放射能汚染・遺伝子治療・生命倫理

2011年07月21日 | 原発と放射能

 昨年秋、ご縁があって、筋ジストロフィーの患者さんと家族の方の会の大会で講演をさせていただきました。

 その時、専門家の方の講演もあって、原因である遺伝子の欠陥がきわめて具体的にわかり、もう少しで従来治療不可能と思われてきた筋ジストロフィーの「遺伝子治療」が可能になるだろうという話を聞くことができました。

 この話は、患者さんと家族の方に大きな希望をもたらしたにちがいありません。傍聴させていただいていた私も、驚きと喜びを感じずにはいられませんでした。

 「遺伝子操作」という技術は、使われ方によっては恐るべきことをもたらしかねないと思われ、正直なところこれまで私は否定的でした。

 しかし、今や、放射能汚染による遺伝子のダメージが深刻に心配される状況の中では、少なくともこの件に関しては「遺伝子治療」の進歩を期待するほかないだろう、そしてそれは可能だろう、と考えるに到りました。

 いわば「神の領域」に関わるような「遺伝子操作」に潜む深刻な生命倫理の問題は、これまで以上に慎重に徹底的に検討されるべきだと思いますし、これまでの例えば「臓器移植-脳死」の公認のプロセスを考えるときわめて深い危惧の念も感じますが、当面、素人の一人の意見が変わろうが変わるまいが、科学技術-医療技術の一つとしての「遺伝子治療」は進められるでしょう。

 そうだとしたら、コスモスの理に沿った生命倫理の確立としっかり並行しながら、放射能による遺伝子のダメージを治療する技術が、できるだけ早く、間に合う間に確立されることを願うほかありません。

 この点についても、「絶望するのはまだ早い。困難だが、希望の未来はある」と考えていいのではないでしょうか(専門家の方のコメントをいただけると幸いです)。

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愛されたり・愛したりする未来

2011年07月20日 | 生きる意味
 
 このネット授業で、かつて、ものごとがどう見えるかはかなりの程度見方しだいだということを学びました。

 それは、地震-津波-原発事故そして復旧・復興の遅れ、不確実な収束、放射能汚染についても言えることだと思います。

 特に放射能汚染について、心配のあまり絶望的な気分になっておられる方が少なくないようなので、ここで意識的に希望を持つために復習をしてみたいと思います。

①事実あるものごとは、目を開ければ見えるが、目を閉じれば見えない。見えないとないような気がしてくる。

 ②事実あるものごとは、目を開けていてもその方向を見ていなければ見えない、その方向を見れば見える。

 ③事実あるものごとは、見る距離によって見える大きさが違ってくる。近づけて見れば大きく見え、遠ざけて見れば小さく見える。

 3・11の後、放射能の危険さについて、私たちはいやおうなしに目を開かれ、そちらに目を向けさせられ、特にあまりにそのことに目を近づけて見過ぎて、他のことが見えないという状態になっているのかもしれません。

 十円玉を親指と人差し指で持って片目をつぶり、開いている目のすぐそばまで近づけて見ると、視界は十円玉でいっぱいになり、まるで世界が十円玉だけで出来ているように見えてくる、というワークをやりました。

 私たちは、放射能についてそういう状態に陥っているのではないでしょうか。

 世界中が高濃度の放射能だらけで、すぐにでもみんなガンになりそうで、もう何の希望もない、と見えているのかもしれません。

 その気持ちは私もほんとうによくわかります。

 しかし、学んだように、視界=世界ではありませんでしたね。

 不幸中の幸いと言うべきでしょう、福島原発のすぐそばを除くと、確かに汚染はされているのですが、まだ「ただちに健康に害のある量ではない」という状態で、「やがてガンになる確率が高くなる」危険(0.1%から1%くらい?)はありますが、「すぐに全員がなる」のではなさそうです。

 あえて言うと、絶望するのは放射能の危険を過大視しているためであって、もちろん心配をし、できることはしなければなりませんが、ここで子どもや自分の人生が終わるわけではなく、そういう意味で未来はまちがいなくあるのであり、したがって希望を持つこともできるという、他の面、より広い面を見ることも忘れないでおきたいものです。

 そして何よりも、私たちは生きているかぎり、愛されたり・愛したりすることができます。

 たとえ放射能に汚染されても、病気になっても、愛されたり・愛したりするという体験をすることの可能性はこれからも生きているかぎりなくなりません。

 ただちに命にかかわるような量でないかぎり、放射能が愛の可能性を汚染したり破壊したりすることはないのです。

 愛されたり・愛したりする未来への希望を捨てる必要はまったくありません。

 そして、時間があると思うとかえって気がゆるんで大切な人への心づかいがなくなりがちで、時間が有限だという覚悟があってこそ人への思いが深くなるということもあります。

 愛については、時間は長さよりも質が大切なのではないでしょうか。

 愛されることも愛することもなく長く生きるよりは、短くても深く愛され・愛する人生のほうがいい人生だ、と私は考えます。

 もちろん、深く愛され・愛する人生が十分な長さあったほうがもっといいに決まっていますが、残念ながら人生は私たちの100%思いどおりになるようにはできていないようです。

 だとしたら、私たちは許された人生の長さの中で、愛され・愛する体験をしながら、悔いのない、せめて悔いの少ない人生を生きる努力をするほかありません。

 特に大人は、子どもたちのために心配するあまり絶望して、子どもたちまで絶望させることのないよう、できるかぎりの愛情を注ぐ努力をしていきましょう。

 人との出会いはすべて「一期一会」であり、子どもと親との出会いも「一期一会」です。

 その思いを忘れず、大切に、丁寧に、思いを込めて大事な人とつきあっていきたいものです。

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発売のお知らせ:『「日本再生」の指針』

2011年07月13日 | 広報

 最新刊・発売中の拙著『「日本再生」の指針――聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」』(ザ・ブック刊、太陽出版発売)の自己紹介の録画です(下記のアマゾンで注文できます)。




「日本再生」の指針―聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」
岡野 守也
太陽出版


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汚染水浄化技術の一歩前進

2011年07月11日 | 原発と放射能

 吉岡斉『原子力の社会史――その日本的展開』(朝日選書、1999年、品切れ中)によれば、「……放射性廃棄物処分施設(高レベル、中低レベル)についても、一九七〇年代半ばすぎに検討が開始されたばかりであった。次々と発電用軽水炉が運転を始め、現実に大量の廃棄物を生み出すようになってから、廃棄物の後始末について検討されるようになったのである。ようやく一九七六年一〇月八日、原子力委員会は「放射性廃棄物対策について」という基本方針をまとめた。そこでは、高レベル放射性廃棄物について、二〇〇〇頃までに見通しを得ることを目標に、調査研究と技術開発を進めるという方針が示された。」(186頁)とのことです。

 しかし、2010年を過ぎても、見通しは得られていないようです。

 「放射性廃棄物」の「処分」についてさえこんな状態ですから、「放射能汚染の除去」の技術開発がもっと遅れているだろうということは簡単に推測できます(今後もう少し調べてみますが)。

 しかし、それでも良心的な科学者・技術者による努力は少しずつ進んでいるようで、少し希望が見えます。

 一昨日の朝日朝刊によれば、京都大学によって、原発の汚染水の浄化について、現在使われているフランス・アレバ社のものより、時間も経費も浄化後にも残ってしまう放射性廃棄物の量も少ない優れた技術が開発されたとのことです。





 メンツや既得権益で無視されることなく、ちゃんと評価され、ちゃんと使われることを願わずにはいられません。

 それにつけても、今からでも、大急ぎで、放射性廃棄物の処理技術、汚染の除去技術、特に体内汚染の除去技術、放射線による障害の治療技術、特に遺伝子レベルでの治療技術などの調査研究と技術開発が進められる必要がありますし、人材と費用を投入すれば必ず進むでしょう。

 私たちは、科学技術以前の世界に戻ることはできません(できるものなら戻りたいような気もしますが)。

 だとしたら、科学技術によってもたらされたマイナスを解決・解消するには、それを超える真に人間全体のいのちの持続可能性に向けた科学技術を進歩させるほかありませんし、それは可能なはずです。

 政治不信によって政治の汚染が浄化されないのとおなじく、科学・技術不信によって科学・技術による環境汚染が浄化されることはない、と思われます。

 次世代の子どもたちへ――「科学ぎらいにならないで、新しい科学で古い科学を超えていこう! きみたちなら、できる!」

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問題はあるが、未来も希望もある!

2011年07月10日 | 原発と放射能

 ここのところ、原発と放射能について、いかに危険だったのかということを改めて学んできわめて憂慮しているという記事ばかり書いていましたが、身辺の忙しさとあわせて、「こんなことばかり読んでも、読者は元気にはならないだろうなあ」という思いがあって、書く気持ちが停滞していました。

 先日、NHKTVの報道で、避難勧奨地域の家庭で、お母さんや家族が食事などで集まるたびに放射能の話をしていたら、それを聞いていた小学低学年の女の子が「どうせ私に未来はないんでしょう?」と言ったという話が紹介されていました。

 これは、この子一人のことではなく、こういう気持ちでいる子どもがたくさんいるのだろうと推測され、小さな子どもにこんな言葉を言わせるような状況に至らせてしまったということに、大人として深く深く胸が痛んでいます。

 それもあって、大人として、もの書きとして、ただ危機の深刻さについて語るだけではなく、にもかかわらず希望はあるということももっと語らなければならないと思うようになりました。

 確かに大きくて困難な問題があることは確かですが、それは「希望はゼロ」ということではありません。

 人間には死ぬ瞬間まで未来はあります。未来があるかぎり、希望もあります。未来は未だ来ていないのですから、どうなるかはわかりません。必ずよくなるとは限りませんが、必ず悪くなるとも決まっていないのです。

 未来があるかぎり、今よりよくなる可能性はゼロではない、ゼロではないものはどんなにわずかでも「ある」のです。

 まず、「どうせ私に未来はないんでしょう?」というきわめて悲観的な疑問的な断定は、論理療法的な言葉を使うと「過大視」です。

 大人自身が心配のあまりそのことばかり考え、過大視して、ついつい子どもが聞いているところでもそういう話ばかりしているのでしょう。

 また大人もこうした状況の中で、何に、どこに、希望を見出せばいいのか、わかりにくくなっているのは、私もそうですから、気持ちはよくわかります。

 そういう話ばかり聞いていた子どもがそういう気持ちになるのもよくわかります。

 しかし、まず大人は自覚したほうがいいと思うのは、「かなり大きくて困難な問題はあるが、未来はあるし、希望もある」という事実だと思います。

 危険と同時にどういう希望があるかについても、私の考えられる・言えることを、今後いろいろ書き続けたいと思っていますが、今日はまず以下のポイントについて書きます。

 確かに微量でも放射能は危険ですし、特に内部被曝は危険です(前回の記事で紹介した『内部被曝の脅威』ちくま新書、参照)。

 しかし、微量の内部被曝の場合の危険は、今日明日に死んでしまうという危険ではありません。ですから、おそらくまちがいなく、明日=未来はあるのです。

 そのことを専門的には、「確定的影響」と「確率的影響」という言葉で区別しているようです。

 今、子どもたち(および私たち)が曝されている危険は、「確率的影響」です。被曝量によって、将来ガンになる危険が0.1%とか1%とか増えるという危険なのです。

 それはもちろん無視していい、気にしなくていいような危険ではありません。いろいろな面で、なるべく早く、なるべく少なくする最大限の努力をしなければなりません。

 しかし同時に、だからといって全員が全面的に絶望するほかないような、「必ず」「すぐ」「みんな」ダメになるという危険ではないことをしっかり認識しておきましょう。

 多くの子どもの場合、すぐに健康が害されることはなく、そういう意味で未来はあり、未来があれば、未来にいろいろと楽しいことをしたり、すばらしい体験をする可能性は確実にあるのです。

 そういうことが理解できそうな子どもには、「確かに問題はあるんだけど、でも、未来はあるし、希望もある。これから、いろいろ楽しいことをしたり、すばらしい経験することは、きっとできるよ」と言ってあげましょう。

 もっと深く理解できそうな子どもには、何が問題か、どうしたら解決できそうか、どういうことに取り組めばいいか、大人が理解できた範囲で伝えて、共有していきましょう。

 そのためには、もちろん大人が必死になって、問題を理解し、解決法を学び、見出し、行動していく必要があります。

 つまり、子どもに希望を持たせるには、まず大人が希望を見出す必要があるのです。

 大人が希望を見出して行動すれば、子どもたちもきっと希望を共有してくれるはずです。

 これからの時代は、取り組まなければならない問題が山積しているという意味で,
いわば戦いの時代であり、理解力と行動力のある子どもたちはこれから年下の「戦友」になってくれるでしょう。

 そういう意味でも希望はあります。

 「持続可能な国」は、大人だけが作って次の世代に与えるものではなく、若者や子どもと一緒になって創っていくものだと思います。

 そういう理解がまだむずかしそうな子どもには、たとえ演技であってかまいません、大人が、自信を持って、自信ありげに、「なんとかなるから、私たちがなんとかするから、だいじょうぶだよ!」と言ってあげるべきではないでしょうか。

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