ニルスのふしぎな旅2

2006年09月28日 | 心の教育

 仕事の合間を見つけながら、ようやく『ニルスのふしぎな旅』4巻を読了しました。

 動物たちにいじわるだった少年が、小人にされてガンやガチョウとスウェーデンを南の端から北の端へと空の旅をし、さまざまな冒険をし、いのちの意味、いのちを守ることを学んで、また南の故郷に帰って、人間に返る物語。

 スウェーデンの風土の美しさや厳しさ、人々の素朴で営々たるいとなみ、人と自然との関わりなど、なぜスウェーデンが世界の先頭を切って「緑の福祉国家」を目指せるのか、その精神性が少しわかってきたような気がします。

 特に、旅の終わりに、ガンの群の隊長アッカとニルスが交わす会話が印象的でした。

                     *

 「もっと早く、あんたに話しておかなければならなかったことが、ひとつあるのだよ。だが、あんたが家に帰らないというものだから、別にいそぎでもないと思っていたのだがね、今はいってしまってもかまわないだろう。」

 「アッカの母さん、ぼくはあなたのいうことは、よく守るということを知っているでしょう?」

 「あんたがわたしの生活で、何かよいことをおぼえたとしたらだね、人間はこの世の中に自分たちだけで暮らしているのだと思ってはいけないと考えるだろうね。あんたがたは大きな土地をもっているのだから、少しばかりの裸の岩礁や、沼や、湿地、さびしい山や、遠くの森などを、わたしたちのような貧しい鳥や獣が安心していられるように、わたしたちにわけてくれることは、じゅうぶんできるのだ、ということを考えてもらいたいのだよ。わたしはこれまで、ずっと追われどうしだったのだよ。私のようなものにも、安心していられる場所があればいいと思うのだよ。」と、アッカはおごそかにいった。

 「ぼくもお手伝いができたら、ほんとうにいいのだがなあ。だけど、ぼくには、人間たちにそうさせるような力はないんだ。」

                     *

 「ぼくもお手伝いができたら、ほんとうにいいのだがなあ」というニルス少年の願いは、心あるスウェーデン国民の願いでもあったのでしょう。

 少年の「ぼくには、人間たちをそうさせるような力はないんだ」という言葉にもかかわらず、『ニルス』(1906~7年)が書かれて約百年後、スウェーデンは国家の指導者(権力者・力を委託された人)たちが本気・本音で(建前ではなく)、「エコロジカルに持続可能な社会」を創り出そうとしているようです。

 そういうのをほんとうに「美しい国」というのではないでしょうか。

 もちろん、日本も――安部首相の言うのとは別の意味で――ほんとうに「美しい国」にしたいものです。


*シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」の趣意書、参加募集のをお読みいただけると幸いです。


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「あらゆる権力は腐敗する」?

2006年09月25日 | 持続可能な社会

 ここで、最初に言った結論をくり返しますが、4象限の条件すべてを調えることができれば、プロセスは困難だとしても、持続可能な人類社会の実現の可能性はあるということです。

 そこで、私は自分の研究所を通じて、必要な条件についての基本的な認識を確立し、それから広く合意を獲得し、それからできたらそれを運動に高めていきたい、そういう運動のリーダーを育てる機関として総合学園も設立していきたいと考えてきました。

 最後に、私のそういう発言・行動に対してまわりの方たちが感じ、忠告してくださった「危険」について、ここで、あえてお答えしておきたいと思います。

 まず何よりも、危険があることは事実だ、と私自身考えています。

 新しいことをすること、しかも集団あるいは運動としてすることには、必ず大なり小なり腐敗の危険がともなうものだからです。

 ふつうの人間には必ず、潜在的な自己実体視・自己絶対視の傾向――唯識でいえば〈マナ識〉――があり、足をすくわれる、腐敗する危険がいつでもあります。

 そして、自己絶対視の傾向のある人間同士で事を始めると、絶対化された自己主張のぶつかりあいが起こり、こだわりの強い人間が力をもって他の人を支配することになる危険もたえずあるわけです。

 そういう危険を単純に避けたいと思ったら、自己主張がぶつからないように、支配したりされたりしないように、いつも人と距離を取っておくしかありません。

 私の見るところ、例えばネットワーキングという方式は、そういう自己絶対視によるトラブルを最小限にとどめるため距離の取り方として、なかなかよく考えられた工夫です。

 もし、ネットワーキング方式で、しかも社会の主権を握ることなしに、社会がよくなる、持続可能な社会が出来るのなら、それでいいのです。

 しかし、くり返し言うように、この30年以上、それはできなかったし、これからもできない、どころか問題はどんどん悪化していきそうだ、というところに問題があるのです。

 私はどんどん進行する環境破壊のデータを追いかけているので、運動や組織を作るのは「危険だ」と忠告してくださる方にあえて問いたくなるのは、「こういう大きな危険と、それをなんとかしようとして運動を起こすことの危険と、どちらがより大きな危険だと思いますか」ということです。

 運動・組織の腐敗・堕落の可能性という小さな危険を恐れて、進行している大きな危険を放置することは、それこそおそろしく危険なことなのではないでしょうか。

 そうしたことを考えながら、私があえてある種の組織を始めているのは、次のように考えたからです。

 ふつうの人間には、確かに志と野心(〈マナ識〉の働き)が混在しているものです。それは、善意の人でも避けられないことです(唯識的に言えば、善意自体マナ識の働きなのですから)。

 ですから、いっさい野心がなくなってからでないと組織や運動を立ち上げてはいけないとすると、まずほとんど誰にもできないことになるでしょう。

 ところが問題は、結果として環境破壊をもたらすような組織や運動、というより巨大な「社会システム」がすでに存在していて、現に働いているということです。

 止めようとするものがなければ、やがて崩壊して、いやおうなしに止まってしまうというところに到るまでは、止まらないでしょう。

 そこで、もし崩壊を止めるための組織や運動はやはり必要だとすると、どうしたら、そういう組織や運動の腐敗を最小限にくい止めることができるかということです。

 私は、ふつうの人間がやることに腐敗ゼロなどということがあるという、子どもじみた理想的な空想はしていません。

 そうではなく、腐敗・堕落を最小限、許容範囲にとどめることができるかどうか、どういう大人の工夫ができるかが問題だと思っています。

 そして、その外面的・システム的な保証は、まず構成メンバーについて徹底的に出入り自由にしておくことだと考え、私の研究所では、長年その原則を貫いてきました。

 といっても、私の研究所は、政治・経済も含めた新しい文明、自然成長型文明の創造のための人材育成を目指すもので、直接的に政治に関わる意思はありません。

 政治的な組織であれば、さらに指導者のリコール制も必要でしょうが、学びの一貫性ということからいうと、むしろ私塾的に一つの方針を貫くほうがいいと考えて、合議―多数決制は採っていません。

 さらに、その内面的な保証としては、指導者もメンバーも、少なくとも自分の中の志と野心の混在に気づいていることが必要ですし、限りなく志の部分を大きく、野心の部分を小さくしていくよう、自己成長を続けるという意思も必要でしょう。私が何よりも力を注いできたのは、その点です。

 それでも、なお、未完成な人間がやっていることである以上、「おかしくなる危険」は残るでしょう。

 しかし私は、自分も含めておかしくなる危険よりも、進行する崩壊を見過ごし、放置する危険のほうが、はるかに限りなく大きな危険だと思い、あえて一歩を踏み出してきましたし、みなさんの参加もお誘いしています。

 さらに、何度も言っていますが、最近知っていい意味で大きな衝撃を受けたのは、スウェーデンの実例です。

 スウェーデン民主主義については、ほとんど岡沢憲芙氏の研究から学ばせていただきました。何冊も読みましたが、なかでも一冊だけおすすめの本を選ぶとしたら、岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)です。

 それらの研究を読むかぎり、指導者の倫理性(左上)と、そうした指導者を次々を生み出しそういう人を選ぶという国民性・国民文化(左下)と、そうした指導者たち自身が創り上げてきた腐敗を最小限にとどめる社会・政治システム(例えば情報公開制、オンブズマン制など)が調っていれば、腐敗最小限の政治は可能だ、と判断していいようです。

 私自身つい最近まで捉われていた「あらゆる権力は腐敗する」という命題(テーゼ)がありますが、それは歴史的実例としてファシズムやスターリニズム化した社会主義国ばかりに注目してきたための考えすぎで、国際調査によれば、北欧諸国やスイス、オーストラリア、オーストリアのように「あまり腐敗しない権力も存在しうる」と考えてまちがいないようです(もちろんゼロだなどと理想化はしているわけではありません)。

 環境と経済のバランスに関してだけでなく、政治・民主主義のシステムについてもスウェーデンは1つの学ぶべきモデルだと思います。

 スウェーデンなどの成熟したデモクラシーについて学ぶことによって、私たち日本人が長いこと罹っていた「政治アレルギー」の治癒が可能になるのではないか、と私は期待しています。

 もちろん、こうしたことをお読みいただいても、やはり危険を感じて遠ざかることも、まだ参加はしないけれど関心はもち続けていただくことも、あえて危険を冒して本格的に参加していただくことも、どれもオーケーですが、次の世代の子どもたちの未来のために、できれば一人でも多く本格的に参加していただきたいと切望しています。



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煽られた欲望は鎮めることもできる

2006年09月24日 | 持続可能な社会

 人間の欲望は限りがないかという問題について、もう1つ重要なポイントがあります。

 それは、多くの人の常識と異なり、人間の欲望は生まれつき具わった部分よりも、文化によって作られる部分のほうがきわめて大きいということです。

 民族学の研究によれば、人類はすべて、生物学的には同一の種でありながら、「人種」という言葉もあるくらい、世界にはまるで違った生活の仕方、文化のあり方、意識のあり方がさまざまに存在しています。

 そして、文化が違うと価値観もまるで違ったりするようです。

 ある文化では価値のあるものとされているものが、他の文化ではまるで価値がなかったり、それどころか価値の反対、卑しいもの、さげすまれるもの、嫌われるもの、悪いものとして徹底的に否定されるものだったりするようです。

 「本能」であると思われる食欲についていえば、確かに生命を維持するために空腹になったら「何か」を食べたいと感じるという意味での食欲は、生まれつきのものですし、生きているかぎり基本的にはなくならないし、なくすことはできないし、それどころかなくなると困るものです。

 しかし、具体的に「何」を食べたいと思うかは、生まれつきのもの・本能ではなさそうです。

 例えば、納豆を食べる習慣つまり食文化のある関東では、納豆が好き、納豆を食べたいという人が少なくありません。

 ところが、そういう食文化のない関西では、納豆大嫌い、食べたくないどころか、見るのも嫌だという人が多いようです。

 それは、もちろん個人の好みという面もありますが、食文化による面もそうとう大きいのではないでしょうか。

 「納豆を食べたい」という欲望は、食文化によって作られたという面が大きいのです。

 こういう例は挙げていくと無数にあると思われます。ぜひ、みなさんも考えてみてください。

 ともかく、自分の所属している文化の中で、それがいいもの・価値あるものだと見なされていると、生理的はまったく必要ないものでも、それが欲しくなる、欲望が生まれてくるのです。

 言い換えると、「欲望は文化によって作られる」ということです。

 このあたりは、社会心理学や広告理論ではほとんど常識のようです。

 さて、欲望は文化によって作られるものだということがわかると、なぜ、「欲望は限りがない」ように見えるかもわかってきます。

 それは、欲望を限りなく煽るような文化の中にいると、欲望は限りなく肥大していくということです。

 しかし、民族学の報告によれば、欲望を煽らないような文化の中に住んでいるネイティヴの人々は、物質的にはごく質素な生活でしかも十分満足して生きている(いた?)ようです。

 いまや、文明に汚染されて変わりつつあるようですが、典型的には「サン族」(ブッシュマンと呼ばれていた)のフィールドワークを読むと、彼らはごく限られた自然な欲求の満足だけで心理的にはとても豊かな生活をしていたように見えます。

 それに対し西洋近代では、科学技術と産業の発展によって大量生産が可能になり、資本家・企業人が大量販売を望み、大衆に大量に消費するよう広告などで動機づけをするという資本主義的な商品経済システムが成立しました。

 そこでは、消費者の「購買意欲」つまり欲望が限りなく肥大していくことが、経済を活性化するいいことだと見えるようになりました。

 また、確かにある面で経済を活性化し、一定程度の範囲で長い間人類が悩まされてきた「貧困」という問題を克服できるかに見えてきました。

 しかし、それはいわゆる先進国だけのことでしたし、それは資本主義市場経済のグローバリゼーションが進んでも、「南北問題」というかたちで未解決のまま続くでしょう。

 さらに、今、欲望の限りない肥大化による経済の成長は、環境の有限性という限界に突き当たっています。

 大量生産-大量販売-大量消費によって活性化し成長し続けられるはずだった資本主義商品経済というシステムは、1つは大量生産の前提である大量の原料=資源の有限性と、もう1つは結果として生まれてくる大量廃棄物の蓄積=自然の浄化能力の限界という2つ限界に直面しているのです。

 けれども、いったん社会のシステムが出来上がってしまうと、そのサイクルはなかなか止めにくいのです。人々の日々の暮らしがそのシステムに乗って行なわれているわけですから。

 資本主義商品経済というシステムでは、大量消費を止めにくいどころか、むしろ広告などによって購買意欲=欲望を無限に煽り、どんどん購買し消費してもらう必要があります。

 そういう理由で、資本主義社会で生活していると「欲望には限りがない」ように見えるのです。

 しかし、先にも言ったように、欲望は文化によって作られるので、文化が欲望を煽ればどんどん肥大しますが、文化が欲望を鎮める方向に向かっていれば鎮めることもできるはずです。

 と言うと、「そんなことを言ったって、日本は資本主義社会なのだから、文化が欲望を鎮めるような方向に向かうはずがないではないか」という反論が出てきそうです。

 それは、確かに当面そうです。

 しかし、もう1つ、人間は社会・文化からの情報によって影響を受けるのですから、個人が意識的になれば、情報を選択したり、遮断したりするというコントロールをすることができるのです。

 個人は、社会によって欲望を煽られっぱなしになるだけではなく、自分で自分の心をコントロールすることもできます。

 それが、人間に与えられている「意思の自由」です。

 私たちは、意思の自由という能力を行使して、必要以上に欲望を煽られることを拒否することができますし、さらには煽られた欲望なら鎮めることもできるのです。

 さらに、幸いにして民主主義社会にいる私たちは、思想・言論の自由、集会・結社の自由を行使して、文化そのものを欲望を鎮めるような文化に変えるよう働きかけることができます。

 多くの日本人が民主主義社会にいながら忘れていることは、民主主義社会では選挙などの民主的な手続きによって一滴の血も流すことなく、社会システムさえ変えることができるということです。

 多くの血が流れる「暴力革命」などなしに、ごく穏やかな方法で社会システムを変えることができるのですし、社会・政治システムを変えることができれば、文化システムが変わるよう誘導することも当然可能になります。

 前にお話しした4象限理論でいえば、持続可能な社会を心から望む個人が(左上)、文化が持続可能な社会に向かうような文化になるよう働きかけ、それが多数の賛同を得て主流文化になれば(左下)、その多数の意思により民主的な手続きを通して社会システムを変更することが可能になります(右下)。

 そうすると変更された社会システムによって、例えば教育制度などを通して、文化も欲望を煽る文化から鎮める文化へと誘導し変えていくことができるはずです。

 別の言い方をすれば、日本文化が全体としては今のところ欲望・神経症的欲求を肥大させる文化になっているとしても、神経症的欲求を自然で適度な欲求へと癒していくような文化を、やりようによってはこれから創出しうるということです。



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ワークショップ案内

2006年09月23日 | 心の教育

コスモス・セラピー=コスモロジー教育  ワークショップ

              トレーニングコース  於箱根仙石原


 「なぜいのちは大切なのか」、「どうすれば生き生きと生きられるか」を実感をもって伝えることは、現代日本の教育やセラピーにとって基礎・中核としてもっとも必要なことでありながら、全体としてはまったく不十分なのではないかと思われます。本プログラムは、そうした問題を解決するために新たに考案された教育・セラピーのシステムです。

 長年の実践とアンケート調査によって効果が十分に確認されており(大学生では、自己診断スケール0~10で、平均、受講者の25%程度が10、75%程度が5以上の肯定的変化を報告しています)、ワークショップも回を重ねるごとに、多くの方から「本当に元気になる」とますます高い評価をいただいています。

 今回のワークショップ(参加体験学習会)、会場は緑豊かで爽やかな箱根仙石原、宿はのんびりとした温泉民宿です。自然の場の癒す力、人の輪・和がつくりだす場のあたたかい雰囲気の癒す力、そして一人ひとりの中にある自然治癒力・自己治癒力を引き出すコスモス・セラピーの技法の総合的な力が、爽やかで深い癒しの体験をもたらすことでしょう。

 指導者のトレーニングコースとなっていますが、初めての方でも十分おわかりいただけますので、ぜひご参加ください。

●日時:10月21日午後1時~22日午後3時頃

●会場:〒250-06 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1086 
    温泉民宿 やまぼうし 電話0460-4-7228 

●講師:岡野守也(サングラハ教育・心理研究所主幹)

●参加費:一般2万8千円、会員2万5千円、準学生(専業主婦・フリーター・無職の方)2万3千円、学生2万円、1泊3食付き(交通費は自己負担)

●テキスト:岡野守也『生きる自信の心理学』(PHP新書、700円+税)。お持ちでない方は、予めご連絡いただければ、当日お分けします。
●持参品:筆記用具、軽い運動のできる服装・靴、寝転べる広さのシート、懐中電灯、パジャマ等通常の旅行用携帯品
●定員:18名

●申し込み締め切り:10月18日

●申込みは、サングラハ教育・心理研究所へ、E-mail: okano@smgrh.gr.jp か、Fax0466-86-1824で。


         コスモスワーク  箱根仙石原 参加申込書

氏名                男・女 生年月日19  年  月  日生
おところ  〒                              

電話     Fax     メール     携帯     携帯メール
一般参加 会員 準学生 学生
お支払方法 銀行振込・郵便振替・現金封筒      月  日頃支払い予定
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自然な欲求には限度がある――欲求と欲望の区別

2006年09月20日 | 持続可能な社会

 人間の欲望または欲求について考える時、非常に役に立つ仮説があります。あくまでも仮説ですが、そうとうの妥当性があると思われるもので、エイブラハム・マズローというアメリカの心理学者が立てた「欲求の階層構造仮説」という説です。

 これは日本では、ほとんど産業心理学的にしか使われておらず、大切なポイントが十分理解されていない面があるようですが、人間というものを考える時、非常に大きなヒントになると思います。

 簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしている」と言っています。

 いちばん基本的で低いところに生理的な欲求があり、それはいちばん基礎的なものだから非常に切実ではあるけれども、それが満たされると人間はそれだけで満足できるかというとそうではなくて、満たされてしまうとそれは大した問題ではないような気がしてきて、次に安全と安定の欲求が現われてくるのです。

 いわば、お腹がいっぱいでも、いつ殴られるかわからない状況にいたら、人間は満足できないということです。

 そして安全と安定が満たされていても、自分のことを愛してくれる親がいて家族の中で自分の所属の場所があることへの欲求、つまり愛と所属の欲求が次に出てくるのです。どちらが優先度が高いかというと、安定欲求のほうが優先度が高いのです。

 例えば、そうとう暴力的な親にでも小さな子どもはしがみついてしまうという現象があるようですが、それは、やさしいかもしれないけれども知らないおじさん・おばさんのところに連れて行かれるよりも、愛していない親の側でもそのほうがよく知った安定している環境だからなのです。

 それはともかく、安全と安定が満たされても、それで人間は満足できるわけではなく、次には愛と所属の欲求が出てくる。

 では、愛され、所属する家族や集団があれば人間は満足できるかというと、それもそうではない。人間はある年齢になると、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。自己イメージというものです。そのとき、こちらから見ている私が、見られている私=自己イメージをOKと思う、承認する、自分が自分を認める。そして、それを保証するように外からの承認もなされる。その両方の承認がなければ人間は満足できない。それを承認欲求といいます。

 ところがさらに、人間の欲求は承認欲求まで満たされたら終わりかというと、そうではなく、さらに、この世に生まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたい。しかもそれを身勝手にするというのではありません。この世に生まれてきたということは、他の人々の中に他の人々とともにこの世界に生まれているということですから、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したようなかたちで私がよく生きるというふうに生きたいという欲求が出てきます。それを「自己実現欲求」と呼んでいます。

 ところが、いくら自己実現をやっても、人間は最後には死ぬのですから、それだけだとやはりむなしいのです。そうすると、この有限の死んでしまうような自分というものをさらに超えて、もっと永遠なるものに結びつきたいという自己超越欲求をもつのです。

 このように、自己実現欲求と自己超越欲求までもつようになっていく、それが人間の基本的な性質であるというものです。

 人間の自然な基本的な「欲求」というのは、英語で言うと need で、必要ということでもあるのです。

 そういう必要・欲求には限度があって、例えば水を飲みたいと思ったとしても、ボトル五本持ってきて「ぜんぶ飲め」と言われても、飲みたくありません。一口か二口、のどの渇きが収まるくらいに飲んだらもういらないのです。

このように自然な欲求には必ず限度がある、とマズローは言っています。

 そして、適当な時に、適当な程度満たされると、欲求の階層構造はあがっていく、自然の欲求は満たせば満たすほど高次の欲求になっていって、高次の欲求はついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長していくというのが人間の本質である、とマズローは言っています。

 これは、仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいており、ただの願望の理論ではありません。十分なセラピーや臨床実験や統計調査があります。

 ところで、成長のプロセスで適当な時に適当な程度に満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こります。

 例えば、小さい時に十分に愛されないと、愛されることに対して無意識の固着が起こります。

 子どもは親から愛されなくても、小さい時は自分ではどうしようもありませんから、「私はどうせ愛されない存在なんだ」とか、「愛されることなんか問題じゃないんだ」というふうに、心の中で愛されるという欲求を抑圧することによってなんとか耐えて生きるわけです。

 そうすると、大人になった時、ほんとうには愛されたいのに、「愛されっこないんだ」と思っていたり、「愛されなくてもいいのだ」と思っていたりするから、すねたり、攻撃的になったりして、愛されるような行動がとれないわけです。

 そうすると、当然愛されません。すると、欲求は満たされません。満たされないのだけれど、何が満たされないかわかっていないから、満たしてくれるその当のものではなく他のものを求めていってしまうのです。

 例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行動がとれなくなるのです。

 例えば非行も、理論的な説明だけは簡単にできます。人から注目されたい、認めてほしいのです。自分でも自信をもちたいのです。それができないから、つっぱって、目立って、人の目を引いて、悪さをするのですが、それではほんとうの社会的承認は得られませんし、自分でもほんとうに自信がもてないので、いつまでたっても満足できないし、うまくいかないのです。

 ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受けられるか、大人の理性をもっていて考えればわかりきったことであり、そういう行動をすれば承認を受けられるのです。承認を受ければ満足できるのです。承認を受けて満足すると、あまりそれにこだわらなくなります。

 くり返しますが、適時に適度に満たされないと無意識的な固着が起こります。そして、ゆがんでしまって、何がほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの――マズローはこの状態を「神経症的欲求」と呼んでいます――「神経症的な欲求構造」ができてしまいます。ノイローゼというのは、その原因が自分ではわからないからノイローゼになるのです。こういう欲求も、ほんとうには何がほしいのかわからないまま正しくない求め方で正しくないものを求めてしまうからうまく満たされないのです。

 しかし、基本的な欲求というのは、やり方によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に適度に満たすことができるし、そうすると神経症的な欲求構造は癒すことができるのです。

 つまり、「欲望」と呼ばれてきたものは、マズローの用語で言い換えると「神経症的な欲求」なのです。

 そして、近代の経済的な物質的な繁栄――というよりも、むしろ感覚的な刺激といったほうがいいと思うのですが――の追求の底に潜んでいるのは、感覚的な刺激を求めるために物質やお金がほしいという欲望=神経症的欲求の面があるではないでしょうか。基本的には物がほしいというより、物による刺激がほしいのです。

 なぜ刺激がほしいかというと、むなしいからほしいのです。むなしくなくなるようにすればいいのに、むなしさを紛らわせるものがほしいのです。ほとんどの余分な浪費消費は、むなしさをまぎらわせたいから、いらないものを買ったり使ったりするのです。原理的には簡単です。むなしくなくなれば、いらなくなるわけです。

 近代の欲望の大部分は、過去に貧しい経験をしたために、生理的・物質的な欲求に固着してしまったか、安定性に問題があったために、安全を守るために金がはてしなくほしいというふうになってしまったか、あるいは愛と所属が満たされなかったために、絶えず自分のまわりに人を引きつけておくことのできるような権力や金がほしくなったかというところに原因があるように見えます。

 例えば、承認されるためには日本では金持ちになればいいわけです。人生に生きがいがないといっても、金があっていろいろと遊んでいればむなしさをだいたい忘れていられるわけです。自己実現できなくても、金があれば日々気晴らしはできるわけです。

 ということは逆に言えば、基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物資的な富はそこそこ必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです。これは仮説ですが、セラピーやワークショップをやっていると、かなり妥当性のある人間観ではないかと思っています。

 さらに、北欧諸国の例を見ていると、大きな社会集団-国家レベルでも妥当性のある洞察だと思えます。基本的欲求について十分に満たされている「福祉社会」では、国民の多くが環境を破壊してまで物質的欲望を追求する必要はないと感じているようです。

 そういうわけで、従来の「意識的な学習と意思によって欲望を抑制する」というアプローチを全面的に否定する必要はまったくないのですが、それだけではどうにもならない無意識の欲望状態を自然な欲求構造に変えることも原理的にいって可能であり、それが必要だ、と私は考えています。

 これを、どうやって私・個人から始まって社会全体の文化にするか。これが問題です。また、そういう個人とそういう集団がどうやって社会の主導権――まさにデーモス・クラティア――を握るか、ということが課題です。

 しかし、少なくともそういうふうに考えていくと、欲望を自然な欲求へと治癒することも、欲望を煽り立てるような社会を自然な欲求を自然に満たしていくような社会に変えていくことも、理論的に可能ですし、方法論もあります。あと残っているのは、どれくらいみんなが実行する気になるかということだけだ、と私は感じています。



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欲望は限りなく肥大するか?――3つの考え方

2006年09月18日 | 持続可能な社会
 多くの人が、「エコロジカルに持続可能な社会」について、建前としては賛成だが本音でいうと実際には無理だろうと思って、先延ばしにしたり、あきらめたりしてしまうのにはいろいろ理由があるでしょう。

 中でも1つ大きな理由は、「人間の物質的な欲望というのは、基本的に限りなく肥大していくものであるから、それを無理に抑えるのはできない話だ」と思い込んでいる人が多いということではないかと思います。

 社会の主導権を握っている人もそうだし、国民の多くも市民もそのようです。

 「人間の欲望というのは、豊かになればもっと豊かになりたくなるし、便利になればもっと便利にしたいと思い、贅沢すればもっと贅沢したくなるもので、それはしかたがない、たとえ環境が破壊されると言われても、それなら私(たち)の利益はほどほどに抑えます、と言えないのが人間というものだ」と思い込んでいるために、「高度経済成長型の社会をやめられないのはしかたがない」と思っている人が多いのではないでしょうか。

 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? ほんとうはそうではない、と私は考えています。

 そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に3つの考え方があると思います。

第1は、「欲望は限りなく肥大するものである」という考え方です。日本の主流の「本音」はこれだと思われます。

第2は、いわば「建前」として、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるのだ」という考え方です。多くのエコロジー派の方がこんなふうに考えておられるのではないでしょうか。

 しかしこれは、実際の現場では欲望を抑えられない人のほうが多数を占めているので、なかなか実行できません。自分の欲望を抑える気のある、一部の建前を大事にする人は一生懸命努力をしますが、そこまで建前を貫く気のない人は抑えられないなので、全体として欲望の肥大は抑えられない方向に走ってしまうというパターンです。

 そういう、「本音でいく人」対「建前を貫こうとする人」という対立構造で、多数の経済成長派と少数のエコロジー派がにらみあってきたのが、ここのところ40年ちかい日本のパターンではないかと思われます。しかし、これでは問題解決はできない、と私は考えています。

第3は、「欲望は、もともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、治療できる」という考え方です。

 人間の欲望が、本質的に第1のように無限に肥大するものであれば、人類の未来についてはあきらめるか、さもなければ、技術の進歩でそのうち何とか解決できると信じるほかないでしょう。

 第2の捉え方では、「抑制すべき」とか「抑制できるはず」という考えに反して、現実としては人類は全体として欲望肥大の方向に向かっているという事実をうまく理解・分析ができないのではないでしょうか。

 うまく理解・分析できないまま、「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りないからで、これからトレーニングをすればなんとかなる。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的にコントロールできるようになるはずだ。そういうことをねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなって世の中が変わるだろう」と考えることになります。

 確かに、スウェーデンなどの「環境先進国」の環境教育を考えると、政府主導で国民全体に対してしっかりとした教育がなされれば、相当程度、こうしたことも可能なようです。

 4象限のところでお話した、左下・集団の内面の象限、つまり文化全体が環境志向になっていれば、左上・個人の内面、それぞれの欲求のあり方も影響を受けて、環境志向になる強い傾向をもつでしょう。

 しかし、深層心理学の洞察によれば、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分のほうが圧倒的に深くて強い」という面があると考えられます。

 つまり私たちの欲望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。「理屈ではわかっているんだけど、言われるとわかっているんだけど、でもそうしたい」、つまり心の奥から湧いてきて、私たちを駆り立てるというところがあると思います。

 理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でも何かに衝き動かされてやめられないということがしばしばあります。

 しかし、こうした、人間の心には深層という部分があることは今教育の世界の常識にきちんとなっていませんし、まして国民的な常識にはなっていません。

 そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行動のできるような意思が確立できるはずだ」と考えて、いいことを一生懸命教えるのですが、いくら教えても必ずしも実行しない、できないことがあります。

 それはなぜかというと、実行したくない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎり、説明がつかないのではないでしょうか。

 深層心理学的な視点からすると、欲望の源泉は意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識に現われてきたり、あるいは潜んだままで意識を陰から揺り動かし操るものです。

 そのために、意識・理性・意思による直接的なコントロールが難しいのです。

 そのために、第1の捉え方のように、「限りなく肥大していくもので、どうしようもない」ように見えてしまうのです。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。

 ですから、無意識の問題を捉えないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするアプローチには、もちろん社会全体で合意して行なえれば、相当な効果はあるのですが、限界もあると思うのです。

 それに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という発想が必要だ、と私は考えてきました。



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第3の道から自律主義へ

2006年09月16日 | 持続可能な社会

 高度産業主義社会から自然成長型文明に突然転換するのは無理ですから、プロセスとしては、自由放任型の市場経済・産業主義ではなく、まずスウェーデンのような〈第3の道〉――経済的には自由・資本主義的に、分配-福祉の面では社会主義的にという――北欧型社会民主主義に早めに移行する必要があるのではないでしょうか。

 ほんとうに「持続可能な社会=緑の福祉国家」を創りたいのなら、そういう政治的決断が必要だと思います。

〔ソ連・東欧の崩壊以後、「社会主義」ということばのイメージがきわめて悪くなっていて、たとえ「北欧型」と但し書きをつけても、「民主主義」が後についていても、日本の大衆にすぐに「社会―民主―主義」こそ次の選択肢だと感じてもらうのはかなり難しそうだ、という問題もありますが、それは今後のイメージ戦略の課題でしょう。〕

 そして、やがて人類の多数が自らの内発的な自律的な欲求として自然成長型文明を選択するところまで行けるといいと思います。それを、私は〈自律主義〉と呼んでいます。

 自らの意思・内発性で自らを律するのを自律といいます。自由というのはほんとうはそういうことなのです。決して自らを滅ぼしてしまうような欲望に駆られて身勝手にすることが自由ではありません。自らをも人をも生かすことができるように、自らをすすんで律することのできる心のあり方を自律というわけです。

 これから人類は全体としては自律していかなくてはいけないし、その外面なかたちとしては自然成長型文明であり、そういう文明を心の底から望む人々の文化と集団、つまり内面がそういう外面とちゃんと対応して出来てくるという条件が調ったら実現可能だということです。

 この個人と集団の内面が調わなかったら、外面としての持続可能な世界―自然成長型文明もできないでしょう。いくらヴィジョンだけ描いても、「絵に描いたモチ」で、それを実行・実現する主体がないのですから。

 「誰か、やるべきだ、やってくれ」と言っても、今社会の主導権を握っている方たちの大多数は、多分やらないでしょう。

 幕末―明治維新の勝海舟などのように、既成の主流にポストをもちながら、新しい潮流を理解し協力するという方も少数ながらおられますから、希望はありますが、全体としては、残念ながら持続可能な=つまり無限の成長という発想を抜けられないようです。

 ですから、気がついた人間が始めるほかない、と私は考えているわけです。



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ニルスのふしぎな旅――スウェーデンの児童文学

2006年09月15日 | 心の教育

 スウェーデンの地理と国民性を知るための古典的な文献は、意外にも児童文学であるラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』(全訳は4巻、偕成社文庫)ではないか、と小澤先生から聞いて、早速入手し、今日、まず第1巻を読み終わりました。

 子どもの頃、いろいろな児童文学を夢中になって読んだことを思い出しました。

 これは、今読んでもすごくおもしろい! お勧めです。

 もともとスウェーデンの子どもたちが国の地理や歴史をおもしろく学べるようにという依頼で書かれたものだそうですが、実によくできています。

 これなら、子どもが乗せられて楽しんで学んでしまうでしょう。

 そういう大人の側の思惑があることを知ってから読んでも、私も乗せられてしまうのですから。

 続きが楽しみです。他にもいろいろやらなければならないこと、読まなければならないものがあって、これに集中できないのが残念ですが。

 これから読もうと思っているのですが、村山朝子『『ニルス』に学ぶ地理教育――環境社会スウェーデンの原点』(ナカニシヤ書店)という本もあるようです。

 それはともかく、話の筋とはややずれるのですが、ちょうど今の状況を言い当てているなと思う、とてもいい言葉があったので、ご紹介します。


 子どもというものは、目の前のことしか考えないで、いちばん近くにあるものをすぐに欲しがる。そして、それをとるために、いったいどんな損なことになるか、よく考えない。


 これは、まるで近代人が、経済的利益や便利さを求めるあまり、自分のいのちのベースである環境に関してどんな損をすることになるのか、よく考えていなかった…今もあまりよく考えていないことへの、実に的確な警告であるように感じられました。

 目の前のことには賢いけれども、長い目で見るという意味ではまだ賢さが足りない近代人は、もっと大人になって自分を含む人類全体の長期にわたる安全や安心という利益を追求できるよう、もっと賢くなる必要があるのではないでしょうか。

 そういう賢さの点では、スウェーデンは世界のいちばん上のお兄ちゃんであるようです。

 日本もすなおな弟になれるといいですね。



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シンポジウム参加者募集が始まりました

2006年09月14日 | 持続可能な社会

 下記の要領で、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンにまなびつつ」の一般参加者の募集が始まりました。

 環境問題をぜひ解決したい、そのために自分にできることをしたいと真剣に考えておられる方々の参加を心からお待ちしております。


                    


 本シンポジウムは、環境問題について一般的な知識をお伝えするというより、趣意書のような方向性について予め理解していただき、基本的に合意できそうだと思われる方にお集まりいただいて、その方向性を再確認し、可能ならばご一緒にその先の展開を考えていただくことを目指しております。

 そのため、シンポジウムの進行もスケジュールをきっちり決めるのではなく、ごく大まかに、開会から午前中、大井玄(元国立環境研究所所長・東京大学医学部名誉教授)、小澤徳太郎(環境問題スペシャリスト・元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)、西岡秀三(国立環境研究所理事)、岡野守也(サングラハ教育・心理研究所主幹)によるシンポジウムの趣意についての確認の発題、午後から4者の対談の後、出席者からのメッセージ、コメント、質問をいただく、というふうに考えております。

 また、討議内容をその場かぎりでない実りあるものにするため、ご参加のお申し込みをいただいた方には、シンポジウムの発題の内容のパンフレットを予めお送りしてお読みいただけるようにする予定です。

 皆様、それぞれに大変お忙しいことは十分承知しておりますが、なにとぞ趣旨をご理解いただいた上で、ぜひ、万障繰り合わせて、ご出席・ご参加いただけますようお願い申し上げます。

 また、意思はあるが都合で今回は参加できないという方には、ぜひ、メッセージをいただきたいと思っております。


日 時 2006年11月19日(日)午前10時~午後5時

会 場 龍宝寺 玉縄幼稚園講堂

住 所 247-0073 神奈川県鎌倉市植木129(JR大船駅より徒歩20分、バスの便あり) 
   
参加費 2000円(昼食のお弁当・お茶代を含む。お支払いは当日受付にて)


●お問い合わせ、お申し込みは、シンポジウム事務局宛にファックス(0466-86-1824)またはメール(greenwelfarestate@mail.goo.ne.jp)でお願い致します。お名前、お仕事、ご住所、お電話・ファックス番号、メールアドレスをご明記下さい。お申し込みいただいた方には後日、発題パンフレット、地図等、資料をお送りします。

 終了後、インフォーマルな二次会も行ないたいと思っております。併せてそちらへのご参加の有無もお知らせ下さい。

 申し込み締め切りは、9月30日とさせていたきます。

   2006年9月14日

 
  シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」事務局


*ご賛同いただける方は、ぜひ、趣意書やこの記事をコピーしていただいて、たくさんの同じ気持ちの方にお伝えいただけると幸いです。

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実現に不可欠な4つの面の条件

2006年09月14日 | 持続可能な社会

 どうしたら本当に「持続可能な社会」が実現できるのかを考えるうえで決定的にヒントになると思うのがケン・ウィルバーという思想家が『進化の構造1・2』(松永太郎訳、春秋社)で書いている存在の「4つの象限」という考え方です。







 ウィルバーは、世界や人間を全体として捉えるためには4つの面=象限を区別したうえでそれぞれをすべて見る必要がある、と言っています。

 「4象限」というのをわかりやすく図式化すると、縦軸、横軸で区切られたグラフになります。上は個別・個人の象限、下は集団とか社会の象限、右は外面、左は内面です(ウィルバー『進化の構造1』春秋社、p.196 より引用)。






 『進化の構造』では、この4つの象限で物を考えないと、世界の全体像が見えてこないということがきわめて詳細に説得的に語られていて、私にとっては目から鱗が落ちるという本でした。

 例えば消費行動というのは、まず外側で見える個別の行動です(右上象限)。

 それは、実は購買意欲という個人の心の中・内面で起こっていることと関わっています(左上象限)。

 ところが、いくら買いたいと思っても、貨幣経済という集団の共有する文化(左下象限)がなければ、ただの紙であるお札がお金と見なされて物を買えるということが起こりません。

 さらに、実際に買い物ができるためには、社会の外面として商品流通システム(右下象限)があって、商品が流通していなくてはいけません。

 他のことについても自分でシミュレーションしていただくと納得いくと思いますが、こういうふうに、私たちの世界で起こっていることにはすべて必ず4つの象限があるというのです。

 そういう視点から見ると、これまでエコロジーが問題になってきた時、エコロジカルな技術や消費者行動をどうしたらいいか、あるいは環境にやさしい社会システムはどうやったらできるのか、という外面・右側象限の話はかなり深められてきたけれども、左側が十分ではなかったのではないかということが見えてきます。

 例えばいちばん典型的なのは、国連大学が中心になってやっているゼロ・エミッション社会の構想です。あれは外面の形としていえば、実現できるのなら、とりあえずはほぼそれでいいわけです。

 ところが、日本国民の一人一人ということになると、そういうことをほんとうにやる気があるのでしょうか。さらに、日本国民の中でそれをやるほんとうに実行力のある集団、あるいは国民的合意が獲得できているのか、という問題になると、ここはほとんど抜けているのです。本音で言うと、「無理なんじゃないの」と国民の大多数が思っていたり、特に指導者たちは「今の高度産業社会を急に変えるわけにはいかないじゃないか」「まず景気対策が先だ」「いくら環境を壊すといっても、やっぱり公共事業をやらないと景気は回復しないだろう」という話になってしまうのです。

 ここのところについては先ほども言ったように、市民や学者は批判をしてきたのですが、どうして個人と国民全員の内面を変えていくかという基本的な視点や方法については、問題意識が不十分だったのではないか、と私は見ています。

 その結果、35年、かなり多くの心ある方々が外側のことに真剣に取り組んできたにもかかわらず、リーダーの内面=基本的な価値観や発想は変わらず、国民の大多数の内面=気持ち・欲求構造も変わらなかったので、全体に集団の内面としてのエコロジカルな文化は形成されず、集団の外面としての社会システムも変化しないままだった、ということではないでしょうか。

 そして世界全体としては依然として、後進国は先進国に追いつこう、先進国はやっぱり経済成長を続けよう、ということになっており、日本もそれに追随しているわけです。

 これでは、世界全体も日本も、大量生産-大量消費-大量廃棄というパターンを抜けることはできません。

 では、ほんとうにエコロジカルに持続可能な社会の実現には何が必要かというと、まず第1・右上象限では「環境に調和した個別の技術や個人の行動」です。これをどうすればいいかについては、そうとう程度見通しがついていると思われます。

 次に、第2・左上象限の「環境と調和した生き方をするのが、いちばんいい生き方でいちばん幸せなのだと感じるような個人の欲求構造」です。環境を壊してまでぜいたくな生活はしたくない、「してはいけない」のではなく、「したくない」と思うような心の欲求構造のあり方です。そうした欲求構造を育むことは、容易ではありませんが、可能だ、と私は考えています。

 それから第3・左下象限の、環境との調和を最優先して、なおかつ個人に対しては自然な欲求を育んでいくような方向付けを絶えずするような文化です。つまり、例えば子どもが学校で教わっていると自然と環境を壊すようなことをしたくなくなるような教育が行なわれているような社会ということです。

 そしてもちろん言うまでもなく、第4・右下象限の、環境と調和した社会システム、特に生産システムが必要です。

 この4つの象限の条件が全部そろえば、「エコロジカルに持続可能な社会」はまちがいなく実現するでしょう。

 そして、この中の右上象限と右下象限のヴィジョンに関して言えば、スウェーデンでは当面向かうべき目標はほとんどできているようです。

 しかし、私はスウェーデン・モデルでもまだ不十分で、さらに行き着くべき先は〈自然成長型文明〉という文明の方向を考えています。これについては、あとで述べます(このブログでは先に書きました)。

 ほんとうに持続可能な社会秩序を創り出すために必要なものは4つの側面であり、さらに実行レベルでいうと、まず4つの象限をすべてカバーしたヴィジョンが必要だということです。目標設定をするためには、ヴィジョンが必要です。

 それから、高度産業社会から自然成長型文明までは大変な距離がありますから、そこに到るまでのプロセスとしてスウェーデンの「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」をモデルにして、日本は日本にふさわしい、各国は各国にふさわしい形をどうやって設計するかという発想も必要でしょう。

 そして、今日本でいちばん欠けていて、いちばん大事なのは、主体の問題です。誰がそれをやるのかということです。

 私は譬えとしてよく言うのですが、ネズミとネコの寓話をご存じでしょうか。ネコがネズミを絶えず食べにきて仲間たちがどんどん減っている、「どうしよう」とネズミたちが相談します。「ネコの首に鈴をつけたら、来るのがわかるから逃げられる」という意見が出て、「それはいい、それはいい」と全員が同意しましたが、さて、誰がやるのかということになった時、みんなやりたがらなかったのです。そして結局、1匹ずつ食べられていって全滅しました、という話です。

 それに似て、ヴィジョンとプロセスの設計ができても、実行の主体がなかったら何にもなりません。国民が「私が実行の主体になるんだ」という意欲をもたないかぎり、「政治家がやるべきだ、官僚がやるべきだ、学者が考えるべきだ」と言っている間は――35年間できなかったわけですし、その傾向は変わっていませんから――できないでしょう。

 だから、「あなたたちがやらないのなら、私たちがやる」、つまりデーモス・クラティア=民主主義です。「あなたたちがリーダーとしてふさわしい行動をしてくれないのであれば、私たち国民が主権者として、私たちの望むリーダーを選びなおします」、今「持続可能な社会」を望んでいる国民はそういう決意をもつ必要があるのではないでしょうか。

 まず日本人の中のどれだけの人間が、さらに人類全体の中のどれだけの人々が、それだけのエネルギーや意欲や決意をもちうるか、持続可能な社会を実現する本当の主体になれるかということが決定的な課題だ、と私は考えています。

 そして、その課題はもちろんやすやすというわけにはいかないにしても、やがて必ずクリアできる、と信じています。




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問題解決法か願望実現法か

2006年09月13日 | 持続可能な社会

 さて、こういう問題を考えるときに、大きくいってアプローチの仕方に2種類あります。

 問題解決のアプローチとしては、ふつうほとんど例外なくまさに「問題解決法」と呼ばれる方法が採られます。これは、まず現状認識から始まります。それから原因分析を行ないます。それから対策策定が行なわれて、実行がなされるわけです。

 専門的には「フォアキャスト」と呼ばれる手法です。

 ところが、問題は、すでに言ったとおり、この間で段階を追うごとに割引がなされるということです。

 問題解決法というのはそもそも起こっていることを問題・マイナスと見ていますから、できるだけその問題でマイナスの努力をしたくないという心理が必ず働くわけです。例えば「環境汚染をなんとかするための財政負担をどうしよう」といった発想になるわけです。負担・マイナスととらえると、なるべくそれを減らしたくなります。

 「問題解決法」というアプローチですると、心理的にあるいは実際財政的にも割引、割引ということになり、実行段階になると必ずといっていいくらいかなり割り引かれた実行しかできないのです。

 ところが、従来、公式の機関がやってきたのは全部この手法でした。

 ですから、ほんとうにやりたいのであれば、私に言わせると、そういう手法だけでは足りないのです。

 それに対して、より有効だと思うのは、「願望実現法」というアプローチです。

 先ほどの第1のシナリオを実現しようとする場合、どうすればいいかというと、我々はどこに行きたいのか、どこに行かなくてはいけないのか、というヴィジョンをはっきり目標として設定するということです。

 つまり、高度産業社会、高度浪費社会はこのまま続けることはできないとしたら、そうでないエコロジカルに持続可能な社会に行かなくてはいけないのだ、行きたいのだ、それが人類の行かざるを得ない目標である、ということをはっきりと割引なしにヴィジョン設定をするということです。

 スウェーデンなどが採用しているのはこうした手法で、「バックキャスト」と呼ばれます。

 スウェーデンのように政府がバックキャスト手法でやっている国はいいのですが、我が国のようにフォアキャストでやってきた国では、まず気づいた市民が、以下のような「願望実現法」という方法で、国家単位でのバックキャストを目指して目標を設定することから始めるほかないでしょう。

 目標を設定したら、それが実際に具体化したらどういうことになるのかをイメージ化してみます。

 そして、それにもし参加するのであれば、もうそれは実現すべきものだから、実現するんだというふうに信じるしかないのです。

 これまで挙げてきた予測からすると、確率的にいえば人類の未来は相当に当厳しい、と私は読んでいます。にもかかわらず、その先に行きたいんだという願望が自分の中にあるのであれば、もう「行くのだ、行けるのだ」とまず自分の中で信念を確立するしかないのです。

 そうすると、何が起こってくるかというと、私たちの心の中に「行く」というエネルギーが湧いてくるのです。「そこに行くんだ、行かなくっちゃ、行きたい」というエネルギーが国民的な規模で獲得できるかどうかというのが、実は一番大きな問題だと私は考えています。

 みんなが「なんとなく大変なのはわかっているけど、それに関わるのはめんどくさいし、大変だし、疲れるし、暗くなるし……」と言っていたのでは、起こる確率の高いことが実際に起こってしまうでしょう。

 先ほどの問題解決法だと必ず「犠牲を払う」という話になるのですが、それに対して、願望実現法という手法を使って、これから先人類が向かうべき行き着く先を希望のある世界としてヴィジョンをきちんと描き出せたら、そこに行きたくなり、そこでする努力は「自分の夢のための先行投資だ」という発想に変わるのです。

 私たちがこういうことに関わるときに、自分たちの未来のため、夢のために先行投資をするんだという発想を確立することです。

 しかし、今きわめて高度に発達した産業社会ですから、これを今日や明日に変えるわけにはいきません。エコロジカルに持続可能な社会と高度産業社会の間には、そうとう大きな距離があります。

 この距離だけを考えると絶望しそうになるのですが、そこで私たちは近代以降の理性の時代に生きている人間ですから理性を使わなくてはいけません。

 どんなに遠くてもステップを踏んでプロセスを踏んで歩んでいけば、目的地に到達するということです。プロセスをはっきりと意識的に設計するということです。どこに行きたいのかがはっきりしたら、そこに到達するためのプロセスを設計するのです。

 このプロセスの設計というのは、ヴィジョンさえ確立してしまえば、日本には細かいプロセスが設計できる非常に優秀な能力をもった学者や官僚はたくさんいますから、少なくとも国民、国民の代表としての政府がこちらに向いて行くのだと決めて、学者と官僚に発注すれば、プロセス設計は間違いなくやってくれるでしょう。そうしたら、それこそ官民挙げてそれを実行・実現すればいいわけです。

 すでにかなりのプランが、学者の中からも通産省や環境省の官僚の中からも出てきていますし、少し前から「バックキャスト」手法で行かなければならないということさえ語られるようになっていますが、残念ながら肝心の目標が、エネルギー消費の限界をはっきり押さえた真に「エコロジカルに持続可能な社会」ではなく、経済成長とそのためのエネルギー消費の拡大を前提にした「循環型社会」という構想ですから、それでは本当の問題解決にはならない、と私は考えています。

 しかし幸いなことに、すでに国家単位で「エコロジカルに持続可能な社会」を目標に掲げ、バックキャストの手法で着実に実現しつつあるスウェーデンのような国もあります。私たちは、具体的なモデルがないところで、ゼロから考える必要はないのです。

 私たちは、スウェーデンなどの「福祉先進国」でありかつ「環境先進国」である国々に学びつつ、まず日本の未来のヴィジョンを描くことができるでしょう。

 そして、ヴィジョンができたら、それを実現するための手法は「バックキャスト」そして「願望実現法」です。



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もっとも多いのは先送り・先延ばし

2006年09月10日 | 持続可能な社会

 先進工業国の多数は、本音では今の資源浪費型の高度産業社会――これは必然的に大量生産-大量消費-大量廃棄社会です――をやめたくないようです。

 しかし本音を公式の場で言うとデータと矛盾しますから、建前的には「持続可能な社会」というコンセプトを受け入れるようになっています。

 例えばインターネットで「持続可能な社会」というキーワードで検索してみると、官民通して建前としての受け入れ-浸透の度合いは、驚くばかりです。

 しかし、そこで語られていることをよく読んでいくと、実際的にはスウェーデンなどの行なっている政策とは根本的に異なった方向のものが多いようです。

 そして、官の多くが本音ではないようで、実際にやることを見ていると、最優先・最重要課題としてお金や人やいろんなことをどこまで注ぐかを持続的に観察していると、いつも問題先送り気味になっているように見えます。

 日本でいうと35年ずっと問題先送りです。世界各国の多数もそうです。そのツケがそろそろはっきり回ってきそうだということでしょう。

 もちろん、問題先送りといっても、最初から先送りをしようというわけにはいきませんから、公式にはどうするかというと、「対策を策定しましょう」ということになります。

 「まず事実を確認しましょう」ということで、研究調査が始まります。研究調査で暫定的な結論を出すためだけでも○○年かかるとかいう話になります。

 その間、疑わしきものはどんどん放置されます。疑わしきものが放置されるということを30年もそれ以上もやっていて、疑わしきものはどんどん増えてきているのです。

 法律は「疑わしきは罰せず」の原則で行くべきでしょうが、環境は「疑わしきは対策をする」でなければならないと思うのですが。

 そのあたりのことを小澤徳太郎さんは、「スウェーデンは予防志向の国であり、日本は治療志向の国だ」といっておられます。

 近代科学以来、化学物質は1千数百万種作られたのだそうです。このうちのどれくらいが内分泌攪乱物質つまり環境ホルモンなのか、1千数百万種について、誰が研究してどういうマニュアルをつくって、どうやってコントロールをするのでしょうか。人類-科学者は、化学物質を1千数百万種作って、まだやめていないのです。

 ともかく、問題があることは事実ですから、「問題があります。研究しましょう。事実を認識しましょう」とさんざんすったもんだとやったあげく、そこで学者間の学説の違いによって割引きが必ず起こります。

 いちばん深刻に予測する人とさほど深刻に予測しない人の間の中間くらいの結論しか公式には出せないのです。そこでまず割引きが起こります。

 次に対策策定がなされるのですが、この対策策定というのは公文書だけ見ると(例えば典型的には「環境基本計画」ですが)、結構がんばってやってくれるのだと思って期待するのですが、実行段階を見ていると、書いてあることの半分も実行されないように見えます。ここでもまた割引きが起こるわけです。

 こういうふうにして、どんどん割引きが起こるという人間的なマイナス要素が必ず加わってきますから、対策策定の内容に対してある程度の実行というふうにしかなりません。対策策定そのものが危機のいちばん深刻な予想に基づいてなされないうえに、実行段階では割引きされますから、結局、問題の根本的解決は先延ばしになるだけです。

 というわけで、国際自然保護連合の「国家の持続可能性」ランキングで上位に評価されている、スウェーデン、フィンランド、ノールウェー、アイスランドなどの北欧は解決に相当接近しており、オーストリア、カナダ、スイス、そしてドイツ、デンマーク、ニュージーランドがある程度接近しつつあるのを別にすれば、日本を含め多くの先進工業国では、公式の世界での建て前が第2のシナリオ、実態は第3のシナリオに限りなく近いということが起こってきたし、今でも続いているように思えます。

 しかし、環境問題の緊急性からいえば、本当は先延ばしなんかやっていられるような状況ではない、と思います。


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シンポジウム趣意書

2006年09月08日 | 持続可能な社会

シンポジウム『日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!
                       ――スウェーデンに学びつつ


                       趣意書


 多くの警告や専門機関、専門家、民間活動家も含めた多くの人々の努力にもかかわらず、この数十年、世界全体としての環境は悪化の一途をたどっています。
 例えば、地球温暖化―異常気象、オゾン層の破壊、森林の減少、耕地・土壌の減少、海洋資源の限界―減少、生物種の激減、生態系の崩壊、化学物質による大気・耕地・海洋の汚染、核廃棄物や産業廃棄物から生活ゴミまでの際限のない増加などなど、どれをとっても根本的に改善されているものはないのではないでしょうか。

 専門家が警告を発し、それを聞いて理解した人々が「できることをする」ことによって、こうした環境の悪化はやや減速されたかもしれませんが、止まってはいない、それどころかじわじわと深刻化していると思われます。環境問題は私たちが豊かになるという目的のために行ってきた経済活動の結果、必然的に「目的外の結果」が蓄積し続けているものだからです。このことは、改めて確認しておく必要があるでしょう。
 残念ながらこれまでの多くの努力は、まだ有効な結果を生み出しているとは言いにくいのです。「努力をしていれば、そのうちなんとかなる」という発想は、こと環境に関しては不適切です。たとえ心理的には不快であっても、出発点としてはそのことのきびしい認識が不可欠だと思われます。

 しかし悪化し続けている現状を認識するだけでは、私たちは危機感と不安が高まり、無力感と絶望に陥ってしまうだけでしょう。
 そういう意味で、本シンポジウムは、「環境の危機を訴える」ことだけを目的にしていません。それは、きわめて早い段階の『ローマクラブ・レポート(邦訳『成長の限界』ダイヤモンド社)』(1970年代初め)を典型とする、国連を初め国内外の信用できると思われる機関や専門家が示してきたデータに基づいた警告をごく素直に読むと、地球環境が非常な危機にあることはすでにあまりにも明らかだと思われるからです。

 私たちは本シンポジウムを通じて、むしろ環境の危機に対して「どういう対策が本当に有効かつ可能か」ということを、スウェーデンという一つの国家単位の実例をモデルとして検討します。そして、そこから大枠を学ぶことによって、もちろんそのままにではないにしても、日本のこれから進むべき方向性が見えてくるのではないか、という提案をしたいと思うのです。

 かつてヨーロッパの北辺のきわめて貧しい農業国だったスウェーデンが、戦前から特に戦後にかけて、急速な近代化・工業化によって豊かな福祉国家に変貌してきたことは、よく知られているとおりです。単に「経済大国」になるのではなく、「生活大国」になったのです。
 しかし、70年代、そして90年代前半、スウェーデンが不況にみまわれた時、「それ見たことか、やりすぎの福祉のための高い税と財政の負担が経済の足を引っぱった。やはり『スウェーデン・モデル』には無理があったのだ」という印象批評がありました。
 ところが実際には、90年代前半の不況をわずか数年でみごとに克服し、国の財政収支はほぼバランスし、世界経済フォーラム(ダボス会議)の経済競争力調査では2005年までの過去3年間世界第3位にランクされています。いまや経済・財政と福祉、さらには環境とのみごとなバランスを確立しつつあるようです。

 しかもそれは、たまたまうまくいったのではありません。問題解決の手法として、目先の問題に対応するのをフォアキャスト、到達目標を掲げそれに向けて計画的に実行していくのをバックキャストといいますが、スウェーデンは、政治主導のバックキャスト手法によって、「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」という到達目標を掲げ、それに向けて着実に政策を実行し、目標の実現に近づいているということなのです。

 「日本も『循環型社会』というコンセプトで努力しているではないか」という反論もあるかもしれません。しかし、決定的な違いは、必然的に大量生産―大量消費―大量の廃棄物を生み出すというかたちの経済成長を続けることが前提になっていることです。これは原理からしても「持続可能」だとは思われません。

 それに対しスウェーデンは、政府レベルで、経済活動を自然の許容する範囲にとどめながらしかも高い福祉水準を維持できるような成長は続けるという、きわめて巧みなバランスを取ろうとしていますし、それは成功しつつあるようです。
 私たちは、もちろんスウェーデンを理想化・美化するつもりはありませんし、他の国からも学ぶ必要がないとは思っていませんが、国際自然保護連合の評価を信じるならば、現在のところ「エコロジカルに持続可能な社会」にもっとも近づきつつある国であるようです。そういう意味で、きわめて希望のもてる「学ぶべきモデル」だと考えているのです。

 しかも、政治アレルギーに陥っている日本の市民にとって重要なことは、スウェーデンの政治権力はみごとなまでの自己浄化能力・自己浄化システムを備えているということです。堕落しない民主的な政治権力というものが、現実に存在しえているのです。
 自浄能力のある真に民主的な政治権力の誘導によってこそ、経済・財政と福祉と環境のバランスのとれた、本当に「持続可能な社会=緑の福祉国家」を実現することが可能になるのではないか、それはこれからあらゆる国家が目指すべき近未来の目標であり、日本にとってもそうであることはほぼまちがいないのではないか、と私たちは考えています。

 私たち日本人が今スウェーデンから学ぶべきものは、なによりも国を挙げて「緑の福祉国家」を目指しうる国民の資質とその代表・指導者たちの英知と倫理性だと思います。

 きわめて残念ながら当面日本には、「緑の福祉国家」政策を強力に推進できるような国民の合意も政治勢力も見当たりませんし、すぐに形成することも難しいでしょうが、環境の危機の切迫性からすると早急に必要であることは確かだと思われます。

 本シンポジウムは、そうした状況の中でまずともかく、方向性に賛同していただける方、あるいは少なくとも肯定的な関心を持っていただける方にお集まりいただき、近未来の日本の方向指示のできる、ゆるやかではあるが確実な方向性を共有するオピニオン・グループを創出したい、という願いをもって開催致します。

 趣旨にご賛同いただける方、次の世代のためにぜひご参加・ご協力いただけますようお願い致します。

      2006年8月28日

                         シンポジウム呼び掛け人

                         元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー
                         環境問題スペシャリスト       小澤徳太郎
                         サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也
                         元国立環境研究所所長       大井 玄



*一般の方への参加募集は9月15日から始まっていますシンポジウム事務局のブログでご覧下さい。



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ありうる近未来の3つのシナリオ

2006年09月07日 | 持続可能な社会

 このような現状のまま進むと、どういうことが起こるか、大まかにみて3つのシナリオが描けると私は考えています。

 第1は、環境危機の本質をはっきり認識して、ではどこへ向かうべきなのか明確に目標設定をして、本格的な実行をして、実際に持続可能な世界秩序を創り出すというもっとも望ましいシナリオです。

 後でもう少し詳しくお話しますが、こういうシナリオの手法はスウェーデンが採用しているもので、「バックキャスト」ないし「バックキャスティング」といいます。

 このシナリオは、先にお話ししてきたような日本の条件を考えると、そうとうに困難ですが、不可能ではないと思います。日本政府の環境関係者も、最近、手法としては「バックキャスティング」で行くことを決定したそうです。問題は、目標が「循環型社会」では不十分だと思われるという点ですが、それでも大きな前進であることはまちがいありません。

 ところが、繰り返しお伝えしているとおり、幸いかつ驚くべきことに、スウェーデンを代表とする北欧諸国は、第3のシナリオを着実に実行しつつあるようです。

 実は、1999年の初版では、このシナリオはきわめて困難で実行不可能かもしれないという思いがあって、第3にあげたのですが、スウェーデンの実例をとおして、これは条件次第では実行可能だと考えるようになり、第1に変更しました。

 もちろん、このシナリオはまだ少数の「環境先進国」で採用されているもので、世界全体としてはまだまだですが、しかし確実に実行されつつあり、国際社会の世論形成に影響を与えつつあるということは大きな希望です。

 第2は、一見それに近いのですが、形式上「対策策定」をして「実行」していることになっている、というシナリオです。

 特に先進国ではどこでも、環境問題に対してそれなりに対策を策定して、実行していることになっています。

 日本も、環境庁ができて、環境省に格上げになり、いろいろな研究機関が作られ、そこにたくさん優秀な官僚や研究者がおられて、いろいろ資料を作りあげて、環境基本法が制定され、環境基本計画などいろいろなプランを作っておられるのですが、それは、実行といっても、残念ながらある程度の実行であるように見えます。

 問題が起こってからそれに対応して対策を立てるという手法を「フォアキャスト」「フォアキャスティング」といいますが、従来の日本の「公害対策」「環境対策」はこの手法で行なわれてきました。

 これは、次の100パーセントの問題先送りよりはましですが、結局のところ、崩壊の若干の先延ばしにしかなっていないのではないか、と私は見ています。

 第3は、問題先送りです。

 環境問題を最優先課題にしていない人々が主導権を握っている国では、当然問題は実質的にはかなり後回し―先送りになっていきます。

 経済大国としてはまずアメリカ、それから大きな人口を抱えこれから経済大国になろうとしている中国やインド、そして残念ながら実質的には日本も、そしてもっとたくさんの国がそうであるようです。

 1998年の時点で、国連環境計画の顧問、東大大学院の国際環境科学の教授を経て、現在北海道大学大学院の公共政策の教授をしておられる、日本の代表的な環境問題専門家の一人である石弘之氏が、『地球環境報告Ⅱ』(岩波新書)で、「この『先伸ばし』の限界は、いつごろ世界的に顕在化してくるだろうか。私自身、さまざまな分野の研究者と将来の見通しを検討しているが、2020年ごろがひとつのヤマ場となると考えている。……このままでは生産や人間生活を支える基本となる水、森林、土壌、水産資源などがそのころまではもちそうもないからだ。」(p.208)と書いておられました。

 そして、最後に「日本はタイタニック号ではないだろうか、と思うことがよくある。だれもが、前方に氷山があることは知っている。まさかこの不沈艦は沈むことはない、科学技術をもってすれば容易に回避できる、と氷山の存在をことさら無視しているのではないだろうか。氷山の破片が漂いはじめている事実は本書中で報告したとおりである。」(p.213)と書いておられましたが、基本的には状況は変わっていないのではないでしょうか(石氏自身、その後もブログでそういう趣旨のことを訴え続けておられます)。

 そうすると、早めにみてまず2020年くらいと予測される世界的な環境危機による大混乱の中に、日本も巻き込まれていくことが想定されます。

 国連大学が昨年10月に発表した警告によれば、「2010年、5千万人もの人々が地球環境の劣化による問題から逃れることのできない生活を強いられているであろうという予測がされている。これを受け、国際連合大学の専門家達は、この新しい『難民』の分野を定義、認知、そして支援することが緊急課題であると考えている。」

 「地球環境の影響を受けて移住を余儀なくされる人々は、すでに、現在およそ1,920万人程度と計算されている『援助対象者』と同程度の人数であり、近い将来、この数字を上回るとされている。また、赤十字の調査でも戦争による移民よりも地球環境問題を原因とし、住む場所を失う人々の方が多いという調査結果が出ている。」ということです。

 人類が突然絶滅するというSFパニックもののような事態を想定するのは現実的ではないと思いますが、世界全体として大きな混乱が生じることはまちがいないでしょう。

 そしてそういう状況が急激に進むと、100年以内に世界全体がそうとう悲惨な状況になり、人口が非常に少なくなって、荒廃しきった環境条件の中でわずかな人類が細々と生き残るという事態に到ることも、まるで想定できないことではありません。

 とはいっても、それまでの国の政策の違いによって、それぞれの国の状況にはかなり大きな格差が出るでしょう。

 バックキャスティングで政策的に対応した国は「ソフトランディング(軟着陸)」できるでしょうし、フォアキャスティングで対策的に対応した国やさらにほとんど先送りした国はさまざまな程度の「ハードランディング(墜落)」をすることになりそうです。

 これからの世界は、大まかにいってこの3つシナリオしかないだろうと思います。

 といっても実際には第1から第3まではグラデーションですから、人類全体としてどのあたりに到達できるか、それが問題だ、ということになります。

 ぜひ、まず日本の、そして世界の国々すべてのリーダーたちが、「エコロジカルに持続可能な社会」に向けて、バックキャスティングの手法を採用し、最善のシナリオを選択するように働きかけていきたいものです。




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〈自然成長型文明〉というヴィジョン

2006年09月06日 | 持続可能な社会

 「成長の限界」が自然の掟であるとすれば、ではどうすればいいのでしょうか。

 結論的にいってしまえば、「無限の経済成長」ではなく、「自然の成長に合わせた人間生活の成長」を目指せばいい、と私は考えています。

 このネット授業でずっとお話ししてきたとおり、コスモスは自己組織化・自己複雑化という意味でより組織化されたより複雑な、つまりより高度なシステムへと成長し続けるものです。

 太陽の寿命が終わりに近づいて、地球が溶けてしまう何億年か何十億年先のことはともかく、少なくともここ1億年や2億年は地球というシステムも、人類の影響で紆余曲折するとしても、より高度なシステムへと成長し続けることは確実だと思われます。

 (そんな先のことまで気になる心配性というか心配症の方のために一言いっておくと、太陽が超新星爆発を起こしてその生命を終わっても、銀河スケールで見ると、それは新しい何かの創発の準備になることでしょう。それから、それまでに人類が宇宙にとって生き延びるに値するほど意識(こちらが必須の優先的条件)と技術の進化を遂げていたら、SFではありませんが、太陽系外の星へと移住するということも可能になっているかもしれません。どちらにしても、私の考えでは、まずこの21世紀100年弱、次の世代が生きていける環境を再創造できるかどうかを心配したほうがいいと思います。)

 環境危機の話をすると、「重い」とか「気が滅入る」とか「無理」といわれる方も多いのですが、ヴィジョンが楽しければ、楽しいヴィジョン実現のための先行投資の努力であればやる気が出てくるということがあるので、簡単に〈自然成長型文明〉のヴィジョンの話をしておきたいと思います。

 私がこういう発想に至ったのは、福岡正信さんという自然農法をやっていらっしゃる、エコロジー運動の世界的レベルではすごく有名な方の影響です。

 この方は、耕さない、肥料をやらない、農薬をかけない、草を取らない、それでも化学農法と同等、ときによってはそれ以上の収穫があがるという農法を確立していらっしゃるのです。

 私は、出版社にいた頃に、福岡さんの本を出すに際し、ほんとうなのかと、何回も農場見学に行って、実際に目で見て確かめました。

 行って見ると、「百聞は一見に如かず」で、イネやムギが雑草と一緒に生えていたり、道端や藪の中にキュウリやトマトや大根が見事になっていたり、という自然農園の風景に驚いてしまいました。

 NHKでも何度もドキュメンタリー番組で取り上げていましたから、まるで楽園のような自然農園の風景をご覧になった方も多いでしょう。

 私は、何度もうかがって確かめた結果、生態系をまったく壊すことなく、化学農法と同等またはそれ以上の収穫をあげる農法は確立されている、と確信するようになりました。

 もしそれが正しいとすると、まずこの農法を世界全体でやれば、自然環境をまったく破壊することなくみんなが食べていくことは大丈夫です。

 ほんとうにそんなことが可能かどうか質問すると、福岡先生は、戦前の農業専門学校(今でいえば農業大学)出身の方ですから、数値やデータもきちんと扱える方で、太陽の日射量とそれを植物が地表に固定できる光合成の能力、そのうちどれくらいが食糧になりうるかという計算を全部やると、「世界全体で自然農法をやれば今の人口の倍まで大丈夫です」とのことでした。

 それが84年くらいだったと記憶していますから、2020年から2050年くらいの人口なら賄えるということでしょう(『自然農法 わら一本の革命』『自然に還る』春秋社、参照)。

 しかし、そういうとすぐ出てくる反論は、「そんな不便そうな生活はしたくない。近代は、科学技術のお陰ですごく便利になっていて、この便利さを人類が捨てられるわけがない」というセリフです。

 これに対しては二つの言い方ができます。

 まず、「捨てざるを得ない部分と捨てなくてもいい部分にきちんと区別して考えたほうがいいのではありませんか?」と。

 それから、「捨てざるを得ない部分まで、どうしても捨てないのなら、そうとう悲惨な近未来が待っているようですが、それでも捨てたくないですか?」ということです。

 近代の利便性の中で、エコロジカルに持続可能な社会と抵触しないものは残せばいい、抵触・矛盾するものはやめればいいのです。

 エコロジカルに持続可能ということを主に、近代技術の利便性は従にして、残せるものは残せばいい、さらに工夫できるものは工夫すればいい。原理だけいうと、話は簡単です。

 私は、「二十一世紀以後もずっと人類が生き延びていきたいのだったら、外面の形としては、自然農法をベースにして、それにオルタナティブ・テクノロジーを加味した文明を創るしかない」と考えています。

 そして、それは例えば江戸時代に後戻りするということではなく、人間が自然のゆったりとした成長の歩みに合わせて自然と共に成長するということなのです。

 大自然・コスモスの時間は実に悠々としたものですが、しかし決して停滞することなく進化し続けているのです。

 ですから、少なくともヴィジョンとしては、そういう「自然成長型文明」というヴィジョンを描くことができ、かつ理論的には実行可能だ、と私は考えてきました。

 そして、最近、スウェーデンの実例を知って、ますます実際的にも実行可能だと確信するようになっています。

 まず高度産業主義文明から先駆的国々が「緑の福祉国家=エコロジカルに持続可能な社会」に移行する、そしてその影響が世界全体に広がって「自然成長型文明」が成立する、と。


 補足として、「無理」という方に、すばらしい言葉をお送りしたいと思います。

 なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは 人のなさぬなりけり

 江戸時代の代表的な名君上杉鷹山(うえすぎようざん)の和歌です。

 日本も「緑の福祉国家」にする、さらには世界に「自然成長型文明」を創り出すということは、きわめて困難に決まっていますが、不可能ではないのではないでしょうか。

 「できない」というのは「やらない」人の思うことです。

 「なせばなる!」と私は信じることにしています。

 スウェーデンの人にできて、日本人にできないはずはありませんからね。




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