理念とビジョンの試案ができました!

2009年08月31日 | 持続可能な社会




 昨日は、朝早めに選挙に行って、その後、午後から夜までしっかりと時間をかけて、サングラハ教育・心理研究所の新しい藤沢ミーティング・ルームで、「持続可能な国づくりの会」の特別委員会を行ないました。

 投票所には長い列ができていて、驚きました。こんなことは初めてです。

 選挙の結果は民主圧勝、自公の歴史的大敗ということでした。

今回の選挙について言えば、国民の意思によって政治――少なくとも政権――を変えることはできるのだという体験をしたのは、日本国民にとってきわめていいことだったと思います。

 しかしとても残念なのは、どの党のマニフェストを見ても、これからどういう日本を創っていけばいいのか、理念とビジョンがきわめて不十分だ……というかほとんどないということです。

 特に今回のマニフェストでも、環境の問題にはほとんど焦点が当てられていませんでした。

 そうした状況の中で、折も折、私たちは、相当な時間と労力を費やして取り組んできた環境問題の解決を基本にすえたこれから日本をこういう国にしたいという新しい理念とビジョンの試案をようやくまとめ上げることができました。

 会の内部での検討-合意のプロセスを経てから、みなさんにもお知らせしたいと思っています。

 きっとみなさんにも指針やヒントになると確信しています。どうぞ、期待してお待ちください。




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環境問題と心の成長19

2009年08月30日 | 持続可能な社会

 心の成長と自我中心性の克服

 すでに連載第14回で結論を先取りして、「環境と調和した生き方をするのが、いちばんいい生き方でいちばん幸せなのだと感じるような個人の欲求構造」を育むことができれば、環境問題の解決に不可欠な4つの象限にわたる条件のうち個人の内面の問題については見通しがつくのではないかということを述べました。

 さらにマズローの仮説をご紹介しながら、そうした欲求構造を育むことは可能だということ、さらに仏教と関わって自我と無我は対立概念ではないこと、自我以前―自我確立―自己実現―自己超越という心の発達段階を想定できることを述べてきました。

 続いて本号以下数回にわたって、アメリカの思想家ケン・ウィルバーが児童発達心理学の世界的権威であるピアジェの理論を参照しつつ展開した心の成長・発達に関する仮説を手がかりに、心の成長のどういう段階に到れば環境問題解決の目途がつくのかを考えていきたいと思います(拙著『自我と無我』〔PHP新書〕の読者には、要約紹介という性格上かなり重複せざるをえなかったことをお断りしておきます)。

 ピアジェは、子どもの心、特にものの見方・認識の発達を徹底的な実験・観察によって研究し、新生児から自我が確立するまで、直線的にではなくいくつかの段階を踏んで発達していくことを明らかにしています。

 その学説は、非常に厳密な科学的な手続きを経て作られましたが、初期には研究されたのが西洋人の子どもだけだったので、西洋人にしか当てはまらないのではないかという批判もありました。

 しかしやがて欧米以外の地域でも追試がなされ、人種や文化に関わらずだいたい同じステップを踏むことが追認され、以後細かな修正は別にして、ほぼ定説として合意されているようです。

 ウィルバーは、ピアジェの学説を援用しながら心の発達段階を巧みに整理していますが、特に重要なことは、自我の確立していない赤ちゃんのような状態が覚りなのではなく、自我のない状態から自我を形成・確立し、そのうえで自我を超えていくのが覚りだという見通しをつけたうえで、自我以前から自我確立までにとどまらず、さらに自我を超えていく段階まで含んだ発達段階の仮説を構想していることです。

 すでに1980年の『アートマン・プロジェクト』(吉福伸逸・プラブッダ・菅靖彦訳、春秋社)でアウトラインを示し、1996年の『進化の構造1』(松永太郎訳、春秋社)で、より広い世界観・宇宙観・コスモロジーのコンテクストの中で整理しなおしています。

 その後、さらに2000年のIntegral Psychology(未訳)や2006年の『インテグラル・スピリチュアリティ』(松永太郎訳、春秋社)でいっそう厳密・詳細な考察をしていますが、本稿では、『進化の構造』での整理が簡略で理解しやすいので、そちらに沿って紹介していきます。

 これまで述べたことに関わって言うと、〈自我〉はもと仏教の用語で、意味が重なっているため〈エゴ〉の翻訳語に当てられたものですが、〈自我〉にせよ〈エゴ〉にせよ定義が不明確なまま使われがちで、日本でもアメリカでも混乱が起こっています。

 予め述べておくと、〈エゴ〉は、広い意味では〈自己〉あるいは〈主体〉を意味しており、ピアジェは、「他者や周りの環境と自分を差異化・区別のできる〈自我・エゴ〉が確立されることによって、かえって『自我中心性』が克服される」と言っています。

 言葉の印象では矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、これから順に述べていくと理解していただけるように、ここがきわめて重要なポイントなのです。

 ピアジェは子どもの認識の発達段階を、感覚‐運動期、前操作期、具体操作期、形式操作期の四つに分けて捉えています。

 ウィルバーは、それらをさらにゲプサーという思想家が述べた人類の発達段階と対応させながら、どのように自我中心性が克服されていくかを明らかにしています。


 感覚‐運動期――自分と他者の区別がつく

 心の発達の第一段階は、「感覚‐運動期」と呼ばれます。

 新生児は、心といっても感覚と運動だけの状態にあり、まだ自己と世界の区別ができていないと思われます。

 そういう意味で世界と融合状態にあるとも言えますが、しかしそれは分化したうえで統合されているのではなく、単純に未分化であり、いわば混融しているわけです。

 しかも、それは物質的‐生理的なレベルの世界との未分化状態であり、まだ言葉も理性ももちろん霊性も獲得しているわけではありません。

 そういう意味で、「赤ちゃんの心の状態は、言葉や理性を含んで超える自己超越という意味での覚りとは明らかにちがうものだ」とウィルバーは指摘しています。

 これは、これまでしばしば語られた「覚りとは赤ん坊のようになることじゃ」といった混同・混乱をみごとに整理するコロンブスの卵的に画期的な洞察だ、と私は評価しています。

 赤ん坊の世界との一体感・無心と、言葉や自我や理性をいったん獲得したうえで、それを含んで超えた、覚者における世界との一体感・無心とは、「一体感」という点では似ていても、発達心理的・質的にはまったくちがうものだといってまちがいありません。

 赤ちゃんは誕生して1年の間に、手を動かしたり、足をばたばたさせたりして、運動を通じていろいろ試しながら、自分と外の世界の区別を感じていきます。

 ウィルバーは、この段階の学習‐発達の特徴を非常にわかりやすくおもしろい言い方で表現しています。

 赤ちゃんは、「自分の指をかむと痛い、毛布をかむと痛くない」というかたちで、運動‐感覚を通じて外の世界と自分とのちがいを知っていくわけです。

 物理的世界と自分の区分が認識できていない段階の赤ちゃんの心の世界では、自分がワーンと泣くこととお母さんが来ることとおっぱいが与えられることとがいわば混融状態のセットになっています。

 ところが、自分が泣いてもお母さんが来ない時や、おっぱいがすぐに飲めない時があるという体験を通して、私とお母さんは別の存在なのだということがだんだんわかってくる、つまり区別ができてくるわけです。

 そして2歳の終わり頃になると、言葉を覚えるのと並行して、自分と他者や物理的な世界との区別がわかってくるといいます。

 発達の第一段階では、そういうかたちで心の中にお母さんとも物理的環境ともちがう「自己」が感覚‐運動的に確立されてきます。


 前操作期――ものごとをコントロールする思考が身につく

 次は「前操作期」で、「あれとこれとは別のもので、あれとこれをこうするとこうなる」というふうに、ものを操るための思考ができ始めた段階で、母親の体と自分の体、母親の気持ちと自分の気持ちが次第に区別できるようになり、言葉を覚えることで、「私は○○ちゃんだ」という自我の始まりの意識が形成されてきます。

 この段階では、自分の身体と周りの環境や母親の身体は区別され始めていますが、心の中のイメージやシンボルや感情と外界との明確な区別は十分にできていません。

 そういう段階にある子どもは、例えば、歩きながら月を見て、「お月さまが自分についてきている」と思います。

 大人には、月との距離が非常に離れているために自分が動いても見える角度がほとんど変わらないだけで、自分についてきているわけではないということがわかっているのですが。

 その子に、「君はこっちに向いて歩いてる。だけど、○○ちゃんは反対に歩いているね。そうすると、お月さまはどちらについていってるのだろう」という質問をすると、混乱して答えが出せません。

 それは自分と月と友達をそれぞれ別の存在として十分に区別・差異化できていないからなのです。

 自分と外界が混同されている状態では、世界は自分の感情や自分の欲求に対応してできていると感じられ、外界は自分の思いどおり・欲求どおりになるはずだ、私がこう思い、そしておまじないをすると世界はそうなると思っているのです。

 ピアジェは、「この段階は、人類の発達段階とも対応しており、ほぼ呪術段階に当たる」と言い、すべてを自分との直接的なつながりがあるものと考えるという意味で、きわめて「エゴ中心的な思考」をしている、と指摘しています。

 この段階では呪術的な思考をしていますが、だいたい6歳までに次第に「私にはできないが、私より力のあるパパやママならばできる。パパやママにもできなくても、神さまなら世界を思いどおりにできる」つまり「神さまのようなものによって世界が動かされている」という神話的な思考の段階に移行していきます。

 移行段階の子どもがとても可愛いのは、例えばイスにつまずいてワーンと泣いた時、お母さんが「悪いイスね。ぺんぺん」とイスをたたいて見せ、それから子どもの足をなでながら、「痛いの痛いの飛んでけ」と言うと、それで気が済んで痛いのが治ってしまうことです。

 大人は、ただの子どもだましだと思うかもしれませんが、大人自身がかつてそういう段階を体験してきたからそれができるわけです。

 もう一つ可愛いのは、子どもたちの住んでいる町の近くに小さな山と大きな山があり、子どもたちに、「どうして大きなお山と小さなお山があると思う?」と聞くと、「大きなお山は大人が登るため、小さなお山は子どもが登るためにあるの」と答えるという例です。

 つまり、自分の内面の世界と世界の構造が直接的・癒着的につなげられており、そこに神話的な意味づけがされているという意味で、ここでも「エゴ中心的な思考」がなされています。

 ここでテーマに関連して重要なことは、ここまでの発達段階では、子どもはエゴ中心的に外界・環境と一体化あるいは混融した心理状態にありますが、けっして理性的でエコロジカルな認識をもっているわけでも、非常に複雑に文明化した世界の中でこれからエコロジカルに持続可能な社会をどうすれば構想できるかということを考える能力をもっているわけでもないということです。

 私自身、かつて「童心に帰る」ことや「自然に帰る」ことへの強い共感をもっていましたので、大人が童心、すなわち子どものような自然と一体化した心に帰っても、そのことによって自然と調和した社会システムを創り出すことができるようにはならない、ということへの気づきは衝撃的でした。

 とはいっても今でも、童心に帰ることや自然に帰ることには大きな感性的な価値や癒し効果があり、大切にしたいことだと思っていますが、もう一方、「環境問題」を本当に解決したいのなら、それだけでは不十分だということも認める必要があると考えています。




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環境問題と心の成長18

2009年08月27日 | 持続可能な社会

 仏性と環境

 前回の最後に「自己超越のレベルにまで達して空しくなくなれば、空しさを紛らわせるための余分なものはいらなくなる」と述べました。

 仏教的用語で言い換えれば、覚れば「少欲知足」ないし「無欲」になるということです。

 あるいはより正確に言い換えれば、貪りという煩悩が自利利他円満という「願」あるいは一切衆生を救いたいという「大欲」に昇華されると言ってもいいでしょう。

 「而今の山水は古仏の道現成なり」(『正法眼蔵・山水経』)、「この山河大地みな仏性海なり」(『正法眼蔵・仏性』)と覚れば、自分と自然が分離していると錯覚して、実体だと錯覚した自分(たち)の欲のために自然を汚したり壊したりすることなどありえなくなります。

 自然は自分と区別はできても分離することのできない、自己と不二なる存在なのですから、自然を汚し壊すことは自己を汚し壊すことになるからです。

 究極の話をすれば、すべての人が覚れば環境問題など雲散霧消するはずです。

 人間と自然の関係が「山河大地日月星辰までも修行せしむるに、山河大地日月星辰、かへりてわれらを修行せしむるなり」(『正法眼蔵・諸悪莫作』)というふうになった時、環境破壊も含め「諸悪さらにつくられざるなり」(同)ということになるからです。

 それはまちがいなくそうなのですが、問題は、生まれつき覚った人は存在せず、またすべての人が成長の過程でいったんはかなり実体視された「自我」を形成せざるをえず、そのかぎりにおいて多かれ少なかれ自然な欲求が自我的・実体的に歪まざるをえないということです。

 そこで、環境問題を真に克服するためには、自我以前から自我確立、そして自己実現から自己超越という「心の発達」の問題を視野に入れる必要がある、と私は考えています。

 そして、環境問題に関しては、特に欲求、欲望に関わる心の発達の問題が重要なので、まず先に述べましたが、続いてより全般的な「心の発達」について述べていきたいと思います。


 自我と無我は対立概念か

 近代という時代は、人間の個人としての自我の価値や権利が発見されてきた時代です。

 特に戦後日本は、決定的に個人・「自我」が人間の基本だということになった個人主義的な民主主義の社会です。

 それに対して過去の仏教には、過去の集団主義社会の倫理という面がありました。

 そのため、集団に対して自己主張をしないことと仏教的な無我がしばしば取り違えられてきました。

 「滅私」・「無私」イコール「無我」というふうに捉えられたのです。

 典型的には、まさに「滅私奉公」という言葉があったとおりです。

 例えば戦前の日本仏教では、村や所属団体あるいは国のために、私情を棄て、自分を殺して尽くすことと無我はほとんど完璧に混同され、「自我を無くして公のために滅私奉公することが無我だ」といった説法が堂々となされていました(市川白弦『日本ファシズム下の宗教』、『仏教者の戦争責任』〔法蔵館版著作集に収録〕など参照)。

 現代でも、その混同はかなり強く残っているようで、しばしば「自我を無くして無我になれ」といった言い方を耳にします。

 また戦前・戦後を通じて「悟りとは赤ん坊のようになることだ」といった説法も耳にします。

 つまり、日本の仏教界ではしばしば、「自我」は「無我」と対立するものとして否定的に捉えられてきたのではないかと思われます。

 しかし、「自我」と「無我」を対立するものと考え、「自我を無我にする」ことが仏教の目標であると捉えるのは、仏教の本質的理解として適切ではない、と私は考えています(詳しくは拙著『自我と無我』PHP新書、参照)。

 問題を整理しておくと、「自我」という言葉の心理学的な大まかな意味は、「感覚したことをまとめ、認識し、考えて、意思決定をする主体」といったことでしょう。

 そうだとして、覚りを開いたら、感覚をまとめ、認識し、思考して、意思決定をする主体という意味での「自我」がなくなるのでしょうか。

 もし大人が、ほんとうに分別・物心がついていない、自我の確立していない赤ん坊のようになったら、まわりの人の世話になりっぱなしで、自分で生きていくことさえできなくなるでしょう。

 そういう「自我」がなくなったら、社会的に適応した行動ができません。

 いかに覚ったといわれる仏教者でも、自我を働かせなくては社会生活を営むことができないのではないでしょうか。

 代表的には般若経典や龍樹が洞察したとおり、確かに人間は言葉を使って社会を営むために、世界が言葉で把握されたとおりにそれぞれ分離した実体の集まりとして存在しているかのような錯覚を抱きます。

 そしてなにより「自分」が他と分離したそれ自体で存在している実体であるかのような錯覚を抱いています。分別知・無明です。

 「実体」とは、それ自体で存在することができ、それ自体の変わることのない本性をもっており、永遠に存在することができるものを意味していますが、仏教は、すべては他とのかかわり・つながりによって生滅するものであり(縁起)、時の流れのなかで変化するものであり(無常)、ものの性質は他とのかかわりで変わり、時間のなかで変わるものですから、変わらない本性というものはない(無自性)と捉えていて、すべてのものの実体視を否定します。

 そういう意味で、仏教的にいえば実体視された「自我」もまた錯覚――『般若心経』の言葉を借りれば「転倒妄想」――であることはまちがいありません。

 しかしもう一方よく考えてみれば、感じ、認識し、考え、意思決定する主体という意味での「自我」がなければ、修行することもありえないのではないでしょうか。

 もっとも典型的には、ブッダの

 「比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依処として、他を依処とせず、法を洲とし、法を依処として、他を依処とせずして住するがよい。比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依処として、他を依処とせず、法を洲とし、法を依処として、他を依処とせずして住し、事の根元にまで立ちもどって観察するがよい」(『雑阿含経』、増谷文雄訳)

という遺言が示しているとおり、縁起の理法にそって正しく見、正しく考え、正しく語り、正しい行為をし、正しい生活をし、正しい努力をし、正しい気づきを保ち、正しい坐禅を修行する、八正道の主体としての「みずから」は否定されるどころか、むしろよりどころとするように勧告されています。

 これは、大乗仏教における六波羅蜜の主体としての菩薩についてもおなじだと思われます。

 つまり、ブッダ以来、仏教においては、さまざまなものとのつながりのなかで、一定の性質を一定期間保持しながら、一定期間は生きている現象的な主体という意味での「自我」は否定されないどころか、むしろ修行のよりどころとして尊重されるべきものと捉えられてきたのではないでしょうか。


 無我は非実体性を意味する

 また、「無我・アナートマン」は、もともと原語の意味からしても「アートマンではない」ということであり、アートマンとは実体ということで、「実体がない」、というか「実体ではない」という意味です。

 そこで、インド学・仏教学の泰斗・故中村元先生などは、「無我」よりも「非我」と訳したほうがいい、と言っておられました。

 先にも述べたとおり、それ自体で存在することができ、それ自体の変わることのない本性をもっており、永遠に存在することができるものを「実体=アートマン」といい、そうしたアートマン=我=実体などこの世にはどこにも無い、というのが「我に非ず」=「無我」(または非我)の本来の意味だと思われます。

 「無我」とは、後に般若経典など大乗仏教では「人法二無我」「人法二空」という言葉で明快にされているとおり、人間であれその他の存在であれ世界のどこにも実体=我は無いということであって、現象としての「個人の自我が無い」とか「個人の自我を無くする」ということではないようです。

 ただ、中国と朝鮮半島を経て仏教が日本に伝来するプロセスのどの時代からか、すべての存在の無我性・非実体性を自覚した結果、自分にもよけいな執着をしなくなった心ないしパーソナリティ状態をも「無我」と呼ぶようになってインド仏教本来の「無我・アナートマン」の意味が不明瞭かつやや矮小化され、かつ「自我」という言葉も実体視された自我に執着している心ないしパーソナリティ状態と混同されたために、「自我」と「無我」は対立するものと捉えられてしまったのではないか、と推測されます。

 しかし、「無我」という言葉の本来の意味はそうではなく、これまで誤解されがちだったのと異なり、「覚り」とは、自我を否定することではなく、自我の実体視を否定、というより克服・超越することだ、と捉えることができるのではないでしょうか。

 そう捉えることによって、自我以前からいったん自我を確立し、そして自己実現段階に発達し、さらに自我の実体視の克服という意味での自己超越に到るという「心の発達」の段階として、覚りを位置づけることができるのではないか、と私は考えています。



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環境問題と心の成長17

2009年08月20日 | 持続可能な社会

 近代の産業社会と神経症的欲求

 前回、個人の心の問題として、成長のプロセスで適当な時に適当な程度に自然な欲求を満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こり、「神経症的欲求=欲望」の構造が出来上がってしまうということを述べました。

 このことは、近代西欧の集団的な心の問題にもそうとう類比的に当てはまるのではないか、と私は考えています。

 近代社会における「欲望」の大部分は、過去に貧しい経験をしたために、生理的・物質的な欲求に固着してしまったか、安定性に問題があったために、安全を守るためのお金が果てしなく欲しくなってしまったか、あるいは愛と所属が満たされなかったために、絶えず自分のまわりにちやほやしてくれる取り巻きをおいておけるような権力やお金が欲しくなったか、お金で無理やりにでも他人に自分を承認させたくなっているのか、といったところに原因があるように見えます。

 なかでも大きいのは、生理的・物質的欲求への固着でしょう。

 近代以前の西欧社会は、全体としては生産力のかなり低い貧しい農業社会だったと思われます。

 そこでは、社会のメンバー全員の「生理的欲求」さえ十分満たされていたとはいえないでしょう。

 そのために、長い前近代を通じて、社会全体として生理的欲求を満たすための物質に対する集合無意識的な固着・こだわりが強く蓄積していたのではないかと推測されます。

 すなわち社会全体の深層心理として、物質的富への神経症的欲求の構造が形成されてしまっていたと思われるのです。

 近代の合理主義―科学―科学技術―産業の発展は、西欧先進国においては市場経済を成立させ、前近代の物質的な貧しさからの脱出を相当程度実現しました。

 しかしその時、すでに社会全体に神経症的な欲求の構造が出来てしまっていたために、市場経済は同時に大量生産―大量販売―大量消費を目指す経済システムとなって、人間が生物として生理的に生きていくために必要・十分な「適度な」量にとどまらず、それをはるかに超えた「過度な」物質的富を生産し消費し続けるという事態を招いたのではないでしょうか。

 前近代の自給自足に近い経済では、物は基本的に使うために作られたのですが、市場経済では、物はなによりもまず売るための商品として作られます。

 ということは、まず需要があってそれに対して適量の供給がなされるというのではなく、利潤追求のために適量かどうかとは関わりなく供給がなされるということです。

 近代の経済人は(現代の経済人も)、基本的にたとえ需要がなくても売りたい・供給したいという動機を抱えています。

 なるべく多くの商品が供給され、購入され、消費されるには、なるべく多くの需要が必要です。

 そのためには、近代人の欲求の構造が神経症的になって生命維持のためには必要がないものまで果てしなく欲しがる「欲望」に変質していることがかえって好都合だったでしょう。

 しかも、その欲望が高まれば高まるほど消費も高まり利潤も高まりますから、近代では「広告・宣伝」というかたちで消費者の欲望をさらに意図的に掻き立てることも行われるようになっています(現代はいっそうそれが激化しています)。

 売る側の利潤追求欲と買う側の消費欲は、近代社会においては車の両輪のように対応して、経済を活性化するメカニズムとして機能してきたといってまちがいないでしょう。

 つまり「欲望」が経済成長の動因として社会的に肯定されるようになっているということです。

 そうした事情のため、近代社会では神経症的欲求・果てしない欲望があたかも人間の変えることのできない本性のように見えてしまうのではないかと思われます。

 近代的な欲望には確かに貧しさからの脱出―豊かな社会の形成の動因となったというプラスの面もあったのですが、しかし本質的には神経症的欲求が社会に蔓延したという大きなマイナス面もあることを見ておく必要がある、と私は考えています。

 ある集団のメンバーのほとんどが病気だと、病気がふつうに思えてしまい、正常でないことが見えなくなりがちですが、それでも本質的にいえば病気は病気であり、治さなければなりませんし・治すことができるのではないでしょうか。

 社会システムの一機能にまでなってしまった欲望・神経症的欲求を治癒することは困難ではありますが、しかし決して不可能ではないし、環境問題を根本的に解決するためにはその課題に取り組むほかない、と私は考えています。


 ニヒリズム・快楽主義と欲望

 近代社会で自然な欲求の構造が欲望に変質してしまった原因として、満足できてこなかったための神経症的な固着ということ以外に、もう一つニヒリズムの問題が重なっていると考えられます。

 近代人が経済的・物質的な繁栄を異常なまでに求める心理の底に潜んでいるのは、お金があればありとあらゆる物質的・感覚的な刺激を買い求めることができるという思いなのではないでしょうか。

 基本的にはお金や物が欲しいというより、それによる刺激が欲しいのです。

 なぜ刺激が欲しいかというと、近代人は根本的に空しいので、その空しさを一時的にでも紛らわせてくれる快楽が欲しくなるからです。

 パスカルの言う「気晴らし」です。

 例えば、金があっていろいろと遊んでいればその時は空しさをほぼ忘れていられます。

 死んだら無になるにしても、生きている間は金があれば日々快楽を追求し気晴らしをしながら、やがて死んでしまうことを忘れていることができるわけです。

 近代人が行なっている余分な消費―浪費は、いらないものを買って手に入れることによって何かを得た・充足したという感覚を味わうために行なわれているのであり、それは結局のところ根源的な空しさを紛らわせたいという半ば無意識の強迫的衝動に動かされている、と見てまちがいないと私は考えています。

 満たしえない空しさを満たそうとするので、当然ながら満たされず、それでも満たそうとするという心理的メカニズムで、欲望は果てしなくなってしまうのだと思われます。

 近代人の果てしない欲望の底には、実はニヒリズムという深淵が潜んでいると思われます。


 神経症的欲求の治癒

 では、どうすればいいのかということですが、そのヒントはやはり欲求の階層構造論にあると思います。

 個人としても社会集団としても、人間は生理的・物質的欲求の充足だけで最終的に満足できるものではありません。

 そのことに気づいた個人は、段階を踏んで適度に欲求を満たしながら自らの欲求のレベルを上げ人間的な成長を遂げ神経症的欲求を治癒していくことができます。

 それが可能であることは、私自身セラピーやワークショップを実践していて実感することです。

 また、もしそのことがはっきり社会的・文化的にも広く認識―合意されれば、社会そのものを、生理的・物質的欲求だけではなく安定・安心欲求、愛と所属の欲求、承認欲求を適時に適度に満たしうるシステムに変えていくことを社会全体の目標とすることもできます。

 先進国ではすでに生理的・物質的欲求の充足はかなりの程度実現しているのですから、文化的合意に基づく適切な教育・誘導があれば、人々は物質的欲求への神経症的固着から解放されて、より高次の欲求の充足に向かえるようになるでしょう。

 そして、承認欲求から自己実現欲求あたりまでの欲求が満たされた人々は、もはや環境を破壊してまで物質的欲望を追求する必要はないと感じるはずです。

 そのことは、北欧諸国とりわけスウェーデンという実例を見ていると、単なる推測や希望的観測ではなく、国家レベルですでに実現しつつあることだと思えます。

 基本的欲求に関してはすでに十分に満たされている「福祉社会」では、国民の多くが環境を破壊してまで物質的欲望を追求する必要はないと感じていて、国を挙げて「緑の福祉国家」の確立に向かうことができているのです。

 すなわち、原理的には簡単で、基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物質的な富は必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです。

 さらに自己超越のレベルにまで達して空しくなくなれば、空しさを紛らわせるための余分なものはいらなくなるわけです。

 そういうわけで、従来の「意識的な学習と意思によって欲望を抑制する」というアプローチの一定の有効性は十分に認めていますが、環境問題の根本的解決には、意識的コントロールだけではどうにもならない無意識の欲望状態を自然な欲求構造に変え、欲求のレベルを上げていくという意味で「心を成長させる」ことが決定的に必要不可欠であり、かつ可能だ、と私は考えています。




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環境問題と心の成長16

2009年08月15日 | 生きる意味

 自然な欲求の階層構造

 アメリカの心理学の第3の勢力といわれる人間性心理学の創始者エイブラハム・マズローは、1960年代に「欲求の階層構造仮説」という仮説を提出しました。

 これは、人間およびその行動の動因である「欲求」「欲望」について、またそれと関わって環境問題について考える上で、きわめて画期的な仮説だと思われるのですが、残念なことに日本ではまだ一般的にも広く知られるに到っていませんし、仏教界ではほとんど知られていないようです。

 簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしていて、低次のものが適度に適時に満たされると次々に高次のものが現われ、最終的には自己実現欲求、自己超越欲求といった高次な欲求に到る」と言っていますが、重要なポイントは、自然な欲求の追求は悪ではないというところにあります。

 いちばん基本的で低次のレベルには「生理的な欲求」があるといいます。

 それは、いちばん基礎的なものですから非常に切実ですが、限度があります。

 例えば、喉が渇いた時には水を飲みたいという欲求は切実ですが、ある程度飲むとそれで満たされてそれ以上は飲みたくなくなるようなものです。

 言葉を区別して使えば、「欲望・貪り」には限度がないが、「自然な欲求」には限度があるということです。

 しかし、人間は生理的欲求が満たされればそれだけで満足かというとそうではありません。

 いったん満たされると心理的にはそれは大した問題ではないように感じ、より高次の欲求である「安全と安定の欲求」が感じられるようになります。

 つまり、お腹がいっぱいでも、いつ攻撃されるかわからず、どこにいればいいのかわからない状況では、人間は満足できないということです。

 そして、安全と安定の欲求が満たされると、次には「愛と所属の欲求」、つまり親や家族に愛されていて自分の居場所があるといったことへの欲求が現われてきます。

 この2つの欲求のどちらが優先度が高いかというと、安定欲求です。

 例えば、虐待されている子どもを福祉関係者が保護しようとすると、暴力な親であるにもかかわらず小さな子どもはしがみついてしまうという現象があるようですが、それは、知らない所に連れて行かれるよりも、愛されていなくてもよく知った安定した環境にいたいという欲求のほうが強いからだと考えると理解できます。

 では、生理的欲求から愛と所属の欲求までが満たされれば人間は満足できるかというと、そうではありません。

 人間はある年齢になると、自意識が育ってきて、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。

 そして、見ている私が見られている私つまり自己イメージをいいと思えること、自分で自分を認められること、それから、それを保証するように外からの承認もなされることを求めるようになります。

 それを「承認欲求」といいます。

 さらに承認欲求が満たされてもそれで終わりではなく、より高次な欲求が現われるといいます。

 この世に生まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたいという「自己実現欲求」です。

 しかし、マズローの言う「自己実現」とは、しばしば言葉の印象で誤解されてきたのとは根本的にちがっており、周りの人とのつながりを無視した身勝手な自分の願望や夢の追求ということではありません。

 この世に生まれてきたことは、他の人々とのつながりの中で他の人々とともにこの世界に生きているということですから、ほんとうの「自己実現欲求」とは、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したかたちでよく生きたいという欲求なのです。

 これは「自利利他円満」という大乗菩薩の理想にきわめて近いものといっていいでしょう。

 ところが、自己実現できても、あるいはできたからこそ、その実現した自己には死という限界があることが自覚にのぼってきます。

 すると、やがて死ぬこの有限の自己を超えて永遠なるものにつながりたいという「自己超越欲求」が現われるのです。

 このように、自然な欲求を満たしていくと、やがて自己実現欲求と自己超越欲求まで現われてくるというのが人間の本質である、とマズローは言うのです。

 繰り返すと、人間の自然なそれぞれの「欲求」には限度があり、適当な時に、適当な程度満たされると欲求のレベルが上がっていき、ついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長していくというのが人間の本質である、とマズローは言っています。

 特に自己超越的欲求は、従来の用語でいえば「宗教的欲求」です。

 こうして見てくると、レベルが上がっていく「自然な欲求」と、限度を知らない快楽、富、地位、権力、名誉などへの「欲望」とが、一見似ていて実はまったくちがうものであることはおわかりいただけるでしょう。

 これは、仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいており、根拠のない願望的な理論ではありません。

 十分なセラピーのケーススタディや統計調査によって相当程度裏づけられてきているようです。

 もし、この仮説が妥当だとすると、これまでの多くの宗教に見られた「欲望は際限がないもので悪であり、欲望はなくすか、少なくとも抑え少なくすることが正しい」という考え方は修正する必要が出てくるでしょう。

 つまり、これまで「欲」という言葉で同一視されがちだった自然な欲求と欲望をはっきりと区別して、自然な欲求は肯定し満たすことによって自己実現や自己超越への欲求へと高めていく、欲望は否定するというより癒していくという捉え方をし、また指導の仕方もそういう方向で考える必要があるということです。


 自然な欲求と神経症的欲求=欲望

 さて、もし人間の自然な欲求がマズローの言うようなものだとしたら、なぜ人に迷惑をかけ自分も不幸になってしまうような際限のない欲望というものが存在するのでしょうか。

 それについてもマズローの説明は非常に画期的であり説得力があります。

 子どもが不幸にして成長のプロセスで適当な時に適当な程度に自然な欲求を満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こるというのです。

 例えば、小さい時に十分に愛されないと、愛されることに対して無意識の固着が起こります。

 子どもは親から愛されなくても、小さい時は自分ではどうすることもできないので、「私はどうせ愛されない存在なんだ」とか、「愛されることなんか問題じゃないんだ」というふうに、愛されることへの欲求を心の中で抑圧することによってなんとか耐えて生きるようになります。

 そうすると、心の奥ではほんとうには愛されたいのに、意識的には「愛されっこない」とか「愛されなくてもいい」と思い込んでいるために、すねたり、攻撃的になったりして、愛されるような行動がとれません。

 すると、当然愛されません。

 すると、欲求は満たされません。

 何を求めているか自分でもわかっていないために、適切な求め方ができず、不満が残り、愛の代替物を求め続けることになってしまうのです。

 とても悲しい悪循環です。

 例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行動がとれなくなります。

 例えば非行の無意識の動機は、主に人から認めてほしい、注目してほしい、目をかけてほしいということだと思われます。

 しかし、それがはっきり意識化されていないため、つっぱって、無理やり人の目を引く、つまりたとえ否定的にでも注目されるような目立つ悪さをするのです。

 しかし、それではほんとうには目をかけてもらえない、肯定的な注目をされない、まわりの人の承認は得られませんから、いつまでたってもほんとうには満足できないし、うまくいかない、だからますます目立つ行為をしたくなるということのようです。

 これもまたとてもつらく困った悪循環です。

 つまり、従来「欲望」と呼ばれ悪と見なされてきたものは、マズローの用語で言い換えると抑圧され病的にゆがんでしまった「神経症的な欲求」なのです。

 ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受けられるか、大人の理性で考えればわかりきったことであり、そういう適切な行動をすれば承認を受けられます。

 そして、ある程度の承認を受ければ人間は満足できるのです。

 承認を受けて満足すると、あまりそれにこだわらなくなります。

 繰り返すと、自然な欲求が適時に適度に満たされないと、抑圧され無意識的な固着が起こります。

 その結果、意識的な欲求のあり方がゆがんでしまって、ほんとうには何がほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの限度を知らない「神経症的な欲求構造」ができてしまう、というのです。

 しかし、基本的な欲求というのは、やり方によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に適度に満たすことができるし、そうすることによって神経症的な欲求構造は癒すことができる、とマズローは言っています。

 次回、この「欲求と欲望」の問題についてさらに考えていきたいと思います。




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環境問題と心の成長15

2009年08月14日 | 持続可能な社会

 欲望は肥大する?

 前回、「エコロジカルに持続可能な社会」を実現するための4つの象限の条件について述べたとおり、社会を構成している個々人が心の中で本気・本音で「環境と調和した生き方をしたい」と思っていることが、持続可能な社会の必須の条件の1つです。

 しかし、多くの人が、「エコロジカルに持続可能な社会」を構築する必要性について、建前としては賛成しても本音では無理だろうと思っていて、言葉はともかく実際の行動としては、対応を先延ばしにしたり、ほとんど何もしないであきらめたりしているように見えます。

 そうなっているのにはいろいろ理由があると思われます。

 先に述べたニヒリズム・エゴイズム・快楽主義の問題も大きいでしょう。

 特に快楽主義と関わる大きな理由の1つは、「人間の物質的な欲望は、基本的に限りなく肥大していくもので、抑えようとしても、それは不可能だ」と思い込んでいる人が多いことではないかと思います(ここであえて「思い込んでいる」という言葉を使わせていただきます)。

 社会の主流―主導権を握っている人々の発言を聞いているとそのようですし、国民のかなり多数もそのようです。

 「人間の欲望は、豊かになればもっと豊かになりたくなるし、便利になればもっと便利にしたいと思い、贅沢すればもっと贅沢したくなるもので、それはしかたがない、たとえ環境が破壊されると言われても、それなら私(たち)の利益への欲望はほどほどに抑えます、と言えないのが人間というものだ」と思い込んでいるために、「高度経済成長型の社会はやめられない。それはしかたがないことだ」と思っているようです。

 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? ほんとうにそうだとしたら、環境問題については絶望するほかありませんが、ほんとうはそうではないと私は考えます。


 欲望についての3つの考え方

 そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に3つの考え方があると思われます。

 第1は、先にも述べたような「欲望は限りなく肥大するものである」という考え方です。日本の指導者もその支持者としての国民も含む日本の主流の「本音」はこれだと思われます。

 第2は、「建前」として、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるのだ」という考え方です。多くのエコロジー派の方はこういう言い方をします。

 しかしこれは、社会全体としては欲望を抑えようとしない人が多数・主流ですから、なかなか実行できません。

 一部の、建前を大事にする、自分の欲望を抑える気のある人は努力をするのですが、建前を貫く気のない人は抑えられず、全体として欲望の肥大を抑えない、それどころか購買意欲という欲望をますます掻き立てるという方向に走ってしまうというパターンです。

 そういう、「本音でいく人」対「建前を貫こうとする人」というパターンで、多数・主流の経済成長派と少数・反主流のエコロジー派がにらみあってきたのが、ここのところ40年ほどの日本社会の構図ではないかと思われます。

 しかし、社会の方向性・流れを決める力のあるのが「主流」ですから、当然ながらこれでは社会の流れは変わらず、したがって問題解決はできません。

 第3は、人間性心理学者エイブラハム・マズローが提唱した、「欲望は、もともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、治療できる」という画期的な捉え方です。

 私は、個人としての人間の心の問題を解決する確実な糸口となるのが、こうした欲望の理解だと考えていますが、残念ながらまだ多くの人が理解するに到っていないようです。

 この捉え方が画期的だというのは、もしほんとうに欲望という心の働きが、人間にとって変えようのない本性なのではなく、成長の過程での歪みがもたらしたものであって、適切な方法によって節度ある自然な欲求へと治療することが可能であるとしたら、エコロジカルに節度ある持続可能な社会の構築を可能にする4つの条件の1つが充たされる可能性があるということになるからです。

 それに対して第1の考え方のように、もし欲望が人間の本性として抜きがたいものであり、かつ無限に肥大するものであれば、人類の未来についてはあきらめるか、さもなければ、「技術の進歩でそのうち何とかカバーできるようになる」と信じ込むほかないでしょう。

 しかしすでに連載の前半でお話ししてきたとおり、地球の資源も自己浄化能力も有限ですから、技術の進歩だけで解決はできない、社会のあり方そのものを変えなければならないということは、原理的に明らかなのではないでしょうか。

 そして、欲望の肥大が止められないものだとすれば、必然的に人類の未来については絶望しかないという結論に到ります。

 第2の捉え方では、「抑制すべき」とか「抑制できるはず」という考えに反して、現実として人類は全体として欲望肥大の方向に向かっているという事実をうまく理解・分析ができませんし、したがって適切・有効な対処もできません。

 うまく理解・分析できないまま、「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りないからで、これからトレーニングをすればなんとかなる。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的にコントロールできるようになるはずだ。そういうことをそれぞれができる範囲でねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなって世の中が変わるだろう」と考えることになります。

 確かに、スウェーデンなどの「環境先進国」の環境教育を考えると、個々人の努力の積み重ねの上に、さらに加えて国を挙げて、つまり政府主導で国民全体に対してしっかりとした環境教育を行ない、政府自身建前ではなく本音で有効な環境政策を実行するならば、相当程度、こうしたことも可能なようです。

 前回、4象限のところでお話した、左下・集団の内面の象限、つまり文化全体が環境志向になっていれば、左上・個人の内面、それぞれの欲求のあり方も影響を受けて、環境志向になる強い傾向をもつでしょう。

 しかし、深層心理学の洞察によれば、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分のほうが圧倒的に深くて強い」という面があると考えられます。

 つまり体験的に言っても私たちの欲望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。

 「理屈ではわかっているんだけど、言われるとわかっているんだけど、でもそうしたい」、つまり心の奥から湧いてきて、私たちを駆り立てるというところがあると思います。

 理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でも何かに衝き動かされてやめられないということがしばしばあります。

 しかし、こうした、人間の心には深層という部分があることは今教育の世界の常識にきちんとなっていませんし、まして国民的な常識にはなっていません。

 そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行動のできるような意思が確立できるはずだ」と考えて、いいことを一生懸命教えるのですが、いくら教えても必ずしも実行しない、できないことがあります。

 それはなぜかというと、実行したくない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎり、説明がつかない、と私は考えています。

 深層心理学的な視点からすると、欲望の源泉は意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識を深いところから揺り動かし操るものです。

 だから、意識・理性・意思による直接的なコントロールが難しいのです。

 仏教の深層心理学ともいうべき唯識のコンセプトで言い換えれば、意識上の「貪・むさぼり」という煩悩はマナ識に潜む我癡・我見・我慢・我愛という根本煩悩からいやおうなしに湧いてくるものであって、マナ識、アーラヤ識という深層が浄化されないかぎり「無貪・むさぼりのないこと」という善は完全には実現しない、ということになるでしょう。

 欲望・貪の源泉は心のきわめて深いところにあるために、無意識への洞察がなければ、第1の捉え方のように、「限りなく肥大していくもので、どうしようもない」ように見えてしまうのです。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。

 ですから、無意識の問題を捉えないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするアプローチには――先に言ったように社会全体で合意して行なえれば相当な効果はあるにしても、それでも――限界があると思われます。

 教育・理性・意思によるコントロールというアプローチに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という発想も必要だ、と私は考えています。

 次回は、マズローの「欲求の階層構造仮説」を手がかりに、そのあたりを考えていく予定です。




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環境問題と心の成長14

2009年08月13日 | 持続可能な社会

*今回以降の記事の内容は本ブログですでに公表している「持続可能な社会の条件―自然成長型文明に向けて」とある程度重なっていますが、相当なヴァージョンアップもしていますので、お読みいただけると幸いです。



 環境問題解決のための4象限の条件

 環境問題を考えるうえで私にとってもっとも大きなヒントになっているのは、アメリカの思想家ケン・ウィルバーの「4つの象限」という考え方です(『進化の構造1・2』松永太郎訳、春秋社)。

 ウィルバーは、世界や人間を全体として捉えるためには4つの面=象限を区別したうえでそれぞれをすべて見る必要がある、と言っています。

 「4象限」を図表にすると、縦軸、横軸で区切られたグラフになります。上は個別・個人の象限、下は集団・社会の象限、右は外面、左は内面です(前掲『進化の構造1』196頁より引用)。





 例えば消費について考えて見ると、この四つの象限すべてが関わっていることがわかります。

 まず、まず外面的に観察できる個人の個別の消費行動があります。これが「右上象限」です。

 それは考えてみると、個人の心の中・内面で起こっている購買意欲によって行なわれるものです。これが「左上象限」にあたります。

 ところが、個人がいくら買いたいと思っても、貨幣経済という文化つまり集団が共有する内面がなかったら、ただの紙であるお札がお金と見なされて物を買えるということは起こりません。それが「左下象限」です。

 さらに、実際に買い物ができるためには、社会の外面的な仕組みとして商品流通システムがあって、商品が流通していなくてはいけません。それが、「右下象限」にあたります

 こういうふうに、世界で起こっていることにはすべて必ず4つの象限がある、とウィルバーは言っています。

 他の事例についても、ぜひご自分でシミュレーションしていただくといいと思います

 環境問題の解決に関してもこの4象限という枠組みで見ると、何が不十分だったのかがはっきり見えてきます。

 これまで、省エネやソーラーなどなどのエコロジカルな技術や、リサイクルやエコグッズなどなど市民・消費者はどういう行動をどうしたらいいか、あるいは環境にやさしい社会システムはどうやったらできるのか、という外面つまり右側象限の話はかなり深められてきましたが、左側つまり個人の心・価値観や社会の内面としての文化についての洞察や対策が十分ではなかったのではないでしょうか。

 社会システムについて典型的なものの一つは、国連大学が中心になってやっている「ゼロ・エミッション(ゴミゼロ)社会」の構想です。

 不十分ながら日本政府の「循環型社会」というのもあります。

 そしてより本格的なものとしては、スウェーデンの「エコロジカルに持続可能な社会・緑の福祉国家」という構想もあり、これは驚くべきかつ喜ぶべきことに、着々と実行―実現されつつあるようです。

 (しかし、私はスウェーデン・モデルでもまだ不十分で、さらに行き着くべき先として〈自然成長型文明〉という文明の方向を考えています。これについてもすでに本ブログの記事で若干述べています)。

 ところがこれまで述べてきたとおり、日本国民の多数にそういうことをほんとうにやる気があるのかどうか、またそれをほんとうに実行する力のある集団、あるいは国民的合意が獲得できているのか、という問題になると、ここが決定的に不十分だと思われます。

 国民の大多数が「無理ではないか」と思っていたり、特に指導者たちは本音で言うと「今の経済システムを急に変えるわけにはいかない」、「まず景気対策が先だ」、「持続可能な経済成長だ」、さらにひどいケースでは「環境問題が深刻になる頃には私はもう生きていない(だから知ったことではない)」と思っているのではないでしょうか。

 この点に関して、環境を論じる学者や環境運動に関わる市民の多くは、政府や企業の外面的な問題について批判をしてきましたが、どうしたら個々人、特に政・官・財のリーダーたちも含んだ国民全員の内面を変えることができるかという点については、方法・対策はもちろんそもそも問題意識も不十分だったのではないか、と私は見ています。

 その結果、ここ数十年多くの心ある方々が真剣に取り組んできたにもかかわらず、国民の過半数以上の内面=価値観や欲求のあり方は変わらず、したがって集団の内面としてのエコロジカルな文化も形成されず、だからそういう国民によって選出されるリーダーの内面=基本的な価値観や発想も変わらず、さらにしたがって集団の外面としての持続可能な社会システムも構築されていない、つまり環境問題は根本的には解決されていない、どころか解決の方向に向かってさえいない、ということではないでしょうか。

 (あまりにもがっかりさせるような言い方で、広報戦略としてはもっと希望のある言い方をしたほうがいいのかもしれませんが、このことのシビアな認識からしか私たちは出発できないのではないか、と筆者は考えています。)

 そして世界全体としては依然として、先進国はやはり「経済成長を続けたい」、開発途上国は「先進国並みになりたい」と考えており、日本もそれに追随しているわけですが、それでは、世界全体も日本も、そもそもの問題である資源の大量使用―大量生産―大量販売―大量消費―大量廃棄というパターンを克服できるはずはありません。

 では、環境問題の解決、ほんとうにエコロジカルに持続可能な社会の実現には何が必要かというと、第1・右上象限では「環境に調和した個別の技術や個人の行動」です。

 これをどうすればいいかについては、すでにそうとう程度見通しがついていると思われます。

 次に、第2・左上象限の「環境と調和した生き方をするのが、いちばんいい生き方でいちばん幸せなのだと感じるような個人の欲求構造」です。

 環境を壊すような生活は、「してはいけない」のではなく「したくない」と思うような心のあり方です。

 そうした欲求構造を育むことは、容易ではないが可能だ、と私は考えています。本連載では次回からその点を集中的に考えていきます。

 それから第3・左下象限の、環境との調和を最優先して、なおかつ個人に対しては自然な欲求を育んでいくような方向付けを絶えず行なう文化です。

 つまり、例えば子どもが学校で教わっていると自然・環境を壊すようなことをしたくなくなるような教育が行なわれる社会です。

 そしてもちろん言うまでもなく、第4・右下象限の、環境と調和した社会システム、特に生産システムが必要です。

 この4つの象限の条件が全部そろえば、「エコロジカルに持続可能な社会」はまちがいなく実現するでしょう。

 ほんとうに持続可能な社会秩序を創り出すために必要なものはこれら4つの側面すべてであり、さらに実行レベルでいうと、まず4つの象限をすべてカバーしたヴィジョンです。

  それらすべてを調えることができれば、いわゆる「環境問題」は根本的に克服できる、逆に言えばそれらのどれが欠けても克服できず、人類社会は近未来大規模な崩壊状況に直面せざるをえなくなると思われます。



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環境問題と心の成長13

2009年08月12日 | 持続可能な社会

*以下は1年前、2008年夏の記事ですが、世界の首脳がいかに緊急事態にふさわしい緊急の行動を採らない・採れないかという点では、基本的にあまり変化していないので、今年のデータを2つだけ補足して、そのまま掲載することにしました。



 洞爺湖サミットの「待った」状態

 連載が始まってからちょうど丸1年が過ぎました。

 1年の間に、あらゆる分野で「環境問題」は、話題としてはますます頻繁に取り上げられるようになりました。

 そして、「環境問題は待ったなしだ」という発言が、福田首相をはじめ多くのリーダーたちの口から聞かれるようになりました。

 そういう言葉だけ聞いていると印象では、事態は改善に向かいつつあるのではないかという希望的錯覚が生じがちです。

 しかし実際の行動や事態をチェックしていくと、基本的な改善は見られないどころか悪化の一途をたどっていることが明らかになります。

 つい先日(7月10日)の朝日新聞は、「主要国と新興国などの計二十二首脳が集まった北海道洞爺湖サミットは九日、三日間の日程を終えて閉幕した。焦点の地球温暖化対策では『二〇五〇年までの温室効果ガス排出量半減』という世界全体の長期目標について、『すべての国との共有を求める』と宣言し、国連交渉での採択を求めた。先進国側に、より厳しい数値目標を求める新興国を説得できるかが今後の課題となる」と報道していました。

 これはつまり、気候変動・温暖化という「待ったなし」の事態に対し、世界の22カ国の首脳は、合意して適切な共同の緊急行動を取るのではなく、「国益」という点で利害の調整ができず結局「待った」をした、先延ばしという行動をしたということにほかなりません。

 これはさらに心の問題としていえば、22カ国の首脳の心は一つにならなかったということであり、ということはまた、ならないような心の状態にあったということでもあります。

 連載のテーマに即していえば、「環境問題の緊急性にふさわしい即応・緊急対応のできるような心の状態・成長段階に達していなかった」ということです。


 今年の夏、北極の氷は消滅する?

 現実の事態の悪化について1つだけ確認しておきましょう。

 「衛星画像&データ 地球が見える」というサイトの2007年9月28日の記事(http://www.eorc.jaxa.jp/imgdata/topics/2007/tp070928.html)によれば、「北極の海をおおう氷は、今年過去に例のない速度で減少を続け、最小面積の記録を更新し続けてきましたが……今年2007年9月24日に記録された425.5万平方キロメートルが衛星の観測史上最小面積の記録となりました。以前最小面積を記録した2005年……に比べ日本列島約2.8個分の氷が消失したことになります」とのことでした。

 そして、2008年6月28日のCNNのニュースによれば(http://www.cnn.co.jp/science/CNN200806280021.html)、「地球温暖化の影響で北極の氷は今年の夏、9月までに消滅する可能性が非常に高いと、米国の研究者が警告した。……米国立雪氷データセンターの研究者マーク・セリーズ博士によると……数年前までは、夏に北極の氷が消滅するのは2050年から2100年ごろと考えられていた。最近ではこの予測が2030年ごろと見直されたが、現実にはこれを上回る速度で氷が減少していると指摘している。……現在の状況が続けば、北極から氷が消滅することは避けられないという」とのことです。

 つまり北極の氷は、去年は「観測史上最少」で、今年は「消滅」つまりこれ以下はないという「観測史上最少」になるかもしれないという状況にあるのです。

 幸いにして2008年夏、完全消滅には到らないですみましたが、ちなみに、「weathernews」によれば、今年については「2009年8月現在までの北極海全体の海氷域面積は、同時期で比べた場合、観測史上二番目に最小の面積となった昨年と同程度の少なさで推移しています。これは、一昨年夏や昨年夏の記録的融解によって多年氷の量が激減し、以前よりも薄い海氷が北極海を覆っていることを示しています。」http://weathernews.com/jp/c/press/2009/090804_2.html とのことです。

 「一事が万事」ということばがありますが、この一事を見ただけでも、地球全体としての環境問題がどのくらい切迫した状況にあるか想像できると思うのですが、議長国日本を含め世界22カ国の首脳は、切迫した行動を合意・決断したとは見えません。

 もう一つ、今年(2009年)のラクイラ(イタリア中部)・サミットの結論(7月9日)を見ておくと、ごく若干前進したといえないこともありませんが、依然として世界の首脳陣の心は一つになっていないようです(「時事ドットコム」http://www.jiji.com/jc/zc?k=200907/2009071000086 )。
「主要8カ国(G8)や欧州連合(EU)、中国、インドなど17カ国・地域が地球温暖化対策を話し合う主要経済国フォーラム(MEF)首脳会合が9日夜(日本時間10日未明)、首脳宣言を採択して閉幕した。前日のG8が合意済みの「産業革命以前からの気温上昇を2度以内に抑制する」ことなどで一致。一方、G8にとって最大の課題だった「2050年までに世界全体で温室効果ガス排出を半減させる」との長期目標については新興国の同意を得られなかった。
 G8はサミット初日の8日、新興国に半減目標支持を促すため、「50年までに先進国が80%削減」との新たな目標を打ち出した。しかし、先進国に温室ガス削減の責任を負うよう求める新興国側の反発は強く、数値目標の共有を断念。
 同日採択したMEF首脳宣言では、「50年までに相当量を削減する世界全体の目標設定」を目指し、今年12月にコペンハーゲンで開かれる国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)までに努力することを確認するにとどまった。」


 なぜ緊急対応ができないか――国益優先という価値観

 連載の第2回で、「近代産業文明の推進者たちが、有限な地球上で無限の経済成長が可能だと錯覚してきたところに、地球環境問題の根本的な原因がある」と書きましたが、これは具体的にはG8諸国の首脳にもほぼそのまま当てはまると思われます。

 先進国の首脳からは、環境問題の深刻さに関する発言のニュアンスの差はあっても、「経済成長を制限しても環境問題に取り組むべきだ」という発言は聞こえてきません。

 そして新興諸国の首脳も、「先進国並みの経済成長をすることは自分たちの権利だ。環境問題は先に起こした責任のある先進国が取り組むべきだ」と主張するのみで、「我が国の経済成長をある程度制限してでも環境問題に取り組みたい」という発言は私の知るかぎりでは皆無だったようです。

 それは、先進か新興かを問わず、リーダーたちは、経済成長という「国益」は譲れないものだ、つまり「国益優先」という価値観を強く抱いているということを示していると思われます。

 「国益に反しない範囲で環境問題にも取り組む」というのが、彼らの基本姿勢のようです。

 特にG8首脳に関していえば、環境の危機、とりわけ気候変動・温暖化に関する警告を発している代表的な組織IPCCが訳せば「気候変動に関する政府間パネル」であるように、政府関連の公式機関がデータを提示しているのですから、各国の政府首脳である人々が情報がない・知らない、だから緊急度を認識できていない、だから緊急対応ができない、ということではありえません。

 そうではなく、データが提供されてもそれを読み取る心が、経済成長という国益は絶対にゆずれないという価値観で枠付けられているため、それに反するデータはたとえ目にしても、十分理解しないでスクリーニングしてしまうのだと思われます。

 わかりやすくいえば、「人は事実であっても見たくたくないものは見ようとしないものだ」ということです。


 国益優先・自国中心主義は分別知である

 しかしそうした価値観をいったん脇においてよく考えてみることができれば、国は全体としての地球の一部であって、全体として中長期で見れば、持続可能な地球環境なしには経済的な意味での国益もありえないことは理の当然ではないでしょうか。

 言い換えれば、分離的にではなく統合的に見れば、国益と健全な地球環境を保全・回復するという意味での「地球益」は必然的に一致するのです。

 しかし、そうした全体として中長期で統合的(インテグラル)に捉えるのでなく、自国中心主義的に当面の国益優先で考えているのが、現代世界の政治的リーダーの大多数だと判断してまちがいないでしょう。

 (本ブログで繰り返し書いてきたように、幸いなことに、スウェーデンのリーダーのような例外も存在していますが。)

 また、議会制民主主義が確立している国についていえば、そうした自国中心主義で考える人をリーダーとして選出するのが国民の過半数の意識・価値観だということでもあります(一党制の国ではリーダーの選出資格をもつ人々の過半数)。

 けれども、そうした価値観は仏教的に見れば、自国が自国だけで、人類社会が人類社会だけで分離・独立して存在しうるかのように思い込んでいるという意味で「分別知的」でばらばらコスモロジー的な、つまり根源的には無明から発する国家観・人類観だと評してまちがいないでしょう。

 しかし、一つの国はいやおうなしに他の国とつながっていますし、人類社会は根源的に地球の大自然とつながっています。

 他国と政治単位として区分され自己決定権をもつという意味はともかく、本質的な意味で他の国と分離・独立した自国など事実として存在しません。

 国と国は、大地によって、海によって、海底によって、空・大気によってつながっており、国境において接しつながっているのであって、政治的に区分はされていても存在として分離などしていないのです。

 まして、経済活動を含む人間社会は地球の大自然に支えられているという意味でつながっているのであって、自然と分離・独立して成り立ちうる人間社会など観念の中に存在するだけで、事実としてはどこにも存在していません。

 宇宙のあらゆるものがそうであるように、国家も人類社会も本質的には縁起的・相依相関的存在なのです。

 ここでやや先取りして結論風にいえば、人類、とりわけそのリーダーたちが、そうした分別知のもっとも発展した形態としての近代的なばらばらコスモロジー的な価値観・心を超えて、前近代と近代のプラス面を統合した新しいつながりコスモロジー的な価値観・心へと成長することによってのみ、環境問題の解決の道は開ける、と私は考えています。

 必要ではあったのですが、連載の半分にもわたる、長い前置き的な考察をようやく終え、次回から、分別知以前から分別知の獲得・確立、そして縁起的・統合的な智慧へという人間の心の成長の段階と可能性について考察をしていきたいと思います。



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持続可能な国づくりの会第3回シンポジウム予告

2009年08月01日 | 持続可能な社会



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環境問題の根源:大井玄氏講演

2009年08月01日 | 持続可能な社会




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