般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩

2024年05月25日 | 仏教・宗教

 さて、したがって大乗仏教・菩薩・摩訶薩になるには禅定が必須である。そのことをはっきりと語っているのが、相行品第十の次の言葉である。

 是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 つまり「私は瞑想をしている」というふうに思わない。瞑想をしているときはもう「瞑想をしている」とか「私」ということを忘れるのがほんとうの三昧なので、「私が/坐禅をしている」と思っている間はほんとうの坐禅ではない。

 また坐禅をするときに、「さあ、今から坐禅するぞ」とか「お、坐禅・禅定が深まってきた」「集中してきたな」と思っている間は、まだ全然ほんとうの三昧ではない。「もう私は完全に禅定状態に入った」と思ったりはせず、「私が」とか、瞑想状態と日常意識状態とを分別するとか、そういうことが一切なくなっているのが本当の三昧・瞑想だと言われている。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏に従ひて記を受けたりや。』

  それにかかわって、智慧第一のシャーリプトラが、解空第一・空をいちばんよくわかっているというスブーティに問う。つまり弟子同士で質疑応答をしているのである。
菩薩・摩訶薩・菩薩大士は、こういう瞑想を徹底的にやることによって、過去の仏さまに「そういうふうに瞑想をしていれば、おまえは将来必ず覚りを開ける」という保証をされているか、と。「住し」は「ずっとやる」ということである。保証のことを「記」といいう。つまり「おまえは必ず将来覚りを開けるぞ」という、その約束というか予告のことを「記」という。

  報へて言はく、『不、舎利弗、何を以ての故に。般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 するとスブーティが「そんなことない。保証などいただいていない」と答えている。
常識的には当然、瞑想をして覚りを開のだから、「瞑想をしたら覚れると昔の仏が言われたはずだ」とシャーリプトラが言うと、「そんなことはない」とスブーティが答える。
般若という智慧は瞑想と一体のものだし、そうした一体のものとしてまさに瞑想が般若波羅蜜をもたらすのだし、菩薩とはそもそも般若波羅蜜や瞑想・禅定と必ず一体化している。だから要するに菩薩とは般若波羅蜜・智慧そのものであり禅定そのものなのだ、と。

  須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と。

 スブーティは、「菩薩はこういう瞑想状態に入ったときには、こういうことを思ったりはしない」と言う。どう思わないかというと、「私が/般若波羅蜜多という真理によって/この禅定状態になったのだ」といったことは思わないと言う。

 菩薩というものは、瞑想状態において、主客分離的に認識するとか、そのことに気づくとか、そういうことはない。そのことを伝統的には「無念無想」の状態と言ってきた。そういう無念無想の瞑想状態に入ると、空・一如という体験が起こる。そうしていったん一如という体験が起こり、そういう意識状態から日常意識に戻ってきたときに、他との切っても切れない縁起の関係が自覚され、すると行為は気持ちとしては慈悲ということになる。そういう構造になっている。

  以上で「般若経典のエッセンスが智慧と慈悲にある」という場合の、その智慧と慈悲はどういう関係にあるかということを、いちおう理論的に掴んでいただけたと思う。

  すなわち、言葉で分けると智慧・空・如・慈悲となるが、そもそも智慧によって空・如・一如ということ、特に一如ということを覚り、そこから分離ではなくて区別はちゃんとついているという日常的な意識に戻ってきたら――後にこれを無分別智と区別して「無分別後得智」と呼ぶようになっている――それが慈悲という形になる。したがって完全な空・一如ということを瞑想・禅定・三昧を通じて覚らないかぎり、慈悲は出てこないのである。

 だから私たちが「優しい心、親切な心、それが仏教の慈悲である。日本には仏教のそういう優しい心の伝統があるのだから、みんな優しくし合いましょう」と思っているような通俗仏教は、けっして悪くはないが、大乗仏教の本質からすると、それはやはりヒューマニズムやボランティア精神と同じで、レベルが違うと言わざるをえない。それはそれで日本人の精神性として大切ではあるが、より深めるには、禅定をし、如・空ということを覚る。そうすると、努力をしてやるのではなくて、自然に慈悲が出てくるということになるのだ。

 しかし、とはいっても私も含め私たちは、突然そこにジャンプすることはできないので、まず頭で学んで理解し、それから少し瞑想もする。

  例えばこうしたことを学ぶと、ふと犬を見た時、「あ、あの犬とも結局つながっているのだな」とか、木を見た時、「ああ、あの木と私は酸素と二酸化炭素の交換関係を通じて、もう分かち難くつながっているんだな。つまり木は私の命を支えてくれている。木は私の友達だ」と思えたりするのである。

 そういうことがたまにふと、やがてしばしば思えるようになって、例えば木は私の友達だと思うようになると次第に、「そういえば三日ばかり雨が降ってないな。ちょっと水をあげようか」という気持ちが出てきたりするのである。

 木とか犬はこちらのすることに素直に応えてくれるので付き合いやすいのだが、人間は素直に応えず、何かをしてあげても「ありがとう」も言わないとか、それどころか「余計なことするな」と言ったり、善意を誤解して悪意に取るといったことをするので、なかなかすんなりと付き合えなかったりするものだ。一切衆生の中でも人間相手がもっとも難しいかもしれないと思うことがある(神話的存在としての阿修羅や餓鬼、畜生、地獄の衆生はもっと難しいはずではあるが)。

  他の動物や植物に優しくするのは割にできるが、しかしやはり人間がいちばん近しい関係なのだから、その人間に対し「私の趣味からいうと嫌いだし、私の都合からいうと不都合なあなただけれど、でもほんとうは一体なのだ。つながってるのだ」と、布施までは出来なかったらせめて忍辱で、しかし忍辱にとどまらず布施までいく。そういうことで、布施が最初にあるのではないかと思う。優しい実際の行為はとてもできないから、少なくとも「あまり強く憎むのはやめよう」程度の忍辱をしたりしながら、最終的には、縁起・空ということを体験的に自分のものにしていくのが六波羅蜜のすべてであるわけである。

 というわけで、とにかく菩薩・摩訶薩になろうと思うのだったら即瞑想をしなければならないし、そして瞑想は即般若波羅蜜・分別をしない無分別の智慧を得ることなのだ、ということである。

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般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

2024年05月17日 | 仏教・宗教

 しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。

 そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。

 そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である。そしてなぜか漢訳では、プラジュニャーではなくパンニャーのほうを音で写して「般若」と訳したのである。つまり般若とは「分別を超えた智慧」という意味であり、この「般若」「無分別智」こそ大乗仏教の智慧なのである。

 先ほどから述べてきたように、体験が空まで深められ、さらに一如というところまで深められたら、「私と私以外のものは実は分離していない。つながっている。一如だ、一体だ」ということになる。そしてその一体性の自覚から、改めて人を「あの人は私と区別はあるけれども分離していない。一体なのだ」と思う。また例えば、いちおう私と猫とはちゃんと区別はできるけれども、「あの猫も私と一体なのだ」と思う。そうした一体性が実感されたとき、生きとし生けるものすべてに対する慈悲が生まれてくる。すなわち、空・一如の実感=無分別智(より詳しくは後述するように無分別智と無分別後得智)から慈悲が生まれてくるということである。

 それに対して、もともと「私と他の人は分離している」という思いを前提に、「今、私は元気でお金を持っていて体力があって等々で、向こうに体が弱った貧しいかわいそうな人がいて、私はいい人だから……」という思いで行われるのがいわゆるボランティア・慈善だと思われる。

 私の見るところ、ボランティアをしている方にはみな、心の底に程度の差あれ「私はいい人」という思いがあるようだ。それがあまり意識的だと偽善的に感じられるが、それにしても「私は悪い人だ」と思いながらボランティアをしている方はいないだろう。あまりに「私いい人」という気持ちでボランティアをするととても嫌味な人になってしまうが、あまり嫌味の感じられない人でも、よく探っていくと、心の底にはやはり「私いい人」という思いがあるように見える。それはやはり「私いい人、私豊かな人。私はいい人だから貧しい人に恵んであげましょう」という分離意識に基づくボランティアである。

 布施あるいは慈悲は、行なうことは似ているし、時にはまったく同じようだが、ボランティアと本質的には似て非なるものである、と筆者は考える。「私とあなたは実は一体だ。一体であるにもかかわらず現象としては私のほうが豊かであなたは貧しい。それは本質的におかしい」と、自然に私の豊かさを他の人と分かち合わざるを得なくて行なうのが慈悲の行為である。

 とはいえ、私たち分別知に囚われている凡夫にはなかなかできないので、練習をするのが布施である。つまり、布施は智慧から慈悲へというトレーニングだと言っていいだろう。

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世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4 再掲と現時点の修正とコメント

2024年05月11日 | 仏教・宗教
 *筆者は体調を崩しており、なかなか記事の更新が出来ず、残念に思っています。

 そんな中、以下の文章は、ずいぶん前に掲載したもので、過去記事の中に埋もれてしまっていたのですが、最近読んでくださった読者があったのをきっかけに、私も読み直してみて、多くの未読の読者に今こそ読んでいただきたいと思い、再掲させていただくことにしました。

 「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんだろう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。

 *例えば戦争、例えば犯罪、例えば貧困や差別、例えば環境の異変……

 私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、記事を書いた時点でも今でも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。

 しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。

 人間がマナ識――自我(たち)を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。


 〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
                     (『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)


 すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。

 他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。

 ところが、私たち人類のほとんどは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいるようです(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇り・拠りどころ・硬直したアイデンティティにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています(個人的、集団的エゴイズム)。

 そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。

 人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。

 学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがありました。

 しかし、唯識の語ることをしっかり理解できてからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないこと、必然的に起こることなんだ」と。

 もちろん、理解できたことで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。

 しかし、解決の糸口-方向性だけはしっかりとつかめたと感じています。

 私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。

 唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。

 しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、滅びたくないのなら、やるしかないでしょう。

 *そして、今では、諸セラピーの統合によれば、アーラヤ識‐マナ識の浄化=人間性・仏性の開発には絶望的なほど長い時間はかからないと考えるに至っています。もちろん促成栽培は無理だとしても。

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