講演会「心の深みを探る」案内

2009年11月29日 | 心の教育
*いよいよ明日になりましたので、もう一度お知らせします。まだ席の余裕がありますから、今からでもご参加いただけます。





 唯識は、古代インドの大乗仏教の流れの中で、空・中観思想についで、3、4世紀頃起こった思想で、大乗仏教の深層心理学とも評すべき人間心理への深い洞察をもっています。人間の悩み・迷い、つまり煩悩とは何か、それはなぜ生まれるか、どうしたら悩み・迷いがなくなり爽やかに穏やかに生きられるようになるか、つまり覚れるかを、きわめて体系的に明快に解明しています。それは歴史的には仏教の中で生まれたものですが、その内容は特定宗教の教えという枠を超え、時代を超えて、私たち現代人誰にでも当てはまる洞察だと思われます。

 専門的にはきわめて詳細・難解な学説ですが、エッセンスは一般の方にも決して理解できないものではなく、理解できると、なぜ人間は様々なことで悩み、トラブルを起こすのか、空しくなったり死にたくなったり、そのくせ死を恐れたりするのか、さらにより大きなスケールでは戦争や環境破壊などの、根本的な原因とその解決への道筋が見えてくるでしょう。

 内容は、午前中は仏教史の流れの中の唯識の位置と、非常に大まかな唯識の全体像、午後は、心理構造論、煩悩から覚りへの変換のメカニズム、覚りに到るための実践法などについて、お話しすることになると思います。


講師: 岡野 守也 (おかの もりや)


◆日時:2009年11月29日(日)

◆会費:当日現金にて申し受け
               一般   会員
 午前:10:00~12:30  3,000円 2,500円
 午後:13:30~16:30  3,000円 2,500円
 全日:10:00~16:30  5,000円 4,000円

◆申込:サトルエネルギー学会秘教科学分科会
 神尾まで Tel&Fax:03-3672-8473 e-mail:kamio@subtle-eng.com
※氏名、住所、電話、勤務先をご連絡ください
※定員:45名先着順

◆場所:きゅりあん 5階 第4講習室
 JR京浜東北線、東急大井町線大井町下車すぐLABIの奥になります (東京都品川区東大井5-18-1)

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環境問題と心の成長26

2009年11月28日 | 持続可能な社会



心の成長の最高・最終段階

 心の成長、スピリチュアルな発達の最終・最高の二段階は「元因(causal)」段階と「非二元(nondual)」段階です。これは大乗仏教の用語では「真空」あるいは「無分別智」と表現される段階と「妙有」あるいは「無分別後得智(むふんべつごとくち)」と表現される段階に当たると考えていいでしょう。

 ウィルバーは『進化の構造』で、そうした意識の発達段階が仏教または大乗仏教のみに見られるものではなく、時代や文化の違いを超えた人間の普遍的な発達可能性であることを示すために、実例として中世キリスト教神秘主義のマイスター・エックハルトと近代インドの聖者シュリ・ラマナ・マハリシをあげて論じていますが、ここでは仏教の用語とも関連づけながら解説していきたいと思います。

 ウィルバーは、最終の一つ前の段階を、「すべての顕れたものの原因のさらに究極の元」という意味で「元因」段階と呼び、それに先立つ微妙段階との違いについて以下のように述べています。

 「微妙段階では、魂と神が合一する。元因段階では、魂と神はその本来のアイデンティティである至高の実在のなかへ超越していく。至高の実在とは、無形の知覚、純粋意識、あるいは純粋は『自己』としての純粋なスピリットである(アートマン=ブラフマン)。」(『進化の構造1』四七四頁、ただし訳語を一部変更。)

 つまり「合一」とは元は分離した二つのものであると考えられていた魂と神が一つになったという体験であるのに対して、そもそも分離など存在せず元々一つであること・「本来の同一性(アイデンティティ)」の目覚め(覚り、道元禅師の言葉でいえば「本証」)の体験からすると、まだ未発達・不徹底なのです。

 エックハルトは、「この突破において私は、神と私は一つであって同じものであることを見出す」(同書四七四頁)といっています。これは元因段階を表現した言葉で、「突破」とは仏教的にいえば「覚り」の体験であり、「神」とはエックハルト自身が他のところでいっているように「絶対無」つまり「空」のことです。

 しかし、元因段階でさえ最終ではなく、さらにもう一段階、「非二元」段階があるといいます。シュリ・ラマナ・マハリシは、元因と非二元の段階を次のようなシンプルな三つの言葉で表現しています。

 この世界は幻である。
 ブラフマンのみが実在(リアル)である。
 ブラフマンが世界である。

 最初の一行は、実体だと思われているすべてのもの(諸法)が実は幻のような実体のないもの・空であること、次の一行は実体でないこと・空こそがほんとうの実在(真如・実際)であることの目覚めを表現しています。『般若心経』の言葉に置き換えれば「色即是空」です。この二行では元因段階の意識が表現されています。

 (なお、ここで詳論することはできませんが、「古代インドから近現代のヒンドゥー教神秘主義に一貫する『アートマン=ブラフマン(梵我一如)』という思想では『アートマン』も『ブラフマン』も実体的に捉えられており、そこが仏教の『無我=アナートマン』の立場と違うのだ」という批評・批判がしばしば見られますが、少なくとも例えばラマナ・マハリシなどのテキストそのものを読むと、その批評は必ずしも当たらないように筆者には思えます。)

 そして最後の一行は、その実体でないこと・空からすべてのものが現われていることを示しています。おなじく『般若心経』の言葉でいえば「空即是色」です。この段階は、さまざまなものは元々分離しておらず一体ではあるが、かといってそれぞれのもの同士の区別がないわけではないという意味で「非二元」と呼ばれています。仏教用語の「不一・不二」の「不一」が省略されたものと考えていいでしょう。

 大乗仏教の立場からすると、理性はたとえヴィジョン論理のような統合的理性であっても所詮「分別知」であり、無明性を完全に脱してはいない、ということになりますし、心霊段階、微妙段階でさえ、元は分離していると捉えられたものが一体化・合一するという点でまだ分別性・無明性を脱し切れていない、ということになるでしょう。

 この区別が重要ですが、大乗仏教の覚り・無分別智は、「元は分かれていた多様なものが一つになる」という体験ではなく、「元々一つであるという事実(一如)」に目覚める体験なのです。

 さらに大乗仏教としてもう一つ重要なことは、「分別知」から「無分別智」へという転換が最終段階ではなく、さらに「無分別後得智・般若後得智」に到って初めて最終・最高段階であるという点です。

 かたちに現われたばらばらに見える多様性の世界は、覚ってみると本来は一つであり空であるけれども(多即一)、その一つ・空の世界の中でつながりあいながら様々なそれぞれのかたちが現われている(縁起、一即多)ことまで見るのが、究極の智慧なのです。


元因段階

 右に述べた二つの段階は、修行における実際の体験としてはかなり連続的な面もあり、かつ元因・無分別智から非二元・無分別後得智、非二元・無分別後得智から元因・元因という往復・循環もあるのですが、概念としては明瞭に区別することができますし、するべきだと思われますので、まず元因段階からもう少し述べていきたいと思います。
 ウィルバーは以下のようなエックハルトの言葉を引用しています。

「自分をまったく空にせよ。すなわちあなたを、その自我(あるいはいかなる分離した自己‐感覚、魂、あるいは大霊も)を空にし、また自分の内外にあるすべてのものを空にして、自分を神のなかにいると考えよ。神とは存在を超えた存在、存在を超えた無である。」(同書四七八頁)

「我々の完成と至福とは、個体がすべての被造物、すべての時間性、すべての存在を突き抜けて、その彼方へと出、基底なき基底に入るという事実にある。そこでは絶対の静寂と沈黙があるばかりである。」(同書四七九頁)

 こうしたエックハルトの言葉を読むと、用語や強調点やニュアンスの差はあるにしても、大乗仏教・空の立場とキリスト教神秘主義・絶対無としての神の立場は、普遍的な人間の体験可能性・成長可能性についてまったく同じことを語っている、と理解していいのではないでしょうか。

 そうした点については、すでに早くから京都学派宗教哲学の西谷啓治先生(『神と絶対無』創文社版著作集第7巻所収)や上田閑照先生(『エックハルト』講談社学術文庫)が指摘してこられたとおりですし、私事ながら、そういう理解に基づき、私は、四十年近く坐禅を続け仏教を自分のこととして語れると思うと同時に、そのことによってキリスト教を離れたとは思わないわけです(連載の第一回で「私のなかではキリスト教と仏教の壁はまったくなくなっています」と書いたとおりです)。

 ラマナ・マハリシはこう言っています。「『自己(セルフ)』は誰にも知られているが、はっきりとではない。『存在』が『自己』なのである。『私である』、これが神の名前なのだ。……『自己』を知ることは神を知ることである。事実、『自己』とは神にほかならない。」(同書四八一頁)

 そして、ウィルバーはこの段階が普遍的・宗教横断的に見られることを指摘してこう言っています。

 「純粋な『自己』/スピリットあるいは至高存在に関して言えば、ラマナがいつも繰り返している言葉は、ほとんどエックハルトと同じである。またこの段階にある世界中の聖者とも同一である。すなわち『自己』とは身体でも、心でも、思考でもない。感情、感覚、知覚でもない。それは徹底的にすべての対象、すべての主体、すべての二元性から自由である。それは見られるものでもなく、知られることもなく、思考の対象になることもない。」(同書四八二頁)

 この段階では、常識的な意味での「自己」はまったく超えられており、そういう意味で「自己中心性」は完全に克服されています。

 そして、この段階で自己中心性が克服され、次の非二元で世界=自己中心的な心の段階に到れば、環境問題つまり世界の問題の克服は他の誰から強制されたのでもない、自己自身の課題、あるいは禅的に表現すれば社会的な「作務(さむ)」、もっと言えば菩薩が願い楽しんで行なう「「願行(がんぎょう)」、「遊戯行(ゆげぎょう)」になるでしょう。




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環境問題と心の成長25

2009年11月27日 | 持続可能な社会




微妙段階

 スピリチュアルな発達の第二段階は、〈微妙(subtle)段階〉と呼ばれています。
それに先立つ心霊段階では、物質の領域、生命の領域、心の領域を含む広い意味での〈自然〉と自己が一体であることを体験したのですが、微妙段階ではそうしたかたちに顕れた自然を超えてその根底あるいは背後にある超越者――光り輝く超能力を持った白い髭の老人といった神話的なイメージと取り違えさえしなければ〈神〉と呼んでもいい――との一体性を体験します。

 かたちに顕れた自然は、どんなにすばらしいとしても有限・無常であって、決して無限でも永遠でもありません。その根底・背後に、かたちに顕れていない、無限で永遠であり、しかしかたちに顕れた自然すべての源泉であり、根底であり、目的である〈スピリット〉〈神〉が存在しており、それとの一体性の体験は、決して自我と理性の確立以前の段階への忘我的な退行ではなく、意識の深化であり、そういう意味で成長・発達・進化なのだ、とウィルバーはいっています。

 そういえるのは、この段階がそれ以前の発達段階すべて、直前の心霊段階、さらにその前のヴィジョン論理段階、理性段階などなどの内容を「含んで超える」ものだからです。

 東西の神秘主義的宗教では、物理・生理的な感覚とそれによって捉えられたものや言葉を使った思考や記憶という心理的な働きとそれによって捉えられたものは、「粗大(gross)」(仏教用語では「麁重(そじゅう)」)と呼ばれ、瞑想や祈りによってそうした粗いものの働きが鎮められ魂が浄化されるにつれて、感覚や言葉を超えた「微妙(subtle)」(仏教用語では「微細(みさい)」)な体験世界が開かれてくるといわれています。


神との合一に至る七つの段階

 カトリック・キリスト教の聖女・神秘思想家アビラの聖テレサの著作『内面の城』はそうした体験を叙述した代表的な文献の一つです。その中でテレサは、「小さなチョウ」に譬えた魂が神との合一に至るまでの七つの段階を「七つの館」に譬えて述べています。

 最初の三つの段階は、感覚や思考に囚われた粗い(グロス)自我(エゴ)がまだそれを超えた世界への回心を遂げていない準備の段階です。

 第一の「謙譲の館」では、自我は自分を超えた大いなるものを認めてはいるのですが、まだ外面的な物質や安楽への愛着が残っているため、内面に向かって長い修練の旅に出なければなりません。

 第二の「祈りの館」では、知的な学習や啓発、善い仲間による導きなどによって、外面的なものに心が散乱せず、内面に集中していくよう努力を続けます。

 第三の「模範生活の館」では、修練と倫理によって、次の段階への基礎を作っていきます。ウィルバーは、この段階を仏教の六波羅蜜のうち「持戒」が「禅定」と「智慧」の基礎になることと対比しています。

 第四の館では、「観照の祈り」と「静寂の祈り」が深められていきます。この二つのタイプの祈りは、仏教の禅定における「観」と「止」と対応していると思われます。
 二つの祈りによって粗い(グロス)ものに向かっている感覚や思考や記憶という心の働きが鎮められていくと、超自然的な恩寵が顕れるといいます。この恩寵は自我に対する深い慰めではありますが、しかしまだ自我を超えるものではありません。とはいえ、微かながら「神は我らの内部におられる」という真実の光が射しはじめています。

 第五の館では、「合一の祈り」によって「霊的な婚礼」が始まるとされます。つまり個人的・自我的な心の働きが完全に止滅して、その純粋無垢ともいうべき没入状態において自我は〈神〉――「かつて創造されたことのないスピリット」とテレサは呼んでいます――との原初的な合一を味わうのです。
比譬的にいえば、この段階でサナギがチョウになります。ウィルバーは「自我が死んで魂が生まれた」と表現しています。しかし、この段階の体験はごく短時間のことにすぎません。

 ところが第六の館では、長時間にわたって愛するものと愛されるもの、チョウと神、魂と創造されたことのないスピリットとの合一・没入状態が続きます。
この段階では、内的な光明、微かな音やヴィジョンを伴った至福感、法悦、恍惚、トランス、ふつうの時間と位置の感覚の超越といった、微妙段階特有の現象が心に浮上するといわれています。けれどもかなりの長時間続くとはいえ、この段階の体験はやがて終わります。

 第七の館においてようやく、最終的・決定的に魂と神の霊的な結婚が執り行われ、永遠の合一が完成するのです。
 この段階は、例えばいわゆる鎌倉仏教の祖師の一人、一遍上人の覚りを表現したといわれる「唱うれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という歌の境地と対応していると見ていいのではないか、と私は考えています。


自然と神・スピリットの関係

 微妙段階におけるかたちに顕れた自然と神・スピリットとの関係については、聖テレサの言葉によれば、「神は万物の中に現前され、その力であり、その本質なのである」ことが直観されています(いうまでもなく「万物」は「自然」です)。
ウィルバーは、「この新しい深度、新しい内面、それは新しい超越であるが、それは自然を完全に超越すると共に、自然を完全に包括し、自然の中に体現されている」(『進化の構造1』四七二頁)と述べています。

 こうした段階を経て合一が完成すると、実はその合一はいつも・もともと存在していたことへの気づきが起こります。
 テレサの霊的な友であり、よく知られたキリスト教神秘主義の聖人である十字架のヨハネは、「神と被造物との結合はいつも存在している。そのために神は万物を保たれているので、もしその結合が失われれば、すべては存在しなくなるだろう」と言っています。

 連載の第十八回で、結論を先取りして「究極の話をすれば、すべての人が覚れば環境問題など雲散霧消するはずです」と述べました。

 ふつうの私たちの心の段階――せいぜい理性段階――からするともうすでに究極であるような気がしてきますが、ウィルバーの発達論によれば、微妙段階は究極ではなく、さらに「元因(コーザル)(causal)段階」、「非二元段階」と続きます。
 この段階では、人間と環境を含むすべての自然と神とは一体ですから、そこにはいわゆる「環境問題」はありえません。なぜならば、そもそも「問題」というのは、主体と客体・対象が分離・対立・矛盾しているから起こるものであり(英語のproblem は語源的にいうと「前に横たわっている」という意味です)、「環境問題」も人間と人間以外の自然が分離・対立・矛盾していると見る心のあり方が生み出している、という面があるからです。

 といってもここでは、連載第十四回で述べた四象限の区別でいうと、「環境問題」が個人の内面で消滅しているだけで、もちろん社会の外面・現象としての環境問題が解決済みになっているということではありません。そこを混同してしまうと、社会の外面の現象としての「環境問題」を問題としている方々からは、「救いがたい観念論だ」と批判されることでしょう。

 しかしすでに述べきたことから読者にはおわかりいただけていると思いますが、内面すなわち心の発達なしには、実は「環境問題」の本質的で本格的な解決はありえないのです。
 そして、ヴィジョン・ロジックの段階まで発達した個人が増えればある程度環境問題の解決の目途がつくとはいっても、心霊段階や微細段階などより上位の発達段階が必要ないとか、ましてないということにはなりません。より高い発達段階に達した人々がより多ければ多いほど、環境問題の根源的な解決に接近することができるのですから。



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環境問題と心の成長24

2009年11月26日 | 持続可能な社会



スピリチュアルな発達の四段階

 前回、スピリチュアリティの科学の可能性について述べましたが、ウィルバー自身、禅やチベット密教の瞑想を長年本格的に実践しながら、実際にトランスパーソナルな体験を深めつつ、もう一方で、膨大な文献に当たって世界のさまざまなスピリチュアルな伝統を検討する作業を行なっています。

 そうした修行と知的検討を通してウィルバーは、さまざまなスピリチュアリティの伝統で語られていることは、表面に現われたかたちとしては非常に多様に見えるが、深層構造を取り出すと本質的な一致が見られることを明らかにしています。

 例えばキリスト教神秘主義のマイスター・エックハルトと大乗仏教のナーガールジュナ(龍樹)の教えは、表面上はまったく別の用語を使ってまるで別のことを言っているように見えます。しかし、深層の構造を探っていくと、実はまったく同じことを指し示そうとしていることがわかるというのです。異なった言葉を使ってはいるけれども、同じ体験領域のことを表現していると読むことができるのです。

 さまざまなスピリチュアルな伝統の膨大な文献に当たる作業を通じてウィルバーは、スピリチュアルな体験にもある種の発達段階が四段階あることを見出しました。その四段階をそれぞれ、心霊的(psychic)、微妙(subtle)、元因的(causal)、非二元的(non-dual)と呼んでいます。

 それぞれのスピリチュアルな伝統に所属する人々のなかには、そうした発達段階に位置づけられることを価値的に階層づけられること(ランキング)と誤解して否認する向きもあるようです。残念ながら人間には現在自分の到達している段階が最高で最終的な発達段階だと思いたいという傾向があるようです。

 しかし、これまで繰り返し述べてきたとおり、環境問題を含むグローバルな諸問題を克服するには、克服のための行動を実践する主体そのものの心の発達も必須だと思われますから、そういう視点からすれば、人間がどこまで「自己中心性の克服」を遂げて高い発達水準に到ることができるかというのは、できるだけ公平な目で確認する必要があります。

 そして、パーソナルな段階と同じように「自我中心性の克服」というものさしで見ると、スピリチュアルな体験世界にも発達的な階層は確かにあると思われるのです。

 私は決してウィルバー理論を唯一・絶対と考えて信奉しているわけではありませんが、今のところ自分の知るかぎりでは世界のスピリチュアルな伝統に関してもっとも包括的で妥当性の高い理論であり、多くの心ある――特にスピリチュアリティに関わる――人々が協力して現代のグローバルで深刻な問題に取り組むための合意ラインの叩き台になりうるのではないかと評価しており、そういう意味で機会を捉えては紹介をしています。


心霊段階

 まず〈心霊段階〉――余談ながら「サイキック・心霊」という用語は日本では印象で誤解を招きがちではないか、と筆者は危惧していますが、かといって他に適当な代案は思いついていません――であり、「魂(soul)」の領域ともいわれます。

 この段階では、私たちの心の内部には個人としての私を観察する個人性を超えた内部の観察者・目撃者が現われます。心に心の中あるいは奥から一種の光と力が降り注いできて、すべての存在の中にはすべてを包む大霊(Over Soul エマソンの用語)がありすべては一つであること、自分とすべての現われているもの――他者や自然や物理的な宇宙――は一体だということを体験するといわれています。
 こうした段階を典型的に語る言葉として、ウィルバーは次のようなエマソンの文章をあげています。

 「我々は世界を一つずつばらばらに見ている。太陽、月、動物、木々、として。しかしこれらがその輝ける部分である全体は、魂なのである。そのなかに我々が存在し、その至福に我々すべてが到達できるこの深遠な力は、つねに自足していてい完全であるのみならず、見るという行為と見られているものとは、見者と光景とは、主体と客体とは、一つなのである。」(ウィルバー/松永太郎訳『進化の構造1』より)

 この段階は「自然神秘主義」と呼ばれることがありますが、ただ重要なことは呪術的な自然との未分化・混融状態とはまったく違っているということです。呪術的な段階では自然と霊(スピリット)が同一視されていますが、この段階では物理的・生物的な自然は霊の部分あるいは顕れと捉えられています。

 この段階は、個人性・個体性が「含んで超えられている」という意味でまさにトランスパーソナルな段階です。アイデンティティ(自己同一性)は、自己中心性を超えすべての人々をも含む自然を包んでいわば「世界中心的」になっています。別の言葉では、「全世界的(グローバル)な自己/世界の直接経験」とか「コスモス意識」ということもできるでしょう。

 こうした意識の段階では、すべての生き物を一つの「自己(大文字で始まるSelf)」の顕れと見るので、すべの生き物に自分の真の「自己」を見出すことにもなります。パーソナルな段階では他人と感じられていた人・自己もトランスパーソナルな段階では自分と一体である同じ「自己」と実感されるのです。従来の宗教用語でいう「慈悲」や「アガペーとしての愛」は、そこから生まれます。

 こうした心のあり方・段階は、常識からすると確かに「神秘的」に見えるでしょうが、決して前理性的とか非理性的という意味で神秘的なのではなく、主客分離的な理性を超えている、超理性的という意味で「神秘的」なのです。

 心の発達段階としての「心霊段階」は、これまではいうまでもなくほとんどの場合、宗教の領域で見られたものであるため、近代的理性からはプレ・パーソナルで非理性的な呪術や神話と混同されがちでした。

 しかし、歴史的事実として、こうした体験があること、こうした心の発達段階に達したことを主張する人々は相当数存在してきたのであり、そうした体験や段階に妥当性があるかどうかは、前回述べたような手続きを経て確認することもでき、さらに今後は「スピリチュアリティの科学」が確立される可能性もあります。


自然・心霊神秘主義と環境倫理

 特に連載のテーマである環境問題に関していえば、総合的理性―ヴィジョン・ロジックの段階に達した多数のリーダーがいれば、根本的な解決の目処がつくということはすでに述べたとおりですが、その段階を超えてさらに自然・心霊心神秘主義の段階にまで達した人にとって、本来自分と他者や自然との分離―対立はありえないのであり、そういう意味で他者や自然を一方的に利用し収奪すること・傷つけること・破壊することなど、したくない、しない、できないということです。
 ウィルバーはこう言っています。

 「大霊」の輝きのなかで、すべては完全に明らかなものとなる。すべての先行する倫理観が試み、そして望んでいたものが何であったのかが。すべての先行する倫理が命がけでその実現に苦闘した善と真は、あまりに部分的で、あまりにも狭く、そのために本当に満たされることはなかった。なぜならすべての先行する倫理が本当に味わいたいと願っていたのは、この一切衆生の共同体との普遍的な同一化による普遍的な慈悲だったのである。それは真の優しさにおける慈悲の発出であって、他者のなかに自分の自己を見つめ、愛をもって抱擁するのである。(前掲書)

 道元禅師の言葉を借りるならば、「諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す。この現成は、尽地尽界尽時尽法を量として、現成するなり、その量は莫作を量とせり」(『正法眼蔵・諸悪莫作』)ということでしょう。

 全宇宙と一体化した人にとって、環境破壊も含めた悪はなしたくない、なさない、もはやなしえないのです。

 人類の現状の意識水準を見ると、こうした段階はごく少数の例外的な聖者・覚者だけのものに思えますが、しかし私たちにもそうした段階に到る発達可能性がある、というウィルバーの考えに筆者も全面的に共感しています。

 ヴィジョン・ロジック段階さらには心霊段階に達した人々が増えるにつれて、環境問題の根本的解決の可能性はまちがいなくいっそう高まるはずです。



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