無力感にも無関心にも陥らない

2007年08月31日 | メンタル・ヘルス

 昨日の夜、かみさんと二人で世界の貧しい国の子どものことを報道している番組を見ました。

 こうした報道に接すると、ほんとうに厳しい状況で生きている子どもたちがたくさんいることを、改めて痛切に感じます。

 微力だけれども、できることをしたい、と深く思いました。

 今やろうとしている「持続可能な国づくり」の努力は、単なる自国中心主義の活動ではありません。「持続可能な地球の回復」とそのまま直結していると思っています。

 持続可能な地球を回復しなければ、貧しさに苦しむ子どもたちを救うどころか、ますます増えるばかりです(環境難民)。

 問題はきわめて大きいのですが、私は、論理療法的に考えますから、同情しすぎて無力感に陥ったり、暗い気持ちになりたくないので目をそむけて無関心になったりもしません。

 そして、及ばずながら菩薩を目指してもいるので、今年のモットーどおり、「熱心なのに気軽、気軽なのに熱心」という心で持続したいと思っています。

 『摩訶般若波羅蜜経』の言葉を訳を少し修正して再引用します。


 もろもろの菩薩・大士は〔心を〕大スケールに美しく調え、私はまさに限りない数の衆生を救おう(と誓願する)、衆生は結局〔実体としては〕把握できないということを知っていてしかも衆生を救うのである、これは困難なことではある。……

 スブーティよ、菩薩・大士は、二つの事柄を完成するので、悪魔は破壊できない。何が二かというと、一切の存在は空であることを瞑想的に洞察することと、一切の衆生を捨てないこととである。スブーティよ、菩薩がこの二つの事柄を完成するならば、悪魔は破壊できないのである。


 この悪魔とは、私の解釈では無力感‐絶望と無関心‐無責任の心のことです。

 何とかしてあげたいという願いを忘れないために、時々、「動画で見る100人の村」を見直したりしています。




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これはいい! スウェーデンの参考資料

2007年08月31日 | 持続可能な社会

 先日、曹洞宗大本山永平寺の雑誌『傘松』から環境問題に関する連載の依頼を受けたことを報告しました。

 続いてまた環境問題についての講演依頼を受けることになりそうです(正式に決まったら広報させていただきます)。

 専門家ではないにもかかわらず、発言をさせていただける―聞いていただけるのは有難いことですが、それだけさらに十分な知識を得なければならないという責任感も感じています。

 環境やスウェーデンについての学びをしていると、どちらかというと自分の専門の心の問題についての学びの時間が取られてしまいます。時間が足りない!

 しかしそれも時代の求めているものということで、やむをえない、ある程度、中途半端になるのはしかたない、と自分の心にもみなさんにも「半端で行く宣言」 1) 2) をしたので、妙な言い方ですが、もう中途半端に徹するほかないと思っています。

 それで、スウェーデンにも見学に行ってこなければと思っているのですが、ちょうどいいタイミングで読者から情報をいただきました。有難うございました。

 コメント欄だと目立たないので、ここでも紹介・シェアさせていただきます。

 「One World Network 国際環境ビジネスネットワーク 日本・スウェーデン」の記事です。

 とても参考になります。みなさんもぜひご覧下さい。



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環境問題:入口と出口の限界

2007年08月29日 | 持続可能な社会

 1972年の『成長の限界』以来、環境問題の本をいろいろ読んできましたが、もっとも問題の原因-現象-結果について明快にしてくれたのが、小澤徳太郎先生の『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日新聞社)であったことは、何度も書きました。

 「持続可能な国づくりの会」の設立総会でお目にかかってお話しした後、帰ってきてまた改めて頁を繰りながら、下記の図の意味を再確認しました。

 環境省(つまりは国の機関ですが)も、理論としては経済活動の拡大が環境問題の原因であることは明快に捉えているわけです。

 資源の大量消費によって、経済活動の拡大すなわち大量生産と大量消費が可能になるが、その結果、資源の枯渇と大量廃棄=環境の汚染が進行する、と。

 この公的文書(環境白書)にいわば国の見解としてはっきりと公表されている図解の意味は決定的に重要だと思います。

 つまり、どう考えても、これまでのようなやり方の「経済成長」には、はっきりと入口と出口の両方で限界があるのですね。
 
 ただ、この認識が国の経済と環境の政策に十分反映しているとは思えません。そこが問題です。




 このあたりの問題については、小澤先生のブログにしっかりと書いてありますので、私が繰り返す必要はあまりないと思います。

 環境問題の根本的な解決を本気で望んでいる市民のみなさん、ぜひお読みになることをお勧めします(特に市民連続講座:環境問題)。




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「持続可能な国づくりの会」設立総会・報告

2007年08月28日 | 持続可能な社会

 一昨日の「持続可能な国づくりの会」の設立総会のことを昨日書くつもりでしたが、コスモス・フォーラムの記事だけで手一杯でした。一日遅れでご報告します。

 総会の冒頭で、数日前のブログ記事とほぼ同じ内容の設立趣旨のスピーチをしました。

 参加者は多くはありませんが、みな本気の方ばかりでした。

 「私たちは、日本そして世界が安心して暮らせるかたちで末永く持続すること、まだ見ぬ将来世代にまでより豊かに引き継がれることを強く希望します。私たちは自然環境と調和した持続可能な経済・社会・政治システムの構築を目指します。」という前文、「本会は、日本を持続可能な緑の福祉国家にするために必要な諸事業を行い、世界と人類の持続に広く貢献することを目的とする。」という目的を含んだ「会則」が全員一致で可決されました。

 総会後の学習会では、まず私が「IPCC第4次報告などなど 1) 2)、十分な情報は提供されているにもかかわらず、市民にも政治家や経済人にも――資源の大量採取―大量生産―大量消費―大量廃棄という流れになる近代の産業システムを変えようという――適切な反応が起こらないのはなぜか?」という問題提起を行ない、みなさんと話し合いをしました。

 さまざまな有意義な発言がありましたが、その一部だけご紹介します。

 まず1つ、「『理性は情動の奴隷である』というヒュームの言葉をあげて、人間は差し迫った危機でないと情動が動かされないので行動しない」という指摘がありました。

 もう1つ、「経済と環境の関連 3) への報道は十分ではなく不足している。今日の生産物は明日の廃棄物というきわめて当たり前のことについて、正確な情報を与えれば人は動くはずだ」という発言もありました。

 それからもっとも初期からコンピューターなど新技術の開発-普及に関わってきた方から、「新しいものの普及は、20%から40%、そしてブレークスルーという傾向がある。最初の20%までが長い、そして大切。日本人は、理屈より周りの空気で動くものなので、空気が変わるまでが大変だが、空気が変わればがらりと変わる」という興味深い指摘がありました。

 それに対して、「そういう傾向は、拡大がいいことだと思われていた時代には当てはまるが、今後はどうか」という疑問が出されましたが、それに対して「環境問題についても、団塊の世代が動けば、動くと思う」と答えておられました。

 また、「日本は閉鎖系社会であり、等質な生き方、我がままを抑える、まわりに合わせるという民族性が育まれてきているが、それはプラスにもマイナスにもなる」という指摘もありました。

 さらに若い世代から、「リーダーの世代は、戦後の空腹体験とそれを経済成長で克服したという成功体験から抜けられないのではないか。次世代への想像力が欠けているのではないか」という発言がありました。

 また、「理性によって情動をコントロールできる人がリーダーであるべきで、理性的に行動すべきグループとそれができないグループを区別する必要がある」という意見も出ました。

 私は、情動と理性の関係について、「経済成長に対しての『目的合理性』と『エコロジカルな合理性』を区別するといいと思う。これからのリーダーに必要なのは『エコロジカルな合理性』だと思う」と述べました。

 そして最後に、適切な行動が起こっていない原因としては以下のことが考えられる、とまとめました。

 ①日本人の民族性としての、いくらでもおねだりに応えてくれどんな粗相をしても尻拭いをしてくれる優しい母のような自然への甘えの感性。4) 5)

②お上意識――民主主義の未成熟。6) 7)

③科学技術による経済成長・拡大・成功がアイデンティティになっている。アイデンティティの変更にはアイデンティティ・クライシス、不安が伴うので、大きな抵抗が起こる。

④心理学的にいうと、不安に対しては、2つの反応パターンがある。否認・抑圧という防衛メカニズム、不安の原因の認識‐適切な対応。後者のほうが適切な反応であることはもちろんだが、防衛メカニズムに陥ることがしばしばある。

⑤戦後の物質還元主義科学と個人主義的民主主義のせいで次世代への想像力―自然といのちのつながり意識が失われてきている(2005年8月頃の記事参照)。

 そして、では今後どうすればいいのか、どうするのかということについては次のことを提案しました。

 ①梅原猛氏の言葉を借りれば「日本人は雪崩をうつ国民」なので、情報・状況が閾値を超えるまで、つまりブレークスルーまで、辛抱強くアッピールし続ける。

 ②現代科学的な根拠のある「つながりコスモロジー」 8) を伝達していく。

 ③行動を動機づける主な情動に欲望、不安、愛情がある。情動=マイナスと捉える必要はない。愛情=つながり感覚という情動に動機づけられれば、次世代のための適切な行動が生まれる可能性は十分にある。

 最後近く、孫のいる女性から「行動できるかどうかのポイントは、次世代への愛情だと思う」というまさにポイントをついた発言がありました。

 公式プログラムが終わった後の二次会まで、有意義で楽しい集いでした。

 趣旨に賛同していただける方、次世代の子どもたちの未来のために、これから、ぜひご参加・ご入会下さい。




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コスモスフォーラム13, 14 案内

2007年08月27日 | 生きる意味

 昨日の記事でお知らせした「コスモスフォーラム」の第13、14回の案内チラシです。

 第14回には、私もパネリストとして参加させていただきます。

 このフォーラムをとおして、こうした方々と、つながりコスモロジーについて大きな合意を形成することができる、あるいは別の言い方をすれば、すでにほぼ出来ている合意を確認することができるのではないかと期待しています。

 先日の第12回の時、諸先生方の口から、「宇宙は無から生まれた」、「ビッグバンはもう仮説ではなく事実だ」、「私たちは星のかけらで出来ている」、「私たちは宇宙の子ども」といった言葉が、お互いにとって当然の了解事項のごとくに語られていました。

 ここをもう一歩進めれば、必然的に、「現代科学的―理性的に言うと、宇宙-世界とはこういうものだ――つながりコスモロジー、宇宙は一体、私たちも宇宙と一体!――と考えるのが当然、普通、常識だ」ということが、個々の研究者の意見としてではなく、多くの一線級の科学者たちの大きな合意であることが確認できることになるはずです。

 もし、合意を形成ないし確認できたら、大げさなようですが、それは一つの文化的な事件と言ってもいいことが起こることになるでしょう。

 なぜなら、少なくとも心が理性レベルに発達した人間ならばすべて――人類普遍的に――共通の世界観・コスモロジーを共有できる・するのが当然という状況になっていることが公的な場で確認されることになるからです。

 そういうことになるか、そこまで行かず、よくあるフォーラムのように「なるほどいろいろな意見があるのですね」といった話になるか、まだわかりませんが、私としてはとても期待しています。

 ネット聴講生のみなさん、ぜひお出かけ下さい。









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時代は動き始めた:2つの集い

2007年08月26日 | 持続可能な社会

 昨日は、コスモス・フォーラム第12回に行ってきました。

 池内了先生(総合研究大学院教授、天体物理学)、内井惣七先生(京都大学名誉教授、科学哲学)、海部宣男先生(国立天文台前所長・名誉教授、電波天文学)、佐藤勝彦先生(東京大学大学院教授、宇宙論)、竹宮惠子先生(漫画家、京都精華大学教授)というまさにそうそうたるメンバーの方々と名刺交換をし、少し話をさせていただきました。

 宇宙論についてもっとも学ばせていただいた鈴鹿短期大学学長の佐治晴夫先生も来ておられて、久しぶりにお目にかかり、短い時間でしたが、非常に大切なポイントの話をすることができました。

 フォーラムで案内チラシを配っていましたので、もう公表していいようですが、私も第14回にパネリストとして参加させていただきます。

 詳しい話は明日の記事に書くつもりですが、こうした方々とコスモロジーに関して大きな合意を形成することができる歴史的な段階に差し掛かっていると感じました。

 今日は、「持続可能な国づくりの会」の設立総会でした。

 ここでも、きわめて有意義な話し合いをすることができましたが、それも明日書くつもりです。

 今夜は、とりあえず、報告だけでもしておきたいと思いました。

 では、みなさん、おやすみなさい。よかったら、また明日読んで下さい。




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いい詩:最後だとわかっていたなら

2007年08月25日 | いのちの大切さ


     最後だとわかっていたなら

              ノーマ コーネット マレック / 佐川 睦 訳


  あなたが眠りにつくのを見るのが
  最後だとわかっていたら
  わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
  神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
 
  あなたがドアを出て行くのを見るのが
  最後だとわかっていたら
  わたしは あなたを抱きしめて キスをして
  そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
 
  あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
  最後だとわかっていたら
  わたしは その一部始終をビデオにとって
  毎日繰り返し見ただろう
 
  あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
  最後だとわかっていたら
  一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
  わたしは 伝えただろう
 
  たしかにいつも明日はやってくる
  でももしそれがわたしの勘違いで
  今日で全てが終わるのだとしたら、
  わたしは 今日
  どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
 
  そして わたしたちは 忘れないようにしたい
 
  若い人にも 年老いた人にも
  明日は誰にも約束されていないのだということを
  愛する人を抱きしめられるのは
  今日が最後になるかもしれないことを
 
  明日が来るのを待っているなら
  今日でもいいはず
  もし明日が来ないとしたら
  あなたは今日を後悔するだろうから
 
  微笑みや 抱擁や キスをするための
  ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと
  忙しさを理由に
  その人の最後の願いとなってしまったことを
  どうして してあげられなかったのかと
 
  だから 今日
  あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
  そして その人を愛していること
  いつでも いつまでも大切な存在だということを
  そっと伝えよう
 
  「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
  伝える時を持とう
  そうすれば もし明日が来ないとしても
  あなたは今日を後悔しないだろうから




 知りませんでしたが、この詩は「テロで亡くなった消防士の詩」として9.11、アメリカ同時多発テロの後、追悼集会で読みあげられ世界中に配信され、大きな感動を呼んだものだそうです。

 ほんとうにいい詩ですね。ご存知の方も多いでしょうが、私同様まだの方も多いと思いますので、シェアしたいと思います。

 実は、今朝、ロハス商品のコマーシャルと一緒に配信されてきたものです。これはとても好感のもてるコマーシャルです。

 私は、親戚の子や教え子の結婚式ではいつも――授業でもしょっちゅう――「人生は有限だよ。ほんとうはケンカや戦争してムダにしていいような時間は1秒もないんだよ」とお説教します。

 これからは、この詩を朗読するのもいいかな、と思っています。

 その前に、自分でよく味わったほうがいいですね(反省)。



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IPCC予測の衝撃、しかし前進あるのみ

2007年08月24日 | 持続可能な社会

 今朝も「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書第1 作業部会報告書 政策決定者向け要約(SPM)の概要 速報版」を読み直しています。

 冒頭の「報告書の主な結論」に、次のような項目があったことを再確認しました(太字による強調は筆者)。


●1980 年から1999 年までに比べ、21 世紀末(2090 年から2099 年)の平均気温上昇は、環境の保全と経済の発展が地球規模で両立する社会においては、約1.8℃(1.1℃~2.9℃)である一方、化石エネルギー源を重視しつつ高い経済成長を実現する社会では約4.0℃(2.4℃~6.4℃)と予測(第3 次評価報告書ではシナリオを区別せず1.4~5.8℃)

●1980 年から1999 年までに比べ、21 世紀末(2090 年から2099 年)の平均海面水位上昇は、環境の保全と経済の発展が地球規模で両立する社会においては、18cm~38cm)である一方、化石エネルギー源を重視しつつ高い経済成長を実現する社会では26cm~59cm)と予測(第3 次評価報告書(9~88cm)より不確実性減少)

●2030 年までは、社会シナリオによらず10 年当たり0.2℃の昇温を予測(新見解)


 繰り返すと、被害を最小限にとどめるためにはどちらのシナリオを選択すべきかは火を見るよりも明らかです。


 それからもう一つ、「気候システムの変化の実態」と「地球規模の将来予測」のところに、穏やかな気候の美しい自然に包まれて生きることを心の支えとしてきた日本人(川端康成のいう「美しい日本の私」)にとってはきわめてショッキングな予測が書かれていることに気づきました(昨日もぼんやりとは読んでいたのですが)。


●20 世紀後半の北半球の平均気温は、過去1300 年間の内で最も高温であった可能性が高い。最近12 年(1995~2006 年)のうち、1996 年を除く11 年の世界の地上気温は、1850 年以降で最も温暖な12 年の中に入る。

●人為起源の二酸化炭素により、千年以上にわたって温暖化や海面水位の上昇が続く。


 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、連歌や俳句、そしてなにより歳時記に表現されてきたような、日本の伝統的美意識が穏やかな四季のめぐり――冬は冬らしく、春は春らしく……という温帯の気候――をベースにしていることは明らかですが、この予測が示していることは、日本もそれらが育まれてきたこれまで1300年とはまったくちがった気候風土(亜熱帯?)になっていく、ということです。

 かつて公害にふれて筑波常治氏が『自然と文明の対決』(日本経済新聞社、1977年)で、次のようなことを述べておられ、深く共感しました。この指摘は公害よりもさらに広く深刻な問題である「地球環境問題」にもみごとに当てはまるように思います。 かなり長いのですが、引用してご紹介しておきたいと思います。


 ……公害は、日本人にとって、文字どおりひとつの「宗教」の崩壊を意味したと思う。……
 いまあえて「宗教」という言葉を使ったが、それは要するに日本人の心のなかで、これだけは絶対に間違いないと思いこまれてきた信念のことである。自然にたいするその信念とは、どのようなものだったか。……
 自然にたいする日本人の態度を文学的に表現すれば、自然への甘えにつらぬかれているといえよう。「自然のふところに抱かれて」過ごすことを、理想視するのである。あるいは哲学的表現をもちいるなら、人間と自然の一体観といえよう。また科学的表現であらわせば、自然それじたいの天然の補償再生能力にたよりきった態度といえよう。それはたとえていうと、母と幼児との関係によく似ている。母や幼児に、無条件で愛情をそそぎかける。なぜなら母とは本来、そのような本能にささえられた存在なのだからである。母性愛は無限であり、ときに手痛い叱責をくわえることはあっても、原則的には幼児のねだりに、とことんまで応えてくれる相手にほかならない。
 ……このような自然への態度こそ、いわゆる公害(自然破壊)を、ことのほか極端におしすすめてしまった大きな原因のひとつである。機械文明の導入と浸透にともない、河川に放棄される、汚物、廃液の量は激増した。山野を切り崩しての〝開発〟が、猛烈な速度ですすめられた。こうして旧来とは比較にならないほど、自然の消耗がひどくなった。にもかかわらず補償のほうは、従来どおりいぜんとして、自然じたいの再生能力にまかせきりだった。かくしてさしもの日本列島の自然も、追いつくことができなくなった。自然破壊の速さが、回復力を上回ってしまったのである。
 その結果が、日本の公害問題にほかならない。公害はまず、生活環境の現実の劣悪化として日本人をおびやかしている。しかし、日本人がこうむった心理的ショックの内容は、単にそれのみにとどまらない。外部環境だけでなく、精神内部の深奥で、大きな崩壊現象がはじまったのである。日本人の大部分が自覚しているかどうかは別として、むしろ後者の影響のほうが深刻なのではないだろうか。
 すなわち現在の事態は、およそ二千年以上にわたってつづいてきた伝統的自然観の崩壊を意味している。これまで日本人が当然のこととして、腹の底から信じきっていた常識が、じつは間違いだったという警告を受けているわけだ。この結果、日本人はいま非常な精神的不安におそわれている。公害のもっとも深刻な打撃とは、じつはこの部分にあるのではないだろうか。
 ……二千年の間いだきつづけた信仰、つね日ごろあらためて意識する必要もないほど当然のこととされていた思想が、じつは間違いであったという烙印がおされた。それは十九世紀のむかし「進化論」をつきつけられたときの欧米人の衝撃に匹敵しよう。


 伝統的自然観(自然との一体感)を「含んで超える」かたちで、この衝撃に耐えることのできる新しい自然観を創造しようという試みが、私のいう「コスモロジーの創造」であり、現段階である程度のかたちになったものを共有したいというのがコスモロジー教育=コスモス・セラピーであり、本ブログの目的でもあります。

 IPCC報告は大きな衝撃ですが、その衝撃に耐えて前に進むコスモロジー的勇気を自分の心のなかに湧きあがらせようと改めて思います。




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IPCCは「持続発展型社会シナリオ」を示唆していた!?

2007年08月23日 | 持続可能な社会

 今朝、ふと今年2月のIPCC第4次報告の新聞報道は読んだけれど、報告書そのものはちゃんと読んでいなかったなと思って、ネット検索をしてみました。

 2月2日付けの報道発表資料がすぐに見つかりました。

 「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書第1作業部会報告書 政策決定者向け要約(SPM)の概要 速報版」

 改めて、素人でも知ろうとさえ思えばそうとうなことを知ることができるのだな、と実感しました。

 再確認したのは、まず「出席者:107か国の代表、世界気象機関(WMO)、国連環境計画(UNEP)等の国際機関等から合計306名が出席。わが国からは、経済産業省、気象庁、環境省などから計9名が出席した。」こと、「第4次評価報告書の作成には、3年の歳月と、130を超える国の450名を超える代表執筆者、800名を越える執筆協力者、そして2,500名を越える専門家の査読を経て、本年順次公開される。」ことです。

 これだけ多数の国、つまり国同士の利害関係は必ずしも一致しない国々の、多数の専門家たちがあえて出した報告・警告であるというのは重要です。

 主な結論の第一に、「気候システムに温暖化が起こっていると断定するとともに、人為起源の温室効果ガスの増加が温暖化の原因とほぼ断定。」とありました。

 これはすでに多くの報道機関等が指摘していますが、めったなことではものごとを断定しない職業意識が身についている科学者たちがあえて「断定」したというのはまったく異例であり大変なことだと思います。

 しかも「政策決定者向け」となっています。

 日本も、経済産業省、気象庁、環境省などから9名が出席したということですが、「政策決定者」に正確に伝わっているのでしょうか。率直なところ、そこが疑問です。

 特に重要だと思うのは――しかし、これは新聞などでも報道されていなかったように記憶しますが――「参考」の欄に、どういう政策が採られたらどういう結果になるかというシナリオがちゃんとあったことです。これは驚きでした(勉強不足、というか勉強遅れですみません)。以下、長いのですが、あえて引用しておきます。


(参 考)

SRES(排出シナリオに関する特別報告)の温室効果ガス排出シナリオ

○A1「高成長社会シナリオ」
 高度経済成長が続き、世界人口が21 世紀半ばにピークに達した後に減少し、新技術や高効率化技術が急速に導入される未来社会。A1 シナリオは技術的な重点の置き方によって次の3 つのグループに分かれる。
A1FI:化石エネルギー源重視
A1T :非化石エネルギー源重視
A1B :各エネルギー源のバランスを重視

○A2「多元化社会シナリオ」
 非常に多元的な世界。独立独行と地域の独自性を保持するシナリオ。出生率の低下が非常に穏やかであるため世界人口は増加を続ける。世界経済や政治はブロック化され、貿易や人・技術の移動が制限される。経済成長は低く、環境への関心も相対的に低い。

○B1「持続発展型社会シナリオ」
 地域間格差が縮小した世界。A1 シナリオ同様に21 世紀半ばに世界人口がピークに達した後に減少するが、経済構造はサービス及び情報経済に向かって急速に変化し、物質志向が減少し、クリーンで省資源の技術が導入されるもの。環境の保全と経済の発展を地球規模で両立する。

○B2「地域共存型社会シナリオ」
 経済、社会及び環境の持続可能性を確保するための地域的対策に重点が置かれる世界。世界人口はA2 よりも緩やかな速度で増加を続け、経済発展は中間的なレベルにとどまり、B1 とA1 の筋書きよりも緩慢だがより広範囲な技術変化が起こるもの。環境問題等は各地域で解決が図られる。



 「どのシナリオでも、今後20年間に、10年当たり約0.2℃の割合で気温が上昇。」とされていますが、しかしB1のシナリオがいちばん予測値が低いこともグラフなどではっきりと示されています。

 「政策決定者」が、報告書を正確に読めば、これからどのシナリオの採用を決定するよう示唆されているか、「火を見るように」明らかなのではないでしょうか。

 それはともかく、民主主義の国日本では、最終的な「政策決定者」は国民であって、政府は「政策決定代行者」にすぎません。

 私たち国民ひとりひとりが自分で、この報告書をちゃんと読む必要があったのだな、と感じています(まだの方はどうぞ読んでみて下さい)。

 残念ながら、私の知るかぎり、どの報道機関も、IPCCがあえて「政策決定者」に向けてこの「B1持続発展型社会シナリオ」がもっとも適切な選択肢であることを示唆している(ように読める)ことに注意を促すような報道はしていなかったようです(ちゃんとやっていたのに私が知らなかっただけだったら、失礼)。

 さらに不思議なことに、3月20日付けの「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書第1作業部会報告書 政策決定者向け要約(2007,確定訳」**のほうを見てみると、みごとなくらい「火を見るように明らか」な印象はなくなっていました。ここには何か作為があるのでしょうか。

 ともかく、現在の「政策決定代行者」が適切なシナリオを選択しないのならば、真の「政策決定者」「主権者」である国民が、適切なシナリオを選択できるような新しい「政策決定代行者」を選択しなおさなければならない、というのが「持続可能な国づくりの会」の思いです(とメンバーの一員である私は思っています)。

 7月の参院選の結果が、国民の気づきの微かな兆しであれば、と願っているところです。




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第12回KOSMOSフォーラム案内

2007年08月22日 | Weblog



主催の財団法人国際花と緑の博覧会記念協会は、招聘の打診のためにウィルバーを訪問する機会を下さったり、ウィルバー『万物の理論』(トランスビュー)の出版の援助をして下さったりと、筆者と大変ご縁の深い団体です。

とても興味深い企画です。まだ席は残っているようです。参加ご希望の方は問い合わせ・申し込みをしてみませんか。
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今年は記録的猛暑・去年も記録的猛暑・来年はもっと?

2007年08月21日 | 持続可能な社会

 「今年は記録的猛暑だ」とニュースでは言っています。

 「今年は記録的猛暑だ」と去年のニュースでも言っていたような気がします。

 (そう言えば、シンポジウムのための合宿の時も暑かった。)

 「今年も記録的猛暑だ」と言ったほうがいいのではないでしょうか。

 「今年も去年を超える記録的猛暑だ」と言うとよりはっきりします。

 「来年も今年を超える記録的猛暑になるでしょう」と言ったほうがもっといいように思います。

 猛暑に関するニュースと温暖化に関するニュースは、ぼんやりとリンクさせているようです。

 しかし、つい数日前の番組でも、相変わらず白熱球を蛍光球に替えるとか、打ち水をしたら涼しくなった……といった話題が流されていました。

 (そう言えば、去年の合宿の時によく似た番組を見たなあ。)

 1年経っても日本の平均的認識は依然として、自然資源の大量消費―大量生産―大量消費―大量廃棄というメカニズムの認識に到らないようです。

 近代の産業システムは、入口で自然資源の有限性と出口で自然の自己浄化能力の有限性という限界に直面している、というのは私たちのグループの共通認識なのですが、なかなかたくさんの方と共有できるに到りません。

 しかし、明らかに事態は目に見えて進行というより悪化しています。

 後は、多くの人がいやおうなしに認識する時が来るのを待つだけ、ということなのでしょうか。

 手遅れになる前に――この焼けるような暑さで「茹で蛙」どころか「焼き蛙」になってしまう前に――時よ来い!



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暑い夏と持続可能な社会

2007年08月20日 | 持続可能な社会

 猛暑が続いています。

 暑さのせいと、仕事のせいで、なかなか記事を更新できませんでした。

 それにしても暑いですね。これは紛れもなく「地球温暖化」の影響です。

 仕事の1つは曹洞宗大本山永平寺の雑誌『傘松(さんしょう)』に書き始めた「環境問題と心の成長」2回目の原稿でしたが、そこでも「地球温暖化」のことにふれておきました。

 4月7日の朝日新聞の、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書の記事を紹介したことがありましたが、要点だけ再掲載します。

 近未来予測を拾ってみると、2020年代(気温上昇幅 0.5~1.2度程度)に次のようなことが起こると危惧・警告されていました。

・ 数億人が水不足による被害にさらされる
・ サンゴ礁の白化現象が広がる
・ 生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す
・ 洪水と暴風雨の被害が増える
・ 栄養不足、下痢、呼吸器疾患、感染症による負担が増える
・ 熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える
・ 感染症を媒介する生物の分布が変わる
・ 北米では、河川の流量が減り、現在のような水需要は満たせなくなる

 賢明な読者はすでにお気づきのとおり、2020年代ではなくすでに「熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える」、「洪水と暴風雨の被害が増える」、「生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す」という事項は現実のものになっています。

 これから、さらに深刻になっていくことが予想されています。

 被害を最小限にとどめるには、最大限の努力が必要で、それには必然的に資源の大量消費―大量生産―大量消費―大量廃棄という流れになってしまう「経済大国」「経済成長」という社会の方向性を根本的に転換する必要があると思われます。

 社会の方向性を転換するには、強力な政治的指導が必要です。

 そのためには、そういう指導のできる政治勢力が必要です。

 しかし、現状の日本にはそういう政治勢力は見当たりません。

 ならば、新たに創るしかありません。

 しかし、すぐには創れそうにもありません。

 ならば、まず創るための準備をするしかありません。

 というきわめて単純明快な論理の展開の結果、昨年11月のシンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」1)2)をふまえて、「持続可能な国づくりの会」を設立することになりました。

 来週の日曜日、26日に設立総会を行ないます。

 総会の後で学習会の講師として話します。

 暑いさなかですが、できるだけのことをやっています。



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9月からの講座・御案内

2007年08月20日 | 心の教育

          24期オープンカレッジ ご案内


 景気が回復したといいながら、国民の生活の不安はますます大きくなっているように感じられます。

 こういう時代であるからこそ、1つはどこに希望の方向があるのかをしっかりと見つめておく必要があると思われます。

 もう1つは、外的状況がどうであれ、うろたえることのない落ち着いた心を養う必要があります。

 第24期は、東京神楽坂ではコスモス・セラピーとその大きな源泉になっているウィルバーのコスモロジーをまとめて(統合的に)学びなおします。

 参宮橋の中級講座では坐禅と「正法眼蔵」の学びを続けます。

 従来、講座は東京に集中していましたが、ミーティング・ルームの開設に伴い、藤沢でも木曜日の夜講座を行なっています。今回は藤沢初の唯識の入門講座です。
 
 場所や日程の都合に合わせ、ぜひご参加下さい。


 火曜講座:「コスモス・セラピーとウィルバー・コスモロジー」
                         於ヒューマン・ギルド(東西線神楽坂徒歩5分)
                         9/18, 10/2, 16 11/13, 27 12/11 18:45-20:45 火曜日全6回

 短い期間を見ると様々な歪みや腐敗や破壊があるように見えても、大きなスケールで見ると宇宙にははっきりと自己組織化・自己複雑化というかたちで調和へと向かう方向性があることを、理論と実感の両面からしっかり学んでいきます。

 その学びは、ゆるぎなき自己肯定感・元気・希望を湧きあがらせてくれることは、多くのワークショップの実践を通じて実証されてきました。

 今回は、さらにヴァージョン・アップされたコスモス・セラピーと、その大きな源泉となっているウィルバー・コスモロジーの関係をしっかりと学びなおし、いっそうの基礎固めをしていきます。

テキスト:岡野守也『生きる自信の心理学』『自我と無我』
*どちらもご希望の方にはお頒けできます。


 木曜講座:「よくわかる唯識入門」
                        サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩3分)
                        9/27 10/4, 18 11/8, 22, 29 12/13 18:45-20:45 木曜日全7回

 人はなぜ悩み苦しむのか、それだけでなく他人を悩ませ苦しめるのか?

 仏教で一般に「煩悩」と呼ばれる心のネガティヴな働きとその原因をみごとに解明し、自分をも他人をも幸せにできるような心のあり方・生き方に変わるにはどうすればいいか?
 
 「覚り」への道筋を鮮やかに示した、大乗仏教の深層心理学・唯識を、専門用語を最小限にして、できるだけわかりやすく、現代人が日常生活のヒントにすることができるように解き明かしていきます。

 唯識を理解することは、人間の心すなわち自分の心を理解することでもあり、またすばらしい日本の精神的遺産を発見し受け継いでいくことでもあります。

テキスト:『唯識と論理療法』(佼成出版社)
*ミーティング・ルームでお頒けすることができます。

 金曜講座:「『正法眼蔵』を読む」 
                         於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                         9/21 10/12, 26 11/2,16 12/7, 21 18:30-20:30 金曜日全8回

 中級講座では、唯識と禅の古典を織り交ぜながら学んでいます。

 今期は、道元『正法眼蔵』の「仏性(ぶっしょう)」の巻。この巻は京都・宇治興聖寺時代、前回の「看経」の巻の次に書かれています。

 普通は「すべてのものに仏性がある」と解釈される「悉有仏性」を「すべての存在は仏性そのものである」と解釈した、道元思想の核心といってもいい巻です。

 非常に深い思想が語られていますが、初心の方も中・上級の方にも参考になるように、わかりやすくしかしポイントを押さえて解説していきます。

 なお講義の前に30分程度の坐禅を行ないますので、坐禅のできる服装をご用意下さい。

テキスト:コピーを配布します。

●受講料は、一回当たり、一般3,5千円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。

 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。


●申し込み、問い合わせは サングラハ教育・心理研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp または Fax0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。


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好きな詩・詩人4 M・R・リルケ

2007年08月14日 | 生きる意味

 リルケは、高校生時代から愛読してきたもっとも好きな詩人です。

 残念ながら、現代の日本ではほとんど読まれなくなっているようですが。

 それは、おそらく時代の雰囲気がそれぞれの人が自分自身をかけがえのない存在と捉えることを「クライ」とか「オモイ」という言葉で軽蔑し遠ざけようとしていることが大きく影響しているのだと思います。

 なるべく自分を軽いものと思ってしまうことが時代の流行のようです。

 しかし時代の雰囲気がどんなに軽くなっても、事実として人の生と死は一度きりでかけがえがなく、いやおうなしに重いものです。

 そういう他の誰に代わりに生きてもらうこともできない自分自身の生を生きるということを、リルケほど切実に歌った人はいないかもしれません。

 しかし同時にリルケは、生というものが単に今生の個人的な生だけで成り立っているのではないことに深く気づいています。

 ある種の神秘主義的な永遠の時のなかのめぐりつづける生を直感しているのです。

 次の詩は、修道士の生活に託して、リルケ自身の生への想いを語ったものだと想われます。


   「僧院生活」の巻より

 もろもろの事物(もの)のうえに張られている
 成長する輪のなかで私は私の生を生きている
 たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう
 でも 私はそれを試みたいと思っている


 私は神を 太古の塔をめぐり
 もう千年もめぐっているが
 まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか
 それとも大いなる歌なのかを

            (M・R・リルケ/富士川英郎訳『リルケ詩集』新潮文庫)


 「もろもろの事物のうえに張られている/成長する輪」という言葉から、私は直線というよりらせん状に上方に向かって伸びている「コスモスの進化の方向性」を連想します。

 私という、この身体と心に限定された個人の生がコスモスの進化を完成することはもちろんありえません。

 しかし、それを試みたいと願うことはできます。

 それが、コスモスの進化の流れに参加するということだ、と私は思うのです。

 そういう願い・思いは個人としての私を超えて必ず引き継がれていきます。

 個人は死にますが、いのちと願いは遥かな時を超えてつながっていく、と信じています……というより認識しているのです。

 リルケからコスモロジーへと話は発展してしまいました。



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永遠の真理を現わした風景:宇治興聖寺

2007年08月10日 | 歴史教育

 先日、四国の大学の集中講義に行く途中、京都に立ち寄って、この暑い盛りに、道元禅師の最初に建てた禅道場・宇治興聖寺に行ってきました。

 ここでは『正法眼蔵』のすばらしい巻がいくつも書かれています(場所は移転しているそうで、正確にはもう少し離れた場所のようですが、雰囲気は十分わかる気がしました)。

 特に「山水経」の巻の冒頭には、「而今(にこん)の山水(さんすい)は古仏(こぶつ)の道現成(どうげんじょう)なり、ともに法位(ほうい)に住(じゅう)して、究尽(ぐうじん)の功徳(くどく)を成(じょう)ぜり」(今ここの山と川には、永遠なる仏の道・真理・真理の言葉がありありと実現している。どちらも真理の位にあって、尽きることのない功徳を表現している)という名句があって、それは実際にはどういう風景を目の前にして語られたのか、行って自分の目で見てみたいと思っていました。

 宇治川は、そのほとりに有名な平等院もあり、まさに名勝の地でした(残念ながらお天気のせいかあまりいい写真は撮れませんでしたが、参考までに)。












 今回はいささか暑すぎて興聖寺まで20分(?)くらい歩くのもなかなか大変でしたが、薄日でかえってじっとりと暑い中、ペットボトルを片手に水を飲み飲み行ったかいはありました。











 ここは涼しい秋の紅葉の季節にでもぜひもう一度来たい所です。

 『源氏物語』宇治十帖の場所でもあり、興聖寺は紅葉の名所でもあるそうです。

 秋から中級講座で『正法眼蔵』「仏性」の巻を講義しますが、書かれた現場を見てきたことで、いっそう深く味わうことができそうな気がしています。



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