好きな詩・詩人3 吉野 弘

2007年07月28日 | 生きる意味

 吉野弘(1926~ )さんも、好きな詩人の一人です(手ごろな詩集に『吉野弘詩集』『続・吉野弘詩集』『続続・吉野弘詩集』思潮社がある)。

 次の詩は、コスモス・セラピーのワークショップで時々朗読させていただくことがあります。



   I was born


 確か英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げにゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに 連想しそれがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時僕は〈生まれる〉ということがまさしく〈受身〉である訳をふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱりI was born なんだね――父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
―― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に遇ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない語をした。――蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三目で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――

 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら或日、これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると、その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――



 人間はすべて「生まれた」のであって、「自分で自分を生んだ」人はだれもいません。

 それは、人間、という抽象的・一般的な言い方をするより、具体的な、ほかならぬこの私の出発点・原点です。

 出発点・原点を忘れていながら、「自分のことは自分がいちばんわかっている」などと思っている人がたくさんいます(かくいう私もかつてはそうところがありました)。

 私ではない人が私を生んでくれたことが私のいのちの原点です。

 そして、この詩が悲しみにとともに語ってくれているように、もちろんもっとも直接的にはお母さんなのですが、お父さんもいなければ生まれません。

 さらに、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、ひいお祖母ちゃんもひいお祖父ちゃんも……数え切れないほどのご先祖さまがいなければ、私は今・ここに生きていることはできない、のでしたね。

 I was born に気づくことは、ほんとうの自分を知ることの始まりだと思うのです。

 吉野さんの詩には、もっともっとたくさん好きなものがあります。また、いつかご紹介したいと思っています。


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コスモロジーへの典型的な反応 3

2007年07月25日 | 心の教育

 今から2年ほど前(2005年8月20日)に、このブログ授業を始めました。そこで次のように書きました


 大学で若者たちと接していると(アンケート調査も行なっています)、今の日本の若者――僕が接したかぎりでは――のおどろくほど多数が、元気がない、自信がない、生きてる意味がわからない、自分なんか生きていても死んでもおんなじだという気がする、よく死にたいと思う……と言っていることがわかります。

 それに対して僕は、なんとか、元気が出る、自信が湧いてくる、生きてる意味がわかる、生きてるって素敵だ、と思えるようになる授業をしようと努力してきました。

 そして、自分としては、かなり成功していると思っています。


 もちろん失敗例がないわけではありません。

 今年も、アンケートに「ひどい授業でした」と書いてきた学生が一人いました。

 私の積極的なアプローチ――時にはややきつ目に叱ることもあります――に反発を感じて、授業の中身を聞く気になれなかったのでしょう。とても残念です。

 こうした反発を招かないアプローチをもっと工夫できるといいなと思っています。

 しかしパーセンテージとしていえば、相当な成功をしてきているつもりです。

 小さい時から聞きたかった「ビッグ・クエスチョン(人生に関する大きな問い)」への答えを聞けたと感じてくれた学生もいます。

 次のケースは、社会学部1年の女子学生のものです(改行、表記に若干手を入れてあります)。


 私が「自分はどうして生きているのだろう」と考え始めたのは、ちょうど小学3年生のときでした。夜眠れないとき目をつぶり、私が生きている意味ってあるのかなと思うと、悲しくてたまりませんでした。今でも、泣き疲れて寝てしまうまで考えていたのを覚えているほどです。まるで宇宙のブラックホールに飲み込まれたかのように、私はただ、あてもない答えを探し続けました。

 考えても考えても自分が納得する答えはまったく見つからず、友人や親にも「自分がなぜ生きているのか」について悩んでいるなどと言ったら「どうせ馬鹿にされるだろう」と思い、ずっと自分の生きている意味をあいまいにしてこれまでの人生を生きてきました。

 でも、先生の講義を始めて受けてみて、もやもやとしていた私の視界がパァーっと明るくなるのを鮮明に感じました。最初は、自分の考えを宇宙レベルで考えていくことが少し難しかったですが、講義を重ねていくうちに少しずつ私の心の中のしこりも取れていきました。なかでも、「人間は一人なんかじゃない。だって百五十億年前から積み上げられた成果からできたのが君達ひとりひとりなんだから。自分も友達も植物も動物も建物も地球も、みんな元をたどればひとつの宇宙から始まったんだからね。」と言われたとき、落雷が落ちたような衝撃を受けました。

 今まで、私は「人間は一人で生まれ、孤独の中で一人で死んで、何もなくなる。」と、生命のつながりを全く意識せず、全てのものを個別で見ていました。ですが、先生の授業を受けてみて、何に対しても「つながり」を意識するように自分の心の中で心がけていきました。すると、「ご先祖様から伝えられてきた命がなかったら、今、私は生きていない。生きているだけでも素晴らしいことなんだ、せっかくの人生なのだし、新しいことに挑戦してみよう。」とだんだん視野が開けるようになってきて、自信も自然とつくようになりました。卑屈でいいかげんだった私の性格が、何事にも感謝できるようになったのは、先生の講義のおかげだと思います。もっと早く先生の講義に出会えてれば、私も生きる自信がもっとついていたかもしれません。

 私のように自分の存在価値や自信がなくて助けを求めている人がたくさん居るはずです。そんなときは、先生に教わったコスモロジーを教えてあげて、自信を一緒に回復させてあげられたらいいなと思っています。

 本当に先生には感謝しきれないです、ありがとうございました。後期の授業も引き続き楽しみにしています。


 ぜひ聞きたいことでありながら、「聞いても、どうせ答えてもらえないだろう」とか、もっとひどいと「聞いたら馬鹿にされるだろう」と思って、親や教師などまわりの大人や、友達にさえ聞けない、話せないままで、「ずっと自分の生きている意味をあいまいにしてこれまでの人生を生きてきました」という人がきわめてたくさんいます。

 聞かれた親や大人も答えをもたないまま、何とかやりくりして生きてきたという方が大多数でしょう。

 それは戦後日本――広く言えば近代――の文化状況・コスモロジーの状況からすると、やむをえないことだったと思います。

 しかし私の考えでは、そうした問いに答えることは大人の責任ではないかと思いますし、大人にも答えがないという状況は本質的にはもう終わっています。

 「大学の授業の中に、特定の価値観を持ち込むのはまずいのではないか」という批判もありうるでしょう。

 しかし私は、「特定の価値観を押し付けるのはまずいが、生きる意味を感じることのできるような価値観を、ありうる一つの価値観・一つの世界解釈のかたちとして提案することは、まったく問題がない。どころか、若者たちは大人に対して、切実にそれを求めている」ことを確認してきています。

 「私はこう思う。こういう理由でいいと思う」と提示・提案して、選択はもちろん自由に任せるのです。

 価値相対主義や脱構築が流行した時代状況の中で、そうしたはっきりした価値観の提示には出会ったことがないのでしょう。私のアプローチに初めて出会った学生の典型的な反応の一つは次のようなものです(同じく1年の女子学生)。


 初めて、この授業を受けたとき、「これはまさに宗教だ」と思った。「先生の考えに洗脳させられるのではないか」とも思った。

 しかし、2回、3回と授業を受け、また『生きる自信の心理学』を読み進めていくことで考えが変わっていった。先生が授業や本の中でおっしゃっていることは、すごく順序だっていて分かりやすく、私の中にスーッと入っていった。

 「私たちと宇宙が一体」だなんて初めのうちは理解できなかったが、ひとつ謎がとけるとスルスルとひもがとけていくように理解できたので、「私たちと宇宙が一体だ」ということを今では違和感なく受け止めることができるようになったと思う。

 たった半期の授業だけで、物事の考え方がこんなに変わった自分に驚いた。後期の授業を受けることによって更に考え方が変わるのかもしれないと思うと楽しみだ。


 もう少し、理論的な問題について論じておきます。

 確かに、教育の場に特定の価値観や、まして宗教の教義や特定の主義のイデオロギーを持ち込むことはきわめて危険です。

 客観的な知識の伝達にとどめておくほうが、一見妥当で無難に思えます。

 しかし、「生きることに意味はあるか。ないのではないか」という問いは、心理的・精神的、つまり主観的なものです。

 主観的なものへのアプローチを避けることによっては、子ども・若者たちの心理・主観としてのニヒリズムやエゴイズムの問題は解決できるどころか、悪化・深刻化していくだけです。

 教育つまり子どもを教え育む営みとして、それを放置することは妥当でも無難でもないのではないでしょうか。

 幸いにして現代科学のコスモロジー(の一つの解釈)を伝えることは、知識の部分ではきわめて客観的なものですし、加えて「あくまでも一つの解釈である」ことも伝えれば、特定の価値観を押し付け、思想・信教の自由に抵触する危険も避けることができます。

 とはいっても、教師-学生という関係性からして、こちらは意図していなくても押し付け的に機能してしまうという危険はゼロではないでしょう。

 しかし若者たちの心の状況を考慮すると、つながりコスモロジーという特定の価値観を押し付けることになる危険より、若者たちの心の荒廃がますます悪化・深刻化する危険のほうがはるかに問題だと考えるので、私はあえてこうしたアプローチを採り続けています。

 読者、とりわけ親御さんや教育関係のみなさんは、どうお考えでしょうか。



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好きな詩・詩人2 丸山薫

2007年07月24日 | 生きる意味

 丸山薫(1899―1974)は、若い頃から愛読してきた詩人の一人です(手近なものとしては思潮社版か弥生書房版の『丸山薫詩集』)。

 特に初期の『帆・ランプ・鴎』という詩集が独特の叙情性があって、好きです。

 その中から2つだけご紹介します。


    河 口

 船が錨をおろす
 船乗の心も錨をおろす

 鴎が淡水(まみず)から 軋る帆索に挨拶する
 魚がビルジの孔に寄ってくる

 船長は潮風に染まった服を着換えて上陸する
 夜がきても街から帰らなくなる
 もう船腹に牡蠣殻がいくつふえたろう?

 夕暮が濃くなるたびに
 息子の水夫がひとりで舳に青いランプを灯す


    帆が歌った

 暗い海の中で羽搏いている鴎の羽根は 肩を廻せば肩に触れそうだ
 暗い海の空に啼いている鴎の声は 手を伸ばせば手に摑めそうだ
 摑めそうで だが姿の見えないのは 首に吊したランプの瞬いているせいだろう
 私はランプを吹き消そう
 そして消されたランプの燃殻のうえに鴎がきてとまるのを待とう


 丸山薫さんは、生涯、海を愛し続けたようで、後期には次のような詩も書いています。


    海という女

 どんなに好きかは
 もりあがるその乳房の量ほどに
 或は また
 十万トンのタンカーをさえ揺さぶる
 その胸の熱いあらしほどに

 けれど なぜ好きなのかと訊かれても
 めったに理由など言えそうもない
 口ごもるばかりの僕を尻目に
 にわかに渦巻く水鳥の大群となって
 虹なすトビ魚の一団となって
 ごっそり地球の外に飛び立って行くだろう
 ウラヌスかネプチューンを指して

 おまえの居ない世界の
 想うさえ 死にもまさる荒涼さよ
 僕にとっては古びた恋い妻
 しかもなお 若い歌をうたいつづける
 おまえ 海という女


 コスモロジー的にいえば、海はすべての生命の故郷ですから、私たちが海に郷愁を感じるのは当たり前といえば当たり前です。

 しかしそう言ってしまっては、理に落ちるというものです。

 なぜ好きなのかと訊かれても、うまく表現しきれなそうで口ごもってしまうくらい好きなのが、ほんとうに好きということなのでしょう。

 最後の「僕にとっては古びた恋い妻/しかもなお 若い歌をうたいつづける/おまえ 海という女」という3行からは、作者がもちろん海を、そして実は奥さんをも深く深く愛していることがうかがわれて、とてもいい感じです。

 読んでいたら、私も海に行きたくなりました。

 そうだ、海に行こう!



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コスモロジーへの典型的な反応 2

2007年07月23日 | 心の教育

 次の感想も社会学部2年生の男子学生のものです。



 はっきり言って、自分もニヒリズム、虚無にとらわれた考えを持つ人間でした。

 131pページ(注:テキスト『生きる自信の心理学』)に書いてあるように、ばらばらの原子がおりなす一生命で、死んだら元に戻るだけ……とか、結局は自分で何とかしなければ、自分さえよければ……という近代科学の知識と個人主義からなる典型的なニヒリズムでした。

 自分が今まで20年かけて考えてきたことを、先生は1ページでさらっと分析していたので、少々ムッとするとともにおどろきました。

 結論から言うと、コスモロジーを知って良かった。全てのものはつながっていて、「意味の無い生はない!」と考えられるようになった。全てのものには母や父がいて、それをたどると宇宙にまでさかのぼる。夜空の星々と自分が同じ元素でできていると思うと何か感動するものがある。

 個人主義も見なおすべきと思う。今の自分は一人では決して存在せず、生きることすらできない。

 自分とこの世とのつながりはなんと強く複雑で、そしてあたたかいのだろうか。そう考えると自分をしばるニヒリズムが少し消えるのを実感した!!

 全ての因果や時の流れは全てつながっていて、自分もその一つで、さらに、これからも進化はつづく。そう考えると、少しは生きることに対する考えが、マイナスからプラスへと変化していくように思える。



 「自分が今まで20年かけて考えてきたことを、先生は1ページでさらっと分析していたので、少々ムッとするとともにおどろきました」と正直に感想を書いてくれています。

 私たちは社会的存在なので、自分の属しているその時代の社会の通念・常識をもとに「自分」「自分の考え」を形成せざるをえません。

 そして、それがあたかも社会の通念・常識とは関わりなく自分自身で作り上げた「自分独自の考え」であるかのように思い込みます。

 それは、「自分は自分である」という思い、つまりアイデンティティを形成するにはやむをえないことなのですが、いったん出来上がってしまうと、社会の通念に不都合がある場合、自分にも不都合がある――この場合ニヒリズムとエゴイズム――にもかかわらず、「自分独自の考え」-アイデンティティはなかなか変更できません。

 この学生のケースでは、「少々ムッと」した程度のわずかな抵抗で、比較的スムーズに、「結論から言うと、コスモロジーを知って良かった。全てのものはつながっていて、『意味の無い生はない!』と考えられるようになった」という肯定的変化が起こったようです。

 人によって、ほとんど抵抗なし、ただ驚きだけで変化するケース、多少抵抗はあってもやがて変化できるケース、抵抗が強くて「頭では納得しても実感が湧かない」というのから、「理屈はそうだが受け入れられない」、さらには「自分を否定されたようで腹が立つ」というケースまで、反応は多様です。

 私はいつも、「ぼくはとてもいいと思うし、臨床的にも非常にたくさんの肯定的変化のケースがあるので、強くお勧めしたいと思うけど、決してこれは強制じゃないからね」と言っています。

 それでも、「宗教の布教みたいだ」と言われることもあります。

 もちろん、万能でも、唯一でも、まして絶対でもないと思っているのですが、多くのケースから相当な効果があると判断できますので、ついつい強くお勧めしたくなってしまうのです。



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コスモロジーへの典型的な反応 1

2007年07月22日 | メンタル・ヘルス

 今日もレポート採点に明け暮れました。

 運動不足にならないように、合間にスクワットをしたり、腕立てをしたりしながら、でもほとんどデスクの前でした。

 1つ典型的な感想があったので、ご紹介したいと思います。

 社会学部2年生の男子学生のものです。


 私はこの授業を受けるまで間違いなく「ニヒリズム」と「エゴイズム」におちいっていたと思う。最初の講義での先生の「死んだらどうなると思いますか」という質問の時も、私は「死んだら無になると思う」に手を挙げた。その頃の私は、先生がおっしゃっていたように、死んだら無になってしまうのだから、今私が生きている事に意味はあるのか?とか、私とはいったい何なのだろうと思う事がよくあった。また死んで無になるというのは、やはり孤独のようなものなのだろうか?とも思った。

 しかし、この講義を受けて私の人生感は変わった。私の命には、価値があると思えるようになった。それに「死」というものの見方も変わったと思う。「死」とは、ただ元にあった所に帰るだけの事なのだ。それは、誰でも同じ所にかえるという事。つまり死は孤独ではないという事だ、と思うようになった。

 この講義では、興味深い事をたくさん知る事ができた。特に、私たちの体を構成している原子は、百五十億年も昔にできたものであるという話と、物はエネルギーに転換しうるという話だ。

 どちらの話も、科学的に確かな事なのであるが、私が今まで学んできた科学では、全くそんな事は教わらなかったので衝撃的だった。しかし納得のできる話だった。いい話を聞けたと思う。


 現代科学の定説をベースにして宇宙の始まりから私までを語るコスモロジー――の1つの解釈=「大きな物語」――は、若者の多くがおちいって、時には心の病(例えばうつ)にまで到るニヒリズムを克服することができる――場合が多い――ことは確かです。

 「科学的に確か」で、しかし「今まで学んできた科学では、全くそんな事は教わら」ず、「しかし納得のできる話」で、「いい話」で、「私の命には、価値があると思えるようになった」としたら、これはきわめてすぐれたセラピー的教育、教育的セラピーと自負していいのではないでしょうか。

 ぜひ、多くの若者のために多くの方に使っていただきたいと願わずにはいられません。



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環境・エコロジー教育とコスモロジー教育

2007年07月21日 | 持続可能な社会

 最近、環境のこと、持続可能な社会のことについて発言すると、「どうしたら、みんなが環境のことを考えるようになるんでしょう。いい環境教育の方法はないでしょうか?」という質問を受けることがよくあります。

 私が「地球環境も宇宙の一部ですから、コスモロジー-宇宙カレンダーを伝えることによって、エコロジー意識を育むことが可能だと思います」と答えると、なんだか具体性のない遠い話をしていると感じているような(と私には見える)表情をされる方がいます。

 しかし、学生たちの実際の反応を見ていると、コスモロジーを学ぶことでただ生きることの宇宙的な意味に気づくだけでなく、エコロジー意識に目覚めることも非常にしばしばです。

 典型的な実例として、以下、経済学部3年生の男子学生の「宇宙カレンダーについて」のレポートの感想を引用しておきます(数値の誤解が若干ありますが、全体としては大切なポイントをつかまえていると思います。改行等、少し手を加えてあります)。


 宇宙カレンダーを勉強して第一に感じた事は、地球への感謝の気持ちです。豊かな自然と生命を育む地球という存在の尊さを感じました。私たち人間は、地球の様々な恩恵を受けながら生きています。水、酸素、植物やその他、身の周りの多くのものが、人間の命を支えます。また、人間という存在自体が「進化論」においても、「食物連鎖」においても、地球という母体をもとに成り立っています。

 ただこれが地球上で構築されるにいたっては、途方もなく長い年月をついやしている事が、宇宙カレンダーの勉強によってわかりました。宇宙の歴史において、そもそも地球自体が誕生するまでが長い。1年におきかえると、8月末にようやく地球ができた事に驚きました。宇宙ができて60億年もかかったのです。そして、地球ができてから生命が生まれるまでに1年において1ヶ月(20億年)かかり、そして人が生まれるまでに4ヶ月(46億年)もかかりました。

 私たちが存在するまでに、壮大なストーリーが存在し、私たちの歴史なんかは、ほんのささいなものである事がわかりました。このように考えると、私たちが存在している事は、宇宙と地球の奇跡であるといえるので、今、私たちがこのように生活している事に感謝しなくてはいけないと思いました。

 いずれにしても、とてつもない時間があったという事であり、その事に感謝の念をはらうべきであるが、宇宙カレンダーからすると、ほんの1秒にもみたない期間の現代人が我が物顔で地球を支配し、無駄な戦争を起こし、地球環境を破壊しているのは、事実、130億年つみあげてきたものを、人間は一瞬で無にしてしまうという事です。人間の持つ宇宙レベルの影響力はすごいが、その力をもって地球をこわし、自分たちの存在をこわしてしまうのは、悲しすぎると思いました。

 私たちは、人間である事におごりが強い事を感じました。地球から恩恵を受けているにもかかわらず、人間は、地球を支配するものだと考えています。このように考えるのは、人間は、もの事をばらばらに考えているからだと思います。しかし、この宇宙カレンダーを勉強すると、すべてのものはつながっているのだという事が理解できました。

 そこで、人間は切っても切れない存在である地球をもっと大切にすべきだと強く感じました。私自身も、もの事の「つながり」という事を自覚して、おごりをすて、助け合いを大切にし、謙虚に生きていかなくてはいけないと思いました。


 コメントしておくと、まず1つ、最後のほうで、「この宇宙カレンダーを勉強すると、すべてのものはつながっているのだという事が理解できました。/そこで、人間は切っても切れない存在である地球をもっと大切にすべきだと強く感じました」と書いているところが重要だと思います。

 宇宙のすべてとのつながりの理解は、より身近な存在としての地球とのつながりの理解、さらに理解だけではなく、「私自身も、もの事の「つながり」という事を自覚して、おごりをすて、助け合いを大切にし、謙虚に生きていかなくてはいけないと思いました」と書かれているように、自分自身の生き方への決意をももたらしているようです。

 授業を受け、テキストを読んだ時点での理解、感動、決意がどのくらい持続するか、効果の持続性についてはフォローアップの調査はあまりできていませんが、少なくともスタートとしての気づきをもたらしていることはまちがいないと思われます。

 環境・エコロジー教育に関心のある方に、ぜひ、コスモロジー教育にも目を向けていただきたいと願っています。



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授業効果――質か量かの悩み

2007年07月20日 | 心の教育

 昨日で、2つの大学、サングラハの2つの講座が終わりました。

 大学の授業は終わっても、これから2種類約1200通のレポートを読むというワークがあります。

 すでにたぶん200通くらいは読んであるのですが、それにしてもまだ1000通くらいです。

 毎年、これはかなりの重労働という感じがあると同時に、授業を受けることによって大きくポジティヴに変化したという学生たちの感想を読むことは大変な喜びでもあります。

 そういう意味では毎年アンビヴァレンツです。

 特に、ぎりぎりまで授業に来ていなかった学生がレポートのためにおそらく必要に迫られてしかたなくテキスト『生きる自信の心理学』を読み、それだけでもかなりの人生観の変化を遂げる(らしい)のを見ると、できるだけ多くの学生に受講してもらったほうがいいかとも思い、しかし体験的ワークに積極的に参加しない――ということは十分にはやる気のない――学生が多いので、そういう学生まで抱えてこういう大変なレポートの採点をするのもちょっとしんどいなあとも感じ、次はどうしよう、どのくらいの人数引き受けようか、選抜をしようか、抽選にしようか、それともやっぱり単位がほしいだけの学生でも来る者は拒まずでいこうか、と悩むのです。

 個々人への効果としては、やはり体験的ワークに参加したのとしないのでは大きな違いが出ます。

 この6月に集中講義をしてきた青森の大学では――ここは抽選で少人数です――きわめて大きな効果が確認できました。

 終了後のアンケートでは、最後の設問「授業を受けたことによって、人生観・世界観にプラスの変化があったと感じていますか。1から10までのスケールで表現してください。もし、変化はなかったと感じたら、0、マイナスの変化があったと感じていたら、マイナス1からマイナス10までのスケールで表現してください」に対し、受講者32名の回答は、

  10……18名・56パーセント
   9…… 4名・13パーセント
   8…… 5名・25パーセント
   7…… 1名・3パーセント
   6…… 0名・0パーセント
   5…… 3名・9パーセント
  無回答… 1名・3パーセント

という結果でした。

 感想として、例えば

「今までの人生観・世界観が180度変わりプラスの変化がおこった。全く違う方向を見ていた自分の視線を自分を見つめ直す方へと変化したため、新たな自分を発見でき、ほんとうの自信を持つことができた」、

「今思うと、受講する前の気持ちというか心というか、あれは一体何だったのかと思った。社会的な心とでもいえばいいのだろうか? 要するにつくられた心しか持っていなかった。しかし、受講後は、自分の心をもてるようになり、先生がおっしゃっていた通り、360度くらい見る目が変わりました」(筆者注: 360ではなく180度だと思いますが)、

「はじめはあまり信じれなかったが、だんだんひきこまれた。私たちはすごい確率で当選し、先生のような人に講義をして頂いてすごくラッキーです。自分をもっと信じたいです」、

「本当に感動した。宇宙の講義の日、私は誕生日でした。生まれた日に、自分がなぜ生まれたかという壮大なスケールの話を聞き、己の命を見つめ直しました。宇宙が一つのエネルギーから始まり、我々が生まれた。求められて生まれた。それを考えるだけで元気になりワクワクします。本当にありがとうございました。またどこかでお会いしたいです」

など、うれしい言葉がたくさんありました。

 効果として、10~7の累計が87.5パーセントであるのはこれまでとほぼ同じですが、10が56パーセントというのは驚くほど顕著な増大です(これまでは平均25パーセント程度でしたから)。

 これはその時の参加者による偶然の違いという面もあるでしょうが、それだけではないと思います。

 推測されるのは、まず、今年度からコスモス・セラピーの手順として、先に宇宙カレンダーのレクチャーによる宇宙的自信の確立、それから個人的なレベルの自信の確立というふうに順序を逆にしたのが期待どおり効果的だったのではないかということです。

 それから、ほぼ丸1日を2週連続、そしてその後にレポートを書くために再度テキストを読むというのが、集中とインターヴァルの効果としてよかったのではないかという感じも受けました。

 もう1つ、これは今年だけのことではありませんが、他の大学と違うのは、この大学は八甲田山麓にありキャンパス内にすばらしい森があるという恵まれた環境にあって、「場の力」がとても大きいということもあると思われます。

 コスモス・セラピーは、インストラクターの力だけでなく、美しい自然環境の力を借りられることがきわめて望ましい(絶対不可欠ではなく、画像や音楽で一定程度補えるにしても)ということを改めて感じました。

 もちろん少人数で、教師=インストラクターの目が届きますから、全員いやおうなしにワークに参加せざるをえないという条件も大きいことはまちがいありません。

 そして最初は半信半疑でも、あまりやる気がなくても、実際にワークをやってみると効果があるのです。

 こうした結果を見ると、やはり受講者を少人数に絞って高い効果をあげるか、それともある程度の効果であっても多数に伝えるか、と迷ってしまうわけです。

 それにしても、インストラクターがたくさん育って、全国あらゆるところで、たくさんの人に伝えてくれるようになれば、こうした悩みはなくなるんですが……。

 だれか、目指しませんか。

 ……それはともかく、当面どうするかは、しばらく瞑想して決めることにしましょう。



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地震お見舞い申し上げます

2007年07月16日 | Weblog

 朝からずっとテレビを見ていなかったので、ついさっきになって新潟の地震のニュースを知りました。

 昨日の台風といい、今日の地震といい、天災が続いていて、科学的にいえば、台風の大型化はまちがいなく温暖化が原因であり人間に責任があり、地震は地殻の変動の問題で責任はないという違いはあるのですが、ともかく人間の傲慢さへの大自然からの警告という感じがしてなりません。

 しかし、必ずしも責任の重い、強い人間ではなく、しばしば直接責任のない、弱い方が被害に遭われることには不条理さも感じずにはいられません。


 被害を受けられた方に、心からお見舞い申し上げます。

 ショックや疲れで体を壊されませんように、一日も早く復旧できますように、心を込めてお祈りさせていただきます。

 また、亡くなられた方のご冥福を心からお祈りさせていただきます。

 読者のみなさん、何はできなくとも、せめてご一緒にお祈りしましょう。
 
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好きな詩・詩人1 長田弘

2007年07月15日 | 生きる意味

 最近、時々、「どういう詩・詩人が好きなんですか」とか、「どういう小説を読んできたんですか」いう質問を受けることがあります。

 若い人が、私の読んできたものに関心を持ってくれるようなので、ちょっとばかりうれしくなってきて、少しずつお答えしようかな、という気になっています。

 挙げはじめると止まらないくらいいろいろたくさんある・いるのですが、最近、コスモロジーの授業の時、コスモス・セラピーの時、時々読むことがあるのが次の詩です(『長田弘詩集』ハルキ文庫より)。

 作者は、長田弘(おさだひろし、1939年福島県生まれ)さん。とてもわかりやすい、ダイレクトに心に沁みてくる詩があります(もっとむずかしい詩も書く「現代詩人」でもあるようですが)。


    最初の質問


 今日、あなたは空を見上げましたか。空は遠かったですか、近かったですか。雲はどんなかたちをしていましたか。風はどんな匂いがしましたか。あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか。「ありがとう」という言葉を、今日、あなたは口にしましたか。
 窓の向こう、道の向こうに、何が見えますか。雨の雫をいっぱい溜めたクモの巣を見たことがありますか。樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、立ちどまったことがありますか。街路樹の木の名を知っていますか。樹木を友人だと考えたことがありますか。
 このまえ、川を見つめたのはいつでしたか。砂のうえに坐ったのは、草のうえに坐ったのはいつでしたか。「うつくしい」と、あなたがためらわず言えるものは何ですか。好きな花を七つ、あげられますか。あなたにとって「わたしたち」というのは、誰ですか。
 夜明け前に啼きかわす鳥の声を聴いたことがありますか。ゆっくりと暮れてゆく西の空に祈ったことがありますか。何歳のときのじぶんが好きですか。上手に歳をとることができるとおもいますか。世界という言葉で、まずおもいえがく風景はどんな風景ですか。
 いまあなたがいる場所で、耳を澄ますと、何が聴こえますか。沈黙はどんな音がしますか。じっと目をつぶる。すると、何が見えてきますか。問いと答えと、いまあなたにとって必要なのはどっちですか。これだけはしないと、心に決めていることがありますか。
 いちばんしたいことは何ですか。人生の材料は何だとおもいますか。あなたにとって、あるいはあなたの知らない人びと、あなたを知らない人びとにとって、幸福って何だとおもいますか。時代は言葉をないがしろにしている――あなたは言葉を信じていますか。


 最初にこういう質問をされては、たまりませんね。自分がどう生きているか、根源的に問われてしまいます、それも責める調子ではなく、とてもやさしく、しかしやっぱり結局はきびしく……。

 私は、ただ何となく生きているか、それともよく生きているか、それはどちらであろうと自分の自由な選択に任されていることではありますが、しかし何かから問われていることでもあると思うのです。

 今日、私はよく感じ、よく考え、よくコミュニケーションをし、よく働き、よく生きただろか?



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ワークショップ案内

2007年07月11日 | Weblog

 生きる自信の心理学=コスモス・セラピー   ワークショップ


 サングラハでは、これまで独自のプログラム、「コスモス・セラピー」を体験していただくワークショップを数多く行ない、大きな反響をいただいてきました。社会人プログラムでも、いくつもの大学の授業でも、顕著な効果をあげています。

 テーマは、ほんとうの「生きる自信」。人間は生きているだけで価値がある、自信をもっていい、もつことができるということを、現代科学や心理療法をベースにした深い根拠に基づいた理論とシンプルでしかも効果の高い体験的ワークで、理解し実感していただけるでしょう。

 ここのところ主幹の他の仕事の多忙さのため、しばらく中断していましたが、久しぶりに夏のワークショップを開催します。内容は、さらにヴァージョン・アップされ、いっそう充実しています。
  
 自信・元気を失っている生徒、学生などを何とかしてあげたいと思っている指導者の方・親ごさんにも、自分自身が自信・元気を得たいと思っている方にも、どちらにもきっと役に立ちます。

 今回の場所は、伊豆でももっとも砂浜の美しい弓ヶ浜です。とても明るくてのどかな、ワークショップにふさわしい場所、体も心も癒されるでしょう。ぜひ、お出かけください。


●日時:9月1日(土)午後1時~2日(日)5時頃

●場所:静岡県賀茂郡南伊豆町弓ヶ浜612 温泉民宿「ひがし」
    TEL& FAX 0558-62-0739  HP:http://www.minami-izu.net/higashi/

●参加費:一般2万6千円、会員2万3千円、
      準学生(専業主婦、フリーター、年金生活、社会人半年以内)2万1千円、
      学生・無職の方1万9千円、1泊3食付き、交通費自己負担。

●テキスト:岡野守也『生きる自信の心理学』(PHP新書、700円+税)。

●持参品:筆記用具、軽い運動のできる服装・靴、寝転べる広さのシート、懐中電灯

●お申込みは、〒251-0861藤沢市大庭5055-6-2-18-1831 岡野へ
E-mail: okano@smgrh.gr.jp または Fax. 0466-86-1824 で。

* 募集定員まであと1名のみとなりました。ご希望の方は早めにお申し込み下さい。


         コスモスワーク  伊豆弓ヶ浜 参加申込書

氏名                男・女 生年月日19  年  月  日生
おところ  〒                               
                                      

電話      メールアドレス     携帯番号      携帯アドレス

一般・会員・準学生・学生・無職(○で囲んでください)
お支払方法 銀行振込・郵便振替・現金封筒      月  日頃支払い予定
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「ミュルダール入門?」を見つけた!

2007年07月11日 | 持続可能な社会

 またまたインターネットの恩恵にあずかりました。

 「ミュルダール」で検索していたら、藤田菜々子氏(名古屋大学)の「ミュルダールの福祉国家論」という論文に出会いました。


 論文調なので、「だれでもわかるミュルダール経済学入門」というわけにはいきませんが、ていねいに読んでいくと、論旨は明快でとても参考になりました。

 ここで藤田氏に心から感謝申し上げたいと思います。

 みなさんもよかったら読んでみられませんか。

 一部だけ、読者のみなさんの参考に引用させていただきます(改行は筆者)。

 「1930年代において,ミュルダール夫妻は,スウェーデンの福祉国家形成過程のとりわけ思想面において大きな役割を果たしたことがしばしば指摘される。

 当時のスウェーデンでは,出生率低下という人口減少問題が社会問題として深刻に受け止められつつあったが,ミュルダールは妻アルバとともに共著『人口問題の危機』(初版1934年)を出版し,政策論を展開した。

 ミュルダール夫妻の基本的主張は,出生率低下の原因は経済的な困難にあるが,それは働く機会があるのに出産のためにはそれをあきらめなければならないというような困難であるということであった。

 彼らは,子供を持つことに対する社会経済的困難は取り除かれなければならないという見解に基づき,事後的あるいは対症療法的ではなく,事前的かつ普遍主義的・平等主義的な社会政策としての「予防的(preventive, prophylactic)社会政策」の必要性を訴えた。

 そこには理念的にスウェーデンの普遍主義的福祉政策の原型が現れていたと評価される。」

 つまり、ミュルダールは、

①「スウェーデンの福祉国家形成過程のとりわけ思想面において大きな役割を果たし」、

②かつ「『予防的社会政策』の必要性を訴え」、

③さらに「そこには理念的にスウェーデンの普遍主義的福祉政策の原型が現れていたと評価される」のだそうで、

 どうもそんなことはその世界(経済学界? 福祉学界?)では「しばしば指摘される」ような常識だったようです。

 うーむ、残念、私は知りませんでしたが。

 「知るを知るとなし、知らずを知らずとなせ、これ知るなり」(孔子)なので、知らないことはこれから勉強して知ることにします。

 なんだか、もう一度学生に戻った気分です(この分野については学生も学生、一年生みたいなものですからね)。

 しかし、学生ではないので、一言文句を言います。

 こんなに翻訳や研究はなされているようなのに、なぜ、市民の耳に届いて、日本の政治の現場に活かされるような〈生きた知〉にならなかったのでしょうね。

 そんなことはない、要するに私が知らなかっただけ、なんでしょうかねえ。




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福祉国家の経済学・ミュルダールの翻訳書

2007年07月09日 | 持続可能な社会

 スウェーデンの福祉国家建設を支えた(らしい)ストックホルム学派=スウェーデン学派経済学・社会科学の代表選手ミュルダールという人について、名前しか知らなかったのですが、調べてみると、随分昔(戦前)からちゃんと翻訳は出て紹介されていたのですね(これは「日本の古本屋」サイトで見つかった範囲)。残念! 知らなかった。

 でも、これでとりあえずスウェーデン語は読めなくても、ある程度、というかかなりの程度学べることがわかりました。よかった!

 『経済学説と政治的要素』日本評論社、1932
 『人口問題と社会政策』協和書房、1933
 『福祉国家を超えて』ダイヤモンド社、1963
 『豊かさへの挑戦』竹内書店、1964
 『社会科学と価値判断』竹内書店、1971
 『貧困からの挑戦』竹内書店、1971
 『アジアのドラマ――諸国民の貧困の研究』東洋経済新報社、1974
 『反主流の経済学』ダイヤモンド社、1975
 『経済理論と低開発地域』東洋経済新報社、1975

 うーむ、なんだか面白そうだけど、これだけ読んで理解するにはかなり手間暇かかりそうだなあ……ま、徐々にやるか。

 誰か、一緒にやりませんか。

 誰か、すでにしっかりとやっている、私たちに要点をわかりやすく教えてくれそうな経済学者を知りませんか(私も探してみますが)。

 『よくわかるミュルダール経済学入門』とか『だれでもわかるスウェーデン学派経済学入門』なんて文献はないんでしょうかねえ。




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水滴と道元禅師と

2007年07月07日 | 生きる意味





 ある方にご紹介いただいて、大本山永平寺の『傘松(さんしょう)』という雑誌に、「持続可能な社会――環境と心の問題」(仮題)といったテーマで8月号から2年間連載させていただくことになりました。

 道元『正法眼蔵』を長い間学んできて、『道元のコスモロジー』(大法輪閣)という本も書き、今も中級講座で「看経」の巻の講義をしており、最近は曹洞宗の布教師会の講師をさせていただくことも多く、福岡の曹洞宗のお寺で年4回の仏教講座の講師や法話もさせていただき、この夏は大船の曹洞宗のお寺でも法話をさせていただくことになるなど、道元禅師-曹洞宗とのご縁がどんどん深まっています。

 日本の精神文化の伝統を日本人全体に再発見してもらうためのもっともふさわしい担い手として、僧侶の方々――これまでのご縁で特に禅宗の方々――に期待するところが多いので、とても喜んでいます。

 雑誌のタイトルはたぶんここから来ているのかなと思ったこともあって、久しぶりに道元禅師の歌集『傘松道詠(さんしょうどうえい)』を開いてみました。

 頁を繰っていて、雨の季節にふさわしい歌があったのを思い出しました。


 聞くまゝにまた心なき身にしあらばをのれなりけり軒の玉水


 無心に聞いていると軒から落ちる雨の滴と自分が分離していない、一体であることが感じられた、というより、一体であることに気づいたというのです。

 「聞くままに」というのは、聞くことのありのまま・如ということで、そこに自分の損得や好き嫌いといった私心を交えないでありのままに聞くと、聞いている私と聞かれている雨の滴の音がもともと一体の宇宙・悉有(しつう)であったことが気づかれるのです。

 「心なき身」と表現しているところに「身心学道(しんじん学道)」、全心のみならず全身を挙げて修行することを重んじられた道元禅師らしさが感じられます。

 「をのれなりけり」の「けり」という言葉に、気づきが「そんなこと前から知っている」というふうな我見・我慢のない、そのつど新たで新鮮なものであることが表現されていると思います。

 気づき・覚りは一回で終わりではなく、絶えず新たにより深く、ということなのではないでしょうか。

 それが禅師の言われる「修証一等(しゅしょういっとう)」、修行と覚りは1つであるということ、「仏向上(ぶつこうじょう)」ということなのではないか、と私は捉えています。

 説明はともかく、とても新鮮で透明感のあるいい歌ですね。

 もっとも、もしかするとこれは、梅雨時の雨の滴ではなく、雪国の春先、解けるつららの滴の音の歌なのかもしれませんが、いずれせよ、音だけではなく、丸くて透明できらきら光っている水滴の様子までありありと目に浮かぶような歌です。

 『新古今和歌集』の選者であった父や祖父(? 説が確定していないようです)の血をひいた道元禅師の感性・詩人性がよく現われていると感じられます。



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うつが完治したケース

2007年07月05日 | メンタル・ヘルス

 これから大学生たちに「生きる自信」を得てもらうための授業に出かけるのですが、出がけにちょっと時間があるのでブログを見ました。

 どんな人が読んでくれたのかを知りたいので、時々「アクセス解析」の「アクセス元URL」のところを見て、場合によって元のブログを見させてもらうことにしているのですが、今日もうれしい記事が発見できました(かなり前のもののようですが)。

 そこにはうつが完治した報告が以下のように書かれていました。

                  *

鬱になった背景は色々あるから割愛。
というか、自分では把握しておきたいけど、
未だ謎なのでまた説明しづらい。
けど、治ったことについては理由がわかる。

いくつかあるので書いておく。……
・元気になるブログ
このブログに出会ったことが一番大きかったかも。
この人のことは何も知らなかったけど、
滅多にネットサーフしない私が、本当にたまたま。
ここに書いてあることが全てそのまま、
ってわけじゃないと思ったけど、
唯一つだけ私が納得したことがある。
それがすごいキッカケだった。

「生きてることに意味がない」ってこと、
ずっと思ってた事に気づいた。
死して無へ還るとして、生きる意味があるのかって。
そこから先へ考えは及ばなかった。
多分これがすべての元凶だったと思う。

まぁ、意味があるなどと大そうなことはいえなくても、
私が存在しているのは事実だし、
していけないわけでもないし、
大きな流れで見ればこれも必要なことなのかもしれない。
それに意味があろうとなかろうとあんま関係ないんだな。

それだけ。たったこれを理解しただけ。
一番大きいのはこれ。ほんとにこれ。
自分でもわかった。急に空が晴れた。
こうやって言葉にすると嘘っぽいけどね。

あとはこれに休養があれば完璧だったかも。
……
そして感謝の対象者はいっぱい。
見捨てないでついてきてくれた友人たち。
あとは……見守ってくれていた両親に感謝。
……
                   *

 よかった、よかった。

 自分としてはかなり時間を使って努力して書いたつもりの記事がお役に立ててよかった。

 うつが治った唯一のきっかけではないけれども、「このブログに出会ったことが一番大きかったかも」とのこと。

 書いた甲斐がありました=報われました=つまりあなたから精神的報酬をいただきました。有難う!

 これからも元気でいてください。そしてできたら、子ども(の世代)が元気でいてくれることが、親(の世代)の最大の喜びであることを覚えていてください。

 コメント欄がなかったのと、みなさんにも紹介したかったので、勝手に私のブログ記事に引用させていただきました。



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ストックホルム学派=福祉国家を創り出した経済学

2007年07月04日 | 持続可能な社会

 知らないことは調べればいいというのは、当たり前なのですが、なかなか実行しないことがあります。

 めんどくさがって、誰か知っている人に教えてもらいたがったりします(私の場合)。

 しかし今回、スウェーデンの福祉国家実現を支えた経済政策の理論的源泉になっているらしい「ストックホルム学派」については、とても気になったので、ふと「もしかすると」と思って、今朝、「ウィキペディア」で検索してみました。

 検索すると、あった、あった、「スウェーデン学派」という項目にちゃんとありました。それにしてもインターネット情報は便利になったものです。

 「スウェーデン学派は、19世紀末から20世紀前半にかけてのスウェーデンの経済学者の一派であり、彼らの考え方を一括してスウェーデン学派と呼ぶことが多い。クヌート・ヴィクセル、グスタフ・カッセルなどストックホルムを中心として活躍した経済学者たちの流れをくむ人々が多く、ストックホルム学派あるいは北欧学派と呼ばれることもある。……カッセルの業績はその後、ベルティル・オリーンやグンナー・ミュルダールによって展開されていった。」

 なるほど、と思って続いてミュルダールを検索してみました。

 「ミュルダールは1898年にスウェーデンのダーラルナ県ガグネフで生まれた。ミュルダールは1933年から1947年までストックホルム経済大学で経済学の教授として教壇に立ち、さらに1945年から1947年までは通商大臣としても活躍した。」のだそうです。

 さらに、「不況期に景気を刺激するための財政赤字を好況期に黒字で相殺していくという反循環政策を理論的に初めて支持した1933年の財政法案の付属文を執筆した。これはジョン・ケインズ以前のケインズ政策とも呼ばれている。」

 「またミュルダールは新古典派経済学を強く批判し、1960年の『Beyond the Welfare State(福祉国家を越えて)』で福祉国家思想を展開した。」

 これで、1つ謎が解けました。

 スウェーデンの福祉国家実現――それがベースになってさらに私たちのテーマである「緑の福祉国家」という話になるわけですが――にはちゃんと経済思想の裏づけがあったのですね。

 日本の経済政策の背後には「新自由主義経済学」があり、スウェーデンの経済政策の背後には「ストックホルム学派経済学」があった、と。

 これからの日本を「持続可能な国・緑の福祉国家」にしたいと思っている私たちにとって、どちらの理論をガイドとして選択するべきかは、言うまでなさそうです。

 こなせるかどうかわかりませんが――もう「半端で行く宣言」はしたので楽な気分で――ミュルダール『豊かさへの挑戦』(竹内書店、1964年)でも読んでみようかと思っています(「日本の古本屋」サイトですぐ見つかりました)。

 それにしても、どうして学生時代に発見しておけなかったんでしょうねえ……時代のせいもあって、マルクス、エンゲルス、レーニンなどなどは読んでいたんですけどねえ。



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