)とは、ひとの見えないものを見る天眼通、聞こえないものを聞く天耳通、他人の心を知る他心通、過去世のことを知る宿命通、どこへでも自由に行くとのできる神足通という五つの超自然的な能力です。

 釈尊は超能力を禁止したとされますが、大乗では、どんな能力であれ、マナ識的に使えば歪み、平等性智・慈悲の手段=方便として使えば生きるという理由から、あえて使うのです。

 しかも大乗の慈悲は「自利利他」であって、単なる自己犠牲ではありません。

 だからこそ、自分の学びのために場合によって「悪しき友を離れ、善き友に親しむ」という一見差別的なつきあい方をしてもいいし、もう一方では行為・カルマの良し悪しにかかわらず「どちらの衆生に対しても見捨てる心がない」という無差別平等のつきあい方も目指すのです。

 以上学んできたような菩薩の諸特徴を身につけたいという高い自己成長の目標を持つことの、あえていえば「メリット」は、人生で時に苦しいこともあるにしても、その苦しみをどう受け止めればいいのか、どこに向かえばいいのか、ゆるぎない方向性が確立できることだと思われます。

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