般若経典のエッセンスを語る48――六波羅蜜にあって八正道にはない「布施」

2022年11月04日 | 仏教・宗教
 強調点がぼやけてしまっているので、この前の部分では特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、次には、やはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならないことを述べていく。

 「大乗」はサンスクリット語で「マハーヤーナ」という。「マハー」は「大きい」、「ヤーナ」は「乗り物」という意味で、音を漢字に移して「摩訶衍(まかえん)」となっている。日本語では「えん」と読むが、かつては「ヤーナ」に近い中国語の発音だったのだろう。

 一般的な仏教知識では、大乗はそれ以前の派を「小乗(ヒナヤーナ)」と呼んで全面的に批判・否定しているかのように語られることが多く、正直なところ筆者も般若経典をしっかり読み込むまでは、何となくそういうふうに思ってきた。

 しかし、以下は、大乗がそれ以前の部派仏教(小乗)をただ否定するのではなく、いわば「含んで超える」ことを明らかにした個所(『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」)で、すなわちはっきり大乗にはそれ以前の派の修行の基本である「八聖道(八正道)」が含まれると語られている。

 また次にスブーティよ、菩薩大士の大乗とは、いわゆる八正道である。何を八とするかというと、正しい見解、正しい考え方、正しい言葉づかい、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい禅定である。これを菩薩大士の大乗と名づける。実体として把握することができないからである。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは、所謂八聖道分なり。何等をか八となす。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。是を菩薩摩訶薩の摩訶衍と名く。不可得を以ての故に。

 念のためにコメントしておくと、ここでの「正(しょう)」・正しいという字は、論理的に正しいとか倫理的に正しい、ごく常識的な善悪について正しいといったふうにごく平凡な意味に取られることが多いようだが、そうではなく「縁起の理法に適っている」という意味に読み取る必要がある、と筆者は考えている。

 つまり、仏教の正見・「正しいものの見方」とは、何よりも「縁起の理法に適っている見方」という意味である。だから、ものを見る時には、縁起の理法に適った、すなわちつながりを見る見方をするということだが、単にそれだけではなく、よりトータルにすべてを必ず関係性・つながりで見ていこう、ということである。

 そして、人間は言葉で生きる動物だから、そのつながりをしっかりと自覚した言葉の使い方をしようというのが「正語」である。
 日常的に言うと、例えば誰かの顔を見た瞬間に、その人とのつながりをちゃんと自覚し、世間的には他人であろうとなんであろうと、人間である以上は、生き物である以上は、宇宙である以上はぜんぶつながっているのだとちゃんと考えられると、当然「こんばんは」「お元気ですか」といった、相手とのつながりを確認する言葉が出てくるはずである。だから日常的にそういうつながりを確認したり作っていったりする言葉を使うように心がけるのである。
 それに対し、「バカヤロー」とか「死んでしまえ」などというのは、まさに正語の逆さまである。今、いじめが問題になっているが、それは存在の本質が縁起の理法であることを現代の社会が標準的にまったく忘れているからで、それどころか社会が分別知で営まれていて、個々人がバラバラで存在し、しかも競争しながら「勝ったものは勝ち、負けたものは負け。それは当然だ」という考え方・分離思考でいる中で、人に声をかけると、もっとも極端には「死ね」といった言葉になってくる。まさに正語の反対である。
 そういう言葉ではなく、シンプルに関わりを確認し、関わりを深め、関わりを作っていく言葉を使うよう日常心がけるのである。

 それから特定の行為としても、関係・つながりを深める行為をするのが「正業」である。

 そして、特定の行為だけではなく人生・生活すべてをそうするのが「正命」である。

 縁起の内容を二つに分けると「縁生」「縁滅」になる。すべてのものは縁によって生じ、縁によって滅する。つまり縁があって生まれてくるけれども、その縁の結び目が解けると現象としては消えていく。縁起の中身は縁生と縁滅であり、それは時間の中で見ると「無常」ということになる。
 であるから、縁起の世界は必ず無常の世界であり、個体としての私たちに与えられた時間は有限である。すると無駄にしていい時間はほんとうには一秒もないということになる。だから縁起の理法を覚り、縁起の理法にふさわしく見、考え、語り、行為をし、人生そのものを縁起の理法に沿わせていくことに、わき目も振らずまっしぐらに一所懸命でなければならない。それが「正精進」ということである。
 分離思考・分別知によって、私の幸せが人生でいちばん大事だと思い、私の幸せ・私の夢のために一所懸命になる人はたくさんいるが、それは精進ではあっても正精進とは言わない。精進にも「正精進」といわば「邪精進」があるわけで、現代人の努力の大半は、縁起の理法に照らして厳密に言えば邪精進ということになるのではないか、と筆者は感じている。

 さて、私たちはこうしたことを学ぶけれども、残念ながらアラブの諺に「神々は記憶する。されど人間は忘れる」とあるように、人間とは忘れてしまう生き物で、しかも大事なことほど忘れがちな生き物である。
 なぜ忘れるかというと、私たちの心は主として分別知で動いているので、分別知ではないことを教わって憶えたつもりでも、ふだんは主に作動している分別知の言葉が巡ってしまい、無分別知から生まれてきた言葉・智慧が覆われ忘れられてしまうのである。
 だから、それを忘れないようにしようというのが「正念」である。縁起の理法にいつも気づいているように、と。
 これはたまたま当てた漢字がとてもよく当てはまっているということだが、「念」は「今の心」と書く。昔勉強をしてわかったつもりでも、今念頭にないと役に立たない。だから「すべてがつながって一体だ」ということを学んで「なるほど、そうか、それはそうだな」と納得したとか、そのときに感激したというのはベースになるが、そのことに今気づいているのが「正念」である。

 しかし人間の心は、無意識のところからまさに無明・分別知で作動している。パソコンに譬えると、要するに無明がOSなのである。だから、どんなにいいソフトを入れてもどこかで誤作動を起こす。もちろんパソコンほど単純ではないが、譬えてわかりやすく言えば、そういうことである。
 だからOSを取り替えなければならない。無明のOSをアンインストールして正しい智慧のOSをインストールし直すための作業が禅定であり、縁起の理法を全心身化・無意識化するための「正定」である。

 先に引用した個所で、この八正道を大乗も踏襲するとあった。しかし、実は大乗の基本的な実践の項目である六波羅蜜には大乗が付け加えた決定的に異なる項目がある。
 よく知られていることだが、改めて六波羅蜜の項目をあげておくと、「布施・施すこと」「持戒・戒律を守ること」「忍辱・辱めを忍ぶこと」「精進・努力すること」「禅定・瞑想をすること」「智慧」の六つである。八正道に対してどこが決定的に違うかというと、八正道には布施がない。一方、六波羅蜜は最初に「布施」があるのである。
 つまり、私は他の人とほんとうはつながっているのだが、いちおうは区別があって他人に見える。そういう人に、実はつながっていることを、行動をもって確認し、つながりを作っていくのが布施の本質であり、いわば慈悲のエクササイズである、と筆者は理解している。
 もちろん八正道は縁起の理法を自分のものにするための方法論であるが、大乗ではそれがもっと積極的に「布施」という形で含まれている。八正道の正業や正命が布施に該当すると言えなくもないが、非常にはっきりと、しかも実践方法の最初に据えられているというのが、大乗とそれ以前の仏教、大乗からすると「小乗」との大きな違いだと思われる。

 そして最終的に目指すところは、六波羅蜜では智慧で、その手前に禅定があるが、八正道では最後に正定つまり禅定が来ている。つまり、禅定を通じて智慧に到ることを目指すのが大乗の六波羅蜜である。
 そして、大乗の智慧はただ智慧にとどまらずそこから必然的に慈悲が生まれるのである。

 部派仏教の文献と大乗仏教の最初である般若経典を比較しながら推測するのだが、これはおそらく瞑想の仕方が変わってきた、あるいは深まってきたことを示しているのではないか、と筆者は推測している。
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般若経典のエッセンスを語る47――智慧と慈悲のバランスを

2022年11月02日 | 仏教・宗教

 最初のほうで、大乗仏教は一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」であること、そして智慧は空・一如に裏づけられていることを述べた。

 日本では明治以降、もっとも典型的には京都大学の哲学科の主任であった西田幾多郎が、坐禅の実践をベースにした思索によって、西洋の哲学の概念と、禅の空いわば東洋を、ひとつの哲学に統合して体系づけるという仕事をした。西田の最初のまとまった著作は『善の研究』であり、それ以後の著作も含め次第に日本の知識人・教養人たちの教養書・基本図書になっていった。そのように、日本の仏教に関する文化全体の中核の一つに京都学派宗教哲学があり、その源泉に西田幾多郎という人物がいて、さらにその背後に臨済禅がある。

 そこでなされた「無」や「空」という概念の哲学的な詮索、およびそこから出てくるさまざまな文化的なムードがあったため、これまで仏教は智慧・空のほうに重点を置いて理解されがちだったのではないだろうか。

 そしてそれが通俗化すると、空や無などといったことをお説法などで聞きながら、それは例えば「無欲である」とか「自己主張がない」という意味での「無我」であるとされ、一種の心の安らぎを与えるものとして仏教が捉えられるというところがあったと思う。

 そうした文化の流れの中で、大乗仏教の基本でありながら、焦点が非常にぼやけてしまったのが「慈悲」である、と筆者は捉えている。

 そこで、般若経典の最大の『大般若経』六百巻の中で、慈悲の実践として「具体的にこういうことをしよう・したい」という菩薩の誓願にこんなにすごいものがたくさんあるということ、つまり「智慧と慈悲」という場合の慈悲の話を先にした。

 大乗仏教の慈悲は、ヒューマニズムの人類愛やそれがもう少し市民化・庶民化したボランティア精神などとは、ベースはまったく違うのである。そして、そのベースになっているのは智慧・空であるから、智慧と慈悲のどちらかだけが語られるのでは大乗仏教が正しく語られることにならない。また、どちらかに比重が傾いてしまうのも正しくない、と筆者は考えている。慈悲は必ず智慧に基礎づけられているという構造になっている、と理解している。

 これまで強調点がぼやけてしまっていると思われるので、ここまで特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、続いて、とはいってもやはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならない、ということを述べていくことになる。

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般若経典のエッセンスを語る46――「四弘誓願」+仏国土建設という理想

2022年11月01日 | 仏教・宗教

 さて最後に、かつて本ブログでも書いたが、改めて「四弘誓願(しぐせいがん」について書いておきたい。

 『大般若経』で三十一項目にもわたって述べられた菩薩の誓願を、中国の天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)は主著『摩訶止観(まかしかん)』の中で四つにまとめていて、「四弘誓願」という。「大変広い四つの誓願」という意味で、なぜ「弘・広い」のかと言うと、私だけではなくてすべての衆生に関わるものだからである。

 日本仏教では古くから天台宗だけではなく多くの宗派で、この「四弘誓願」が唱えられてきたようである。派によって言葉は少し違うようだが、以下、臨済宗で用いられているテキストをあげる。

 

 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

 

 おおかまに訳すと以下のようになるだろう。

 

 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う

 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う

 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う

 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う

 

 この「四弘誓願」をただ唱えているだけの儀式が多く見られるが、意味を知って唱えるととても感動的なので、ぜひ意味を学んで唱えるようにするといいのではないかと思う。

 ただ、これはあまりにも高い理想で、全面的に「ねばならない」ものとして受け止めてしまうときついので、「なるべくそうありたい」というふうに柔軟に受け取るといいと筆者は考えており、そのためにもう少し軽い訳を試みたのが以下の文章である。「超訳」という言葉は商標登録されているそうなので、「超意訳」とした。

 

  超意訳「四つのおおきな願い」

 

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。

 

 筆者は、この四つの言葉それぞれの後にカッコでくくって「(なるべくそうなるように努力しよう)」と付け加えることにしている。

 論理療法で「絶対的にそうしなければならない」と考えるのを「マスト化」という。こうしたあまりにも高い理想をマスト化して捉えるととてもつらくなり、つらさのあまり「無理」などと言ってやめてしまうことにもなってしまう。

 論理療法では硬直したマストに対して、柔軟な「プリファー・なるべくそうでありたい」という考え方を勧めている。

 マスト化して無理だと感じてやめてしまうくらいなら、マスト化せず、「到達できないかもしれない。たぶんできないけれど、でもここを目標にしたい。なるべくそうありたい」、「初歩でも何でも、とにかく菩薩は菩薩」というふうに心を決めれば、いろいろ悩みがあっても人生を死ぬまではちゃんと生きられるだろう。

 であるから、筆者は、悩み多き人生を四弘誓願を心に、広く言えばこの三十一願を自らの願として、「小さくても菩薩という人生を送れるといいな」と思うことにしている。無理をしないで「送れるといいな」ということで行きたいと思っているし、読者のみなさんとも一緒にそうなれるといいなと思いながら、一緒にさらに学びを続けられたらと思っている。

 

 ところで、「四弘誓願」は三十一願を四つにまとめていると言ったが、実は残念ながら三十一願の大きな基本的な方向である「仏国土の建設」が言葉として表現されていないと筆者は感じていて、自分が唱える時には、般若経典に繰り返し出てくる「成熟衆生厳浄仏土(じょうじゅくしゅじょうごんじょうぶつど)」「すべての生きとし生けるものを成熟させ、美しい仏の国土を創り上げよう」という言葉を補うことにしている。

 すでに繰り返し述べてきたことだが、ここでも、これまでの常識的な理解と異なり、般若経典で語られる大乗仏教は、ただ個人の心の救いを目指すだけのものでなく、全世界を覚りによって創造される美しい仏の国にしたいというきわめて大きなスケールの社会的理想をも掲げた思想運動であり社会運動でもあったということを改めて指摘しておきたい。

 そして、日本史の授業では教わらなかったことだが、『日本書紀』や『続日本紀』を右と左の偏見を排してちゃんと読み直してみると、大乗仏典・般若経典の「この国を仏国土にしたい」という誓願・国家理想は、聖徳太子のものであり、天智天皇や藤原鎌足のものでもあり、天武天皇のものでもあり、聖武天皇や藤原不比等のものでもあった、つまり「古代日本の国家理想」だったということは確実だ、と筆者は考えている。

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