般若経典のエッセンスを語る31

2020年10月31日 | 仏教・宗教

 ところで、拙訳では玄奘訳にしたがって「有情」という訳語を使っているが、サンスクリット原語は「サットヴァ」で、一般的には「衆生」と訳され、「群生(ぐんじょう)」と訳されることもあり、日本語としては「生きとし生けるもの」と訳されることが多い。

 先にも述べたように大乗の菩薩の基本的な実践項目を「六波羅蜜」といい、その第一が有情・衆生に対する「布施」である(以下、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧についても述べられていく)。

 布施の一般的な解説としては、財施・物質的な施しと法施・真理の教えの施しと無畏施・畏れのない心・安心の施しがあるとされるのだが、この誓願では、まず何よりも身に迫った飢え渇きを癒し、そして清潔な衣服と暖かい寝具を調えるという具体的なことがあげられている。

 それらがない有情・生きとし生けるものを見た時、菩薩は「どうしたらこの貧しさから救ってあげられるだろう」と考え、「なんとしても救ってあげたい」と思い、「渾身の努力をし身命を顧みず」布施を実践するのだという。ただ、衣服や寝具があげられているから、具体的にはまず人々が対象ということだろう。

 ともかく、ここまでは、まちがいなくすばらしい志ではあるが、一般的な菩薩のイメージとしては当然のことで特に驚くような話ではないし、他の宗教における慈善や直接宗教に関わらないヒューマニズム的な福祉とそれほど違わない。

 しかし、違うのは、できるだけ・ある程度までというのではなく、もろもろ・すべての人々、さらには心ある生き物・有情すべてが、天界の天人たちのような最高の「種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」という極端なまでの徹底性である。

 それを実現するためには、ただ特定の菩薩が特定の有情に一時的かつ部分的にいわば「私にできることをできるだけ」というふうに布施を行なうだけでは不十分である。有情の住んでいる所そのものの全体が完全に「生きるために必要なものが欠乏」することのない豊かな所にならなければならない。

 住むものすべて、一人残らず、一匹残らず、豊かで幸せなところ、それが「仏国土」であり、菩薩は「仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させ」ること、つまり仏国土建設を目指すのだという。

 「仏国土」のサンスクリット原語は「ブッダ・クシェトラ」で、仏・覚った人の住むところ・領分といった意味である。

 そして菩薩は、やがて必ず覚って仏になる存在なので、すでにある他の仏の国土に行くのではなく、自らが覚り自らが創り出す「我が仏国土」なのである。

 しかも、自らが覚るだけでは、覚った人々の国・仏国土は完成しない。構成員すべてが、人間として成熟していて自己中心的な貪欲から解放されていなければ、富の偏在や不公平感からくる争いはなくならない。

 だから、人々をも成熟させ一緒に覚り一緒に仏国土を創っていこうというのである。

 それも「いつの日にか」といった悠長な気持ちではなく、「速やかに……一刻も早く」という想いで「身命を顧みず」「渾身の努力」をするのだという。

 このきわめて強い決心の言葉は、第一願だけではなく第三十一願までそれぞれの願ごとに繰り返し繰り返し語られている。

 ということは、菩薩が最終的に目指すのは仏国土の建設であって、それぞれの願はいわば仏国土の全体的プランの三十一分の一の要素だ、と捉えることができるだろう。

 学びが『般若心経』や『金剛般若経』にとどまらず、『摩訶般若波羅蜜経』さらには『大般若経』まで広がり深まっていく中で、筆者にとって喜ばしい驚きだったのは、菩薩は、個人的な救済活動だけでなく、有情の住む所全体を仏国土にし一人残らず最高の幸せにするといういわば社会変革運動をも志すのだ、と般若経典にはっきり記されていたことだった。

 初期の大乗経典に属すると言われる『維摩経』にも仏国土というコンセプトはあるが、それはかなり理念的なものだった。

 ところが、いわばもっとも中核的な大乗経典である般若経典にも「仏国土」が語られていて、しかも『維摩経』と異なり、その全体像がきわめて具体的に語られていたことが、「般若経典にはこんなことまで、こんなところまで書かれていたのか」という大きな驚きだったのである。

 こうした菩薩の誓願の強さ・深さは、原漢文で味わうといっそうよく感じられると思われるので、第一願だけでも、書き下し原文をあげておこう。

 

 爾(こ)の時仏、具寿善現(ぐじゅぜんげん)に告げて言(のたま)はく、善現、菩薩・摩訶薩有りて布施波羅蜜多を修行し諸の有情の飢渇(きかつ)に逼(せま)られ衣服弊壊(えぶくへいえ)し臥具乏少(がぐぼうしょう)なるを見ば、善現、是の菩薩・摩訶薩は此の事を見己って是の思惟(しゆい)を作す、我れ当に云何が是(こ)の如き諸の有情類を救済(ぐさい)して樫貪(けんどん)を離れ乏少(ぼうしょう)なる所無からしむべきと。既に思惟し己って是の願を作して言はく、我れ当に精勤(しょうごん)して身命を顧ず布施波羅蜜多を修行して有情を成熟し仏土を厳浄(ごんじょう)し速に円満して疾(と)く無上正等菩提を証し我が仏土の中(うち)是の如き資具乏少の諸の有情類無きを得ること四大王衆天(しだいしゅてん)・三十三天8さんじゅうさんてん)・夜摩天(やまてん)・覩史多天(としたてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天(たけじざいてん)の種種上妙(じょうみょう)の楽具(らくぐ)を受用するが如く我が仏土の中の有情も亦た爾(しか)なり種種上妙の楽具を受用せしむべしと。善現、是の菩薩・摩訶薩は此の布施波羅蜜多に由りて速に円満するを得て無上正等菩提に隣近(りんごん)す。

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般若経典のエッセンスを語る30

2020年10月28日 | 仏教・宗教

 

 菩薩の三十一の誓願

 

 菩薩が慈悲の心を実習・実修する場合、「具体的には、こういうことを実行しよう」というのが誓願である。

 イントロダクションが長くなったが、ようやくここから第一章で「般若経のエッセンスのエッセンス」だと予告した「菩薩の三十一の誓願」を順を追って見ていきたいと思う。

  これは『大般若経』「初分願行品第五十」にあるもので、他に一願だけ少ない三十願があげられている個所もある(各願についての見出しは大東出版社版『国訳一切経』の中の『大般若経』の脚注による)。

 人間は心が無明に覆われているが、心の本質は清浄であり、無明をいわば拭い取ることによって、智慧が現われる、と仏教は説く。そして。無明を拭い取る方法として、仏陀から部派仏教までは主に「八正道」を説き、大乗仏教は「六波羅蜜」を説く。

 「波羅蜜」は「波羅蜜多」の略で、波羅蜜多はサンスクリット語の「パーラミター」の音写である。「パーラ・完成」+「ミター・方法」と「パーラム・彼岸へ」+「イッター・行く」という二つの語源解釈があるが、どちらにしても「覚りに向かう方法」という意味になる。

 八正道と六波羅蜜の内容はかなり重なっているが、ごくシンプルに言えば、八正道になくて六波羅蜜に加えられているのは「布施」である。

 かつて筆者は両者を比較してみて、自分の覚りにとどまらず、他者への慈悲が強調された大乗仏教の修行法の最初に「布施・施し」が挙げられているのは、なるほどと納得させられたものである。

 

 第一願は「布施成就衣食資生充足(ふせじょうじゅえじきししょうじゅうそく)の願」で、「衆生・有情への布施を完全なものにし衣食など生きるための必要なものをすべて充足したい」という願である。

 菩薩の願は、単なる精神論から始まらない。まず、生きるために必要なものはすべて充たしてあげたいということから始まる。

 筆者の現代語訳で見ていこう。

 

 スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。

 「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。

 こう考えた後で、次のような願をなして言う。

 「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の有情もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕かぎりなく接近(隣近・りんごん)するのである。

 

 終わりのところからいくと、「このような布施をしたなら、覚りはもうすぐそこだ」という。

 究極の覚りそしてこの世からの解脱へぎりぎりのところまで接近しながら、向こうの世界・彼岸に行ってしまわず、あえてこの世にとどまるのが菩薩である。漢訳原文で言うと「隣近」するのである。

 あるいは、観音菩薩がそうであると言われるように、実は行ってからもう一度戻ってくるのだと言ってもいい。

 ともかく、菩薩は向こうへ行かない、または行ったきりにならないのである。

 仏は、すべてが一体・空だと覚り切ることになっている。

 すると、救いということが成り立つための三つの要素である救うもの―救われるもの―救いの行為の違い・分離もまったくなくなるわけで、いわば話はそこで終わりになり、救いという行為は成り立たなくなる。

 ところが菩薩は、究極のところは救うも救わないもないということがわかっているのだが、現象としてはやはり救う。

 覚りまでもう一歩というところにあえてとどまり、私と衆生・有情は違うという立場に立って、救うという行為をやり続ける。

 これが大乗仏教のすばらしいところだと思う。覚って、解脱して、向こうに行って、それで終わりではなくて、覚りに限りなく近いところまで行き、しかしきわめて微妙なところでとどまって衆生救済の実践をし続けるのである。

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般若経典のエッセンスを語る29

2020年10月27日 | 仏教・宗教

 私たちふつうの人間は、言葉、特に名詞・代名詞・固有名詞(以下「名詞」とする)を使ってもの(者・物、以下「もの」とする)を把握している。

 例えば「人間」「犬」「猫」「木」「土」、「私」「あなた」「彼・彼女」、「太郎」「花子」などなど。

 それはごくふつうのことなので、ふつう問題があるとは気づかない。

 しかし、仏教は言葉・名詞には致命的な欠陥があることに気づいたのである。

 「私」という代名詞は、他の名詞とは分離・独立している。「私」は「私」であって、他の名詞で呼ばれるものではない。

 この「私は私であって、他のものではない」というものの見方は、私と私でないものを区別するという点では、必要だし正しいし何の問題もない。

 ところが、ある名詞は他の名詞と分離・独立して存在している――正確に言うと「存在しているかのように思える」ということだが――ために、その名詞で呼ばれたものが実際にも他と分離・独立して存在している・できるかのように思える・錯覚されてしまう。そこに大問題がある。

 すでに縁起について述べてきたとおり、実際には「私」は実にさまざまな「私でないもの」のおかげで「私」であることができる。しかも、永遠にではなく、ある一定期間・寿命の間だけ存在できる。

 ところが、自分を「私」という言葉・代名詞で呼ぶことで、「私は他のものと関係なく・分離独立していつまでも存在できる」かのような錯覚が起こってしまう。

 自分が実は他とのつながりのおかげで(縁起)、一定期間だけ存在できる(無常)存在だということに気づけない・気づかないのである。

 まして、自分が他のさまざまな、というよりすべてのもの・宇宙とつながっており、究極のところ一つだ(一如)ということなど、まったく自覚できない。

 人間は「言葉を使う動物だ」と定義されることがあるが、その言葉を使うことで、私と世界の本当の姿が見えなくなる。

 逆にすべてのものが実体に見えてしまうのである。

 言葉は、人間のふつうの意味での知恵の源泉であると同時に、深い意味では智慧がないこと・無明の源泉でもある。

 しかし、私たちは幼い頃から、「〇〇ちゃん」と固有名詞で呼ばれ、「あなたは」とか「おまえは」とか代名詞で繰り返し呼ばれ、何の疑いもなくそれを覚え込むことによって、「ああ、私は〇〇なんだ。私は私なんだ」というふうに自我を確立していく。

 「何の疑いもなく」「覚え込む」というのは、やや難しい専門用語でいうと、「自明化」「深層化」ということである。

 教え込まれた様々な言葉を当たり前のこととして心の底(唯識でいう「アーラヤ識」)に溜めこむことで、私たちの自我意識と世界像が形成されるのだが、言葉によっているので、すべてが分離独立した実体だと錯覚されてしまっている。

 その錯覚・無明は、ただ意識的・知識的なものではなく、深い無意識・アーラヤ識に染み付いているのである。

 特に問題なのは、自分・自我が実体だという思い込み・無明が無意識にいわば結晶化しているというか、こびりついているということである。

 そして、自我の実体視は、必然的に自我の中心化と執着を生み出す。

 無明がエゴイズムの源泉なのである。

 しかも、それがごくふつうのほとんどの人間の深層の状態だから、エゴイズムの正反対の慈悲が出てこないのは、ある意味当然なのである。

 しかし、私たちは、そういうことを教えられると、まず知識的には知ることができるし、よく知ると納得することができる。納得が深まると、ある程度実感も湧いてくる。

 しかし、知ることも納得することも言葉によっているので、言葉の限界・欠陥を完全に超えることはできない。

 そこで、言葉を超える方法が「禅定」なのである。空・一如を、知識や理論として知るだけでなく、無意識にこびりついた自我とものの実体視・無明を浄化して智慧に変えるには、この「禅定」が不可欠である。

 自分も自分以外のすべてのものも空・一如だということが、意識化されるだけでなくさらに無意識化されていくと、当然ながら、すべてのものとの一体感から生まれる慈悲が心の奥底から自然に湧いてくるのだという。

 ふつうの人間・凡夫が突然一挙にそうなれるとは、仏教は言わない。

 しかし適切な方法で時間をかけて意識と無意識の両方を浄化していくことで、やがて必ずそうなれる、そうなれるように人間は出来ている(「仏性」という)と大乗仏教(般若経典と唯識)は語っている、と筆者は理解している。

 智慧と慈悲の存在ブッダになろうとして励んでいる人を「菩薩」といい、般若経典はそうした菩薩たちによって書かれた菩薩からブッダへの道の案内書だと言っていいだろう。

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般若経典のエッセンスを語る28

2020年10月25日 | 仏教・宗教

 これは、理屈としては非常にはっきりしているのだが、私たちは空・一如ということを覚っていないので、慈悲ができない。

 人間同士が慈悲の心を持って接することができないから、世の中は乱れ、いろいろなことが起こる。

 そういう場合、一生懸命ボランティアや良心や優しさで問題解決をしようとしても、心の底では「おれとおまえは分かれている」と思っているから、根本的な一体感に基づく「慈悲」にはならない。

 「自分と自分以外のものが分離している」という思いのことを「分別知」といい、分別知の状態では慈悲は行なえないのである。

 それに対して、空・一如ということを少しでも学び、実感し、覚ることによって、少しずつ慈悲に近い心を持つことができるようになる。

 それも、グラデーション的・漸進的成長であって、私たちふつうの人間は、そういうことをまず頭で学び、練習・実行をしながら少しずつ身に付けることで、今までの少し無理のある優しさやボランティア精神から、慈悲の心へと次第に深まっていく。

 究極の理想的モデルとして、慈悲そのものの存在になったら、それを覚った人・仏というのである。

 慈悲の心でなければ、「私がこんなに苦労してやってあげても、あなたの態度はそんなものか」とか「やりがいがない」といったふうになりがちだが、慈悲の心なら、先の譬えのように、手が足の治療をして、足がお礼を言わなくても、腹を立てたり、空しくなったりしない。足がよくなったら、手も「よかったね」で終わりになる。

 そうした見返りを求めない愛という考え方はキリスト教にもあり、ギリシャ語で「アガベー」というが、完全なアガペーの心のあるのは、神と神の子としてのイエス・キリストだけということになっている。

 キリスト教徒は、キリストに倣って努力をするのだが、生まれつきエゴイズムへの傾向・「原罪」があるために、完璧を目指すことは難しいとされている。

 それに対して仏教は、なぜ慈悲がふつうの人間には難しいかを明快に解き明かしている、と筆者は考えている。

 詳しくは筆者がこれまで書いてきた著作、特に唯識のものを参照していただきたいが、ここでもなるべく簡略に繰り返しておこう。

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般若経典のエッセンスを語る27

2020年10月25日 | 仏教・宗教

 智慧と慈悲について重要なのは、ここ、つまり空と一如は同じ事柄を別の言葉・角度で語ったもので、いわば同義語だというところである。

 空を覚るとは、一如を覚るということであり、智慧とは、私と他のもの(者・物)がぜんぶつながっており結局は一体だということを覚ることである。

 それは抽象論にとどまらず、目の前にいるあなたと私は縁起的関係にありかつ最終的には一如なのだということを覚らなければ、覚ったことにはならない。「おれはおれ、おまえはおまえ」と思っている間は覚りではないのである。

 しかし、覚ったらあなたと私がべったりと一体化するかというと、そうではなく、あなたと私の区別はくっきりありながらしかし一体、一体ではあるけれども区別はある、そういう関係になる。

 「一体」という日本語はよくできているといつも思うのだが、一如という言葉を一体と置き換えると、よくわかる。

 私の左手と右手は一体である。でも右手と左手の区別はありありとある。私の手と足は一体なのであるが、でも明らかに区別できる。

 例えば、足がどこかにつまずいてケガをしてしまったとする。すると手が傷口を消毒したり、包帯を巻いたりして助ける。

 その場合、手は足に向かって「(おれがおまえのために)やってやったんだ。(おまえはおれに)少し礼をよこせ」とか「せめて感謝くらいしろ」とか、そんなことは要求しない。

 一体・一つの体だから、一体のどこかが傷んだら体の他の部分がそれを癒していく。

 胃が「お腹がすいた」という信号を出したら、手や足が食べ物を獲得して、歯が噛み砕いて、舌が味わう……ということになる。

 その場合、胃が舌に向かって「おまえだけうまい思いをして、おれは消化の苦労をするだけか」と文句を言ったりはしない。それは一体・一つの体だからである。

 そのように、私と他人との関係がほんとうは一体であるということが、一如そして空ということの意味なのである。

 「空」というと、何か高尚そのものの、しかし抽象的でわけのわからない哲学的概念のように思ってしまいがちだが、私の学んだ限りの大乗仏教では、空とは一如のことであり、それは自分と他者、そして宇宙との一体性のことを言っているのである。

 一如・空であるから、そこから当然、「他人は、他人であって他人ではない。私と一体であり、私の一部だ」ということになり、そうなれば当然、慈悲が生まれるわけである。

 例えば、手とは関係のない足が勝手につまずいてケガしてしまったのならば、手は自分と別ものだと思って「おれとは関係ないだろう。なぜおまえを助けなきゃいけないんだ」という態度になるが、一体ならば、足の痛いのは手にとっても放っておけないことであり、当たり前のこととして助ける行為を行なうだろう。

 そのように、慈悲は、何か努力して他人にいいことをしてあげることと一見似ているが、本質的には別のことである。

 つまり、ボランティア行為や優しい行為といったものと慈悲とは、質が違うと言ってもいいだろう。

 私たちがボランティア行為をするのは、自分が元気でお金があってなど「上の私」がいて、病んでいたり貧しかったりする「下のあなた」がいて、そこで「私があなたにやってあげる」という話である。

 すると、「(私があなたに)やってあげたんだから、(あなたは私に)せめてお礼くらいは言いなさいよ」と報いを期待することになる。

 一方で慈悲は、一体だから自然にやること・やらざるを得ないことである。

 手は当たり前のこととして足のケガの手当てをするし、ケガの手当てをしてもらっても、手は足に礼は言わないし、足はそれで空しくなったり腹を立てたりしない。

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般若経典のエッセンスを語る26

2020年10月23日 | 仏教・宗教

 「一切皆空」「すべては空である」という言葉がある。これを「すべては空である。すべては空しいのだ」と誤解をする方が、仏教の内部にさえおられる。まして、一般の人は一切皆空とか空というと、「仏教は何か『すべては空しい』ということを言っているのだ」と誤解してしまうが、そうではないということを繰り返し語り書いてきた。

 ここでも要点だけ述べておこう。

 さらにもう一つ、「苦だから空である」という言葉がある。これは、これまでのものとはかなりニュアンスが違うので、セットにしないほうがよかったのではないか、と僭越ながら筆者は批判をしている。

 「苦」、サンスクリット語カタカナ表記で「ドゥッカ」の意味は、苦しみというより、むしろ「思いどおりにならない」ということである。

 「思いどおりにならないから空である」とは、すべては実体ではないので掴んで操作して思いどおりにすることはできない、ということである。

 ところがほとんどの人は、自分にとって大切なものは実体である、というか実体であってほしい、実体であるはずだと思い込んでおり、もともと思いどおりにできないものをあえて思いどおりにしようともがくからすべての苦しみが起こるのだと。それが仏教の苦の捉え方である。

  そして、そういう苦に捉えられていることは心のあり方としては空しい、という意味も含めて、そこに「空」という言葉を使ったのだろう。

 そういう意味では「苦だから空である」と言ってもいいのだが、「一切が苦だから空である」という言い方をすると、よほど上手に説明されて納得しないかぎり、「やっぱり空って空しいことなのか」という誤解が起こる。

 そういうわけで、空に関して説くのは縁起から一如までで終わりにして、苦については別に説明したほうがよかったのではないか、と筆者は大乗仏教の説き方について思っており、僧侶の方にお話しする機会があった時には、「檀信徒には苦の話は空とは区別して話していただいたほうがいいのではないでしょうか」とお願いしている。

 「空」とはこれまで述べたような意味で、特に空とは一如は同じ、というところが大乗仏教にとっては非常に大事だ、と筆者は思っている。

 私そのものが、生まれて、成長し、老いて、死ぬという「無常」の存在であるから、そういう意味ではそもそも私は実体ではない。「無我」ということである。

 「無常」というところだけ見るととても悲しいことのように感じられるが、しかし実は、それは同時に私と宇宙が一体だということでもある。

 個別の孤立した実体としての私がいると思いながら、実はいないという事実に出会うと、とても不条理感を感じるが、私は宇宙の一部として現われていて、現われている今も宇宙の一部であり、消えてしまった後も宇宙は宇宙である、すなわち「一如」だということがわかると、私ということに対するこだわりを持つことは、できないしする必要ない。それが頭だけではなくて全心身でわかると、それを「覚り」というのである。

 筆者自身は、まだまだ学びの途上にあって行き着いてはいないので、こだわりがまったくなくなったという嘘は言えないが、それでも次第に「うん、そういうことか」という頷きが深くなり、こだわりが軽くなっていることは実感している。

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般若経典のエッセンスを語る25

2020年10月23日 | 仏教・宗教

 歴史的なブッダの言葉に近いとされる『阿含経』では、ブッダは、そうした実体ではないということを主に「無我」という言葉で表現している。「空」という言葉もまったく使っていないわけではないが、あまり多くない。

 「無我」と「空」はほとんど同義語であり、「無我だから空である」という、まるで同義語反復のような言葉もある。

 では、なぜ大乗仏教・般若経典では「無我」よりも「空」という言葉を強調するようになったのだろうか。

 その理由について、筆者の知るかぎり般若経典そのものには語られていない。したがって、以下は筆者の推測・推論である。

 大乗仏教の修行者・菩薩たちは、瞑想と思索を深めた結果、「すべてが縁起であり、すべてがつながっているのならば、ぜんぶ一つにつながっているというのがほんとうのありのままの姿である」「すべては一体である」ことに思い至り、それを「一如」という言葉で表現したのだと思われる。

 そういう定型句はないようだが、「縁起だから一如である」という言い方もできるだろう。

 第一章で引用・紹介したとおり、『大般若経』「初分仏母品第四十一」に「あらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである」とあった。

 無我という用語は、「実体がない」ということだけを表現していて、この一如性が表現しきれていない。それからこれまで話してきたようないろいろ言葉がある。

 そこで、大乗仏教の修行者たちは、こういう意味合いをぜんぶ一言に凝縮して「空」という言葉で表現しようと考えたのではないか、というのが私の推測である。

 確かにそういうことは経典には書いてない。しかし、すでにこの「無我」という原始仏教のコンセプトで空の内容はほぼ語られているにもかかわらず、なぜ大乗仏教の人たちは「空」という言葉を強調したのだろうか。

 それは、「すべてのありのままの姿は一体である」ということをさらに強調して表現し、そしてこれらの言葉を一言に込めるのに、「空」という言葉を使ったのだと解釈するとすんなり理解できるのではないだろうか。

 「すべてのものが実体ではない」というと何か頼りないような気がするが、すべてがつながりあっている、つながりあって一体である、宇宙はぜんぶ一体であるというところまで行くとポジティヴになる。

 特に「無常」や「無我」と言うだけだと、とてもネガティヴに捉えられがちだが、「一如」というところまで行くと非常にポジティヴに捉えられる。

 ポジティヴに捉えて、しかしそれがまたいつの間にか実体だと誤解されないためにあえて「空」という言葉を使ったのだと考えると、なぜ空という言葉が大乗仏教で強調されたか、そしてそこにどういう意味があるのか、理論的にはほぼこれで説明できる、と私は考えている。

 ただあくまでも筆者の知識の範囲での解釈なので、もしより説得力のある解釈が他にあるのをご存じであれば、ぜひご教示いただけると幸いである。

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般若経典のエッセンスを語る24

2020年10月22日 | 仏教・宗教

 少し抽象的な言い方になったので、具体的な例をあげて説明していこう。

 例えば私は、いちおう他のもの(者・物)とは区別できる存在だが、では、私だけで生まれてきて生きているのかとよく考えると、そうではないことがすぐにわかる。

 私は父と母とのつながり・縁によって生まれてきた。

 そして、両親だけではなく、実にたくさんの人との関わり・つながりによって生きている、というか生きることができている。

 そして、父と母にも父と母がいたのであり、さらにその先もいのちはつながっている。

 私は、先祖とのいのちのつながり・縁によって生まれた・生起したのである。

 さらに私も先祖たちも、水を飲み、空気を吸い、食べ物となってくれる様々な動物や植物や鉱物を摂り入れることによって生きてきた。

 そうした私ではないものとのつながり・縁が私たちを生かしてくれている。

 もっと広く根本的に見ていくと、すべてのいのちとそれを支える物は大地・地球の一部である。私は、地球とのつながり・縁なしには生まれることも生きていることもできない。

 こうしたつながりはさらに見ていくと、太陽系、銀河系、そして宇宙へと広がっている。私は、宇宙とつながった宇宙の一部として存在している。

 こうして見ていくと、私は、つながり・縁によって存在する「縁起的存在」であって、私だけで存在できる「実体」ではないことは明らかである。

 言い換えると、私は「無我」「空」なのである。

 そこのところ・縁起ということを筆者は、「私は私でないものによって私であることができる」という句で表現している。

 続いて今私は、いちおう他のものではない性質を持っているが、その性質は変わらない「本性」なのかと考えると、これもまたそうではないことがわかる。

 私は、本書をお読みの読者にとって著者であるが、私が読んでいる本の著者にとっては読者である。

 私の「著者」「読者」という性質は、相手との関係・つながりによって変化するのであって、変わらない「本性」ではない。

 お読みいただいていいと感じた読者にとって筆者は「いい」という性質の著者になるわけだが、つまらない、面白くない、役に立たないと感じた読者には「ダメな」著者になる。

 ある時にはあり、ある時はなくなるような性質を「属性」という。私が「いい」か「ダメ」かは、読者との関係・つながりによって決まる「属性」であって変わることのない「本性」ではないのである。

 つまり私は「無自性」であるというほかない。

 そうだとすれば、この点でも私は「非実体・空」であるということになる。

 さらに、次の「無常」との関わることだが、私の性質は、時によって変化していく。

 かつて遠い昔は幼い赤ん坊であり、やがて小さな少年に変わり、若い青年に変わり、大人の中年になり、やがて今は老いた人・高齢者になっている。

 「幼い」「小さな」「大人の」「老いた」という性質は、変化する「属性」であって変わることのない「本性」ではない。

 私には確かに時々で「属性」はあるが「本性」はないというほかない。

 このように、私には関係と時間によって変わっていく「属性」はあっても、「本性」があるとは言えない。「無自性」であり「非実体・空」であるということになる。

 こうしたことは、私・筆者だけのことではなく、読者にとっても、ふだんあまり意識しないことだろうが、言われてみると気づかざるをえない事実だと思うが、いかがだろうか。

 そして、こうしたことは私や人間一般だけのことではなく、すべてのこと・ものに当てはまることだ、と大乗仏教は説いている。

 大乗仏教は、これらの三つのこと、「それ自体で存在できるものはない・ゼロ」「それ自体の変わらない本体・本性を持ったものはない・ゼロ」「永遠に存在できるものはない・ゼロ」ということを一言に「空・ゼロ」と表現したのだ、と筆者は理解している。

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般若経典のエッセンスを語る23

2020年10月20日 | 仏教・宗教

 では、そもそも「実体」とはどういう意味だろうか。

 実体を意味する元のサンスクリット語は「アートマン」で、漢訳では「我」と訳されている。英語では substance と訳すことができるだろう。

 すでに述べたとおり、哲学・思想用語としての「実体」には、東西共通の定義があるという。

 第一に他の力を借りることなく「それ自体で存在する・できる」ということ、

 第二に「それ自体の変わることのない本性がある」ということ、

 第三に「永遠に存在する・できる」ということである。

 そして、大乗仏教の「空・非実体」とは、「我・実体」を否定するコンセプトなのである。

 第一に、ブッダ以来仏教のもっとも重要なコンセプトとされてきた「縁起」という言葉がある。

 「この世界のあらゆるものは他との縁・関係によって生起している」という意味である。

 それを否定的な言い方に変えると、「縁起でないようなものは、何もない・ゼロ」となる。それが「空」の一つの重要な意味だと言っていいだろう。

 これも先にも述べたように、大乗仏教の三大論師の一人とされる龍樹・ナーガールジュナに「縁起だから空である」という言葉があるとおりである。

 第二に、「無自性」というコンセプトもある。

 「自性」とは、それ自体の変わることのない本性・本体という意味で、それ自体の変わることのない本性・本体をもっていないことを「無自性」という。

 否定的な言い方をすると、「変わることのない本性・本体をもっているようなものは、何もない・ゼロ」ということである。

 「無自性だから空である」という定型句もある。

 第三に、同じくブッダ以来強調されてきたコンセプトに「無常」がある。

 「常なるもの無し」つまり「永遠に存在するようなものは、何もない・ゼロ」ということである。

 「無常だから空である」という定型句もある。

 この三つのコンセプトを合わせると、ちょうど「実体」の定義の逆になり、つまりすべては「非実体・空」だということになる。

 ブッダは、『阿含経』などで、ほぼ同じことを「縁起だから無我である」「無常だから無我である」というふうに「無我」という言い方で説いている。つまり「実体ではない」ということである(ただ、筆者の知るかぎりでは、ブッダは「無自性」という用語は使っていないようだ)。

 だから、「無我」と「空」はほぼ同義語だといってもいいのだが、大乗仏教では「空」のほうをより強調するようになった。

 その理由については、後で筆者の解釈を述べることにしたい。

 

 

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般若経典のエッセンスを語る22

2020年10月20日 | 仏教・宗教

 智慧―慈悲―菩薩の誓願

 菩薩の誓願の三十一すべてを取り上げるときわめて長くなるので、特に重要だと思うものを取り上げ、他は簡単に触れていきたいと思うが、その前に、菩薩の請願の源泉ともいうべき大乗仏教における智慧と慈悲との関係を簡単に確認しておきたいと思う。

 「智慧」は、意味を訳したもので、音を写した「般若」と元のサンスクリット語は同じで、カタカナ表記では「プラジュニャー」という。

 では何に関する智慧かというと、結局、空ということを覚る智慧なのである。

 空と智慧はほとんど同じことを指しているといってもいいのだが、局面として言えば、「空」ということを「知る・覚る」というふうにいちおう区別できる。

 つまり、智慧とは空を覚るということ、しかも空とは何かが単に頭でわかるのではなくて、いわば心の奥底まで、全身心的にわかる、というか身に付くことである。

 それを「智慧」といい、場合によっては「覚り」という。

 そこで、「空」とは何かが問題になる。

 すでに前章である程度述べたが、以下、筆者の理解しえた範囲で整理して要点を述べておこう(拙著『よくわかる般若心経』PHP文庫、『金剛般若経全講義』大法輪閣、をお読みいただいている読者には復習になるが)。

 「空」のサンスクリット原語は「シューンヤ」で、数学の「ゼロ」と同じ言葉である。

 そこで、中国では「空っぽ・何もない」ことを意味する「空」と訳されたのである。

 しかし、原語の「シューンヤ」も漢訳の「空」も「空っぽ・何もない」ことを意味し、さらに日本語では「空」を「空しい」と訓読するので、「空とは、人生は結局のところ空っぽで何の意味もなく空しいこと」という誤解が生まれたようであり、今でもその誤解は広く残っているのではないだろうか。

 それと関連して、仏教は「すべては結局のところ空っぽで何もなく空しいというのは事実だから、認めて諦めるしかない」ということを説く悲観的な宗教だという誤解に基づく印象も、多くの人がいまだに持っているように思える。

 実はそういう筆者も、かつてそういう誤解を持っていた。

 しかし、しっかり学んでみると、そういう印象は、本来の大乗仏教ー般若経典に関していえばまったくの誤解だった。

 では、本来の「空」とはどういう意味なのだろうか。

 確かに「何もない・ゼロ」という意味はあるのだが、無条件にそう言っているわけではなく、「〜であるようなものは、何もない・ゼロ」、特に「実体であるようなものは、何もない・ゼロ」という意味だ、と般若経典そのものの学びを通して筆者は理解している。

 そういう理解からすると、「空」は現代語では「非実体」と訳すのがもっともふさわしいだろう。

 

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般若経典のエッセンスを語る21

2020年10月19日 | 仏教・宗教

  第二章

 

 前章で、般若経典―大乗仏教のエッセンスを一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」だと述べた。

 もちろんゴータマ・ブッダも「慈悲」を語っており、以後の仏教でも語られてきたのだが、きわめて大きく強調されるようになったのが、大乗仏教の大乗仏教たる所以だということだった。

 その慈悲の実践の具体的な内容として、菩薩たちが「こういうことを必ずやろう」と誓い願うのを「誓願」といい、菩薩たちはみなさまざまな誓願を立てている。

 仏教では、すでに仏になっている方も元は菩薩・修行者であり、例えば阿弥陀仏は、元は法蔵菩薩という菩薩であり、その時に、「私が覚りを開いた日には……したい」という四十八願を立てという。

 そのうちの第十八願に、「もしもある人が、たとい一生の間、悪事をなしたとしても、いのちが終わろうとするときに及んで、十念続けてわが名字をとなえるならば、わが浄土に往生するように。もし往生できないならば、私も正しいさとりをとらないだろう」という願がある。それが浄土教の成立の根拠である。

 それから、例えば薬師如来にも修行時代があり、十二の願を立てたと経典に書いてある。

 その中の特に第七大願に「願わくば私が来世で覚りを得た時に、もしもろもろの生きとし生けるものがさまざまな病気に迫られ、救いがなく、頼るものがなく、医者がなく、薬がなく、親族もなく、家もなく、貧しくて苦しみが多いとして、私の名号が一度でも耳に触れたならば、さまざまな病気はことごとく除かれ、身心が安楽になり、親族や生活に必要なものがみな豊かに足りて、さらにはこの上ない覚りを得ることができるだろう」とあり、仏さまになった暁には神通力をもってそれができることになっている。

 貧しく病んでほんとうにどうすることもできない状態にある人が、薬師如来を信じるとそれらの苦しみすべてから救われるという信仰があり、日本では親しんで「お薬師さん」と呼ばれ、今も人気のある仏さまである。

 そのように、阿弥陀さまもお薬師さんもみな、菩薩時代に願を立てておられる。

 『大般若経』に戻ると、「初分願行品第五十一」、現代的にいうと五十一章では、三十一もの菩薩の誓願が述べられている。さまざまな願があるのだが、大乗の菩薩の願はほぼこれに集約されるのではないか、と筆者は感じている。

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般若経典のエッセンスを語る20

2020年10月17日 | 仏教・宗教

 そして、菩薩大士の智慧に裏付けられた慈悲は、衆生を救うためにありとあらゆる方法・手段(方便という)を工夫し実践していくのである。

 筆者にとって般若経典を読んだ最大といってもいい収穫は、『大般若経』「初分願行品第五十一」に菩薩の衆生を必ず救うという三十一の誓願が掲げられているところで、「渾身の力を込め一生をかけて――しかも輪廻があるから――生まれ変わり死に変わり果てしなくこの三十一の誓願を実現していこうという、そうした大きな志を持った者こそが菩薩・摩訶薩なのだ」と書いた個所に出会ったことである。

 その一項目ごとに意味を理解しながら読んでいくと、「いや、なんというすごい理想だろう。これほどの理想を掲げた思想や宗教が他にあるだろうか」と、ほとほと感心・感動した。

 そして三十一項目を丁寧に読んで、「これをぜんぶ必ず実現しようというのは、途方もないスケールのパーソナリティだな。なかなかなれないと思うけれども、及ばずながらそういう人間を目指したいものだ」と思わされた。

 ともかく、般若経典―『大般若経』には、深い言葉が、少し言い方を変えたり角度を変えたりしながら、そこら中で語られている。いわば宝石の山みたいなものである。

 わけがわからないまま読んでいると、砂原に石ころや石炭ガラが延々と転がっているようで、実に退屈という気もするのだが、よくわかってみると、六百巻はほんとうに珠玉の言葉の連続である。だからわかると面白い。だから六百巻というボリュームが読み切れたのである。

 よろしければ、読者のみなさんも、心が向いたら取り掛かってみていただくと、わかっていただけるかもしれない。

 ともかく筆者は、『大般若経』のこの部分に初めて出会った時、「ここにこそ大乗仏教の原点がある。これが般若経典のエッセンスなのではないか」と深く感動した。

 それから、「これは仏教とイエスを原点とするキリスト教がもっとも深いところで一致する地点でもある」と思ったものである。

 この三十一の菩薩の誓願は、般若経典のエッセンスのエッセンスともいうべきもので、これについては、第二章で詳しく述べたい。

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般若経典のエッセンスを語る19

2020年10月16日 | 仏教・宗教

 では、なぜ空を洞察することが「いかなる有情も見捨てるわけにいかない」という誓願につながるのだろうか。

 すべてが空ならば、菩薩も有情も空なのだから、見捨てるのも見捨てないのも空だから、どちらでもいいのではないだろうか。

 どちらでもいいことをしていないで、もう輪廻の世界から解脱してしまったほうがいいのではないだろうか。

 なぜ、あえてこの世にとどまって、どちらでもいいことをしなければならないと思うのだろうか。

 かつて大乗仏教・空について学び始めた頃、筆者もそういう深い疑問があった。

 実際、もっともよく知られていてしかも短いため、ほとんどの初心者が最初に読む般若経典である『般若心経』には「慈悲」という言葉はまったく出てこない。

 次に比較的知られていて、さほど長くない『金剛般若経』にも、布施は語られても「慈悲」という言葉は使われていない。それどころか、「空」という言葉さえも使っていない。

 そのため、解説なしに『金剛般若経』の本を読むだけでは、なぜ空・智慧と慈悲が結びつくのかはわからないだろう(その点をわかるように解説するために筆者は『『金剛般若経』全講義』〔大法輪閣〕を書いている)。

 しかし、ああでもないこうでもないといろいろな文献を読み漁っていくうちに、ようやく空と如・真如・一如とは同じ事柄を示しているいわば同義語なのだとわかった時、その疑問はみごとに氷解したことを覚えている。

 ただ筆者が学んだ文献には、経典のどこにそのことが書いてあるのか出典は明記されていなかったと記憶している。

 実のところ、筆者が般若経典に深入りし、とうとう『大般若経』六百巻まで読むに到ったのは、そのことがどこに書いてあるかを見つけたいというのが最初の動機だった。

 そして、かなり長い『摩訶般若波羅蜜経』の最後の最後のほう、全体で九十品(章)の「法尚品第八十九」でようやく次の句に出会い、空と一如が同義語であることを確認したのである。

 すべての存在はすなわちブッダであり、空はすなわちブッダであり、宇宙の本性がすなわちブッダなのであり、すべての存在を離れてブッダというものはなく、すべてのブッダのあるがままとすべての存在のあるがままはあるがままに一体(一如)であって分離しておらず、このあるがまま(如)は永遠に一であって、二でも三でもないからである。

 諸法如は即ち是れ仏なり。空は即ち是れ仏なり。虚空性は即ち是れ仏なり。是の諸法を離れて更に仏無し。諸仏如と諸法如と一如にして無分別なり。是の如は常に一にして二無く三無きが故に。

 つまり、やや単純化して表現すると、すべての存在=仏=空=宇宙=一如ということである。

 さらに『大般若経』を見ていくと、例えば「初分仏母品第四十一」に次のようにあった(現代語訳のみ)。

 ……あるいはあらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである。

 「如来応正等覚」とは仏のことで、つまり「仏と衆生(有情)とその他すべての存在のあるがまま(如)は一体・一如であり、それが真のあるがまま(如)である」とはっきりと書かれているのである。

 生きとし生けるもの・衆生だけでなく、石ころや砂や山などふつうには生きていないと思われるものも宇宙の諸存在である。これらがすべて一体だということ、それは空と同じことなのだと、般若経典に何カ所もちゃんと書いてあったのである。

 繰り返すと、般若経典においては、まちがいなく「空」と「一如」はいわば同義語なのである。

 続いて、有情が空なのだとしたら、なぜわざわざ菩薩大士は修行をして有情を救おうとするのか、明快に語っている個所も発見した。以下の『大般若経』「初分不可動品第七十之一」の言葉である。

  この時、スブーティ長老はブッダにこう申し上げた、「世尊よ、もしもろもろの有情や有情の作り出すことがみな結局のところ把握できないものだとしたら、もろもろの菩薩大士は誰のために般若波羅蜜多を修行するのでしょうか」と。

 空がもっともわかっているはずのスブーティ長老が、わかっていないかのような質問をしているが、それは同席しているまだわかっていない修行者たちに代わって質問しているのであり、それに対してブッダはこう告げられた。

 もろもろの菩薩大士は真実の究極のあり方をよりどころとするからこそ智慧の実践を行なうのだ。

 スブーティよ、もし有情の究極のあり方と真実の究極のあり方が異なっているならば、もろもろの菩薩大士は智慧の実践を行なうことはないだろう。有情の究極のあり方は真実の究極のあり方に異ならないからこそ菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なうのである。……スブーティよ、有情の究極のあり方と真実の究極のあり方とは二つでなく二つに分かれてはいないのだ。

 ここでとりあえず「宇宙」という言葉を使っておくと、私も他のもの(者・物)も、究極のところすべて宇宙であるから、私の究極と宇宙の究極は当然一体である。

 他の生きとし生けるものの究極はもちろん宇宙の究極であり、私の究極は宇宙の究極であり、すべて一体だから、したがって私を幸せにするということとすべての生きとし生けるものを幸せにすることは、二つにはならない。本来は一つのことだという。

 『摩訶般若波羅蜜経』にも『大般若経』にも、空とはすべてのものの一体性・一如と同じことだと述べている個所がこの他かなりあるが、重複するのでこれだけにしておこう。

 そのこと、つまり空・一如を菩薩大士は覚ろうとしている・覚っているのだから、自分だけのために覚りを求めるなどということはできないし、やらない。

 「菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なう」、自らを含めすべての人を幸せにするためにこそ修行し覚るのである。

 それは、究極のところ私も宇宙の一部であり、他者も宇宙の一部であり、私と他者は区別はできるけれども、決して分離しておらず、つながっていて(縁起)、結局は一つなのであり(一如)、そのことを覚るのが智慧なのだから、深い本当の智慧は当然ながら慈悲を生み出すのである。

 

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般若経典のエッセンスを語る18

2020年10月15日 | 仏教・宗教

 以下は『八千頌般若経』の句である。

 『八千頌般若経』は『大般若経』の中の四番目「第四分」に当たるもので、また、鳩摩羅什訳の『小品摩訶般若波羅蜜経』の原典に相当する。「小品」と言っても、かなり厚みのある文庫本二冊に翻訳されていてかなりの分量であるが、その中に、智慧と慈悲に関して非常に要領よく述べた言葉がある。(中公文庫『大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ』、一七六―七頁)

 

……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士は最高の難行の行者である。

 それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかないからである。彼には「私はあらゆる有情を解放しなければならない」という、こういう性質の諸誓願があるのである。

 

 菩薩・大士は、空を追求する。とことん追求し空と一体化してしまうと、あとはもうやることは何もなし、涅槃・解脱ということになってしまいそうなものだが、その手前で「いや、涅槃・解脱はやめた。慈悲で行く」と。空の覚りを、その手前ギリギリまで徹底的に目指す。しかし、最後の最後で、入りきってしまわず戻ってくる。だから最高の難行なのであるという。

 「有情」は「衆生」とも訳される。「誓って必ずこれを実現しよう」という願いを「誓願」というが、まさに諸々の誓願に生きるのが菩薩・大士あるいは菩薩・摩訶薩である。

 これは日本の思想一般における「志に生きる」という言葉と言い換えてもいいと思う。

 そして、その内容は非常に明確で、一切衆生を救おうという志があって、そのためにはあれもしようこれもしよう、できるあらゆる手段を尽くそう、というのである。

 戻ると、先の箇所には、自分が究極の安らぎ・智慧を得るという「自利」と、慈悲という「利他」、これを一つのこととして探求するのが菩薩・摩訶薩だと説かれている。

 あらゆる生きとし生けるものを解放し救いたい・救わねばならないという諸誓願、これが大乗仏教-般若経典のエッセンスだ、と筆者は理解している。

 であるから、繰り返すが、大乗仏教は空だけでは不十分なのである。空だけではエッセンスにならない。空と慈悲が一つのこととして探求される、それが大乗仏教のまさに「大」たる所以である。そういう意味で、まさにものすごく大きな乗り物なのだと思う。

 

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般若経典のエッセンスを語る17

2020年10月14日 | 仏教・宗教

 ここで注目しておくべきことは、ゴータマ・ブッダの十大弟子の中で解空(げくう)第一、空がいちばんわかっていたという須菩提・スブーティに向かってこの言葉を語られていることである。

 ほんとうに空を理解する・覚るということは、すべての生きとし生けるものと自分との一体性を理解し覚ることでもあって、衆生と自分との一体性を覚らない空の覚り方などほんとうはないのだ、と。

 つまり、すべての生きとし生けるものを離れ捨てて、自分だけが覚って安らかな心境になることを求めるのは、ほんとうに空を理解する・覚ることにはならないという、小乗への批判の意味が込められている。

 すべてのものが空であるということ、すなわち一如である・一体であるということは、すべてのものと一体なのであるから、当然すべての生きとし生けるものとも一体である。

 そうなると、すべての人の喜びは私の喜び、すべての人の苦しみは私の苦しみということになるはずなのである。

 今、「自分のことで精一杯」とすぐに言う人が増えているようだし、それはそれで個々の事情でやむをえない場合もあるだろうが、自分のためだけに生きるというのでは人間が小さい・幼いと言うほかない。

 衆生への慈悲行を実践するような大きな人間になろう・なれるというのが、般若経典-大乗仏教の私たちへのメッセージのもっともエッセンスである。

 きわめて端的にエッセンスだけを言ってしまえば、ある意味、それで終わりだとも言える。しかし、詳しく述べると、『大般若経』六百巻になる。それがとても面白い。

 クラシック音楽に、「テーマとバリエーション(主題と変奏)」という形式がある。

 比較的簡単な何小節かのテーマが、例えばモーツァルトとかベートーベン、フォーレといった大作曲家にかかると名曲になる。

 例えば、モーツァルトに『きらきら星変奏曲』というピアノの名曲がある。

 最初のところはまさに童謡の『きらきら星』のメロディーで、「こんな単純なメロディーでどうするつもりだろう」と感じられるところから始まり、その一つのテーマがずっと展開していくのだが、あんなに単純なメロディーがこれほど豊かな音楽になるのかとびっくりするような名曲で、だんだん「おお、確かにこれはモーツァルトだ。名曲だ」となる。

 それに似て、主題だけなら「智慧と慈悲」で終わり、しかしその変奏を六百巻読んでも飽きない、ということになってしまうのである。

 

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