「どうせ死ぬのになぜ産んだ」へのコメント

2021年05月04日 | 生きる意味

 

 世界や人生についての根本的な疑問を英語でビッグ・クエスチョン(Big Qestions)といいます。

 

 世界はどうなっているのか、その中で私はどういう存在なのか、なぜ生まれたのか、なぜ生きていなければならないのか、生きていく意味は何なのか、何に価値があり何に価値がないのか、何が正しくて何が悪いのか……などなどの問いです。

 

 そうした問いへの答えの体系を「コスモロジー」(世界観、人生観、価値観、倫理観などを総合した言葉の体系)と呼ぶのですが、近代の合理科学主義的なコスモロジーにはそうしたビッグ・クエスチョンにうまく答えられないという根本的な欠陥があることは、これまで繰り返しお伝えしてきたとおりです。

 

 それに関連して、4月30日朝日テレビ「徹子の部屋」にバイオリニスト高島ちさ子さんが出演していて、5年生の息子さんから「二つ、まだ答えてくれてないことがある」、「金持ちになる方法」、「どうせ死ぬのになぜ産んだ」と問われるが、「この質問がいちばん嫌いなんです」という話をしておられました。

 

 それに対して徹子さんが「そうよね、誰だって答えようがないわよね」と言い、高島さんが「答えようがない」と答えていました。

 

 「答えようがない」と言われていたのは、もちろん後のほうの「どうせ死ぬのになぜ産んだ」という問いのほうでしょう。

 

 徹子さんの「誰だって」というのは、戦後、近代の合理科学主義のコスモロジーを絶対に正しいものであるかのように教えられ、それをまだ信じている大多数の日本人という意味でしょう。

 

 しかし、現代科学のコスモロジーの主要な成果を主客合一的に――つまり自分のこととして――解釈するコスモロジー心理学には、答えようがある、少なくとも答えのヒントを提供できるのです。

 

 そこで、一言コメントしておきたくなりました。

 

 ただ、「どうせ死ぬのになぜ産んだ」という同じ言葉での問いの真意が、「死にたいほど苦しい、空しい」という訴えであるケースがあるので、その場合は、「それはね……」と直接答えようとするのではなく、まず「そうか、とてもつらいんだね」とセラピー的・共感的な対応をする必要があります。

 

 しかし、この息子さんのケースはそうではなく、ほぼまちがいなく現代日本の多くのこどもがある時期直面する人生の意味に関する実存的・哲学的なビッグ・クエスチョンだろうと推測できます。

 

 そして大部分のこどもは、大人からその答えを聞かせてもらえないまま、そのうち問いを忘れて、あるいは無意識的に抑圧して、当面の日々のことで生きていくようになるのですが。

 

 それに対してコスモロジー心理学を学んだ人(ママでもパパでもセラピストでも)ならどう答えるかというと、まず「どうせ死ぬから産んだんだよ」と切り返すでしょう。

 

 おそらくお子さんは「え?」という反応をするでしょうから、「私も最後は死ぬし、おばあちゃんもおじいちゃんも死ぬ(死んだ)し、ひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも死んだし、その前のご先祖さまも、みんなみんな死んだんだよね。でもひとりひとりはみんな死んでも、いのちはずっとつながってきている。いのちというのは、つながるから、つなげるから、ずっといのちなんだよね。自分は死ぬけど、いのちはつなげればつながるから、いのちをつなげるために、次の世代を産むんだし、人間のこどもの場合、産みっぱなしだと死んじゃうから、一所懸命育てるんだよ」と伝えます。

 

 近代の個人主義は、個々人のいのちという面だけに目を向けていて、いのちというものが個々人を超えてつながっているというより大きな事実に十分気づいていません。

 

 そして、近代の物質還元主義は、分析的にいのちを物質の集まりの働きとしてだけ捉えているので、そういうものの見方を、学校でもメディアでも家庭でも教え込まれたこどもは、いのちを「どうせ死ぬ」つまり「死んだら物質に還元して終わり」というものとしか見ることができず、「いのちはつながってきた・つながっている・つながっていく」ということに気づくことができない・できていないのだと思われます。

 

 コスモロジー心理学を学んだ人の話は、これで終わりではなく、長い長い――宇宙138億年と生命史40億年と私のつながりの話になるのですが、ここまでで興味を持ってくれたこどもには、長くなるから機会を改めてゆっくり話をするという約束をして、ここでは、「たしかにひとりひとりは死ぬけど、いのちはずっと――40億年の間ずっと――つながってきたし、つながっているし、これからもつながっていくんだよ」という言葉を伝えて、一区切りにするでしょう。

 

 この先の長い話は本ブログでずっと書いてきていますから、興味を持ってくださった新しい読者には、ぜひ過去の記事を読んでいただきたいと思います。

 

 ご自分自身の、そして次世代のこどもたちのビッグ・クエスチョンへのビッグ・アンサーのヒントを見つけていただけるでしょう。

 

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ニヒリズムによる殺人と自殺――川崎登戸の死傷事件にふれて

2019年06月09日 | 生きる意味

 以下の記事を書くについては、かなりのためらいがあったのですが、やはり書いておいたほうがいいという気がしてきたので、あえて書くことにしました。

 5月28日、川崎市登戸駅近くでカリタス学園のお子さんや保護者の方19名が刺され、女児1名、男性1名が亡くなられるという痛ましい事件がありました。

 亡くなられたお二人のご冥福を心からお祈りするとともに、傷を受けた方々、ご家族・関係者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 犯人は、犯行直後自殺していて、責任を取らせることができません。報道によれば、犯行動機もあまりはっきりしないようで(毎日新聞デジタル版6月1日など)、さまざまな推測がなされています。

 ネット上では、「死にたいのなら一人で死ぬべきだ」といった発言をきっかけにいろいろな議論がなされているようです。

 筆者は、被害者や家族の方々の心情を考えると、そうした下手をすると無責任になりかねない推測や議論に深入りすることには強いためらいを感じていましたし、責任と意味のある推測や議論をするには正確で膨大な資料を見る必要があるが、それをするには力や時間が足りないと思っていますが、一つだけはっきりしている重要なことがあると考えていて、研究所の関係者や本ブログの継続的な読者にはお伝えしておきたいと思いました。

 それは、犯人の具体的な事情はいろいろあったにしても、もっとも基本にあった問題はニヒリズムだと判断してまちがいないと思われる、ということです。

 事情は誘因であり、根本的な原因は本人が陥っていたニヒリズム的な考えにあると言っていいのではないでしょうか。

 自分で自分の存在を認めることができず、さらに他者の存在も認めることができず、他者を否定・殺傷し、自分も否定・自殺したということは、「自分にも他者にも生きる意味がない」と考えていたということです。

 戦後日本の科学合理主義的・無神論的ヒューマニズムが常識になっている状況のなかでは盲点になっていると思われますが、彼の心のなかにはキリスト教的な「私も神の子、他人も神の子であり、絶対的な尊厳があるのだから、自殺も殺人もけっしてしてはならない」という考えはまったくなかったでしょうし、神仏儒習合的な「私も神・仏・天地自然・祖先からいのちをいただいているし、他人もそうだから、自分も他人も大切にしなければならない」という考えもなかったことが、重大なポイントだ、と筆者は捉えています。

 さらに言えば、もし「自殺したり殺人を犯したりすると、死後、神によって裁かれる」か、「自殺したり殺人を犯したりすると、死後、地獄に落ちる」と信じていれば、たとえ社会的・心理的にかなり追い込まれていたとしても、簡単に自他を殺すことはできなかったはずです。

 「それはそうかもしれないが、いまさらそんなことを言ったって、今は昔じゃないんだから」という声が聞こえてきそうです。

 継続的な読者にはおわかりいただいているとおり、筆者は、昔のようなほとんどの人が宗教を信じていた時代に戻るべきだとか戻れると言いたいのではありません。

 そうではなく、近代的な科学合理主義だけでは、人間の生きて死ぬ究極の意味は見いだせない、それどころかニヒリズムに到るのであり、ニヒリズムが克服できないかぎり、倫理の崩壊はとどめることができず、きわめてニヒリズム的―非倫理的な犯罪はけっしてなくならないだろう、と指摘したいのです。

 筆者は過去の記事「近代化の徹底とニヒリズム」で、次のように書きました。

 欧米では、もっと早い時代に、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできないというふうになり、ニーチェという思想家の言葉でいうと「神の死」と「ニヒリズム」がやってきたわけです。

 そして、日本では開国-明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、いまや「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあって(いわば「神仏天の死」)、遅れて本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか。

 神の死とニヒリズムについて述べたニーチェの言葉を改めて引用しておきます。


 ニヒリズムは戸口に立っている。あらゆる訪問客のなかでもっとも不気味なこの客はどこからくるのか?――出発点。ニヒリズムの原因として、「社会的な困窮状態」、あるいは、「生理学的な変質」、それどころか、腐敗に言及するのは、見当違いである。現代はこのうえなく品のよい、また、このうえなく思いやりの深い時代なのだ。困窮は、それが心的な困窮であれ、身体的な困窮であれ、知的な困窮であれ、それ自体としては、ニヒリズム(つまり、価値、意味、願わしいものの徹底的な拒否)を生むことは断じてできない。これらの困窮は、いぜんとして、まったく種々さまざまな解釈を許すのである。……(遺稿集『力への意志』1906年、1)

 結局、なにが起こったのか? 生存の全体的性格は「目的」という概念によっても、「統一」という概念によっても、「真理」という概念によっても解釈されてはならない、ということが理解されたとき、無価値性の感情が得られたのである。そういうものによって、なにかが目ざされたり、達成されたりすることはないのである。出来事の多様性のなかには包越的な統一性はないのである。生存の性格は「真」ではなくて、偽である……真なる世界があると納得する根拠は、もはや絶対にない……要するに、われわれが世界に価値をおき入れたさいに用いた「目的」「統一」「存在」などの範疇は、われわれによってふたたび抜きさられ、――いまや、世界は無価値なものにみえる……(12)


 しかし、これまで述べてきたことをここで改めて繰り返したいのですが、近代科学で見れば、「出来事の多様性のなかには包越的な統一性はない」ように見えたのですが、現代科学はもはや疑う余地もないほど明らかに宇宙の多様性・複雑性には自己組織化という方向性があることを示しています。

 そういう意味からすると、「近代科学はもう古い」、そしてだから「ニヒリズムももう古い」と言わざるをえない、と私には見えます。

 そして、社会がそうしたもう古い近代の科学合理主義とヒューマニズムを建前として営まれ続け、現代科学に基づく新しいコスモロジーへの飛躍・転換を無視―拒否し続けるかぎり、これからもニヒリズムに基づく犯罪―悲劇は起こり続けるだろう、と警告せざるをえません。

 そしてさらに、「宇宙138億年の歴史が生み出したものとしての人間・個々人は、宇宙的に尊い。だから、死んではいけないし、殺してはいけないのだ」と筆者は考えており、読者から始まって社会の大多数の人に、そうしたコスモロジーをまず検討していただき、納得できたら共有していただき、それによって社会倫理を再建し、犯罪―悲劇をなくしてしまいたい、と強く願っています。

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持続可能な国づくり…の連載

2014年09月01日 | 生きる意味

 先日のブログでお知らせした、「持続可能な国づくりの条件」の連載、「持続可能な国づくりを考える会」のブログに掲載しています。

 ぜひ、読んでください。
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朝日よりも美しい夕日

2014年01月07日 | 生きる意味




 今日、毎日新聞に「元気に年を取り活動的な生活を――サクセスフル・エイジング」という鳥越俊太郎氏と山野学苑総長の山野正義氏の対談が掲載されているのを、先に読んだ妻が教えてくれた。

 その中で山野氏が、アメリカのとてもいい言葉を紹介していた。

  Sunset is as beautiful as sunrise.

 直訳するとこういう感じだろうか。

  夕日は朝日とおなじくらい美しい。

 暮から今日まで滝宮はわりに好天に恵まれ、毎夕、私の書斎から羽床富士・堤山の右側に沈んでいく美しい夕日が見える。

 我が家の場合、朝日は他のお宅の屋根から昇るので、夕日のほうが朝日よりも美しい。

 私は、お年を召された方にお話しする機会があるとよく「日本には〈老熟〉といういい言葉があります。私もそれを目標にしています。もしいつまでも変わらないで若いままだったら、老熟はないんです。老熟していけるんですから、変化していくこと・無常はいいことなんです」とお話ししている。

 先の言葉を山野氏は「生きるほど美しく」と訳しておられ、実にいい訳だと思った。

 年を重ねるにつれ、朝日よりも美しい夕日のようになっていきたい、と思う。

 それには、もちろん日々の精進が必要なことは言うまでもない。精進波羅蜜多!
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堤山の夕焼け

2013年11月23日 | 生きる意味

 (これまでずっと話し言葉で書いてきましたが、これから時々、書き言葉の小論文やエッセイも書こうと思いますので、読者のみんさん、よろしくお願いします。





 滝宮に来てから、書斎の南側のガラス戸の外にはいつも讃岐七富士の一つ堤山(つつまやま)が見えているという生活をさせてもらっている。

 「讃岐七富士」といっても、おにぎりのようなかたちをした小山で、ほんものの富士山とはまるで違い、ふだんは日本昔話にでも出てきそうなのどかな様子で、そこがまた気に入っている。

 かつて、辻堂西海岸というシャレた地名の海沿いの団地のいちばん海側の棟の三階に住んでいて、窓の外、晴れた日にはいつもキラキラ光る湘南の海が見えているという、これもある種ぜいたくな生活をしたことがあった。もちろんそれとは見えているものが違うのだが、どこか共通した満足感がある。

 いつも海かあるいは山が見えている、というのが「ほんとうの生活」だという思いがあるからだろう。それに、夜は晴れていれば「満天の星」でなければならない。

 それはともかく、ふだん堤山はのんびりと可愛らしい山なのだが、一昨日、夕焼けの時間にふと見ると、そこにはある種荘厳といってもいい光景があったので、少し驚き、そして感動した。

 急いでカメラを取り出して、いろいろな角度から撮ってみた。私のカメラと腕では実物の雰囲気を撮りきれないが、いちおう載せておくことにしよう。

 急に寒くなってきて、もう初冬の気配であり、気づくと二十四節気の小雪(しょうせつ)である。数日前には、家の南側の休耕田に真っ白な初霜が降りていた。

 東側の空き地の縁は山茶花の生垣になっていて、可憐な白い花がいくつも咲き始めている。

 今年は秋が短くて、今から散歩気分で登るのにはちょっと寒いかな、季節を外してしまったかな、という感じがあるのだが、それでも気が向いたら登ってみよう、少なくとも来年の春にぜひ登ろう、などと思っている。


*アクセス解析を見ていたら、この記事に合わせてかつて書いた「夕焼け・朝焼け空はなぜ赤いか? コスモス・セラピーの解釈」という記事を読んでくださった方が何人もいたらしく、「ああ、こういうことも書いたな」と思い出しました。参考になると思いますので、リンクしておきました。

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『ストイックという思想』書評

2013年03月19日 | 生きる意味

 先週から今週の日曜日、いくつもの地方紙の書評欄に、拙著『ストイックという思想――マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』の書評が掲載されました。

 私が読者に伝えたいことをとても上手に要約-表現してくださっていて、有り難いと思いました。

 まだお読みになっていないブログ読者のみなさん、以下のように評価していただいた本です。

 よかったら、読んで元気になって下さい。





ストイックという思想
クリエーター情報なし
青土社


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生きることは本質的には幸せ:学生の感想

2013年01月22日 | 生きる意味

 大学での授業が終わり、ほっとしていると言っても、まだ採点は完了していないので、もう一仕事の最中です。

 そんな中、O大学の男子学生から少し遅れた授業の感想文が届きました。

 視力障害があるためテキストや資料を読むのにかなり時間がかかるとのことで、遅くなるのは予め了承済みでした。

 コスモロジーの話は、いろいろな問題を抱えている方からは「そんなきれいごとを言ったって…」といった反応もありますが、「とても元気になれた」という反応もあります。

 彼の場合、授業時には特に何も言ってきませんでしたが、熱心に聴いてはいるようでしたので、どうなのだろうと思いながら、立ち入ることはしませんでした。

 届いた感想文を読むと、思っていた以上に心に深く響いたようで、とても喜んでいます。やはり教えてよかった!

 さまざまなハンディや問題を抱えた方や、そうした方に接する指導者の方の非常な参考になると思いますので、本人の了承を得て、以下、ご紹介します。
 
                *

 「人生とは」,「生きることとは」,ということについて,正直履修以前から真剣に何度も考えることがありました.でもいつも答えはでない,それどころかいつもかなりネガティブな考えになっていました.それだから,私も今回のテキストの最初で先生が紹介しておられた女子学生同様に,「考えないようにする」ことが大事だと本気で自分に言い聞かせていました.また,自分はとにかく日々強い劣等感や,不条理感,理不尽な思いばかり感じていました.

 しかし,講座を終えた今,そんな私が本当に自分でも驚くほど,「かわることができた」と確信しています.そして,自分の内面だけでなく,自分の周りの世界がちがって見えるようになった気がします.

 今自分が存在し,生きている,ただそのこと自体が,137億年の歴史のおかげ,他のものとのつながりのおかげだ,と思うだけでことばにできないほどの感謝の気持ちを感じます.

 心の底から,人生とは,生きることは本質的には「幸せなんだなぁ」という思いでいっぱいになりました.自分も宇宙の一部,宇宙と一体,そう考えると,もう不条理だなんていえないなと思えるようになりました.

 授業での学びではなにより,現代科学のコスモロジーが,宗教,とりわけ「縁起の理法」,無常や無我,空,唯識・・・をはじめとした仏教のコスモロジー,さらにいえば,キリスト教神秘主義などと,ほとんどエッセンスとして同じであることに驚きと感動の気持ちでいっぱいです.

 この授業で学んだことは,これから生きていくうえで絶対忘れられない,忘れてはいけないものになったと思っています.

 無明をなくし,覚りに達するというのは相当難しいと思います.ですが,せめて今回得た考え方を大切に,日々の生活の中で忘れないようになればと思います.

 そうすればきっと,もっと「うけいれられるようになって」,より晴れやかですがすがしい,生き生きとした人生を送れるようになるかなと思います.

                 *

 唯識―論理療法などの認知的療法―コスモス・セラピーが共有している視点は、「ものごとがどう見えるかは見方しだい」ということです。

 自分の置かれている状況が不条理だと感じるか幸せだと感じるか、多くの場合、かなりの程度、自分の見方しだいです(もちろん、どう見てみても幸せだとは思えないという極限状況はあるでしょう)。

 彼の場合も、つながりコスモロジー的な見方ができるようになったために、劣等感や不条理感が「生きていることは本質的には幸せなんだなぁ」という思いに変わっています。

 ほんとうに、教えて―学んでくれて、よかったと思います。

 特にうれしいのは、「今回得た考え方を大切に,日々の生活の中で忘れない」ことが重要だと気づいてくれていることです。

 そうです、ここがポイントなのです!

 コスモス・セラピーの受講者に頻繁に起こる問題は、聞いた―感動した―元気になった―やがて日常生活にまぎれて、忘れた―元気がなくなった、というよくない流れに流されがちだということです。

 すでに学んできたみなさん、繰り返し学ぶ、繰り返し思い出す、心の底(アーラヤ識)に定着させる(熏習)努力をぜひ持続してください。

 心理的には、自分の根元(宇宙との一体性)に気づいている状態を「元気」と言い、忘れた状態を「気落ち」と言います。

 気落ちしないでいつも元気でいられるよう、気をつけていましょう。

 
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新刊案内:ストイックという思想

2012年12月16日 | 生きる意味

 昨年11月に出した『コスモモロジーの心理学』(青土社)以来1年ぶりに新しい本を出します。

 『ストイックという思想――マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』(青土社)という本です。

 内容紹介として「あとがき」の一部を転載します。


  古代ローマの賢人皇帝マルクス・アウレーリウスの残した言葉が、今さまざまな困難をかかえた時代を生きる私たちにとって、くじけることなく強く生きる、生き抜く、生き切ることのできる心を持つための大きなヒントになるのではないか、と思ったのが本書の元になった講義を始めた動機でした。

 二〇一一年三月十一日の東日本大震災そしてそれに続く福島原発の事故は、日本人の誰にとっても大きな衝撃だったのではないでしょうか。そして復旧―復興も十分にははかどっておらず、原発事故は本当には収束などしておらず、その社会的・経済的・心理的衝撃は、直接被災していなくても、心の傷、痛み、不安、無力感、絶望といったかたちでいまだに強い余震のように私たちの心を揺さぶっています。

 あまりにも過酷な出来事に遭遇してしまった時、人間の心は自分を防衛するために無意識的にいろいろなメカニズムを使うことは精神分析が明らかにしたとおりで、例えば意識の底に押し込めてしまう「抑圧」、なかったことにする「否認」、他人事のように思いなす「隔離」、あるいは大人としての対応ができなくなる「退行」などなどがあります。

 そうした防衛メカニズムは一時的で度を越さなければ心の健康を守るためのやむを得ない正常な反応ですが、度を越し長引いてしまうと、自分を守るどころかかえって心の病を発症すると言われています。過酷な出来事が過ぎて、防衛メカニズムでやりすごす時期が過ぎたら、つらくても出来事の記憶に意識的に直面し自分の人生体験の一部としてしっかり受容・統合する必要があるとされています。

 しかし、大変な出来事(およびその記憶)にただ意識的に直面しようとするのはまさにあまりにも過酷であって、直面してそれに耐え切り、それを受け止め受容するためのベースになる考え方・思想・世界観(コスモロジー)が必要なのではないか、と私は考えています。

 まして、出来事が一時的なことでなく長引く過酷な状況にまでなっている場合はますますそうだと思われます。そして、問題山積の現代の日本では、全体としての状況はすでにかなり厳しく、次第にさらに過酷になり長引きつつあるのではないでしょうか。
 そうした状況の中で生き抜き、生き切るために、マルクス・アウレーリウスが拠り所としてストア派哲学=ストイシズムが私たちの心の拠り所になりうるのではないか、と私は考えています。

 生きる理由は楽しみ・快楽にあるという思想を快楽主義といい、それに対して生きる理由は自分のなすべきこと・使命(ミッション)を果たすことにあるという思想をストイシズム・ストア主義といい、それは一般的に理解されている「禁欲主義」というよりもっと大きく深い意味を持っています。

 今の日本では「ストイシズム」「ストイック(ストイシズム的)」という言葉は、例えばスポーツ選手や芸術家などが夢・高い目標を実現するために目先の楽しみや楽さを犠牲にして禁欲的に努力するという意味に取られています。もちろん、そういうストイックな生き方もすばらしいと思いますが、本来のストイシズムは個々人の夢や目標ではなく、社会が必要とする仕事・公務(ミッション)を自分の損得、好き嫌い、快不快を超えて果たし抜くことに人生の意味、真の自己充足、満足感――それをストア派的=ストイックな幸福と言います――を見出すという思想です。

 今、厳しい時代の中で、大人であれば誰でも果たすべき社会的責任を持っており、そういう意味では大人はみな公務(ミッション)を担う公人であると言えるのではないでしょうか。そして、自分の置かれた場所で、退行せず、隔離せず、否認せず、抑圧せず、事態に凛として直面し、自分の責任を果たし切るところに公人としての誇り・大人の幸福を見出すことは、やさしいことではなくても不可能ではないと思われます。

 楽や快楽を求めるよりも、凛として勇気を持って自分の責務・公務を果たし、生きられるだけ生きたら爽やかにこの世を去っていく、それが人間の生き死にする意味であり、しかもそれは無になることではなく大自然・宇宙に帰っていくことだ、とストア哲学は語っています。

 繰り返すと、私が宇宙の中に生まれて来た理由は、宇宙から与えられた使命・公務を果たすことにあり、死はその宇宙への帰郷である、というストア派の世界観(コスモロジー)は、困難な時代のローマ皇帝ほどではないにしてもそれなりの公人である私たちの心の支えにもなるのではないか、というのが、震災そして原発事故の直後、本書の原形となった講義(「サングラハ教育・心理研究所」第三五期オープンカレッジにて二〇一一年四月から七月まで計七回行)をし、そしてそれを元にした雑誌連載(機関誌『サングラハ』の第一一六号・二〇一一年三月から第一二三号・二〇一二年六月まで)を行ない、さらにそれを徹底的に推敲して本書の原稿を書いた動機です。

 筆者が、ストア派哲学、それを自ら生きたマルクス・アウレーリウスのまさにストイックな言葉と生き方に、読む度に受けてきた爽やかな感動を、読者にもお伝えできたら大きな喜びです。




ストイックという思想
クリエーター情報なし
青土社
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愛されたり・愛したりする未来

2011年07月20日 | 生きる意味
 
 このネット授業で、かつて、ものごとがどう見えるかはかなりの程度見方しだいだということを学びました。

 それは、地震-津波-原発事故そして復旧・復興の遅れ、不確実な収束、放射能汚染についても言えることだと思います。

 特に放射能汚染について、心配のあまり絶望的な気分になっておられる方が少なくないようなので、ここで意識的に希望を持つために復習をしてみたいと思います。

①事実あるものごとは、目を開ければ見えるが、目を閉じれば見えない。見えないとないような気がしてくる。

 ②事実あるものごとは、目を開けていてもその方向を見ていなければ見えない、その方向を見れば見える。

 ③事実あるものごとは、見る距離によって見える大きさが違ってくる。近づけて見れば大きく見え、遠ざけて見れば小さく見える。

 3・11の後、放射能の危険さについて、私たちはいやおうなしに目を開かれ、そちらに目を向けさせられ、特にあまりにそのことに目を近づけて見過ぎて、他のことが見えないという状態になっているのかもしれません。

 十円玉を親指と人差し指で持って片目をつぶり、開いている目のすぐそばまで近づけて見ると、視界は十円玉でいっぱいになり、まるで世界が十円玉だけで出来ているように見えてくる、というワークをやりました。

 私たちは、放射能についてそういう状態に陥っているのではないでしょうか。

 世界中が高濃度の放射能だらけで、すぐにでもみんなガンになりそうで、もう何の希望もない、と見えているのかもしれません。

 その気持ちは私もほんとうによくわかります。

 しかし、学んだように、視界=世界ではありませんでしたね。

 不幸中の幸いと言うべきでしょう、福島原発のすぐそばを除くと、確かに汚染はされているのですが、まだ「ただちに健康に害のある量ではない」という状態で、「やがてガンになる確率が高くなる」危険(0.1%から1%くらい?)はありますが、「すぐに全員がなる」のではなさそうです。

 あえて言うと、絶望するのは放射能の危険を過大視しているためであって、もちろん心配をし、できることはしなければなりませんが、ここで子どもや自分の人生が終わるわけではなく、そういう意味で未来はまちがいなくあるのであり、したがって希望を持つこともできるという、他の面、より広い面を見ることも忘れないでおきたいものです。

 そして何よりも、私たちは生きているかぎり、愛されたり・愛したりすることができます。

 たとえ放射能に汚染されても、病気になっても、愛されたり・愛したりするという体験をすることの可能性はこれからも生きているかぎりなくなりません。

 ただちに命にかかわるような量でないかぎり、放射能が愛の可能性を汚染したり破壊したりすることはないのです。

 愛されたり・愛したりする未来への希望を捨てる必要はまったくありません。

 そして、時間があると思うとかえって気がゆるんで大切な人への心づかいがなくなりがちで、時間が有限だという覚悟があってこそ人への思いが深くなるということもあります。

 愛については、時間は長さよりも質が大切なのではないでしょうか。

 愛されることも愛することもなく長く生きるよりは、短くても深く愛され・愛する人生のほうがいい人生だ、と私は考えます。

 もちろん、深く愛され・愛する人生が十分な長さあったほうがもっといいに決まっていますが、残念ながら人生は私たちの100%思いどおりになるようにはできていないようです。

 だとしたら、私たちは許された人生の長さの中で、愛され・愛する体験をしながら、悔いのない、せめて悔いの少ない人生を生きる努力をするほかありません。

 特に大人は、子どもたちのために心配するあまり絶望して、子どもたちまで絶望させることのないよう、できるかぎりの愛情を注ぐ努力をしていきましょう。

 人との出会いはすべて「一期一会」であり、子どもと親との出会いも「一期一会」です。

 その思いを忘れず、大切に、丁寧に、思いを込めて大事な人とつきあっていきたいものです。

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ベランダに咲いた月見草

2011年04月22日 | 生きる意味


 昔住んでいた海側の砂地に咲いていた月見草(植物学的にはオオマツヨイグサというらしい)の風情が好きで、去年の秋、小さな苗を2本、ベランダの植木鉢に移植したら、とても元気に根づいてくれて、初めての花を咲かせてくれました。

 いつも、なぜかほっとさせてくれる花です。



 
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マルクス・アウレーリウスのことば 3:宇宙の一体性

2011年04月10日 | 生きる意味

 宇宙は一つの生きもので、一つの物質と魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つの感性に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動から行うか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことを常に思い浮かべよ。
                             (『自省録』4・40)


 宇宙の中のありとあらゆるものの繋がりと相互関係についてしばしば考えて見るがよい。ある意味であらゆるものは互に組み合わされており、したがってあらゆるものは互に友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、〔膨張収縮の〕運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互に原因となり結果となるのである。
                             (『自省録』6・38)


 マルクス・アウレーリウスの思想は、ストア学派と呼ばれる古典ギリシャの哲学の1つの流れに属しています。

 ストア学派の自然学は、現代思想的な用語でいえば「コスモロジー」にあたり、驚くほど現代科学の洞察を一致するところがあります(そのことについては、「いのちの授業1:コスモロジー」を参照してください)。

 ストアのコスモロジーの要点は、宇宙と自己は一体である、というところにあります。

 しかし、日常生活の中でそのことを忘れがちなので、マルクス・アウレーリウスは「絶えず思いをひそめよ」とか「しばしば考えてみるがよい」と自分に言い聞かせているのです。

 そうして、繰り返し絶えず思うことによって、ストアのコスモロジーが単なる一般的な理論ではなくいわば彼自身によって「生きられている哲学」になっています。

 『自省録』の魅力は、ストア哲学が一人の具体的な人間によって生きられている哲学として表現されているところにあるといっていいでしょう。

 第35期の公開講座では、そのあたりをさらに深く掘り下げ味わっていきたいと思っています。



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マルクス・アウレーリウスのことば 2:新たな創造のための変化

2011年04月08日 | 生きる意味

 変化を恐れる者があるのか。しかし、変化なくしてなにが生じえようぞ。宇宙の自然にとってこれよりも愛すべく親しみ深いものがあろうか。君自身だって、木がある変化を経なかったならば、熱い湯にひとつはいれるだろうか。もし食物が変化を経なかったならば、自分を養うことができるだろうか。その他必要な事柄のうちなにが変化なしに果たされえようか、君自身の変化も同様なことで、宇宙の自然にとっても同様に必要であるのがわからないのか。(七・一八)

 宇宙の自然は「全体」の物質を用いてあたかも蝋でものを作るように、ある時は馬を形作り、つぎにこれをこわし、その素材を用いて樹木をこしらえ、つぎには人間を、つぎにはまたなにかほかのものをこしらえる。各々のものはごく僅かな時間だけ存続するにすぎない。箱の身になって見れば、解体されるのも組み立てられるのと同様、別に難儀なことはないのである。(七・二三)

 宇宙を支配する自然はすべて君の見るところのものを一瞬にして変化せしめ、その物質から他のものをこしらえ、更にそれらのものの物質から他のものをこしらえ、こうして世界がつねに新たであるようにするのである。(七・二五)

 死んだものは宇宙の外へ落ちはしない。ここにとどまるとすれば、更にここで変化し、分解してその固有の元素に還る。それは宇宙の元素であり、また君の元素でもある。更にこれらもまた変化し、ぶつぶつ呟きはしない(八・一八)

 喪失は変化にほかならない。これが宇宙の自然な喜びとするところなのだ。その自然に従って万物は〔うまい具合に〕生起し、永遠の昔から同じ形のもとに生起し、永遠に至るまで他の同様な形の下に生起していくであろう。しかるに君はなぜいうのか、すべては具合悪くできており、これからも常に具合悪くあろうし、神々がどんなに大勢存在しようとも、これを正す力は彼らの中には結局見出されなかった。世界は絶えざる悪に悩まされるべく定められているのだ、と。(九・三五)


 変化も破壊も喪失も宇宙の自然であり、それは「世界がつねに新たであるようにする」ためだ、という視点は、大きな変化・破壊・喪失の時代にある私たちにとって、次のステップに進むための希望を与えてくれる視点だと思います。

 次のステップはまったく新しい創造に向けてのスタートなのです。

 もちろんそうした厳しくも真実なものの見方を、今苦しんでいる方に押し付けるのは、決してやるべきことではありませんが、自分自身に言い聞かせるものとしては――『自省録』はまさに自分に言い聞かせるための日誌です――(場合や人によって)大きな力になるものではないかと思います。




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マルクス・アウレーリウスのことば 1:宇宙における生死

2011年04月06日 | 生きる意味


 サングラハ教育・心理研究所の「オープン・カレッジ」と名づけた公開講座の第35期に、古代ローマの哲学者皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』の講義を行なうことは、お知らせしたとおりです。

 それに先立って、いわば前宣伝的にマルクス・アウレーリウスの深く美しいことばをいくつか紹介しようと思います。

 まず最初に引用したいのは、彼の死生観をもっとも端的に表現した次のことばです。


 おお、宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。汝にとって時をえたものならば、私にとって一つとして早すぎるものも遅すぎるものもない。

 おお自然よ、すべて汝のもたらすものは私にとって果実である。すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰っていく。

                (『自省録』四・二三、神谷美恵子訳、岩波文庫)


 すべての出来事――悲劇的な出来事でさえ――を宇宙のもたらしたものと受け止めることができたならば、私たちは幸不幸を超越して、生きられる間は生き死ぬべき時は死ぬというきっぱりとして爽やかな生き死にの仕方ができるでしょう。

 それは決して容易ではありませんが、心を鍛錬することによって、そうした心境に近づくことは不可能ではありません。

 今、困難な時代にあって、こうした心境に近づけるとどんなに強いでしょう。

 私も、こうした死生観で覚悟を決めて生き死にしたいと思っており、このことばは私の墓碑銘に選んだものでもあります。

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困難な時代の希望

2011年03月22日 | 生きる意味

 患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す……そして、希望は失望に終ることはない。(新約聖書『ローマ人への手紙』5・3-5、日本聖書協会訳)

 日本は、バブルで浮かれた後、バブルの崩壊に見舞われ、失われた10年の後、ようやく景気の回復傾向(といっても大企業だけ)になってきたところでリーマン・ショック以降の大不況、そして今回のあまりにも大規模な大震災―津波被害と、大きな困難な時代に差しかかっています。

 そうした状況にあって、上記の聖書の言葉は大きな励ましとヒントです。

 この厳しい時期を耐え抜き、耐え抜くプロセスをとおして「練達」つまり人間としてより成熟し英知を身につけることができるならば、私たちは「希望」を見出すことができると聖書は告げています。

 そして、これは個人のことだけではなく、社会全体にも当てはまるのではないかと思うのです。

 日本社会がより英知のある社会へと変容・成長できるならば、どんなに困難でも必ず希望は生まれる、と私は信じています。

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春の気配

2011年03月06日 | 生きる意味










 昨日、久しぶりに近所の公園に散歩に行きました。

 陽射しが温かく、「花咲き、鳥歌い」の春がやってきつつあることが感じられました。

 無常だから秋が来て、冬が来るのですが、無常だからまた春が来るのですね。

 道元禅師は、「無常は仏法なり」と喝破しておられます。

 梅はそろそろ満開、いろいろな小鳥がやってきていましたが、私のカメラのズームでは非常に用心深い小鳥は撮ることができませんでした。

 足音を忍ばせて、少しのんびりしている感じの2種類だけ、やっと撮ることができました。

 桜咲く爛漫の春も、もうそう遠くはないようです。

 日本の政治、経済、社会は、天下泰平とはいきませんが、それでもやっぱり春は春。

 今日はこの後、持続可能な国づくりの会の運営委員会の学習会に出かけます。

 思うところあって、先月の委員会で申し出て、運営委員長になりました。ご報告です。

 何とか「天下泰平」「春爛漫」の日本を持続あるいは再創造したいものですね。

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