般若経典のエッセンスを語る52――言葉と分別知

2023年11月22日 | 広報

 何を以ての故に。名字は是れ因縁和合の作法なり、但だ分別憶想仮りに名を以て説く、是故に菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず見ざるが故に著せず。』

 なぜそういう般若波羅蜜をやるのか。名前というものは、そもそも音節でできていて、それぞれの音節が、例えば「わ・た・し」とつながって言葉としての単語になるわけである。そしてその「わ・た・し」という言葉によって、「わ・た・し」という存在が他の人と分離して存在していると思う、分別・憶想をしている。そういうふうに、分別してものを考えるのは名前がついているからなのだ、と。あるいは逆に言うと、名前をつけるから分別・憶想が働くといってもいいだろう。

 以下は、すべてのつながりの話をするのにコスモス・セラピーの講義で使っているエピソードで、すでにご存知の読者も少なくないかもしれない。

 ホワイトボードに木のイラストを描き、「ここに木があると思って下さい」と言う。「木があると思って下さい」と言い―聞いているプロセスに注意を向けてみるよう。
「木があると思って下さい」と言われたら、「木」という言葉・単語が心を巡るのではないだろうか。そして「木」という言葉を使って、その形を見る。すると「そこに木がある」という思いが起こる。

 その時、この「木がある」という思いはどうなっているかというと、木が木それだけで存在しているという思いではないだろうか。「木」という言葉を使ったとたん、「木は根を張るための大地がないと存在し得ない」といった縁起のことは意識にはまったくなくなっている。「木」と聞くとすぐに「あ、それは大地があるからこそだ」と思える読者がおられたら、縁起の理法がそうとう頭に入っているということになる。

 なぜ大地が必要かというと、もちろん根を張るためだが、根を張るのは大地の中の水分を吸わないと生きていられないからである。だから水分との関係でも木が存在している。木は木だけで存在しているのではなくて、大地との関係、水との関係で存在している。水が大地に元々あったかというと、通常はそうではなく、雨が降って染みるわけである。しかし、木を見たときすぐに「雨が降るから木があるのだ」とは思わない。

 それから雨はもとは雲である。しかしふつうは「雲があるから木が立っている」というふうには思わないだろう。さらに。この雲は元は海の水が蒸発して上空で雲になったもので、気流に乗ってやってきて、冷えて雨になる。つまり、海があるから木があるのだ。木を見た瞬間に「海があるから木があるのだ」と思えたら、それは大変な学びの進歩である。

 今後、いわばものの見方の練習として、木を見たら「ああ、海があるから木があるのだ。雲があって雨があって大地があるから木があるのだ」と思い巡らすと、それは縁起の理法を少なくとも理論的によく理解したことになるし、そして木を見ている現場でそう思うようにすると、次第に実感的に「ああそうか。つながっている。縁起の理法だな」と思えるようになるだろう。

 さらに言えば、実は水が水蒸気になるためには太陽が必要で、太陽があるから雲ができて雨が降るのだが、それだけではなく、そもそも光合成をするために光が必要で、太陽がないと光合成ができない。つまり、お日さまがあるから木が存在できるということなのだ。
そして太陽エネルギーはエネルギーであって、光合成をするときには何を合成するかというと、空気中のCO2を取り込み、Cを取って、余ったO2を出すということをやっているわけである。空気は広がると空(そら)と言い、空は全体になると大空という。つまり大地・大空・海、こういうものがあるから木が存在できる。CO2というのはもともと地球にいっぱいあったのであるが、植物がO2を出していくと、CO2がだんだん減ってきて、今ではちゃんと動物がいる地球になっている。動物がCO2を出しているので、もし動物たちがいなかったら、CO2の供給が不足してしまうだろう。

 こうしてすべてのものがつながって存在している。木は木だけで存在することができない。木は木でないもののおかげで存在できる。これを私について言うと、「私は私でないものによって私であることができる」ということになる。

 ところが、私たちはどうしても、木というと木がそれだけで存在できるように思い、私というと私が私だけで存在できると思ってしまうのである。

 さて、もう少し言い足しておこう。例えば樹齢三百年の木は、三百年前はこんな大木ではなかったのである。三百年前は種、それから芽を出し、だんだん大きくなってこうなったのである。この種はどこからきたのだろう。それは親木である。その親木はさらにその親木があるから親木であるわけで……ということをずっとたどると、今から三十八から四十億年前の単細胞微生物に行き着くようである。

 ゴータマ・ブッダは現代の人ではないからこうした科学的な知識は持っていなかった。その点で二千五百年後の現代人が有利で、私たちはこういうことを知っているので、ブッダが直感的に縁起の理法というかたちで覚られたことを、こうして科学的な知見に基づいて、「やはり縁起の理法はまちがいない」と納得することができるのである。
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2023年12月から始まる講座予定:【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(前期)」、【土曜講座】「ゼロから始める仏教入門」のお知らせ

2023年11月16日 | 広報
 12月より始まる講座の予定をご案内します。
 スタートに間に合わず、途中参加などをご希望でしたら案内の最後にあるお問い合わせ窓口から個別にお問い合わせください。

【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(前期)」

 サングラハ教育・心理研究所2023年12月から2024年2月までの水曜講座のご案内です。 

 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』は、学生時代以来の座右の書です。

「おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。・・・すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰って行く」

 個人も世界もいよいよ厳しい時代に突入した感がある現在、人間が宇宙の中で宇宙の一部として存在するという根底的な自覚を基に覚悟をもって真摯に生き死にするほかないと説くアウレーリウスの哲学を学び、人生哲学を深めていきましょう。

 テキスト:マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)
 参考書:岡野守也『ストイックという思想ーマルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』青土社』

 全6回の講座を前期、後期3回ずつに分けて募集します。

前期3回 12月20日、来年1月24日、2月21日の19時半からにZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
前期の受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生=3千円
ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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【土曜講座】「ゼロから始める仏教入門」

 サングラハ教育・心理研究所2023年12月から2024年4月までの日曜講座のご案内です。 

 当研究所は現代心理学と仏教と現代科学を統合することをめざしてきました。

 今期の土曜講座はその中の仏教が、私たち日本人にとってもつ意味を、原点てあるブッダからインド大乗ー中国仏教ー日本仏教までの長大な流れの要点をたどりつつ学んでいきます。

 現代の日本人は生きる意味を見失いニヒリズムに陥りつつあるように見えます。

 日本人の精神性の中核を形成してきた仏教を「ゼロから」学びなおすことは、日本人としての自分のアイデンティティを深いところから再確立し、自信をもって未来に向かうことにもつながるでしょう。

全5回 12月16日、来年1月27日、2月17日、3月16日、4月20日の14時からZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
全5回の受講料:一般=1万7千5百円、会員=1万5千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=1万2千5百円、学生=5千円

ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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講座全体のお問い合わせ・複数同時受講・途中参加について

研究所の総合お問い合わせフォームをご利用ください

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般若経典のエッセンスを語る51――大乗における瞑想の深まり3

2023年11月03日 | 仏教・宗教

 ここで重要なのは次の説明である。

 何を以ての故に。舎利弗、但だ名字有るが故に菩提たりと謂ふ。但だ名字有るが故に菩薩たりと謂ふ、但だ名字有るが故に空たりと謂ふ。所以は何ん、

 「どうしてかというと、シャーリプトラよ、覚りという名前や文字、すなわち言葉があるので、言葉で覚りという言葉を言っているだけなのだ。ただ言葉があって、それで菩薩というふうに言う。空というのも同じで、空という言葉があるだけなのだ。なぜそう言えるかというと」

 諸法の実性は生無く滅無く垢無く浄無きが故に

 さまざまに区別できる存在の本性は、実はすべてが縁起の理法でつながっているということである。つながりがぜんぶつながっているとしたら結局は一体である。結局は一体のものには個別的な発生や消滅というのはない。
 分離していると「これは清らかだが、あれは汚れている」という差別的な判断が生じるが、一体だともう汚れているとか清らかということがない。つまり諸法の実性は一体なので、発生も消滅も、清浄とか汚染ということもない。

 だから空を実践するということは、実はすべてのものの一体性を自覚するということでもあって、そのことを徹底的にやって、「個別のものは名前を付けているからあるように見え、それが実体であるように見えてくるだけなので、分離した実体などというものは実際にはない」ということを瞑想する。それが般若波羅蜜を行ずるということである。

 菩薩・摩訶薩是の如く行じて、亦生を見ず亦滅を見ず亦垢を見ず亦浄を見ず。

 要するに分離的な思考を一切やめていくということである。しかし、私たちの心は普段すべて分離的な思考で動いているから、「(私は)分離的思考をやめよう」と分離的思考をしてしまう。私がいて分離的思考があって、その私が分離的思考をコントロールしてやめる、と。それはもうそれ自体が分離的思考なのである。

 では、それをどうしたらいいのか。瞑想家たちはいろいろな工夫をしている。
  
 その一つは、心の中でいったんなるべくシンプルな言葉を使う。例えば「ひとー、つー」と。「ひとー、つー」と呼吸をすることを合わせてやっていると、だんだん他のことを考えなくなる。集中すると他のことが考えられなくなるわけである。

 それから例えば、もっと進むと「む(無)ー」という一言だけにする。「むー」と吐いて「むー」と吸う、「むー」と吐いて「むー」と吸う、と集中してしまうと、もう「むー」しかなくなる。

 言葉というのは「あ」「い」「う」「え」「お」というふうに分節しているから言葉になるので、一定時間「むー」と言っていると「無」という言葉の意味は頭の中でなくなって、ただの音になる。「む」と例えば「ま」がどう違うかということももう意識になくなる。だから「むー」と言うことを通じて思考を無くし、分離思考を無くする。

 もっといくとそれもやめて、ただ呼吸が出入りしているのを静かに見つめているだけになる。呼吸を見つめるというのもまだ「見つめる」ということがあるので、それさえもやめると、もうただ存在しているだけという意識のあり方になる。しかし、眠っていないし、陶酔していないし、ボーッとしているのでもなく、しっかり目覚めていなければ覚りにならない。つまり、しっかり目覚めていながら何も考えていないという状態になっていくこと、それが般若波羅蜜を行ずるということだ、とひとまず言葉で理解しておけばいいだろう。

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